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人魚の眠る家


本書はミステリというよりも、医学的なテーマについて考えさせられる小説だ。
ここでいう医学的なテーマとは、脳死とは何か、果たして人間の意識とは何かを意味する。本書にはそれらのテーマが取り上げられている。

人の意識とは何か。この問題に対して容易に答えを出すのは難しい。
今、考えていること自体が意識なのか。考えていることを指の動きまで伝達するまでの全ての営みが意識なのか。この意識とは、私の自由意志であるとみなしてもよいのか。
脳波を調べると、情報の伝達からそれに基づいた選択が行われるよりも前に脳のどこかで反応が生じるという。つまり、私たちが判断を行っているという意識よりも上位の何かが命令を発している論議さえまことしやかに交わされている。

そもそも、私たちの意思とはあらかじめプログラムされた命令の発動でしかないという説すらある。
そうした意識について人々が思索できるのも、私たちが今まさに活動し、外界に向けてアウトプットをしているからだ。私が笑ったり声を出したり動いたりするからこそ、私以外の人は私に意識があると判断する。
では、不慮の事故で外界に反応しなくなった場合、意識はないとみなしてよいのか。
生存に必要な生体反応や生理反応は生じるが、まったく外界に向けて反応がない場合、その人は生きているといえるのか。

ここに挙げた問題は容易には答えが出せない。
現代の医学でも、こうした問題については脳波やその他の反応を確認して意識の有無、つまりは脳死の有無を判断するしかないのが現状だ。本当に脳が死んでいるのか生きているのかは、あくまで脳波などの客観的な要素でしか判断できないのだ。

では、客観的に脳波があっても、外部への反応が確認できない場合、脳死と判断することは可能なのだろうか。
それが自分の子どもであれば、なおさらそのような判断を下すことは困難だ。呼吸はしているし、ただ寝てだけのように思えるわが子に死の宣告を下す。そして、死に至らしめる。
それは子を持つ親にとってあまりにも過酷な判断である。不可能といっても過言ではない。

はたして、親は眠ったままのわが子に脳死の判断を下せるのか。また、下すべきなのか。

著者はそれらの問いを登場人物に突き付ける。もちろん、読者にも。

本書の中で脳死になるのは瑞穂だ。播磨和昌と薫子の間に生まれた娘だ。
この二人が瑞穂に起こったアクシデントを聞かされたのは、和昌の浮気が原因で離婚の話し合いをしている時だった。
プールでおぼれて脳死状態になった瑞穂をいったんはあきらめ、臓器移植の意思表示をした二人。だが、最終的にその意思を示す直前で瑞穂の手から反応が返ってきたことで、二人は延命に望みをつなぐ。

和昌が経営する会社では、ちょうど人間に接続したデバイスを脳から動作させる研究が進展していた。
その研究が娘の意識を取り戻すための助けになるなら、そして妻が望みを持ち続けられるなら、と離婚を取りやめた和昌は、娘の体を機械で操作する研究に手を染め始める。
その和昌による研究は進展し、研究の成果によって薫子は瑞穂を生きている時と変わらないように動かせるまでになる。
起きることのないわが娘を、さも生きているかのようにふるまわせる薫子は、次第に周囲から疎んじられるようになる。

狂気すら感じられるわが子への愛は、どのような結末を迎えるのか。そんな興味に読者は引っ張られていく。

法的には生かされているだけの脳死状態の人。
私たちは脳死という問題についてあまりにも無知だ。医者が脳死判定を下す基準は何か。脳死状態の人が再び意識を取り戻すことはありえるのか。脳死状態の人の法的な地位はどうなるのか。意識はなくとも肉体は成長する場合、その人の年齢や教育はどう考えるべきなのか。
また、脳死状態にある人の臓器を移植したい場合、誰の意思が必要なのか。その時に必要な手続きは何なのか。
当事者にならない限り、私たちはそうした問題に対してあまりにも無知だ。

私は常々、今の世の中の全ての出来事に対して当事者であり続けることは不可能だと思っている。
当事者でない限り、深くその問題にコミットはできない。そして、説得力のある意見を述べることもできない。だから私はあまり他人の問題に言及しないし、ましてや非難もしない。
さらにいうと、当事者でもない政治家や官僚があらゆる問題を決める仕組みはもはや存族不能だと考えている。
日々の暮らしに起こりうる可能性の高い出来事についてすら、いざ事故が起きてみないと当事者にはなれないのが現実だから。

本書を読むと、まさに脳死の問題とは、当事者にならなければ深く考えることもできない事実を突きつけられる。

では、死に対してはどうだろう。または、意識に対しては。
これらについても当事者にならなければ深く考えることはできないのだろうか。
ここで冒頭の問いに回帰してゆくのだ。
果たして意識とは何だろうか。

