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ジーヴズの事件簿 才知縦横の巻


本書は妻がはまっていた。面白そうなので私も貸してもらった。
実際、とても面白かった。

私は無知なことに、本書の主人公ジーヴズや著者の存在を知らなかった。かつてイギリスの推理小説はいろいろと読んだが、その時もジーヴズのことは知らずにいた。
私の知らない面白い本は無数に世の中にある、ということだろう。

本書は完全無欠の執事ジーヴズが、快刀乱麻を断つがごとく、さまざまな事件の謎を解いていくのがパターンだ。
軽快にしてスマート。すいすいと読めてしまう。
かつて、英語圏の諸国でジーヴズのシリーズは好評を博し、著者やジーヴズも良く知られていたという。
紳士淑女が就寝の前、読む友として最適だったのだろう。
ジーヴズのシリーズはわが国でも国書刊行会から出版されているし、本書のように改めて編まれて文庫に収められている。
一世紀近く前の外国のユーモア小説など、無数に出版物があふれる今、忘れられてもおかしくない。それなのに、本書は今もこうして手に取ることができる。
そうした人気のほども本書を読むとわかる。とにかくわかりやすく、面白く、後味も爽やかなのだ。

本書を読むと、妻が以前にはまっていた漫画『黒執事』を思い出す。とはいえ、『黒執事』と似ているのは執事が完璧ということだけ。
ジーヴズは『黒執事』に出てくるセバスチャンのように超常能力を持つ執事ではない。
ジーヴズはあくまでも普通の人間である。いたって慇懃で、そつなく物事を処理できる。頼りない主のウースター・バーティからの頼みもあっという間にこなしてしまう。
しかも、ただ従順というだけではない。
主のバーティの頼みをすげなく断ったり、無視したりもする。そうしたジーヴズの取った措置が回りまわってバーティにとって有利な結果となる。そんなジーヴズにほれ込んで、バーティはますます頼ってしまう。
そんな執事ジーヴズが、身の回りのあれこれの難事をスマートに処理する様子は読んでいて気持ちが良い。さらにバーティとジーヴズのやりとりもとても洗練されている。そうしたユーモア精神にあふれていることが本書の読みやすさの肝だろう。

また、本書にはむごい描写も残忍な心の持ち主も出てこない。
そのかわりにあふれているのはユーモアだ。本書の語り口やユーモアは本書の魅力として真っ先にあげられる。
著者はそもそもユーモア小説の大家として名高いというが、本書を読んでそれを納得した。

本書は20世紀初頭に出された多くのジーヴズの短編を選りすぐっているという。

時代が時代だけに、本書の舞台や登場する小道具も古めかしいはず。だが、本書からはあまりそうした古さを感じない。
この時代だから当然、現代で慣れ親しんだ事物は登場しない。旅をする際はせいぜい鉄道だ。ジェット機は登場しない。ましてや携帯もスマホも登場しない。
それなのに、本書から古さを感じない。それはなぜだろう。

まず一つは当時の最先端のファッションや道具を強調していないことが理由としてあげられる。当時の最先端は現代では骨董。
だから、当時の最先端の品々を登場させることはかえって後世では逆効果になる。それを著者や編者は承知しているのだろう。

もう一つは、本書がユーモア小説ということだ。つまり人間の弱さや滑稽さを描いている。
そうした人間の心は百年、二百年たとうが変わらない。
本書はそうした人間のユーモアを描いているから古びないのだと思う。

一方で、本書のバーティとジーヴズの関係のように、主と執事という関係自体がすでに時代遅れではないかという懸念もある。
だが、執事という職業になじみのないわが国でも執事のような職業はあまたの作品で見慣れている。
前述した『黒執事』もそうだ。また、第二次大戦前の華族や富豪を描いたわが国の作品にはかならず使用人が登場する。
今でこそ、使用人やお手伝いさんといった職業はあまり見かけない。とはいえ、秘書や運転手など、執事を思わせる職についている方は多い。
そうした職業が今でも健在である以上、本書のバーティとジーヴズの関係もあながち不自然には思えない。それが本書やジーヴズの一連のシリーズに古さが感じられない理由ではないかと思う。

