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VOICARION ⅩⅦ 〜スプーンの盾〜


私が舞台を見るのは約一年ぶりだ。昨年の冬、大阪の上本町で「VOICARION ⅩⅥ 大阪声歌舞伎 拾弐人目の服部半蔵」を観て以来。
つまり、この一年間、VOICARION以外の舞台は全くみていなかった。メディアでも我が家でも某劇団に関する話題が飛び交っていたにもかかわらず。

昨年見た舞台のサブタイトルは「プレミア音楽朗読劇」となっていた。さらには「大阪声歌舞伎」とも。
本作も同じく朗読劇のはずだが、昨年のようなサブタイトルはつけられていなかった。

確かに、本作の演奏陣はグランドピアノやチェロ、バイオリン、フルート、パーカッションと西洋風で統一されている。
さらに、本作の登場人物にはナポレオンとタレーランがいる。つまりフランスが舞台だ。
そのため、「声歌舞伎」のサブタイトルはそぐわない。

本作の主人公は世界史上でも有名なナポレオンとタレーランの二人ではない。
本作の主人公はアントナン・カレーム。
私は実は本作を見るまでこの人物のことは全く知らなかった。フランス料理の歴史を語る上では筆頭に挙げられるほど有名な料理人だそうだ。
また一つ、自分の無知を思い知らされてしまった。

主人公が料理人であるため、舞台の設えは厨房をモチーフにデザインされている。
観客から見た舞台の構造は、上から三段に分かれている。一番上には鍋やレードルが吊り下げられ、厨房のような雰囲気を醸し出している。
そして、その下の中段には演奏陣が並んでいる。最も下、つまり観客から見ると少し上の目線に位置するのが朗読陣だ。

朗読陣には4名が並んでいる。観客から舞台をみて左から右にかけて、マリー役の井上喜久子さん、カレーム役の朴璐美さん、ナポレオン役の大塚明夫さん、タレーラン役の緒方恵美さんが並んでいる。

4人は朗読劇の間中、その場から動かない。出番がくればスポットライトに立ち、出番が終われば暗がりに座る。
出番の時は台本を手に朗読を行う。全員が声優を本職としているため、朗読の技はさすがだ。昨年の舞台でも同じことを思ったが、朗読がこれほど芸に昇華することを本作でもあらためて感じた。

昨年の舞台では同じ声優さんが別々の配役を担当していた。それが舞台上に不思議な効果を生んでいた。
その一方で、本作は一人一役に固定されている。緒方さんが演じるのはタレーランのみ。
そのかわり、各日の午前と午後の部によって担当する声優さんが変わる。タレーランだけでなく、マリーもナポレオンもカレームも。
東京では41公演が予定されているが、おそらくそのすべての公演ごとに配役のパターンが変わっているはずだ。

一公演の間は一人一役だが、別の日をみるとまったくちがう組み合わせで演じられる。
私が見た公演では、それぞれが完璧に役にはまっていたように思った。が、別の日はナポレオンを女性が演ずることもあるようだ。
でも、それぞれが男性も女性も演じ分けられるのだから、そうした区分けは不要だろう。本作でも男性のタレーランを女性の緒方さんが演じていたのだし。
それが観客にとって新たな発見をもたらす。
まさに朗読劇だからこそできるやり方だと感じた。

そして演奏陣も素晴らしかった。ピアノとバンドマスターを兼ねて見事に舞台を占めてくださった斎藤龍さん、ヴァイオリンのレイ・イワズミさん、チェロの堀沙也香さん、フルートの久保順さん、そしてパーカッションの山下由紀子さん。

フランスの激動の動きを具体的に説明するのが朗読陣のセリフだとしたら、演奏陣の皆さんは当時のフランスの空気を音楽に奏でていた。

また、本作も脚本が素晴らしいと感じた。
本作には、演奏陣による音楽、銃声が派手に音を立て、スモークが流れる演出もある。
ただし、朗読劇という性格上、俳優が動きで観客の目を惹くことができない。
つまり、脚本が演目の出来を大きく左右する。

本作はその肝心の脚本がお見事だと思う。
随所に印象的なセリフが語られ、それが私たちを当時のフランスの激動へと連れて行ってくれる。

また、脚本がお見事だと感じたのは、全編に通じるテーマが深いことだ。
そのテーマとは戦争と平和。
ロシアの文豪トルストイが著した大河小説のタイトルと同じだが、奇しくもこの小説が取り扱う時期も本作と同じナポレオン時代だ。

ナポレオンといえば、世界史上でも傑物としられている。一代でコルシカの貧しい出から皇帝へと上り詰め、人類史上でも有数の出世頭として名を残した。
だが、その生涯は戦いに次ぐ戦いであり、平和とは対極のイメージを持つ。

本作のユニークな点は、戦争を体現するナポレオンに対し、平和のひと時の象徴ともいえる料理を配置したことだ。料理人とはすなわち平和を作る人。
フランス料理を創始したとされるアントナン・カレームが体現する平和と、ナポレオンの嵐のような戦いの一生を組み合わせたところに本作の妙味がある。
戦争と平和を料理という観点から解釈しなおし、それを当代きっての偉大な人物になぞらえた点こそ、原作と脚本と演出をやり遂げた藤沢さんの卓見だと思う。

果たして戦いと料理は両立するのか。
本作では、最初は反発し合った二人が心を通い合わせていく様子が描かれる。それと同時に、同志だったはずのタレーランとナポレオンの間に隙間風が吹き始める。ナポレオンは皇帝という立場に縛られ、いつしか自由の心を失っていく。その一方で、戦争に傾倒するナポレオンの心中は、平和な体現者であるカレームと心を通わせ始める。
人を否応なく変えていく権力の恐ろしさと、権力に引きずられる人の心の弱さ。それが、戦争と平和という対立するテーマに集約されていくところに引き込まれた。

料理と戦争は、一糸乱れぬ統制を求める点で共通しており、対立するテーマではなく、むしろ近しい関係にある。
また、それぞれの人生には思い出となる食べ物がある。そこに人の哲学や信条が込められる(本作では硬いパンの上にある人生として二人の共通点が語られる)。
ということは、戦争と平和も互いに相いれぬ概念ではなく、ともに人の営みの上にある概念なのだ。

だからこそ、タレーランがウイーン会議でフランスは救われたと話す後に語る「世界は同じ晩餐会に参加している」というセリフが説得力を持つ。
戦争も平和もしょせんは人の織りなす社会の一側面に過ぎない、と。

今の世界情勢が私たちに突きつける世相を鑑みるに、本作の提示するテーマは考えさせられる。
ウクライナとロシアのいつ終わるともしれない戦い。イスラエルとパレスチナの長年にわたる争い。
戦争が愚かなことは事実だが、なぜいつになっても戦争は終わらないのか。
わが国では遠くの国の出来事として、私も含めて他人事に感じている。そして、おいしい酒や料理に舌鼓をうっている。

この矛盾こそが今のこの星の現実であり、私たち人間の永遠に克服できない業なのかもしれない。

本作もまた、機会があればもう一度観たいと思える作品だ。

‘2023/12/17 19:00開場 シアタークリエ
https://www.tohostage.com/voicarion/2023spoon/index.html


男役


妻に勧められて読んだ本書。意外なことにとても感動させられた。
それは、私にとって大きな驚きだった。これだから読書はやめられない。本書から意外な喜びが得られたことに満足している。

意外だと書いたのには理由がある。
それは、今の私がタカラヅカに対して嫌悪感に近い感情を抱いているからだ。
著者の作品を今まで読んだことがなかったことと、本書について何も知識が何もないままに読み始めたことを除いても、本書から受けた感動は予想外だった。
私のようにタカラヅカに対して嫌悪をもつような人がいれば、本書はお勧めしたいと思う。
本書は「歌劇」「宝塚おとめ」や「タカラヅカ・スカイ・ステージ」よりもよっぽどタカラヅカの魅力を伝えている。

なぜ私が嫌悪感を抱いているのか。それは妻がもう長いことタカラヅカのジェンヌさんのファンクラブ代表を務めているからだ。
本稿をアップした今も、妻は一カ月以上にわたる東京公演のため、朝から夜まで忙殺されている。歯医者の仕事は週に一度がせいぜい。家事も歯科医の仕事も差し置いて、無償の代表の仕事に人生の貴重な時間を捧げている。

代表の仕事について、私が抱いた嫌悪感については、
なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか
宝塚ファンの社会学
のレビューの中に書いたから本稿では詳しく繰り返さない。
ここまでの嫌悪を抱いたのは、表だっては私的なファンの集まりだから関与しないとの建前を謳いながら、裏では運営側の都合をファンクラブ側にまかり通そうとする劇団の姿勢に憤りを感じているからだ。

もちろん代表の仕事によって家庭に大きな負担がかかっていることは言うまでもない。代表である妻や娘たち、もちろん私にも。
一つだけ言えるとしたら、ファンクラブ代表になるなら、結婚や仕事での昇進は諦めた方がいい、ということだ。

一方で、嫌悪感を抜きに考えると、感心することもある。
それは無償で働く代表や多くのスタッフの存在だ。これは経営者として感心する。
代表やスタッフが担うのは、ジェンヌさんのマネジメント業務だ。表向きは私的ファンクラブの仮面をかぶりながら、実際に代表が行うのはジェンヌさんのマネジメント業務だ。
こうした仕事は本来ならば劇団が行うべき仕事。それを代表に担わせ、しかもその対価は劇団から支払われることはない。つまり無償だ。

経営者の立場からは、無償で働いてくれるスタッフがいることがどれほど羨ましいか。一人親方ならともかく、従業員がいなくては、会社は成り立たない。従業員が宝であることはもちろんだが、人件費は経営者にとっては現実のストレスとしてのしかかる。
タカラヅカのジェンヌさんの多くはファンクラブを立ち上げている。各ファンクラブは代表や複数人のスタッフを抱えている。彼女たちの多くは無償だ。あくまでも私的ファンクラブなのだから、少なくともタカラヅカには賃金を払う義務がない。賃金をもらっている代表やスタッフがいるとすれば、それらの賃金は、ジェンヌさん自身やジェンヌさんの実家から支払われている。言うまでもなくそれができるジェンヌさんは一握りだ。

タカラヅカの場合、人件費をかけずに業務の一端を担わせている。人件費をかけずに済むのだから、良いものができるのは当たり前だ。

こうした無償で働いてくれるスタッフや代表は、妻も含めてタカラヅカの観劇が好きでたまらない人であり、だからこそ無償でも働こうと思うのだろう。
彼女たちが惹かれているのは、小林逸翁が立ち上げたタカラヅカ百年の伝統が磨き上げてきた美意識であることは間違いない。

百年の伝統とは、プールの上に蓋をした黎明期の舞台から、レビューが軌道に乗った時期を通り越し、軍国色の強い演目を強いられた戦時中の苦しみなど、さまざまな歴史の上に醸成されたものだ。痛ましい死亡事故や、ベルばらブームなど、タカラヅカには試行錯誤と喜怒哀楽の歴史があった。
そこには歴代のジェンヌさんや演出家、大道具小道具とオーケストラ、衣装さんの努力があった。それらの努力のたまものが百年の伝統として昇華していることは公平に認めたい。
スタッフや代表が無償の労働で成り立っているのは、決して今の経営陣の努力ではない。百年前から脈々と受け継がれてきた伝統があってこそだ。

