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夏の約束


本書は、芥川賞を受賞している。図書館に設けられた芥川賞受賞作のコーナーで本書を手に取った。
もちろん、読み始めた頃は著者についても本書の内容についても何も知らなかった。

本書はゲイの話だ。
ゲイとしての生き方と日々の暮らしを何の飾りも誇張もなく描いている。

日中は仕事に精を出し、夜はパートナーと一緒に過ごす。その相手が男から見て女性なのか男性なのか。
それがゲイなのかそうでないかの違いだと思う。

本書は主人公の丸尾くんと光のパートナー関係が軸になっている。
二人で手をつないで歩いていると、小学生からからかわれ、「ホモ」と呼ばれる。

二人の日常は、ごく当たり前の毎日だ。小説にメリハリを加えるような劇的なイベントが起こることもないし、ドラマチックな展開に驚かされることもない。
だから本来、本書は日々の生き方を丁寧に描いた作品に過ぎない。
ところが、描かれているのがゲイのカップルを生態というだけで、本書の内容が新鮮に受け取られる。小説として成り立つ。

それは、ゲイのカップルが普通と異なる関係として見られている証しだと思う。普通のカップルの日常を描くだけであれば、それはドラマにも小説にもなりにくい。
彼らは何も悪いことをしておらず、普通に愛し合って生きているだけなのに、小説として成り立ってしまう。

日常生活に、性的な嗜好など何の関わりもないはず。
そういう私も、性的には異性愛者だ。だから、同性愛の心がどのように作用するのかわからない。
同性愛に関して受け入れられない経験もないし、私が同性愛者に偏見を持つ理由はないと思っている。

だが、丸尾と光のカップルをからかう小学生がいるように、ノーマルではない関係をからかい、愛する者が普通ではないことを貶めようとする偏見は存在する。

光はそうしたからかいに敏感に反応する。だが、丸尾くんはそうしたからかいを右から左に流して受け流し、意に介さない。

もちろん異性愛の関係でもどのように告白するか、どう行動し、どうカミングアウトするかという問題はある。
だが、ゲイの世界にあっては、そのタイミングや告白の時期など、気を遣うことも多いだろう。
一方、芸能界では、ゲイであることをカミングアウトする芸能人も多い。少しずつ世の中は変わりつつある。LGBTの運動は七色の虹のマークとともにおなじみになってきた。

上にも書いた通り、私は異性愛者だ。たぶん、同姓愛の気持ちを理解できることはないだろう。
だが、たとえ私が同性愛者であったとしても、それはあくまでプライベートな世界。誰にも迷惑をかけていないはず。
だから、異性愛者が同性愛者を攻撃するその心根が理解しにくい。単にマイノリティーを、弱い者を攻撃したいだけではないかという思いがある。

だから本書に登場する丸尾と光のカップルを自然に受け入れる人々がとてもまっとうに見える。
本章に登場する二人の応援者は皆女性だ。
それは、丸尾くんの恋愛の対象が男性だからなのか安心できるのか。

例えば、私は結婚して長く立っており、常に指輪をつけっぱなしだ。外したことすらない。だからこそ、女性とも警戒されず飲みにも行けるし、遊びにも行ける。
逆に私が指輪をしていなかったとすれば、女性は私から距離を置くはずだ。それは、性愛の対象となる警戒心が募るからだろう。
それと同様に、丸尾くんから性愛の対象とみなされないことがわかっているから女性は心を開く。

男性であるからこそ、同性愛者は人からの視線にたいして敏感になる。
そうした、生来の警戒心は、異性愛でも同性愛でも変わらない。
そう考えると、指輪のようにさりげなく性的嗜好をアピールするアクセサリーは必要なのかもしれない。

ひょっとすれば、特定の指に指輪をはめていればこの人は同性愛者だとわかるようにする風習。そんな風習がやがて世界的にメジャーになることだって考えられる。
その時われわれは、その個人が異性愛者であろうと同性愛者であろうと一人の人間として関われるような考え方を身につけておかねばならない。
少なくとも本書のような同性愛を描いた小説が、それだけで新規の題材であると評価されるようなことは本来ならばおかしい。

そう考えると、本書はどういう点が評価されたのだろうか。
おそらく、同性愛者の日々を、女性の視点から描いたことにあるのではないだろうか。

男性同士の生態と睦み合う様子を女性の立場から描くことはとても難しいことだと思う。
本書に無理やり解釈したような不自然さはない。それどころか、男性同士の恋愛の姿がとても自然に描かれている。

よく、異性の間に友情は生じないという通説がある。本書は丸尾くんと光のカップルと女性たちの交流を通じ、異性との友情がありえることを訴えている。
結局、性的な嗜好の違いなど、結果として子供ができるかどうかの違いでしかない。
異性のカップルにも子供に恵まれないこともある。

そう考えると、なぜ同性愛者が拒否されるのかは、個人的な問題に過ぎないと思う。
むしろ、それも人間の多様性の一つとして認めてあげるべきだろう。

本書の丸尾くんと光のカップルは気負わずに日々を生きている。
だが、そうした二人を小学生たちはからかう。それは、幼稚な行いに過ぎない。だが、大人からの偏見の影響が多く見られる。

タイトルの『夏の約束』とは丸尾くんと光の二人と、彼らをめぐる女性達のキャンプが実現できるかどうかの約束。
おそらく、遠からずのうちに彼らの約束は果たされるに違いない。

