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憂鬱な10か月


本書はまた、奇抜な一冊だ。
私は今まで本書のような語り手に出会ったことがない。作家は数多く、今までに無数の小説が書かれてきたにもかかわらず、今までなどの小説も本書のような視点を持っていなかったのではないか。その事に思わず膝を打ちたくなった。
実に痛快だ。

本書の語り手は胎児。母の胎内にいる胎児が、意思と知能、そして該博な知識を操りながら、母の体内から聞こえる音やわずかな光をもとに、自らが生み出されようとしている世界に想いを馳せる。本書はそのような作品だ。

そんな「わたし」を守っている母、トゥルーディは、妊娠中でありながら深刻な問題を抱えている。夫であり「わたし」の種をまいてくれたジョンとは愛情も冷め、別居中だ。その代わり、母は夫の弟である粗野で教養のないクロードと付き合っている。
夜毎、性欲に任せて母の体内に侵入するクロード。その度に「わたし」はクロードの一物によって凌辱され、眠りを妨げられている。

そんな二人はあらぬ陰謀をたくらんでいる。それはジョンを亡き者にし、婚姻を解消すること。その狙いは兄の遺産を手中にすることにある。

だが、そんな二人の陰謀はジョンによって見抜かれる。ある日、家にやってきたジョンが同伴してきたのはエロディ。恋人なのか友人なのか、あいまいな関係の女性が現れたことにトゥルーディは逆上する。そして、衝動的にジョンを殺すことを決意する。

詩の出版社を経営し、自ら詩人としても活動しているジョン。詩人として二流に甘んじている上に、手の疥癬が悪化した事で自信を失っている。

「わたし」にとってはそのような頼りない父でも実の父だ。その父が殺されてしまう。そのような大ごとを知っているにもかかわらず、胎内にいる「わたし」には何の手も打てない。胎児という絶妙な語り手の立場こそが、本書のもっともユニークな点だ。

当然ながら、胎児が意思を持つことは普通、あり得ない。荒唐無稽な設定だと片付けることも可能だろう。
だが、本書の冒頭で曖昧に、そして巧みに「わたし」の意思の由来が語られている。
そもそも本書の内容にとって、そうした科学的な裏付けなど全く無意味である。
今までの小説は、あらゆるものを語り手としている。だから、胎児が語り手であっても全く問題ない。
むしろ、そうした語り手であるゆえの制約がこの小説を面白くしているのだから。

語り手の知能が冴えているにもかかわらず、大人の二人の愚かさが本書にユーモラスな味わいを加えている。
感情に揺さぶられ、いっときの欲情に身をまかせる。将来の展望など何も待たずに、彼らの世界は身の回りだけで閉じてしまっている。胎内で「わたし」がワインの銘柄や哲学の深遠な世界に思考を巡らせ、世界のあらゆる可能性に希望を見いだしているのに。二人の大人が狭い世界でジタバタしている愚かさ。
その対比が本書のユーモアを際立たせている。

胎児。これほどまでに、世界に希望を持った存在は稀有ではなかろうか。ましてや、「わたし」以外の胎児のほとんどは、丁重すぎる両親の保護を受け、壊れ物を扱うかのように大切に育てられているのだから。10カ月間。

ところが「わたし」の場合、夜ごとのクロードの侵入によってコツコツと子宮口を通じて頭を叩かれている。しかも、連夜の酒で酩酊する母の体の扇動や変化によって悪影響を受けつつある。そんな「わたし」でさえ、母を信頼し、ひと目会いたいと願い、世の中が良かれと希望を失わずにいる。

胎内で育まれた希望に比べ、現実の世の中のでたらめさと言ったら!

私たちのほとんどは、外の世界に出された後、世俗の垢にまみれ、世間の悪い風に染まっていく。
かつては胎内であれほど希望に満ちた誕生の瞬間を待っていたはずなのに。
その現実に、私たちは苦笑いを浮かべるしかない。

私も娘たちが生まれる前、胎内からのメッセージを受け取ったことがある。おなかを蹴る足の躍動として。
それは、胎内と外界をつなぐ希望のコミュニケーションであり、若い親だった私にとっては、不安と希望に満ちた誕生の兆しでしかなかった。
だが、よく考え直すと、実はあの足蹴には深い娘の意思がこもっていたのではなかったか。

