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ゲームの名は誘拐


2017年の読書遍歴は、実家にあった本書を読んで締めとした。

私は誘拐物が好きだ。以前に読んだ誘拐のレビューにも書いたが、この分野には秀作が多いからだ。本作もまた、誘拐物として素晴らしく仕上がっている。本作の特色は、犯人側の視点に限定していることだ。

誘拐とは、誘拐した犯人、誘拐された被害者、身代金を要求された家族、そして、捜査する警察の思惑がせめぎ合う一つのイベントだ。それをどう料理し、小説に仕立て上げるか。それが作家にとって腕の見せ所だ。なにしろ組み合わせは幾通りも選べる。例えば本書のように犯人と被害者が一緒になって狂言誘拐を演ずることだってある。本書は誘拐犯である佐久間駿介の視点で一貫して描いているため、捜査側の視点や動きが一切描かれない。犯人側の視点しか描かないことで物語の進め方に無理が出ないか、という懸念もある。それももっともだが、それを逆手にとってうまくどんでん返しにつなげるのが著者の素晴らしいところだ。

誘拐犯の佐久間駿介は、サイバープランの敏腕社員だ。ところが心血を注いだ日星自動車の展示会に関する企画が日星自動車副社長の葛城勝俊によって覆されてしまう。己の立てた企画に絶対の自信をもつ佐久間は、屈辱のあまり葛城家に足を向ける。俺の立てた企画を覆す葛城の住む家を見ておきたいという衝動。ところがそこで佐久間が見たのは塀を乗り越えて逃げ出す娘。声をかけて話を聞くと、葛城勝俊の娘樹理だという。樹理は、父勝俊から見れば愛人の子であり、いろいろと家に居づらいことがあったので家を出たいという。その偶然を好機と見た佐久間から樹理に狂言誘拐を持ちかける、というのが本書のあらすじだ。

本書は上に書いたとおり、一貫して佐久間の視点で進む。犯人の立場で語るということは、全ての手口は読者に向けて開示されなければならない。その制約に沿って、読者に対しては佐久間の行動は全て筒抜けに明かされる。それでいながら本書はどんでん返しを用意しているのだから見事だ。

本書は2002年に刊行された。そして本書の狂言誘拐にあたってはメールや掲示板といった当時は旬だったインターネットの技術が惜しげもなく投入される。だが、さすがに2017年の今からみると手口に古さを感じる。例えばFAXが告知ツールとして使われているとか。Hotmailと思しき無料メールアドレスが登場するとか。飛ばし電話をイラン人から買う描写であるとか。でも、佐久間が日星自動車の展示会用に考えたプランや、佐久間が手掛けた「青春のマスク」というゲームなどは、今でも通用する斬新なコンセプトではないかと思う。

「青春のマスク」とは、人生ゲームのタイトルだ。私たちが知る人生ゲームとは、各コマごとの選択の結果、いくつものイベントが発生するゲームだ。ところが、この「青春のマスク」はその選択の結果によってプレーヤーの顔が変わっていく。スタートからの行いがゲームの終わりまで影響を与え続け、プレーヤーに挽回の機会が与えられなければ興が削がれ。その替わりに救いが与えられている。それがマスクだ。マスクをかぶることで顔を変え、その後の展開が有利になるような設定されている。しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在。そんな佐久間の人生観が垣間見えるゲームシステムが採用されている。

「青春のマスク」のゲームの哲学を反映するかのように、佐久間と樹理の周囲の誰もが何かのマスクをかぶっている。それもだれがどういうマスクをかぶっているのかが分からない。犯人の佐久間の視点で描かれた本書が、犯人の手口を読者に明かしながら、なおも面白い理由こそが、犯人以外の登場人物もマスクをかぶっているという設定にある。だれが犯人役なのか、だれが被害者なのか。だれが探偵役でだれが警察役なのか。読者は惑わされ、作者の術中にはまる。 それが最後まで本書を読む読者の手を休ませない。そのせめぎあいがとても面白かった。

しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在という、佐久間の哲学。私たちの生きている世間の中ではあながち的外れな考えではないと思う。何も正体を隠さなくてもよい。正々堂々とあからさまに生きようとしても、大人になれば考えや立場や属する領域が幾重にもその人の本質を覆い隠してしまうのが普通だ。この人は何クラスタに属し、どういう会社に属し、という分かりやすい属性だけで生きている人などそういないのではないだろうか。少なくとも私自身を客観的に外から見るとまさにそう。そもそもどうやって稼いでいるのかわかりづらいと言われたことも何度もあるし。そう考えると私の人生もゲームのようなものなのだろう。

本書はそうした人生観を思い知らせてくれる意味でも、印象に残る一冊である。

‘2017/12/30-2017/12/31


誘拐


誘拐ものには印象的な作品が多い。こうやって書いている今も私の脳裏には何冊か浮かんでくる。それらはいずれも秀作だ。そして本書もまたその系譜に連なる一作である。なにせ本書は題名からしてストレートに”誘拐”なのだから。

誘拐ものは私の読書経験ではハズレがない。大体が面白い。著者にとってもとっておきのアイデアを注ぎ込む、いわば挑戦作といってもよい。これは面白いから存分に堪能しな、と読者を挑発するような。私にとって著者の作品は初めて読むこともあり、面白さは未知数だった。だが、”誘拐”という一点に惹かれて著者の挑戦に乗って手に取った。

誘拐ものは倒叙形式で書かれる事が多い。倒叙形式とは事件発生時から犯人側の視点で描く手法だ。本書もまた倒叙形式を踏襲している。

犯人側から犯罪を描くということは、即ち手の内を明かすこと。誘拐犯が警察に挑み、どう手玉にとるのか。そして読者は犯人の視点で誘拐の進捗を追っているつもりが、まんまと著者の仕掛けた罠にはめられる。そこに誘拐ものを読む醍醐味はある。

その際、読者が誘拐犯の立場にたてば立つほど、感情移入をすればするほど、著者の仕掛けた読者への罠は効果を発揮する。では本書はどうやって読者を誘拐犯の見方になってもらうか。著者はそのために誘拐犯、つまり主人公の境遇を落とすだけ落とす。

プロローグで主人公が落魄させられてゆく経緯はあくまで自然。自然でいてなおかつ本書の誘拐のプロットに直接繋がっている。ここら辺りは見事なものだ。

また、誘拐犯が警察に接触する手法もなるほどと思える。確かに地味で労力もかかるが秀逸な方法である。

また、誘拐によって一番衝撃を受ける現職首相の焦燥具合の描写も悪くないと思った。ここらあたり登場人物の描写はきっちりしたものだ。著者の作品は初めて読んだがなかなか良い。

だが、一点だけ不満な点もあった。これは全体のどんでん返しのタネなのでここには書かない。だがこれはプロローグをもう一工夫しておけば防げたのではないか。おかげで本書を読む途中でタネに思い至ってしまった。普段の私は推理小説を読んでいても著者の罠にまんまとはまるタイプなのに。本書は珍しく途中で真相の一部を悟ってしまった。

‘2016/03/17-2016/03/18