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十字架は眩しく笑う


とても面白かった。こういうコメディ作品は大歓迎。

本作はシチュエーション・コメディの王道を歩いている。シチュエーション・コメディといえば、一つの固定された場面の中で、登場人物たちが繰り広げるすれ違いや、行き違いから生まれる笑いを描く喜劇の形式を指す。本作の舞台は、冒頭を除けば一貫してとある喫茶店の店内となっている。つまり、シチュエーション・コメディの要件を満たしている。その喫茶店を舞台に十人の登場人物が入れ代わり立ち代わり現れて、すれ違いを生む。これもシチュエーション・コメディの常道。

すれ違いの面白さを生むためには、観客にしっかりズレを伝えることが求められる。観客は舞台上で演じられる全ての動きを見ている。誰がどういうセリフをいい、そのセリフを誰がどのように受け取ったかをすべて把握している。そのセリフを誰がどう勘違いして受け止め、誰が見当違いの答えを返すか。観客は舞台で演じられる勘違いを笑いで受け止める。だからこそ、脚本がきっちりと計算されていないと役者の勘違いが勘違いでなくなってしまう。それは単なる役者の演技になり、笑いにつながらないのだ。

そのため、役者の勘違いも真に迫っていなければ、笑いにならない。役者の間で間合いが共有できていないと、勘違いは途端に嘘くさくなる。そして笑いは失速してしまう。つまり、シチュエーション・コメディとは、脚本と演技ががっちり噛み合わなければ面白くならないのだ。本作はその二つががっちり噛み合っていた。素晴らしい脚本と演技に感謝したい。

本作は、暗転した舞台から幕を開ける。ベンチに座っているのは一人の男。彼は失業し、求人誌を手に持っている。寄ってくる鳩たちに持っていた最後のパンをあげる。財布には28円。トートバッグにはマジックグッズが見える。マジックに夢を託そうとしたがそれも破れた。ヤケになってハンカチから財布を取り出して見せるが、金や職は都合よくハンカチから現れない。追い詰められ、絶望する主人公。

人生を投げてしまおうか。そう思うが、どうせ投げるなら、と入ったのが喫茶店の中。そこで彼は何をしようとしたのか。レジ荒らし? だが、彼は悪事に手を染めない。その代わりにそこから勘違いとすれ違いの歯車が回り出す。主人公に付いたハトのフン、それにおびき寄せられて来たハエと手に持った求人誌。それが誤解と騒動の引き金となる。出入りの八百屋、店員の三姉妹、おかしな常連客たちに突拍子もない闖入客、マスター。そこにマジシャンくずれの失業者が騒動を引き起こす。

忍び込んで来たはずが、行きがかり上「日本ハエと蚊コーポレーション」という害虫駆除業者になり、喫茶店の求人に応募して来た新人のウェイターにおさまる主人公。さらに誤解から店員の三女のパートナー(フィアンセ)になり、常連客のママからの願いで密かに惹かれ合っている長女と常連客をくっつけるために霊媒師にもなる。そして、次女からのお願いで体調を崩したオーナーに娘たちの嫁ぐ姿を見せようと、三姉妹それぞれに相手がいることをお膳立てしようとする。そんなところに、かつて次女がアイドルをやっていた頃、熱烈すぎてストーキングを働き、お詫びにと手作りケーキを持って来た男がやってくる。一つのウソがとてつもない誤解とすれ違いを引き起こしてゆく。シチュエーション・コメディの本領発揮だ。

なお、舞台後のあいさつで知ったのだが、このストーカー役を演じた多田竜也さんは、本番の二日前に急遽、小林さんが降板され、代役で起用されたとか。二日で合流したとはとても思えないほどオタクな感じが自然に出ていて、さすが役者さん、とうならされた。

ほかの俳優さんも、いずれも芸達者な方ばかり。冒頭に書いた通り、間合いが肝のシチュエーション・コメディ。少しでも演技らしさが混じると失敗しまう。そんなほころびを一切みせず、素晴らしい演技だったと思う。鯛プロジェクトのブログに紹介が載っているが、その順番でご紹介してみる。田井弘子さんは本作の企画と製作もつとめ、さらにおっとり長女役でも舞台に上がるという要の方。死んだ女性に憑依されながら、介護試験の勉強のためお婆さんも演じつつという複雑怪奇な場面は印象的。伊藤美穂さんは、しっかりものの次女役。最初は店に侵入した主人公を怪しく思う。が、オーナーである父を安堵させようと騒動に一役買う元アイドルという複雑な役を演じていたのが印象的。すがおゆうじさんは、本作では一番まともな役柄だが、真面目なあまり騒動に巻き込まれていく様、最後に人情あふれる雰囲気になってからは主役級の存在感を出していたのが印象的。せとたけおさんは、出入りの八百屋兼、地元劇団の素人俳優という役柄。ドラクエⅢの僧侶のいで立ちで現れる後半は、格好だけでも存在感ありありだった。喫茶店の地元の仲間という感じが印象的。田井和彦さんは、三女に思いを寄せる常連客の警官という役回り。これがまたとてもエキセントリックでいい味出しまくっていた。エキセントリックなのに憎めずほほ笑ましいキャラが印象的。中山夢歩さんは主人公。主人公でありながら、トリックスターとしても本作の重要な役どころ。とても端正なマスクでありながら、次々と周りの誤解に応えようとしてさらに舞台を混迷に陥れる様が印象的。堀口ひかるさんは、三女としてご出演。序盤から中盤にかけての本作のコメディ担当の主役でした。メイド喫茶設定と普通の喫茶店設定がごちゃごちゃになる部分はとても面白かった。佑希梨奈さんは、妻の友人であり今回お招きいただいた方。感謝です。母がいない三姉妹の母替わり、そして近所のスナックのママとして常連という役。おおらかな感じでいながら、場面をますますややこしくする様は、本作の雰囲気を温かくしてくれていた。渡邊聡さんは心臓が悪い喫茶店のオーナー。実は本作の要はこの方にあるのでは、と思えた。からだが悪い様を、歩き方だけでなく、顔に血を集めて真っ赤にすることで表わしていたのが印象的。あれどうやって演じるんやろ。