そして、私たちは誕生だけでなく、その前の受胎や胎内で育まれる生命の奇跡に対し、世俗のイベントの一つとして冷淡に対応していないか。
いや、その当時は確かにその奇跡におののいていた。だが、娘が子を産める年まで育った今、その奇跡の本質を忘れてはいないか。
本書の卓抜な視点と語り手の意思からはそのような気づきが得られる。

本書のクライマックスでは誕生の瞬間が描かれる。不慣れな男女が処置を行う。
その生々しいシーンの描写は、かつて著者が得意としていた作風をほうふつとさせる。だが、グロテスクさが優っていた当時の作品に比べ、本書の誕生シーンには無限の優しさと、世界の美しさが感じられる。

トゥルーディとクロードのたくらみの行方はどうなっていくのか。壮大な喜劇と悲劇の要素を孕みながら、本書はクライマックスへと進む。

親子三人の運命にもかかわらず、「わたし」が初めて母の顔を見たシーンは、本書の肝である。世界は赤子にとってかくも美しく、そしてかくも残酷なものなのだ。

著者の作品はほぼ読んでいるし、本書を読む数カ月前にもTwitter上で著者のファンの方と交流したばかり。
本書のようなユニークで面白く、気づきにもなる作品を前にすると、これからの著者の作品も楽しみでならない。
本書はお薦めだ。

‘2020/07/03-2020/07/10


アクアビット航海記 vol.26〜航海記 その13


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/11にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

結婚に向けて


東京に居を構え、職も確保した私。
次にやるべきは、結婚へ向けての諸作業です。
町田に住む妻とは家が近くなり、会う機会も増えました。
そこからは10月の婚姻届け提出、11月の披露宴までに向けての半年強を、式場や招待客、新婚旅行の行き先選びに追われていました。そこでもさまざまなエピソードや事件は起こったのですが、本連載はそれらの苦労を語ることが目的ではありません。いつかのゼクシィへ連載する機会に取っておきたいと思います。

それよりも語っておきたいことがあるのです。
語っておきたいこととは、私自身に備わった覚悟と、新居を決めるまでのいきさつについてです。
なぜかといえば、この二つは私のその後の人生航路、とくに起業へ至るまでの複数回の転職に大きく関わってくるからです。

まず、この時期の私に生じた心境の変化から語ってみたいと思います。

親への感謝


連載の第二十一回(https://www.akvabit.jp/voyager-vol-21/)で触れたとおり、私が東京行きを決めてから住民になるまでの期間は二週間ほどしかありませんでした。
その時の私は、何かに突き動かされていたに間違いありません。あまりにも唐突な思いつきと実行、親へ話を切り出した経緯と、親への感謝の思いについては書いた通りです。
ところが、その稿で書いた親への感謝とは、今の私が当時を思い出して書き加えた思いです。
実際のところ、上京へと突っ走る当時の私には、親への感謝を心の中で醸成するだけの余裕も時間もありませんでした。思いつめ、前しか見えておらず、未来へ進むことだけで頭が沸騰していた私の視覚はせいぜい20度くらい。後ろどころか横すら見えていなかったことでしょう。

私が親への恩を感謝するのは、上京してすぐの頃でした。
前触れもなく飛び出すように東京に行ってしまった不肖の長男のために、両親が甲子園から車で来てくれたのです。洗濯機や身の回りの所持品などと一緒に。
私がスカパーのカスタマーセンターに入る前だから1999年4月の中頃だったと思います。
私の父親は当時60歳だったのですが、名神と東名を走破しての運転は骨が折れたことでしょう。
当時の私は新生活に胸を躍らせていました。そして、あれよあれよの間に息子を失った親の気持ちに目を遣る余裕はありませんでした。
私の両親はあの時、東京に飛び去ってしまった長男に会い何を思ったのでしょうか。私の両親の心中はいかばかりだったか。寂しくおもったのか、それとも、頼もしさを感じたのか。私にはわかりません。