その時、わが国からはようやく一つの縛りが外されたことになる。

‘2019/12/11-2019/12/11


土の中の子供


人はなにから生まれるのか。
もちろん、母の胎内からに決まっている。

だが、生まれる環境をえらぶことはどの子供にも出来ない。
それがどれほど過酷な環境であろうとも。

『土の中の子供』の主人公「私」は、凄絶な虐待を受けた幼少期を抱えながら、社会活動を営んでいる。
なんとなく知り合った白湯子との同棲を続け、不感症の白湯子とセックスし、人の温もりに触れる日々。白湯子もまた、幼い頃に受けた傷を抱え、人の世と闇に怯えている。
二人とも、誰かを傷つけて生きようとは思わず、真っ当に、ただ平穏に生きたいだけ。なのに、それすらも難しいのが世間だ。

タクシードライバーにはしがらみがなく、ある程度は自由だ。そのかわり、理不尽な乗客に襲われるリスクがある。
襲われる危険は、街中を歩くだけでも逃れられない。襲いかかるような連中は、闇を抱えるものを目ざとく見つけ、因縁をつけてくる。生きるとは、理不尽な暴力に満ちた試練だ。

人によっては、たわいなく生きられる日常。それが、ある人にとってはつらい試練の連続となる。
著者はそのような生の有り様を深く見つめて本書に著した。

何かの拍子に過去の体験がフラッシュバックし、パニックにに陥る私。生きることだけで、息をするだけでも平穏とはいかない毎日。
いきらず、気負わず、目立たず。生きるために仕事をする毎日。

本書の読後感が良いのは、虐待を受けた過去を持っている人間を一括りに扱わないところだ。心に傷を受けていても、その全てが救い難い人間ではない。

器用に世渡りも出来ないし、要領よく人と付き合うことも難しい。時折過去のつらい経験から来るパニックにも襲われる。
そんな境遇にありながら、「私」は自分に閉じこもったりせず、ことさら悲劇を嘆かない。
生まれた環境が恵まれていなくても、生きよう、前に進もうとする意思。それが暗くなりがちな本書のテーマの光だ。
そのテーマをしっかりと書いている事が、本書の余韻に清々しさを与えている。

「私」をありきたりな境遇に甘えた人物でなく、生きる意志を見せる人物として設定したこと。
それによって、本書を読んでいる間、澱んだ雰囲気にげんなりせずにすんだ。重いテーマでありながら、そのテーマに絡め取られず、しかも味わいながら軽やかな余韻を感じることができた。

なぜ「私」が悲劇に沈まずに済んだか。それは、「私」が施設で育てられた事も影響がある。
施設の運営者であるヤマネさんの人柄に救われ、社会のぬかるみで溺れずに済んだ「私」。
そこで施設を詳しく書かない事も本書の良さだ。
本書のテーマはあくまでも生きる意思なのだから。そこに施設の存在が大きかったとはいえ、施設を描くとテーマが社会に拡がり、薄まってしまう。

生きる意思は、対極にある体験を通す事で、よりくっきりと意識される。実の親に放置され、いくつもの里親のもとを転々とした経験。中には始終虐待を加えた親もいた。
その挙句、どこかの山中に生きたままで埋められる。
そんな「私」の体験が強烈な印象を与える。
施設に保護された当初は、呆然とし、現実を認識できずにいた「私」。
恐怖を催す対象でしかなかった現実と徐々に向き合おうとする「私」の回復。生まれてから十数年、現実を知らなかった「私」の発見。

「私」が救われたのはヤマネさんの力が大きい。「私」がヤマネさんにあらためたお礼を伝えるシーンは、素直な言葉がつづられ、読んでいて気持ちが良くなる。
言葉を費やし、人に対してお礼を伝える。それは、人が社会に交わるための第一歩だ。

世間には恐怖も待ち受けているが、コミュニケーションを図って自ら歩み寄る人に世間は開かれる。そこに人の生の可能性を感じさせるのが素晴らしい。

ヤマネさんの手引きで実の父に会える機会を得た「私」は、直前で父に背を向ける。「僕は、土の中から生まれたんですよ」と言い、今までは恐怖でしかなかった雑踏に向けて一歩を踏み出す。

生まれた環境は赤ん坊には一方的に与えられ、変えられない。だが、育ってからの環境を選び取れるのは自分。そんなメッセージを込めた見事な終わりだ。

本書にはもう一編、収められている。
『蜘蛛の声』

本編の主人公は徹頭徹尾、現実から逃避し続ける。
仕事から逃げ、暮らしから逃げ、日常から逃げる。
逃げた先は橋の下。

橋の下で暮らしながら、あらゆる苦しみから目を背ける。仕事も家も捨て、名前も捨てる。

ついには現実から逃げた主人公は、空想の世界に遊ぶ。

折しも、現実では通り魔が横行しており、警ら中の警察官に職務質問される主人公。
現実からは逃げきれるものではない。

いや、逃げることは、現実から目を覆うことではない。現実を自分の都合の良いイメージで塗り替えてしまえばよいのだ。主人公はそうやって生きる道を選ぶ。

その、どこまでも後ろ向きなテーマの追求は、表題作には見られないものだ。

蜘蛛の糸は、地獄からカンダタを救うために垂らされるが、本編で主人公に届く蜘蛛の声は、何も救いにはならない。
本編の読後感も救いにはならない。
だが、二編をあわせて比較すると、そこに一つのメッセージが読める。

