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社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム


最近の私は社会学にも関心を持っている。人はどのように社会と接して行くべきか。その知見は人として、夫として、親として、経営者として欠かせない。

もう一つ私が関心を持っていることがある。それこそが本書のテーマだ。技術が生み出したメディアは人にどう影響を与えるのか。そしてメディアと人はどう付き合って行くべきか。私は技術者として世間に名乗りを上げ、糧を得ている。人並みに発信したい思いも、自己顕示の思いも持っており、このテーマは私にとって興味の的となっている。私の世代が社会に出たのは、インターネットが世間へ浸透した同じ時期だ。どうやってインターネットが社会に広まり、技術の進展がメディアを変えてきたか。それを肌で感じてきた世代だ。だからこそ興味がある。

本書の第一章は「有害メディア論の歴史と社会的身体の構築」と題されている。内容は題名の通りだ。

メディアとは何か。今までの人類の歴史でいくつものメディアが現れてきた。文字、本、小説、紙芝居、テレビ、ラジオ、新聞、野球、スポーツ、ポケベル、たまごっち、インターネット。要するに複数の人々に何らかの情報を同時に届けられるもの、それがメディア。そしてメディアとは、新たなメディアが古いメディアを侵食していく運命にある。いくつかのメディアは既存のメディアの中に既得権を得ていた人々から批判を浴びてきた。本章にもその歴史が紹介されている。

既存のメディアしか知らない人にとっては、新たなメディアは教育に悪く、若者を堕落させ、社会を不安に陥れるものだ。いつだってそうだった。

だが実際は違う。新たなメディアが発明されるたび、人々はそれを己の身体の一部としてきた。著者はその過程を人間が外部に新たな身体を手に入れた、と形容する。それが本書のタイトルの由来でもある。

つまりは比喩的に言えば私たちの身体は、メディアを通して新しい「身体能力」を獲得してきているのだ。それは言うまでもなく、私たちの「生物的身体」が「進化」(あるいは「退化」)していくということを意味しない。自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ、社会制度を変容させるといった形で、メディアは「社会的身体」のあり方を解体/構築していくのだ。(39-40ページ)

携帯電話もスマートフォンも、私たちの記憶や脳の一部を外部に具現化する。文字もそう。メディアという形で私たちの体の一部が外部に拡張される現象を指して、著者は社会的身体と言い表す。

私の娘たちにスマホを持たせて何年も過ぎた。でも、私は今でも、子どもが新たなメディアを手にする時期は慎重であるべきと思っている。それは、子供のたちの成長の過程では、旧メディアを含めた人間社会のルールを覚えなければならない。そう思うからだ。新たに生まれたメディアは、まず社会がそれとの付き合い方を覚える。子が覚えるのはそれからでも遅くないはずだ。旧メディアの習得もままならないのに、新たなメディアの習得に走ることは、人類が旧メディアを使いこなしてきた知恵をおろそかにし、歴史で培われてきたスキルを無視することになる。

第二章は「社会的身体の現在-大きなメディアと小さなメディア」と題されている。大きなメディアとはマス・メディアであり、小さなメディアとはインターネットやスマートフォンなどの個人メディアを指す。ここで重要なのは、メディアは入れ替わらず、前のメディアの上に新たなメディアが乗っていくという著者の指摘だ。今の情報化は大きなメディアが小さなメディアに置き換えられて行く過程にある。だが、その中で大きなメディアが小さなメディアによって完全に駆逐されることはない、と著者は説く。ここで言われているのは、インターネットがどれだけ社会に幅を効かせようとも、テレビや新聞は消えないということだ。

その理由とは何か。それこそが著者が唱える社会的身体なのだと思う。人々に一たび受け入れられ広まったメディアを切り捨てることはできない。簡単に着て脱げる衣服とは違うのだ。メディアとは今や、身体の一部となっている。だからこそ、新たなメディアが勃興しても、旧メディアを簡単に捨て去るわけにはいかないのだろう。

第2章と3章の間に挟まれる「ノート 「情報思想」の更新のために」では、より抽象的なモデルを用い、個人とメディア、コミュニティとメディアの関係が語られる。この章では、抽象的なモデルが語られる。読み解くのに頭を使わねばならないが、示唆に富んでいる。