それでも今、こうやって当時の自分を思い出してみて、親のありがたみをつくづく思います。

当時、東京にも世間にも不慣れな私は、親の宿泊場所すら手配してあげられませんでした。そのため、私の両親は町田ではなくわざわざ横浜の本牧のホテルに泊まっていました。
数日の滞在をへて最終日、婚約者も含めて四人で横浜中華街を散策します。そして、いよいよ甲子園へと帰ってゆく両親とお別れの時が来ました。
その場所とは忘れもしない、JR石川町駅の近くにある吉浜橋駐車場でした。20年以上が過ぎた今でも、横浜中華街の延平門から石川町駅に向かう途中にその細長い駐車場はあります。
駐車場の端に停めた車へと歩いていく両親の後ろ姿をみながら立ちつくす私。この時の気持ちは今でも思い出せます。せつなく胸がいっぱいになる思い。
泣きこそしなかったものの、この時に感じた哀切な気持ちは、今までの人生でも数えるほどしかありません。横にいる妻(まだ婚約中でしたが)と一緒に東京で頑張っていこうとする決意。そして去ってゆく両親の後ろ姿に叫びたいほどの衝動。
この時に揺れた心の激しさは今も鮮明に思い出せます。また、忘れてはならないと思っています。
私の生涯で親離れした瞬間を挙げろと言われれば、このシーンをおいてありえません。この時、私はようやく東京生活への第一歩を踏み出したのだと思っています。

自立を自覚すること

誰にでも親離れの瞬間はあります。私が経験したよりもドラマチックな経験をした人も当然いるでしょう。親との望まぬ別離に身を切り裂かれる思いをした方だっているはず。
親との別れは全ての人に等しく訪れます。私の体験を他の人の体験と比べても無意味です。
ただ、私にとってはこの時こそが親から自立した自分を自覚した体験でした。親から離れ、一人で歩もうとする自らを自覚し、それをはっきり心に刻みつけた瞬間。
この経験は後年の私が“起業”するにあたり、よりどころとした経験の一つでした。なぜなら、自分が独り立ちし、一皮向けた瞬間に感じた思いとは、起業を成し遂げた瞬間の気持ちに通じているからです。少なくとも私にとっては。

私が関西の親元に住み続けていたら、間違いなく起業には踏み切れなかったと断言できます。
そして、親からの自立をはっきりと意識する経験がなければ、関東に住んだとしても果たして起業にまで踏み切れたかどうか。

ちなみに念のために言うと、自立と疎遠は違います。
私は上京してまもなく21年になろうとしています。その間、毎年の盆暮れにはほぼ両親のもとへと帰省しています。今でもたまにモノを送ってもらっていますし、仕事もたまに手伝ってもらっていました。

上に書いたような出来事があったからといって、両親を遠ざけたわけではないのです。自立は疎遠とは違います。
この時の自分は、親から自立し、別の家族として別の人生を歩み始めたと思っています。それが大人になった証しなのだと思います。

自分がある日を境に大人になったこと。それは誕生日ではなく、成人式でもありません。何かのタイミングでそのことを自覚した瞬間が、大人になったタイミングだと思います。
その刹那の感覚を記憶し、独り立ちした自分への確かな手応えをつかめているか。これこそが大人になってからの荒海を乗り切るにあたってどれほど大きな助けとなったか。
古くはこれを社会がイニシエーション儀式や元服式として与えてくれていたのでしょう。ですが、成人式が形骸化した今では、一人一人がこの成功体験を何とかして得、それを大切に温めてゆくしかないと思っています。

親から離れて自立したことの感動をもち続けていることは、私が起業に際しての助けとなりました。
自立の瞬間の自覚を胸に大人になった私は、大失敗こそしなかったものの、その後に数えきれないほどの失敗をしでかしています。
でも、今に至るまでやって来れたのも、自立の感動が今もなお私にとって大いなる成功体験だからです。
そして、この成功体験があったからこそ、起業にあたっても尻込みせずに進めたのだと思っています。

次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


土の中の子供


人はなにから生まれるのか。
もちろん、母の胎内からに決まっている。

だが、生まれる環境をえらぶことはどの子供にも出来ない。
それがどれほど過酷な環境であろうとも。

『土の中の子供』の主人公「私」は、凄絶な虐待を受けた幼少期を抱えながら、社会活動を営んでいる。
なんとなく知り合った白湯子との同棲を続け、不感症の白湯子とセックスし、人の温もりに触れる日々。白湯子もまた、幼い頃に受けた傷を抱え、人の世と闇に怯えている。
二人とも、誰かを傷つけて生きようとは思わず、真っ当に、ただ平穏に生きたいだけ。なのに、それすらも難しいのが世間だ。

タクシードライバーにはしがらみがなく、ある程度は自由だ。そのかわり、理不尽な乗客に襲われるリスクがある。
襲われる危険は、街中を歩くだけでも逃れられない。襲いかかるような連中は、闇を抱えるものを目ざとく見つけ、因縁をつけてくる。生きるとは、理不尽な暴力に満ちた試練だ。