また、バーティとジーヴズの関係も本書をユーモア小説と思わせる魅力を発している。
ジーヴズに家事や身の回りの世話を任せきりのバーティだが、居丈高にならず、ジーヴズへの讃嘆を惜しまない。まず、そのように描かれるバーティの性格に好感が持てる。主なのに威厳などどこかにうっちゃったバーティだからこそ、私たちも共感を覚えやすい。
そのバーティから頼りにされるジーヴズも、完璧な立ち居振る舞いをそつなくこなす。主のバーティにいうべきことはいうが、執事としての節度をわきまえ、慇懃に応対する。
その落差が本書のユーモアの源だろう。

本書は七編の短編からなっている。
どの編も短い。その中でジーヴズとバーティのほほえましい主従関係が簡潔に描かれ、さらにその中では謎や事件が起こり、さらにそれがジーヴズの才知縦横の活躍によって軽やかに解決される。それらが気軽に読めるのは、本書の入門編としての良い点だろう。
編者もそれを狙って本書を編んだものと思われる。

本稿では各編について、あまり詳しいことは書かない。だが、引き続きこの二人の活躍する物語を読みたい、という気にさせられるのは間違いない。

著者の生み出したジーヴズものが英語圏でとても親しまれている様子は、本書の末尾に英国ウッドハウズ協会機関紙『ウースター・ソース』編集長の方が寄稿された内容からも明らかだ。
「ご同輩、あなたはついていらっしゃる」とはその冒頭に掲げられた文だが、ジーヴズの口調を借りたと思われるこの文章からは、著者の作品群にこれから初めて触れることのできる読者へのうらやましさすら感じられる。

ジーヴズものは長編も含めてまだまだあるらしい。私も機会があれば読んでいきたいと思う。

‘2019/12/1-2019/12/2


NPOが自立する日―行政の下請け化に未来はない


本書もまた、私がNPO設立を模索する中で読んだ一冊。題名から読み取れるようにNPOの現状を憂い、警鐘を鳴らしている。

ドラッカーと云えば、「もしドラ」を通じて今の日本にも知られている。いうまでもなく、ドラッカーは、「もしドラ」の前から経営学では有名な方である。経営学だけに飽き足らずNPOにも関心を高くもち、関連著書も出している。著者はそのドラッカーに薫陶を受けたという。そのため著者は米国のNPO事情にも明るいのだろう。本書は米国のNPO事情の紹介にもページが割かれている。

そして著者は、日本のNPOに違和感を覚えるという。単にNPO先進国である米国のNPO事情と比べて日本のそれが遅れている、というだけではなさそうだ。「はじめに」ではその違和感について書かれている。その違和感がどこに向かっているかというと、どうやら日本のNPO運営者に対してであるらしい。行政から委託を受ける際の単価の安さ、について不満をこぼすNPO運営者。これが著者の目には違和感として映るようだ。行政から委託を受ける際の単価だけにNPO運営の焦点を当てているように見えるNPO運営者に対する違和感、というわけだ。つまり違和感とは、行政に依存することが目的化してしまっているNPOに対するものであり、それによって脆くも崩れてしまうひ弱なNPOのガバナンスに対してのものであるようだ。

2005年にドラッカーが亡くなった後、著者はNPO研究に改めて着手したとのことだ。着手するにつけ、改めてNPOが行政の下請け組織と化している現実を目の当たりにし、NPOの将来を憂えた。憂えただけでなく、本書を上梓してNPOの今後に警鐘を鳴らすことを意図した。「はじめに」にはそういった内容が書かれている。

だが、著者はNPOに反対の立場ではない。それどころか、日本にNPOが根付く切掛けとなった阪神・淡路大震災のボランティアの実態も見聞きし、その可能性を感じていたようだ。しかし、冒頭に書いたように、著者の期待は違和感へと変わる。前向きなのに後ろ向きに見える我が国のNPO事情が歯がゆい。著者はいう。NPOは自発的な公の担い手になり得るかが問われている。行政からの委託やアウトソーシングに甘んずること勿れ、と。

著者は教授職、つまりは研究者としての立場で本書を書いている。その立場からの目線で、NPOの下請け化がなぜ起こったのかを詳細に分析する。

指定管理者制度や市民協働条例など、行政からの委託の機会は増す一方のNPO。日本には寄付文化が定着していないこともあって、NPOの収入源は行政からのものになりがちだという。行政といえば、予算と支出のサイクルがきっちりしているので、NPO側にも定額収入が期待できるのだろう。さらには行政の指定業者となることでお墨付きを得られると感じることも多いのだろう。

