Articles tagged with: 諏訪湖

神在月のこども


実は本作の存在を知ったのは、劇場に入る数時間前のことだ。
それまで、本作を見に行く予定どころか、映画館に行くつもりすらなかった。

ぶっつけ本番で見た本作だが、とても面白かった。
それは、旅が好きで神社によく参拝する私の嗜好に合っていたからだと思う。

本作はロードムービーとしても楽しめる。
東京の日常を脱し、各地の神社を巡って出雲へと至る旅。それを思うだけでも気分は高揚する。さらに、神具の勾玉の力によって、普通の人間に比べて何十倍も早く動けるなんて羨ましすぎる。その設定だけで悶えてしまう。
コロナで移動が制限されている今、本作は私の心を旅へと、出雲へと駆り立ててくれた。

以下はネタバレが含まれています。

そもそもなぜ本作を見ようと思ったか。それは昨晩、私のTwitterに届いた画家さんについて詳しく知りたいというメンションに始まる。
そのメンションをきっかけに、私は25年前と2年前に訪れた出雲にまた行きたくなった。
メンションをくださった方は、私が25年前に日御碕灯台の前で出会った占いをする画家さんについて触れた2年前の出雲旅のブログを読まれたのだろう。ところが、私もその画家さんの詳細は詳しく知らない。
今回のメンションをきっかけに、まだお元気だというこの画家さんのことを知りたいと思った。
出雲にまた行きたい、と妻に言ったところ、妻も出雲に行きたい、と。その流れで、妻が興味を持っていた本作を見に行こうと決まった。
一緒に観に行った長女が、本作に出てくる某声優さんのファン(恵比寿様)だったことも本作の観劇を後押ししてくれた。

母を病でなくしてしまった主人公の葉山カンナ。幼い頃からカンナと一緒に走り、走ることの喜びを教えてくれた母の死を悲しむあまり、小学校で走る行事にも消極的でやる気が出ない。そればかりか、作り笑いでその場をやり過ごそうとする卑屈な女の子になってしまった。
一年が過ぎ、母が倒れたマラソン大会がやってきた。だが、カンナは走ることに真剣になれないまま、声をかけてくれた父のもとを走り去ってしまう。
たどり着いたのが家と学校の間にある牛島神社。ここで母の形見の勾玉を身に着けたところ、時間が止まる。さらに巨大な牛と人の言葉を操る白兎が目の前に現れる。

白兎のシロから聞いたのが、母弥生が韋駄天の末裔だったこと。
母が毎年十月に出雲大社で催される神在祭に、各地の馳走を運んでいたこと。
今年は今日の夜の7時から始まるため、それまでに各地を巡って馳走を集め、それを出雲に持っていかなければならないこと。間に合わない場合、来年度の神議りに差しさわりがあること。

縁結びの神である大国主命の力があれば、あの世にいる母と再び合わせてくれるかも!そう思ったカンナは勇躍して出雲へと走る。
だが、かつて韋駄天に敗れ、鬼になった一族の末裔である夜叉がカンナとシロから勾玉と馳走を奪う。かつて一族が被った恥辱をすすぎ、韋駄天の座に返り咲こうとする夜叉。
だが、やがて走ることに共通の喜びを感じているカンナと夜叉の間には絆が生まれ、夜叉も一緒に出雲まで同行する約束を交わす。

夜の7時までとはいえ、それは人間の尺度での時間。実際はその何十倍のスピードで動ける。各地の神社を巡り、その神社の祭神から賜った馳走を集めながら、出雲へと向かう。
その道のりがとても面白い。作中で確認しただけでも牛島神社から愛宕神社、さらに蛇窪神社が登場する。さらに鴻神社に移動する。そして神流川に向かう。
諏訪大社から奈良井宿、須賀神社から元伊勢神社、白兎神社、美保神社とたどっていく。
馳走を集めるにはこのルートが最短なのだろうけど、今までに聞いたことのないルートだ。

妻は本作に出てきた神社の多くを訪れたことがあるそうだ。だが、私は基点の牛島神社すら参拝したことがない。私が参拝したことがあるのは愛宕神社、諏訪大社、元伊勢神社、出雲大社くらい。
私にまだ参拝していない神社を教えてくれたのも本作の効能だ。神社の魅力とは、由緒書や境内の佇まいや本殿などの意匠だけでなく他にもあるはず。本作を見ていると神社についての知識をより深く知りたくなる。