そう考えたとき、本書から得られる教訓は当事者意識の問題だけでないことに気づかされる。
私たちは普段、自らの意識を意識して生きているのか、という問いだ。つまり、私たちは自分の意識について当事者意識を持っているのだろうか。
冒頭に書いたような問いを繰り返す時に気づく。私たちは普段、自らの意識を意識して生きていないことに。

例えば呼吸だ。無意識に吸って吐いての動作を繰り返す呼吸を私たちが意識して行うことはない。
だが、ヨガ行者や優れたスポーツ選手は呼吸を意識し、コントロールすることによって超人的な能力を発揮するという。
また、大ブームになった『鬼滅の刃』にも全集中の呼吸がキーワードになっている。

呼吸だけでなく、歩き方や話し方、思考の流れを意識する。そうすることで、私たちは普段の力よりも高い次元に移り行くことができる。

脳死の問題について私たちが当事者になる機会はないし、そうならないことが望ましい。
だからといって、本書から得られることはある。
本書は、そうした意識の大切さと意識に対して目を向けることに気づかせてくれる小説だといえる。

2020/12/12-2020/12/15


人災はどこから始まるのか 「群れの文化」と「個の確立」


本書は、元日本原子力研究所や日本原燃株式会社といった原子力の第一線で働いていた著者が書いている。
原子力技術者が、東日本大地震が起こした惨禍とそれに伴う福島第一原子力発電所の事故を受け、贖罪の気持ちで書いたものだという。

題材が題材だからか、本書はあまりなじみのない出版社から出されている。
おそらく、本書に書かれている内容は、大手出版社では扱いにくかったのだろう。
だが、本書をそれだけの理由で読まないとしたらもったいない。内容がとても素晴らしかったからだ。

こうした小さな出版社の書籍を読むと校正が行き届いていないなど、質の悪さに出くわす事がたまにある。本書にも二カ所ほど明らかな誤植があった。
私の前に読んだどなたかが、ご丁寧に鉛筆の丸で誤植を囲ってくださっていた。
だが、その他の部分は問題がなかった。文体も端正であり、論旨の進め方や骨格もきっちりしていた。
著述に不慣れな著者にありがちな文体の乱れ、論旨の破綻や我田引水の寄り道も見られない。

しかも本書がすごいのは、きちんとした体裁を備えながら、明快かつ新鮮な論旨を含んでいる事だ。
原子力発電所の事故を語るにあたり、官僚組織の問題を指摘するだけならまだ理解できる。
本書のすごさは、そこから文化や文明の違いだけでなく、事故を起こす人の脳の構造にまで踏み込んだ事にある。

こう書くと論理が飛躍しているように思えるかもしれない。だが、著者が立てた論理には一本の芯が通っている。
著者は福島第一原子力発電所の事故を踏まえ、人間の脳を含めた構造や文化から説き起こさなければ、過ちはこれからも起こりうると考えたのだろう。
事故が起こる原因を人間の文化や脳の構造にまで広げた本書の論旨は、きちんとまとまっており、新鮮な気付きを私たちに与えてくれる。

本書の主旨はタイトルにもある通り、ムレの文化が組織の危機管理の意識を脆弱にし、責任の所在が曖昧になる事実だ。

日本の組織ではムレの意識が目立っている。それは戦後の経済成長にはプラスとなった。
だが、著者は、日本が高度経済成長を達成できた背景がムレの意識ではないと指摘する。それどころか、日本の成長は技術の向上とその時の国際関係のバランスが有利に働いた結果に過ぎないと喝破する。
日本の高度経済成長に日本のムレ組織の論理はなんら影響を与えなかった。
それは私たちにとって重要な指摘だ。なぜなら、今もなお、過去の成功体験にからめとられているからだ。
著者のような高度成長期に技術者として活躍した方からなされた指摘はとても説得力がある。

その結論までを導くにあたり、著者はまずムレと対立する概念を個におく。
それは西洋の個人主義と近しい。当然だが、個人主義とは「俺が、俺が」の自分勝手とは違う。

そうした文化はどこから生まれるのだろうか。
著者は、文化を古い脳の記憶による無意識的な行動であると説く。レヴィ=ストロースの文化構造論も打ち出し、それぞれの文化にはそれぞれに体系があり、それが伝えられる中で強制力を備えると説明する。

一方で著者はフェルナン・ブローデルの唱えた「文明は文化の総体」を批判的に引用しつつ、新たな考えを提示する。その考えとは、古い脳の所産である文化に比べ、文明は新しい脳である大脳の管轄下にある。要するに、理性の力によって文化を統合したのが文明だと解釈してよいだろう。
続いて著者は西洋の文化の成り立ちを語る。西洋はキリスト教からの影響が長く強く続いた。宗派による争いも絶えず、国家も文化も細かく分かれ、摩擦が絶えなかった西洋。そのような環境は相手の信教の自由を尊重する関係を促し、個人の考えを尊重する文化が醸成された。著者はイタリア・スペイン・フランス・ドイツ・イギリス・アメリカの文化や国民性を順に細かく紹介する。

