Articles tagged with: 自殺

任務の終わり 下


本書では、上巻で研がれたハーツフィールドの悪の牙が本領を発揮する。
人々を自殺へと追い込む悪の牙が。
ハーツフィールドの狡知は、旧式のポケットゲーム機ザビットのインストール処理を元同僚の女性に依頼する手口にまでたどり着く。

そのインストールが遠隔で実現できたことによって、SNSやブログ、サイトを活用し、ハーツフィールドは自らの催眠処理が埋め込まれたソフトを若いティーンエイジャーに無差別かつ広範囲に配り、自殺願望を煽る手段を手に入れた。

さらに、身動きならないはずのハーツフィールドの肉体から、他の肉体の人格を乗っとる術に磨きをかける。その結果、自らの主治医であったバビノーや、病院の雑用夫の体も完全にのっとることに成功する。
ところが、そんな恐ろしい事態が進んでいることに誰も気がつかない。病院の人々や警察までもが。
何かがおかしいと疑いを抱きつつあるのはホッジズとホリーだけだ。

果たして、ハーツフィールドの狡知をホッジズとホリーは食い止められるのか。
本来ならば、本書にはそうしたスリルが満ちているはずだ。
ところが、著者の筆致は鈍いように思える。
かつての著者であれば、上巻でためにためたエネルギーを下巻で噴出させ、ジェットコースターのように事態を急加速させ、あおりにあおって盛大なカタストロフィーを作中で吹き荒れさせていたはず。
だが、そうはならない。

『ミスター・メルセデス』で描かれていたハーツフィールドは、頭の切れる人物として描かれていた。
ところが、脳の大半を損ねているからか、本書のハーツフィールドにすごみは感じられない。
ハーツフィールドの精神はバビノーの肉体に完全に乗り移ることに成功する。
とはいえ、そこからのハーツフィールドはいささか冴えない。
そればかりか、ハーツフィールドはおかしなちょっかいをかけることでホッジズにあらぬ疑いを持たせるヘマをしでかす。
かつての著者の諸作品を味わっている私からすると、少し拍子抜けがしたことを告白せねばなるまい。

本書は、ハーツフィールドがどうやって人々にソフトウエアを配布し、自殺に追い込むか、という悪巧みの説明に筆を割いている。
そのため、本書にはサスペンスやアクションの色は薄い。著者はスピード感よりもじっくりと物語を進める手法を選んだようだ。

おそらく、著者は最後まで本書をミステリーとホラーの両立した作品にしたかったのだろう。
それを優先するため、ホラー色はあまり出さず、展開もゆっくりにしたと思われる。
老いたホッジズと、精神だけの存在であるハーツフィールドの対決において、ど派手な展開はかえって不自然だ。
本書はミステリー三部作であり、ミステリーの骨法を押さえながら進めている。

上巻のレビューでも少しだけ触れたが、本書には技術的な記載が目立つ。
どうやってSNSに書き込ませるか、どうやってソフトウエアを配布するか。
そうした描写に説得力を持たせるためもあって、本書はほんの少しだが理屈っぽい面が勝っている。

理屈と感情は相反する。
理屈が混ざった分、本書からは感情を揺さぶる描写は控えめだ。
ところが、感情に訴えかける描写こそ、今までの著者の作品の真骨頂だったはず。
感情と理屈を半々にしたことが、本書からホラーのスピード感が失われた原因だと思う。
本書に中途半端な読後感を与えるリスクと引き換えに、著者はミステリーとしての格調を保とうとしたのだと私は考える。
だが、それが三部作の末尾を飾る本書に、カタルシスを失わせたことは否めない。

だが、その点を踏まえても本書は素晴らしいと思う。
本書の主題は、ホッジスという一人の人間が引退後をどう生きるのかに置かれている。

それは本書で描いているのが、ホッジズの衰えであることも関わっているのだろう。
より一層ひどくなっていくホッジスの体の痛み。それに耐えながら、ホッジズはハーツフィールドの魔の手から大切な人を守ろうとする。ホッジズの心の強さが描かれるのが本書だ。