また、我が国では下手に無償でのボランティアが広まっていたことも問題だろう。そのため、ボランティアなのだから幾ばくかの収入が入るだけでよし、としてしまう収入確保の意識が希薄なことも指摘されている。

さらに、本書で一番印象に残ったのは、NPOと行政のボタンの掛け違いである。つまり、NPOが思っているほど、行政はNPOをプロだと見なしていないということである。これは実際のアンケート結果が本書で提示されていた。そのデータによると実際に上記に書かれたような傾向があるらしい。行政はNPOに自立した組織を求めるが、実際は行政が携わる以上に成果を挙げることのできたNPOが少ないことを意味するのだろう。そこに、NPOが行政の下請けになりうる大きな原因があると著者はいう。

あと、本書では米国だけでなく英国における行政とNPOの関係に紙数を割いている。サッチャー政権からブレア政権に変わったことで、英国の経済政策に変化があったことはよく知られている。その変化はNPOにも及んだ。行政側がコンパクトという協定書を作成し、NPOとの間のパートナーシップのあり方を示したのがそれだ。サッチャー政府から「公共サービスのエージェント」とされたNPOが、ブレア政権では「社会における主要構成員の一つ」として見なされるに至った。コンパクトは政府がNPOに対して求める役割変化の一環であり、NPOを下請け業者ではなく主体的な存在として扱っている。なお、コンパクトの中では実施倫理基準、資金提供基準、ボランティア基準についての各種基準が準備されているそうだ。つまり、行政側も自らが発注するNPOへの契約内容にNPOを下請け業者化させる条項を含めない、それによって行政の下請け化が回りまわって行政の首をしめないように予防線を張っている。それがコンパクトの主眼といえる。

コンパクトに代表される英国政府のNPOに対する取り組みを読むと、日本政府のNPOに対する取り組みにはまだまだ工夫の余地があるのではと思える。

ここで著者は、NPOが下請け化に陥る原因を、NPOの資金の流れと法制度から分析する。特に前者は、私がNPO設立を時期尚早と判断する大きな要因となった。原則繰り越しや積み立てのしにくいNPOは、上手に運営しないとすぐに自転車操業、又は下請け化の道まっしぐらとなる。私自身、自分が運営するNPOがそうなってしまう可能性についてまざまざと想像することができた。つまり、私自身のNPO設立への想いに引導を渡したのが本章であるといえる。後者の法制度にしたところで、経営視点の基準がないため、下請け化を防ぐための有効な手立てとなっていないようだ。NPO関連法は我が国では順次整備されつつあり、NPO運営規制も緩和に向かっているという。英国風コンパクトに影響を受けた行政とNPOの関係見直しも着手されているという。しかし、著者は同時に法整備の対象に経営視点が欠落していることも危惧している。

資金やサービスの流れについては、公益法人法が改正されたことを受け、NPOとの差異が図に表されている。政府、税、資金調達、運営を四角の各頂点とし、その図を使って公益法人と一般企業、NPO企業との仕組みの違いを説明する。

最後の二章は、自立したNPOのための著者の提唱が披露される場だ。上にも書いた通り、問題点は明確になりつつある。果たしてここで披露される提唱が有効な処方箋となりうるか。処方箋の一つは、NPOは、公的資金と会費、寄付、サービス対価収入などの民間資金のバランスについての明確な基準を持つ必要があること。また、行政にはNPOへの理解が欠かせず、自立した組織になることを念頭にした対応が求められること。この二つの処方箋が示される。

その処方箋の前提として、著者はドラッカーのマネジメントに読者の注意を戻す。ドラッカーは顧客を重視した。行政や税制がどうこうするよりも、NPOのサービスを求めるのが顧客である以上、顧客に回帰すべきというのが結論となる。

ドラッカーの設問一 「われわれの使命はなにか」
ドラッカーの設問二 「われわれの顧客は誰か」
ドラッカーの設問三 「顧客は何を価値あるものと考えているのか」
ドラッカーの設問四 「われわれの成果は何か」
ドラッカーの設問五 「われわれの計画は何か」