ついでわが国だ。温暖な島国であり外敵に攻め込まれる経験をしてこなかったわが国では、ムレから弾かれないようにするのが第一義だった。ウチとソトが区別され、外に内の恥を隠蔽する文化。また、現物的であり、過去も未来も現在に持ち込む傾向。
そうした文化を持つ国が明治維新によって西洋の文化に触れた。文化と文化が触れ合った結果を著者はこのように書く。
「欧州という「個の確立」の文化の下で発展した民主主義や科学技術という近代文明の「豊かさ」を享受しています。それを使い続けるならば「個の確立」の文化の下でなければ、大きな危険に遭遇する事は免れません。」(168p)

ここまでで本書は五分の三を費やしている。だが、脳の構造から文化と文明にいたる論の進め方がきっちりしており、この部分だけでも読みごたえがある。

そして本書の残りは、東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故と、その事故を防げなかったムレ社会の病巣を指摘する。
ムレに不都合な事実は外に見せない。津波による被害の恐れを外部から指摘されても黙殺し、改善を行わない。それが事故につながった事は周知のとおりだ。
社会の公益よりムレの利益を優先するムレの行動規範を改めない限り、同様の事故はこれからも起こると著者は警鐘を鳴らす。

著者は最後に、ムレ社会が戦後の民主化のチャンスを逃し、なぜ温存されてしまったかについて説き起こす。敗戦によって公務員にも職階制を取り入れる改革の機運が盛り上がったそうだ。職階制とは公務員を特定の職務に専念させ、その職域に熟達してもらう制度で、先進国のほとんどがこの制度を採用しているそうだ。
ところが明治から続く身分制の官僚体制が通ってしまった。GHQの改革にもかかわらず、冷戦体制などで旧来の方法が通ってしまったのだという。
その結果、わが国の官僚はさまざまな部署を体験させ、組織への帰属意識とともに全体の調整者の能力を育てる制度の下で育ってしまってしまった。
著者はそれが福島第一原子力発電所の事故につながったと主張する。そして、今後は職階制への移行を進めていかねばならないと。
ただ、著者は世界から称賛される日本の美点も認めている。それがムレの文化の結果である事も。つまり「ムレの文化」の良さも生かしながら、「個の確立」も成し遂げるべきだと。
著者はこのように書いている。
「これからは、血縁・地縁的集団においては古い脳の「ムレの文化」で行動し、その一方で、感覚に訴えられない広域集団では「個の確立の文化」によって「公」の為に行動する、というように対象によって棲み分けをする状況に慣れていかなければなりません。」(262P)

本書はとても参考になったし、埋もれたままにするには惜しい本だと思う。
はじめにも書かれていた通り、本書は原子力の技術者による罪滅ぼしの一冊だ。著者の年齢を考えると自らの人生を誇らしく語るところ、著者は痛みで総括している。まさに畢生の大作に違いない。
著者の覚悟と気持ちを無駄にしてはならないと思う。

‘2020/01/30-2020/02/01


任務の終わり 下


本書では、上巻で研がれたハーツフィールドの悪の牙が本領を発揮する。
人々を自殺へと追い込む悪の牙が。
ハーツフィールドの狡知は、旧式のポケットゲーム機ザビットのインストール処理を元同僚の女性に依頼する手口にまでたどり着く。

そのインストールが遠隔で実現できたことによって、SNSやブログ、サイトを活用し、ハーツフィールドは自らの催眠処理が埋め込まれたソフトを若いティーンエイジャーに無差別かつ広範囲に配り、自殺願望を煽る手段を手に入れた。

さらに、身動きならないはずのハーツフィールドの肉体から、他の肉体の人格を乗っとる術に磨きをかける。その結果、自らの主治医であったバビノーや、病院の雑用夫の体も完全にのっとることに成功する。
ところが、そんな恐ろしい事態が進んでいることに誰も気がつかない。病院の人々や警察までもが。
何かがおかしいと疑いを抱きつつあるのはホッジズとホリーだけだ。

果たして、ハーツフィールドの狡知をホッジズとホリーは食い止められるのか。
本来ならば、本書にはそうしたスリルが満ちているはずだ。
ところが、著者の筆致は鈍いように思える。
かつての著者であれば、上巻でためにためたエネルギーを下巻で噴出させ、ジェットコースターのように事態を急加速させ、あおりにあおって盛大なカタストロフィーを作中で吹き荒れさせていたはず。
だが、そうはならない。