ホッジズの死にざまこそ、本書の読後感にミステリーやホラーを読んだ時と違う味わいを与えている。
そうした観点で読むと、本書のあちこちの描写に光が宿る。

ホッジズの心の持ちようは、ハーツフィールドの罠によっていとも簡単に心を操られるティーンエイジャーの描写とは対照的だ。
ハーツフィールドがゲームを通じて弱い心にささやきかける自殺の誘い。
その描写こそ、著者の作家としてのテクニックの集大成が詰まっている。
だが、巧みな誘惑に打ち勝つ意志の強さ。それこそが本書のテーマだ。

さらに、その点からあらためて本書を読み直してみると、本書のテーマが自殺であることに気づく。
『ミスター・メルセデス』の冒頭は、警察を退職し、生きがいをなくしたホッジズが自殺を図ろうとする場面から始まった。
ところが、三部作を通じ、ホッジズは見事なまでに生きがいを取り戻している。
そして、死ぬ間際まで自らを生き抜く男として描かれている。
それは、あとがきにも著者が書いている通り、生への賛歌に他ならない。

人はどのような苦難に直面し、どのような障害にくじけても、自分の生を全うしなければならない。
それが大切なのだ。
何があろうと人の精神は誇り高くあるべき。
人は、弱気になると簡単に死への誘惑に屈してしまう。
そこにハーツフィールドのような悪人のつけ込む余地がある。
上巻のレビューにも書いたように、電話口で誘い出そうとする詐欺師にとって、人の弱気こそが好物なのだから。

また、本書の中でザビットと呼ばれるポケットゲーム機やゲームの画面が人の心を操るツールとなっているのも著者の意図を感じさせる。
いわゆる技術が人の心に何を影響をもたらすのか。
著者はデジタルを相手にすることで人の心が弱まる恐れや、情報が人の心を操る危険を言外に含めているはずだ。

私も情報を扱う人間ではあるが、情報機器とは、あくまでも生活を便利にするものでしかないと戒めている。
それが人の心の弱さをさらけ出す道具であってよいとは思わない。
ましてや、心の奥底の暗い感情を吐き出し、自分の心のうっぷんを発散する手段に堕してはならないと思っている。

技術やバーチャルに頼らず、どうすれば人は人であり続けられるのか。
本書が描いている核心とは、まさにそうした心の部分だ。

‘2019/4/25-2019/4/26


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


犯罪小説家


本書はタイトルの通り、小説家が主人公だ。

小説家、待居涼司は「凍て鶴」によって作家として日の目を浴びたばかり。「凍て鶴」は評価され、映画化の話も持ちこまれる。受賞作家のもとには、さまざまな人物があいさつに訪れるが、映画化で監督・脚本・主演に名乗りを挙げた小野川充もその一人。

小野川の軽さに自分と相いれない性格を感じた待居。さらに小野川の脚本案は、独自の解釈が施されている。その解釈は、原作者待居の思惑を超えている。小野川に反りの合わなさを感じる待居はその脚本案を素直に受け入れられない。原作では憎悪をこめた殺害で終わるラストを心中と読み替えた小野川の案は、小野川の個人的な思いに影響されすぎていやしないか。しかも、小野川は「凍て鶴」の舞台を勝手に待居の住む多摩沢だと決めつける。多摩沢公園に脚本のインスピレーションを求めるため、あろうことか多摩沢に住居まで移してしまう。

小野川のペースに翻弄されいらだつ待居。そんな待居の気持ちをさらに逆なでするように、小野川は脚本に現実に起こった事件をモチーフとして持ち込もうとする。その事件とは、木ノ瀬蓮美が主催する落花の会によって引き起こされた。落花の会とは、自殺サークルのことだ。周到に準備を重ね、会員の自殺を成就させるのが目的の会は、多摩沢公園で主催の木ノ瀬蓮美が水死体で浮かぶことで終息を迎える。

小野川は、「凍て鶴」脚本のラストを心中で終わらせるのが最善と確信する。そしてそのためには落花の会について詳しく調べなければならないと待居や編集担当の三宅に力説する。小野川の想いは口だけにとどまらず、ライターの今泉知里に落花の会を調べさせるまでに至る。

