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福山・三次・常清滝・邑南町 2019/3/2


昨夜、部屋に戻るなり、のび太くんもかくや、という速さで寝てしまった私。
アンカーホテルの一階の素晴らしいバーの存在を知ったのは翌朝のことでした。

いや、ホテルに泊まる前から、アンカーホテル福山の朝食の目玉が特製ホットドックだという事は知っていたのですよ。何しろkintone Café広島の前田さんから勧められていたので。むしろ、それが目的でこのホテルを選んだようなもので。

ところが、その朝食を出すお店が夜はバーになっている事は気づきませんでした。ましてや、そのバーを運営するのが福山では有名なバーあき乃さんということも。
朝、ホットドックを食べながら、バーカウンターに並ぶ桜尾GINのボトルの群れをうらめしく見つめる私。桜尾GINは広島の産んだGINの銘酒。今回の旅でも蒸留所が近ければ、訪れようかと思ったくらいです。
私の無念がどれほど深かったかは、この旅の直後に雑誌Whisky Galoreの懸賞で桜尾GINを見事当選させたことからもわかっていただけるかと。

さて、昨夜の深酒も旅の朝の清々しさの前には消え、私の前に開けているのは輝かしき一日。
一刻も早く今日の思い出を作りたいと、私の翼は早くも目的地に向かい、飛び立とうとします。
なので、福山城には登城せず、大手門からその姿を見上げるのにとどめました。

翼、いや、タイヤは国道2号線を西へ向かって転がります。福山西インターからは山陽道を、さらに尾道ジャンクションからは尾道自動車道を北へと。
私は、濃い霧が立ち込める山々を縫うように車を駆っていきました。そして降りたのは三次東インター。そう、広島県の北部です。

今日は私にとって初めて訪れる地、三次の街並みを散策し、常清滝を愛でるのが目的です。

三次市の旧市街は、古い町並みが保存されていました。昔ながらの広壮な門構えが並び、そこを貫く石畳の道。それらが整然とした印象を与えてくれます。
ここは全国に散在する小京都と呼ばれる地の一つ。ですが、石畳の広々とした感じは、混み込みした京都とは一線を画し、むしろ清潔ですらありました。
私が訪れた五十日後には「三次もののけミュージアム」の開館を控えていて、街の活性化には抜かりがない様子。

ですが、今日は先を急がねばなりません。夜には東京に居なければならないのですから。
私は常清滝へ急ぎました。
ところが、そんな私を三次の魅力がからめとろうと迫ってきます。毛利家ゆかりの地、という殺し文句で。

そこは尾関山公園。
戦国時代は毛利家に属する三吉氏が治めていたといいます。
江戸時代初期には賤ヶ岳七本槍の一人として名高い福島正則が広島藩の藩主となった時、臣下の尾関氏が城主となったことでこの名がついたとか。

わたしの記憶が確かならば、萩を除いて毛利家ゆかりの山城に訪れた経験はないはず。
前日に訪れた鞆城跡といい、毛利家のゆかりの城に二日続けて訪れられたのも、広島を旅する喜びというべきでしょう。これこそまさに吉縁。

尾関山公園の中は、風情のある日本庭園のように設えられており、そこには一人の女性の像が立っていました。
近寄ってみると、女性は、浅野内匠頭長矩の奥方である阿久利姫でした。
初代三次藩主の浅野長治の息女であり、幼少期を三次で過ごしたのだとか。
そして、浅野内匠頭長矩といえば忠臣蔵を語る上で絶対に欠かせない人物。
三次市とは忠臣蔵にも深い縁を持つ街だった事を知り、歴史の縁の深さをあらためて思い知らされました。
こうやって土地と歴史の交わる点に立ちあえる喜び。それこそが旅の醍醐味です。

尾関山のてっぺんには展望台があり、三次の街を一望の下に見ることができます。
三次は霧の街としても知られているのだとか。川が合流し、それが霧を生み、しかも盆地であるため霧はとどまる。
私が見たときも、うっすらとした霧が街を覆っていました。尾道自動車道を走っていた時に見た霧もあざやか。この辺の風土を語るには霧が欠かせないことを記憶しました。
春の街 訪ねて霧や 旅の夢
尾関山公園にて

盆地にたゆたう霧は、かくも幻想的。
そんな事を思いながら尾関山から眺めていると、下に一本の筋が光っている事に気づきました。その筋こそは三江線が走っていた線路です。