人によっては、たわいなく生きられる日常。それが、ある人にとってはつらい試練の連続となる。
著者はそのような生の有り様を深く見つめて本書に著した。

何かの拍子に過去の体験がフラッシュバックし、パニックにに陥る私。生きることだけで、息をするだけでも平穏とはいかない毎日。
いきらず、気負わず、目立たず。生きるために仕事をする毎日。

本書の読後感が良いのは、虐待を受けた過去を持っている人間を一括りに扱わないところだ。心に傷を受けていても、その全てが救い難い人間ではない。

器用に世渡りも出来ないし、要領よく人と付き合うことも難しい。時折過去のつらい経験から来るパニックにも襲われる。
そんな境遇にありながら、「私」は自分に閉じこもったりせず、ことさら悲劇を嘆かない。
生まれた環境が恵まれていなくても、生きよう、前に進もうとする意思。それが暗くなりがちな本書のテーマの光だ。
そのテーマをしっかりと書いている事が、本書の余韻に清々しさを与えている。

「私」をありきたりな境遇に甘えた人物でなく、生きる意志を見せる人物として設定したこと。
それによって、本書を読んでいる間、澱んだ雰囲気にげんなりせずにすんだ。重いテーマでありながら、そのテーマに絡め取られず、しかも味わいながら軽やかな余韻を感じることができた。

なぜ「私」が悲劇に沈まずに済んだか。それは、「私」が施設で育てられた事も影響がある。
施設の運営者であるヤマネさんの人柄に救われ、社会のぬかるみで溺れずに済んだ「私」。
そこで施設を詳しく書かない事も本書の良さだ。
本書のテーマはあくまでも生きる意思なのだから。そこに施設の存在が大きかったとはいえ、施設を描くとテーマが社会に拡がり、薄まってしまう。

生きる意思は、対極にある体験を通す事で、よりくっきりと意識される。実の親に放置され、いくつもの里親のもとを転々とした経験。中には始終虐待を加えた親もいた。
その挙句、どこかの山中に生きたままで埋められる。
そんな「私」の体験が強烈な印象を与える。
施設に保護された当初は、呆然とし、現実を認識できずにいた「私」。
恐怖を催す対象でしかなかった現実と徐々に向き合おうとする「私」の回復。生まれてから十数年、現実を知らなかった「私」の発見。

「私」が救われたのはヤマネさんの力が大きい。「私」がヤマネさんにあらためたお礼を伝えるシーンは、素直な言葉がつづられ、読んでいて気持ちが良くなる。
言葉を費やし、人に対してお礼を伝える。それは、人が社会に交わるための第一歩だ。

世間には恐怖も待ち受けているが、コミュニケーションを図って自ら歩み寄る人に世間は開かれる。そこに人の生の可能性を感じさせるのが素晴らしい。

ヤマネさんの手引きで実の父に会える機会を得た「私」は、直前で父に背を向ける。「僕は、土の中から生まれたんですよ」と言い、今までは恐怖でしかなかった雑踏に向けて一歩を踏み出す。

生まれた環境は赤ん坊には一方的に与えられ、変えられない。だが、育ってからの環境を選び取れるのは自分。そんなメッセージを込めた見事な終わりだ。

本書にはもう一編、収められている。
『蜘蛛の声』

本編の主人公は徹頭徹尾、現実から逃避し続ける。
仕事から逃げ、暮らしから逃げ、日常から逃げる。
逃げた先は橋の下。

橋の下で暮らしながら、あらゆる苦しみから目を背ける。仕事も家も捨て、名前も捨てる。

ついには現実から逃げた主人公は、空想の世界に遊ぶ。

折しも、現実では通り魔が横行しており、警ら中の警察官に職務質問される主人公。
現実からは逃げきれるものではない。

いや、逃げることは、現実から目を覆うことではない。現実を自分の都合の良いイメージで塗り替えてしまえばよいのだ。主人公はそうやって生きる道を選ぶ。

その、どこまでも後ろ向きなテーマの追求は、表題作には見られないものだ。

蜘蛛の糸は、地獄からカンダタを救うために垂らされるが、本編で主人公に届く蜘蛛の声は、何も救いにはならない。
本編の読後感も救いにはならない。
だが、二編をあわせて比較すると、そこに一つのメッセージが読める。

‘2019/7/21-2019/7/21


怒り(上)


著者の本は折に触れ、読んでいる。
社会の中で不器用に生きることの難しさと、その中で生き抜く人間への共感。
著者の作風から感じられるのは、そうしたテーマだ。
ここに来て、著者の作品から感じるのは、人の悪を描く試みだ。
なぜ人は悪に染まってしまうのか。この社会の何が人を悪に走らせるのか。