当たり前といえば当たり前で、企業経営にとってみれば常識である。しかし、顧客重視がしたくても出来にくいのがNPO経営といえる。企業の評価手法や利益設定を単に当てはめただけでうまくいくほどNPO経営は一筋縄では行かない。顧客重視だけではうまくいかないNPO経営の難しさは、検討するにつれますます私の能力に余ることを実感した。その対案として、著者は英国政府とNPOのあいだで締結されているコンパクトの評価部分を我が国でも採用することを提案する。さらに、我が国においてはNPOの内容説明や開示にまだ工夫の余地があると指摘する。

最終章では、まとめとして、公からの資金割合が高い現状を是正し、民間からの資金割合を高めることを提言する。

結局は、私企業と変わらずにサービス収入を増やすしかないということだろう。

ここに至り、私はNPOとしての独自サービスをITの分野で行うことが時期尚早との判断を下した。当初は営利企業を設立し、その範疇で業務を行うことが適当だという結論に。残念ながら、今の技術者の単価は私も含めて高い。クラウドでかなり工数削減が可能になったとはいえ、NPOの単価は、営利企業で相場とされる技術者単価に釣り合わない。NPO現場の要望にあったカスタマイズを考えると、NPOに技術者をフルに関与させることは難しいと云わざるを得ない。

しかし、クラウドの変化は著しい。まずは一年、法人化してからクラウドの様子を見ることにした。技術者に頼らずクラウドを駆使することで、必要とされる現場へIT技術を導入することができる日もそう遠くないだろう。そのことを見極めた後、改めてNPO再チャレンジへの道を考えたいと思った。

‘2015/02/27-2015/03/05


ギッシング短編集


19世紀に書かれた小説を読むと、ぎこちない場面転換や心理描写に戸惑うことが多い。現代の我々は、洗練された語りに恵まれて過ぎていて、19世紀の小説が回りくどく思えるのは仕方のないことかもしれない。偉大なるディケンズの長編小説であっても、冗長な記述に読む気を失うこともしばしばある。

著者は、その時期の英国で名を馳せた作家である。短編集である本書で初めて著者の名と作品に触れることができた。本書の語りは簡潔であり、冗長とは無縁の素朴な味わいである。名品そろいの短編集といってもよいだろう。

著者が活躍したのはビクトリア女王の治下、繁栄を極めた大英帝国の絶頂期。その繁栄の下で、貧民や中産階級の庶民が多数いたことは良く知られている。本書に登場するのは中産階級の人々。彼らが主役となる物語が多くを占める。彼らは慎ましく、素朴で質素でいて愚か。それでいて、絶対王政の軛から逃れた近代市民としての自己意識を持ち、産業革命のもたらした繁栄に浮かされている。本書では時代に翻弄され、自分の人生を生きようと努力する人々の姿が各短編に活写され、当時の時代感が良く読み取れる。

とくに冒頭の「境遇の犠牲者」は、その時代感が良く読み取れた一編として、強い印象を受けた。プライドの高く絵に才能のない絵描きと、腰が低く絵の才に溢れた細君の話。ある日夫婦のアトリエにやって来た高名な画家が持ち帰った絵が画壇で評判を呼び、売れっ子となるのだが、その絵は亭主の筆ではなく、細君の手習いの絵。以降、評判になるのは細君の絵だけで、それを亭主の絵として売り続ける。プライドゆえにその事実を認めない亭主と、実直に絵を描いては亭主の手柄にし続ける細君。やがて細君はそのプレッシャーから筆を折り、亭主のために尽くす人生を選ぶ。細君が世を去り、絵の先生として余生を送る亭主は、私は生活のために絵描きの道を諦めた「境遇の犠牲者」だ、と独白する。

まだ男女同権の風潮芽吹く前の、自己意識だけが高い哀れな男と自己の価値に気付かず男に尽くすだけの女の生涯が素朴な筆致で描かれている。

他にも本書には「ルーとリズ」「詩人の旅行かばん」「治安判事と浮浪者」「塔の明かり」「くすり指」「バンブルビー」「クリストファーソン」といった諸編が並べられているが、いずれも近代の自己意識に目覚め始めた人々の挿話である。本書には日々の糧のためだけに生きる人々は登場しない。本書に登場するのは、ようやく自分の余暇を持てる時代にあって、その余暇を持て余す人々である。彼らは余暇とどう付き合えばよいか分からず、実直な生活に回帰したり、人生に迷ったりする。素朴だった人々が余暇を得て、それを持て余す時代の転換期の雰囲気が良く出ている。

