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そして、メディアは日本を戦争に導いた


私が近代史家として信頼し、その見解に全面的に賛同する方が幾人かいる。本書の著者である半藤氏と保坂氏はその中の二人だ。

本書はそのお二人の対談をまとめたものだ。内容は題名の通り。第二次世界大戦での敗戦に至る日本の破滅に当時のマスコミが果たした役割を追究している。

お二方とも今なお言論人として論壇で活発に発言されている。だが、半藤氏は文藝春秋の編集長として、発行側の立場も経験している。マスコミが戦前の世論形成に果たした役割を、執筆者としてだけでなく編集者としての立場から語ることのできる方だ。

言うまでもなく、お二人が昭和史を語れば立て板に水だ。一家言を持つ立場から紹介される、戦前の本邦マスコミに関するエピソードは私の知らないものがほとんどだった。それらのエピソードは昭和初期のマスコミの姿勢を物語るものだ。軍部に国民に迎合し、世論を戦争へと導いていった責任。お二方は当時のマスコミを糾弾する。おそらくその真意とは、今の安倍政権に警鐘を鳴らすことにある。言論統制と取られかねない動きを見せる安倍政権。お二方の発する言葉の端々に、言論統制を憂う言葉が感じられる。おそらく、政権の目指す方向が昭和初期のそれに重なるのではないか。

私は安倍政権の改憲への動き自体には賛成だ。今の憲法をそのまま墨守すべきだとは思わない。だが、昭和初期の日本のあり方が正しかったとも思わない。そして、我が国が急速に国粋主義に偏った責任を軍部のみに負わせようとは思わない。当時のマスコミにも相応の責任があると思っている。

本書は、昭和初期のマスメディアが右傾化していった経緯が詳細に解き明かされてゆく。中でも見逃せないのが、新聞の売れ行きと記事の反戦度合いの相関性を分析する箇所だ。万朝報と言えば反戦で知られる明治時代を代表する新聞だ。だが、日露戦争の時期、同紙の反戦記事は発行部数の低下を招いたという。経営的に追い詰められた主筆の黒岩涙香が、論調を戦争推進に転向した途端、発行部数は劇的に回復した。そして、報道転向を不服として著名な記者が何人も同紙を去った。

つまり、新聞は第四の権力でも社会の木擇でもなんでもなく、読者からの収入に支えられる媒体に過ぎないということだ。万朝報をはじめとした反戦論調が経営に与える影響。それを間近で見て骨身に刻んだ経営者たち。彼らが、昭和の軍部の専横に唯々諾々と従ったというのが、二人ともに一致した意見だ。軍の圧力で偏向報道に至ったのではなく、売上を優先して国威発揚の論調を率先して発信した。つまり、当時の国民に迎合したという事だ。それはまた、日本の破滅の要因として、軍部、マスコミ、に加えて当時の付和雷同した日本国民が含まれることも示す。それは重要な指摘だと言える。なぜなら、今の日本についても同じことが言えるからだ。これからの我が国の行く末が国民の民度にもよることが示唆されている。日本の行く末は、安倍政権や自衛隊、マスコミだけの肩に掛かっているのではない。国民が安易に多勢に流されず、きちんと勉強して対処することが求められる。

選挙の度に叫ばれる投票率向上の声。ヘイトスピーチを初めとしたウェブ上での右極化。シールズに代表される戦争に反対するデモの波。右も左も含め、かつてよりも日本国民が声を挙げやすくなっていることは確かだ。楽天的に考えると、かつてのように情報統制によって国の未来が危機に瀕することはないように思う。

だが、だからこそ二人の論者は警告を発する。むしろ、今のように誰でも情報を発信し、情報を受け取れる環境ゆえに、人々は簡単に流れに巻き込まれてしまうのだ。マスメディア以外にもネットからの膨大な情報が流れて来る昨今。著者はともに、同調しやすい日本人の国民性を冷静に指摘する。そして戦前の日本の過ちを繰り返しかねない現代を憂えている。

それを避けるには、国民のひとりひとりが過去から学ばねばならない。そして簡単に周囲と同調しないだけの矜持が求められる。本書では、気概のジャーナリストとして信濃毎日新聞の桐生悠々氏が再三取り上げられている。桐生悠々とは、戦前の言論統制にあって抗議の声をあげ続けた気骨のあるジャーナリストだ。著者たちは、現代の桐生悠々を待ち望んでいる。ジャーナリストの中に、国民の中に。

本書は共著者による遺言のようにも読める。実際に本書の中で、これからの日本にいない身として責任は負えない、との気弱な発言すら吐いている。半藤氏は齢80を越え、保坂氏も70代後半に差し掛かっている。既に先の永くない二人の論者を前にして私に何ができるか。聞くところによれば、二人の著者を左寄りと指弾するネット上の書き込みもあるとか。なにをかいわんや、である。私はお二方の著作を多数読んできた。その上で、お二方が特定のイデオロギーによらず、歴史の本筋を歩まんとする姿勢に共感している。

結局、歴史とは軽々しく断罪も賞賛もできないものだ。立場によってその目に映る歴史の色合いは違う。解釈もさまざまに変わってゆく。多分、お二方にとってそんなことは自明のはず。そして、それゆえに軽々しく当時の人々を断罪できないことも感じているのだろう。碩学にしてそうなのだから、われわれには一層努力が求められる。そのためには、本書内でも二人の著者が度々ジャーナリストの不勉強を嘆いているように、中途半端な知識はもっての他。もっともっと勉強して、軽々しい言説を一笑に付すくらいの見識を身に付けなければ。