『ミスター・メルセデス』で描かれていたハーツフィールドは、頭の切れる人物として描かれていた。
ところが、脳の大半を損ねているからか、本書のハーツフィールドにすごみは感じられない。
ハーツフィールドの精神はバビノーの肉体に完全に乗り移ることに成功する。
とはいえ、そこからのハーツフィールドはいささか冴えない。
そればかりか、ハーツフィールドはおかしなちょっかいをかけることでホッジズにあらぬ疑いを持たせるヘマをしでかす。
かつての著者の諸作品を味わっている私からすると、少し拍子抜けがしたことを告白せねばなるまい。

本書は、ハーツフィールドがどうやって人々にソフトウエアを配布し、自殺に追い込むか、という悪巧みの説明に筆を割いている。
そのため、本書にはサスペンスやアクションの色は薄い。著者はスピード感よりもじっくりと物語を進める手法を選んだようだ。

おそらく、著者は最後まで本書をミステリーとホラーの両立した作品にしたかったのだろう。
それを優先するため、ホラー色はあまり出さず、展開もゆっくりにしたと思われる。
老いたホッジズと、精神だけの存在であるハーツフィールドの対決において、ど派手な展開はかえって不自然だ。
本書はミステリー三部作であり、ミステリーの骨法を押さえながら進めている。

上巻のレビューでも少しだけ触れたが、本書には技術的な記載が目立つ。
どうやってSNSに書き込ませるか、どうやってソフトウエアを配布するか。
そうした描写に説得力を持たせるためもあって、本書はほんの少しだが理屈っぽい面が勝っている。

理屈と感情は相反する。
理屈が混ざった分、本書からは感情を揺さぶる描写は控えめだ。
ところが、感情に訴えかける描写こそ、今までの著者の作品の真骨頂だったはず。
感情と理屈を半々にしたことが、本書からホラーのスピード感が失われた原因だと思う。
本書に中途半端な読後感を与えるリスクと引き換えに、著者はミステリーとしての格調を保とうとしたのだと私は考える。
だが、それが三部作の末尾を飾る本書に、カタルシスを失わせたことは否めない。

だが、その点を踏まえても本書は素晴らしいと思う。
本書の主題は、ホッジスという一人の人間が引退後をどう生きるのかに置かれている。

それは本書で描いているのが、ホッジズの衰えであることも関わっているのだろう。
より一層ひどくなっていくホッジスの体の痛み。それに耐えながら、ホッジズはハーツフィールドの魔の手から大切な人を守ろうとする。ホッジズの心の強さが描かれるのが本書だ。

ホッジズの死にざまこそ、本書の読後感にミステリーやホラーを読んだ時と違う味わいを与えている。
そうした観点で読むと、本書のあちこちの描写に光が宿る。

ホッジズの心の持ちようは、ハーツフィールドの罠によっていとも簡単に心を操られるティーンエイジャーの描写とは対照的だ。
ハーツフィールドがゲームを通じて弱い心にささやきかける自殺の誘い。
その描写こそ、著者の作家としてのテクニックの集大成が詰まっている。
だが、巧みな誘惑に打ち勝つ意志の強さ。それこそが本書のテーマだ。

さらに、その点からあらためて本書を読み直してみると、本書のテーマが自殺であることに気づく。
『ミスター・メルセデス』の冒頭は、警察を退職し、生きがいをなくしたホッジズが自殺を図ろうとする場面から始まった。
ところが、三部作を通じ、ホッジズは見事なまでに生きがいを取り戻している。
そして、死ぬ間際まで自らを生き抜く男として描かれている。
それは、あとがきにも著者が書いている通り、生への賛歌に他ならない。

人はどのような苦難に直面し、どのような障害にくじけても、自分の生を全うしなければならない。
それが大切なのだ。
何があろうと人の精神は誇り高くあるべき。
人は、弱気になると簡単に死への誘惑に屈してしまう。
そこにハーツフィールドのような悪人のつけ込む余地がある。
上巻のレビューにも書いたように、電話口で誘い出そうとする詐欺師にとって、人の弱気こそが好物なのだから。

また、本書の中でザビットと呼ばれるポケットゲーム機やゲームの画面が人の心を操るツールとなっているのも著者の意図を感じさせる。
いわゆる技術が人の心に何を影響をもたらすのか。
著者はデジタルを相手にすることで人の心が弱まる恐れや、情報が人の心を操る危険を言外に含めているはずだ。

私も情報を扱う人間ではあるが、情報機器とは、あくまでも生活を便利にするものでしかないと戒めている。
それが人の心の弱さをさらけ出す道具であってよいとは思わない。
ましてや、心の奥底の暗い感情を吐き出し、自分の心のうっぷんを発散する手段に堕してはならないと思っている。

