Articles tagged with:

男役


妻に勧められて読んだ本書。意外なことにとても感動させられた。
それは、私にとって大きな驚きだった。これだから読書はやめられない。本書から意外な喜びが得られたことに満足している。

意外だと書いたのには理由がある。
それは、今の私がタカラヅカに対して嫌悪感に近い感情を抱いているからだ。
著者の作品を今まで読んだことがなかったことと、本書について何も知識が何もないままに読み始めたことを除いても、本書から受けた感動は予想外だった。
私のようにタカラヅカに対して嫌悪をもつような人がいれば、本書はお勧めしたいと思う。
本書は「歌劇」「宝塚おとめ」や「タカラヅカ・スカイ・ステージ」よりもよっぽどタカラヅカの魅力を伝えている。

なぜ私が嫌悪感を抱いているのか。それは妻がもう長いことタカラヅカのジェンヌさんのファンクラブ代表を務めているからだ。
本稿をアップした今も、妻は一カ月以上にわたる東京公演のため、朝から夜まで忙殺されている。歯医者の仕事は週に一度がせいぜい。家事も歯科医の仕事も差し置いて、無償の代表の仕事に人生の貴重な時間を捧げている。

代表の仕事について、私が抱いた嫌悪感については、
なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか
宝塚ファンの社会学
のレビューの中に書いたから本稿では詳しく繰り返さない。
ここまでの嫌悪を抱いたのは、表だっては私的なファンの集まりだから関与しないとの建前を謳いながら、裏では運営側の都合をファンクラブ側にまかり通そうとする劇団の姿勢に憤りを感じているからだ。

もちろん代表の仕事によって家庭に大きな負担がかかっていることは言うまでもない。代表である妻や娘たち、もちろん私にも。
一つだけ言えるとしたら、ファンクラブ代表になるなら、結婚や仕事での昇進は諦めた方がいい、ということだ。

一方で、嫌悪感を抜きに考えると、感心することもある。
それは無償で働く代表や多くのスタッフの存在だ。これは経営者として感心する。
代表やスタッフが担うのは、ジェンヌさんのマネジメント業務だ。表向きは私的ファンクラブの仮面をかぶりながら、実際に代表が行うのはジェンヌさんのマネジメント業務だ。
こうした仕事は本来ならば劇団が行うべき仕事。それを代表に担わせ、しかもその対価は劇団から支払われることはない。つまり無償だ。

経営者の立場からは、無償で働いてくれるスタッフがいることがどれほど羨ましいか。一人親方ならともかく、従業員がいなくては、会社は成り立たない。従業員が宝であることはもちろんだが、人件費は経営者にとっては現実のストレスとしてのしかかる。
タカラヅカのジェンヌさんの多くはファンクラブを立ち上げている。各ファンクラブは代表や複数人のスタッフを抱えている。彼女たちの多くは無償だ。あくまでも私的ファンクラブなのだから、少なくともタカラヅカには賃金を払う義務がない。賃金をもらっている代表やスタッフがいるとすれば、それらの賃金は、ジェンヌさん自身やジェンヌさんの実家から支払われている。言うまでもなくそれができるジェンヌさんは一握りだ。

タカラヅカの場合、人件費をかけずに業務の一端を担わせている。人件費をかけずに済むのだから、良いものができるのは当たり前だ。

こうした無償で働いてくれるスタッフや代表は、妻も含めてタカラヅカの観劇が好きでたまらない人であり、だからこそ無償でも働こうと思うのだろう。
彼女たちが惹かれているのは、小林逸翁が立ち上げたタカラヅカ百年の伝統が磨き上げてきた美意識であることは間違いない。

百年の伝統とは、プールの上に蓋をした黎明期の舞台から、レビューが軌道に乗った時期を通り越し、軍国色の強い演目を強いられた戦時中の苦しみなど、さまざまな歴史の上に醸成されたものだ。痛ましい死亡事故や、ベルばらブームなど、タカラヅカには試行錯誤と喜怒哀楽の歴史があった。
そこには歴代のジェンヌさんや演出家、大道具小道具とオーケストラ、衣装さんの努力があった。それらの努力のたまものが百年の伝統として昇華していることは公平に認めたい。
スタッフや代表が無償の労働で成り立っているのは、決して今の経営陣の努力ではない。百年前から脈々と受け継がれてきた伝統があってこそだ。

