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ウィスキー検定3級合格


昨夜、私の元に第3回ウイスキー検定の合格証が届きました。今年の2/7に妻と一緒に3級を受験した結果です。私は77点しか取れず、妻は52点で不合格。正直言って私にとっては不本意な得点でした。3級と侮り9割は取れると思っていた驕りを自分で戒めなければと思っています。負け惜しみにしか聞こえないのですが、3級の出題レベルは相当上がっていました。
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実はこの検定、昨年の第2回(2015/5/31)の際に受ける予定でした。が、法人設立直後ということもあり断念した経緯があります。元々ウイスキー検定については、麹町のBar LittleLinkさんから御紹介頂いていました。丁度、第1回(2014/12/7)が開催された少し後の事です。その場では、名古屋のウイスキー好きの愛好家ともお知り合いになる機会を頂きました。そこでお互い第2回を合格したらまたこのBarで会いましょうという約束を交わしました。が、私は上に書いた理由で第2回の受験を断念せざるを得なくなりました。以降、Bar LittleLinkさんには顔向けできない状態でしたが、ようやくこれで伺えます。

今回、私だけでなく妻も受験したのには理由があります。昨年10/11に妻と「SAITAMAブリティッシュフェア2015」を訪れました。「SAITAMAブリティッシュフェア2015」にはスコッチ文化研究所(この春からウイスキー文化研究所に名称変更)さんが出展されていたのです。私から感化されたのか、妻もウイスキー好きとなってくれ、老後の夫婦の愉しみがまた一つ増えています。GlenFiddichをこよなく愛する妻に、もっと色んなウイスキーを経験してもらえれば、と思ったのが夫婦で訪れた理由となります。

そして、このブースには土屋守氏も来ておられました。土屋守氏といえば世界のウイスキーライター五人にも選ばれ、かの「マッサン」のウイスキー考証・監修も担当されています。私自身、20年前からウイスキーに親しんでいますが、土屋氏の著作は何冊も持っています。私も土屋氏とツーショット写真を撮らせて頂き、その場でトートバッグにもサインして頂きました。著書を持ってこなかったのが悔やまれます。そして、その場で土屋氏から受験を薦められた妻は、一念発起で受験してみようと思ったのでしょう。私も受験勉強の時間がなかなか取れず、2級合格の自信が持てなかったこともあり、共に3級を受験しました。あまり勉強せずとも3級なら受かるでしょ、との驕りとともに。
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GlenFiddich好きの妻は、ほとんどウイスキーの背景など知らず、私に何度か蒸留所に連れて行かれたくらい。受験直前に付け焼刃で学んだのもいいところでしたが、それでも52点取れたのだから、その努力は大いに褒めても良いと思います。正直、今回の3級のレベルは以前の2級のレベルにも匹敵するのではないかと思います。それほど高度でした。

でも、それは私が77点しか取れなかったことの言い訳にはなりません。勉強すれば2級も難しくないと思っていたし、Bar LittleLinkの方からも、そこで知り合った名古屋の方にも2級受かるでしょう、と言われましたが、これでは到底受からなかったでしょう。まだまだ自分の勉強不足を痛感します。

私自身、今まではこういった資格取得を軽んじていました。本業であるIT系の資格ですら、10数年受けていません。実際、現場でもお客様に対しても資格の有無を問われることはほぼありません。それでも仕事はこなせます。また、最近は色々な資格が乱立しています。「真田三代戦国歴史検定」「ベルサイユのばら検定」「たこ焼き技能検定試験」などなど。それはもはや、資格商法と言われても仕方ないほどの乱立振りです。実際のところ、私もそう思って馬鹿にしていたことを白状しなければなりません。

しかし、ウイスキー検定は少なくとも私にとって歯ごたえのある試験でした。普段仕事を行いながら、趣味で道を究めることは簡単なようでいて実は難しい。客観的なフィルターを経ることがないので、自分の知識に対して夜郎自大になりかねない。今回のウイスキー検定は、そのことを私に教えてくれました。乱立する色んな資格も実は馬鹿にしたものではないとまで思うようになっています。

次回は2017/2に実施されるとか。私は2級を、妻は3級を。再び一緒に受験しようと思っています。夫婦でこうやって何かの道を一緒に勉強できることって、素晴らしいことだと思います。ゆくゆくは夫婦でスコットランドへ。これも目的の一つです。私にとってのウイスキーの師匠とも呼べる方が大阪にいらっしゃるのですが、この方も何度も夫婦でスコットランドに行かれているのだとか。私の今後の目標でもあります。