男装の女性が美しい衣装を身にまとい、華麗に舞い、魅惑的なメロディーを響かせる。
女性だけの舞台の上で、異性である男性を演じる姿は美しい。髭もなければ、ハゲもない。ましてやオヤジの加齢臭を漂わせることもありえない。永遠に美しい存在。観客の皆さんが男役に夢中になるのもわかる。

さらにタカラヅカのスターシステムは、下から次々と生徒が送り込まれる仕組みだ。だから、新陳代謝は激しい。観客はひいきのトップスターがやめても、青田買いのように生徒さんの中からお気に入りのジェンヌさんを見つけ出す。
だからこそ、男役を務めるプレッシャーも並大抵のものではないはずだ。
先輩のジェンヌさんに憧れ、その所作を学びながら、女が男を演ずる芸を極めていく。その姿は男だから女だからといったささいなことは関係ない。そこには舞台人として芸を極めることの難しさと尊さがあるのみ。

本書はそのような男役の姿を描く。男役の舞台での姿に魅入られ、タカラヅカの門をたたいた主人公。
日々の厳しい稽古と人間関係の難しさ。そんな合間に舞台でライトを浴びる高揚感。そのような芸事の厳しさと奥の深さに一生懸命な主人公に、伝説と化したかつての男役がファントムとなって語りかける。

つまり本書はミュージカルとして演目になったことであまりにも有名なガストン・ルルーのオペラ座の怪人、つまりファントムをモチーフに取り入れているのだ。
ミュージカルのファントムも、新進女優のクリスティーヌを見染めて一流の女優へと導こうとする。舞台芸術の世界に魅入られ、劇場の主と化したファントムの妄執がなせる技だ。
オペラ座の怪人の世界とタカラヅカを絶妙にミックスしているのが本書の特色と言える。より至高の舞台へと。刹那の芸術の美へと。

本書のファントムも同じ。舞台の魅力に取り憑かれ、劇場に住み着き、これはと思った新進男役に寄り添って支えようとする。崇高な舞台の輝きへ。男役の演技のより深い奥義へと。
なぜそこまで男役に執着するのか。それは、世界でもこのように女性が男性を演じる演技形態が稀だからだ。世界でもタカラヅカは稀な女性だけの劇団であり、今、ここでしか演じられないことが、男役の価値をより高めている。それは百年の伝統の中で代々、受け継がれてきた芸能であり、その希少性ゆえに観客を魅了し、演ずるジェンヌさん自身をもからめとる。

声をつぶしてまでも低音を響かせる技。一挙手一投足まで男を演じ切らなければならず、一瞬でも素の女を見せることは許されない。舞台を降りた後ですら、ファンの視線を意識しながら、日々の生活まで男を演じる。生き方から変えていかなければ務まらないのが男役の宿命。
だからこそ、ファントムのような主が至高の芸として伝えていかねばならない。
本書のこの設定はお見事だ。

そして、男役には相手となる娘役がいるのがタカラヅカのスターシステムのお約束だ。
同じ女性であっても、娘役からはトップの男役は憧れと恋愛の対象でありうる。さまざまな演目で愛する演技を続けていくうちに情が移る。本気で恋愛感情を持つ場合もあるだろう。むしろ、それぐらいトップの男役と娘役が強く絆を結んでこそ、ファンからは絶大な支持を受ける。
単なるレズビアンではない。そんな下世話な感情さえも超越した、現実と幻と役柄が混在した恋愛。
本書にもファントムにまつわる悲恋と、主人公とのご縁が終盤のクライマックスへ向けてつながっていく。

冒頭で私はタカラヅカに対して嫌悪感を持っていると書いた。だが、私はジェンヌさんに対してはそれを向けようとは思わない。特に妻がついているジェンヌさんに対しては。
彼女たちも与えられた環境の中で一生懸命やっているだけなのだから。だから、私の嫌悪は全て劇団に向けられる。
多分妻もそれを考えて私に本書を勧めてくれたのだろうし。
くしくも本稿をアップした本日は東京公演の千秋楽であり、一カ月半にわたる妻の苦労も報われる日だ。

もう私は二度とタカラヅカを見たいとは思わない。だが、それでももし本書がタカラヅカで舞台にかけられたら、心がゆらぐかもしれない。それほど本書には心を動かされた。

‘2020/06/13-2020/06/14


海の上のピアニスト


本作が映画化されているのは知っていた。だが、原作が戯曲だったとは本書を読むまで知らなかった。
妻が舞台で見て気に入ったらしく、私もそれに合わせて本書を読んだ。
なお、私は映画も舞台も本稿を書く時点でもまだ見たことがない。

本書はその戯曲である原作だ。

戯曲であるため、ト書きも含まれている。だが、全体的にはト書きが括弧でくくられ、せりふの部分が地の文となっている。そのため、読むには支障はないと思う。
むしろ、シナリオ全体の展開も含め、全般的にはとても読みやすい一冊だ。

また、せりふの多くの部分は劇を進めるせりふ回しも兼ねている。そのため、主人公であるピアニスト、ダニー・ブードマン・T・D・レモン・ノヴェチェント自身が語るせりふは少ない。

海の上で生まれ、生涯ついに陸地を踏まなかったというノヴェチェント。
私は本書を読むまで、ノヴェチェントとは現実にいた人物をモデルにしていたと思っていた。だが、解説によると著者の創造の産物らしい。

親も知らず、船の中で捨て子として育ったノヴェチェント。本名はなく、ノヴェチェントを育てた船乗りのダニー・ブードマンがその場で考え付いた名前という設定だ。
ダニー・ブードマンが船乗りである以上、毎日の暮らしは常に船の上。
船が陸についたとしても、親のダニーが陸に降りようとしないので、ノヴェチェントも陸にあがらない。
ダニーがなくなった後、ノヴェチェントは陸の孤児施設に送られようとする。
だが、ノヴェチェントは人の目を逃れることに成功する。そして、いつの間にか出港したヴァージニアン号に姿を現す。しかもいつの間に習ったのか、船のピアノを完璧に弾けるようになって。

そのピアノの技量たるや超絶。
なまじ型にはまった教育を受けずにいたものだから、当時の流行に乗った音楽の型にはまらないノヴェチェント。とっぴなアイデアが次から次へと音色となって流れ、それが伝説を呼ぶ。
アメリカで並ぶものはなしと自他ともに認めるジェリー・ロール・モートンが船に乗り込んできて、ピアノの競奏を挑まれる。だが、高度なジェリーの演奏に引けを取るどころか、まったく新しい音色で生み出したノヴェチェント。ジェリーに何も言わせず、船から去らせてしまう。
その様子はジャズの即興演奏をもっとすさまじくしたような感じだろうか。

本書では、数奇なノヴェチェントの人生と彼をめぐるあれこれの出来事が語られていく。
これは戯曲。だが、舞台にかけられれば、きらびやかな演奏と舞台上に設えられた船内のセットが観客を楽しませてくれることは間違いないだろう。

だが、本書が優れているのは、そうした部分ではない。それよりも、本書は人生の意味について考えさせてくれる。

世界の誰りも世界をめぐり、乗客を通して世界を知っているノヴェチェント。
なのに、世界を知るために船を降りようとしたその瞬間、怖気づいて船に戻ってしまう。
その一歩の距離よりも短い最後の一段の階段を乗り越える。それこそが、本書のキーとなるテーマだ。

船の上にいる限り、世界とは船と等しい。その中ではすべてを手中にできる。行くべきところも限られているため、すべてがみずからの意志でコントロールできる。
鍵盤に広がる八十八個のキー。その有限性に対して、弾く人、つまりノヴェチェントの想像力は無限だ。そこから生み出される音楽もまた無限に広がる。
だが、広大な陸にあがったとたん、それが通じなくなる。全能ではなくなり、すべては自分の選択に責任がのしかかる。行く手は無限で、会う人も無限。起こるはずの出来事も予期不能の起伏に満ちている。

普通の人にはたやすいことも、船の上しか知らないノヴェチェントにとっては恐るべきこと。
それは、人生とは本来、恐ろしいもの、という私たちへの教訓となる。
オオカミに育てられた少女の話や、親の愛情に見放されたまま育児を放棄された人が、その後の社会に溶け込むための苦難の大きさ。それを思い起こさせる。
生まれてすぐに親の手によって育まれ、育てられること。長じると学校や世間の中で生きることを強いられる。それは、窮屈だし苦しい。だが、徐々に人は世の中の広がりに慣れてゆく。
世の中にはさまざまな物事が起きていて、おおぜいのそれぞれの個性を備えた人々が生きている事実。

陸にあがることをあきらめたノヴェチェントは、ヴァージニアン号で生きることを選ぶ。
だが、ヴァージニアン号にもやがて廃船となる日がやってきた。待つのは爆破され沈められる運命。
そこでノヴェチェントは、船とともに人生を沈める決断をする。

伝説となるほどのピアノの技量を備えていても、人生を生きることはいかに難しいものか。その悲しい事実が余韻を残す。
船を沈める爆弾の上で、最後の時を待つノヴェチェントの姿。それは、私たちにも死の本質に迫る何かを教えてくれる。

本来、死とは誰にとっても等しくやってくるイベントであるはず。
生まれてから死ぬまでの経路は人によって無限に違う。だが、人は生まれることによって人生の幕があがり、死をもって人生の幕を下ろす。それは誰にも同じく訪れる。

子供のころは大切に育てられたとしても、大人になったら難しい世の中を渡る芸当を強いられる。
そして死の時期に前後はあるにせよ、誰もが人生を降りなければならない。
それまでにどれほどの金を貯めようと、どれほどの名声を浴びようと、それは変わらない。

船上の限られた世界で、誰よりも世界を知り、誰よりも世界を旅したノヴェチェント。船の上で彼なりの濃密な人生を過ごしたのだろう。
その感じ方は人によってそれぞれだ。誰にもそれは否定できない。

おそらく、舞台上で本作を見ると、より違う印象を受けるはずだ。
そのセットが豪華であればあるほど。その演奏に魅了されればされるほど。
華やかな舞台の世界が、一転して人生の深い意味を深く考えさせられる空間へと変わる。
それが舞台のよさだろう。

‘2019/12/16-2019/12/16


なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか 不景気も吹き飛ばすタカラヅカの魅力


私の実家の近くを流れる武庫川にそって自転車で一時間も走れば、宝塚市に着く。宝塚大橋を過ぎると右手に見えるのが宝塚大劇場。今や世界に打って出ようとするタカラヅカの本拠地だ。そのあたりは幼い私にとってとてもなじみがある。宝塚ファミリーランドや宝塚南口のサンビオラにあった大八車という中華料理屋さん。このあたりは私にとってふるさとと言える場所だ。

ところが本書を読み始めた時、私の心はタカラヅカとは最も離れていた。それどころか、車内でタカラヅカのCDが流れるだけで耐えがたい苦痛を感じていた。

なぜタカラヅカにそれほどストレスを感じるようになったのか。それは、妻が代表をやっていることへのストレスが私の閾値を超えたからだ。代表というのはわかりやすくいうと、タカラジェンヌの付き人のことだ。タカラジェンヌの私設ファンクラブの代表であり、マネジャーのようによろずの雑事を請け負う。その仕事の大変さや、理不尽なことはここには書かない。また、いずれ書くこともあるだろうから、そちらを読んでもらえればと思う。