技術やバーチャルに頼らず、どうすれば人は人であり続けられるのか。
本書が描いている核心とは、まさにそうした心の部分だ。

‘2019/4/25-2019/4/26


任務の終わり 上


『ミスター・メルセデス』から始まった三部作も本書をもって終わる。

前作の『ファインダーズ・キーパーズ』のラストは、昏睡し続けるミスター・メルセデスことハーツフィールドの不気味な姿を暗示するかのようにして幕を閉じた。
『ミスター・メルセデス』では、ホリーがハーツフィールドの頭部に叩き込んだ一撃によって大量殺戮の惨劇はすんでのところで食い止められた。
脳のかなりの部分を破壊されたハーツフィールドは、植物状態で昏睡し続けているはずだった。

本書は、意識を取り戻したハーツフィールドの視点で物語が始まる。脳に障害を持ったまま、意識を取り戻したハーツフィールド。脳に負った重大な障害により、ハーツフィールドの肉体は機械によって生かされているに過ぎない。
復讐の念だけが肥大したハーツフィールドの歪んだ想念は、ハーツフィールドの主治医である神経科医師のバビノーが違法に処方した薬によって、特異な能力を覚醒させる。
その結果、ハーツフィールドは人の心を操る術を身に付ける。

古いポケットゲーム機のゲームの画面から、人の脳を催眠状態に導き、人の脳を操る能力。それによって殺人鬼であるハーツフィールドことミスター・メルセデスが再び蘇る。

その設定は、本書を正統なミステリーの枠からはみ出させる。
『ミスター・メルセデス』は、正統なミステリーとして著者にエドガー賞を受賞する栄誉を与えた。
それは、著者の筆力がミステリーの分野でも認められた証であり、もちろん素晴らしいことだ。
だが、著者の本分がホラーにあることは言うまでもない。
人の心を操れる殺人鬼、との非現実的な設定は、著者がホラーの分野に戻ってきた事を意味する。著者のファンにとっては喜ばしい事でもある。

ところがホラーに戻ってきた著者は、本書を荒唐無稽な設定にしない。そこが著者の素晴らしいところだ。
ハーツフィールドの体は自ら動かせられない。だから殺人鬼にとって制約は多い。
人の心に操れるようになったとは言え、体が動かせない以上、手段は限られる。
その手段とは、人の心を催眠状態に導くゲームしかない。
そこをどうやってハーツフィールドが成し遂げていくのか。これが本書の主眼だ。

本書は、ハーツフィールドによって徐々に操られていく人々を描く。ハーツフィールドの意志が徐々に彼らの意思を侵食してゆくにつれ、二つの意思が混じり合ってゆく。
それを書き分けてゆく手腕は、著者の筆力の真骨頂だ。
本書には著者がかつての作品で描いたような、原色のけばけばしさを想起させるような描写はあまり現れない。
あくまでも端正な描写でありながら緊張感を保っている。

その中でどうやっハーツフィールドが人の心を操るのか。どうやって人の脳を催眠状態にもっていくのか。そしてどのようにしてゲーム機の中身を改造し、それを人々に広めていくのか。
そこには、ハーツフィールドの職歴にあったプログラマーとしての知識が欠かせない。
そこの部分を荒唐無稽にせず、あくまでも理路整然としたミステリーの体裁を崩さないところがとてもよい。

一方、ファインダーズ・キーパーズ探偵社のホッジスとホリーの2人は、コンビネーションが板につき、順調に業務をこなしている。
そして、『ミスター・メルセデス』ではホッジスは、定年で退職した刑事との設定だった。
そこから長い年月がたち、ホッジズの肉体はさらに老い、異変が生じる。ホッジズが残された人生の中で何を成し、何を防ぎ、何を残してゆくのか。そして何を引き継いでいくのか。
それが本書の読み応えだ。

本書はホッジズとハーツフィールドが繰り広げる頭脳と頭脳の戦いとして読める。
前作の欠点として、登場人物がベラミーとホッジズとホリー、そしてピートとアンディの限られた人数に絞られており、人物の動きに予定調和が見られ、著者によるご都合主義が見られると書いた。
本書には、そうした欠点はあまり見られない。

ハーツフィールドが脳に障害を負ってから、少しずつその能力を悪事に発揮してゆく様がじっくりと時間を掛けて描かれている。
そこに不自然な印象や著者のご都合主義は感じられない。
人を催眠に掛け、操るスキルがハーツフィールドの中で熟していく様子が気を遣って書かれている。

ホラーの要素も盛り込みつつ、そうした配慮が本書をミステリーとして成立させている。

本書がテーマにしているのは、人の心の強さと弱さだ。
人が自我を保ち続けるためには、何が必要なのか。
そしてその鎧を壊すために最も有効な方法とは何か。
著者は長年の作家生活で得た心理学の知識の全てを本書に詰め込んでいるように思える。

人の心がいかに弱いものか。
それは私たち自身がよく知っている。
例えば催眠状態とは、人が意識する事もなしに、簡単に自らにかけることができる。
暗示とは、自分への罠でもある。
例えばテレビをボケーっと見る。例えば携帯をなんとなく眺める。それだけで人の心はたやすく無防備な状態になる。