理想だけで生きて行かれれば幸せだ。だが、理想の生活を実践するには、社会を生き抜く能力が求められる。
ところが、ほとんどの人には理想の生活を送るための飛び抜けた能力が備わっていない。もしくは備わっているのに気づかない。
私をはじめとした多くの人は、社会の中で自分の居場所を確保しようと躍起になっているのが実情だ。自分の能力に適した仕事を探しながら。

本書はそういう人々が必死に社会で生きる姿を描く。
複雑で利害がこみいった世の中。
人によっては正体を隠し、影の中に生きる事を余儀なくされた方もいるだろう。
それは何も、本人のせいではない。

例えば、生まれ持った性的志向が異性ではなく同性へと向いている場合。
わが国ではまだ同性愛には非寛容だ。そのため、大っぴらに発展場に通う姿を見られることに抵抗感があるかもしれない。
例えば、親が私生活で作る失敗によって住む地を転々とさせられる場合。
何度も転校を余儀なくされ、ついには沖縄の離島のペンションにまで。若さゆえの適応力で対応できても、どこかに影は生じる。
例えば、ほんの少しだけ、自分の娘が他より社会での適応力に欠けている場合。
娘が幸せに生きていけるのだろうか、娘が付き合う男の全てが娘をいいように持て遊ぼうとしているだけでは、という親心からの疑いが拭い去れない。
娘には幸せになって欲しいという親心があるゆえに。

誰もが皆、社会に何らかの負い目を感じながら生きている。
そうした世間に、あからさまな怒りを抱え、世に害をなす人物がまぎれこむ。そして善良な市民のふりをして正体を隠す。その時、人々の不安は増幅される。
その不安は、疑心暗鬼へとつながり、さまざまな誤解を生み出す。誤解は誤解を巻き込み、日常が不穏な色に染められる。

著者は、場所も環境も異なる三つの舞台を同時並行に描く。
その三つの舞台の間に直接の関係はない。
あるのは日本国内で起こっている事と、ある夫婦を無残に殺害した山神一也が逃亡し、行方をくらませている、というニュースのみ。
どこにいるかわからない犯人の存在が、三つの物語の登場人物たちそれぞれに薄暗い影を落とす。

著者の紡ぎだす物語は、共通の一つの疑いが、徐々に人々をむしばむいきさつを浮き彫りにする。
何も引け目を感じていない時、そうしたニュースは聞いたそばからすぐに忘れ去られる。取るに足りないからだ。
だが、免疫力が落ちた人が簡単にウィルスにやられてしまうように、心に引け目を感じている人は、精神的な免疫が損なわれている。そうした人の心に少しでも疑いが侵入すると、それがじわじわとした病となって巣食っていく。

上に書いた同性愛の嗜好を持つ藤田優馬は、パートナーを求めて男たちが集まるサウナの隅で、うずくまるように孤独に身を包む大西直人に出会う。
家に直人を連れ帰り、一夜の関係を持った二人。身寄りも職もない直人に家で住むように誘った優馬は、日中は大手IT企業で働いている。
充実した日々を送りつつ、仲間たちとパーティーや飲み会に明け暮れた日を過ごしていた優馬は、直人との出会いを機に今までの付き合いから距離を置く。
余命もわずかな母との日々に重きを感じた優馬に、直人は積極的に関わり、母や仲間との信頼を築き上げてゆく。

九十九里浜に近い浜崎で漁業関係の仕事を営む洋平には、少しだけ知恵の足りない娘の愛子がいる。
本書は、歌舞伎町のソープランドに連れていかれ、働いていた愛子を洋平が連れ帰るシーンで幕が開く。
その頃、浜崎には田代哲也という若者がふらっと現れ、漁協で仕事を手伝いはじめた。自分を語りたがらず、寡黙で真面目な田代。
やがて愛子と田代は惹かれあい、同棲を始める。
だが、田代の過去に疑いを抱いた洋平の心に疑いが湧く。果たして田代は娘を幸せにしてくれる男なのか。それとも、娘はまた騙されてしまうのか。