私は、妻や妻がお世話をしているジェンヌさんに含むところは何もない。だが、それでも私が宝塚歌劇に抱いたストレスは、CDを聞くだけで耐えがたいレベルに達していた。

本書は、タカラヅカの世界に偏見を持つ方へ、タカラヅカの魅力を紹介する本だ。だから、わたしには少しお門違いの内容だった。

断っておくと、私は観劇は好きだ。今までにもいくつもの観劇レビューをブログにアップしてきた。舞台と客席が共有するあのライブ感は、映画やテレビや小説などの他メディアでは決して味わえない。コンサートの真価を感情を発散させることにあるとすれば、観劇の真価は感情に余韻を残すことにあると思う。

だから著者が一生懸命に熱く語るタカラヅカの魅力についても分かる。観客としてみるならば、タカラヅカの観劇は上質の娯楽だ。もし内容がはまれば、S席の金額を払っても惜しくないと思える。私が今まで見たタカラヅカの舞台も感動を与えてくれた。だが、本書を読むにあたって、私の心はタカラヅカの裏方の苦労や現実も知ってしまっていた。

心に深い傷を負った私がなぜ本書を手に取ったか。それは本書を読む10日ほど前、友人に誘われ、劇団四季の浅利慶太氏のお別れ会に参列したためだ。

浅利慶太氏は劇団四季の創始者だ。晩年は演出家としてよりも経営者として携わることの方が多かったようだ。つまり、理想では運営できない劇団の現実も嫌という程知っている。そんな浅利氏だが、すべての参列者に配られた浅利慶太の年譜からは、演劇を愛する一人の気持ちがにじみ出ていた。劇団四季の創立時に浅利慶太氏が書いた文章が収められていたが、既存の劇団にケンカを売るような若い勢いのある文章からは、創立者が抱く演劇への理想が強くにじみ出ていた。

ひるがえってタカラヅカだ。すでに創立から105年。創立者の小林一三翁が亡くなってからも60年がたつ。きっと小林翁が望んだ理想をはるかに超え、今のタカラヅカは発展を遂げたのだろう。だが、小林一三翁が理想として掲げた国民劇としての少女歌劇団と今の宝塚歌劇のありように矛盾はないだろうか。私には矛盾が見えてしまった。上にも書いた代表という制度の深い闇として。

もう一度ファンの望むタカラヅカのあり方とはどのようなものか知りたい。それが本書を読んだ理由だ。代表が嫌だからと駄々をこねて、すねていても仕方がない。タカラヅカから目を背けるのではなく、もう一度向き合って見ようではないか。

本書は私の気づいていなかった視点をいくつも与えてくれる。とても優れた本だと思う。

ヅカファンに限らず、あらゆるオタクは自らがはまっているものを熱烈に宣伝し、広めたがる。いわばエバンジェリスト。著者も例外にもれず、一生懸命ファンを増やそうとしている。中でも著者のターゲットは男性だ。

第一章では「男がタカラヅカを観る10のメリット」と題し、読者の男性をファンにしようともくろむ。たしかにここに書かれていることは分かる。モテる? まあ、私はタカラヅカに理解があるからといってモテた記憶はないが。ただ、タカラヅカを観ると意外に教養が身につくことは確かだ。もっとも、私が妻子に言いたいのは、タカラヅカが取り上げたから食いつくのではなく、元から自分の知らない世界には好奇心は持っておいてほしいこと。もっとも、極東の私たちが西洋の歴史など、タカラヅカがやってくれなければ興味が持てないのもわかる。そうやって受け身でみるからこそ、新たな知識が授かるのもまた事実。

第2章でも著者のタカラヅカ愛は止まらない。ここで書かれている内容も、妻からはたまに聞く。絶妙としか言いようのない世界。勧進元にしてみれば、完璧なビジネスモデルだと思う。ある程度放っておいても、ファンがコミュニティを勝手に運営し、盛り上げてくれるのだから。著者が挙げるハマる理由は次の五つだ。

(1)じつは健全に楽しめる。
(2)「育てゲー」的に楽しめる。
(3)財布の中身に応じて楽しめる
(4)年代に応じて楽しめる。
(5)「死と再生のプロセス」を追体験できる。

結局のところあらゆるビジネスはファンを獲得できるかどうかにかかっている。そして実際にタカラヅカはこれだけの支持を受けている。これはタカラヅカのコンテンツが消費者を魅了したからに他ならない。代表制度には矛盾を感じる私も、このことは一ビジネスマンとして認めるにやぶさかではない。

第3章では組織論に話が行く。ここは私にとっても気になった章だ。だが、ここの章では裏方には話が及ばない。代表の「だ」の字も出ない。あくまで表向きのスターシステムや組ごとにジェンヌ=生徒を切磋琢磨させる運営システムのことを紹介している。外向けには「成果主義」、組織内では「年功序列」、この徹底した使い分けがタカラヅカの強さの源泉である。と109ページで著者は説く。徹底したトップスター中心主義を支える年功序列と成果主義。さらに著者はそれの元が宝塚音楽学校の厳しいしつけから来ているという。

ここで私は引っかかった。最近は宝塚音楽学校もかつての厳しさがなくなり、生徒の親の圧力もあってかなり変質しつつある、と聞く。その割には、厳しい上下関係が代表の間でも守られる圧力があることも聞く。生徒間の軋轢の逃げ場が代表に行っているとなれば、ちょっと待てと思ってしまうのだ。たしかにタカラヅカはベルばらブームで復活した。それ以降は安定の運営が続いている。代表の制度などのファンクラブの組織もベルばらブームの頃に生まれたという。だから代表がタカラヅカの隆盛に大きな役割を担っているのは確かだろう。

そりゃそうだ。ジェンヌさんのこまごました身の回りのフォローも代表やスタッフがこなしているのだから。そしてその労賃はタカラヅカ歌劇団から支出されることはないのだから。代表制度は、ファンたちが勝手に作りあげた制度。宝塚歌劇としては表向きは全く知らぬ存ぜぬなのだ。

もちろん、今のジェンヌさんの活動が代表に支えられているのはわかる。メディア出演や舞台、練習。今のジェンヌさんの負担はかつてのジェンヌさんをかなり上回っているはず。今の状態で代表制度を無くせばジェンヌさんはつぶれてしまうだろう。それも分かる。日本社会のあり方は変わっている。昔は大手を振りかざして精神論をぶっても通じたが、今やパワハラと弾劾されるのがオチだ。

だが、それにしても代表に頼る風潮が生徒さんの間で濃くなってはしまいか。タカラヅカの文化を受け継ぐにあたってついて回る歪みやきしみや負担が代表にかかっている場合、代表制度が崩壊すれば、それはタカラヅカ崩壊につながる。

私が危惧するのは、宝塚の厳しい伝統やしつけとして受け継がれてきた文化が、じつは形骸化しつつあるのでは、ということ。しかもそれが代表制度への甘えとして出て来てはしまいか、ということだ。できればこの章ではそのあたりにも触れてほしかった。

本書で描かれるようなタカラヅカの魅力は確かにある。一観客としてみると、これほど素晴らしい世界が体験できることはそうそうない。そりゃ、皆さんだって劇場に足を運ぶだろう。だが、先にも書いた劇団四季も同じぐらい人々を魅了している。そして劇団四季にはそうした半ば公認され、非公認の私設ファンクラブなる矛盾した存在はない。劇団員がお茶会に駆り出されることもなく、舞台に集中できる仕組みが整っている。四季にできていることがタカラヅカにできない? そんなはずはない、と思うのだが。

裏方を知ってしまった私は、タカラヅカの今後を深く憂う。私が平静な心でヅカのCDを聞けるのがいつになるのかはともかく。著者の熱烈な布教にも関わらず、私の心は揺るがなかった。

‘2018/10/4-2018/10/4


あさあさ新喜劇 「しみけんのミッションインポジティブ」


26、7年ぶりの吉本新喜劇。そらもうめっちゃおもろかった!ゲラゲラ笑って、夏の暑さを吹き飛ばす。これが関西のお笑いやねん! クーラーの効きが悪うてスンマヘン、と座長の清水けんじさんが謝ってはったけど、暑さも感じひんほど、笑った一日やった。もう満足満足。

終わった後は、楽屋口のコロラドの入り口で、妻の友人、佑希梨奈さんと立ち話。圧巻のアドリブの嵐やった舞台の興奮をまくし立てる私。このライブ感が笑いの原点やがな!と一人でツボに入りまくり。もちろん妻も大笑い。いやあ、よかったよかった!

と、ここで観劇レビューを終えてもええんやけど、せっかくなんで、もうちょい書いてみよかいな。

前回、私が吉本新喜劇を観たのは、私が大学一年生の頃。当時、私がアルバイトをしていたダイエー塚口店のバイト先の社員さんやパートさんたちとなんばグランド花月まで観に行った。本場の吉本新喜劇を前にゲラゲラ笑ったのをめっちゃ思い出す。

今回の帰省で妻は、賀茂別雷神社にお参りをしたいと望んでいた。そのため、最終日は家族で京都を訪れるつもりだった。ところが、この日照りの中、興味もない神社には行きたくないと娘たちは言う。なので急遽、妻と二人きりの旅が決まった。そんな時、妻がFacebookで見かけたのが、妻の友人である佑希梨奈さんの書き込み。それによるとちょうど祇園花月の吉本新喜劇に出演しているとか。せっかくの機会なので、佑希さんの舞台を観たいと妻がいう。私も異論はない。26、7年ぶりの吉本新喜劇。しかも祇園花月にはまだ行った事がない。よし、行こうか、と夫婦の意見が合い、祇園花月での観劇が予定に加わった。

阪急の西宮北口から神戸線と京都線を乗り継ぎ、終点の河原町へ。鴨川を渡り、南座や八坂神社を横目に見ながら、祇園花月に到着。あたりは京都の風情と芸能の色で染まっている。祇園花月の外見は見るからにコテコテの吉本印。吉本のおなじみのキャラクターのパネルが入り口に立ち、いかにもな感じを醸しだしている。

うちら夫婦が訪れたこの日、吉本興業は、闇営業問題で大きく揺れている真っ最中。けど、問題なのはテレビに出ずっぱりの売れっ子だけの話。そうした問題は、昔からの演芸を地道にまじめにやっている吉本新喜劇にはあまり関係がないはず。私はそう信じている。

開幕前の前説ではピン芸人の森本大百科さんが、軽妙に客を盛り上げつつ、今日の客層をさぐろうとしている。一階席の前半分はほぼ埋まっていたが、後半分の席は私たちを含め四、五人しか座っていない。私たちの後ろの席はすべてがら空きで、いささか寂しい客の入り。まさか闇営業問題が尾を引いているとは思いたくないけれど。

客の入りが少ないのも理由があり、あさあさ新喜劇と名付けられた演目は新喜劇のみ。午後は、新喜劇のほかに漫才やその他、舞台芸が演じられる。私がかつて観たのもそうだった。けれど、あさあさ新喜劇は新喜劇のみ。だから値段が安く設定されているのだろう。

「しみけんのミッションインポジティブ」と題された演目のあらすじは、旅館の娘たちを狙う結婚詐欺師を捕まえるため、旅館の前に張り込む両刑事と旅館の人々が織りなすドタバタの物語だ。そして、冒頭に書いた通りとても面白かった。何が面白いかと言うとライブ感がすごいのだ。もちろん、練り込まれた笑いだって面白い。けれども、その場のアドリブや即興で逸脱していく面白さも喜劇の醍醐味だ。私はそう思う。客席からのヤジを絶妙に受け返してこそなんぼ。舞台に出る演劇人はそうしたあうんの呼吸を学び、台本にない演技をこなす「芸」を舞台の上で鍛え上げてゆく。