本書の語りは素朴である。素朴であるがゆえに、物事の本質をつかんでいるといえる。それはIT化の進んだ現代の我々が、生きることに対する不安の本質でもある。この時代の人々が余暇を得て持て余したように、ITによって便利になる一方の日々の営みの中、自分の存在意義を持て余すことにも通じる。19世紀の作とはいえ、読み方によっては今の我々にも得るところが多いのが本書だと思う。19世紀の著名な作家だけでなく、本書のように埋もれつつある諸作の中にも忘れ去るには惜しい本がある。そんなことを思った。

‘2014/10/22-10/24


夜愁〈下〉


承前として、上巻から続く1944の章で本署は始まる。これから読まれる方の興を削いでしまうので、登場人物たちの動向については書かない。が、本章で起こる様々な出来事は、運命や時代に左右される人々について、心に訴えかけるものがある。戦争という緊迫した状況下では、人は普段被る仮面を剥がされ、うろたえ、醜い姿もエゴもさらけ出す。空襲に怯えるロンドンで、爆撃された廃墟の傍で、V2が飛来する恐れの中、人々は生きる。

人が懸命に、も生きようとする本章には、色々と心に残る場面が登場する。空襲のさなかにどうしようもなく惹かれあうレズビアン。爆撃が迫る中、牢獄に閉じ込められた子供たち。爆撃された街で、堕胎によって瀕死となる女性。わが日本でも空襲体験やそれを描いた小説も多々あれど、本書の空襲描写は、ことさら印象に残る。おそらくは私を捨てて救護活動に没頭する消防士の視線からみた空襲描写が多いからであろうか。

1944の章の描写を通し、1947の章に登場した人々の過去に何があったのか、読者は理解する。1947の登場人物達に共通する空虚さの中に、嵐の中を潜り抜けてきた人々の反動を観る。

最後に1941年。

普通の小説ならば、プロローグとして書かれる内容の本章だが、本書は末尾の章として置かれている。1944年の大戦を懸命に生きる登場人物達。彼らがどうして大戦の混乱を、それぞれの立場で身を置くようになったのか。本章ではそれが書かれる。

繰り返すが、本章の内容は登場人物たちの紹介であり、本来ならばプロローグとして物語の前提を説明するものである。

上巻のレビューの最初に、本書を読んだことを3年半しか経っていないのに忘れたと書いた。なぜ忘れたかについては、すでに上に書いてきた通りである。つまり、文章の構成順と物語の時間軸の順序が逆だからであり、本来ならプロローグにあたる部分が最後に来ているためである。物語の時間軸に沿えば、最後に置かれるべきシーンが冒頭の1947の章に配されている。そのため、従来の小説の読み方では読後感が混乱してしまうのである。特に、斜め読みに読んでしまうと、全く記憶に残らないということになってしまう。おそらくは3年半前の私は、そのような読み方をしてしまったのだろう。言い訳をするようだが、丁度この時は、私的に衝撃的な出来事があり、本書に集中できていなかったのかもしれない。

だが、今回は前回の失態を取り返せたのではないかと思う。本書の凄さと意図が把握を実感することができたように思う。

1941の章の最期は、廃墟の中から救い出された少女の美しさに、消防士が感動する場面で終わる。
1944の章の最期は、空襲に死んだと思った恋人が見つかり、消防士がそのことを友人に告げる場面で終わる。その恋人が友人と情を通じあっているとも知らずに。
1947の章の最期は、ロンドンをさまよい、ロンドンの静けさを、うつろに見る元消防士の視線で幕を閉じる。元消防士のケイの視線で。

本書はレズビアンという愛の形を、時代に翻弄された無残な愛の終わり方で描いたものである。その無残な愛の形を描くためには、時間軸では無残に、文章構成では感動で終わらせる必要があったのだと思う。本書のラストが、感動で終われば終わるほど、その愛が無残に終わる結末を知る読者には、なおさら虚しく響いてしまう。そんな効果を狙っての、本章の構成だとすれば、その効果は確かに上がっているといえる。

’14/07/02-‘14/07/08


夜愁〈上〉


実は本書を読むのは二度目である。3年半前に一度読み終えている。本好きで、様々な本を読んできた私だが、再読する本はそれほどあるわけではない。どれだけ面白い本を読もうが、同じ本をもう一度読むよりは、別の本に手を伸ばす。それが私の読書スタイルである。