本作の効能は他にもある。本作は子どもにも向けてメッセージを発している。それはあきらめない心だ。そして、自分の好きなことを信じる力。その気持ちを失わないことも本作のキーメッセージだ。
さらに、今の世の中は神社や神々のような人と人とを結びつける存在が忘れ去られようとしている。その結果、人の心から思いやりが失われ、イライラやと人をひがんだりねたんだりする感情が人の心を病ませている。本作にも黒く湧き上がる禍々しい気が描かれる。カンナの心やせわしない街の人々からも。

私も旅をして各地の神社を巡り、その清新で厳粛な境内から気を受け取りたい。ともすれば消耗する日常からわが身を守るためにも。
コロナで苦しんだからこそ、本作が伝えるメッセージは皆さんに届くはずだ。
それとともに、早くコロナが完全に収まり、人々が再び気を遣わずに旅ができる時代になることも願う。

なお、最後に少しだけ疑問が生じたことも書いておく。
それは、夜の7時までに出雲大社に馳走を届けなければならないのに、なぜ日の落ちた海岸でのんびり横になって休んでいるのだろう。そんなささいな疑問が頭から離れなかった。
もう一つ、これは制作の皆さんやスタッフの皆さんのせいではないはずだが、本作で描かれた大国主命から、なぜか某宗教法人の啓発アニメーションの世界を感じてしまった。見たこともないのに。なぜだろう。神谷明さんが話しているにもかかわらず。
それと、古代の出雲大社本殿って、神々が食事をする場所なんだろうか。これもふと疑問に思った。神議りならまだ分かるのだが。
でも、それも私の知識が不足しているだけかもしれない。まずは日本書記や古事記に触れ、知識を蓄えたいと思う。

‘2021/10/10 イオンシネマ多摩センター


信濃が語る古代氏族と天皇ー善光寺と諏訪大社の謎


本書はとても面白かった。私のここ数年の関心にずばりはまっていたからだ。

その関心とは、日本古代史だ。

日本書記や古事記に書かれた神話。それらは古代の動乱の一端を表しているのか。また、その動乱はわが国の成り立ちにどう影響したのか。
大和朝廷の起源はどこにあり、高千穂や出雲や吉備などの勢力とはどのようにしのぎを削って大きくなってきたのか。
神功皇后の三韓征伐はいつ頃の出来事なのか。熊野から大和への行軍や、日本武尊の東征は大和朝廷の黎明期にどのような役割を果たしたのか。
卑弥呼や壱与は歴代天皇の誰を指しており、邪馬台国とは畿内と九州のどちらにあったのか。
結局、日本神話とは想像の産物に過ぎないのか。それとも歴史の断片が刻まれた史実として見るべきなのか。そこに尽きる。

わが国の古代史の謎を解くカギは、現代まで散在する神社や遺跡の痕跡をより精緻に調べることで分かるのだろうか。
上に挙げた土地は、そうした歴史の証人だ。
そして、本書で取り上げられる信濃も日本の古代史を語る上で外せない場所だ。

国譲り神話に記された内容によると、建御名方神は建御雷神との力比べに敗れ、諏訪まで逃げたとされる。そしてその地で生涯を終え、それが今の諏訪大社の起源だともいう。
出雲から逃れた建御名方神は、諏訪から出ないことを条件に助命された。そのため、他の国の神々が出雲に集まる10月は、諏訪では神無月と呼ばないという。出雲に行けないからだ。

実際に諏訪大社やその周辺の社に詣でると、独特のしきたりが見られる。例えば御柱だ。四方に屹立する柱は、日本の他の地域ではあまり見られない。

私は友人たちや妻とここ数年、何度も諏訪を訪れている。諏訪大社の上宮、下宮はもちろん、守屋山にも登ったし、神長官守矢資料館にも訪れた。
諏訪を訪れるたびに力がみなぎり、旅の喜びも感じる。
この辺りの城や神社や地形から感じる波動。私はそれらに惹かれる。おそらく、神話が発する浪漫を感じているのかもしれない。

さらに、この辺りには神話の時代より、さらに下がった時代の伝説も伝わっている。それは上にも書いた守屋山に関するものだ。
守屋とは物部守屋からきているという伝承がある。
物部守屋とは、日本に仏教が入ってきた際、仏教を排撃する立場にたった物部氏の長だ。蘇我氏との権力争いに敗れた物部氏が諏訪に逃亡したという伝説がある。現代でも物部守屋の末裔が多く住んでいるという。
上に書いた建御名方神が諏訪に逃げた神話とは、実は蘇我氏に敗れた物部氏を描いているという説もあるほどだ。