‘2019/7/21-2019/7/21


愚者の夜


本書は芥川賞を受賞している。
ところが図書館の芥川賞受賞作品コーナーで本書を見かけるまで、私は著者と本書の名前を忘れていた。
おそらく受賞作リストの中で本書や著者の名前は見かけていたはずなのに。著者には申し訳ない思いだ。

だからというわけじゃないが、本書は読んだ甲斐があった。
別に芥川賞を受賞したから優れているということはない。
だが、受賞したからには何かしら光るものはある。そして、読者にとって糧となるものがある。私はそう思っている。
私にとって本書から得たものはあった。

本書からは、旅とは何かについて考えさせられた。
旅。それは私にとって人生の目的だ。
毎日が同じ人生などまっぴらごめん。日々を新たに生きる。少しでも多く新たな地を踏む。一つでも多く見知らぬ人々と会話する。異国の文化に触れ、異国の言語に耳を傾け、地形が織りなす風光明媚な姿を愛でる。
それが私の望むあり方だ。

旅とは、私の生涯そのものだといってもよい。
確かに、日常とは心地よいし、安心できるものだろう。
だが、その日々が少しでも澱んだとたん、私の精神はすぐに変化を求めて旅立ちたくなる。
好奇心と変化と刺激を求める心。それはもはや、私が一生、付き合ってゆく性だと思っている。

本書の主人公の犀太は、まさに旅がなければ生きられない人物だ。
日本で海外雑誌の紹介で生計を立てている。
妻はオランダから来たジニー。
その日々は変化に乏しく、ジニーはそんな状況に甘んじる犀太にいらだっている。犀太もまた、不甲斐ない自分と今の八方塞がりの状況に苛立っている。

以前の自分は旅と放浪で輝いていたはずなのに、今の体たらくはどうしたことだろう。
何よりも深刻なのは、旅に行こうという気にならないことだ。
日本にしがみつこうとする心の動き。
それはほんの数年前には考えられなかったことだ。
二人が知り合ったのは犀太が海外を放浪していた間だ。
その時の犀太は溌溂としており、二人はすぐに意気投合し、パリで結婚生活を送る。

ところが、犀太はパリで新婚生活を送るにあたり、定期収入を得るための暮らしに手を染める。
人生で一度ぐらいは体験しておこうと軽い気持ちで始めた暮らし。
犀太は、定期的な収入を稼ぐ生活で調子を崩してしまう。
作家になる夢を目指すため、執筆に手をつけるが全く進まない。
ジニーをオランダに帰らせてまで、執筆に集中しようとしてもうまくいかない。
ついにはパリの生活を切り上げ、ジニーをともなって日本に戻ってしまう。

あんなに憧れていて、自由を満喫していたはずの旅。
なのに所帯をもって母国に帰ると、なぜか旅に惹かれなくなってしまう。冒険心が不全を起こしたのだ。

ジニーはパリでも奔放に生き、別の男と夜をともにし、そのことを隠し立てなく犀太に話す。
すべてに嫌気がさした犀太は、何度もジニーとの離婚をくわだてる。が、ちょっとした加減で二人の関係は元のさやに戻る。
本書は、そんな二人の生々しいやりとりに満ちている。

生活の疲れが旅の記憶にまで影響を及ぼす。そんな人生の残酷な一面。
それが本書にはよく描かれている。
あれほど憧れていた旅。日本で生まれ、一生を日本で過ごす境遇からすれば、例えば定期的に職場に通っていたとしても、フランスでの生活はそれだけで一大冒険のはず。

だが、異国であっても規則的な日常を送るようになると、途端に毎日は旅ではなくなる。パリの日々は確実に犀太から旅の意欲を削り取ってゆく。そこから次の場所に刺激を求めに行こうにも、もう力は残されていない。
そのような旅をめぐる描写は、人生の残酷な現実そのものだ。
本書はそれがとても印象的だ。

つまり旅の本質とは、母国から離れることではない。
そうではなく、決まりきった日常こそが、旅の対極なのだ。
であれば、日本にいたとしても、変化に富んだ毎日であればそれは旅とは呼べないだろうか。

本書は日常と旅をくらべることで、人生の真実を探り当てようとしている。
私にとって、人が旅をしなくなる理由。それがまさに現実の日常の日々の中に隠れている。

それゆえ、人は日常の罠にハマらぬよう、日ごろから気をつけねばならない。
日常であっても、無理やりに変化をつける。日常であっても、強引に刺激を受け入れる。そうした工夫を私は今までしてきた。
それによって、私は最近、ようやく日常の罠から逃れられるようになった。場合によっては日常に絡め取られることもあるが。

そうした意味でも本書は、人生の真実と機微を描いた作品として印象に残る。
実際、作者は犀太が目指していた作家として独立できた。
だが、世の中には作者のように大成できず、日常の中に沈んでいった人間は多いはず。
読者として、本書から受けた学びは自分自身の戒めとして大切にしたい。

私自身、三十代の頃は、日常が仕掛ける罠にほとんど、ハマりかけていた。そのことを思い起こせただけでも本書には価値があった。
本書はほぼ世の中から忘れられているが、今の若者だけでなく、四十代を迎えたかつての青年にも読まれるべき価値があると思う。

ただし、本書に登場するセリフ。これはちょっと受け入れられない。
悲鳴にしても感嘆詞にしても、本書のセリフはとてもリアルな人の発するそれには思えなかった。
これは、本書にとってもったいないと思う。今、本書が敬遠されているとすれば、これが理由のはずだ。
本書の生々しい会話と、旅をした者にしかわからない旅の魅力。その反対の日常の倦怠がよく描かれていると思うだけに残念だ。