そして本書は、今泉知里の調査によって自殺ほう助サイトの実態に入り込む。落花の会は木ノ瀬蓮美の死によって活動を停止した。だが、当時を知る幹部が何人か詳しい事情を知っているはず。ネット上に残されたログを追いながら、今泉知里は少しずつ落花の会の暗部に迫ってゆく。

本書は、犯人側の視点で語りを進める倒叙型でもなく、捜査側から語りを進める叙述型でもない。それが本書全体にどことなく曖昧さを与えている。そのあいまいさは一読すると本書の抱える欠点と思ってしまう。だが、そうではない。実際、本書の犯人像は早い時点で読者には見当がついてしまうだろう。しかし、ある程度読み進めても最後まで著者はそのあいまいさを崩さない。そしてそのあいまいさとは、犯人側ではなく捜査側にも当てはまるのだ。終わり近くになって明かされる捜査側の意図の意外さにきっと驚くことだろう。

そしてそこに、芸術という表現形式がはらむ狂気が顔を見せるのだ。小説と映画。二つの表現形式のはざまにあるものの違いといってもよいかもしれない。多分、それは本書は一度読んだだけでは気付かないと思う。二度読まないと。

‘2016/08/25-2016/08/29


自殺について


なにしろ題名が「自殺について」だ。うかつに読めば火傷すること確実。

悩み多き青年には本書のタイトルは刺激的だ。タイトルだけで自殺へと追い込まれかねないほどに。23歳の私は、本書を読まなかった。人生の意味を掴みかね、生きる意味を失いかけていた当時の私は、絶望の中にあって、本書を無意識に遠ざけていた。ありとあらゆる本を乱読した当時にあっても。

だが、今になって思う。本書は当時読んでおくべきだった、と。

もし当時の私が本書を読んでいたとしたら、どう受け取っただろう。悲観を強めて死を選んだか。それとも生き永らえたか。きっと絶望の沼に陥らず、本書から意味を掴みとってくれていたに違いないと思う。本書は人を自殺に追いやる本ではない。むしろ本書は人生の有限性を説く。有限の生の中に人生の可能性を見出すための本なのだ。

自殺は、苦患に充ちたこの世の中を、真に解脱することではなく、或る単に外観的な-形の上からだけの解脱で紛らわすことであるから、それでは、自殺は、最高の道徳的な目標に到達することを逃避することになる(199ページ)。

このように著者ははっきり主張する。つまり、自殺した者には解脱の機会が与えられないということだ。なんとなく著者に厭世家のイメージを持っていた私は、著書を初めて読む中で著者への認識を改めた。

確かに本書を一読すると厭世観が読み取れる。だが、それはあくまで「一読すると」だ。本書の内容をよく読むと、厭世観といっても逃げの思想に絡め取られていないことがわかる。むしろ限りある苦難の生を生きるにあたり、攻めの姿勢で臨むことを推奨しているようにすら思える。

そのことは時間に対する著者の考えで伺える。43ページで著者は、時間は、ひとつの無限なる無なのだから、と定義している。また、32ページでは、それに反して意思は、有限の時間と空間とを占める生物の身体として、と定義している。つまり著者によると、自己を意識する自我が主体だとすれば、時間とはそれ以外の部分、つまり客体に適用される。しかし、主体である我々に時間は適用されない。適用されないにもかかわらず、時間の有限の制約を受けることを余儀なくされた存在だ。そして限られた時間に縛られながら、精一杯の欲望を満たそうとする儚い存在でもある。そこに生きる悩みの根源はあると著者はいう。

もう一つ。自我にとって認識できる時間は今だけだ。過去はひとたび過ぎ去ってしまうと記憶に定着するだけで実感はできない。過去が実感できないとは、過去に満たされたはずの欲求も実感できないことと等しい。一度は満たしたかに思えた欲求は一度現在から過ぎ去ると何も心に実感を残さない。つまり、欲求とは満たしたくても常に満たせないものなのだ。そんな状態に我々の心は耐えられず、不満が鬱積して行く。何も手を打たなければ、行く手にあるのはただ欠乏そして欲望のみ。生を意欲すればするほど、それが無に帰してしまう事実に絶望は増して行くばかり。著者は説く。意欲する事の全ては無意味に終わると。尽きぬ欲求を解消する手段は自殺しかない。そんな結論に至る。私が悩める時期に幾度も陥りかけたような。