今回、見た舞台で言うと、チャーリー浜さんのアドリブや、山田花子さんのアドリブが目立っていた。山田花子さんは今の吉本をめぐる問題をおいしくアドリブのセリフにかえ、笑いをとっていた。そのアドリブのきわどさは座長の清水けんじさんを焦らせるほど。

そして、チャーリー浜さんだ。前回、私が見たときはちょうどチャーリー浜さんの全盛期にあたっていた。その時もチャーリー浜さんは舞台を食っていたような記憶がある。往年の「ごめんくさ〜い」のギャグは今回も健在。出演者一同がずっこけるのも相変わらず。そうしたお約束のボケツッコミは、吉本のDNAのようなもの。見に来たかいがあってうれしい。ただ、それよりも今回すごいなと思ったのは、アドリブのすごさだ。

清水けんじさんとの掛け合いは、あまりに二人の掛け合いのテンポが良いので、あらかじめ決まった台本なのか、と思えるほど。ところが、掛け合いの中で、大御所であるチャーリー浜さんにツッコミを入れる清水けんじさんのセリフはだんだんヒートアップしていく。台本にないアドリブをかますチャーリー浜さんを座長として叱っているようにも思えてくる。あらかじめ決まった筋書きが突如命を吹き込まれたような瞬間。こうなるともう完全なアドリブの世界だ。絶妙なアドリブを挟みつつ、その全てが観客にとってクスグリとなり、笑いを誘発する。それがすごい。さらに、ゲラゲラ笑えるのに二人の笑いは誰も傷つけない。せいぜい傷つくのは清水けんじさんの座長のプライドぐらい。

私は、今回まで清水けんじさんのことを全く知らなかった。吉本新喜劇の座長と言えば、過去のたくさんの名物座長が浮かび上がる。ところが私は、今の座長が誰かなんて知らずにいた。そんな私の認識を、清水けんじさんの姿は一新してくれた。チャーリー浜さんに猛烈にツッコミを入れる座長はすごいなと思った。こういう即興の笑いを生み出せる喜劇人は、いつ見てもすごいと思う。頭の回転が速くない私にとっては憧れだ。

何もかもがデータ上で流れる今。映画、テレビの笑いは編集された笑いになりつつある。視聴者もまた編集されたことを前提で笑っている。しょせんはスクリーンやテレビ越しの笑い。時差と空間差のある笑いだ。しかも、スポンサーや世論に遠慮して、どぎつく際どい笑いはもはや味わえなくなりつつある。ところが、新喜劇のお笑いには即興性がある。しかも誰も傷つけない笑いを会得しているため、忖度や遠慮は無用。だから面白いのだろう。

私は、喜劇とは生身のライブ感で味わうのがもっともふさわしいと思っている。それを心から感じ取れた笑いの時間だった。出演者の皆さんが、即興で笑いを呼び込む空間を作り、観客はそれに乗っているだけでいい。これこそ笑いの殿堂だ。確かに、よく練られたコントは絶品だ。面白い。だが、笑いとは場を共有することによってさらに増幅する。テレビにはそれがない。

舞台が始まる前、ズッコケ体験を受け付けていた。私たちも申し込んだ。ズッコケ体験とは、観客が舞台の上でギャグにズッコケられる観客体験型のイベント。舞台が一度終わった後の舞台挨拶で、ズッコケ体験の方々が四名呼ばれた。私は申し込んだ時点でズッコケ体験ができるものと思い込んでいた。四名の次に呼ばれるのは自分だと思い、どうやってズッコケようか真剣に悩んでいた。財布も席に置いて行こうとすら思ったほどだ。抽選で四名の方だけ、ということを知り拍子抜けした。次回、もし舞台の上でずっこけられたら、少しは私も笑いの極意が身に着けられるだろうか。

あー、東京でビジネスやっていると、笑いのセンスが身体から抜けていく。そもそも、こういう時間が取れてへんなあ。また見に行かんならん。

‘2019/08/04 祇園花月 開演 10:30~

https://www.yoshimoto.co.jp/shinkigeki/gion_archive/ar2019_07.html


エビータ


昨年、浅利慶太氏がお亡くなりになった。7/13のことだ。私は友人に誘われ、浅利慶太氏のお別れ会にも参列した。そこで配られた冊子には、浅利慶太氏の経歴と、劇団の旗揚げに際して浅利氏が筆をとった演劇論が載っていた。既存の演劇界に挑戦するかのような勢いのある演劇論とお別れ会で動画として流されていた浅利慶太氏のインタビュー内容は、私に十分な感銘を与えた。

ちょうどその頃、私には悩みがあった。その悩みとは宝塚歌劇団に関係しており、私の人生に影響を及ぼそうとしていた。宝塚歌劇団といえば、劇団四季と並び称される本邦の誇る劇団だ。だが、ここ数年の私は宝塚歌劇団の運営のあり方に疑問を感じていた。公演を支える運営やファンクラブ運営の体質など。特に妻がファンクラブの代表を務めるようになって以来、劇団運営の裏側を知ってしまった今、私にとってそれは悩みを通り越し、痛みにすらなっていた。その疑問を解く鍵が浅利慶太氏の劇団四季の運営にある、と思った私は、浅利慶太氏のお別れ会を機会に、浅利慶太氏と劇団四季について書かれた本を読んだ。キャスティングの方法論からファンクラブの運営に至るまで、宝塚歌劇団と劇団四季には違いがある。その違いは、演じるのが女性か男性と女性か、という違いにとどまらない。その違いを理解するには演劇論や経営論にまで踏み込まねばならないだろう。

宝塚の舞台はもういい、と思うようになっていた私。だが、お別れ会の後も、劇団四季の舞台は見たいと思い続けていた。今回、妻のココデンタルクリニックの七周年記念として企画した観劇会は、なんと総勢三十人の方にご参加いただいた。妻が25人の方をお招きし、妻が呼びきれなかった5名は私がお声がけし、一人も欠けることなく、本作を鑑賞することができた。

浅利慶太氏がお亡くなりになってほぼ一年。この日の公演も浅利慶太氏追悼公演と銘打たれている。観客席の最後方にはブースが設けられ、浅利慶太氏のポートレートやお花が飾られている。おそらく生前の浅利氏はそこから舞台の様子や観客の反応をじっくりと鋭く観察していたのだろう。ロビーにも浅利慶太氏のポートレートや稽古風景の写真が飾られ、氏が手塩にかけた演出を劇団が今も忠実に守っている事をさりげなくアピールしている。とはいえ、カリスマ演出家にして創始者である浅利氏を喪った穴を埋めるのは容易ではないはず。果たして浅利慶太氏の亡きあと、劇団四季はどう変わったのか。

結論から言うと、その心配は杞憂だった。それどころか見事な踊りと歌に心の底から感動した。カーテンコールは8、9回を数え、スタンディングオベーションが起きたほどの出来栄え。私は今まで数十回は舞台を見ているが、カーテンコールが8、9回もおきた公演は初めて体験した気がする。

私はエビータを見るのは初めて。マドンナがエバ・ペロンを演じた映画版も見ていない。私がエバ・ペロンについて持つ知識もWikipediaの同項目には及ばない。だから、本作で描かれた内容が史実に即しているかどうかは分からない。本作のパンフレットで宇佐見耕一氏がアルゼンチンの社会政策の専門家の立場から解説を加えてくださっており、それほど荒唐無稽な内容にはなっていないはずだ。

本作で進行役と狂言回しの役割を担うのはチェ。格好からして明らかにチェ・ゲバラを指している。周知の通り、チェはアルゼンチンの出身でありながらキューバ革命の立役者。その肖像は今もなお革命のアイコンであり続けている。同郷のチェがエバ・ペロンことエビータを語る設定の妙。そこに本作の肝はある。そしてチェの視点から見たエビータは辛辣であり、容赦がない。そんなチェを演じる芝清道さんの演技は圧倒的で、その豊かな声量と歯切れの良いセリフは私の耳に物語の内容と情熱を明快に吹き込んでくれた。

搾取を嫌い、労働者の視点に立った理想を追い求めたチェと、本作でも描かれる労働者への富の還元を実行したエビータ。いつ理想を追い求める点で似通った点があるはず。だが、チェはあくまでもエビータに厳しい。次々に男を取り替えては己の野心を満たそうとする姿。ついにファーストレディに登りつめ、人々に施しを行う姿。どのエビータにもチェは冷笑を投げかける。これはなぜだろうか。

チェが医者としての栄達を投げうちアルゼンチンを出奔したのは、史実では1953年のことだという。エビータがなくなった翌年のこと。ペロンは大統領の任期の途中にあった。チェの若き理想にとって、ペロンやエビータの行った弱者への政策はまだ手ぬるかったのだろうか。または、全ては権力や富を得た者による偽善に過ぎないと疑っていたのだろうか。それとも、権力の側からの施しでは社会は変えられないと思っていたのだろうか。おそらく、チェが残した著作の中にはエビータやペロンの政策に触れたものもあっただろう。だが、私はまだそれを読んだことがない。

本作は、エビータが国民の母として死を嘆かれる場面から始まる。人々の悲嘆の影からチェは現れ、華やかなエビータの名声の裏にある影をあばき立てる。そしてその皮肉に満ちた視点は本作の間、揺るぐことはなかった。本作は、エビータが亡くなったあとも国民からの資金では遺体を収める台座しか造られず、その後、政情が不安定になったことによって、エビータの遺骸が十七年の長きに渡って行方不明だったというチェのセリフで幕を閉じる。徹底した冷たさ。だが、チェの辛辣さの中には、どこかに温かみのようなものを感じたのは私だけだろうか。

本作の幕の引き方には、安易に観客の涙腺を崩壊させ、カタルシスに導かない節度がある。その方が観客は物語のさまざまな意図を考え、それがいつまでも本作の余韻となって残る。

敢えて余韻を残すチェのセリフで幕を下ろした脚本家の意図を探るなら、それはチェがエビータに対する愛惜をどこかで感じていたことの表れではないだろうか。現実の世界でのし上がる野心と、貧しい人々への施しの心。愛とは現実の世界でのし上がるための手段に過ぎないと歌い上げるエビータ。繰り返し愛を捨てたと主張するエビータの心の裏側には、愛を求める心があったのではないか。私生児として蔑まれ、売春婦と嗤われた反骨を現実の栄達に捧げたエビータ。その悲しみを、チェは革命の戦いの中で理解し、軽蔑ではなく同情としてエビータに報いたのではないだろうか。

そのように、本来ならば進行役であるはずのチェに、物語への深い関わりをうがって考えさせるほど、芝さんが演じたチェには圧倒的な存在感があった。本作のチェと同じような進行役と狂言回しを兼ねた役柄として、『エリザベート』のルキーニが思い出される。チェのセリフが不明瞭で物語の意図が観客に届かない場合、観客は物語に入り込めない。まさに本作の肝であり、要でもある。本作の成功はまさに芝さん抜きには語れない。

もちろん、主役であるエビータを演じた谷原志音さんも外すわけにはいかない。その美貌と美声。二つを兼ね備えた姿は主演にふさわしい。昇り調子に光り輝くエビータと、病に伏し、頰のこけたエビータを見事に演じわける演技は見事。歌声には全くの揺れがなく、終始安定していた。大統領選で不安にくれる夫のペロンを鼓舞するシーンでは、高音パートを絶唱する。その場面は、主題歌である「Don’t Cry For Me , Argentina」の美しいメロディよりも私の心に響いた。