三江線は、私が三次を訪れる一年近く前に廃線となってしまいました。
三次と江津を江の川に沿って行き交っていたこの線も、最後は惜しまれて廃止されたようです。
私が訪れた尾関山駅は、駅舎やホーム、線路が残っており、いつ列車が到着してもおかしくない様子。ただし、ホームの駅名標や駅舎の看板は撤去され、傍目には駅である事に気づきません。
それでも駅舎の入り口には、三江線LAST RUNの文字が記されたチラシが貼られ、ここがかつて駅だった事を今に伝えています。
おそらくは地元の鉄道愛好者が残していったものでしょう。

尾関山から見下ろした三江線は、最初はいつ列車が走ってくるのだろうと思えたほど。その感想は尾関山駅のホームでも変わりませんでした。廃線の現実に慣れていない様子が、かえって廃線が地元へ与えた哀惜の深さを思わせてくれます。

私は尾関山駅跡を訪れたことで、三江線にも興味を持ちました。
常清滝へ向かう途中で訪れた、道の駅ゆめランド布野では、三江線の廃線当日を記録した写真集が売られており、つい購入してしまったほど。
残念ながら三江線は地方路線としての役割を果たしていないと判断されましたが、地元の人々にとっては日常の足だったことが分かります。
こうして一年後も路盤や線路が残されていることからも、地元の人々の諦め切れない思いの程が知れます。

さて、私は常清滝への道を目指しました。
常清滝は早春の気を存分にまとい、長大な筋となって流れ落ちていました。
三月とはいえ、まだまだ冬の気配が濃厚に残っているこの辺りには、肌寒ささえ感じました。この近辺はブッポウソウの生息地でもあるらしく、鳥の鳴き声が山々を癒やしています。私も周囲を見回しては、ブッポウソウを探しましたが見つけられませんでした。
あたりが春の芽生えに備え、山の鮮烈な気を蓄える中、長大な滝となって流れる落ちる常清滝。日本の滝百選に選ばれるだけのことはあります。
鳥・水・樹 常に清くを 味わえり
常に清く この場であれば 守れます。
常清滝にて

私は観瀑台からと、滝壺に降りての二カ所から、広島随一の滝を堪能しました。私にとって三十滝目となる日本の滝百選の滝です。去りがたい。




近くの川の駅常清に立ち寄った後、江平駅跡にも立ち寄りました。ここも廃止された三江線を構成した駅の一つです。
この駅も、廃線の現実を受け入れられない様子。むしろ、廃線を直前にした寂れた時間のまま、固まっているように思えます。それがかえって廃線の現実を浮き彫りにしていました。
道路が線路を跨ぐ部分には鉄パイプの柵とJR西日本の表記があり、それがなければ廃駅とは気づかないほどです。
いつでも駅として復活できそうな感じ。それがかえって、現実の寂しさを映し出していました。江平駅のたたずまいは、今回の旅でも印象に残った風景の一つです。
後はただ 早春の川に 身を映し
旧江平駅にて


続いて私が向かったのは近くの稲滝。標識を見つけたので立ち寄ってみました。
滝へ至る道は、かつては車が通れたのでしょう。舗装され、一定の幅を持っていました。
ですが、歩行者すら長い間絶えていたらしく、積もった土砂と落石、倒木に埋もれた道は、歩くのにも難儀するほどでした。
稲滝の姿が見える程度までは近づけたのですが、肉薄まではできません。少し、物足りない距離からの撮影しかできませんでした。

私は最後にもう一カ所。旧三江線の駅に寄りました。それは宇都井駅。島根県。邑南町にある駅です。
江平駅もギリギリ島根県に含まれていましたが、宇都井駅はより内陸に位置しています。
まさか、今回の旅で島根県に足を踏み入れるとは思っていなかった私は、はるばる島根県にまでやってきた感慨に浸りました。

この辺りで三江線は短絡するためでしょう、高架を走っています。
そのため、宇都井駅のプラットホームはかなりの高い位置にあります。ホームまでは百段ほどはあろうかと思える階段を登らなくてはなりません。
宇都井駅はそうしたアプローチからか、印象的な外観を持っていました。もし中国の駅百選が選定されていれば、きっと選ばれていたと思えるほど。

