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私の中身は空虚なり(沢庵和尚の騒々しいお墓)


令和三年、夏から秋にかけて、私の個人的な境遇に変化がありました。
自分の誕生した病院を訪れたことや、死の恐怖に怯えたこと。そしてその十日後にコロナに感染したこと。山で遭難して野宿したこと。
それらの経験は、私に人生の深さと自分の無知をあらためて教えてくれました。

遡ること8月の20-22日。私は妻と2人で福井、豊川稲荷、久能山東照宮を旅しました。この旅については別のエントリーで詳しく書く予定です。

2日目の朝、私は初めて自分の生まれた病院(福井愛育病院)を訪問できました。48年目で初めてです。
その後、福井市と越前市のあちこちを観光しました。そして夜は豊川稲荷まで移動し、駅のそばにあるホテルに投宿しました。
その夜、私はベッドで自分が死ぬ恐怖に襲われました。
なぜ急に恐怖を感じたのか、わかりません。体調の悪化でしょう。越前市の柳の滝を訪れた際、大きなアブに襲われました。足を三カ所、血が流れるほど噛まれたのですが、それが影響したのかもしれません。

自分の生が終わってしまう。その恐怖は本物でした。自分がいなくなった後、会社はどうなるのか。メンバーの人生は。お客様に依頼された案件は全うできるのか。今自分が死んでも情報共有に不備はないのか。
そして、家族は誰が養うのか。妻や娘に自分の考えや生き方は伝え切れたのか。
そして、自分の人生がこの瞬間に終わってしまうことによって、自分がやりたいことの100,000分の1もできずに死んでゆく未練と無念をどう扱えばいいのか。

かなり煩悶しました。そして、人に比べて人生を積極的に過ごしてきたつもりの自分が、実は全然そうじゃなかったことを痛切に感じました。
自分の人生、このままで終わってしまうのか。そんな諦めと、そうさせてはならじという反抗心。それが私の中でせめぎ合い、朝まで寝られずにベッドの上でのたうちまわっていました。

翌朝、豊川稲荷に妻と訪れました。本堂に参らせてもらった刹那、雨がザーッと降り、そしてすぐに止みました。まさに清めの雨のように。
夫婦で広大な境内を三周ほどしました。最後の一周は、妻が何か思うところがあったのか、私のためにもう一度奥の院などを巡ってくれました。

妻は、少しだけスピリチュアルな能力を持っています。参拝の最後の一周は、豊川稲荷の荼枳尼天が妻の口を通して私に伝えたいことがあると言うので、妻が連れて行ってくれました。荼枳尼天から私への啓示の内容は、その後のドライブの間に妻が教えてくれました。

そこで告げられたのは、私には中身がない。と言うことです。その中身とは、能力や意志や人格を示すのではありません。もっと奥底にある自我やエゴに相当する概念でしょうか。
中核にあるべき中身がない。中身がないため、私は新規なものや新しい概念に目移りし、本を読んで新しい知識を得たいと腐心するようです。

自分の欠落が何かについて、私は自分でもこの数年でうすうすと気づいていました。
一方で、今の私は、スキルや技術がある程度身に付いてきています。商談の場でも立て板に水を流すように言葉が出てきます。ご要望を伺ったその場でシステムの概要がほぼ見えてしまいます。
ですが、それを言わせているのは私自身の自我やエゴではなく、私の職業人のスキルです。ここ数年、商談の技術が上がるごとにその事実に気づき、それとともに新たな疑念が湧いてきました。スキルがアップしていても、魂がこもった商談ができているのだろうか。スキルに乗っかった惰性の商談をしていないか。
それまで仕事だけだった私が、40代になってから急に活発になった事情。そこには、今更ながら自分を探したいとの切実な理由がありました。

妻を通した荼枳尼天の言葉によると、沢庵和尚について調べると良いそうです。

この後、私たちは久能山東照宮に訪れ、1159段の階段を登ったのですが、それは本稿では割愛します。

東京に帰ってから数日後、四谷で商談の機会がありました。良い機会なので、その前の時間を利用して豊川稲荷東京別院に参拝しました。
参拝方法は事前に妻からアドバイスをもらいました。境内を巡る順番やお供え物の供え方など。
この時、私はより深く自我の底から願いを唱え、口にしました。普段から神社仏閣に詣でる時は、いつも自分なりに心で名乗り、感謝して願いを告げていたつもりです。が、より深くより心を込めて。
もし今までの私の祈り方が良くなかったのであれば正さないと。

それとともに、自分なりに励んできた自我の育て方が良くなかったとすれば、今後はそれも直さなければ。
果たして私は、残りの40-50年の余生が尽きる間に自分の中身を満たせるのでしょうか。分かりません。そもそも満たすべき中身が何かすら、今も分かっていませんし。

ただ一つだけ分かるのは、空虚な自分であり続けたくはないということ。
おそらく仕事上のスキルや能力をいくら高めても、それは私の中身の充実とは無関係のはず。
今の私は死ぬ直前にも未練はたらたらで煩悩まみれのままであることは明らかです。では、私が完全に満ち足りた悟りの境地で死ぬにはどうすれば良いのでしょうか。

四谷からの帰り、新宿の紀伊国屋書店により、水上勉さんの「沢庵」を購入しました。そしてその数日後に読破しました。
その本が教えてくれたこと。それは沢庵和尚の権力や名利を求めない生き方でした。清貧の生き方です。禅や武道、茶道といった文化を極めながら、徳川幕府や大寺院、朝廷に媚びへつらわない生き方。
それでいて世を捨てず、朝廷や幕府とは付かず離れずの距離感を保つ。そして、徳川幕府の寺院政策に異論があれば、敢然と意見を開陳する。それが元で流罪になっても。
私は山形の上山にある春雨庵を訪れたことがあります。そこは沢庵和尚が逼塞していた建物です。落ち着いた佇まいでした。その後、三年で流罪を許され、三代将軍家光の帰依と信任を得ても、その境遇に甘んじなかった沢庵和尚の矜持。