好色や多淫は、著者にとっては人間の弱さだ。けれども、その弱さが種の保存という結果に昇華されるのであれば、それで弱さは相殺されると著者は考える。

著者の論が卓抜なのは、生を種族のレベルで捉えていることだ。個体としての生が無意味であっても、それが種の存続にとっては意味があるということ。つまり生殖だ。著者は淫楽をことさらに取り上げる。人は性欲に囚われる。それも人が囚われる欲の一つだ。しかし、性欲の意義を著者は種の存続においてとらえる。そして親が味わった淫楽の代償は次の世代である子が生の苦しみとして払う。

生殖の後に、生がつづき、生の後には、死が必ずついてくる。(81ページ)

或る個人(父)が享受した・生殖の淫楽は彼自身によって贖われずに、かえって、或る異なった個人(子)により、その生涯と死とを通して贖われる。ここに、人類というものの一体性と、それの罪障とが、ひとつの特殊な姿で顕現するのだ。(81-82ページ)

上にあげた本書からの二つの引用は、生きる意味を考える上で確かな道しるべになると思う。つまるところ、個人の夢も会社の成長も、あらゆる目標は種の存続に集約される。そういうことだ。逆にそう考えない事には、死ねば全てが無になってしまう事実に私は耐えられない。おそらく人々の多くにとっても同じだと思う。

ここで誤解してはならないことが一つある。それは子を持つことが人類の必須目的という誤解だ。子を持つことは人の必要条件ですらないと思う。人生の目的を個体の目的でなく、種の目的に置き換える。そうする事で、子を持つことが義務ではなくなる。例えば子がいなくとも、種の存続に貢献する方法はいくらでもある。上司として、隣人として、同僚として。ウェブやメディアで人に影響を与えうる有益な情報を発信する事も方法の一つだ。要は子を持たなくても種のために個人が貢献できる手段はいくらでもあるという事。それが重要なのだ。その意識が生きる目的へと繋がる。著者は生涯結婚しなかったことで知られるが、その境遇が本書の考察に結実したのであればむしろ歓迎すべきだと思う。

本書で著者が展開する哲学の総論とは、個体の限界を認識し、種としての存続に昇華させることにある。それは個体の生まれ替わりや輪廻転生を意味するのだろうか。そうではない。著者が本書で展開する論旨とはそのようなスピリチュアルなほうめんではない。だが、種の一つとして遍在する個体が、種全体を生かすための存在になりうるとの考えには輪廻転生の影響もありそうだ。著者の考えには明らかに仏教の影響が見いだせる。

著者の考えを見ていくと、しっかりと仏教的な思想が含有されている。実際、本書には仏教やペルシャ教を認め、ユダヤ教を認めない著者の宗教観がしっかりと表明されている。なにせ、ユダヤ教が、文化的な諸国民の有する各種の信仰宗教のなかで、最も下劣な地位を占めている(181ページ)とまで述べるのだから。

著者がユダヤ教、その後裔としてのキリスト教に相容れようとしないのは、自殺という著者の考えの根幹を成す行為が、これら宗教では何の論拠もなしに宗教的に禁じられているからではないか。著者は自殺を礼賛しているのではない。むしろ禁じている。だが、ユダヤ・キリスト教が自殺を禁じる論拠になんら思想的な錬磨もなく、盲目的に自殺を禁ずることを著者は糾弾する。

ここまで読むとわかるとおり、著者にとっての自殺とは、種の存続には何ら益をもたらさない行為だ。そもそも個人がいくら個人の欲求を満たそうにもそれは無駄なこと。生とはそもそも辛く苦しい営み。だからこそ、種としての貢献や存続に意義を見出すべきなのだ。つまり、個人としての欲望に負け自殺を選ぶのは、著者によれば個人としての解脱にも至らぬばかりか、種としての発展すら放棄した行為となる。