泉は母と二人で暮らしている。母は意図せずして住民トラブルを起こしてしまう性格の持ち主。
高校生の泉は、母に生活を依存するしかない。だから、母が引き起こしたトラブルによって転居を強いられても拒めない。名古屋、福岡、そして沖縄へ。
沖縄の本島からさらに離島のペンションで住み込む母娘。泉はそんな現状にもめげず、明るく振る舞っている。
だが、どこかに抑えられた鬱屈がある。泉は同じクラスの辰也の船で無人の島へ渡り、そこで島で野宿をする田中と名乗る男に出会う。
彼をペンションのオーナーに手伝いとして紹介した泉。田中は果たして何者なのか。

山神を追い求める捜査の進み具合を合間に挟みつつ、著者は三つの物語に謎めいた人物を登場させる。
果たして誰が山神の化けた姿なのか。そして、三つの物語に登場する人々はどうなってゆくのかという興味を引きつつ、話を進めてゆく。
その絶妙な話の進め方と、日々を精いっぱい生きる登場人物たちの心に兆す疑心が芽生え、育ってゆく様子の描写はお見事というほかない。
そして、なぜ彼らは窮屈に生きねばならないのか、という社会の淀みを描いていく手腕も。

‘2019/02/17-2019/02/18


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


自殺について


なにしろ題名が「自殺について」だ。うかつに読めば火傷すること確実。

悩み多き青年には本書のタイトルは刺激的だ。タイトルだけで自殺へと追い込まれかねないほどに。23歳の私は、本書を読まなかった。人生の意味を掴みかね、生きる意味を失いかけていた当時の私は、絶望の中にあって、本書を無意識に遠ざけていた。ありとあらゆる本を乱読した当時にあっても。

だが、今になって思う。本書は当時読んでおくべきだった、と。

もし当時の私が本書を読んでいたとしたら、どう受け取っただろう。悲観を強めて死を選んだか。それとも生き永らえたか。きっと絶望の沼に陥らず、本書から意味を掴みとってくれていたに違いないと思う。本書は人を自殺に追いやる本ではない。むしろ本書は人生の有限性を説く。有限の生の中に人生の可能性を見出すための本なのだ。

自殺は、苦患に充ちたこの世の中を、真に解脱することではなく、或る単に外観的な-形の上からだけの解脱で紛らわすことであるから、それでは、自殺は、最高の道徳的な目標に到達することを逃避することになる(199ページ)。

このように著者ははっきり主張する。つまり、自殺した者には解脱の機会が与えられないということだ。なんとなく著者に厭世家のイメージを持っていた私は、著書を初めて読む中で著者への認識を改めた。

確かに本書を一読すると厭世観が読み取れる。だが、それはあくまで「一読すると」だ。本書の内容をよく読むと、厭世観といっても逃げの思想に絡め取られていないことがわかる。むしろ限りある苦難の生を生きるにあたり、攻めの姿勢で臨むことを推奨しているようにすら思える。

そのことは時間に対する著者の考えで伺える。43ページで著者は、時間は、ひとつの無限なる無なのだから、と定義している。また、32ページでは、それに反して意思は、有限の時間と空間とを占める生物の身体として、と定義している。つまり著者によると、自己を意識する自我が主体だとすれば、時間とはそれ以外の部分、つまり客体に適用される。しかし、主体である我々に時間は適用されない。適用されないにもかかわらず、時間の有限の制約を受けることを余儀なくされた存在だ。そして限られた時間に縛られながら、精一杯の欲望を満たそうとする儚い存在でもある。そこに生きる悩みの根源はあると著者はいう。

もう一つ。自我にとって認識できる時間は今だけだ。過去はひとたび過ぎ去ってしまうと記憶に定着するだけで実感はできない。過去が実感できないとは、過去に満たされたはずの欲求も実感できないことと等しい。一度は満たしたかに思えた欲求は一度現在から過ぎ去ると何も心に実感を残さない。つまり、欲求とは満たしたくても常に満たせないものなのだ。そんな状態に我々の心は耐えられず、不満が鬱積して行く。何も手を打たなければ、行く手にあるのはただ欠乏そして欲望のみ。生を意欲すればするほど、それが無に帰してしまう事実に絶望は増して行くばかり。著者は説く。意欲する事の全ては無意味に終わると。尽きぬ欲求を解消する手段は自殺しかない。そんな結論に至る。私が悩める時期に幾度も陥りかけたような。

好色や多淫は、著者にとっては人間の弱さだ。けれども、その弱さが種の保存という結果に昇華されるのであれば、それで弱さは相殺されると著者は考える。

著者の論が卓抜なのは、生を種族のレベルで捉えていることだ。個体としての生が無意味であっても、それが種の存続にとっては意味があるということ。つまり生殖だ。著者は淫楽をことさらに取り上げる。人は性欲に囚われる。それも人が囚われる欲の一つだ。しかし、性欲の意義を著者は種の存続においてとらえる。そして親が味わった淫楽の代償は次の世代である子が生の苦しみとして払う。