私が沢庵を読み終えた次の日、今度は新型コロナウィルスに感染してしまいました。
コロナにかかった経緯はコロナ感染記に書いたので、ここでは繰り返しません。
ですが一つだけ伝えておきたいことがあります。
それは、私の商談のスキルにコロナが悪影響を及ぼした衝撃です。話していてフリーズし、しどろもどろになり、支離滅裂になった自分。自分の空虚な中身を満たす前に、表層の仕事人としてのスキルすら崩れ去ろうとした衝撃がどれほど強かったか。

幸い、コロナはそれ以上重症にならずにすみました。今は若干の咳が残るだけで、商談のスキルにも深刻な後遺症は残りませんでした。
コロナ後、初めてのリアル商談は9/17にありました。
この機会を利用し、私は晩年の沢庵和尚が住職として勤めた東海寺をはじめて訪れました。

かつて東海寺が三代将軍家光から賜った寺領は幕末から明治維新にかけての混乱で大幅に削られてしまいました。今の東海寺の寺領は、かつての塔頭の一つが引き継いでいるだけです。他の寺領は全て運動公園、品川学園、タワーマンションなどに侵食されてしまいました。今の東海寺は表からは分かりにくい場所にあります。
沢庵和尚の没後から360年。年月とは残酷です。

私は東海寺の近くにある沢庵和尚の墓にも詣でました。この大山墓地は、かつては東海寺の境内の一部として隣接していたそうです。
ところが今や、この墓地は新幹線、横須賀線、湘南新宿ライン、京浜東北線、東海道線の線路に囲まれています。ひっきりなしに電車が行き来するこの墓地に静寂さを望むのは不可能です。
地元出身の島倉千代子さんや鉄道の父である井上勝氏は生前に望んで墓地を定めたそうですが、賀茂馬淵や渋川春海、沢庵和尚に至っては今の環境など想像の外だったことでしょう。春雨寺(ここも旧塔頭)と大山墓地の間にある土地では何か大規模な工事の最中でしたし。

そもそも沢庵和尚は、死を前にして墓は建てないことを言いのこしたそうです。それが、ないがしろにされただけでなく、今では騒々しい場所にあります。

ですがここで、「きっとあの世で沢庵和尚は嘆いている」などと思ってはいけません。
あくまでも私見ですが、そもそも沢庵和尚は騒々しい場所に墓を建てられたことを何とも思っていないはずです。なぜなら、死ねば無になるから。沢庵和尚の遺言を読んでみると、沢庵和尚は来世や輪廻など一切考えていなかったのではないかと思うのです。死ねば全ては無に帰す。そのことに大悟していたからこそ、沢庵和尚はあらゆる権力や名利に目もくれなかったのではないでしょうか。

死ねば無になる。かねて私が感じていたことです。いくら本を読んでも、旅をして見聞を深めても死ねば無。
そう分かっているのなら、私の中身が空虚であっても問題ないですよね。
死ねば無になるのなら、生きている間から無であっても何も問題ないわけです。

では、豊川稲荷の荼枳尼天は何を意図して私に沢庵和尚のことを調べるように伝えたのでしょうか。
私は荼枳尼天の真意を考えました。
そして、並行して自らの中身を求めるとしたらどこにあるのかを追い求めました。

まず一つは強烈な目的意識です。今までの私は状況に流されるままに対応し、その都度、好奇心を発揮してスキルを身に着けてきました。
ですが、その経緯に私自身の強い意志はあったのか。なかったはずです。
そもそも私は物事に対して強い意志を持っているのか。本を読みたい、旅がしたい、という欲求は、空虚な私の真空を埋めようとする衝動に過ぎないのでは。
私はその真実が知りたいと思いました。

私が先日、滝子山に登ろうとしたのは、まさに自分の衝動の源を確かめたかったからです。
そして、それが不首尾に終わったことで、私は自分のふがいなさに対して心の底から怒りました。
これは、私にとっては意外なことでした。今まで私が怒ることがあるとすれば、他人からの理不尽な攻撃に対してのみ。自分の不首尾については、あまり怒ることもなく生きてきたのですから。

この怒りはどこから湧いているのでしょう。ようやく空虚な中身を埋めようと私の自我またはエゴが動き始めているのか。
私が無理やりに山を登って達成感を得ようとしたのは、コロナ病原菌からの体力の回復を確かめたかったからではなく、空虚な自分が初めて意志を発揮した表れではないか。

私はその翌週、午後からの時間を利用し、再び山登りにチャレンジしました。ところが登山道が荒れていて、袖平山、鐘撞山、焼山を断念せざるを得ない状況でした。
私はまた自分の不首尾に怒るのか、と思った帰り、三角山を見つけました。標高525メートルと低山ですが、山を一つでも登って達成感を味わえば、何かが変わるのではないか。
その思いだけで199段の階段を登り、そこから藪を漕いで三角山の三角点に到達しました。私は自分に勝ちましたし、意志の力を発揮したのです。

ところが、三角山に登った時点で17時過ぎ。そこから同じ道を帰ったのですが、暗くなってきた道で迷ってしまいました。焦った私は尾根に沿って降りていたつもりでしたが、その時点ですでに誤った谷に迷い込んでいたようなのです。足元は刻一刻と暗くなっていきます。何回も足をとられ、場合によっては沢の水たまりをいとわずに飛び込んだものの、沢の岩が見えなくなりました。そうなると危険度は増します。
そのため、沢に沿った道に復帰しながら里への道を探しました。ところが足元の木や茂みが見えません。歩いているうちにまた滑べり落ち、メガネがどこかに吹っ飛びました。この時に至ってさすがにやばい、と思いました。メガネをなくしたら万事休す。必死になって手あたり次第にあたりを探したところ、奇跡的にメガネは見つかりました。でも、もうこれ以上、沢を下ることは危険だと判断しました。翌朝、確認してみると私が滑べり落ちたのは3メートルほど。一歩間違っていれば骨折やより悲惨な事故もありうる高さでした。

滑落した場所のそばに平地のようなものを見つけ、私はそこに屹立しているスギと思われる木の根元で横になりました。同時に家族にLineを打ちました。帰れない、野宿すると。
娘からは私の父にも連絡が行き、必ず警察や消防に連絡するように激怒の連絡が。妻がその時に一緒にいた友人のご主人も私の身を案じ、近くまで探しに来ようかとまでおっしゃってくださいました。ありがたいことです。