本書の序章では、建御名方神の神話を振り返る。
海から糸魚川で上陸して内陸へと向かい、善光寺のある長野から松本を通り、諏訪へと至る道。その道に沿って建御名方神を祀る神社の多いことが紹介されている。かつて、何らかの勢力がこの道をたどって糸魚川から諏訪へと至ったと考えてよいだろう。
さらに、その痕跡には九州北部を拠点としていた海の民の共通点があるという。
松本と白馬の間に安曇野という地名がある。ここも阿波や安房やアマの地名と同じく海の民に由来しているという。

第一章では「善光寺秘仏と物部氏」と題されている。善光寺と諏訪大社には建御名方神という共通項がある。
そもそも善光寺とは由来からして独特なのだという。それは高僧や名僧や大名が建立したのではなく、本田善光という一庶民がきっかけであること。本筋の仏教宗派ではなく、民俗仏教というべき源流。そこが独特な点だ。
また、善光寺は現世利益を打ち出している。牛に引かれて善光寺参り、とは有名な言葉だ。
その思想の底には、過酷な自然に苦しめられ、自然に対して諦念をかみしめるわが国に独特の思想があるという。現世が過酷であるがゆえに、自然を征服せんとする西洋のような発想が生まれなかったわが国の思想史。
その思想を濃厚に残しているのが善光寺であるという。
さらに、誰も見たことのないという秘仏や、善光寺の七不思議といわれる他の仏閣にない独特な特徴。

本田善光が寺を建てたきっかけとは、上にも挙げたように物部守屋と蘇我稲目の仏教を導入するか否かで争った際、捨てられた仏像を拾ったことにあるという。
つまり善光寺と諏訪大社は物部守屋でもつながっていたという。次から次へと興味深い説が飛び出してくる。
さらに著者は、物部氏と蘇我氏が実は実権をめぐる争いをしておらず、実は共闘関係にあったという衝撃の説も述べている。
また、聖徳太子が建立したとされる四天王寺と物部守屋との関係や、信濃(しなの)や長野といった地名の起源も大阪の河内にあったのではという説まで提示する。もうワクワクしかない。

第二章では「諏訪信仰の深層」と題し、独特な進化を遂げた諏訪大社をめぐる信仰の独自性を探ってゆく。
上にも書いた通り、諏訪大社の周辺に見られる独特な民俗の姿は私を飽きさせない。御柱もそうだが、神長官守矢資料館では独特の神事の一端を垣間見ることができる。
鹿食免という鹿を食べてもかまわない免状など、古来の狩猟文化を今に伝えるかのような展示など、興味深い展示がめじろ押しだ。
ここは藤森照信氏による独特の外観や内部の設えも含めて必見だ。

この地方にはミシャグジ信仰も今に残されており、民俗学の愛好家にとってもこの辺りは垂涎の地である。
上社の御神体である守屋山に伝わる物部守屋伝説も含め、興味深いものが散在している。
本章では、そうした諏訪信仰の深みの秘密を探ってゆく。なんという興味深い土地であろうか。

第三章では「タケミナカタと海人族」と題し、古代日本を舞台に縦横に活躍した海の民が信濃にもたらしたものを探ってゆく。
歴史のロマンがスケールも豊かに描かれる本章は、本書でももっともワクワクさせられる。
安曇野が海由来の地名であることは上にも書いたが、宗像大社でしられる九州北部のムナカタがタケミナカタに通ずる説など、興奮させられた。
神社の配置に見られる規則や、各地の神社の祭神から導き出される古代日本の勢力の分布など、まさに古代史の粋が堪能できる。

第四章は「信濃にまつわる古代天皇の事績」
神功皇后をはじめ、神話の時代の天皇と神社にあらわれた古代日本の勢力の関係などについても興味深い。
あらゆる意味で、古代史の奥深さが感じられる。
まさに日本書記や古事記の記述には、古代史を探る上でヒントが隠されている。今に残る史跡や神社や民俗とあわせると、より意外な真相も明かされるのかもしれない。

もちろん、著者の述べる魅力的な説をうのみにして、これが史実だ、などと擁護するつもりはない。
だが、私にとって歴史とはロマンと一体だ。
本書はまさにそれを体現した一冊だ。また機会があれば著者の本は読んでみたいと思う。

‘2019/9/19-2019/9/24