心理とは人の心にとって弱みであり、強みでもある。
ハーツフィールドのように超能力を使うことがなくとも、私たちは弱みにつけ込まれやすい。
電話越しに聞く詐欺師の口調、いわゆるオレオレ詐欺の類の手口が一向に減らない事でもそれは明らかだ。
不意をつかれた時、弱みをつかれた時、狼狽した時、人は簡単に自らの弱さをさらけ出す。
それは、ハーツフィールドのような悪意を持つ人物には格好の弱点だ。

本書の設定を荒唐無稽と片付けるのはたやすい。
だが、それを絵空事として片付けていてはもったいない。
本書をせっかく読んでいるのだから、スリルを愉しみながら学ぶべきこともあるはずだ。
どうやって自分の心の弱さをさらけ出さずに済ませるか。
ホッジズのように体に異変を覚えつつも、信じる者のために突き進む意志の保ち方とは何か。
本書からは得る物が多い。

‘2019/4/23-2019/4/24


手術がわかる本


本書は、紹介してもらわなければ一生読まずに終わったかもしれない。人体に施す代表的な73の手術をイラスト付きで紹介した本。貸してくださったのはマニュアル作りのプロフェッショナル、情報親方ことPolaris Infotech社の東野さんだ。

なぜマニュアル作りのプロがこの本を勧めてくださったのか。それはマニュアル作りの要諦が本書にこめられているからに違いない。手術とは理論と実践が高度に求められる作業だ。症例を理論と経験から判断し、患部に対して的確に術を施す。どちらかが欠ければ手術は成功しないはずだ。そして、手術が成功するためには、医療を施す側の力だけでなく、手術を受ける側の努力も求められる。患者が自らに施される手術を理解し、事前の準備に最大限の協力を行う。それが手術の効果を高めることは素人の私でもわかる。つまり、患者が手術を理解するためのマニュアルが求められているのだ。本書こそは、そのための一冊だ。

本書が想定する読者は医療に携わる人ではない。私のように医学に縁のない者でもわかるように書かれている。医療の初歩的な知識を持っていない、つまり、専門家だから知っているはず、という暗黙の了解が通用しない。また、私のような一般の読者は体の組織を知らない。名前も知らなければ、位置の関係にも無知だ。手術器具もそう。本書に載っている器具のほとんどは、名称どころか機能や形についても本書を読むまで知らなかったものばかり。各病気の症状についての知識はもちろんだ。

手術をきちんと語ろうと思えばどこまでも専門の記述を盛り込める。だが、本書は医療関係者向けではなく、一般向けに書かれた本だ。そのバランスが難しい。だからこそ、本書は手術を受ける患者にとって有益な1冊なのだ。そしてマニュアルとしても手本となる。なぜなら、マニュアルとは本来、お客様のためにあるべきだからだ。

これは、ソフトウエアのマニュアルを考えてみるとわかりやすい。システムソフトウエアを使うのは一般的にユーザー。ところがそのシステムを作るのはシステムエンジニアやプログラマーといった技術者だ。システムの使用マニュアルは普通、ユーザー向けに提供される。もちろん、技術者向けのマニュアルもある。もっとも内部向けには仕様書と呼ばれるが。家電製品も同じ。製品に同梱されるマニュアルは、それを使う購入者のためのものであり、工場の従業員や設計者が見る仕様書は別にある。

そう考えると、本書の持つ特質がよく理解できる。医師や看護師向けのマニュアルとは一線を画し、本書はこれから不安を抱え、手術を受けるための患者のためのもの、と。

だから本書にはイラストがふんだんに使われる。イラストがなければ患者には全く意味が伝わらない。そして、使われるイラストも患者がシンプルに理解できるべき。厳密さも精細さも不要。患者にとって必要なのは、自分の体のどこが切り刻まれ、どこが切り取られ、どこが貼り直され、どこが縫い合わされるかをわかりやすく教えてくれるイラスト。位置と形状と名称。これらが患者の脳にすんなりと飛び込めば、イラストとしては十分なのだ。本書にふんだんに使われているイラストがその目的に沿って描かれていることは明らかだ。体の線が単純な線で表されている。そして平面的だ。

一方で、実際に施術する側にとってみれば、本書のイラストは全く情報量が足りない。手術前に検討すべきことは複雑だ。レントゲンの画像からどこに病巣があるかを読み取らなければならない
。手術前の事前のブリーフィングではどこを切り取り、どうつなぎ合わせるかの施術内容を打ちあわせる。より詳しいCT/MRI画像を解読するスキルや、実際に切開した患部から即座に判断するスキルを磨くには、本書のイラストでは簡潔すぎることは言うまでもない。

