Articles tagged with: 自分

魔法の種


ノーベル文学賞を受賞した作家たちは、いつか読破せねばと思っている。
著者はインドにルーツを持つ英文学の世界では有名な作家だ。そして、ノーベル文学賞の受賞作家でもある。
それなのに著者の作品はいまだに読んだことがなかった。本書が初めてだ。

著者の作風を知らずに読み始めたためか、本書は私にとって少々読みにくかった。

読みにくいと感じた理由はそれだけではない。
翻訳文が生硬だったことも理由の一つとして挙げられる。
主人公の独白調の語りが硬く訳された時、読みにくさは増す。

もう一つ、本書が読みにくかった理由がある。それは本書が『ある放浪者の半生』の続編である事だ。
私は、巻末に訳者が付した解説を読むまで、本書が続編である事を知らずにいた。

実際、本書を読み始めると、読者はすぐにある不自然さに気づくはずだ。
その不自然さは、主人公の過去を追憶する場面においてひときわ目立つ。

本書は、ベルリンにいる主人公ウィリーの現況を描写するところから始まる。
インドに生まれ、アフリカで長い期間、結婚生活を送っていたウィリー。18年に及ぶアフリカ生活は、主人公の考え方に明らかな影響を与えたはず。
それなのに、その18年はわずかに追憶されるだけで、実際にアフリカで何が行われたのか、ウィリーはどういう日々を営んでいたのかが一切描かれない。

私は読みながらそのことを訝しく思っていた。そして最後になって大きなどんでん返しがあるのでは、と思っていた。
しかし、あとがきを読んで本書が『ある放浪者の半生』の続編である事を知り、ようやく納得した。
アフリカでの日々は『ある放浪者の半生』で描かれており、本書は、読者がそれを読者が読んでいることを前提に書かれているようだ。
たしかにあとがきで著者がいうように、本書はアフリカのことを知らなくても読めるし、『ある放浪者の半生』を読んでいなくても本書は読み進められる。
だが、私のような不注意な読者にとっては、本書の前段がぽっかり抜けていると感じ、それが読みにくさにつながっているのも事実だ。

だが、そうした点を除けば、ウィリーが理想を求め続ける人間であることは分かる。理想を求めすぎるあまり、アフリカの生活に飽きたらなかったことも。
私は『ある放浪者の半生』を読んでいないので、アフリカの生活がどんなものだったかは分からない。おそらく、ウィリーがアフリカで感じたのは大義の欠如だったのではないか。

大義とは、個人の目標を自分自身の達成におかない事だ。
そして目標とは、自分の信じるより良い社会の実現だ。その目標に向かって努力すること。これが大義。
左右のイデオロギーを問わず、大義に殉じようとした人のいかに多いことか。

ところが、人は大義の大切さはわかっても、何をすれば良いのか、何が課題なのかが分からない。それをわきまえず、ただ闇雲に大義へと突き進む人がいる。
それは空虚な理想主義であり、頭でっかちに考えるとそこに落ち込む。
誰もが陥る若かりしころの過ちであり、私もその轍にはまった一人だ。

社会のいろいろな経験を積み、いろいろな階層の人と交わり、社会の仕組みを存分に知る。
そのような地道な営みの中から知識が少しずつ身についてゆく。そして、地に足のついた改革が志せるようになってようやく、人は大義への現実的な歩みを始める。

ウィリーは深い知恵がないまま、空回りの理想に走る典型的な人物として描かれているようだ。
妹のサロジニが読みかじった、インドの哲人ガンジーの伝記からの受け売りに感化される。そして改革のために運動するカンダパリという人物の組織に加わるよう、サロジニから焚きつけられてその気になる。

ウィリーは不確かな連絡だけを頼りに、インドへと向かう。ゲリラ運動の大義に身を投じるために。
ウィリーは自分の過去と決別し、今や自分は生まれ変わったと確信する。

ところがそれは大きな勘違いであることは、読者には容易に理解できる。
組織の首脳が誰で、どういう大義を掲げており、どういう手順を踏んで事を成そうとするのか。
ありとあらゆるゲリラへの理解があやふやなまま、行動すること自体が大義であるかのように振る舞うウィリー。