雲の階段 (下)


下巻は、いよいよ主人公が島での偽医者を辞め、大病院の婿かつ後継者としての日々に突入する。

心の疚しさを抱えながらも、流されるように既成事実は積み上げられていく。真実を告白しようとするも、勢いにのまれ、機会を逸してばかりの日々。病に倒れ、医者として再起不能になった所長の替わりに島に来た医師はとんだ藪医者で、ますます島には居づらくなる。

とうとう恋人の明子を捨てるように都会に出た三郎。しかしそこは、憧れのハイクラスの生活とは違う苦労が待っていた。自分の育ちとはかけ離れたレベルの暮らし。利益重視の大病院の後継者としての帝王学。それは島での素朴な日々と違い、虚飾にまみれていた。そして三郎の日常もまた、嘘を嘘で誤魔化す悲惨なものとなる。

そんな三郎の葛藤をよそに、婿入り、豪華な挙式、子の誕生とますます深みにはまっていくばかりの日々。

患者軽視の経営に異を唱えるも、院長からは青臭い理想論とあしらわれ、己がだんだん何者かすら分からなくなっていく日々。ただ頼れるのは己の技術のみ。医者とは技術なのか、それとも身分なのか。三郎は悶々とする。

しかし、ついに三郎の過去を知る人物に目を付けられることになる。過去の無頼な経緯をばらされたくなければ、とゆすられるようになる。しかも医師免許の更新の際に身分証が求められる、ますます三郎は追い込まれて行く。

上巻では孤島の医療の問題提起や、医術の本質が描かれていた。一方、下巻では医師の虚飾の部分がこれでもかと描かれる。

上巻では医師免許がないことが虚飾だが、患者に対しては尽くす三郎がいる。対する下巻は医師免許を持ちながら、患者や世間体には虚飾で活きる院長がいる。どちらもまた、医者の一面であることを著者は読者の前にさらす。たださらし、それに対する判断は読者に委ねる。

本書は主人公の嘘がいつばれるのか、はらはらしながら読むことに楽しみがあるといえる。そこに医は仁術云々と理想をかぶせるのは筋違いだろう。しかし、医者の相反する一面を本書のように赤裸々に出されると、読者は医術とはなんなのかを考えざるをえない。読者が医者であるならば、自らの言動とを比べるだろうし、読者が患者であるならば、患者から見た医術について考えることだろう。または、あまりにも主体性のない三郎の流されてゆく日々に同情したり、軽蔑したりして感情移入をすることもあるだろう。

しかし本書はそう肩肘はらずに、サスペンスものとして筋を追い、物語の起伏に心踊らせながら読み進めるのがよいと思う。三郎がどういう結末を選ぶのか。それは、ここではふれないでおく。

‘2015/02/12-2015/02/14


雲の階段 (上)


著者の本を読むのは久しぶり。ふと著者の長編が読みたくなりブックオフで購入した。著者が医者であることは有名だが、その視点で書かれた医療の現場を描いた物語が読みたい、という訳で本書に白羽の矢が立った。

主人公は伊豆諸島の島に流れ着き、島に一軒しかない診療所で雑務に従事する三郎。

その診療所の医師は年配の所長が独りしかいない。まるで赤ひげ先生のように。所長に可愛がられた三郎は、手術を手伝っているうちに、簡単な処置は所長の替わりに行えるまでになる。そして医師免許もないのに、開腹手術まで手掛けるようになる。

偽の所長代理として手術をこなすうち、所長が外せない用事で東京に戻ることになってしまう。そしてその日に限って緊急患者が運び込まれる。事態は急を要し、電話越しに所長の助言を受けながら、開腹手術を無事に成し遂げる。その急患は、都内の大病院の院長ご令嬢。命の恩人と憧れられ、その令嬢の親からは大病院を継ぐべき有能な後継者として見込まれてしまい、というのが上巻の筋。

診療所の描写や施術場面、看護婦への指示など、著者の筆さばきは流石である。本書は著者によって書かれるべきであったとさえ思う。

さらには本書は無医村や過疎医療の問題点すらも、物語を借りて告発している。併せて医師免許を取るための長い時間や多額の費用、徒弟制についての問題提起を行っている。

上巻では三郎は、不器用だが純真な人物として描かれている。無医村の診療所はいがみ合いもあるが、総じて朴訥。良い仲になった看護婦の明子は健気。

そんなところに、東京の大病院の令嬢という質の異なる文化が侵食し、三郎がその美貌や未来へと流され始めるところで上巻は終わる。

‘2015/02/11-2015/02/12