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日本ふーど記


著者はエッセイストとして著名だが、著作を読むのは本書が始めて。

最近はエッセイを読む機会に乏しい。
それは発表されるエッセイやそれを産み出すエッセイストの問題ではなく、ネット上に乱舞するブログやツイートのせいだろう。
エッセイもどきの文章がこれだけ多く発信されれば、いくら優れたエッセイであっても埋もれてしまう。
雑誌とウェブでは媒体が違うとはいえ、雑誌自体が読まれなくなっている今では、ますます紙媒体に発表されるエッセイの存在感は薄れる一方だ。

だが、紙媒体のエッセイとウェブの情報には違いがある。それは稿料の発生だ。
ウェブ媒体にも稿料は発生する場合はある。ただ、その対象はより専門分野に偏っている。
そうした中、著者の日々のよしなし事をつづるエッセイに稿料をはらう例は知らない。ましてや有料サイトでは皆無ではないだろうか。

もちろん、そこには文化の違いがある。ウェブ日常の情報収集の手段とする世代と、昔ながらの紙の媒体を信奉する世代の違いが。
ただ、エッセイとして稿料が支払われるには、それだけの面白さがあるはず。ましてや、本書のようにエッセイとして出版されるとなると、理由もあるはずだ。
もちろん、ブログがあふれる今と本書が発行された昭和の終わりではビジネス環境も違う。
だが、著者はエッセイストとして、エッセイで生計を立てている。そこに何かのヒントはないか、と思った。

本書を町田の高原書店の入り口の特価本コーナーで見つけた時、私は会津で農業体験をして間もない頃だった。日本の食にとても関心が高く、何かできないかと思っていた。
だからこそ、本書が私の目にひときわ大きく映った。

本書は著者が日本各地の食を巡った食べ歩記だ。だからうまそうな描写が満載だ。
だが、うまそうな描写が嫌みに感じない。それが本書の良いところだ。
本書を読んでいると、食い物に関するウンチクもチラホラ出て来る。ところが、それが知識のひけらかしにも、自由に旅ができる境遇の自慢にも聞こえないのがよい。
著者は美味を語り、ウンチクも語る。そして、それと同じぐらい失敗談も載せる。その失敗談についクスリとさせられる。結果として、著者にもエッセイにも良い読後感をもたらす。

実はエッセイもブログもツイートも、自分の失敗や弱みをほど良く混ぜるのがコツだ。これは簡単なようで案外難しい。
ツイートやウォールやブログなどを見ていると、だいたいいいねやコメントがつくのは、自分を高めず、他を上げるものが多い。
だが、往々にして成長するにつれ、失敗をしでかすこと自体が減ってくる。プライドが邪魔して自分の失敗をさらけ出したくない、という意識もあるだろう。そこにはむしろ、仕事で失敗できない、という身を守る意識が四六時中、働いているように思える。

だからこそ、中高年の書くものには、リア充の臭いが鼻に付くのだ。
私もイタイ中年の書き手の一人だと自覚しているし、若者とってみれば、私の書く内容は、オヤジのリア充自慢が鼻に付くだろうな、と自分でも思う。
私の場合、ツイートでもウォールでもブログでも、自分を飾るつもりや繕うつもりは全くない。にも関わらず、ある程度生きるコツをつかんでくると、失敗の頻度が自然と減ってくるのだ。
大人になるとはこういう事か、と最近とみに思う。

そこに来て著者のエッセイだ。
絶妙に失敗談を織り込んでいる。
そして著者は、各地の料理や人を決してくさす事がない。それでいて、不自然に自分をおとしめることもしない。
ここで語られる失敗談は旅人につきものの無知。つまり著者の旅は謙虚なのだ。謙虚であり博識。博識であっても全能でないために失敗する。