‘2019/4/5-2019/4/8


エレクトラ


中上健次氏(以下敬称略)の作品で読んだ事があるのは、『枯木灘』くらい。読んだのは記録によると、1996年11月だから二十二年前まで遡らなければならない。内容についてはあまり覚えていない。出口のない閉そく感が濃密だったことだけをかすかな読後感として覚えている。

中上健次が読むべき作家である事は、頭ではわかっていた。だが、私には濃密な世界観に向かい合うだけの余裕も、読み下すだけの自信もなかった。自信がない中、読めないでいた。そんな所に、中上健次の評伝として傑作だ、と本書を勧められた。私に本書を紹介してくれたのは、仕事仲間として知り合った方。だが仕事仲間とはいえ、この方とは文学や音学の趣味が合う。なので、仕事の域を超えて友人としてもお付き合いさせていただいている。この方の推薦とあらば傑作に違いない。

そう思って読み始めた本書は、たしかに評伝として優れていた。そしてすいすいと読み進められた。評伝とは元来、対象人物の由来や育ちを解体し、分析する作業だ。普通ならば劇的な驚きに出会うことは少ない。評伝の対象となる人物の残した業績に、どういったきっかけや学び、またはご縁があるのか。それを知ることで自分のこれからに生かすのが評伝を読む目的だからだ。だが、本書には驚きがあった。それは中上健次の出自が被差別部落にある事が詳細に描かれていた事だ。

もちろん、中上健次の出自が部落にあること自体はおぼろげに知っていた。私の蔵書の中に解体新書というものがある。本の雑誌ダ・ヴィンチが発行した作家を詳しく紹介したMOOKだ。そこで中上健次も取り上げられており、被差別部落の出であることは触れられていた。だが本書を読むまで、中上健次の文学が被差別という立場から書かれたという視点は私から全く抜け落ちていた。

念のため言っておくと、私は自分では、歴史的に差別を受けた出自を持つ方への偏見はあまりないと思っている。今でも被差別の目で周囲から見られる地域があることや、週刊誌などでたまに出自を暴かれる有名人がいることも知っている。

とはいっても、関西に住んでいた頃は全く同和問題には無縁ではなかった。わたしが幼い頃の西宮には明らかにそうと思える場所も残っていた。また、差別されいじめられている人もいた。大学のころには芦原橋にあるリバティ大阪(大阪人権博物館)にも行ったことがあるし、本書を読んだ9カ月ほど後にもリバティ大阪を再訪した。

だが、日常生活の皮膚感覚ではそうした差別意識に出会う機会は日に日にまれになっているように思う。私のようにいろいろな方と仕事や交流会で会う機会が多いと、中にはそういう出自を持つ方にも会っているはずだ。だが、仕事である以上、相手の出自などどうでもいい。要は結果が全てなのだから。だからかもしれないが、東京に出てからの私に同和問題を意識する機会は薄らいでいた。

とはいえ、関西にいまだに被差別部落といわれる地区は存在していることは確かだし、わたしの幼少期に文壇デビューした中上健次にとっては出自の問題はより切実だったに違いない。ましてや中上健二の故郷新宮にあっては、なおのこと切実だったと思う。

数年前、妻と紀伊半島を半周する旅をしたことがある。新宮にも立ち寄ってめはり寿司に舌鼓を打った。この時、新宮駅前や徐福公園、浮島の森に行こうと思い、駅前周辺をあちこち車で移動した。この時は何も感じなかったが、本書を読んで、なんとなくこみごみした路地を車で通ったことを思い出した。今、地図を見てみると中上健次生誕の地は駅のすぐ横のようだ。おそらく、私もすぐそばを通ったはずだ。新宮を旅行した時、私はすでに『枯木灘』は読んでいた。それなのに、その時の私が中上健次のことを思い浮かべることはなかった。

本書は、中上文学が差別の現実に苦しむ露地から何をすくい上げ、どう作品に昇華させたのかが描かれている。

本書の扉には、ソポクレスの『エレクトラ』が引用されている。
「さて、故国の土よ、氏神様よ、願わくはわたしがこの旅路を首尾よく終えて帰国を果たせますように。なつかしい父祖の館よ、そなたもわたしの願いをきいてくれ。」

『エレクトラ』は本書の題名にもなっている。そして、中上健次がまだ無名のころに書いた小説のタイトルでもある。本書は、無名時代の中上健次が、編集者に叱られ、励まされる姿で幕を開ける。続いて著者は、無名の中上健次が文学に青春をささげる背景を探る旅に出る。

著者は中上健次の故郷、新宮の春日地区を取材する。そして、生前の中上健次を知る存命者を訪ねて回る。著者の取材と描写は徹底していて、在りし日の春日地区がよみがえってくるようだ。今や再開発が進み、春日地区にかつての雰囲気は残されていないとか。それでも著者は春日地区で生を受け、成長した中上健次の在りし日をよみがえらせようとしている。春日地区の方々が人生を切り開こうとして苦闘した姿。差別という現実に、ある者は風評に負け、ある者は人生を諦める。そうした人々の哀しみや怒りは、中上健次の作品群にありありと表れていることをしめすため、著者はあらゆる中上作品を豊富に引用する。そこには差別という現実を決して隠そうとせず、文学を通して世の中に叩きつけようとする中上健次の怒りがある。