本書はわずか3年半の間を経て再読することになった。本書がそれだけ再読に耐えうる内容か、と問われるとそうとばかりは云えない。では、なぜ再読したか。それは、単に私が前に読んだ内容を忘れてしまっていたからである。読み始めて数十ページでようやくそれに気が付いた。3年半しか経っていないのに、内容を忘れてしまう本書。本書が読むに堪えない内容かというと、違う。むしろ素晴らしい内容であることを、再読によって再確認させられた。本書で描かれている作品世界は、実に濃密で素晴らしい。では、私がなぜ内容を忘れてしまったのか。そのことについて、本書の素晴らしさと合わせて、上下巻の本レビューを通じて記そうと思う。

本書の舞台は第二次大戦中の英国ロンドンである。大戦下の各都市に違わず、ロンドンもまた、様々な戦争の荒波に晒された都市である。きな臭い欧州情勢に怯える開戦前夜。V2ロケットの空襲に脅かされた開戦中。勝利するも、第二次大戦中勝利者の主役の座をアメリカに奪われた空虚感の漂う終戦後。第二次大戦中の写真集を観ても、ロンドンを被写体とした写真は、空襲に備えたガスマスクを被った人物や、空襲に被災した建物など、陰鬱とした対象が採り上げられている。

本書は、文庫本で上下2巻に別れているが、その中で3章に分かたれている。1947、1944、1941という順番の3章に。これは云うまでもなく、西暦の年数を示している。すなわち、終戦後の1947、大戦末期の1944、大戦開始直後の1941。本書の最大の特徴は、この3章の順番にある。

まず、1947年。

大戦に勝利したものの、勝利の立役者であるチャーチルは失脚し、インドをはじめとした海外の植民地も独立の動きを強める。勝者の高揚感もなく、没落の予感に震える大英帝国。衰退の道を辿るロンドンの匂いが、本章の行間のあちこちから立ち上っている。屋根裏部屋に逼塞するケイ。37歳の彼女は、男に見間違えられる格好で、世捨て人のような暮らしを過ごす。彼女の過去に何があったのか。ヘレンとジュリア。レズビアンの関係である彼女たちは、ヘレンの嫉妬からくる倦怠期の兆候を迎えている。彼女たちはどうやって出会ったのか。ヘレンと共に働くヴィヴ。新しい時代の働く女性である彼女には、探し求めている女性がいる。それは誰で、なぜ探し求める必要があるのか。恋人のレジーとは不倫の関係を続けている。真面目に働く技師であるダンカン。ヴィヴの弟であり、まだ若いのにマンディ氏という老人と生活を共にし、沈滞しきった毎日に苛立ち始めている。偶然にも仕事場でばったり、過去の友人であるフレイザーに出会い、若者らしい振る舞いを思い出したかのように街にでる。マンディ氏とはなぜ同居することになり、フレイザーとはどんな過去を共有したのか。

本章の終わりで、何かが劇的に変わることはない。何かが解決することもない。しいて言えば、ヴィヴが探していたケイに巡り合い、過去に託された品物を渡せたのみである。ダンカンはマンディ氏との時間から逃れようと飛び出し、ヘレンは嫉妬の余りに自殺を図り、ジュリアとの仲は倦怠から醒めない。

ロンドンは、大戦後の溌剌とした勝者気分を取り戻す訳でもなく、ぼんやりとした時間を過ごしていく。登場人物たちのその後は、ロンドンの霧のように、杳として見えない。

続いて1944年。

V2ロケットの襲来と、バトル・オブ・ブリテンの興奮が街を活気で覆っている。至る所に空襲があり、家屋が爆撃され、人々は斃れ、泣き崩れ、泣く間もないほどの救助活動に忙殺される。

1947の章にでてきた登場人物たちの境遇は大きく違っている。まだ読んでいない方のために、詳細は書かないが、1947のそれぞれの過去が、戦争という非常時の中、細やかに、鮮やかに描かれる。

上巻は、1944の章の途中で一旦幕を閉じる。戦争に翻弄される、人々のその後が、どうなるかに気を持たせつつ。

’14/06/25-‘14/07/02


THE KINGDOM


昨年、家族+2名の友人を連れて観劇したのが、宝塚歌劇 月組の『ルパン -ARSENE LUPIN-』。本作はそのスピンオフ作品であり、ルパンで舞台となった時代をさらに遡り、ルパンの中で重要な脇役である2人の男を主役に据えた物語である。