生殖の後に、生がつづき、生の後には、死が必ずついてくる。(81ページ)

或る個人(父)が享受した・生殖の淫楽は彼自身によって贖われずに、かえって、或る異なった個人(子)により、その生涯と死とを通して贖われる。ここに、人類というものの一体性と、それの罪障とが、ひとつの特殊な姿で顕現するのだ。(81-82ページ)

上にあげた本書からの二つの引用は、生きる意味を考える上で確かな道しるべになると思う。つまるところ、個人の夢も会社の成長も、あらゆる目標は種の存続に集約される。そういうことだ。逆にそう考えない事には、死ねば全てが無になってしまう事実に私は耐えられない。おそらく人々の多くにとっても同じだと思う。

ここで誤解してはならないことが一つある。それは子を持つことが人類の必須目的という誤解だ。子を持つことは人の必要条件ですらないと思う。人生の目的を個体の目的でなく、種の目的に置き換える。そうする事で、子を持つことが義務ではなくなる。例えば子がいなくとも、種の存続に貢献する方法はいくらでもある。上司として、隣人として、同僚として。ウェブやメディアで人に影響を与えうる有益な情報を発信する事も方法の一つだ。要は子を持たなくても種のために個人が貢献できる手段はいくらでもあるという事。それが重要なのだ。その意識が生きる目的へと繋がる。著者は生涯結婚しなかったことで知られるが、その境遇が本書の考察に結実したのであればむしろ歓迎すべきだと思う。

本書で著者が展開する哲学の総論とは、個体の限界を認識し、種としての存続に昇華させることにある。それは個体の生まれ替わりや輪廻転生を意味するのだろうか。そうではない。著者が本書で展開する論旨とはそのようなスピリチュアルなほうめんではない。だが、種の一つとして遍在する個体が、種全体を生かすための存在になりうるとの考えには輪廻転生の影響もありそうだ。著者の考えには明らかに仏教の影響が見いだせる。

著者の考えを見ていくと、しっかりと仏教的な思想が含有されている。実際、本書には仏教やペルシャ教を認め、ユダヤ教を認めない著者の宗教観がしっかりと表明されている。なにせ、ユダヤ教が、文化的な諸国民の有する各種の信仰宗教のなかで、最も下劣な地位を占めている(181ページ)とまで述べるのだから。

著者がユダヤ教、その後裔としてのキリスト教に相容れようとしないのは、自殺という著者の考えの根幹を成す行為が、これら宗教では何の論拠もなしに宗教的に禁じられているからではないか。著者は自殺を礼賛しているのではない。むしろ禁じている。だが、ユダヤ・キリスト教が自殺を禁じる論拠になんら思想的な錬磨もなく、盲目的に自殺を禁ずることを著者は糾弾する。

ここまで読むとわかるとおり、著者にとっての自殺とは、種の存続には何ら益をもたらさない行為だ。そもそも個人がいくら個人の欲求を満たそうにもそれは無駄なこと。生とはそもそも辛く苦しい営み。だからこそ、種としての貢献や存続に意義を見出すべきなのだ。つまり、個人としての欲望に負け自殺を選ぶのは、著者によれば個人としての解脱にも至らぬばかりか、種としての発展すら放棄した行為となる。

だが私は思った。著者の生きた時代と違い、今は人が溢れすぎている。生きることがすなわち種の存続にはならない。むしろ、生きることそのものが地球環境に悪影響を与えかねない。そんな時代だ。いったい、この時代に自殺せず、なおかつ種の存続に貢献しうる生き方はありうるのだろうか。多分その答えは、著者が説く、人を自殺に至らしめる元凶、つまり際限なき欲求にある。欲求の肥大を抑える事は、自殺欲望を抑制することになる。また、欲求の肥大が収まることで、地球環境の維持は可能となる。それはもちろん、種の存続にもつながる。つまり、自殺と人間の存続は表裏一体の関係なのだ。自殺の欲求から醒めた今の私は、本書からそのようなメッセージを受け取った。

もちろん、そんな単純には個々人の人生や考えは戒められないだろう。国にしてもそう。東洋の哲学を継承するはずの中国からして、猛烈な消費型生活に邁進し、自殺者も出しているのだから。少し前までの我が国も同じく。だが、それでもあえて思う。自殺を超越しての解脱を薦め、個体の限りある 生よりも種としての存続に人生の意義を説く本書は、東洋人の、仏教の世界観に親しんだ我々にこそ相応しい、と。