私がこの時、申し出を断った理由を何個か挙げられます。
・着ていたポロシャツに加え、山登りモードでリュックを持ってきており、そこにラガーシャツとポンチョを入れていた。マスクも二つを持っていた。
・私の身体の状況を確認すると、どこにも捻挫や骨折はなさそうだった。
・遭難したのが人里からあまり離れておらず、朝になって道がはっきりすれば必ず人里に戻れる確信があった。また、獣に襲われるほど山奥でなかった。
・少し小雨が降っていたが、事前に記憶していた天気予報では大雨になる兆しはなかった。
・19時の時点でiPadの充電は70%以上あり、節約すれば朝になって連絡ができるはず。そもそも妻とはLine通話や連絡も可能だった。
・そもそも私がどこにいるのか分からず、助けに来てもらってもすぐには見つからず、皆さんに迷惑をかけてしまうことは避けたかった。

そこで私は一晩ビバークを決断しました。
ビバークの間に考えたことは三つ。
一つは、kintone案件で迷っていた構成をまとめることでした。構成は熟知していたので、脳内だけで検証ができました。
一つは、28日に予定のkintone CaféのLTで話す内容。これも決めました。
残りの一つ。それこそ、本稿で書いてきた内容の結論です。空虚な自分を埋める方法。私と沢庵和尚の間にある違いとは何か。

せせらぎと雨音、虫の音がたまに聞こえるだけの世界。そこにいるのは自分だけ。頼れるのも自分だけ。考えるにはうってつけの機会です。むしろ私は、この問題をじっくり考えるためにビバークを選んだのかもしれません。安全が確保できているとはいえ、遭難は異常なこと。その状況で考えた時、結論はより自分の本能を反映するのではないだろうか。
生きたいのか、それとも人生を諦めようとしているのか。

その時に考えたのは、以下のようなことです。

沢庵和尚も自分が死ねば無になることを感じていた。つまり、生きている間も自分の中核にある空虚に気づいていたのではないか。
私も死ねば無になる。そして今の自分の中核は空虚。そう考えると、今の自分が中核の空虚を無理に埋める必要はないのでは。
では沢庵和尚と私の違いは何か。沢庵和尚は話を面白く伝える能力や、禅、武道、茶道などに対する知識を豊富に持っていた。豊かな知識があってこそ話に深みが出る。それが面白く伝える能力の源だった。沢庵和尚の内面の空虚さを補ってありあまるほどに。
私と沢庵和尚を隔てるものとは、この世間に分かりやすく伝えるスキルではないだろうか。
豊川稲荷の荼枳尼天は、そのことを私に伝えたかったのではないだろうか。

私は自分の中に何かをしたいという強い意志を発見しました。そして、その意志を押し通した結果、誰も助けのない世界に一人で横たわって夜を過ごす羽目に陥りました。
その意志の力をこれからも殺さずに生かしていこう。読書、旅、歴史、山、滝、鉄、神社仏閣。意志を強く持ち、自分の興味を満たしていこう。
その一方で当時の仏教界や徳川幕府が帰依した沢庵和尚の発信力を見習おう。それにはきちんとした学識と良識が必要。
今の私がシステム・エンジニアを生業にしているのなら、その方向で発信すればいい。ただし、内容を充実させなければ。発信の裏打ちとなる知識をより深く学び、当代でも指折りの人物にならなければ。
その努力が、きっと自分の空虚な中身を少しでも満たしてくれるはず。

私はそうしたことを朝まで考えました。何度も何度も。

目が覚める5時半。空は白んできました。その時、妻からも連絡が来ました。私は行動を起こし、そこから荒れに荒れた沢を落ちないように進みました。すると、道にたどり着きました。そこは私が駐車した側とは山の反対側でした。私は完全に逆側の沢に迷い込んでいたようです。あらためて夜の山の恐ろしさと、迷ったらみだりに動くなかれという教訓を肝に刻みました。

私の年齢から考えると、次に遭難すると命に係わるはずです。ですから、このようなことは二度とないように自分を律しなければ。
ですが、自分が危地にある状態で考えた思索は、私にとって宝物となりました。孤独と危機が両立した状況で自分だけの時間を持てる機会は二度とないでしょうから。

令和三年の夏から秋にかけてのさまざまな出来事。生まれた場所や死の恐怖やコロナ感染は、私にこれを伝えるためだったはず。
であれば、せっかくの機会は生かしつつこれからも生きていこうと思います。


くらやみの速さはどれぐらい


本書の帯にはこう書かれていた。
「21世紀版 『アルジャーノンに花束を』」

確かにそうとれなくもない。だが、本書を単なるリニューアルした『アルジャーノンに花束を』と思わないでほしい。なぜなら、本書は全く別の観点、別の展開、別の時点で描かれた物語なのだから。

似ているのは、主人公が精神に問題を抱えていると言うこと、そして、精神の問題を改善するための手術に主人公がどう対処するかという点だけだ。

『アルジャーノンに花束を』は、かつて三回読んだが、私にとって本書は断じて『アルジャーノンに花束を』の二番煎じではない。本書は別の物語であり、傑作と言って間違いない作品だ。本書が投じる新たな視点は、全く独自の世界観を築いている。『アルジャーノンに花束を』とは多少の設定が似ているが、それがどうした。以下、両者の似ているところと、それぞれがどう違うかについて挙げてみたい。

『アルジャーノンに花束を』の中で主人公のチャーリィは最初から知恵遅れの人物として登場する。しかし、本書の主人公ルウ・アレンデイルは自閉症を患ってはいるものの、訓練によって普通の人とあまり変わらない生活を送っている。

また、『アルジャーノンに花束を』は、手術を受けた後のチャーリィが感じた実社会の矛盾を描いている。本書のルウは、手術を受ける前から健常者と障害者の間の世界の違いに葛藤を感じている。そもそも、無邪気に頭が良くなりたいと願ったチャーリィと、最初から手術の是非を判断する知能を持ったルウの間には前提から違っている。