そこには何もなく、ただ空虚な大義に踊らされる人間の滑稽があるのみだ。

おそらく、今の発展途上国の多くでは、年端もいかぬ子供達が、銃を手に取り、理解してもいない大義に殉じて日々を送っていることだろう。
あるいは学生運動の盛んだった頃のわが国で、いったいどれだけの学生が大義の目的や大義を実現する具体的な方法や大義が実現する見込みを理解していたか考えてみるといい。
おそらく、オルグしたリーダー格の発する熱気にあてられ、浮わついた気分で運動に邁進していったのではないだろうか。

ウィリーはさまざまなパートナーと組んでゲリラ活動を行う。
連絡員として重宝されたかと思えば、連絡が途切れた上に放置される。
有望な一員として抜擢されたかと思えば、命令した当の組織から見捨てられる。
そうした経験をへても、ウィリーはとうとう理解しない。その組織が何を目指し、何を実現しようとするのかを。

活動の合間にベルリンのサロジニから連絡はポツポツと来る。
だが、サロジニにも無意味なゲリラ活動に兄を追いやった事への反省はない。それどころか、次々と理想を求める活動に身を投じて行く。
もはやそこに正解があるとは読者や著者も期待しないというのに。

ウィリーはベルリンに戻る。そして、かつて書いた詩集が名声を呼び、それによって生活の糧を得る。そして上流に属する人々と交流する。

だが、本書はそこから迷走を始める。いったい、本書がどこに向かっているのかわからなくなるほど、上流階級の交流のダラダラとしたやり取りが続く。
そして、銀行家の不倫の恋の結末が延々と再現される。
どうなってしまうのか、と私は別の意味で心配になったほどだ。

ところが物語の展開は変わり、ウィリーはついに悟りへと至る。ウィリーの悟りは、以下に引用する二つの文面から推し量れる。
まずはサロジニへの書きかけの手紙の文面において。
「親愛なるサロジニ。あまり極端から極端に行ってはいけないよ。病んだ世界、病んだ人間たちに与えるべき唯一の特効薬のようなものはないのだから。お前の悪い癖だ」(267p)

本書は以下のウィリーによる独白で締めくくられる。
「世界に理想的な姿を求めるのは間違っている。そういうことをするから災いが起こるのだ。そこからすべてが崩れていく。だが、それをサロジニに伝えるわけにはいかない」(333p)

最初に引用した文章は、尽きることのないゲリラ運動や大義のない争いの愚かさを言い表している。
そして後に引用した文章。これが実に示唆に富んでいる。

ウィリーが魔法の種としてつかみ取った真理。それをあえて妹に伝えずに済ませる。その行為にはどのような意図が込められているのだろうか。
理想を追うものには何を言っても無駄、という諦めだろうか。または、理想を追うこと自体は素晴らしい試みであり、それに水をさすことは控えよう、という意図なのか。それとも、ウィリーが自分の経験からつかみ取った真理は、それぞれの人が自らあがいて掴み取ることが大切で、人には伝えられないという本質を表しているのだろうか。

この諦念にも似た心境は、名声を得た著者の苦い後悔なのかもしれない。
最後にきて、本書はその真価を現す。

‘2019/4/10-2019/4/20


人間臨終図鑑Ⅲ


そもそもこのシリーズを読み始めたのは、『人間臨終図鑑Ⅰ』のレビューにも書いた通り、武者小路実篤の最晩年に書かれたエッセイに衝撃を受けてだ。享年が若い順に著名人の生涯を追ってきた『人間臨終図鑑』シリーズも、ようやく本書が最終巻。本書になってようやく武者小路実篤も登場する。

本書に登場するのは享年が73歳以降の人々。73歳といえば、そろそろやるべきことはやり終え、従容として死の床に就く年齢ではないだろうか。と言いたいところだが、本書に登場する人々のほとんどの死にざまからは死に従う姿勢が感じられない。そこに悟りはなく、死を全力で拒みつつ、いやいやながら、しぶしぶと死んでいった印象が強い。