男装の女性が美しい衣装を身にまとい、華麗に舞い、魅惑的なメロディーを響かせる。
女性だけの舞台の上で、異性である男性を演じる姿は美しい。髭もなければ、ハゲもない。ましてやオヤジの加齢臭を漂わせることもありえない。永遠に美しい存在。観客の皆さんが男役に夢中になるのもわかる。

さらにタカラヅカのスターシステムは、下から次々と生徒が送り込まれる仕組みだ。だから、新陳代謝は激しい。観客はひいきのトップスターがやめても、青田買いのように生徒さんの中からお気に入りのジェンヌさんを見つけ出す。
だからこそ、男役を務めるプレッシャーも並大抵のものではないはずだ。
先輩のジェンヌさんに憧れ、その所作を学びながら、女が男を演ずる芸を極めていく。その姿は男だから女だからといったささいなことは関係ない。そこには舞台人として芸を極めることの難しさと尊さがあるのみ。

本書はそのような男役の姿を描く。男役の舞台での姿に魅入られ、タカラヅカの門をたたいた主人公。
日々の厳しい稽古と人間関係の難しさ。そんな合間に舞台でライトを浴びる高揚感。そのような芸事の厳しさと奥の深さに一生懸命な主人公に、伝説と化したかつての男役がファントムとなって語りかける。

つまり本書はミュージカルとして演目になったことであまりにも有名なガストン・ルルーのオペラ座の怪人、つまりファントムをモチーフに取り入れているのだ。
ミュージカルのファントムも、新進女優のクリスティーヌを見染めて一流の女優へと導こうとする。舞台芸術の世界に魅入られ、劇場の主と化したファントムの妄執がなせる技だ。
オペラ座の怪人の世界とタカラヅカを絶妙にミックスしているのが本書の特色と言える。より至高の舞台へと。刹那の芸術の美へと。

本書のファントムも同じ。舞台の魅力に取り憑かれ、劇場に住み着き、これはと思った新進男役に寄り添って支えようとする。崇高な舞台の輝きへ。男役の演技のより深い奥義へと。
なぜそこまで男役に執着するのか。それは、世界でもこのように女性が男性を演じる演技形態が稀だからだ。世界でもタカラヅカは稀な女性だけの劇団であり、今、ここでしか演じられないことが、男役の価値をより高めている。それは百年の伝統の中で代々、受け継がれてきた芸能であり、その希少性ゆえに観客を魅了し、演ずるジェンヌさん自身をもからめとる。

声をつぶしてまでも低音を響かせる技。一挙手一投足まで男を演じ切らなければならず、一瞬でも素の女を見せることは許されない。舞台を降りた後ですら、ファンの視線を意識しながら、日々の生活まで男を演じる。生き方から変えていかなければ務まらないのが男役の宿命。
だからこそ、ファントムのような主が至高の芸として伝えていかねばならない。
本書のこの設定はお見事だ。

そして、男役には相手となる娘役がいるのがタカラヅカのスターシステムのお約束だ。
同じ女性であっても、娘役からはトップの男役は憧れと恋愛の対象でありうる。さまざまな演目で愛する演技を続けていくうちに情が移る。本気で恋愛感情を持つ場合もあるだろう。むしろ、それぐらいトップの男役と娘役が強く絆を結んでこそ、ファンからは絶大な支持を受ける。
単なるレズビアンではない。そんな下世話な感情さえも超越した、現実と幻と役柄が混在した恋愛。
本書にもファントムにまつわる悲恋と、主人公とのご縁が終盤のクライマックスへ向けてつながっていく。