ルウは、自閉症患者が持つ特殊な能力を生かした部署で働いている。その部署は集中力を要する作業を行う自閉症患者のため、潤沢な設備を備えている。それが、新任の管理部長ミスター・クレンショウには気に入らない。障害者を雇用しているからこそ、法人税率が優遇されている事実や企業の備えるべき社会的な責任。それらはミスター・クレンショウの視野には入らない。それらをないがしろにしてまで経費を圧縮しようとするのがミスター・クレンショウだ。ルウの直接の上司であるミスター・オルドリンはルウたちの立場を守ろうとするが、会社にあってはより上位のミスター・クレンショウの判断が優先される。

ミスター・クレンショウの圧力は巧妙だ。本書の設定では、自閉症はすでに出生前に遺伝子治療で治ることになっている。つまり、ルウ達は最後の自閉症患者。そして今や、自閉症を患っていても新たに開発された手術によって治る可能性があるという。ミスター・クレンショウはその実験を受けないかとルウたちに迫る。その手術を受けて健常者になるか、引き続き自閉症でいるかをルウたちに選ばせ、健常者になれば健常者たちとと同じ待遇になることを示し、手術を受けず自閉症のままでいるなら退職を勧告するという。二者択一。強制的ではないが、実質は陰険な圧力。ルウの他にも同じ自閉症を持つ仲間がいる。彼らにはそれぞれの思いがある。自分の意思で健常者に戻るのが正しいのか。そもそも、自閉症とは健常者よりも劣っているのか。自閉症は一つの精神のあり方ではないか。社会にとって本当に異質な存在なのか。ルウの知能は、手術を受けないかと誘われる自分の立場をよく理解している。だから自らのあり方を矛盾ととらえ、どうすればよいのか懸命に考える。

著書が本書で問うているのは、自閉症を人間の持つ多様性の一つとして取り扱えないのか、という視点だ。健常者と自閉症患者は何が違うのか。自閉症の症状とは、人の感情を読み取るのが不得手で、社会的な振る舞いが極度に苦手であること。いわゆるコミュニケーション障害だ。だが、健常者にもコミュニケーションが不得手な人はいる。人はみな、何かしらの障害や不得手な部分を持っている。コミュニケーションが不得手だからといって、特殊だ異常だとくくってしまうことが果たして正しいのか。

著者はルウの内面を通して、その問いを読者に投げかける。ルウは自らの存在や思考のあり方が正常かそれとも異常なのか、という問いかけを作中で何度も自分に対して行う。彼の仕事は、空間のパターンを創造し、そのパターンを元に新たな価値を製品に付与することだ。障害がある分、ほかの健常者にない能力が備わっている。それは社会に十分役立っている。だからといってルウのような自閉症患者を社会の異物としてはじき出すべきなのか。

本書にもドン・ポワトウのような健常者の立場から自閉症のルウにつらくあたり、妨害しようとする人物がいる。でもドンは自閉症でない。健常者の一員として扱われている。ルウの素朴な心はドンを決して悪く言わない。ルウが決してドンを異常だと言わないこと。その観点は重要だ。ルウはドンを異常だと思わないのに、ドンはルウを異常だと迫害する。著者はその点を注意して書いている。

それでいて、ルウの高度に発達した状況判断能力は、フェンシングの技量においてドンを圧倒する。そしてルウは一緒にフェンシング・クラブで学ぶマージョリ・ショウに恋する。フェンシング・クラブを主催するトム・ルシアはルウの人物やフェンシングの技量を高く買い、ルウに援助を惜しまない。ルウの日常はルウにとって不都合ではなく、ルウは日常に満足している。ところが社会の区分けはルウを異常者と分類しにかかる。手術をすれば健常者になれるのか。その時、手術を受ける前の記憶はどこに行くのか。性格は変わらないのか。なにも保証されない。マージョリを愛する気持ちは消え失せないのか。何より今の自分はどこにいってしまうのか。自我の連続性が問われる。果たして、ルウは手術を選ぶのだろうか。読者にとって気になる。

ルウの選択は本書を読んで確認していただきたい。読者によって受け取る感想はまちまちだと思う。自閉症は性格の一つの特徴なのか。それとも異常なのだろうか。ルウの葛藤は、読者にとってもひとごとではない。読者の心を激しく揺さぶるはずだ。

もう一度書くが、本書は傑作だ。多様性やダイバーシティがだいぶ市民権を得てきた今だからこそ読んでほしい一冊だ。

’2018/05/22-2018/06/01


人間臨終図鑑Ⅲ


そもそもこのシリーズを読み始めたのは、『人間臨終図鑑Ⅰ』のレビューにも書いた通り、武者小路実篤の最晩年に書かれたエッセイに衝撃を受けてだ。享年が若い順に著名人の生涯を追ってきた『人間臨終図鑑』シリーズも、ようやく本書が最終巻。本書になってようやく武者小路実篤も登場する。

本書に登場するのは享年が73歳以降の人々。73歳といえば、そろそろやるべきことはやり終え、従容として死の床に就く年齢ではないだろうか。と言いたいところだが、本書に登場する人々のほとんどの死にざまからは死に従う姿勢が感じられない。そこに悟りはなく、死を全力で拒みつつ、いやいやながら、しぶしぶと死んでいった印象が強い。

有名なところでは葛飾北斎。90歳近くまで生き、死ぬに当たって後5年絵筆を握れれば、本物の絵師になれるのに、と嘆きつつ死んでいった。その様は従容と死を受け入れる姿からはあまりにかけ離れている。本書に登場する他の方もそう。悟りきって死ぬ人は少数派だ。本書は120歳でなくなった泉重千代さんで締めくくられている(本書の刊行後、120歳に達していなかったことが確認されたようだが)。私が子供の頃になくなった重千代さんは当時、長寿世界一の名声を受けていた方。眠るように死んでいったとの報道を見た記憶がある。例えトリを飾った方が消えるように亡くなっていても、他の方々の死にざまから受ける印象は、死を受け入れ、完全な悟りの中に死んでいった人が少ないということだ。多くの方は、十分に死なず、不十分に死んだという印象を受ける。