イラストだけではない。記述もそうだ。一概に手術を語ることがどれだけ難しいかは、私のような素人でもわかる。病気と言っても人によって症状も違えば、処方される薬も違う。施術の方法も医師によって変わるだろう。

そして、本書に描かれる疾患の要素や、処置の内容、処方される薬などは、さらに詳しい経験や仕様書をもとに判断されるはず。そのような細かく専門的な記述は本書には不要なのだ。本書には代表的な処置と代表的な処方薬だけが描かれる。それで良いのだ。詳しく描くことで、患者は安心するどころか、逆に混乱し不安となるはずだから。

ただ、本書はいわゆるマニュアルではない。一般的な製品のマニュアルには製造物責任法(PL法)の対応が必要だ。裁判で不利な証拠とされないように、やりすぎとも思えるぐらいの冗長で詳細な記載が求められる。本書はあくまでも手術を解説した本なので、そうした冗長な記述はない。

あくまでも本書は患者の不安を取り除くための本であり、わかりやすく記すことに主眼が置かれている。だからこそ、マニュアルのプロがお勧めする本なのだろう。

本書を読むことで読者は代表的な73の手術を詳細に理解できる。私たちの体はどうなっていて、お互いの器官はどう機能しあっているのか。どのような疾患にはどう対処すべきなのか、体の不調はどう処置すれば適切なのか。それらは人類の叡智の結晶だ。本書はマニュアルの見本としても素晴らしいが、人体を理解するためのエッセンスとしても読める。私たちは普段、生き物であるとの忘れがちな事実。本書はそれを思い出すきっかけにもなる。

本書に載っている施術の多さは、人体がそれだ多くのリスクを負っている事の証だ。73種類の中には、副鼻腔の洗浄や抜歯、骨折や虫垂炎、出産に関する手術といったよくある手術も含まれている。かと思えば、堕胎手術や包茎手術、心臓へのペースメーカー埋め込みや四肢切断、性転換手術といったあまり出会う確率が少ないと思われるものもある。ところが、性別の差を除けばどれもが、私たちの身に起こりうる事態だ。

実際、読者のうちの誰が自分の四肢が切断されることを想定しながら生きているだろう。出産という人間にとって欠かせない営みの詳しい処置を、どれだけの男性が詳しく知っているだろう。普段、私たちが目や耳や口や鼻や皮膚を通して頼っている五感もそう。そうした感覚器官を移植したり取り換えたりする施術がどれだけ微妙でセンシティブなのか、実感している人はどれだけいるだろうか。

私たちが実に微妙な身体のバランスで出来上がっているということを、本書ほど思い知らせてくれる書物はないと思う。

人体図鑑は世にたくさんある。私の実家にも家庭の医学があった。ところが本書に載っているような手術の一連の流れを、網羅的に、かつ、簡潔にわかりやすく伝えてくれる本書はなかなかみない。実は本書は、家庭の医学のように一家に一冊、必ず備えるべき書物なのかもしれない。教えてくださった情報親方に感謝しなければ。

‘2018/08/22-2018/09/03


紙媒体の未来


十日ほど前、山手線の王子駅近くにある紙の博物館に行ってきました。

王子と紙、といえば王子製紙が思い浮かびます。王子は日本の製紙業、それも洋紙業の発祥の地です。今もなお、洋紙会社の本社や工場が集まり、国立印刷局の王子工場も健在です。

今回私が紙の博物館を訪問した理由は二つあります。一つは、紙の歴史やリサイクルの仕組みに興味があったこと。一つは、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性を知りたかったことです。

紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、非常に勉強となりました。日本の古紙利用率が六割にもなること。また、紙を発明したのは漢の蔡倫ではないこと。蔡倫よりも二三百年前に紙が使用されていた事が発掘物より証明されていること。また、PCなどのIT機器に欠かせない基盤も、実は紙の一種であることを知りました。このように、紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、得るところが多かったです。特に蔡倫が紙の発明者でないことは知らずにおり、定説に寄りかかっていた自分の怠慢を反省しました。

ただ、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性については、残念ながらそれに関する展示には巡り会えませんでした。

そもそもなぜ私がこのような事に興味を持っているか。それは情報媒体としての紙の価値を再発見したからです。IT業界の端くれで飯を食っていながら、なぜディスプレイではなく紙なのか。

そもそも私は、本を読むのが好きです。電子書籍よりも紙の本の愛好家です。もちろん、電子書籍も使いますよ。Kindle端末こそもっていませんが、タブレットにはKindleアプリも入っています。しかし、私にとっての情報媒体とは、相変わらず紙なのです。本のページを繰ることに至福の時間を感じます。Kindleアプリで本を読むことはほとんどありません。

なぜ私が紙の本を好むのか。最初はそれを、本好きの執着心だと思っていました。IT業界にいながら保守的な自分を怪訝に思うこともありました。私の収集癖を満たすには本を貯めこむことが一番だからと思ったこともありました。

でもどうやらそうではなさそうです。この数年、参画しているプロジェクトで毎週議事録を書いています。経営層にまで閲覧される議事録ですから、チェックは欠かせません。チェックを行う上で、紙を節約しようとディスプレイをにらみ付けます。眼球が充血するまで読み込んだ後、印刷して紙面で読むと、誤字が湧くのです。まるで隠れていたかのように。

これはなんでしょうか?