冒頭で私はタカラヅカに対して嫌悪感を持っていると書いた。だが、私はジェンヌさんに対してはそれを向けようとは思わない。特に妻がついているジェンヌさんに対しては。
彼女たちも与えられた環境の中で一生懸命やっているだけなのだから。だから、私の嫌悪は全て劇団に向けられる。
多分妻もそれを考えて私に本書を勧めてくれたのだろうし。
くしくも本稿をアップした本日は東京公演の千秋楽であり、一カ月半にわたる妻の苦労も報われる日だ。

もう私は二度とタカラヅカを見たいとは思わない。だが、それでももし本書がタカラヅカで舞台にかけられたら、心がゆらぐかもしれない。それほど本書には心を動かされた。

‘2020/06/13-2020/06/14


しゃべれども しゃべれども


著者の本は初めて読んだが、とても面白かった。本書が面白いのは、読者のほとんどにおなじみの「しゃべり」が扱われているからだろう。しゃべること自体が小説のテーマになっていることはそうない。なぜなら人がしゃべるのは日常で当たり前のことだからだ。

話す事で糧を得る人は世の中に多い。落語家もそう。話すこと自体が芸となっている。本書が描き出すのは、落語家の生態や、彼らに伝えられる口承芸ー噺についてだ。ただ、噺家の生態を描くだけではなく、噺家の回りに集う人々との関わりで描くのが本書のいいところだ。噺家の周りに集う人々に共通するのが、話すのが苦手な人というのがいい。話す技術とは、生きていく上で欠かせない。だが、誰もが自在に扱えるかといえばそうでもない。ほとんどの人が身につけていながら、その技を完全にわが物としている人はそうそういない。私もそう。しかも主人公の噺家すら、その難しさに悩んでいるのだから。だから、本書は読者の共感を呼ぶ。

主人公は今昔亭三つ葉。今昔亭小三文門下の二つ目である。ちなみに二つ目とは噺家の階級のこと。「前座見習い」「前座」「二つ目」「真打ち」とあり、三つ葉はプロとして認められた段階だ。ところが、話すことにかけてはプロであるはずの三つ葉は伸び悩んでいる。噺家をなりわいとしていくには芸道の先がみえず、焦る日々を過ごしている。

そんな三つ葉の周りには、不思議なことに話すことが不得手な人が集まる。まずは、いとこの良。彼はドモる癖を持っていて、会話が少し不自由。ドモリがテニスクラブのコーチの仕事にも影響を及ぼしはじめている。

そんなある日、師匠の小三文がカルチャースクールの話し方講座に呼ばれる。付き人として付いて行った三つ葉は、そこで黒猫こと十河を知る。彼女は本音で生きており、その口調は取りつく島もないぐらいに攻撃的。話し方講座とは、話すことが苦手な人の集まりだ。話し方講座を聴講していた良も本気でドモリを治したい、内輪の集まりでよいから、話し方教室を開いてくれといってくる。ならば、と三つ葉はこぢんまりとした落語教室を始める。

落語教室の生徒は四人だ。良と十河、そして近所に住む小学校六年生の少年村林。彼は、関西で育ち最近吉祥寺に越してきた。だが、意地になって関西弁を直さずにいるため、クラスでなじめずにいる。もう一人は湯河原。彼は代打専門の元プロ野球選手として有名な人物。ところが、プロ野球のテレビ中継の解説が全くダメで解説者として崖っぷちに立っている。

生徒の四人が四人とも、しゃべることに劣等感を持っている。それが苦手なあまり、世の中に生きにくさすら感じている。三つ葉は、彼らとの落語教室をほそぼそと開きながら、噺家としての日々も送る。師匠からダメ出しをくらい、二つ目として二人会の舞台を催し高座に上がる。だが、噺家として壁にぶつかり、もだえる日々を過ごしている。

話すことは、本当に難しい。私も自分のこととして深く思う。ここ数年、このままでは自分の人生の可能性を生かし切れない、自分のキャリアパスに活路を開かねばならない、と人前で話す機会を増やしている。私の場合、話し方についての師匠はいない。全てが自分の独学。果たして自分の話し方の成長カーブ学校上向いているのかも分からぬままだ。何しろ、自分の話す内容を動画で残さない限り、反省するすべがないのだから。話すとは、その場限りの一瞬の行いなのだ。