宇都井駅まで来る道中にも多くのサイクリストに遭遇しました。どうやら彼らのほとんどは、この宇都井駅を目指していたようです。
駅の周辺にもそうしたサイクリストが集っており、駅の周りは自転車の集散地となっていました。
私も彼らに混ざり、写真を撮りまくりました。近くの小川のせせらぎが心地よい音を立てていたのが印象に残っています。
宇都井駅で残念だったのは、廃駅になったため、プラットホームへの階段が閉じられていたことです。
今ではNPO法人江の川鉄道が時おりトロッコ列車を走らせており、その時だけはプラットホームまで上がれるようです。
駅の音や 雪解け水に 後託し
旧宇都井駅にて

こうやって閉じられた入口は、廃線の現実を見る者に突きつけているようです。
その現実は、この宇都井駅にも邑南町にも確実に影を落としているはず。
もっとも、三江線の廃止がこの地域にどのような影響を与えたのか、わたしにはよく分かりません。
ですが、一つだけ言えるのは、宇都井駅の遺構が地方の衰退の一つのモニュメントとなっていることです。私はこの地方のおかれた現実をしっかりと心に刻みました。

そんな私も今日、都会の親玉である東京に帰らなければなりません。
東京に帰るには、車で西宮まで戻り、さらに新幹線に向かう行程が待っています。
なぜ今日中に帰らなければならないのか。
それは、明日の朝から千葉の鋸山での登山が控えていたからです。

ひょっとしてこのスケジュール、かなりの無理があるのでは?
今更ながら、そんなことを思った私。13:30には宇都井駅に別れを告げ、三次市内まで車を走らせました。そして、14:30過ぎには三次インターチェンジから中国自動車道の流れに乗りました。
そこからは、休憩をせずに甲子園の実家まで。
確か、実家に着いたのは17:30頃だった気がします。

そして、そのタイミングで届いたのです。明日の鋸山への登山が雨天で中止になったという連絡が。
そうと知っていたら、もう少し島根や三次に止まっていられたものを。
その連絡をくださったのが、三次にルーツを持つ方だったというのも何かの暗合に思えます。
ですが、天候まではどうしようもありません。それもまた旅のつれづれなのだと諦めました。
そして、もう一泊実家に泊まらせてもらうことにしました。

翌日は若き日の私がお世話になった芦屋市役所を訪れ、今一度この目に原点である日々を思い返しました。それはとても有意義な時間でした。

また次回、笠岡、鞆の浦、福山、三次市、邑南町には機会を見つけてきたいと思います。この目が景色を愛でられるうちに。

この旅を通してご縁をいただいた皆様、本当にありがとうございました。


笠岡・鞆・kintone Café 広島@福山 2019/3/1


この旅を振り返るには、その前年の秋までさかのぼらなければなりません。
2018年の秋、kintone Café JAPAN 2018が日本橋のサイボウズ社で開催されました。それは、全国で活動するkintone Caféのリーダーが集まる場所。
その集まりに参加していたkintone Café 広島のリーダーである安藤さんに、来春は登壇します、と約束したのです。

約束した以上、果たすのは当然。
Messengerのやり取りによって決まった開催日が3/1でした。

前夜、新幹線で甲子園の実家に向かい、両親と鍋を囲んだ私。
翌朝、実家の車を借りて福山へ向かいました。
宝塚ICから中国自動車道と山陽自動車道を乗り継ぎ、一路西へと車を駆る私。今回は同乗者もおらず、車内には私ひとり。つまり、リハーサルには持ってこいです。夜に話す内容を何度も繰り返しフロントガラスに向けて語る私。多分、反対車線を走る超人的な動体視力のドライバーからは不気味に映ったことでしょう。

夜の登壇に向け、やる気に満ちた私。
とはいえ、高速道を降りたのは笠岡インターチェンジ。福山の一つ手前です。
なぜ、笠岡?
それはもう、私のいつものパターンが発動したからです。仕事で地方に行く際は必ず観光を組み込む。それは私の王道。
いったんkintoneのことは忘れ、笠岡を堪能したい!
そんな私が目指したのはカブトガニ博物館。

カブトガニ博物館は、まだ未訪問でした。なので前から一度は来たいと願っていました。何せ世界で唯一のカブトガニを取り上げた博物館ですから。
館内にはカブトガニの生態が観察できるよう、大小のカブトガニが多数、水槽で飼育されています。
この博物館では、生きる化石とも言われるカブトガニの生態や、なぜ笠岡にカブトガニが生息しているのかについての詳しい展示がされています。それらの展示はどれもが興味深く、知識として得がたいものです。なぜなら、カブトガニはあまり水族館でも見かけないからです。つまり、カブトガニの生きざまや萌えるポイントを知らずに生きてきたのです。