さて、本作はシチュエーション・コメディだと冒頭で書いた。古き良き日本の大衆喜劇に通じる伝統を継承しているかのように。実際、私は本作を観ていて、吉本新喜劇に通じるモノを感じたくらいだ。ところが本作には吉本新喜劇に付きものの定番ギャグがない。喜劇として笑わせる部分はしっかり笑わせながら、定番ギャグに頼らないところが新鮮でとてもよかった。また、笑いも、弱い者をいじったり観客をいじったりせず、すれ違いの面白さに焦点を合わせていたのが良かった。本作はとても万人にお勧めできる喜劇だと思う。また、本作が新喜劇を思わせたのは、しっかりと人情でホロリとさせてくれるところだ。その人情味が本作の余韻として残った。本作はすれ違いを笑いに変えるコメディだが、すれ違いを招くウソの多くは、オーナーのためを思ってのこと。つまり、人のためになることをしようとしてつかれたウソだから嫌みがない。とてもすがすがしい。

さらに、もう一つホロリとさせるため、作中に大きな仕掛けが用いられている。観ている間にいくつかそういう場面には気づいた。だが、それが最後の演出につながるとは予想の外だった。そしてその効果をあげるため、それぞれの場面をリプレイする演出がある。そこでも役者さんたちの演技が光っていた。主人公がマジシャンくずれという冒頭の伏線が見事にきいた大団円。これは、観劇の良い余韻となって残る。あまり舞台は観ていないので、作・演出を手掛けた西永貴文さんのお名前は存じ上げなかったが、素晴らしい手腕だと思った。舞台後に佑希梨奈さんと西永貴文さんにはご挨拶させて頂いたが、また機会があれば観てみたいと思った。

誉めっぱなしだと単調なので、観ていない方にとって不親切を承知でチクリとひとことだけ言う。勇者と魔術師と踊り子と僧侶が魔物と戦う場面。ここをもうちょっと真に迫ったほうがよかったのになあ、と思った。作中は違和感を感じなかったが、リプレイではちょっと違和感を感じた。まあ、余興という設定なので、迫真にするとかえって浮いてしまうのかもしれないが。

それにしてもいい舞台だった。皆さまに感謝。

‘2017/09/16 THEATER BLATS 開演 19:00~

https://taiproject.jimdo.com/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/


犯罪小説家


本書はタイトルの通り、小説家が主人公だ。

小説家、待居涼司は「凍て鶴」によって作家として日の目を浴びたばかり。「凍て鶴」は評価され、映画化の話も持ちこまれる。受賞作家のもとには、さまざまな人物があいさつに訪れるが、映画化で監督・脚本・主演に名乗りを挙げた小野川充もその一人。

小野川の軽さに自分と相いれない性格を感じた待居。さらに小野川の脚本案は、独自の解釈が施されている。その解釈は、原作者待居の思惑を超えている。小野川に反りの合わなさを感じる待居はその脚本案を素直に受け入れられない。原作では憎悪をこめた殺害で終わるラストを心中と読み替えた小野川の案は、小野川の個人的な思いに影響されすぎていやしないか。しかも、小野川は「凍て鶴」の舞台を勝手に待居の住む多摩沢だと決めつける。多摩沢公園に脚本のインスピレーションを求めるため、あろうことか多摩沢に住居まで移してしまう。

小野川のペースに翻弄されいらだつ待居。そんな待居の気持ちをさらに逆なでするように、小野川は脚本に現実に起こった事件をモチーフとして持ち込もうとする。その事件とは、木ノ瀬蓮美が主催する落花の会によって引き起こされた。落花の会とは、自殺サークルのことだ。周到に準備を重ね、会員の自殺を成就させるのが目的の会は、多摩沢公園で主催の木ノ瀬蓮美が水死体で浮かぶことで終息を迎える。

小野川は、「凍て鶴」脚本のラストを心中で終わらせるのが最善と確信する。そしてそのためには落花の会について詳しく調べなければならないと待居や編集担当の三宅に力説する。小野川の想いは口だけにとどまらず、ライターの今泉知里に落花の会を調べさせるまでに至る。

そして本書は、今泉知里の調査によって自殺ほう助サイトの実態に入り込む。落花の会は木ノ瀬蓮美の死によって活動を停止した。だが、当時を知る幹部が何人か詳しい事情を知っているはず。ネット上に残されたログを追いながら、今泉知里は少しずつ落花の会の暗部に迫ってゆく。

本書は、犯人側の視点で語りを進める倒叙型でもなく、捜査側から語りを進める叙述型でもない。それが本書全体にどことなく曖昧さを与えている。そのあいまいさは一読すると本書の抱える欠点と思ってしまう。だが、そうではない。実際、本書の犯人像は早い時点で読者には見当がついてしまうだろう。しかし、ある程度読み進めても最後まで著者はそのあいまいさを崩さない。そしてそのあいまいさとは、犯人側ではなく捜査側にも当てはまるのだ。終わり近くになって明かされる捜査側の意図の意外さにきっと驚くことだろう。

そしてそこに、芸術という表現形式がはらむ狂気が顔を見せるのだ。小説と映画。二つの表現形式のはざまにあるものの違いといってもよいかもしれない。多分、それは本書は一度読んだだけでは気付かないと思う。二度読まないと。

‘2016/08/25-2016/08/29