だからこそ、場数を踏まねばならないと思う。場数を踏んで、毎回反省し、反省しながら、少し上達していることに気づく。まれに聴講してくださった方から話がうまいといわれて、そうかといい気になる。だが、しゃべるプロたちが立て板に水を流すように淀みなく登壇しているのを見ると、自分の技術がまだまだであることに気づく。そして、話す技術に到達点はない。それは噺家だって同じことだ。

「良は生徒のことを気にしすぎるんだ。あんたがマイクの前に座って視聴者にビクビクするのと同じだ。俺が高座で客の顔色をうかがうのと同じだ。誰だって好かれたいよな。」(220p)。これは、三つ葉が湯河原に向かって言うセリフだ。結局、好かれようとするあまり、いいたいことが言えなくなる。人にしゃべったことがどう思われるか、どう伝わるか。ここを気にしてしまうとうまく話せなくなる。

本稿を書く数日前、懇意にしているデザイナーの方からこんなセリフを聞いた。「絵を描くとき、自分の理想とする絵が頭にあると、失敗作にしかならない。もう、書き始めたら手に全てを委ねてしまう。それがどうあれ作品なのだ。」と。けだし名言だ。クリエイターとはこうあるべき。

もちろん、それには基礎がいる。基礎があれば、表現した内容には何らかの実が伴う。わたしもそう。もう、人の反応は気にしないことにしてから随分とたつ。その境地に至ってからは、人前で話すことが苦ではなくなった。

私がやるべきなのは、基礎となるべき部分をたゆまずメンテし続けること。それさえ怠らずにおれば、あとは、自分の中身を話すのみ。手に委ねるように、口に委ねてしまう。

とはいえ、その境地にどうやって至るのかは人それぞれだ。四人の生徒がしゃべる苦手を克服するには、時間がかかる。きっかけもいる。三つ葉もそれがわかるので、到達点を示そうと発表会を企画する。話す事が苦手な四人は、噺を暗記しなおかつそれを人前で披露する。これは小さな落語教室にとっては大したことだ。小さいながら、さまざまな悶着があり、四人もそろったり来なかったり、関係もごちゃごちゃしたり。

村林は自分をいじめるクラスメイトに野球で立ち向かい、湯河原に教えを請うたにもかかわらず負ける。でも、村林は落語教室が主催する発表会で「まんじゅうこわい」を披露して喝采をさらう。

成長したのは村林だけではない。落語教室に来ていたそれぞれが、それぞれに自分を見つめる。良も十河も、湯河原も、そして三つ葉も成長する。一年の間でも、人はグッと成長できる。人間が持って生まれた性質は簡単には変えられない。それでも成長はできる。成長する機会は生きていれば雨のように降ってくる。それを受け取るのか縮こまって避けるのか。それが成長につながる。妻の母が言っていた言葉だ。

三つ葉は、古典落語の装いを愛し、たとえモノマネといわれようと、古典落語の伝統を皆に伝えたいと願う。その思いは、三つ葉をライバル一門の白馬師匠の元に赴かせる。普段から自分の芸をネタにけなす白馬師匠でありながら。その思いが、三つ葉の芸の道を一段上に上げる。そして自分の生徒たちが成長する姿を見てさらに。

本書は落語の芸が詳しく書かれる。噺とは地の文とセリフを一人の話者が使い分け、客に面白く伝える芸能だ。

そこに流れる芸の道とは、小説の技術にも通じる。本書もそうだ。端正な地の文にセリフを挟むことで、ストーリーにリズムと変化がつく。勢いがつく。江戸の言葉、上方の言葉。大人の言葉、少年の言葉。男言葉、女言葉。それらが端正な地の文の間にうまく乗っていることで、本書はさらに魅力を放つのだ。

本書を読むと、きっと落語に関心が向く。そして、好きになれるに違いない。本書をよんだ後、私は落語の寄席に行きたくなった。

‘2017/07/27-2017/08/01