だが私は思った。著者の生きた時代と違い、今は人が溢れすぎている。生きることがすなわち種の存続にはならない。むしろ、生きることそのものが地球環境に悪影響を与えかねない。そんな時代だ。いったい、この時代に自殺せず、なおかつ種の存続に貢献しうる生き方はありうるのだろうか。多分その答えは、著者が説く、人を自殺に至らしめる元凶、つまり際限なき欲求にある。欲求の肥大を抑える事は、自殺欲望を抑制することになる。また、欲求の肥大が収まることで、地球環境の維持は可能となる。それはもちろん、種の存続にもつながる。つまり、自殺と人間の存続は表裏一体の関係なのだ。自殺の欲求から醒めた今の私は、本書からそのようなメッセージを受け取った。

もちろん、そんな単純には個々人の人生や考えは戒められないだろう。国にしてもそう。東洋の哲学を継承するはずの中国からして、猛烈な消費型生活に邁進し、自殺者も出しているのだから。少し前までの我が国も同じく。だが、それでもあえて思う。自殺を超越しての解脱を薦め、個体の限りある 生よりも種としての存続に人生の意義を説く本書は、東洋人の、仏教の世界観に親しんだ我々にこそ相応しい、と。

‘2016/06/08-2016/06/15


若者を殺し続けるブラック企業の構造


著者の肩書きはNPO法人POSSEの事務局長。私も本書を読むまで知らなかったが、ブラック企業という言葉を世に出したのは、このPOSSEだという。実際に流行語大賞のトップ10に入賞した際の授賞式には、代表の今野氏が出席したそうだ。

流行語大賞に入賞したのが2013年のことというから、ブラック企業という言葉が世間に広まったのは、最近の事なのだ、と改めて思う。

だからといって、ブラック企業が最近になって登場したわけではない。労働者を使い捨てにし、利益確保に走る。昔からある、強欲雇用主にとっての常套手段だ。イギリスに興った産業革命は、子供を長時間労働に従事させた。また、古くからある奴隷制度はブラック企業の走りと言っても差し支えないだろう。つまり、ブラック企業の本質的な部分は古来変わっていないと云える。

では、今のブラック企業を特徴付ける要素とは何なのか。それを解説するのが本書といえる。

私自身、ブラック企業については色々含むところがある。が、それは文末にて語ることにしたい。それよりもまずはブラック企業の今を知る必要がある。

第一章では、ここ最近のブラック企業がらみのトピックが取り上げられる。ここで登場するのは、ワタミやウェザーニュース、西濃運輸、日東フルライン、王将フードサービスといった企業。これら企業の若い従業員が自殺し、うつ病になった事件は、ニュースでもさんざん取り上げられた。

著者は、グラフを提示する。そのグラフを見ると若者の死亡原因に占める「精神及び行動の障害」の割合が、1995年の4.45%から2012年の25.55%にまで上がっている事が一目で分かる。そして著者は、「精神及び行動の障害」の増加理由を新型うつや、ゆとり世代の耐性のなさ、と安易に片付けることに警鐘を鳴らすことを忘れない。

なぜブラック企業が社会にとって大きな問題なのか。本書の肝といえるのは、まさにこの点にある。利益の追求で社員を使い捨てにすることは、その企業に耐え忍びながら勤める社員自身にとってはもちろん大きな問題だ。しかし、当の社員だけの問題ではない。それは社会全体にとっても影響のあることなのだ。ブラック企業で使い捨てられる社員は20代の方が多い。20代というのは、これからの社会を担うために保護者や教育機関、自治体が20年前後の期間を設けて育て、その後30~40年に亘って社会に貢献することが期待される年代だ。それを、一企業の利益のために短期間で使い潰すこと。これが問題なのだ。さらに、そのことによる社会の経済的損失は、潰した当の一企業が償わなくともよい。これも社会にとっては著しい不平等となる。若い労働力が社会全体に還元する可能性とは単に利益だけに留まらない。子どもが授かれば社会全体の活性化にもつながるし、地域の活性化にもつながる。若者を一企業の利益の元に殺すのは、単に利益の問題だけに留まらないのだ。かつてと違い、現代は、若者に対する社会の投資が大きくなっている。かつてのように教育も整っていなかった時代とは違う。それが奴隷と現代のブラック企業従業員とを分ける最大の点なのだろう。