そしてペロンを演ずる佐野正幸さんもエビータを支える役として欠かせないアクセントを本作に与えていた。史実のペロンは三度大統領選に勝ち、エバ亡き後も大統領であり続けた人物だ。だが、本作でのペロンは強さと弱さをあわせ持ち、それがかえってエビータの姿を引き立たせている。また、顔の動きが最も起伏に富んでいたことも、ペロンという複雑なキャラクター造形に寄与していたことは間違いない。見事なバイプレイヤーとしての演技だったと思う。

また、そのほかのアンサンブルの方々にも賛辞を贈りたい。一部のスキもない踊りと演技。本作は音楽と演技のタイミングを取らねばならない箇所がいくつもある。そうしたタイミングに寸分の狂いがなく、それが本作にキレと迫力を与えていた。さすがに毎回のオーディションで選ばれた皆様だと感動した。

そうした魅力的な人物たちの活動する舞台の演出も見逃せない。本作のパンフレットにも書かれていたが、生前の浅利慶太氏は、最も完成されたミュージカルとして本作を挙げていたようだ。もとが完成されていたにもかかわらず、浅利氏はさらなる解釈を本作に加え、見事な芸術作品として本作を不朽にした。

自由劇場は名だたる大劇場と比べれば作りは狭い。だが、さまざまな設備を兼ね備えた専用劇場だ。その強みを存分に発揮し、本作の演出は深みを与えている。ゴテゴテと飾りをつけることんあい舞台。円形に区切られた舞台の背後には、自在に動く二つの壁が設けられている。らせん状になった壁には、ブエノスアイレスの街並みを思わせる凹凸のレリーフが刻まれている。

場面に合わせて壁が動くことで、観客は物語の進みをたやすく把握できる。そればかりか、円で周囲を区切ることで舞台の中央に目には見えない三百六十度の視野を与えることに成功している。舞台の中央に三百六十度の視座があることは、舞台上の表現に多様な可能性をもたらしている。例えば、エビータの男性遍歴の激しさを回転する扉から次々に現れる男性によって効果的に表現する場面。例えば、軍部の権力闘争の激しさを椅子取りゲームの要領で表現する場面。それらの場面では物語の進みと背景を俳優の動きだけで表すことができる。三百六十度の視野を観客に想像させることで、舞台の狭さを感じさせない工夫がなされている。

そうした一連の流れは、演出家の腕の見せ所だ。本作の幕あいに一緒に本作を観た長女とも語り合ったが、舞台を演出する仕事とは、観客に音と視覚を届けるだけでなく、時間の流れさえも計算し、観客の想像力を練り上げる作業だ。総合芸術とはよく言ったもので、持てる想像力の全てを駆使し、舞台という小空間に無限の可能性を表出させることができる。今の私にそのような能力はないが、七度生まれ変わったら演出家の仕事はやってみたいと思う。

冒頭にも書いたが、8、9回に至るカーテンコールは私にとって初めて。それは何より俳優陣やスタッフの皆様、そして一年前に逝去された浅利慶太氏にとって何よりの喜びだったことだろう。

理想論だけで演劇を語ることはできない。赤字のままでは興行は続けられない。浅利氏にしても、泥水をすするような思いもしたはずだ。政治家に近づき、政商との悪名を被ってまで劇団の存続に腐心した。宝塚歌劇団にしてもそう。理想だけで劇団運営ができないことは私もわかる。だからこそ、ファンの無償の奉仕によって成り立つ今の運営には危惧を覚えるのだ。生徒さんが外のファンサービスに追われ、舞台に100%の力が注げないとすれば、それこそ本末転倒ではないか。私は今の宝塚歌劇団の運営に不満があるとはいえ、私は宝塚も四季もともに日本の演劇界を率いていってほしいと思う。そのためにも、本作のような演出や俳優陣が完璧な、実力主義の、舞台の上だけが勝負の演劇集団であり続けて欲しい。演劇とは舞台の上だけで観客に十分な感動を与えてくれることを、このエビータは教えてくれた。

私も友人にお借りした浅利慶太氏の演劇論を収めた書をまだ読めていない。これを機会に読み通したいと思う。

最後になりましたが、妻のココデンタルクリニックの七周年記念に参加してくださった皆様、ありがとうございます。

‘2019/07/06 JR東日本アートセンター 自由劇場 開演 13:00~

https://www.shiki.jp/applause/evita/


鈴木ごっこ


本書は、お客様が入居するオフィスビルの共用スペースに置いてあった。ちょうどその時、帰りに読む本を持ち合わせていなかったのでお借りした。そんなわけで、本書についても著者についても全く知識がなかった。なんとなくタイトルに惹かれたのと、読むのにちょうどよい分量に思えたから選んだだけのこと。ノーマークだし期待もしていなかった。ところが本書がとても面白かったのだ。まさに読書人冥利に尽きるとはこのこと。

膨大な借金を抱えた見知らぬ四人が一軒家に集められ、鈴木なにがしを名乗って暮らすよう強制される。一年間、同居生活をやりとげ、偽装家族であることがばれなければ借金はチャラにする。それが謎の黒幕からの指令だった。

それぞれの事情を抱えた四人は、借金を完済する同居生活に突入する。タケシ、ダン、小梅、カツオ。四人のうち、小梅とカツオが偽夫婦、ダンが偽息子、タケシは偽爺さんという設定だ。彼らの日々は平穏に済むはずがない。たとえば隣人に住む一家の美人の奥さんに恋をして、なおかつ落とせ、などという無謀な指令がカツオにくだされる。そんな指令に従いながらも、四人は何とか生活を送る。小梅は小梅でかつて磨いたレストラン経営の腕をいかし、自炊して四人を食わせる。

本書は四章に分かれている。それぞれの章は一年間の四季があてられている。ちょうど彼らの同居生活に合わせて。それぞれの章は、四人のそれぞれの視点で語られる。四人の生活は指令を乗り越えつつ、無事に季節は過ぎてゆく。そして、物語はハッピーエンドへ向かうように感じられる。なにしろ一年間の同居生活は毎日が規則正しい。そして小梅のつくる料理は栄養価もよいので、四人は健康体になってゆく。ところが最後にどんでん返しが待っているのだ。

本書のような設定は、不動産競売のための先住要件を満たすための手段としてよく知られている。宮部みゆきさんの『理由』でも似たような状況設定が描かれていた。いわゆるヤクザによって集められた者たちが仮面家族を演じる設定だ。ところが、そう思って読んでいると思わぬ落とし穴にはまる。本書の裏側を流れるカラクリに一回目ですべて気づくことのできる読者はいるのだろうか。私はほんの一部しか気づかなかった。本書の分量はさほど長くなく、むしろ短い。それなのにきちんと布石が打たれ、きれいにオチがつけられていることに驚く。しかも見事などんでん返しまで用意して。実は著者ってすごい人やないの。

後に著者のことを調べてみた。それによると著者は劇団を主催しているそうだ。そういわれてみると、本書には地の文による状況説明が少ない。物語のほとんどはセリフと登場人物の行動だけで進んでゆく。それは舞台芸術の流れそのものだ。また、ちょっと見ただけではそれぞれのセリフには大した意味は含まれていないように思える。実際、本書を読み終えてみてもそれらのセリフに深い意味はなかったことに気づかされる。これも聞いてすぐに観客の記憶から流れていってしまう舞台のセリフの感覚そのものだ。本書を構築しているのはシンプルな骨格とどんでん返しのためのわずかなギミック。

そして著者はあまりセリフに意味を与えず、短いストーリーの中で見事にどんでん返しをやってのける。これぞ舞台で鍛えられた腕なのだろう。または舞台のだいご味といってよいかもしれない。それは研ぎ澄まされたライブ感覚が求められる舞台上で鍛えられてきたのだろう。本書からは小説のすごさだけでなく、舞台芸術の持つ実力すらも教えられたように思う。

与えられた時間軸の中で効果的な印象を与える。それは舞台やテレビ関係者が書く小説で時折感じることだ。百田尚樹さんの短編集からも同じ感覚を感じた。おそらく、これは映像的な感覚をもっている作家に特有のスキルなのだろう。二つの芸術に共通するのは時間軸だ。時間の進み、そして時間の区切り。彼らはその制約をものともせず、舞台やテレビの仕事をやってのけている。時間をわがものとし、それを小説の中にうまく取り入れている。この気づきは私にとって新鮮だった。

本書の帯にはこういう文句が書かれている。
「ラスト7行の恐怖に、あなたは耐えられるか?」
この文句は少々大げさだ。恐怖は感じない。だが、ラスト7行のうち、初めの3行については、3回ほど読み直すことをお勧めしたい。別の意味の恐怖を感じるはずだ。それまでそのようなからくりに全く気付かずに読んでいたことに。そして、著者の筆力が自らの読解力を上回っていた事実に。私は最初、3行の意味を深くとらえておらず、恐怖は感じなかった。だが、本稿を書くにあたってもう一度本書を読んでみた。そして、ラスト7行のうち、最初の3行が抱く真の意味に気づきおののいた。

本書を読み、著者の他の作品を読んでみなければ、と思わされた。まったく、こういう出会いがあるから読書はやめられないのだ。

‘2017/06/21-2017/06/21


ベルリン、わが愛/Bouquet de TAKARAZUKA


本作は、私にとって初めて独りだけで観た舞台だ。独りだけで観劇することになった事情はここでは書かない。ただ、私の妻子は事前に本作をみていた。そして妻子の評価によると本作は芳しくないようだ。むしろ下向きの評価だったと言ってよいくらいの。そんな訳で、私の期待度は薄めだった。正直、事前に妻子が持っていたパンフレットにも目を通さず、あらすじさえ知らずに客席に座ったくらいだ。

そんな消極的な観劇だったにも関わらず、本作は私に強い印象を残した。私の目には本作が、宝塚歌劇団自らが舞台芸術とは何かを振り返り、今後の舞台芸術のあり方を確かめなおそうとする意欲作に映った。

なぜそう思ったか。それは、本作が映画を取り上げているためだ。映画芸術。それは宝塚歌劇そのものである舞台芸術とは近く、それでいて遠い。本作は舞台の側から映画を描いていることが特徴として挙げられる。なにせ冒頭から舞台上に映画館がしつらえられるシーンで始まるのだから。別のシーンでは撮影現場まで登場する。今まで私は舞台の裏側を描く映画を何作も知っている。が、舞台上でここまで映画の内幕を描いているのは本作が初めてだ。

舞台の側からこれほどまでに映画を取り上げる理由。それは、本作の背景を知ることで理解できる。本作の舞台は第二次大戦前のベルリンだ。第一次世界大戦でドイツが課せられた膨大な賠償金。それはドイツ国民を苦しめナチスが台頭する余地を生む。後の1933年に選挙で第一党を獲得するナチスは、アーリア人を至上の人種としユダヤ人やジプシー、ロマを迫害する思想を持っていた。その過程でナチスによるユダヤ人の芸術家や学者を迫害し、大量の亡命者を生んだことも周知の通り。そんな暗い世相にあって、映画はナチスによってさらにゆがめられようとしていた。映画をプロパガンダやイデオロギーや政治の渦に巻き込んではならない。そんな思いをもって娯楽としての映画を追求しようとした男。それが本作の主人公だ。脚本は原田諒氏が担当した宝塚によるオリジナル脚本である。

冒頭、舞台前面に張られたスクリーンにメトロポリスのタイトルがいっぱいに写し出される。私はメトロポリスはまだ見ていない。だが、メトロポリスをモチーフにしたQUEENの「RADIO GA GA」のプロモーションビデオは何度も見ている。なので、メトロポリスの映像がどのような感じかはわかるし、それが当時の人々にとってどう受けいれられたかについても想像がつく。