‘2016/06/08-2016/06/15


未成年の実名報道について


痛ましい川崎の事件。こういった事件が起きる度に俎上に載せられるのが、少年法です。

私が少年法について常々思っていたこと、抱いていた迷い。それらを長谷川さんが文章に著して下さいました。

長谷川さんのブログはよく拝見しています。ほとんどのブログについて、書かれている主旨の大枠に共感できます。ただ、細かい表現の切れ味や深さが私の思いと一致しない時がありました。

しかし、今回書かれていた内容は私の思いにぴたりとはまりました。少年法への期待と諦めに揺れる心境も的確に表現されておりさすがです。思うに、私の親としての視点が一致したのかもしれません。

とくに、ネットを介した発言がこれだけ溢れている今、少年法による保護は無意味との論旨は、我が意を得た思いです。同様の論旨は木走さんのブログでも取り上げられていて、この点について法曹界の方々はどう思うのか、気になります。さっそく日弁連が遺憾の意を表明したようですが、遺憾の意ではなく行動にでなければ世に溢れる情報はせき止められません。

私見ですが、少年法をあくまで遵法させるのであれば、少年法を改正する必要があるでしょう。今の少年法の第六十一条は以下のようになっています。

   第四章 雑則

(記事等の掲載の禁止)
第六十一条  家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。

 書かれているとおり、定義されている処罰対象はマスコミだけです。今の時代、マスコミだけでは不足なことは云うまでもありません。中でもアマチュアジャーナリスト。ツイッターやブログを駆使し、社会に対するゲリラ報道を繰り返すプロのマスコミでない人々。その膨大な書き込みを徹底的に監視するしかないでしょうね。もちろん刑事罰付きで。それが果たしてやりきれるかどうか。

あと、もう一つ思ったことがあります。それは、子を持つ親の覚悟が問われる、ということです。今回の川崎の事件、主犯とされる本人だけでなく、家や両親、祖父母の情報まで、ネット上に流され、晒されているとか。

子を持つ身として、我が子が仮に重大犯罪を犯したとすればどうなるか。今の少年法に謳われる情報保護の壁が取っ払われれば、親の生活も晒され、あげつらわれ、築いてきた人生も炎上すること間違いなしです。焼かれるのは火葬場で一度きりで充分。大多数の親はそう思っているのではないでしょうか。

私も含め、親である皆さんが子に対し普段どれだけ注意を払い、親として子に向き合えているか。これからはその成果が、今以上に問われます。

仕事にかまけて夜の子どもとの会話を怠ることなかれ。
給油と称して毎晩酩酊状態で帰宅することなかれ。
付き合いの名の下に、毎週末フェアウェイで芝刈ることなかれ。

子どもは親が思う以上に、親を見て育っていきます。親が自分を向いていないと感じたが最後、子どもの関心は外に向かいます。外では夜な夜な悪いスリルに身を任せる仲間達とつるむこともあるでしょう。そこからさらに取り返しの付かない末路へ進まないとも限りません。忙しさを理由に構えなかった子どもの不始末が、まっとうな社会生活や生業を親から奪う。今までにそんなニュースを何度見たことか。

少年法が改正された暁には、子どもを持つ親は上に挙げたようなリスクにさらされます。そんなことも、頭の片隅におくべきでしょう。

私自身、今の生活を鑑み、肝に銘じ襟を正して子どもたちと向き合いたいと思います。少年法改正に賛成する以上は。


追想五断章


残された遺作短編を元に、作者の素性と、そこに隠された事情を探っていく内容。

と書くと凡庸な内容のように思われるかもしれないが、遺作短編5編の内容に工夫をこらし、読者の予想を裏切る方向へ結末を進めていく筆力は見事である。

遺作短編5編の内容がいずれも陰惨な終わり方を予感させるリドルストーリー仕立てで、この形式自体あまり見ないため楽しめることと、陰惨な結末がどうなったのかの興味が解き明かされないまま5編分、次々と積もっていくため、話に引きずられていく。という仕掛けであるため、最後まで読んでしまうことは請け合いする。

5編の内容から作家の無念と愛情、そして男として親としての矜持をいかに読み解くか、について、結末を知った後に各編を再読したくなるのが本書である。

’12/02/22-’12/02/23