形式か内容か、との対立軸はすでに無効。そもそも既存の社会を前提に考えられたモデルに従ったコミュニケーションのあり方ではなく、常に新たなコミュニケーションのモデルを模索し、刷新され続けているのが今までのメディアの歴史。つまり、現状の個人とメディアとコミュニティの関係を図示したモデルとは、新たな社会を予期するためモデルでもあり、今の社会を説明するためにも有効なモデルだということだ。そこに形式や内容を対立させ、議論することに意味はない。新たなメディアが生まれる度、そのメディアが生み出す思想がモデルを内側から更新し続ける。それが今のメディアを巡る現状ということなのだろう。

本書が説く社会的身体にとって、核となる部分は第2章までで語りつくされる。第3章は「お笑い文化と「振る舞いモデル」」。よくテレビで見かけるお笑い芸人。ここではその系譜と、テレビへの露出の方法の変遷を見る。

まず、その前に本書は「役割モデル(ロールモデル)」と「振る舞いモデル(アティテュードモデル)」の違いから説き起こす。その二つを分けるのは、思想的、社会的役割、そして行為的、個人的模倣だ。お笑い芸人が後者に属することは言うまでもない。本章で描かれるお笑い芸人の系譜は、芸能史の観点からみても興味深い。テレビが象徴するメディアの興隆とともに、お笑い芸人がメディア内メディアとして次々入れ替わる歴史。著者の狙いは芸人一人一人をメディアに見立て、メディアの移り変わりがこれほどまでに頻繁であることを読者にわかりやすい例として示すことだろう。

また、お笑い芸人がテレビで示す笑いが、翌朝、私たちの学校で話題のネタになったように、振る舞いモデルとしての手法の移り変わりも本書は示す。ワイプ画面や、テロップ、そしてニコニコ動画の右から左に流れるコメント。それらは振る舞われる芸人、つまりメディアがわれわれをどうやって「同期の欲望」を満たさせるかの手本にもなっている。同期の欲望とは他者への欲望と同義。著者に言わせれば、テレビもウェブも同期の欲望を満たすためのメディアとしては同じ地平にあり、断絶している訳ではない。

第4章は「ゲーム性と身体化の快楽」と題されている。ここでいうメディアの役割は快楽だ。メディアを身体の延長として受け入れてきた歴史が本書の主題ならば、身体の延長として、自分の振る舞いが即座に反映されるメディアは触れなければならない。それこそがゲームの役割。私の世代はインターネットの勃興が社会人としてのデビューの時期と重なっている。そして、ゲームの興隆にも関わっている。スペースインベーダーは幼稚園。ゲームウォッチは小学校一年、ファミコンは小学校三年。以降、ゲームの進化とともに成長してきた年代だ。自分の操作によってマリオが飛んだり走ったりする操作が快楽をもたらす事を実感してきた。

今はオンラインで複数人がリアルタイムで参加するゲームが主流だ。ところが今の私には、そうしたゲームをする時間がない。だが、娘がやっているのを見せてもらいながら、今のゲームの趨勢はおさえているつもりだ。かつて、スペースインベーダーやゲームウォッチはゲームとプレイヤーが一対一だった。ファミコンではコントローラーが二つあったことで二人プレイができた。目の前のテレビ画面と、その前のプレーヤーたちの関係。それが今はその場にとどまらず、オンラインで世界中のプレーヤーとつながっている。自分のプレイがオンラインのゲーム世界で他のプレーヤーに影響を与えられるのだ。

著者はその現象をウェブ上での「祭り」にも適用させる。祭りとはミスをしでかした個人または組織に対し、不特定多数が誹謗中傷の攻撃を行う現象を指す。ウェブというメディアを用いることで、自分の書き込みが相手にダメージを与える快感。これもまた、社会的身体化の一つの例だろう。

かつてはこうした運動は、自分の体をその場に動かさねばできなかった。例えば国会議事堂前。SEALD’sがいなくなった今、国会議事堂の前でプラカードを持ってシュプレヒコールを上げているのは年配の方がほとんどという現象も、まさに旧メディアの特徴だろう。それに比べてウェブ上での意見表明は、メディアの発展の方向としては正しいのかもしれない。それは匿名での発信も含まれるというのが著者の立場だし、私も広義のメディアという意味では同意だ。