あらすじを以下に記す。METROPOLISのタイトルが記されたスクリーンの幕が上がると、プレミアに招待された人々が階段状の席に座っている。期待に反して近未来の描写や希望の見えない内容を観客は受け入れられない。人々は前衛過ぎるメトロポリスをけなし、途中退席して行く。メトロポリスを監督したのはフリッツ・ラング監督。この不評はドイツ最大の映画会社UFAの経営を揺るがしかねない問題となる。

そこで、次期作品の監督に名乗りを上げるのが、本作の主人公テオ・ヴェーグマンだ。彼はハリウッド映画に遅れまじと、トーキー映画を作りたいとUFAプロデューサーに訴え、監督の座を勝ち得る。

テオは友人の絵本作家エーリッヒに脚本を依頼する。さらに、当時ショービジネス界の花形であるジョセフィン・ベーカーに出演を依頼するため、楽屋口へと向かう。ベーカーは自らが黒人であることを理由に出演を辞退するが、そのかわりテオはそこで二人の女優と出会う。レニ・リーフェンシュタインとジル・クラインに。テオは、果たして映画を完成させられるのか。

本作は幕開けからテンポよく展開する。そして無理なく出演者を登場させながら、時代背景を描くことも怠らない。ここで見逃してはならないのが、人種差別の問題にきちんと向きあっていることだ。ジョセフィン・ベーカーはアメリカ南部出身の黒人。当時フランスを中心に大人気を博したことで知られる。本作に彼女を登場させ、肌の色を理由に自ら出演を断らせることで、当時、人種差別がまかり通っていた現実を観客に知らしめているのだ。先にも書いたとおり、ナチスの台頭に従って人種差別政策が敷かれる面積は広がって行く。それは、人種差別と芸術迫害への抵抗という本作のテーマを浮き彫りにさせてゆく。

本作が舞台の側から映画を扱ったことは先に書いた。特筆すべきなのは、本作が映画を意識した演出手法を採っていることだ。それはスクリーンの使い方にある。テオが撮った映画でジルが花売り娘として出演するシーンを、スクリーンに一杯に映し出す演出。これはテオの映画の出来栄えと、ジル・クラインの美しさを際立たせる効果がある。だが、この演出は一つ間違えれば、舞台の存在意義を危うくしかねない演出だ。舞台人とは、舞台の上で観客に肉眼で存在を魅せることが使命だ。だが、本作はあえて大写しのスクリーンで二人の姿を見てもらう。この演出は大胆不敵だといえる。そして私はこの演出をとても野心的で意欲的だと評価したい。しいて言うならば私の感覚では、モノクロの映像があまりにも鮮明過ぎたことだ。当時の人々が映画館で楽しんだ映像もフィルムのゴミや傷によって多少荒れていたと思うのだが。わざと傷をつけるのは「すみれコード」的によろしくないのだろうか。

美しい花を売る演技によって、端役に過ぎなかったジル・クラインはヒロインのはずのレニ・リーフェンシュタインを差し置いて一躍スターダムな評価を受ける。さらには、そのシーンに心奪われたゲッベルスに執心されるきっかけにもなる。

プライドを傷付けられたレニは、ジル・クラインがユダヤ人の母を持つこと、つまりユダヤの血が流れていることをゲッベルスに密告する。そしてナチスという権力にすり寄っていく。そんなレニのふるまいをゲッベルスは一蹴する。彼女がユダヤ人であるかどうかを決めるのはナチスであると豪語して。ジル・クラインに執心するあまりに。史実ではゲッベルスはドイツ国外の映画を好んでいたと伝えられている。本作でもハリウッドの名画をコレクションする姿など、新たなゲッベルス像を描いていて印象に残る。

あと、本作で惜しいと感じたことがある。それはレニの描かれ方だ。史実ではレニ・リーフェンシュタインは、ナチスのプロパガンダ映画の監督として脚光を浴びる。ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」の監督としても名をはせた彼女。戦後は逆にナチス協力者としての汚名に永く苦しんだことも知られている。ところが、本作ではレニがナチスに近いた後の彼女には一切触れていない。例えば、レニが女優から監督業にを目指し、ナチスにすり寄っていく姿。それを描きつつ、そのきっかけがジルに女優として負けたことにある本作の解釈を延ばしていくとかはどうだろうか。そうすれば面白くなったと思うのだが。もちろん、ジル・クラインは架空の人物だろう。でも、レニの登場シーンを増やし、ジルとレニの関係を深く追っていけば、レニの役柄と本作に、さらに味が出たと思うのだが。彼女の出番を密告者で終わらせてしまったのはもったいない気がする。

もったいないのは、そもそもの本作の尺の短さにも言える。本作がレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」と並演だったことも理由なのだろうけど、少し短い。もう少し長く観ていたかったと思わせる。本作の幕切れは、パリへ向けて亡命するテオとジルの姿だ。客車のセットを舞台奥に動かし、降りてきたスクリーン上に寄り添う二人を大写しにすることで幕を閉じる。この流れが、唐突というか少々尻切れトンボのような印象を与えたのではないか。私も少しそう思ったし、多分、冒頭にも書いた妻子が低評価を与えたこともそう思ったからではないか。二人のこれからを観客に想像させるだけで幕を下ろしてしまっているのだ。ところが本作はそれで終わらせるのは惜しい題材だ。上に書いた通りレニとジルのその後を描き、テオに苦難の人を演じさせるストーリーであれば、二幕物として耐えうる内容になったかもしれない。

惜しいと思った点は、他にもある。本作にはドイツ語のセリフがしきりに登場する。「ウィルコメン、ベルリン」「イッヒ! リーベ ディッヒ」「プロスト!」とか。それらのセリフがどことなく観客に届いていない気がしたのだ。もちろん宝塚の客層がどれぐらいドイツ語を理解するのかは知らない。そして、これらのセリフは本筋には関係ない合いの手だといえるかもしれない。そもそも他のドイツを舞台にした日本の舞台でドイツ語は登場するのだろうか。エリザベートは同じドイツ語圏のウィーンが舞台だが、あまりドイツ語のセリフは登場しなかった気がするのだが。

なぜここまで私が本作を推すのか。それは権力に抑圧された映画人の矜持を描いているからだ。 ナチスという権力に抗する映画人。この視点はすなわち、大政翼賛の圧力に苦しんだ宝塚歌劇団自身の歴史を思い起こさせる。戦時中に演じられた軍事色の強い舞台の数々。それらは、宝塚自身の歴史にも苦みをもって刻印されているはず。であれば、そろそろ宝塚歌劇団自身が戦時中の自らの苦難を舞台化してもよいはずだ。なんといっても100年以上の歴史を経た日本屈指の歴史を持つ劇団なのだから。 本作で脚本を担当した原田氏は、いずれその頃の宝塚歌劇の苦難を舞台化することを考えているのではないか。少なくとも本作のシナリオを描くにあたって、戦時中の宝塚を考えていたと思う。私も将来、戦時中の宝塚が舞台化されることを楽しみにしたいと思う。

それにしても舞台全体のシナリオについて多くを語ってしまったが、主演の紅ゆづるさんはよかったと思う。彼女のコミカルな路線は宝塚の歴史に新たな色を加えるのではないか、と以前にみたスカーレット・ピンパーネルのレビューで書いた。ところが、本作はそういったコミカルさをなるべく抑え、シリアスな演技に徹していたように思う。歌も踊りも。本作には俳優さん全体にセリフの噛みもなかったし。あと、サイレントのベテラン俳優で、当初テオには冷たいが、のちに助言を与えるヴィクトール・ライマンの名脇役ぶりにも強い印象を受けた。

先に舞台上に演出された映画的なセットや演出について書いた。ところが、本作には舞台としての演出にも光るシーンがあったのだ。そこは触れておかないと。テオがジルにこんな映画を撮り続けたいと胸の内を述べるシーン。テオの回想を視覚化するように映写機を手入れする若き日のテオが薄暗い舞台奥に登場する。銀橋で語る二人をピンスポットが照らし、舞台にあるのは背後の映写機と二人だけ。このシーンはとてもよかった。私が座った席の位置が良かったのだろうけど、私から見る二人の背後に映写機が重なり一直線に並んだのだ。私が今まで見た舞台の数多いシーンでも印象的な瞬間として挙げてもよいと思う。

あと、宝塚といえば、男役と娘役による疑似キスシーンが定番だ。ところが本作にそういうシーンはほとんど出てこない。上に書いたシーンでもテオはジルに愛を語らない。それどころか本作を通して二人が恋仲であることを思わせるシーンもほとんど出てこない。唯一出てくるとすれば、パリ行きの客車に乗り込もうとするジルの肩をテオの手が包むシーンくらい。でも、それがいいのだ。

宝塚観劇の演目の一つに本作のような恋の気配の薄い硬派な作品があったっていい。ホレタハレタだけが演劇ではない。そんな作品だけでは宝塚歌劇にもいつかはマンネリがくる。また、本作には宝塚の特長であるスターシステムの色も薄い。トップのコンビだけをフィーチャーするのではなく、登場人物それぞれにスポットを当てている。私のように特定の俳優に興味のない観客にとってみると、このような宝塚の演目は逆に新鮮でよいと思う。そういう意味でも本作はこれからの宝塚歌劇の行く先を占う一作ではないだろうか。私は本作を二幕もので観てみたい、と思う。

ちなみに、この後のレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」は、あまり新鮮味が感じられず、眠気が。いや、このレビューというよりは、もともと私がレビューにあまり興味のないこともあるのだが。でも、それではいかんと、途中からはレビューの面白さとはなんなのかを懸命に考えながらみていた。それでもまだ、私にはレビューの魅力がわからないのだが。でも「ベルリン、わが愛」はよかったと思う。本当に。

‘2017/12/20 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/berlinwagaai/index.html


十字架は眩しく笑う


とても面白かった。こういうコメディ作品は大歓迎。

本作はシチュエーション・コメディの王道を歩いている。シチュエーション・コメディといえば、一つの固定された場面の中で、登場人物たちが繰り広げるすれ違いや、行き違いから生まれる笑いを描く喜劇の形式を指す。本作の舞台は、冒頭を除けば一貫してとある喫茶店の店内となっている。つまり、シチュエーション・コメディの要件を満たしている。その喫茶店を舞台に十人の登場人物が入れ代わり立ち代わり現れて、すれ違いを生む。これもシチュエーション・コメディの常道。

すれ違いの面白さを生むためには、観客にしっかりズレを伝えることが求められる。観客は舞台上で演じられる全ての動きを見ている。誰がどういうセリフをいい、そのセリフを誰がどのように受け取ったかをすべて把握している。そのセリフを誰がどう勘違いして受け止め、誰が見当違いの答えを返すか。観客は舞台で演じられる勘違いを笑いで受け止める。だからこそ、脚本がきっちりと計算されていないと役者の勘違いが勘違いでなくなってしまう。それは単なる役者の演技になり、笑いにつながらないのだ。

そのため、役者の勘違いも真に迫っていなければ、笑いにならない。役者の間で間合いが共有できていないと、勘違いは途端に嘘くさくなる。そして笑いは失速してしまう。つまり、シチュエーション・コメディとは、脚本と演技ががっちり噛み合わなければ面白くならないのだ。本作はその二つががっちり噛み合っていた。素晴らしい脚本と演技に感謝したい。