有名なところでは葛飾北斎。90歳近くまで生き、死ぬに当たって後5年絵筆を握れれば、本物の絵師になれるのに、と嘆きつつ死んでいった。その様は従容と死を受け入れる姿からはあまりにかけ離れている。本書に登場する他の方もそう。悟りきって死ぬ人は少数派だ。本書は120歳でなくなった泉重千代さんで締めくくられている(本書の刊行後、120歳に達していなかったことが確認されたようだが)。私が子供の頃になくなった重千代さんは当時、長寿世界一の名声を受けていた方。眠るように死んでいったとの報道を見た記憶がある。例えトリを飾った方が消えるように亡くなっていても、他の方々の死にざまから受ける印象は、死を受け入れ、完全な悟りの中に死んでいった人が少ないということだ。多くの方は、十分に死なず、不十分に死んだという印象を受ける。

わたしは30代の後半になってから、残された人生の時間があまりにも少ない事に恐れおののき、焦りはじめた。そして、常駐などしている暇はないと仕事のスタイルを変えた。私の父方の家系は長命で、祖母は100歳、祖父も95歳まで生きた。今の私は45歳。長命な家計を信じたところで後50年ほどしか生きられないだろう。あるいは来年、不慮の事故で命を落とすかもしれない。そんな限られた人生なのに私のやりたいことは多すぎる。やりたいことを全てやり終えるには、あと数万年は生きなければとても全うできないだろう。歳をとればとるほど、人生の有限性を感じ、意志の力、体力の衰えをいやおうなしに感じる。好きなことは引退してから、という悠長な気分にはとてもなれない。

多分私は、死ぬ間際になっても未練だらけの心境で死んでいくことだろう。そしてそれは多くの人に共通するのではないだろうか。老いた人々の全てが悟って死ねるわけではないと思う。もちろん、恍惚となり、桃源郷に遊んだまま死ねる人もいるだろう。ひょっとしたら武者小路実篤だってそうだったかもしれない。そういう人はある意味で幸せなのかもしれない。ただ、そういう死に方が幸せかどうかは、その人しか決められない。人の死はそれぞれしか体験できないのだから。結局、その人の人生とは、他人には評価できないし、善悪も決められない。だから他人の人生をとやかくいうのは無意味だし、他人から人生をとやかく言われるいわれもない。

今まで何千億人もの人々が人生を生き、死んでいった。無数の人生があり、そこには同じ数だけの後悔と悟りがあったはず。己の人生の外にも、無数の人生があったことに気づくことはなかなかない。身内がなくなり、友人がなくなる経験をし、人の死を味わったつもりでいてもなお、その千億倍の生き方と死にざまがあったことを実感するのは難しい。

私もそう。まだ両親は健在だ。また、母方の祖父は私が生まれる前の年に亡くなった。遠方に住んでいた母方の祖母と父方の祖母がなくなった際は、仕事が重なりお通夜や告別式に参列すらできなかった。結局、私がひつぎの中に眠る死者の顔を見た経験は数えるほどしかない。ひつぎに眠る死者とは、生者にただ見られるだけの存在だ。二度と語ることのない口。開くことのない眼。ぴくりとも動かない顔は、こちらがいくら見つめようとも反応を返すことはない。私がそのような姿を見た経験は数えるほどしかない。父方の祖父。大学時代に亡くなった友人二人。かつての仕事場の同僚。あとは、6,7度お通夜に参列したことがあるぐらい。祖父と友人の場合はお骨拾いもさせていただいた。もう一人の友人はなくなる前夜、体中にチューブがまかれ、生命が維持されていた状態で対面した。私が経験した死の経験とはそれぐらいだ。ただ、その経験の多少に関係なく、私は今までに千億の人々が死んでいったこと、それぞれにそれぞれの人生があったことをまだよく実感できていない。

『人間臨終図鑑』シリーズが素晴らしいこと。それは、これだけ多くの人々が生き死にを繰り返した事実だけで占められていることだ。『人間臨終図鑑』シリーズに登場した多くの人々の生き死にを一気に読むことにより、読み手には人の生き死にには無数の種類があり、読み手もまた確実に死ぬことを教えてくれる。著者による人物評も載せられてはいるが、それよりも人の生き死にの事実が羅列されていることに本書の価値はある。