その上でいえば、自らの体に拡張して備わったメディアを匿名で扱うのか、それとも実名で扱うのかは、メディア論としては本質ではない。それはむしろ、社会学でも違う分野の研究に委ねられるのかもしれない。たとえば自己実現や自立、成長を扱うような。ただ、私の立場としては、個人で生きる力がこれからさらに求められる以上、メディアのあり方に関わらず、実名発信に慣れておくべきだ。社会的身体を標榜するには、まず個人がメディアの主役にならなければ。反論や違う意見を、実名の責任で受け止める。そこに痛みが伴ってこそ、社会的身体といえるのだから。

‘2018/09/27-2018/10/04


流れ星と遊んだ頃


著者の自在に変幻する叙述の技は、大勢いる推理作家のなかでも最高峰といってもよい存在だと思う。

くだけた口調の独り語りでスタートする本書。だが、その語りこそが曲者だ。それぞれの章ごとに鮮やかに視点が入れ替わってゆく。誰の視点で語られているのか常に追っておかねばならない。油断するとすぐ著者の仕掛けた罠に嵌ることになる。その技はお見事としか言いようがない。あまりにも切れ味の鋭いどんでん返しが次々と繰り出される。鮮やかにひっくり返されたあまり、そこで小説が終わったと勘違いしてしまうほどだ。特に前半のうちは、本書の全体ボリュームを知らずに読んでいたため、本書を中編小説だと勘違いしたほどだ。つまり小説が終わり、次の短編が続くのだ思わされたくらいに。そんな私の期待を裏切り、次のページからは何事もなかったかのように次の視点で本書の続きが紡がれてゆく。他の小説を読んでいてそう思わされた経験はあまりないが、本書では何回そうやって見事にしてやられたことか。著者の力量をあらためて思い知らされた思いだ。

本書では二人の中年男が主人公だ。芸能人とその付き人。彼らを中心として物語は進む。彼らの思いはスターにさせたいなりたいというスター志望と付き人志望のもの。彼らの思惑が入り乱れる。生き馬の目を抜くといわれる慌ただしい芸能界。よほど気の利いた売り込みを図らねばあっという間に埋もれて行ってしまう。そんな世界を頼りなく進んでいく中年男達はどこに進んでいくのか。本書の語りは世界観を再現するかのようにあくまでも軽快だ。芸能界の掟に生きる二人の男とその間にいる一人の女。三人の関係を語るには軽すぎるリズムで本書は進む。著者の語りは読者を惑わせ、結末を予測させない。したがってページを繰る手も止まらない。

芸名の名字がもう片方の本名の名字というややこしい関係。そのややこしい関係は言うまでもなく著者の仕掛けたトリックの一つだが、読者はよほど注意していないと誰の話しなのか分からなくなる。片方の男の話として読んでいたはずが、実は視点が反転していていつの間にもう片方についての話が進んでいた、ということもあるかもしれない。

誰が誰のために演技をし、誰が誰のためにマネージメントをするか。本書にあっては芸の肥やしとは演技の肥やしであり、演ずることと生きることの境界がぼやけ曖昧になってゆく。柔軟で枠にはまらぬ生き方が芸能界には求められるのかもしれないが、本書のそれはあまりにもトリッキーだ。

芸能界とはパフォーマーが脚光を浴びる場所。それゆえにスターの変幻自在な生き方を支える付き人にもトリッキーさが求められる。スターをいかにきらめかせ続けるか。細切れに時間が過ぎてゆく芸能界の中で、スターとは照らされる光をあまさず集め、観客へその光を反射させ続けなければならない。付き人に求められる能力とは、照らされる光の発信源を即座に捉え、その方向にスターを向かせること。つまり感度が人一倍高いことが求められる。大衆が求めるもの、つまり光の発信源を探す能力は一朝一夕には身につかない。それはもはや才能と呼んでよいかもしれない。せわしない芸能界にあってその能力を発揮し続けることは重責であり才能だ。あるいはその能力が付き人本人を芸能界で光り輝かせるほどに発揮されることだってあるはずだ。

だが、万が一失敗すると、もはや光を照らしてくれる相手はいない。光が照らされなくなったスターはもはや輝くことはない。それはスターと一心同体の付き人も同じ。光を喪ったスターと付き人は一市民として生きて行くしかない。そんな芸能界の移ろいやすさと次々に切り替わる人々の求めるスター像。本書では光と影が交錯する芸能界の現実も描かれる。

「お客さん、今の東京の夜空じゃもう一等星だって光らないですよ」

結末に近くなってタクシー運転手が発する台詞が象徴的だ。

‘2016/03/18-2016/03/22