第二章では、働きすぎという我が国の労務慣習についてメスをいれる。

過労死による勤務実態が報じられる度、「俺のほうがもっと働いてる」というコメントがネットに溢れるのは承知の通り。かく言う私も書き込みこそしなかったがそう思ったものだ。そして、そのような書き込みがまかり通るのも、日本が働きすぎを当たり前とする社会になっているから、と著者は言う。

その理由としては日本型雇用に問題があると著者は説く。日本型雇用とは、長期雇用が慣行となっているため、首が切れず余剰人員調整の余地があまりないことが特徴だ。日本企業は、その替わり雇用契約の中身を企業側の人員調整に都合のよいものにした。いわゆる白紙契約である。労働者はいつ何をどこでどうするのか、といった仕事の中身が白紙の状態で企業と雇用契約を結ぶ。つまり、企業からみればどこに転勤させようと自由だし、社内のシュレッダー専任に任命しようと自由というわけだ。もちろん仕事量は個人裁量ではなく会社裁量によって決まることは言うまでもない。なお、欧米では白紙契約の慣習はないらしい。

命ぜられたやり方に従順であればあるほど使う側にも都合がよい。つまり、評価される人材とは、その人が持つ具体的なスキルではなく、将来的に多様化する企業の状況に応じて柔軟に対応できる人材となる。これを潜在的能力主義と呼ぶそうだ。また、それを支える社会保障制度や企業内研修制度もそう。企業別労働組合もそう。企業を取り巻くあらゆる環境が長期雇用を前提として作り上げられてきた。そのことがブラック企業を許す温床となったことが本章では簡潔にして詳しく掘り下げられている。

そして、長期雇用慣行は、日本が経済成長を続けてきたからこそ維持できたともいえる。日本経済の失速は、人材を長期雇用するだけの財源を企業から奪いつつある。そして、長期経済成長の恩恵を受けなかった財源のない一部の企業をブラック企業へと駆り立てた。

ブラック企業の類型として、本章では三つが挙げられている。①選別型。②使い捨て型。③無秩序型。かつての私が入り込んでしまった某社は①にあたるだろう。雇用した人間を早々に過酷な環境に放り込み、役に立たないとなれば有無を言わさず馘首する。もっとも私にとってはそれが却ってよかったわけだが。

本章で紹介される労務慣習は、私企業だけのことではない。公務員ですら、ブラック企業のような過酷な労働の温床となり得る。本章では公務員ですら自殺から逃れられないことが紹介されている。実際、私の知り合いの公務員でも何人か体調を崩した方を知っている。また、私自身が20年前に勤めていた某市役所の方々は当たり前に残業していたし、休日も出てきていた。20年前でそうなのだから、今はより大変な状況だろう。最近では教員の勤務状況の過酷さもよく聞く。

第三章では、”働きすぎ”を追認する日本の法制度と題する。

法制度については、36協定が著名だ。本章でも詳しく説明されている。いわゆる労使協定を指す。企業と労働組合が協定を結ぶことで、協定に記された範囲内であれば、残業が労働基準法で定められた週40時間を越えて働かせても罰せられないというものだ。しかし、これは個人個人の事情を考慮せず、労働組合が一括で企業と結ぶ協定だ。しかも労働組合がない場合、任意の代表者との締結が他の労働者にも適用される。本章でも紹介されているが、ワタミでは実際に各店舗の任意の従業員を指名し、36協定を締結していたという。つまり、会社に忠誠を誓う都合のいい社員と残業時間制限を緩和させた協定を結びさえすれば、他の労働者にもその協定が適用されることを意味する。労働基準監督署の指導などどのようにでも逃れられる訳だ。そして労働者は際限なく企業側の都合によって使われることになる。