「薩摩鹿児島」では地元の女将のモチ肌に勘違いする。勘違いしながら、居酒屋では薩摩の偉人たちの名が付けられた料理を飲み食いする。
「群馬下仁田」では、コンニャクを食い過ぎた夜に異常な空腹に苦しむ。
「瀬戸内讃岐」では、うどんとたこ焼きまでは良かったが、広島のお好み焼き屋で間髪入れさせないおばさんに気押され、うどんと答えた著者の前に焼かれるお好み焼きとその中のうどんに閉口する。
「若狭近江」ではサバずしを食したまでは良かったが、フナずしのあまりの旨さになぜ二尾を買わなかったかを悔やむ。
「北海道」では各地の海や山の産物を語る合間に、寝坊して特急に乗り損ねたために悲惨な目にあった思い出を語る。
「土佐高知」では魚文化から皿鉢料理に話題を移し、器に乗せればなんでもいい自由な土佐の精神をたたえる。かと思えば、最後に訪れた喫茶店でコーヒーと番茶で胃をガボガボにする。
「岩手三陸」ではホヤから話を始めたはずが、わんこそばを食わらされてダウンする。
「木曾信濃」は佐久の鯉料理からはじまり、ソバ、そして馬肉料理と巡って、最後はハチの子料理を著者の望む以上に食わされる。
「秋田金沢日本海」ではキリタンポやショッツルが登場する。そして日本の、裏側の土地の文化を考えあぐねて胸焼けする。
「博多長崎」に来てようやく、失敗談は出てこない。だが、ヒリョーズや卓袱料理、ちゃんぽんを語った後に長崎人はエライ!と無邪気に持ち上げてみせる。
「松坂熊野」は海の幸に松坂牛が並ぶ前半と、高野山の宿坊で精進料理にひもじい思いをさせられる後半とのギャップがよい。
「エピローグ/東京」では、江戸前鮨の成り立ちと歴史を語り、ファストフードの元祖が寿司である以上、今のファストフードもどうなるかわからないと一席ぶっておきながら、おかんじょう、と小声で遠慮がちに言う著者が書かれる。

そうしたバランスが本書の心地よい点だ。
かつてのエッセイストとは、こうした嫌味にならず、読者の心の機微をよく心得ていたのだろう。
私もそれにならい、そうしたイベントをほどよく織り交ぜたい。私の場合、ビジネスモードを忘れさえすれば、普通に間の抜けた毎日を送れているようなので。

‘2018/10/31-2018/10/31


聖痕


本書は221党員にとってして待ちに待った最新作である。221党なんて言葉はない。著者のファンを勝手にこう呼んだだけだ。だが、パソコン通信の時代から運営されている著者のフォーラムの名前は221情報局という。221=ツツイであることはいうまでもない。221は著者の番号であり、ファンにとってはお馴染みの数字なのだ。

著者のホームページ(https://www.jali.or.jp/tti/)には221情報局へのリンクに貼られている。パソコン通信の頃からネットを活用した文筆活動を自在に行っていた著者にふさわしく、シンプルかつ読み応えのあるページとなっている。だが、更新頻度がさほど高くないのが惜しいところだ。だが、そんな221党員のためにASAHIネット企画「笑犬楼大通り」が開設された。もちろん著者のホームページからも笑犬楼大通りへのリンクが貼られている。笑犬楼大通りの中でも「偽文士日碌」はちょくちょく拝見している。それはWeb上の日記。だがblogとは少し違う。ページは書籍をあしらったデザインになっている。読者はページをめくるように紙の端をクリックする。すると著者の日々を行き来できるのだ。

著者の日々とはテレビに出たり、著書にサインをしたり、編集者を応対したり、執筆活動をしたり賑やかだ。作家と役者とタレントを兼ね、座長やクラリネット奏者やパネリストをこなし、東京と神戸の両方に家を持つ著者の日々はマンネリとは程遠い。ファンにはお馴染みだが、著者は今までに何度となくこうした日記スタイルの作品を出版している。「偽文士日碌」も今までの日記スタイルの作品を踏襲している。自らも家族も編集者も作家も友人も、著者の日記に登場する人や事物は全て実名だ。著者の日記スタイルには私も大きく影響を受けている。そんな私にとって「偽文士日碌」を読むことは楽しみの一つだ。