人生が有限であることを知って初めて、人は時間を大切にし始める。自分に限られた時間しか残されていないことを痛感し、時間の使い道を工夫しはじめる。私もそう。『人間臨終図鑑』シリーズを読んだことがきっかけの一つとなった。自らの人生があとわずかである実感が迫ってからというもの、SNSに使う時間を減らそうと思い、痛勤ラッシュに使う時間を無くそうと躍起になった。それでもまだ、私にとって自分の人生があとわずかしか残されていないとの焦りが去ってゆく気配はない。多分私は、死ぬまで焦り続けるのだろう。

子供の頃の私は、自分が死ねばどうなるのかを突き詰めて考えていた。自分が死んでも世の中は変わらず続いていき、自分の眼からみた世界は二度と見られない。二度と物を考えたりできない。それが永遠に続いていく。死ねば無になるということは本に書かれていても、それは自分の他のあらゆる人々についてのこと。自分という主体が死ねばどうなるのかについて、誰も答えを持っていなかった。それがとても怖く、そして恐ろしかった。だが、成長していくにつれ、世事の忙しさが私からそのような哲学的な思索にふける暇を奪っていった。本書を読んだ今もなお、自我の観点で自分が死ねばどうなるか、というあの頃感じていた恐怖が戻ってくることはない。

だが、死ねば誰もが一緒であり、どういう人生を送ろうと死ねば無になるのだから、人生のんびり行こうぜ、という心境にはとても至れそうにない。だからこそ私は自分がどう生きなければならないか、どう人生を豊かに実りあるものにするかを求めて日々をジタバタしているのだと思う。

あとは世間に自分の人生の成果をどう出せるか。ここに登場した方々は皆、その道で名を成した方々ばかり。世間に成果を問い、それが認められた方だ。私もまた、その中に連なりたい。自分自身を納得させるインプットを溜め込みつつ、万人に認められるアウトプットを発信する。その両立は本当に難しい。引き続き、精進しなければなるまい。できれば毎年、自分の誕生日に自分の享年で亡くなった人の記事を読み、自分を戒めるためにも本書は持っておきたい。

果たして私が死に臨んだ時、自分が永遠の無の中に消えていくことへの恐れは克服できるのだろうか。また、諦めではなく、自分のやりたいことを成し遂げたことを心から信じて死ねるのか。それは、これからの私の生き方にかかっているのかもしれない。

‘2017/07/25-2017/07/26


思いつくものではない。考えるものである。言葉の技術


言葉を操る。今、誰もがこなせるスキルだ。そしてそれ故にもっとも軽んじられたスキルでもある。

多くのブログやツイートやウォールが溢れるネットの中。そこでは、編集者や読者がいようがいまいがお構いなしに、毎日大量の文章がアップされている。ページに表れては底へと沈んでいく文字の群れ。私の書く文章もその中に紛れ、底に向かって忘れられていく。そんな言葉で液晶画面は飽和している。だが、液晶画面の外でも脚光を浴びる文字はほんのわずかだ。電子世界ではいくら威勢がよくても、リアルな社会では本当にちっぽけな存在でしかない。それがあまたのブログやツイートの実情だろう。

リアルな社会では、いまなおテレビ番組が健在だ。ネット住民からみると完全なオワコンでしかないテレビ番組。だが、リアルな社会ではまだまだ影響力を持っている。テレビのCMが世相に浸透する力は依然として侮れない。一方通行である分、大量に流され、拡散力を持つ。一方、ネットはそれぞれの閲覧者にカスタマイズされた情報が届けられることが基本だ。なので、同時に拡散する力は弱い。ネットの中を飛び交う言葉は、リアルな社会での影響力はまだ鈍いといわざるをえない。ネットに流れる文章でリアルな社会にかろうじて顔を見せる文章といえば、ツイートぐらいだろうか。それすらも、フォロワーが何百万人、何千万人いるような選ばれたインフルエンサーのツイートに限られる。例えばトランプ大統領や著名人のアカウントのような。一般人のツイートで取り上げられるとすれば、テレビ番組の中ぐらいか。 リアルタイムでインタラクティブな視聴者の声として、テレビ局が最近意識して取り入れるような。