本書に引用されている詩の豊富さは、特に目を引く。詩とはイメージの氾濫であり、理屈ではない感情の裸の部分だ。これらの詩を読んでいると、発表された小説だけでは 中上健次の世界感は到底理解できないことに気づく。第四章のタイトルにもなっている「故郷を葬る歌」は、なかなかに物騒な内容だが、著者はそのねじれた感情を見破り、最後の締めに中上健次の甘えを見て取り、「尻の青い、甘ったれの詩であった」と両断している。

本書は一人の少年が、熊野から上京し、芥川賞受賞を果たし、小説家として押しも押されもせぬ存在になるまでが描かれる。そこには、なぜ小説家にならねばならないのか、という一人の人間の切実な動機があったのだ。そしてそれを見抜き、小説家としての大成を見守った編集者の役割も見逃せない。本書は高橋一清、鈴木孝一の二人の編集者による作家を養成する軌跡でもある。二人の編集者による魂を削るかのような叱咤と激励が中上健次を大成させたと言っても言い過ぎではない。私は本書ほど編集者が作家に与える影響力の大きさを描いた書物を読んだことがない。編集者が小説家を生かしもするし殺しもするのだ。本書で印象に残る表現に梅干の種がある。梅干の種までは小説家なら誰でもたどり着ける。その種をさらに割って、核までたどり着く。そのような覚悟を鈴木氏は幾度も中上健次に迫ったという。

いうまでもなく、ここで言う核とは被差別の出自を示しているのだろう。種をどうやって割り、どうやって核を引きずり出すのか。中上健次は詩や散文などあらゆるやり方で己の中にある核に迫ろうと奮闘する。新宿での無頼で自由な日々をへて、連続射殺魔として世を騒がした永山則夫に共感を抱き、結婚して家族を持つ。中上健次はそこでいったん現実を見つめ、国分寺に家を構え、毎日仕事をしに羽田空港まで出かける。たいていの人はそのまま一生を終えてしまうが、彼はその長距離通勤にも負けず、家族を守りながら小説家として一本立ちする。そのいきさつが本書にはつぶさに書かれている。日々の仕事をこなしながら、彼が小説家への志を捨てなかったのも核を持っていたからだろう。被差別を出自とした自らの故郷への愛憎、それに立ち向かわねばならないという確固たる意志。そこに中上健次の作家の真価がある。そしてそれに気づき、引き出そうとした編集者の慧眼。

中上健次の核は、『十九歳の地図』『火宅』『蛇淫』『岬』といった諸作で種の表皮に徐々にひびがはいり、ついに『岬』で芥川賞を受賞して日の目をみる。本書において著者は、芥川賞を受賞して以降の作品にあまり重きを置かない。『枯木灘』でさえも。『枯木灘』とはそれら短編で研ぎ澄まされた作品世界を長編として生まれ変わらせた作品であり、それ自体に新鮮さを求めるのは間違いかもしれない。いうなれば総集編というかベスト盤。となると『枯木灘』しか読んでいない私は、中上健次の真価に触れずにいるのだろう。

『岬』で一躍、世間的に脚光を浴びた中上健次。それ以降の作品で本書が多くを触れるのは熊野のルポルタージュである『紀州 木の国・根の国物語』の苦闘のいきさつだ。その他の作品は本書ではほとんど触れられない。小説家として不動の地位を築いてからの作品にも高い評価を受けた作品は多い。だが、著者によれば、それらの作品はいまや核を割ることに成功した小説家の、いかに核を味わうか、の技巧の結果でしかないようだ。

自らの中にある核を取り出した後、中上健次にできることは己の出自にけじめをつけることだけ。熊野の被差別部落を葬ったのは実質、中上健次自身であることが本書には記される。改善事業や文化会の開催など、春日地区の改善に貢献したあと、やるべきことがなくなったかのように、中上健次はガンに侵される。本書では特に触れられていなかったが、死の前に中上健次は、路地、つまり被差別をモチーフとしない作品への転換を模索していたらしい。ところがその成果は世に出る事はなかった。それもまた運命なのだろうか。中上健次がなくなったのは那智勝浦。故郷に帰って死ねたのがせめてもの慰めだったと思うほかはない。

46歳の死はあまりにも早い。また、惜しい。そして私はその年齢に近づきつつある。それなのに、総集編としての『枯木灘』しか読んでいない私の読書体験の乏しさに焦りが生まれる。まだ間に合うはずだ。読むべき本の多さに圧倒される思いだが、読んでおかなくては。本書はよい機会となった。友人に感謝するしかない。

‘2017/06/04-2017/06/08


道化師の蝶


本書で著者は芥川賞を受賞した。

私は、芥川・直木の両賞受賞作はなるべく読むようにしている。とくに芥川賞については、賞自体の権威もさることながら、その年の純文学の傾向が表れていて面白いから読む。さらにあまり文芸誌を読まない私にとっては、受賞作家はほとんど知らない方であり、その作家の作風や筆致、文体などを知る機会にもなる。だが本書は芥川賞受賞作だからではなく、著者の作品だから読んだ。そもそも著者の作品を読むのは本書で三冊目だ。中でも初めて読んだ「後藤さんについて」に強い印象を受けた。だから本書については芥川賞受賞作だからというよりも、著者のとんがって前衛の作品世界がどうやって芥川賞を獲らせたのか、それはどれだけ一般の読者を向いた作品なのかが気になった。