わたしは30代の後半になってから、残された人生の時間があまりにも少ない事に恐れおののき、焦りはじめた。そして、常駐などしている暇はないと仕事のスタイルを変えた。私の父方の家系は長命で、祖母は100歳、祖父も95歳まで生きた。今の私は45歳。長命な家計を信じたところで後50年ほどしか生きられないだろう。あるいは来年、不慮の事故で命を落とすかもしれない。そんな限られた人生なのに私のやりたいことは多すぎる。やりたいことを全てやり終えるには、あと数万年は生きなければとても全うできないだろう。歳をとればとるほど、人生の有限性を感じ、意志の力、体力の衰えをいやおうなしに感じる。好きなことは引退してから、という悠長な気分にはとてもなれない。

多分私は、死ぬ間際になっても未練だらけの心境で死んでいくことだろう。そしてそれは多くの人に共通するのではないだろうか。老いた人々の全てが悟って死ねるわけではないと思う。もちろん、恍惚となり、桃源郷に遊んだまま死ねる人もいるだろう。ひょっとしたら武者小路実篤だってそうだったかもしれない。そういう人はある意味で幸せなのかもしれない。ただ、そういう死に方が幸せかどうかは、その人しか決められない。人の死はそれぞれしか体験できないのだから。結局、その人の人生とは、他人には評価できないし、善悪も決められない。だから他人の人生をとやかくいうのは無意味だし、他人から人生をとやかく言われるいわれもない。

今まで何千億人もの人々が人生を生き、死んでいった。無数の人生があり、そこには同じ数だけの後悔と悟りがあったはず。己の人生の外にも、無数の人生があったことに気づくことはなかなかない。身内がなくなり、友人がなくなる経験をし、人の死を味わったつもりでいてもなお、その千億倍の生き方と死にざまがあったことを実感するのは難しい。

私もそう。まだ両親は健在だ。また、母方の祖父は私が生まれる前の年に亡くなった。遠方に住んでいた母方の祖母と父方の祖母がなくなった際は、仕事が重なりお通夜や告別式に参列すらできなかった。結局、私がひつぎの中に眠る死者の顔を見た経験は数えるほどしかない。ひつぎに眠る死者とは、生者にただ見られるだけの存在だ。二度と語ることのない口。開くことのない眼。ぴくりとも動かない顔は、こちらがいくら見つめようとも反応を返すことはない。私がそのような姿を見た経験は数えるほどしかない。父方の祖父。大学時代に亡くなった友人二人。かつての仕事場の同僚。あとは、6,7度お通夜に参列したことがあるぐらい。祖父と友人の場合はお骨拾いもさせていただいた。もう一人の友人はなくなる前夜、体中にチューブがまかれ、生命が維持されていた状態で対面した。私が経験した死の経験とはそれぐらいだ。ただ、その経験の多少に関係なく、私は今までに千億の人々が死んでいったこと、それぞれにそれぞれの人生があったことをまだよく実感できていない。

『人間臨終図鑑』シリーズが素晴らしいこと。それは、これだけ多くの人々が生き死にを繰り返した事実だけで占められていることだ。『人間臨終図鑑』シリーズに登場した多くの人々の生き死にを一気に読むことにより、読み手には人の生き死にには無数の種類があり、読み手もまた確実に死ぬことを教えてくれる。著者による人物評も載せられてはいるが、それよりも人の生き死にの事実が羅列されていることに本書の価値はある。

人生が有限であることを知って初めて、人は時間を大切にし始める。自分に限られた時間しか残されていないことを痛感し、時間の使い道を工夫しはじめる。私もそう。『人間臨終図鑑』シリーズを読んだことがきっかけの一つとなった。自らの人生があとわずかである実感が迫ってからというもの、SNSに使う時間を減らそうと思い、痛勤ラッシュに使う時間を無くそうと躍起になった。それでもまだ、私にとって自分の人生があとわずかしか残されていないとの焦りが去ってゆく気配はない。多分私は、死ぬまで焦り続けるのだろう。

子供の頃の私は、自分が死ねばどうなるのかを突き詰めて考えていた。自分が死んでも世の中は変わらず続いていき、自分の眼からみた世界は二度と見られない。二度と物を考えたりできない。それが永遠に続いていく。死ねば無になるということは本に書かれていても、それは自分の他のあらゆる人々についてのこと。自分という主体が死ねばどうなるのかについて、誰も答えを持っていなかった。それがとても怖く、そして恐ろしかった。だが、成長していくにつれ、世事の忙しさが私からそのような哲学的な思索にふける暇を奪っていった。本書を読んだ今もなお、自我の観点で自分が死ねばどうなるか、というあの頃感じていた恐怖が戻ってくることはない。

だが、死ねば誰もが一緒であり、どういう人生を送ろうと死ねば無になるのだから、人生のんびり行こうぜ、という心境にはとても至れそうにない。だからこそ私は自分がどう生きなければならないか、どう人生を豊かに実りあるものにするかを求めて日々をジタバタしているのだと思う。

あとは世間に自分の人生の成果をどう出せるか。ここに登場した方々は皆、その道で名を成した方々ばかり。世間に成果を問い、それが認められた方だ。私もまた、その中に連なりたい。自分自身を納得させるインプットを溜め込みつつ、万人に認められるアウトプットを発信する。その両立は本当に難しい。引き続き、精進しなければなるまい。できれば毎年、自分の誕生日に自分の享年で亡くなった人の記事を読み、自分を戒めるためにも本書は持っておきたい。

果たして私が死に臨んだ時、自分が永遠の無の中に消えていくことへの恐れは克服できるのだろうか。また、諦めではなく、自分のやりたいことを成し遂げたことを心から信じて死ねるのか。それは、これからの私の生き方にかかっているのかもしれない。

‘2017/07/25-2017/07/26


自殺について


なにしろ題名が「自殺について」だ。うかつに読めば火傷すること確実。

悩み多き青年には本書のタイトルは刺激的だ。タイトルだけで自殺へと追い込まれかねないほどに。23歳の私は、本書を読まなかった。人生の意味を掴みかね、生きる意味を失いかけていた当時の私は、絶望の中にあって、本書を無意識に遠ざけていた。ありとあらゆる本を乱読した当時にあっても。

だが、今になって思う。本書は当時読んでおくべきだった、と。

もし当時の私が本書を読んでいたとしたら、どう受け取っただろう。悲観を強めて死を選んだか。それとも生き永らえたか。きっと絶望の沼に陥らず、本書から意味を掴みとってくれていたに違いないと思う。本書は人を自殺に追いやる本ではない。むしろ本書は人生の有限性を説く。有限の生の中に人生の可能性を見出すための本なのだ。