水槽の中でもあまり動かず、ジッとしている個体もいれば、雌雄のツガイが交尾中のまま、水槽に固定されたかのように動かない姿も食い入るようにみました。
何もかもがミステリアス。それでいて憎めない存在。
エイリアンのモデルになったのでは?と思わせるいかついフォルムを擁しているカブトガニに、萌えを感じる人はなかなかいないはず。
もし興味を持ったあなたは一度カブトガニ博物館に来てみることをお勧めします。

私の印象に強く残ったのは、カブトガニの血液から薬が作られていることです。
カブトガニの独特の青白い血からしか作れない薬があるらしく、それがここ笠岡で製薬会社と連携して作られているとか。
素晴らしいことです。それ以上に素晴らしいのは、青白い色の鮮烈さ。
カブトガニに対しては「おめえらの血は何色だァ」とすごんで見せても「青白ですが、何か?」と返し技を喰らうので気を付けなければ。

カブトガニ博物館には、養殖池やシアターや化石展示など見所に富んでいます。この博物館のためだけに笠岡に来る価値はあると思えました。そう言い切ってしまえるほど、全国でも唯一無二の存在なのです。
博物館の受付ではマンホールカードもいただきました。笠岡市のマンホールにはカブトガニがあしらわれていて、コレクターの琴線をくすぐってくれます。

博物館の外には大きめの公園が設えられ、そこには等身大と思われる巨大な恐竜の像が何体も展示されています。笠岡では恐竜も発掘されたらしく、館内にも化石が展示されていました。
私が訪れたとき、ちょうど幼稚園の園児たちが見学に来ていて、恐竜の周りでお弁当を食べていました。この中で何人が古生物学者になってくれることやら。楽しみです。


カブトガニ博物館の目の前に広がる海は、カブトガニの住処であることが納得できるほど凪いでいました。
この穏やかな海の光景は、笠岡を思い出すたびに脳裏に浮かぶことでしょう。

この海に 太古の奇跡 輝きぬ
笠岡市立カブトガニ博物館にて

私がまだ知らずにいた笠岡の魅力。
そうした出会いに恵まれる経験こそが、旅の妙味です。

他にも笠岡の魅力はあるはず、と駅前のラーメン店を探したのですが、あいにく車を停めるスペースが見つからず。
海辺の隠れ家のような場所にあるうどん屋も訪れてみましたが、そこも あいにくの閉店日でした。天は私に笠岡の食い物をお預け遊ばしやがる。

ところが私に、天は笠岡ラーメンを賜ってくださったのです。
それは広大な干拓地の中にある道の駅ベイファーム笠岡まで足を伸ばしたときの事。
せめてそこで軽く食事だけでも、と思った私に笠岡ラーメンの写真が。醤油ベースのそれをつるりと。ご馳走さまです。
時間が遅くなったので、惣菜ビュッフェまで用意されていたのですが、さすがにそれは我慢しました。
道の駅に売られている農産物はどれもがとても美味しそう。この地の豊かさを感じます。

何しろ、あたりは広大です。干拓によって生まれたとされる道の駅周辺は、広大な農地。この広がりから、豊穣な産物が生産される。まさにこれは笠岡のランドスケープ。
海と干拓地の平らで広やかな様子は、私の記憶に笠岡の魅力として残り続けるはずです。

続いて私が向かったのは鞆の浦。
私はかつて、福山には来たことがあります。だが、その時には鞆の浦は訪れませんでした。その時の私が訪れたのは、ホロコースト記念館。その話はまた別に。

さて、私の期待を裏切らぬように、鞆の浦は、風情と歴史を全力で私の眼前で表現してくれていました。
古来より風待ちの港町として栄えてきた伝統。それは、道の狭さにもあらわれています。車を止める場所を見つけられず私に鞆の街を二周もさせてしまうほど。

結局、停める場所が見つからず、観光案内所に車を停めさせてもらいました。最初は観光案内所にも一瞬だけ停めさせてもらうつもりだったのです。
ところが、少し街に足を踏み入れた私は出会ってしまったのです。保命酒の店舗に。
風情のある建物に掲げられる保命酒の看板。それが数軒連なり、通りを構成している。私はそのたたずまいにすっかり魅了されてしまいました。