本書を一読して思ったのは、確かに芥川賞よりの作品と思った。だが、それは私が読んだ著者の三作品の中では芥川賞よりということ。作品世界が高踏であることに揺るぎはない。そして著者の癖のある文体「~する。」の多用は本書でも健在だ。この癖のある文体も含めて、芥川賞受賞作の中でも本書は異色だと思う。本稿を書くにあたり、本書を芥川賞選考委員の面々はどのように評価したのかふと気になった。そしてサイトに掲載されている選評を読んでみた。https://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo146.htm 私の期待通り面白い選評になっている。ある年齢を境に本書の理解を諦めた選者のいかに多いことか。それなのによくぞ受賞できたものだ。正直に本書を理解できないと評する選者の潔さに好感を抱きつつ、それを乗り越えて受賞した事実にも感心した。

表題作は、富豪であるA.A.エイブラムスが追い求める謎の散文家「友幸友幸」を巡る話だ。「友幸友幸」は行く先々で大量の言葉を紙や本に書き残す。その言葉はその土地の言葉で書き記される。無活用ラテン語といった話者が皆無の言葉で記された紙束もある。大量の書簡を残しながら「友幸友幸」は誰にも行方を悟られない。

五つからなるそれぞれの章は「友幸友幸」の行く先を探るための章だ。本編を読むと、そもそも文章を書く行為が何のためかとの疑問に突き当たる。不特定読者に読んでもらう一方通行の文章。やり取りするための両方向の文書。または自分自身に読んでもらうだけの場所を動かないものもある。「友幸友幸」の書く文書はさしずめ最後の例にあたるだろう。

誰にも読まれない文書はいったん紙に書かれ印字されると著者の手を離れる。著者がどう思おうと、読者がどういうレスポンスを返そうと文書はそこにある。たとえだれにも読まれなくとも紙が朽ちるまで永遠にとどまり続ける。

「友幸友幸」が移動を繰り返し正体不明である事。それは著者不在を意味しているのではないか。著者不在でも文書の束はそこで生きている。そうなってくると文書に書かれた内容に意味など不要だ。面白い、面白くない。簡単、難しい。そんな評価も無意味だし、売上も無意味。著者の排泄物として生まれ、著者も書いたそばから忘れ去ってしまう文章。

著者は本編で世に氾濫する印刷物に対して喧嘩を売っている。作家という職業が排泄物を生み出す存在でしかないと挑発している。それが冒頭に挙げたような芥川賞選評の割れた評価にもつながったのではないか。自らが作家であることを疑わず肯定している人には本書の挑発は不快なはず。一方で自らの作家性とその存在意義に疑問を持つ選者の琴線には触れる。

著者の作品には連関構造やループのような構造が多い。それが読者を惑わせる。本編を読んでいるとエッシャーの「滝」を見ているような感覚に襲われる。ループする滝を描いたあれだ。そのようにに複雑な構造である本編で目を引くのは、冒頭に収められた着想という名の蝶を追うエイブラムス氏の話だ。「友幸友幸」が自分を追いかけてくるエイブラムス氏に向けて遺したとされるこの文書の中で、「友幸友幸」は作家を道化師になぞらえている。そして作家とは着想を追う者でしかないと揶揄する。たぶん本編を書きながら著者は自らの作家としてのあり方に疑問を持っていたのだと思わされる。作家が創作を行っているさ中の脳内では、このようなドラマが展開されているのかもしれない。

「松の枝の記」はコミュニケーションを追求した一編だ。「道化師の蝶」が作家の内面の思考を表わしたのだとすれば、「松の枝の記」は作家の思考が外に出たことによる波及を表している。

二人の作家が互いの作品を交互に翻訳する。翻訳とは本来一対一の関係であるべきだ。一方の言語が示す意味を、もう一方の言語で対応する言葉に忠実に置き換える。だが、そんなことは元から不可能なのだ。だから訳者はなるべく近い言葉を選び、原作者の意図を読者に届けようとする。そこに訳者の意思が入り込む。これを突き詰めると、原著とかけ離れた作品が翻訳作品として存在しうる。

本編で交わされる二人の作家による会話。それは壮大な小説作品を通してのみ成立する。「道化師の蝶」がコミュニケーションを拒否した作家の話であるならば、「松の枝の記」はコミュニケーションによる認識のズレが拡大する話だ。そもそもコミュニケーションとは本来、やり取りのキャッチボールによって刻々と内容の意味が変わっていくはず。であるならば原著と翻訳でもおなじ。原著と翻訳を一つの会話文とした壮大なやりとり。

AさんがBさんと会話した内容がBさんとCさんの会話にも影響を与えることだってもちろんある。そう考えると、小説というものは作家がそれまでになした全てのコミュニケーションの結果とも言えるのではないか。さらに言えば、小説とは作家の頭だけで創作されるのではなく、作家と関わった全ての人が創作したと言えなくもない。

それは種の記憶として代々受け継がれた思惟の成果でもある。いや、種にとらわれなくてもよい。たとえば人類の前、さらに前、前、前とさかのぼる。行き着いた先が本編に登場するエレモテリウムのような太古の哺乳類の記憶であってもよい。生物の記憶は受け継がれ、現代の作家をたまたま依り代として作品として表現される。

本編には自動書記の考えが登場する。ザゼツキー症例の考えだ。ザゼツキー症例とはかつて大怪我をして脳機能を損傷した男が過去の記憶をなかば自動的に記述する症例のことだ。これもまた、記憶と創作の結びつきを表す一つの例だ。過去のコミュニケーションと思惟の成果が表現される例でもある。