それ以外の言葉は、残念ながら、CMにしろ番組にしろ、ネット社会で飛び交う言葉がリアルに登場することはあまりない。ネット上で産まれた言葉がリアルを侵食することはない。そこまでは至っていないのが現状だ。

それがおそらく、一人ひとりにカスタマイズされるネットのコンテンツと、一斉配信を前提とするマスメディアの差なのだろう。だが、あえていうならば、読む人見る人の感性に訴えるだけの力がネット上の文章にはないとから、ともいえる。私も含めた発信者が、ネット上にアップする文章に、世論を動かすだけの力がないのだ。

では、どういう言葉がリアルな言葉でもてはやされるのか。それは、コピーライターによるコピー文句だ。

作家による小説やエッセイ、または新聞記事。確かにこれらはリアルな社会に似つかわしい文章だ。だが、それはリアルな社会の共通項ではない。それらは著者から読者へとストレートに届けられるものであり、社会に浸透することはあまりない。若干閉じた文章とすらいえる。これはネット上のニュース文章にもいえることだ。先にも書いたが拡散力の差、といえる。それに比べて、コピーライターの生み出す文章は、拡散力がある。それは文章を見た瞬間に、人の感性にするりと入り込む。そして記憶の奥底にがっちりと食い込む。これはが、ネットの世界に飛び交う文章にはない、職人的な経験値の力なのだろう。

本書は、リアルな世界で通用する文章の紡ぎ方のノウハウが記されている。著者は文章の専門家ではない。修辞学の教授でも文学部の講師でも、ましてや作家ですらない。著者は電通でコピーライターとして活躍している方だ。だが、上にも書いたとおり、リアルな社会で人々の目や耳に飛び込む文章とは、コピーライターから発信された言葉が多いのではないか。

本書で著者は、すぐれたコピーを生み出す秘訣を、端的にいう。それは、考えることであるという。コピーライターが生み出す言葉とは考えに考えぬいた結果でしかないのだ。決して才能や感性でパッと生まれでたものではない。本書で著者が語る秘訣とは、当たり前といえば当たり前なのだ。だが、すべての仕事に共通することだが、実のところ近道はない。どんな仕事であれ、練習や努力の積み重ねでしかない。本書の結論も同じ。優れたCMコピーの裏側には膨大な試作があり、廃案があり、考え抜いた努力の跡がある。その訓練が人に訴えるコピー文句を生み出すのだ。

商品・企業
ターゲット
競合
時代・社会
この4つのキーワードは、著者がコピーを考える上で四つの扉として挙げる切り口だ。

つまり、これらは徹底した消費者目線で、売り手の訴えたいココロを文章に乗せるための観点だ。

本書はとても腰が低い。本書のあちこちに著者が腰を低く、自らを卑下するようなスミマセンが登場する。これは、本書を読むとすぐに気づく特徴だ。腰が低いとは、読み手であるわれわれとの壁をなくすこと。つまり大上段に構えて落としこむように語っても本書の内容は伝わらないということなのだろう。そこで、上にあげた四つの扉の切り口から徹底的に消費者の視線と売り手の視線に降りて言葉を考える。ひたすらに考える。その愚直な作業の繰り返しから生まれるのがコピー文句なのだろう。

では、われわれ読者も、ありがたく頂くのではなく、その姿勢を学ばねばならない。学んで、同じように低い姿勢で読み手に文書を届けなければならない。

本書は最後に、二つの文章で、文章を著す者の姿勢が載っている。

感情的な言葉より、正確な言葉
人に訴える言葉より、自分を律する言葉

これはブログを書く上でも、仕事上でやり取りをする上でも、とても重要な言葉だと思う。ことに最近、そういう感情的な文章に触れる機会があった。それを反面教師として、自分でも自分でも律していきたいと思う。私は、いろいろなブログを書いている。その中で、読読ブログと映画・観劇ブログは、あえて文体を変えている。デスマス調ではなく、デアル調の文体。それがどういう効果を与えているのか、今一度深く考えてみなければならないのだろう。

‘2016/06/30-2016/06/30