さて、本書である。なぜ前置きで「偽文士日碌」を紹介したかというと、本書の筆致は「偽文士日碌」に良く似ているからである。本書は葉月貴夫の生涯を書いている。幼少時から髪に白いものが混じる年齢までの生涯が書かれている。本書で描かれる貴夫と貴生の周囲の人々の織りなす日常は、「偽文士日碌」で描かれた著者の日常を思わせる。

先に私は著者の日記スタイルに多大な影響を受けたと書いた。著者の日記は今までに何冊も出版されている。それらに共通するのは露悪的な姿勢である。つまり、謙譲や遠慮とは無縁のスタイル。生活や出来事を隠さずに描く。例えそれが贅沢三昧な日々であろうとも。自粛などという小癪な態度とかけ離れた日記スタイルは実に小気味良い。下手な隠し事はかえって読む人にとって侮辱となり、隠すことがすなわち嫌みにもなる。そのスタイルは、「偽文士日碌」でも本書でも顕著といえる。

葉月貴生は幼い頃に暴漢にナニ(本書内の雅語では露転と呼ばれる)をちょんぎられる。そのため、中性的な美しさを損なわない。また、性欲にも悩まされることがない。しかも、頭脳明晰で東大卒。料理の腕も抜群で、経営するレストランは客が引きも切らない。レストランに来店する各界の名士とも懇意で、友人関係にも困っていない。また、彼の年の離れた妹を娘として育てる。その娘がこれまた美形で躍りの名手だ。そういった恵まれた、華麗な日常が描かれるのが本書である。そんな彼の日常が遠慮や謙譲など一切なく語られる。

本書には露悪以外にもう一つ特徴がある。それは、かつて世界の文学史で脚光を浴びたラテンアメリカ文学からの影響だ。マジックリアリズムと称されたその作風は、現実に即した描写をしながら極端な状況を描写することで人間の認識を超えたところに読み手を運ぶ。本書には突飛なことが起こるわけではない。ありえない風景が出現するわけでも超人がスゴ技を披露することもない。だが、葉月貴生の周辺の人々や事物は出来すぎている。理想的過ぎるぐらいに理想的なのだ。その誇張された美化こそが、本書に漂っているマジックリアリズムの影響だと思う。ちなみに著者はラテンアメリカ文学からの影響を隠そうとしていない。かく言う私がラテンアメリカ文学の愛好家となったのも、著者からの感化なのだから。

では、理想的すぎる葉月貴生の生活をここまで露悪的に描いたのは何故だろうか。

一つは、日本的な偽善性への著者なりの態度表明だろう。昭和天皇の崩御の際や、東日本大震災では自粛という言葉が大分取り沙汰された。

もう一つは著者の考える美、にあるのではないか。葉月貴生は去勢された身だ。そのため、性欲に煩わされない。しかし、性を嫌悪するかと思えばそうでもない。それは自ら経営するレストランの上階を逢い引きの場として提供することでも表明されている。つまり、真の美とは周囲に影響されず、世俗にあっても美しさが損なわれない。清濁併せ呑んでもなお、美が決然と立っている様とでもいうか。世俗にありながら超然かつ孤高を保てる強さこそが真の美ということだろう。要するに著者が考える美とは自ら無欲であること、ではないだろうか。

美をテーマとした本書を書くにあたり、著者はある工夫を施している。それは雅語の多用だ。いまやほとんどの日本人から忘れ去られ、誰にも顧みられなくなった語が本書にはたくさん登場する。ページが進むにつれ、使われる雅語の割合は増えていく。このところの著者の作品に目立つのはことばに関するこだわりだ。昔から、愚鈍ではなく魯鈍という言葉を使う著者に相応しく。

本書は老いてなお創作意欲盛んな著者の、余生の手慰みとはかけ離れた力作である。私も著者の作品はほぼ全て読んでいるつもりだが、まだまだ著者の日々は追いかけて行きたいと考えている。

‘2015/03/05-2015/03/09