本作は、暗転した舞台から幕を開ける。ベンチに座っているのは一人の男。彼は失業し、求人誌を手に持っている。寄ってくる鳩たちに持っていた最後のパンをあげる。財布には28円。トートバッグにはマジックグッズが見える。マジックに夢を託そうとしたがそれも破れた。ヤケになってハンカチから財布を取り出して見せるが、金や職は都合よくハンカチから現れない。追い詰められ、絶望する主人公。

人生を投げてしまおうか。そう思うが、どうせ投げるなら、と入ったのが喫茶店の中。そこで彼は何をしようとしたのか。レジ荒らし? だが、彼は悪事に手を染めない。その代わりにそこから勘違いとすれ違いの歯車が回り出す。主人公に付いたハトのフン、それにおびき寄せられて来たハエと手に持った求人誌。それが誤解と騒動の引き金となる。出入りの八百屋、店員の三姉妹、おかしな常連客たちに突拍子もない闖入客、マスター。そこにマジシャンくずれの失業者が騒動を引き起こす。

忍び込んで来たはずが、行きがかり上「日本ハエと蚊コーポレーション」という害虫駆除業者になり、喫茶店の求人に応募して来た新人のウェイターにおさまる主人公。さらに誤解から店員の三女のパートナー(フィアンセ)になり、常連客のママからの願いで密かに惹かれ合っている長女と常連客をくっつけるために霊媒師にもなる。そして、次女からのお願いで体調を崩したオーナーに娘たちの嫁ぐ姿を見せようと、三姉妹それぞれに相手がいることをお膳立てしようとする。そんなところに、かつて次女がアイドルをやっていた頃、熱烈すぎてストーキングを働き、お詫びにと手作りケーキを持って来た男がやってくる。一つのウソがとてつもない誤解とすれ違いを引き起こしてゆく。シチュエーション・コメディの本領発揮だ。

なお、舞台後のあいさつで知ったのだが、このストーカー役を演じた多田竜也さんは、本番の二日前に急遽、小林さんが降板され、代役で起用されたとか。二日で合流したとはとても思えないほどオタクな感じが自然に出ていて、さすが役者さん、とうならされた。

ほかの俳優さんも、いずれも芸達者な方ばかり。冒頭に書いた通り、間合いが肝のシチュエーション・コメディ。少しでも演技らしさが混じると失敗しまう。そんなほころびを一切みせず、素晴らしい演技だったと思う。鯛プロジェクトのブログに紹介が載っているが、その順番でご紹介してみる。田井弘子さんは本作の企画と製作もつとめ、さらにおっとり長女役でも舞台に上がるという要の方。死んだ女性に憑依されながら、介護試験の勉強のためお婆さんも演じつつという複雑怪奇な場面は印象的。伊藤美穂さんは、しっかりものの次女役。最初は店に侵入した主人公を怪しく思う。が、オーナーである父を安堵させようと騒動に一役買う元アイドルという複雑な役を演じていたのが印象的。すがおゆうじさんは、本作では一番まともな役柄だが、真面目なあまり騒動に巻き込まれていく様、最後に人情あふれる雰囲気になってからは主役級の存在感を出していたのが印象的。せとたけおさんは、出入りの八百屋兼、地元劇団の素人俳優という役柄。ドラクエⅢの僧侶のいで立ちで現れる後半は、格好だけでも存在感ありありだった。喫茶店の地元の仲間という感じが印象的。田井和彦さんは、三女に思いを寄せる常連客の警官という役回り。これがまたとてもエキセントリックでいい味出しまくっていた。エキセントリックなのに憎めずほほ笑ましいキャラが印象的。中山夢歩さんは主人公。主人公でありながら、トリックスターとしても本作の重要な役どころ。とても端正なマスクでありながら、次々と周りの誤解に応えようとしてさらに舞台を混迷に陥れる様が印象的。堀口ひかるさんは、三女としてご出演。序盤から中盤にかけての本作のコメディ担当の主役でした。メイド喫茶設定と普通の喫茶店設定がごちゃごちゃになる部分はとても面白かった。佑希梨奈さんは、妻の友人であり今回お招きいただいた方。感謝です。母がいない三姉妹の母替わり、そして近所のスナックのママとして常連という役。おおらかな感じでいながら、場面をますますややこしくする様は、本作の雰囲気を温かくしてくれていた。渡邊聡さんは心臓が悪い喫茶店のオーナー。実は本作の要はこの方にあるのでは、と思えた。からだが悪い様を、歩き方だけでなく、顔に血を集めて真っ赤にすることで表わしていたのが印象的。あれどうやって演じるんやろ。

さて、本作はシチュエーション・コメディだと冒頭で書いた。古き良き日本の大衆喜劇に通じる伝統を継承しているかのように。実際、私は本作を観ていて、吉本新喜劇に通じるモノを感じたくらいだ。ところが本作には吉本新喜劇に付きものの定番ギャグがない。喜劇として笑わせる部分はしっかり笑わせながら、定番ギャグに頼らないところが新鮮でとてもよかった。また、笑いも、弱い者をいじったり観客をいじったりせず、すれ違いの面白さに焦点を合わせていたのが良かった。本作はとても万人にお勧めできる喜劇だと思う。また、本作が新喜劇を思わせたのは、しっかりと人情でホロリとさせてくれるところだ。その人情味が本作の余韻として残った。本作はすれ違いを笑いに変えるコメディだが、すれ違いを招くウソの多くは、オーナーのためを思ってのこと。つまり、人のためになることをしようとしてつかれたウソだから嫌みがない。とてもすがすがしい。

さらに、もう一つホロリとさせるため、作中に大きな仕掛けが用いられている。観ている間にいくつかそういう場面には気づいた。だが、それが最後の演出につながるとは予想の外だった。そしてその効果をあげるため、それぞれの場面をリプレイする演出がある。そこでも役者さんたちの演技が光っていた。主人公がマジシャンくずれという冒頭の伏線が見事にきいた大団円。これは、観劇の良い余韻となって残る。あまり舞台は観ていないので、作・演出を手掛けた西永貴文さんのお名前は存じ上げなかったが、素晴らしい手腕だと思った。舞台後に佑希梨奈さんと西永貴文さんにはご挨拶させて頂いたが、また機会があれば観てみたいと思った。

誉めっぱなしだと単調なので、観ていない方にとって不親切を承知でチクリとひとことだけ言う。勇者と魔術師と踊り子と僧侶が魔物と戦う場面。ここをもうちょっと真に迫ったほうがよかったのになあ、と思った。作中は違和感を感じなかったが、リプレイではちょっと違和感を感じた。まあ、余興という設定なので、迫真にするとかえって浮いてしまうのかもしれないが。

それにしてもいい舞台だった。皆さまに感謝。

‘2017/09/16 THEATER BLATS 開演 19:00~

https://taiproject.jimdo.com/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/


THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/scarletpimpernel/index.html


SING シング


吹き替え版を映画館で観ることは滅多にないけれど、本作は家族の意向もあって吹き替え版で観た。それもあってか、劇場内は小さい子供達で沢山。予告編を観た感じでは子供向けの内容だろうなと思っていたけれど、私の予想以上に子供が多かった。

潰れかけた劇場を歌で救う、という内容はそれだけだとありきたりに思える。でも、本作はステージで歌を唄う登場人物たちに細かくキャラ設定されている。それも子供を飽きさせないよう手早く。また、筋書きも登場人物たちの抱える事情をうまく演出に組み合わせ、奥行きのあるストーリー展開を展開している。その辺りの演出上の配慮には好印象を抱いた。

潰れかけた劇場のオーナー、コアラのバスター・ムーン。極度のあがり症だが音楽が歌うのも聞くのも大好きな、ゾウの少女ミーナ。彼氏と組んでパンクロックを演っている、ヤマアラシのアッシュ。父が頭目の盗賊団に行きたがらず音楽の道を目指す、ゴリラのジョニー。陽気な性格でステージデビューを遂げる、ブタのグンター。25人の子育てに奮闘しながら、自分の可能性を追いたい、ブタのロジータ。音大を出たプライドを持ちながらストリートミュージシャンで生計を立てる、ネズミのマイク。彼らは種族も境遇もそれぞれに違う。それぞれが自分の生活に苦労しながら、共通するのは音楽が好きなこと、そして音楽で自分を表現すること。

多分それは、本作で声優に起用された俳優や歌手にとっても同じに違いない。本家も吹き替え版も関係なく。今回は吹き替え版を鑑賞したわけだが、皆さんとてもお歌が上手い。音楽の好きで心の底から楽しんでいる感じがとてもよかった。特にミーナを演じたMISIAはさすがに上手かった。皆、音楽が好きで演じるのが好きで本作に起用されたことが良く分かる。

SINGというタイトル通り、本作には歌があふれている。英語圏の映画だけに、洋楽が好きな人にはおなじみの曲が何曲も登場する。1960年代のGimme Some Lovin’や My Way、そしてVenus。1980年代のWake Me Up Before You Go GoやUnder Pressure。90年代、00年代、10年代もレディー・ガガやテイラー・スイフトとか、曲名が出てこないけど知ってる曲ばかり。欧米の世代を超えて通じる曲の多さには嬉しく、そして羨ましくも感じる。

我が国には本作で取り上げられたような、世代を超えて歌われるような曲はどれぐらいあるのだろう。本作を観ていてそう思った。例え落ちぶれて身ぐるみ剥がされるまでになっても、喉が元気なうちは歌がある。そして、落ち込んだ時に唄える歌が口ずさめることは、どれだけ気が楽になるか。日ごろから忙しい生活を過ごしていると、分かっていてもなかなかそれに気づかないものだ。音楽の力とは言い古されているかもしれないが、確かにある。そしてカラオケボックスの中よりも、不特定多数の人々の前で歌い上げるという経験によると思う。人前で声を上げて自分を主張することは、人生を変える力を確かに持っている。本作は、そんな音楽の力に気づかせてくれる。

そんな余韻を味わいながら映画館を出て、家族で向かったのはパルテノン多摩。Brass Festa多摩 2017を鑑賞した。吹奏楽の祭典。ホールに音楽が響きわたる。演目の中には時代劇の有名テーマ曲があり、日本に伝わる唱歌の吹奏楽アレンジがあり。これがかなり胸に響いた。我が国にもこういった歌があるのだ。そのことにあらためて気づかされた。そしてアンコールでは観客も交えて「ふるさと」を唱和した。これがよかった。ただ聞くだけでなく、自ら歌うことの効能といったら!

本作の登場人物たちも、唄うことで、自分を表現することで自分の人生を変えようと努力している。多分それは、本作をみた観客にとっても言えることだと思う。人生はSINGすることで、良い方向に持っていけるはず!