自殺は、苦患に充ちたこの世の中を、真に解脱することではなく、或る単に外観的な-形の上からだけの解脱で紛らわすことであるから、それでは、自殺は、最高の道徳的な目標に到達することを逃避することになる(199ページ)。

このように著者ははっきり主張する。つまり、自殺した者には解脱の機会が与えられないということだ。なんとなく著者に厭世家のイメージを持っていた私は、著書を初めて読む中で著者への認識を改めた。

確かに本書を一読すると厭世観が読み取れる。だが、それはあくまで「一読すると」だ。本書の内容をよく読むと、厭世観といっても逃げの思想に絡め取られていないことがわかる。むしろ限りある苦難の生を生きるにあたり、攻めの姿勢で臨むことを推奨しているようにすら思える。

そのことは時間に対する著者の考えで伺える。43ページで著者は、時間は、ひとつの無限なる無なのだから、と定義している。また、32ページでは、それに反して意思は、有限の時間と空間とを占める生物の身体として、と定義している。つまり著者によると、自己を意識する自我が主体だとすれば、時間とはそれ以外の部分、つまり客体に適用される。しかし、主体である我々に時間は適用されない。適用されないにもかかわらず、時間の有限の制約を受けることを余儀なくされた存在だ。そして限られた時間に縛られながら、精一杯の欲望を満たそうとする儚い存在でもある。そこに生きる悩みの根源はあると著者はいう。

もう一つ。自我にとって認識できる時間は今だけだ。過去はひとたび過ぎ去ってしまうと記憶に定着するだけで実感はできない。過去が実感できないとは、過去に満たされたはずの欲求も実感できないことと等しい。一度は満たしたかに思えた欲求は一度現在から過ぎ去ると何も心に実感を残さない。つまり、欲求とは満たしたくても常に満たせないものなのだ。そんな状態に我々の心は耐えられず、不満が鬱積して行く。何も手を打たなければ、行く手にあるのはただ欠乏そして欲望のみ。生を意欲すればするほど、それが無に帰してしまう事実に絶望は増して行くばかり。著者は説く。意欲する事の全ては無意味に終わると。尽きぬ欲求を解消する手段は自殺しかない。そんな結論に至る。私が悩める時期に幾度も陥りかけたような。

好色や多淫は、著者にとっては人間の弱さだ。けれども、その弱さが種の保存という結果に昇華されるのであれば、それで弱さは相殺されると著者は考える。

著者の論が卓抜なのは、生を種族のレベルで捉えていることだ。個体としての生が無意味であっても、それが種の存続にとっては意味があるということ。つまり生殖だ。著者は淫楽をことさらに取り上げる。人は性欲に囚われる。それも人が囚われる欲の一つだ。しかし、性欲の意義を著者は種の存続においてとらえる。そして親が味わった淫楽の代償は次の世代である子が生の苦しみとして払う。

生殖の後に、生がつづき、生の後には、死が必ずついてくる。(81ページ)

或る個人(父)が享受した・生殖の淫楽は彼自身によって贖われずに、かえって、或る異なった個人(子)により、その生涯と死とを通して贖われる。ここに、人類というものの一体性と、それの罪障とが、ひとつの特殊な姿で顕現するのだ。(81-82ページ)

上にあげた本書からの二つの引用は、生きる意味を考える上で確かな道しるべになると思う。つまるところ、個人の夢も会社の成長も、あらゆる目標は種の存続に集約される。そういうことだ。逆にそう考えない事には、死ねば全てが無になってしまう事実に私は耐えられない。おそらく人々の多くにとっても同じだと思う。

ここで誤解してはならないことが一つある。それは子を持つことが人類の必須目的という誤解だ。子を持つことは人の必要条件ですらないと思う。人生の目的を個体の目的でなく、種の目的に置き換える。そうする事で、子を持つことが義務ではなくなる。例えば子がいなくとも、種の存続に貢献する方法はいくらでもある。上司として、隣人として、同僚として。ウェブやメディアで人に影響を与えうる有益な情報を発信する事も方法の一つだ。要は子を持たなくても種のために個人が貢献できる手段はいくらでもあるという事。それが重要なのだ。その意識が生きる目的へと繋がる。著者は生涯結婚しなかったことで知られるが、その境遇が本書の考察に結実したのであればむしろ歓迎すべきだと思う。

本書で著者が展開する哲学の総論とは、個体の限界を認識し、種としての存続に昇華させることにある。それは個体の生まれ替わりや輪廻転生を意味するのだろうか。そうではない。著者が本書で展開する論旨とはそのようなスピリチュアルなほうめんではない。だが、種の一つとして遍在する個体が、種全体を生かすための存在になりうるとの考えには輪廻転生の影響もありそうだ。著者の考えには明らかに仏教の影響が見いだせる。

著者の考えを見ていくと、しっかりと仏教的な思想が含有されている。実際、本書には仏教やペルシャ教を認め、ユダヤ教を認めない著者の宗教観がしっかりと表明されている。なにせ、ユダヤ教が、文化的な諸国民の有する各種の信仰宗教のなかで、最も下劣な地位を占めている(181ページ)とまで述べるのだから。

著者がユダヤ教、その後裔としてのキリスト教に相容れようとしないのは、自殺という著者の考えの根幹を成す行為が、これら宗教では何の論拠もなしに宗教的に禁じられているからではないか。著者は自殺を礼賛しているのではない。むしろ禁じている。だが、ユダヤ・キリスト教が自殺を禁じる論拠になんら思想的な錬磨もなく、盲目的に自殺を禁ずることを著者は糾弾する。

ここまで読むとわかるとおり、著者にとっての自殺とは、種の存続には何ら益をもたらさない行為だ。そもそも個人がいくら個人の欲求を満たそうにもそれは無駄なこと。生とはそもそも辛く苦しい営み。だからこそ、種としての貢献や存続に意義を見出すべきなのだ。つまり、個人としての欲望に負け自殺を選ぶのは、著者によれば個人としての解脱にも至らぬばかりか、種としての発展すら放棄した行為となる。