ここまで考えると著者が本編で解き明かそうとした事がおぼろげながら見えてくる。小説をはじめとしたあらゆる表現の始原は、集合的無意識にあるという考えに。それを明らかにするように本書にも集合的無意識の言葉が162ページに登場する。登場人物は即座に集合的無意識を否定するのだが、私には逆に本編でその存在が示唆されているように思えてならなかった。

本編もまた、著者が自らの存在を掘り下げた成果なのだ。評価したい。

‘2017/03/30-2017/03/31


共喰い


「もらっといてやる」発言で有名になった著者。「もらっといてやる」とは、芥川賞受賞の記者会見で著者が語った言葉だ。候補に挙がって5度目にしての受賞。聞くところによれば候補に選ばれた作家は、編集者とともにどこかで当選落選の知らせを待機して待つそうだ。多分、著者の発言の背景には今までの落選の経緯も含めたいろんな思いがあるのだろう。Wikipediaの著者のにも発言についての章が設けられ、経緯が紹介されている。

私はもともと、作品を理解する上でクリエイター自身の情報は重要と考えない。そうではなく、作品自体が全てだと考えている。なので、作家であれ音楽家であれクリエーターその人には興味を持たないのだ。上記の発言によってクローズアップされてしまった著者の記者会見の様子も、本稿を書くにあたって初めて見たくらいだ。世間に慣れていない感じは、一見するとリアルな引きこもりにも見える。だが、ただの緊張から漏れ出た言葉ではないかとも思う。

でも、結果を出したのだから引きこもりだっていいじゃないの。そう思う。厳しいようだが、結果を出せないのなら引きこもりは同情に値しない。でも、著者は聞くところでは一切の職業を経験していないという。それなのに、ここまで濃密な物語や世界観を構築できるのはすごいことだ。本書の末尾には瀬戸内寂聴さんとの対談が収められている。対談では源氏物語の世界で盛り上がっていた。そこでの著者はいたって普通の人だ。極論を言えば、著者のように一切就職しないくらいの覚悟を秘め、とんがった生き方をしなければ受賞などおぼつかないのだろう。著者の受賞は、就職したくなかったかつての私にとって勇気づけられるし、うらやましい。

さて、本書だ。芥川賞受賞作の常として、本書にも二作が収められている。

まずは表題作であり受賞作である「共喰い」。

主人公は17歳の篠垣遠馬だ。時は1988年というから、著者と同年代の人物を描いている。すべての17歳がそうではないのはもちろんだが、性に渇望する年代だ。もっとも、遠馬の場合は会田千種というセックスの相手がいる。若く性急で、相手を思いやれない動物的な交接。遠馬は、そんな自分の飢えに気づく。というのも、父の円の姿を見ているからだ。円は仁子さんに遠馬を生ませると、セックスの時に暴力をふるうという悪癖が甚だしくなった。仁子さんはそんな円に愛想を尽かし、川向うへ移って魚屋を営んでいる。そして円はあらたに琴子さんという愛人を家に入れ、遠馬は父と愛人との三人で住んでいる。

そんな性と血に彩られた川沿いの田舎町の情景は、下水の匂いが立ち込めている。魚屋の仁子さんの店には鰻が売られていて、仁子さんの右手首は義手だ。鰻と義手は、いうまでもなくペニスのメタファーだろう。下水が垂れ流される川も、どこか排泄行為や射精を思わせる。

本書は遠馬の暴力衝動がいつ発動するか、という着地点に向けて読者を連れていく。発動をもっとも恐れているのは遠馬自身で、実際に千種に暴力衝動の片りんを見せつけてしまう。それがもとで千種に会うのを避けられる遠馬は、性のはけ口を見失う。そんな17歳の目には、町のあらゆるものが性のはけ口に見えてゆく。例えば頭のつぶれた鰻であり、仁子さんの右腕であり、下水の汚れであり。

本書の結末はそんな予想を覆すものだ。仁子さんが円を右義手で刺し殺すという結末。それは、女性による暴力の発動という点で意表をつく。それだけではない。その殺人がペニスのメタファーである義手で行われたことに意味がある。多分、暴力の円環を閉じるには円自身ではいかんともできず、仁子が手を下さなければならないということなのだろう。そしてその代償は、円自身の暴力性の象徴であるペニスのメタファーでなくてはならなかったはず。

暴力の輪廻が閉じたことを悟った遠馬は、自らの中にある暴力衝動をはっきり自覚する。そして、それを一生かけて封印せねばならないとの決意を抱く。そのあたりの彼の心の動きが最後の2ページに凝縮されている。遠馬の封印への決意は、下水設置工事が裏付けている。川に直接流れ込んでいた下水が、下水整備によって処置されて海に流される。その様は、暴力衝動によって知らぬ間に傷ついていた遠馬のこころの癒しにもつながる。

そこに本書の希望がある。 「共喰い」の円環は閉じ、17歳の少年が健やかに成長していく希望が。

もう一作は「第三紀層の魚」。

第三紀層とは、本作にも説明が書かれているが、6500万年前から180万年前の日本列島が出来上がる時期の地層を指す。その時期に堆積した植物が今、石炭として利用されているのだ。そして、石炭はいまや斜陽産業。