また、もうひとつ本章で取り上げられているのは、みなし労働時間制だ。実際の労働時間に関わらず、ある一定の労働時間働いたとみなす制度。外回り営業などに多い。これによって「実際の残業の多寡に関わらず」残業はなかったと見なされる。また、管理者には残業代の支払いが免除される制度を利用し、名ばかりの管理者に任命する名ばかり管理職の問題も取り上げられている。ただ、その手法も広く知られ、名ばかり店長の事例が数多く摘発されたことで、企業側は次なる手を編み出す。それが裁量労働制だ。安倍内閣がホワイトカラーエグゼンプションとして導入に執念を燃やすものに似ている。ただし、ホワイトカラーエグゼンプションは、裁量さえなくす。そうなるともはや企業は残業代の支払いから解放される。

いま、ブラック企業がよく使うのは、固定残業代の制度らしい。募集時に提示する固定給に、残業代も含めるのが手口だ。そのことは当然募集要項には書かない。後で残金代を請求しようとして初めて、月給に残業代込で含まれていたことに気づく仕組みだ。言うなれば騙し討ちに近い。

これだけ企業側に有利な抜け道が用意されていれば、残業代の上限などなきが如し。青天井だ。本書では月の勤務時間が552時間という事例が紹介されている。にわかには信じられない勤務時間だ。これは土屋トカチ監督の映画「フツーの仕事がしたい」に出てくる人物の勤務時間だという。この映画はドキュメンタリーだから、恐らくは実話なのだろう。

今のところ、社会的に過労死への境目として認知された時間は月80時間以上の残業だという。私も幾度となく突破しているが、そろそろ体がしんどくなり始める時間であり、個人的にも納得できる。そして80時間を認知させるにあたっては、ブラック企業に人生を潰された方の遺族の方々の貢献が大きいという。

つまり、どの程度まで働けば心身に不調が生じ、自ら死を選ぶまでに至るか。身をもってこの限界を示した方々の上に、過労死ラインが設定されているといってよい。実際の過労死ラインは、月80時間の決めだけではなく過去に数ヶ月遡っての時間も基準となっているという。ただし、過労死ラインが適用されるのは、本書によればあくまでも心臓や脳疾患による症例が出た場合に限られる。うつについては症状が客観的に分かりにくく、個人差もあるので過労死ラインが設定しにくいという。

だが、過労死ラインを設定しただけではブラック企業は無くならない。ブラック企業は社会的にも規制されるべきだし、個人としても入社しないようにしたい。実際に入ってしまった私は、そのことを強く言いたい。

最終章では、ブラック企業に食いものにされないための具体的なアドバイスが書かれる。それによると、就職情報サイトに書かれた内容を鵜呑みにしない。会社四季報などから会社の真の姿を類推する努力を惜しまない、など。また、専門家に相談するなどの対策も重要だ。本書にはPOSSEやストップ!過労死実行委員会のサイトも紹介されている。是非とも利用すべきだろう。

個人によるブラック企業対策の要は、入ってしまう前に踏みとどまること。これに尽きる。なぜなら、一旦入ってしまうと、あらゆる判断力は失われてしまうから。考える間もなく追いたてられ、急かされる。私が身をもって体験した企業は、まさにブラック企業だった。私が入った当時は、ネットの黎明期で、今のようにブラック企業対策のサイトもなかった。

その会社は出版社の看板を掲げていた。しかしその実態は教材販売。しかも個人宅への飛び込みである。出社するなり壁に貼り付けられている電通鬼十則をコピッた十則を大声でがなり立てる。挨拶もそこそこにして。

朝礼は体育会系も真っ青の内容で、絶え間ない大声と気合の応酬が続く。しかし、そこに単調さはない。きちんと抑揚が付けられている。おそらくは営業所のリーダーの裁量にもよるのだろう。前日に成果を上げた者には惜しみない賞賛の声が掛けられるが、一本も成果を上げられなかった(ボウズと呼ぶ)者には、罵声が浴びせられる。私は数日ボウズが続いた際、外のベランダに連れ出され、髪型のせいにされてその場で丸刈りにされた。これホント。私がクビを告げられたのも朝礼の場。