’2017/03/20 イオンシネマ多摩センター


噂 ルーマーズ


ニール・サイモンと云えば喜劇作家として知られた存在だ。でも、今まで私は舞台やスクリーンを含めてその作品を観劇する機会がなかった。かねてからアメリカの喜劇に興味を持っている私としては、舞台で一度きちんと観てみたいと思っていた。そんな折、ニール・サイモン作品を初めて観劇する機会を得た。

今回妻と観にいったのは「噂-Rumours」。演ずるのは演劇レウニォン トップガールズと仲間たちである。女性6人、男性4人によるストリート・プレイ。麻布区民センターの区民ホールは座席数175名と小規模だったが、おかげで舞台全体がよく見渡せたし、10人の動きがよく把握できた。これぞ小劇場の醍醐味。小劇場での観劇は久しぶりだが、この距離感こそが演劇の楽しみ方として正当だと思う。

本作はニューヨーク郊外の豪邸の居間を舞台としている。暗転して登場するのはクリス・ゴーマン。取り乱した様子で右往左往している。そんな彼女に指示を出しながら二階から降りてきたのは夫のケン・ゴーマン。二階のチャーリー・ブロックの部屋から降りてきた彼もまた、平静ではない様子。この家の主であるチャーリーはニューヨーク市長代理。ゴーマン夫妻は到着するやいなや、銃声を耳にする。チャーリーが自分で耳たぶを撃ったのだ。そのことで動転しつつ、事態を穏便に済ませるため隠蔽をたくらむ夫妻。しかし、チャーリーが大変なことになっているのに妻であるマイラの姿は見えない。お手伝いさんもいない。チャーリーとマイラの結婚10周年記念パーティーに呼ばれたはずが、ゲストである自分達が事態の収拾を行わねばならなくなる。そうしているうちにパーティーに呼ばれた客たちが時間を空けて次々とやってくる。レニーとクレアのガンツ夫妻。アーニーとクッキーのキューザック夫妻。そしてグレンとキャシーのクーパー夫妻。クリスとケンの隠蔽のたくらみが、ガンツ夫妻を巻き込み、さらにその隠し事はアーニーとクッキーを混乱に落とし込み、グレンとキャシーまでも勘違いと行き違いの中で夫婦仲の悪化をさらけ出すことになる。

次々と登場する8人の人物が居間、チャーリーの部屋、台所と舞台から自在に出入りする。さらに頻繁にかかってくる舞台左脇の電話が彼らの混乱に拍車をかける。ケンはチャーリーの部屋で誤って拳銃を暴発させてしまい耳が一時的に聞こえなくなる。耳の聞こえないケンの行動が彼らの勘違いを一層混迷に突き落とす。このあたり、喜劇の舞台を作ってゆく手腕はさすがの一言。

とうとう隠し果せなくなり、ケンとクリスが意図した隠蔽は破綻する。なぜパーティーなのにホストがいないのか、この家でいったい何が起こっているのか。あとから来た6人にとって違和感が解ける瞬間だ。ところが、そこに警官が二人訪問する。慌てふためく8人。彼らはいずれもニューヨークの名士。スキャンダルは避けたい。警官を相手に演ずる必死の隠蔽工作がさらなる笑いを産み出す。喜劇作品の本領発揮だ。

幕間なしの1時間35分はライブ感覚にあふれていて、とても良かった。多少のとちりかな?という台詞も見え隠れしたけど、すぐに台詞で挽回していたため、進行には全く問題なかった。とくに最後、レニーによる長広舌の部分は見せ場。咄嗟に警官に説明するための嘘をこしらえ、即興で説明する様子の演技はお見事。あれこそが本作の山場だと思う。その臨場感は演劇のライブならでは。小劇場の舞台と客席の近さ故、舞台上の時間と空間を堪能することができた。

演劇は映画と違って、ナマモノだ。編集という作業でどうにかできる映画とは違う。そのあたりの緊迫感は演劇ならでは。また、公演期間内に修整が出来てしまうのも演劇の良さだろう。正直、本作はまだまだ良くなると思う。トップガールズと仲間たちにとって、今日は初日だった。なのでこの後も間合いの修正や台詞回しについて修正を行っていくのではないだろうか。私が観ていても、まだまだ本作の秘める笑いのツボはこんなもんじゃない、と思った。宣伝文によると過去の舞台では700回の爆笑が産まれたという。が、座長の白樹栞さんが最後の挨拶で77回の笑いがありました、といっていた通りあと10倍の笑いが取れる台本だと思う。今回は後からじわじわ来たという妻の言葉通り、観客にストレートに笑いの神が降りてきたわけではなく、一旦脳内で変換されてからその面白さが感じられた。たとえば許されるとすれば台本に忠実に設定情報を持ってくるのではなく、日本の都市に舞台設定を変えるとか。すれ違いの面白さは東京でもニューヨークでも一緒のはず。

次回、同じメンバーで演じた舞台を観る機会があればどう変わっているか。その変化を楽しむのも舞台のよいところだ。落語もそう。一つの噺を口伝で練り上げていくのが落語芸術。喜劇もまた同じに違いない。このように観劇後の劇評に花を咲かせられるのも舞台の良いところ。常に同じい内容が固定の映画とは違い、見るたびに発見があるのも舞台のよいところだ。私も今回の観劇を機会に、映画や演劇の喜劇を観る機会を増やそうと思う。ニール・サイモン作の舞台は他の劇団による公演も含めて観てみたい。もちろん、今回演じた10人の皆様による舞台も。

いずれの役者さんも私にとっては初めてお目にかかる方なのだが、ご一緒に公演後のホールでお写真を撮らせて頂いた佑希梨奈さんは、本作が久々の舞台なのだとか。でも冒頭の右往左往するシーンなど、堂々としていた。他の方も非常にコミカルかつ舞台での存在感を発揮していたように思った。また機会があればどこかの劇場でお目にかかれると思う。私もこういった小劇場の演劇を観られるようにしたいと思っている。

‘2016/9/9 麻布区民センターホール 開演 19:00~

https://homepage2.nifty.com/masuzawa/hot_news.html


繁栄の昭和


いつの間に筒井御大の最新作が出ていたのを見逃していた。不定期的にWeb連載されているblog「偽文士日録」1、2ヶ月に一度はチェックしているのに。不覚。

本書は短編集である。題名を見ただけでは高度成長期の日本を舞台にした内容と思う向きもあろう。高度成長期といえば、著者がスラップスティックの傑作を連発していた時期。繁栄とは著者自身の脂の乗り切った作家生活のそれを
指しているのではないかと。しかし、そうではない。

繁栄の昭和
大盗庶幾
科学探偵帆村
リア王
一族散らし語り
役割演技
メタノワール
つばくろ会からまいりました
横領
コント二題
附・高清子とその時代

「繁栄の昭和」
時代設定や文体など、本書に収められたそれぞれの短編は旧かな遣いこそ使っていないが昭和初期を意識している。名探偵や魔術師といった登場人物の肩書きは江戸川乱歩のそれ。主人公は緑川英龍なる架空の探偵小説作家の愛読者という設定。その主人公がとある事件の探偵を頼まれ捜査に乗り出す。ご丁寧に事件の犯行現場見取り図まで載せられている。

主人公は自らを緑川英龍の小説世界の登場人物になぞらえる。そして主人公の生きるのが昭和40年代なのに昭和初期を思わせる描写になっていること。そしてそれが緑川英龍の昭和の繁栄をとどめたいとする意図であることを看破する。言わば本編は小説のメタ世界を描いた一編である。著者にとってはメタ小説はお手の物だろうが、それを敢えて作り物っぽい昭和初期の時代設定でやってみせたのが本編。

「大盗庶幾」
少年の頃、ポプラ社の少年探偵団シリーズに熱中した人は本編に喜ぶに違いない。華族に生まれ、好奇心や運命の導きで軽業や変装を覚えた男の成長譚が本編だ。少年探偵団シリーズを読み込んだ方には、早い段階でこの物語が誰を描いた物語かピンと来るはず。そういえば江戸川乱歩の著作でも、他の方の著作でも彼の成り立ちを読んだことがないことに気付いた。しかし、彼の前半生は、少年探偵団シリーズの愛読者にとって大いに気になるはずだ。何故執拗に明智小五郎に挑戦状を叩きつけ続けるのか、彼の財力や組織力はどこから湧いてくるのか。本編末尾に明かされる正体は、もはや蛇足といってよいだろう。怪人二十面相。

「科学探偵帆村」
著者の元々の得意分野であるSFに昭和初期の荒唐無稽な空想科学小説の赴きを加えた小品。とはいえ、本編の舞台は昭和から平成の現代へと移る。処女懐胎をテーマに御大の放つ毒がちらちらと漂う一編。特に最後の文などは著者の作品ではおなじみの締め方だ。

「リア王」
著者のもう一つの顔が舞台役者であることは有名だ。本編では舞台役者としての自身に焦点を当てている。短編の場を借り、著者が望む演劇の姿を披瀝する。とかく堅苦しく考え勝ちな演劇論に一石を投じた一編といえよう。

「一族散らし語り」
著者が一頃影響を受けていたマジックリアリズム。私も著者のエッセイなどからマジックリアリズムを知り愛好するようになった。そのマジックリアリズムを日本古来の怪談風味で味付けた一編。願わくば、この路線で凄まじい長編を上梓して頂ければ。御大なら出来うると思うのだが。ま、これは単なる一ファンの世迷い言である。

「役割演技」
著者の風刺がピリッと効いている。社交界の華やかな舞台に現れては消える主人公。実は社交界の華という役割を担う、下層階層の雇われ人。ブランドや女優のカタカナ語の乱舞する前半から、マイナスイメージのカタカナがまばらな後半まで。著者の風刺精神は今なお健在で嬉しくなる。

「メタノワール」
テレビ界でも未だに顔の利く著者の多彩な交流が垣間見える一編。実名で俳優達がズバズバ登場。俳優としての著者の、舞台裏と舞台上の姿が交わりあい、役割の境目が溶けて行く。俳優としての己を表から引き下げ、メタ世界から見つめた世界観は流石。

「つばくろ会からまいりました」
短い掌編。入院した妻に変わって家政婦としてやって来た若い女性との交流を描いている。家で夕食を誘ったところ、呑みすぎて泊まってしまった彼女。モヤモヤとしながら男は手を出さない。翌朝、彼女は行方不明となり、妻は昏睡状態となる。妻が彼女の姿を借りて、最後に交流するという筋。愛妻家として知られる著者の今を思わせる好編。

「横領」
小心ものであるが業務上背任の罪を犯した男女の寸劇がハードボイルドタッチに描かれる。著者のペダンチックな思想が登場人物の部分として登場し、著者の考えの断片を短編化しようとした一編。本書に収められた諸編の中ではいまいち消化できなかった一編である。

「コント二題」については、ノーコメント。

「附高清子とその時代」
本編はかつて著者の上梓したベティ・ブーブ伝を彷彿とさせる。トーキー時代の女優高清子をについてエッセイ風に論じている。私にとって高清子とは全く初耳の女優だが、著者の筆にかかると興味が湧いてくるから面白い。トーキー時代の日本映画は全く見たことがないのだが、引き込ませる。私のように興味ない人をも引き込ませるほど語ることのできる著者の文才を羨ましく思う。

著者の創作意欲はまだまだ衰えそうもない。それは冒頭に紹介した「偽文士日録」を読んでいる

‘2015/8/28-2015/8/30


のぼうの城


何か月か前に雑誌歴史人で忍城の攻防戦が取り上げられていた際に、著者のインタビューも掲載されていて興味を持っていた本。

この本は面白い。歴史小説はそれほど読みつくすようにして読んでいないけれど、隆慶一郎氏の作を初めて読んだときのようなすぐれた娯楽小説として一気に読み終えました。

もともとは脚本で、その舞台作品が映画化されるにあたりノベライズとして書かれたこの本。ノベライズというだけで何やら薄っぺらな印象がありがちだけれどそんなことはなく、何よりも話の筋として肝心な成田長親の性格の多彩な点、陰影を書くことに成功している。映像作品に対して小説がなしうる意義を、目に見えない心のうちを描くことにあると定義するならば、この本はノベライズ、または単なる小説化というだけではなく、異なるメディアとして小説の可能性を示してくれていると思う。

映画も機会があれば観てみようと思う。

’11/9/27-’11/9/28