主人公信道の住む町は、かつて石炭産業で栄えていた。だが、石炭産業の斜陽化は、街に閉塞感をもたらしている。加えて信道の家は、母と祖母と曽祖父の4世代がすみ、それぞれの世代が1人ずつという珍しい構成だ。曽祖父の回顧話を聞かされる役回りの信道にとっては、現代とは全てが過去に押しつぶされているようにも思える。だが、チヌ釣りの師匠としての曽祖父が持つ知恵は、信道に恩恵も与えてくれる。

釣りとは水の下に沈む魚を海面の上へと引き上げる作業だ。日の当たる場所への上昇。過去のしがらみに押しつぶされそうになっている信道の家にも、上に引き上げられるチャンスはある。そのチャンスが母の身に訪れる。東京への栄転だ。

本作は、地元を離れる信道の葛藤と、曽祖父の死で東京に行く決心をつける経緯が描かれる。地方から東京へ。それは、一昔前の日本にとっては紛れもなく立身出世への道だったと思う。本作は、そのような地方の閉塞感を、第三紀層という途方もない深さの地層に見立てた作品だ。地方創生が叫ばれる今だが、その創生とは、第三紀層を掘りつくさないと実現しないのか。それとも第三紀層の上に立派な地面を敷き詰めるところにあるのか。そんなところも考えながら、本作を読んだ。

最後に本書には、瀬戸内寂聴さんと著者の対話が収められている。源氏物語についての話題が中心だが、それだけではない。対談では、寂聴さんから著者への作家としての生き方の励ましでもある。小説を書くことでしか証が立てられない生き方とは、一見すると不器用に思える。でもその生き方はありだと思う。そして、とてもうらやましい。著者だけでなく読者をも励ます対談。実は私は瀬戸内寂聴さんの著作は一冊も読んだことがない。だが、この対談であらためて寂聴さんに興味を持った。作家としての覚悟というか、生きることの多様性をこの対談で示してくれたように思う。ビジネスの世界に住んでいると、目の前の課題に集中してどうしても視野が狭くなってしまう。その意味でも、この対談は読んでいて自分の視野狭窄を思い知らされた。また、対談では著者はとても素直に受け答えをしている。そこにはコミュニケーション障害などという言葉は断じて感じられない。この対談は、冒頭に書いた受賞会見で妙な印象がついてしまった著者の人物像を正しく見直すために、とてもよいと思う。

‘2016/07/01-2016/07/03


ポトスライムの舟


芥川賞の受賞作には、ちょっと目を引くような小道具がアクセントに使われることが多いように思う。本書においてはそれがポトスライムなのだろうけど、あくまでその立場は物語の背景を彩るアクセサリー的な感じ。物語の時間軸の流れを分かり易くしめすためだけにポトスライムが使われているところに注目したい。

突飛な奇矯な目を引くような設定もなく、いたって常識的な日常の描写だけでここまで読ませるというのも、著者の筆力によるものなんだろうけど、ポトスライムを食べたり、世界一周のポスターや、奈良の仏像など、物語世界の外を破るようなイメージの描写が合間合間に挟まれていることで、単調に描いている日々の流れにうまく起伏を挟み込んでいるからではないだろうか。

賞の選評で宮本輝氏が、清潔な文章と書かれていたけれど、賞狙いのような突飛な言動や設定に頼らず、ポトスライムをも物語のスパイスではなく、静物として置ききった著者の我慢の勝利といったところか。

本書には受賞作以外にも一編「十二月の窓辺」が収められており、その生生しさは、著者の経験がかなり色濃く私小説的なまでに込められているのではないかと思うほど。私もなんか他人事ではない気がした。逆にそれゆえに私には窮屈な作品に思えてしまったけれど、今の世間での企業内人間関係を切り取るという意味では小説として役割を全うしていると思う。

’12/1/21-’12/1/21


終の住処


サラリーマン作家の芥川賞受賞として話題になったこの本。

読後の印象は、その前に読んだ「ガラパゴス化する日本」の余韻が残っていたためか、非常に寒々としたものだった。

有能で真面目なサラリーマンが、外見では華やかに昇進していく一方、内側では怪異現象に遭遇したり、妻と11年も話をしなかったりと、波乱に満ちているにも関わらず、それは公的な場での彼の評価にはまったく影響を与えない。

アメリカへ乗り込んで重要な商談を片付けた後に残っていたのは、ろくろく登場しなかった娘の親離れ。そして待っているのは心が通ったとはとてもいえない妻との今後の生活。

日本という国家の戦後史が一人の男性に凝縮されたように感じたのは私だけだろうか。そしてこれからの日本は・・・・?活気をなくした老人だちだけが旧来のものを守りつつ余生を過すものになってしまうのか?

この本ではそのような問題提起がなされているように読んでしまった。

’11/11/10-’11/11/11


乳と卵


著者の本は初めて読んだ。芥川賞受賞作。

かなり饒舌な関西弁のセリフが縦横に飛び交い、それとは対極的にしゃべらない娘の日記調の独白がバランスを取っている。帯に山田詠美氏が饒舌なようでいて無駄がないセリフというようにおっしゃっていたけれど、そうかなぁ・・と自分の読みの浅さ故かと思ってしまった。

最後のほうで盛り上がりを見せる場面は、いかにも芥川賞受賞作的な感じがしたけれど、むしろ小説的にはこうこなくっちゃという感じ。

巻末には「あなたたちの恋愛は瀕死」という短編がついていたけれど、私はこちらのほうに強い印象を受けた。

’11/9/28-’11/9/29