だが私は思った。著者の生きた時代と違い、今は人が溢れすぎている。生きることがすなわち種の存続にはならない。むしろ、生きることそのものが地球環境に悪影響を与えかねない。そんな時代だ。いったい、この時代に自殺せず、なおかつ種の存続に貢献しうる生き方はありうるのだろうか。多分その答えは、著者が説く、人を自殺に至らしめる元凶、つまり際限なき欲求にある。欲求の肥大を抑える事は、自殺欲望を抑制することになる。また、欲求の肥大が収まることで、地球環境の維持は可能となる。それはもちろん、種の存続にもつながる。つまり、自殺と人間の存続は表裏一体の関係なのだ。自殺の欲求から醒めた今の私は、本書からそのようなメッセージを受け取った。

もちろん、そんな単純には個々人の人生や考えは戒められないだろう。国にしてもそう。東洋の哲学を継承するはずの中国からして、猛烈な消費型生活に邁進し、自殺者も出しているのだから。少し前までの我が国も同じく。だが、それでもあえて思う。自殺を超越しての解脱を薦め、個体の限りある 生よりも種としての存続に人生の意義を説く本書は、東洋人の、仏教の世界観に親しんだ我々にこそ相応しい、と。

‘2016/06/08-2016/06/15


デジタルは人間を奪うのか


IT業界に身をおいている私だが、今の技術の進展速度は空恐ろしくなる。

ハードSFが書くような未来は、今や絵空事でなくなりつつある。自我や肉体がITで補完される時代の到来だ。

自我のミラーリングに加えて自我の世代管理が可能な時代。自我と肉体の整合性チェックが当人の意識なしに、スリープ時にcron処理で行われる未来。太陽系内の全ての意識がデータ化されトレース可能な技術の普及。そんなSF的発想が遠からず実現可能になるのではないか。一昔前ならば妄想で片付けられる想像が、もはや妄想と呼ぶのも憚られる。今はそんな時代だ。

そんな時代にあって自我とは何を意味するのか。そして哲学は何に悩めば良いのか。数多くのSF作家が知恵を絞った未来が、道筋の果てに光となって見えている。今のわれわれはそんな時代の入り口に立ちすくみ、途方に暮れている。

本書は、現代の技術爆発のとば口にたって震えおののく人々のためのガイドだ。

今、最先端の技術はどこまで達し、どこに向かっているのか。デジタルの技術は人間を地球を幸せにするのか。それとも死の星と変えてしまうのか。IT業界に身を置いていてもこのような課題を日々取り扱い、悩んでいる技術者はあまり見かけない。おそらくホンの一握りだろう。

今の技術者にとって、周囲はとても賑やかだ。機械学習にIoT。ビッグデータからAIまで。といっても私のようなとるに足らぬ技術者は、それら最先端の技術から産まれ落ちるAPIをさわって悦に入るしかない。もはや、ITの各分野を横断的に把握し、なおかつそれぞれの分野に精通している人間はこの世に数人ぐらいしかいないと思う。それすらもいるのか怪しいが。

だが例えIT業界に身をおいていないとしても、IT各分野で起こっている技術の発展については表面だけでもは知っておかねばならない。少なくとも本書で書かれているような技術事情や、それが人間と社会に与える影響は知っておくべきだろう。それだけに本書のようなデジタルが人間存在にもたらす影響を考察する書は貴重だ。

著者は科学ジャーナリストではない。デジタルマーケティングディレクターを肩書にしている。という事はIT現場の第一線でシステムエンジニアやプログラマーとして働いている訳ではない。設計やコーディングに携わることもないのだろう。だがマーケティングからの視点は、技術者としての先入観に左右されることなく技術が人々に与える影響を把握できるのかもしれない。「はじめに」で著者は、デジタルの進化に違和感を感じていることを吐露する。つまり技術を盲信する無邪気な楽天家ではない。そこが私にとって共感できる部分だ。

本書冒頭では永遠に動き続ける心臓や精巧に意志を再現する義肢などの最新の技術が披露される。本書では他にも仮想通貨、3Dプリンター、ウェアラブルコンピューター、IoT、自動運転車、ロボット、仮想政府、仮想企業、人口器官などなど様々な分野の最先端技術が紹介される。

だが、本書は単なる技術紹介本ではない。それだけなら類似の書籍はたくさんある。本書の素晴らしい点は、無責任なデマを煽らずにデジタルのもたらす光と影を洗いざらい紹介していることだ。そこでは著者は、冒頭に私が書いたようなSF的な絵空事まで踏み込まない。著者が考察するのは現時点で達成された技術で起こりうる範囲に限定している。

著者の説くデジタル世界の歩き方。それはこれからの時代を生きねばならない人類にとっては避けて通れないスキルだ。テクノロジーがもたらす影を受け入れ、それに向かい合うこと。もののネット化(IoT化)が人にもたらす意味を考えること。人間はロボットを常に凌駕し続け、考える葦でありつづけねばロボットに負けてしまうこと。そのためには人間の思考、感性の力を発揮し続けねばならないこと。

各章で著者が訴えるのは、デジタルをリードし続ける責任を人類が担っていることだ。それがITを産み出した人類に課せられた使命。そのためには人間は考え続けなければならない。ITの便利さは利用しつつも想像力は常に鍛え続ける。そのためのヒントは、情報と知識の使い分けにあると著者は言う。

「情報」はメディアなどを通じて発信者から受信者へ伝達されるある物事の内容や事情に関する知らせで、「知識」はその情報などを認識・体系化することで得られるものである。さらに「思考」は、その知識や経験をもとに何らかの物事についてあれこれ頭を働かせることである。これらの言葉を曖昧に使っていると、大いなる勘違いを招く。(174-175ページ)

情報を知識と勘違いし、知識を知力と錯覚する。それこそがわれわれが避けなければならない落とし穴だ。そこに落ち込まないためには思考の力を鍛えること。思考こそがテクノロジーに飲み込まれないための欠かせない処方箋である。私は本書からそのように受け取った。思考さえ疎かにしなければ、ITデバイスの使用は必ずしも避ける必要はないのだ。著者の提言はそこに集約される。