主役は2人。凪七 瑠美扮するドナルド・ドースンと、美弥 るりか扮するパーシバル・ヘアフォール伯爵である。ルパンではヒロインであるカーラ・ド・レルヌを巡る4銃士のうちの2人として、同じ配役で20年後の時代を演じていた二人。今回はその若かりし日々の二人の出会いと、二人が協力して国際的な陰謀を防ぐための奮闘が描かれる。

もう少し粗筋を書くと、英国王ジョージⅤ世の戴冠のタイミングで、ロシアのボルシェビキが勢力を伸ばし、ロマノフ王朝のニコライⅡ世の亡命が現実の問題として迫る時代が舞台である。兄の急死によってヘアフォール伯爵家を継ぐことになったパーシバルは、ロマノフ家とイギリス王家との橋渡し役としての使命を死の床の兄から託される。また、長じてイギリス情報部員となったドナルド・ドースンは、ロシアからの亡命政治犯が活動を活発化させる中、イギリス王制への陰謀の種を見つける。二人は協力し、英国を陰謀の渦から救うため奔走する。だが、ロシアからの活動家の運動は扇動されたものであり、実は背後には戴冠式に使うダイヤ「カリナン一世」を盗み出すためのルパンの策略があった・・・・。

今回の公演は上にも挙げたとおり二人をトップに立てた公演である。今後の月組を担う二人を競わせ、成長させるために用意されたように思えた。ダブルスター制の公演であり、トップに対してのようなオンリーワンの演出こそないが、二人を表に立たせ、良さを際立たせるような演出が随所に感じられた。或いは本作の反応によっては今後の月組のトップ人事にも影響を及ぼすのかもしれない。

私はそれほどトップ人事に関心はない。が、妻子が宝塚好きであるため、オフィシャルな情報や雑談レベルの憶測をあれこれと吹き込まれている。そんな立場なので、二人のこれからをどうこういう知識も資格もないのは承知で、敢えて本作の感想を込めて書いてみることとする。

宝塚は周知の通り、出演者全員が女で、その約半分が男を演ずるという世界的にも稀有な劇団である。そんな中、男役としてのトップに立つにはダンス・歌・演技はもちろんの事、立ち居振る舞いも男らしさが求められる。トップともなれば、広い劇場の客席に「男」としての魅力を遍く行き渡らせる必要がある。遠い客席の隅からその男っぷりを感じるとすれば、それはどこに対してだろうか。私が思うに、それは声ではないかと思う。遠い客席から舞台上の人物を感じるに、視力やオペラグラスでは心もとない。しかし声ならば隅々まで届く。

凪七 瑠美はパンフレットでもクレジットでもトップに配されている。が、男役としては苦しそうな低声の発声が耳に残った。無理やり男性ボイスを絞り出しているような、「男」を苦しそうに演じているような声からは、男役としての迫力が感じられない。また、舞台上のシルエットにも押し出しの強さが感じられず、トップとしてのオーラに欠けているように思えたのは私だけだろうか。

一方、美弥 るりかは声の低音部にも張りがあり、押し出しも堂々たるものがあるように思えた。もっともこの感想は、私のような素人がたかだか2公演観ただけで判断したものである。上にも書いた通り、私がどうこういう話では無論ない。私は、引き続き妻子からのピーチク情報を頼りとし、今後を見守りたいと思う。

主演の二人以外のメンバーについては、副組長以外は、比較的若手のメンバーで構成されていたように思える。劇中でも4,5回ほど台詞のトチリがあった。千秋楽の前日でこれはどういったことだろう、と苦言を少々申したい。

が、そういった些細な生徒さんのミスは差し引いても、本作のストーリーは良いものがあったと思う。ルパンは今一つ登場人物の関係にメリハリがなく、少々わかりにくいものであったが、今作ではそれが改善されていたように思える。ストーリーが整理されていたため、筋の進み方にも起承転結があったと評価したい。

一方で、スピンオフ作品と銘打ってしまっていたためか、演出上の端々に物語のエピローグであるルパンが意識されていたことも否めない。そのため、ルパンを観ていない観客にとっては少々わかりにくい部分もあったと思われる。ただ、ルパンのストーリーで分かりにくかった部分が本作で説明されたことで、本作を観て改めてルパンを観たいと思ったのは私だけではないだろう。

2014/7/27 開演 15:00~
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/388/