朝礼が終わった後は、ロールプレイングと称する果てしないやりとりの復習。詳細な住宅地図から描き出す訪問ルートの策定を中心とした行動計画。担当毎にエリアが割り振られ、その地域を一定の期間訪問し尽すまで、そのエリアへの訪問は続く。

朝こそ12時出社だが、成績が悪いと10時出社の扱いになる。無論朝からロールプレイングの時間が待っている。派遣地域から営業所に帰ってくるのが22時前後。それから明日の営業資料の整理やら反省会やらがあり、終電は当たり前。そんな中、朝10時出社は厳しい。

クビを宣告された際はショックだったのを覚えている。でも、やっと解放されたという思いも強かった。それでもその後数年は、この時の経験が尾を引いて夢にまで見た。

しかし、ここでの経験は私にとって無駄だったかというとそうでもない。本書の結論とは真逆になってしまうのだが、ブラック企業での経験は、私にとって成長の糧となったこともまた事実なのだ。ここに、ブラック企業という存在が日本から無くならない大きな理由があると思う。敗戦後の荒廃から日本が立ち直ったのも、猛烈サラリーマンが日本経済を牽引したからという論にもある程度の真実は認めざるをえない。本書でも度々取り上げられるワタミの渡邉美樹氏は毀誉褒貶の激しい人物ではあるし、実際その主張は極端だ。しかし、氏が主張するように死ぬ気で働かねば分からない世界があることも今の私は理解している。要は、その世界に行くのが自分の意思によるのか、他人から強いられた意思なのか、によると思う。

この時の私は完全に他人の意思によって働かされていた。幸いなことに、この会社がブラック企業としては①選別型にあたっていたため、私は3か月でクビという形で解放された。だが、それが②使い捨て型だったらどうなっていたことか。おそらく私は幸運だったのだろう。さほど損害を被らずに経験だけを得られたのだから。ヤクザの家に飛び込み訪問し、食い下がったために激昂され、あわや監禁されかかったことも今では良い経験と振り返ることが出来る。ヤクザのパンチは傷をつけないため(証拠を残さぬため)に掌底で行う、ということを知ったのもこの時だし。

繰り返すが、私はここでの経験と、クビという衝撃を境に一皮むけることが出来た。発作的に、鞄一つだけで東京に出て独り暮らしを始めたのは、この3か月後のこと。そして今や起業するまでになったのもこの時の経験をバネにしている。一人で企業訪問をしたり、交流会に行ったりということが容易に出来るのも、この時の経験が多少なりとも生きているはずだ。私にとっては後悔のない3か月だったと今でも言える。当レビューのひとつ前に書いたレビュー(僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?)の中で、私はブラック企業耐性が強いと書いた。それは、この会社にいた時の経験から来ている。この時経験した3か月に比べたら、大抵の仕事に対して耐性が付く。

しかし、繰り返すようだが、それは私の運が良かっただけにすぎない。それ以上居たら果たして生きていられたかどうか。ましてやこのような文章を書くこともなかったかもしれない。人には耐性というものがある。その耐性とは人によってそれぞれだ。ブラック企業とは、人によってそれぞれであるはずの耐性を度外視し、命を懸けて乗り越えることを強いる。それはもはや利益確保といった大義名分だけでは庇いきれない。失敗したら命を失うという状況は、個人が選んだのであれば許されるかもしれないが、他人から強いられることは許されない。

私がレビュー(僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?)で書いた通り、社員を大切にしたい会社でありたいというのも、この時の経験が大きく影響している。

人がそれぞれの生き方にあった生き方を選べる時代。人に命を懸けてまで何かを強いられることのない時代。そろそろそういう時代でありたいものだ。現代とは、奴隷制度が一掃され、子どもが炭塵に塗れて働かされる時代ではないはずなのだから。その点からも、私はPOSSEを応援したいし、ブラック企業については声をあげ続けて行こうと思う。

‘2015/04/11-2015/04/15