‘2016/08/21-2016/08/24


図書館戦争


著者の作品は十冊近く読んでいる。が、著者の出世作として知られる図書館戦争シリーズを読むのは今回が初めて。

結論からいうと、私は本書の世界観には入り込めなかった。残念なことに。

本好きの端くれとしては、検閲や焚書に抗する図書館という構図は分かる。応援もしたい。だが、入り込めなかった。それは、武力をもって本を守るという、本書の世界観に共感できなかったためなのだろうか。本書を読み終え、このレビューを書き始めてもなお、その理由を探っていた。

本書の世界観の基になっている、図書館の自由に関する宣言は実在している。

図書館の自由に関する宣言
一、図書館は資料収集の自由を有する。
二、図書館は資料提供の自由を有する。
三、図書館は利用者の秘密を守る。
四、図書館はすべての不当な検閲に反対する。

図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。

著者があとがきに書いているが、この宣言の好戦的な調子から、本書の構想がまとまったという。

確かにそう思える。実際、私も本書を読んでから図書館に掲示されている宣言を改めて読んてみた。静謐な図書館の空間にこのような宣言があると若干違和感を覚えるのは事実。ただ、その違和感は、図書館を舞台にして戦闘を行うことという違和感とも違う。それは私が本書の世界観にに入り込めなかった理由ではなさそうだ。

違和感の由来は何なのか、つらつら考えてみた。そして、一つの感触を得た。それは、図書館に軍隊があるチグハグさによるものではないか、ということだ。図書館は、上に挙げた宣言にあるとおり自由を尊ぶ場である。それに対し軍隊とは規律と統制の権化と言ってよいだろう。

本書で登場する図書隊員は、階級が設定されている。特等図書監を筆頭に一等~三等図書監、一等~三等図書正、図書士長、一等~三等図書士という具合だ。自衛隊や旧軍の呼称と違うようだし、気になって調べたところ、海上保安庁で今も使われている呼称を流用しているようだ。

つまり私の感じた違和感とは、私自身が元々階級や組織を好きでないのに、好きな図書館に階級や組織が取り入れられているという世界観に馴染めなかったことに由来するのではないか、と。

しかし、それは本書を貶す理由にはならない。本書で書かれているのはパラレルワールド。昭和の次が平成ではなく、正化という異世界の話。世界観が違うからといってその小説の価値が落ちる訳ではない。それを違和感の理由とするのはフェアではない。そこは本書のためにも言い添えておかねば。

依然として、私の違和感の原因は掴み切れていない。

本書の概略は次の通りである。

メディア良化法の成立によって、検閲が正当化された世界。しかし図書館も手をこまねいていたわけではなく、警備隊を持つに至る。それが図書隊。超法規的解釈がなされ、良化特務機関(メディア良化隊)と図書隊の戦闘による争いが合法化されるに至る。

本書の主人公は、図書隊に志願して入隊した郁。郁と、図書隊の皆との交流や友情、そして著者の得意とする恋愛模様が本書の筋を形作っていると云えようか。そして、こういった人間関係やそれぞれの心の動きを書かせると著者は実にうまい。すんなりと入れる。舞台が著者の書くものによく登場する自衛隊の世界にも似た図書館とあればなおさら。

訓練で上々の成績を上げた郁は図書特殊部隊の紅一点として配属される。そこではさらに色々な出来事が発生し、その都度己の未熟さを感じたり、周りの助けの有難さに触れたり。本書を通じて郁は成長を遂げてゆく。そのためのエピソードが本書には多々用意されている。情報歴史資料館からの資料撤収、拉致誘拐された稲嶺図書指令の救出。等々。

本書の前半で郁が図書隊を志願した理由が紹介される。その出来事とは、書店において、郁が探していた本を買おうとしたところ、折悪しくメディア良化隊の踏込を受ける。しかしそこに現れた図書隊員が機転を利かして郁とその本を助けたというものだ。本書の後半で、我々読者はその隊員の素性を知ることとなる。

そして、私はここに至って、ようやく本書から感じる違和感の正体が分かった気がする。それは、本書が意図して世界観を守るために、現況を意図して抜かしていることに発する。

本書の舞台は正化三十一年。正化を平成に置き換えたとして、平成三十一年、つまり2019年のことだ。そして、それは現代よりもさらに3年先の未来の話。当然今よりもIT技術は進歩しているに違いない。しかし、IT技術を前面にだすと、本書の世界観は根底から崩れる。

つまり、本書が依って立つ世界観は全て紙の本の存在を前提としている。図書館しかり、本屋しかり、情報歴史資料館しかり。しかし、現代は紙の本が凄まじい勢いで廃れつつある時代だ。本屋や取次、出版社倒産のニュースは珍しくない。その中で紙の本が不可欠な本書の世界観に、私は決定的な違和感を抱えたのだと思う。

いくらメディア良化隊が現実の図書館や本屋を襲撃して検閲を行おうとも、そもそも表や裏ネットで大量に流通される電子データの前には無力な存在でしかない。そして、そこに戦闘行為を発生させようという試みがそもそも違和感の基なのだ。著者はそれが分かっていたはず。なので敢えて、図書館にある情報端末ぐらいしか本書には登場させていないのかもしれない。

惜しむらくは本書の時代設定である。時代設定をもう少し前に、例えば正化7年ごろにしてもらえれば。そうすれば、本書から感じた違和感は大幅に払拭されたはずなのだが。

または私が本書を読むのが遅すぎたのかもしれない。

だが、あえてもう一ひねりして穿った見方をする。本書はこういった世界観を敢えて採用することで、紙の書籍文化華やかなりし頃の熱気を再現させたかったのかもしれない、と。

‘2015/04/30-2015/05/02