何度も印刷した紙から誤字が湧き出すのを見るにつけ、私には一つの妄想から逃れられなくなりました。液晶ディスプレイには、何かしら人間の視神経を阻害し、集中力を減退させる仕掛けがあるのでは?と。

紙の博物館では、ディスプレイに対する紙の優位性についての答えは得られませんでした。ですが、同様の研究はあちこちで行われているようです。森林保護は共通の課題なのでしょう。私もネット上で様々な考察や研究論文に目を通しました。

それら論文や考察によれば、液晶ディスプレイは、ディスプレイの表面と図像を表示する層にわずかな距離があるようです。今の技術では数ミリ単位よりも少ないほどの。そして、そう意識して液晶ディスプレイを凝視してみると、焦点がぼやけていることに気付きます。一方、紙の文字を見るとくっきりと焦点を結びます。それは反射や透過や発行する液晶の性質によるのかもしれません。おそらくはこのわずかなずれが網膜に映った文字と脳内の認識のずれに繋がっているように思います。

では、ディスプレイのボケた焦点は、ディスプレイの解像度をあげれば解消するのでしょうか。私はそれだけではないように思いました。

紙とディスプレイ。表に出ているのは、共に文字や画像です。しかし、ディスプレイの背後には我々の気を散らすアプリが盛りだくさんです。例えパスワードロックを掛けて集中モードにしても、鉄の意思で画面に集中しても、ディスプレイの背後に隠れているモノが脳に何らかの連想を与えるのでしょう。では紙はどうか。紙は紙でしかありません。印刷されている情報はインクの集まりでしかなく、その背後には何も潜んでいません。

この事は、我々IT屋がアプリにいろんな機能を盛り込んでしまうことへの警告かもしれません。もはや、ディスプレイとその背後に控える情報量は人間の頭脳に余る。そう思います。ITの普及は人間の処理能力を遥か後ろに置き去りにしました。

多分このことは、電子ペーパーが普及し、解像度や触感が紙そっくりに再現されたとしても変わらないでしょう。紙はそこに印刷された情報以外のものを含まず、我々に余計な連想をさせないから集中できる。そう結論付けて構わないと思います。

紙の博物館でも、ディスプレイに対する紙が優位なのは何かをどんどん研究して頂きたいと思います。無駄な紙の使用はやめるべきですが、人間の脳を焼き切らせないためにも、紙に活躍の場は残されているはずです。

そしてその研究成果は、最近ホットな「人工知能は労働者の職を奪うか」の問いに対するヒントになるかもしれません。大容量の情報の受け渡しは、人工知能に任せましょう。人間は人間の脳が許容できる情報を発信し、それを受け取る。IT嵐の後も生き残る仕事とは、そのような仕事である気がします。


心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる


宇宙や歴史、物理など、学問の成果にわくわくさせられる分野は色々とあるけれど、かつて心理学の本を色々と読んだことのある経験から、脳についても関心をもっていて、宇宙論と同じぐらい新しい発見が次々とあるこの分野にはなるべくついていこうと思っている。わからないなりに。

この本を読んでいて、非常に読みやすくなるための工夫がしてあるのがすごい。内容は決してやさしくないのだけれど、随所に一般人の感想めいたセリフが挿入されていて、著者も随所に軽口をたたく存在として登場する。これらの工夫によって、難しい内容でも先に読み進めようと思わせる。

もちろん内容は難しいだけでなく、きちんと図やイラスト、写真などがふんだんに使われていて可能な限り理解の手助けになるようにしてくれている。なによりも、採り上げられている実験結果や成果が非常に興味深く、私が子供のころにSFとして採り上げられていたようなことが次々と実現間近では?と思わせるようなところまできている。

それはもはや、心理学という学問の存在感を薄めるようなレベルに来ていると思う。

ただし、読み終えるにあたって私の胸に刻まれたことの一つとして、著者が文中で繰り返し述べていることだけれども、この成果を早とちりすることはやめようと思う。例えば遺伝子解析から様々な脳の弱点が予測できてしまうとか、考えることがあらかじめ予測できてしまうとか、それによる安易な飛びつきと、社会に与える悪影響について、口を酸っぱくして著者は警鐘を鳴らしている。

私もなるべくこの本を読んで得た最新の知見について、知ったかぶりはやめようと思う。

’11/11/12-’11/11/13