著者は最後に紙の新聞も読んでいることを告白する。紙の新聞には、電子媒体の新聞にない「閉じた安心感」があるという。全くその通りだと思う。閉じた感覚と開けた感覚の違い。ファミコンやPCエンジンで育った私の世代は、決してITに無縁だったわけではない。ゲームだって立派なIT技術のたまものだ。だが、それらは閉じていた。それが開いたのがインターネットだ。だから、インターネットに囲まれて育った世代は閉じた世界の安心を知らない。だが、閉じた世界こそは、人類の意識にとって最後の砦となるような気がする。紙の本は確かにかさばるかもしれないが、私が電子書籍を読まないのもそれが理由だと思う。

私は閉じた世界を大切にすべき根拠に感覚を挙げたい。触覚もいずれはデジタルによって代替される日が来るだろう。だがその感覚を受容するのがデジタルに寄生された意識であってはならないと思う。今はまだ百パーセント有機生命体である脳が感覚を司っている。そして、それが人が人である定義ではないか。例えば脳疾患の治療でもない限り、頭に電極を埋め込み、脳をテクノロジーに委ねる技術も実現間近だ。そしてその技術が主流になった時、人類は深刻な転換期を迎えるのではないだろうか。

思考こそが人の人たるゆえん。著者の論理に従うならば、我らも思考しなければならない。デジタルデパイスはあくまでも人の思考を助けるための道具。決して思惟する行いをデジタルに丸投げしてはならない。本書を読んでその思いを強くした。

‘2016/05/06-2016/05/07


アジャストメント


フィリップ・K・ディックといえば、SF作家の巨匠として知られる。

映画化された作品は数多い。だが、著者はとうの昔に世を去っている。没年が1982年というから亡くなって30年以上経つ。それなのに2010年代になってもなお映像化された作品がスクリーンを賑わしている。こんなSF作家は著者だけかもしれない。

本書に収められた短編のうち最近のものは「凍った旅」だ。この作品は1980年に発表されている。1980年といえばインターネットどころか、マッキントッシュやウィンドウズが生まれたての頃だ。インターネットはまだ軍事用の連絡手段としてごくごく一部の人間にしか開放されていなかった時期。ネットライフなど、SF作家の脳内にも存在したか怪しい。著者が脂に乗っていた世代はさらに二世代ほど遡る。本書に収められた作品の多くはそのような時代に着想された。

そんな古き良き時代に産み出された著者の作品が、現代でもなお映像化されるのは何故だろう。

本書に収められた短編にはその疑問を解き明かす鍵が隠れている。

それは人の心を描いている、ということではないか。人の心の作用は、技術が発達した今もまだ闇の中だ。人工知能が当たり前となった現代にあっても、人の心の深淵は未知。精神医学も脳神経学も、脳波や言動といった表面に聴診器を当てて心の動きを推し量っているにすぎない。

つまり、著者の扱うSF的な主題は、今なおSFとして通用するのだ。たとえ道具立てが古びていようとも。そんなものは映像に表現する際に最新の意匠を当てはめれば済む。それだけの話だ。ここにこそ今なお著者の作品が映像化される理由が隠れていると思う。

その点を以下に示してみよう。

「アジャストメント」
2011年にマット・デイモン主演で映画化された。本編では、環境が人の心が作り出したものか、それとも環境があってその中に人の意識が作動するか、いわゆる唯物論と唯識論が取り上げられている。

「ルーグ」
犬と人間の交流の断絶を描いている。つまり、犬の心と人間の心は吠え声を通してしか繋がり得ないという事だ。犬が絶望的にいくら泣き喚こうが、人間にはただのうるさい無駄吠えとしか聞こえない事実。

「ウーブ身重く横たわる」
心のタブーの産まれる所に切り込んだ著者のデビュー作。何がタブーを作り出すのかがとても鮮やかに描かれる。

「にせもの」
ぼくがぼくだということを示す方法。記憶も自我もコピーされたとして、果たして自分が自分であることをどうやって証明すればよいか。自我のあり方について鋭くえぐった一編だ。

「くずれてしまえ」
本編は、心が陥る怠惰の罠を書いている。もしくは想像力の涸渇と言い換えてもよい。なんでもコピー自在な異種生物によって支えられた世界。それが崩壊して行く様。なにやら技術に依存しきった人類の未来を描いているようで不気味な一編。

「消耗員」
この一編は心とはあまり関係なさそうだ。いわゆる異種=虫とのファンタジー。

「おお! ブローベルとなりて」
本編は、同族以外のものを排除しようとする差別意識をテーマとしている。

「ぶざまなオルフェウス」
本編は、芸術家や歴史に名を残す人物に降り立つ霊感を扱っている。いわゆるひらめき。著者自身が登場するのも笑える。歴史改変ものでタイム・パラドックスに無頓着なのはご愛嬌だ。

「父祖の信仰」
信仰と忠誠の話だ。もしくは個人と組織の対立と言い換えてよいかもしれない。薬が登場するが、それは信仰や忠誠の媒介を象徴しているのだろう。そういった媒介物があって初めて、信仰や忠誠は成り立つのかもしれない。むしろ、成り立たないのだろう。

「電気蟻」
本編はロボットの自我の話だ。自我に気づいたロボットが自殺する話。これは、心の自律性を風刺していると思われる。

「凍った旅」
本編は、記憶や幼き日のトラウマの深刻さを描いている。長期睡眠者の意識だけが目覚めた中、宇宙船の統御コンピュータが、長期睡眠者の精神ケアのため、時間稼ぎに幼い日々の記憶を蘇らせる話だ。全てを暗く自虐的に受け取ってしまう長期睡眠者の心の闇が、ケアされていく様子が描かれている。

「さよなら、ヴィンセント」
これはリンダ人形のモデルのリンダについての物語だ。何かせずには自分のありようを確かめられない。そんな心の弱さが簡潔に記されている。

「人間とアンドロイドと機械」
これは著者のエッセイだ。内容や主旨がかなり回りくどく説明されており、全貌を把握することは難しい。私が受け取った著者のメッセージは、人間とアンドロイドと機械を厳密に区別する術はないということだ。自我よりも行動様式、もしくは存在論にまで話は及ぶ。その該博なエッセイの中で著者の結論を見出すのは難しい。結局は人間的な属性などどこにもない、という結論だと思ったが、どうだろうか。

‘2016/04/14-2016/04/20