保命酒の知識など全く持たぬまま、鞆の浦に迷い込んだ私。予期せぬ酒蔵の出現にすっかり上機嫌となり、鞆の浦から去り難くなってしまいました。
入江豊三郎本店の店舗に入り、店員さんにあれこれ質問させてもらい、製法の資料などを興味深く拝見しました。
養命酒とほぼ製法は同じらしいのですが、鞆の浦の賑わいとともに、全国的な知名度も落としてしまったとか。
惜しい。一介の飲んべえに過ぎないただの風来坊の私ですが、保命酒はもっと知ってもらいたい、と思える存在でした。
私も一本、入江豊三郎商店の一リットル瓶を、両親のために買い求めました。

保命酒によって鞆への興味がむくむくと湧いた私。
続いて向かったのは、鞆城跡。
天守は現存しませんが、天守の代わりに歴史博物館が鞆の街を見守っています。
天守台から見下ろす鞆の街、そして瀬戸内海。まさに絶景です。早春の瀬戸内海の景色とはこのようなものか、と悦にいる私。

ちなみにこの時の私は、鞆の浦がモデルとなったといわれる「崖の上のポニョ」は確かに意識していましたが、それほどの感慨は持ちませんでした。鞆城址からのアングルがポニョのしんに思い当たらなかったからかもしれません。
そもそも街もあまりポニョのことは表に出していない様子。
それはそうでしょう。これだけの観光資産を抱えていればポニョに頼らなくとも十分なはず。
ポニョの海 なだらかに春 歌いけり
鞆の浦にて

ますます鞆の浦に興味を抱いた私は、夜のkintone Caféのことなどすっかり忘れ、せっかくなので鞆の浦をさらに見て歩きたくなりました。
まず観光案内所に一度戻り、きちんとお店の人に話しをしてお金を支払い
、ついでに私向けに四蔵の製品がそれぞれミニボトルになったお土産を購入しまして。

再び街を巡り始めた私が訪れたのは、常夜燈のある海辺です。この日は観光客も多かったのですが、地元の中学生がボランティアガイドをしている姿に打たれました。数人ではなく、20人以上はガイドがいたでしょうか。積極的に声を掛けてくるのです。
私も声を掛けてくれた男子に太田家住宅や七卿落ちの史跡の由来を教わりました。なんだか胸がほっこりしました。

常夜燈のたもとにいた地元の古老らしき方は、ガイドさんの説明に納得がいかないらしく、文句を垂れていました。
わたしもその古老には常夜燈の由来をいろいろと教わりました。が、古老もいつの日か、ガイドできる体力がなくなるはず。
だからこそ中学生がガイドを行うことが重要なのです。
彼ら彼女らの存在がどれだけ観光客には爽やかに映るか。そして将来、地元への愛着をどれだけ養ってくれるか。
私にとって、鞆の浦の思い出の一つがこのガイドさんたちとの出会いでした。

常夜燈の側にはいろは丸展示館があり、そこは中に入って見学しました。坂本龍馬が乗っていて、紀伊藩の明光丸と衝突して沈んだあの船です。

私は最後に、坂本龍馬が隠れて住んでいたという桝屋清右衛門宅の隠れ部屋を見学しました。
鞆の浦とは、さほど広くない街の至る所にこうした歴史の面影を宿す場所があります。歴史が好きな人にとって、鞆には何日滞在しても飽きないことでしょう。
「竜馬がゆく」の世界がこうして今も残されていることに、粛然とした思いがよぎります。
室町、安土桃山時代、江戸時代、幕末と歴史の年輪が刻まれた鞆の浦の魅力は一度だけの訪問では到底味わい切れるものではないのでしょう。

わたしにとって見るべきところはまだまだあり、安国寺や平賀源内生祠など行けなかった場所からはいまだに後ろ髪を引っ張られ続けています。
ですが、そろそろ福山に向かわなければ。何のために福山にきたのか忘れそうになってしまいます。

私が福山でとったのはアンカーホテル。福山城の近くです。
シャワーを浴び、登壇内容の最後の確認をしていると、私と同じく遠方からkintone Café広島に来られた久米さんからご連絡があり、一緒にタクシーで会場に向かいました。
その後のkintone Café広島の詳細は、

kintone Café 広島 vol.12 @福山に登壇しました


に記しており、本項では割愛します。

とにかく、とても充実した一日でした。この旅でお会いした皆様、ありがとうございました。