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VOICARION ⅩⅦ 〜スプーンの盾〜


私が舞台を見るのは約一年ぶりだ。昨年の冬、大阪の上本町で「VOICARION ⅩⅥ 大阪声歌舞伎 拾弐人目の服部半蔵」を観て以来。
つまり、この一年間、VOICARION以外の舞台は全くみていなかった。メディアでも我が家でも某劇団に関する話題が飛び交っていたにもかかわらず。

昨年見た舞台のサブタイトルは「プレミア音楽朗読劇」となっていた。さらには「大阪声歌舞伎」とも。
本作も同じく朗読劇のはずだが、昨年のようなサブタイトルはつけられていなかった。

確かに、本作の演奏陣はグランドピアノやチェロ、バイオリン、フルート、パーカッションと西洋風で統一されている。
さらに、本作の登場人物にはナポレオンとタレーランがいる。つまりフランスが舞台だ。
そのため、「声歌舞伎」のサブタイトルはそぐわない。

本作の主人公は世界史上でも有名なナポレオンとタレーランの二人ではない。
本作の主人公はアントナン・カレーム。
私は実は本作を見るまでこの人物のことは全く知らなかった。フランス料理の歴史を語る上では筆頭に挙げられるほど有名な料理人だそうだ。
また一つ、自分の無知を思い知らされてしまった。

主人公が料理人であるため、舞台の設えは厨房をモチーフにデザインされている。
観客から見た舞台の構造は、上から三段に分かれている。一番上には鍋やレードルが吊り下げられ、厨房のような雰囲気を醸し出している。
そして、その下の中段には演奏陣が並んでいる。最も下、つまり観客から見ると少し上の目線に位置するのが朗読陣だ。

朗読陣には4名が並んでいる。観客から舞台をみて左から右にかけて、マリー役の井上喜久子さん、カレーム役の朴璐美さん、ナポレオン役の大塚明夫さん、タレーラン役の緒方恵美さんが並んでいる。

4人は朗読劇の間中、その場から動かない。出番がくればスポットライトに立ち、出番が終われば暗がりに座る。
出番の時は台本を手に朗読を行う。全員が声優を本職としているため、朗読の技はさすがだ。昨年の舞台でも同じことを思ったが、朗読がこれほど芸に昇華することを本作でもあらためて感じた。

昨年の舞台では同じ声優さんが別々の配役を担当していた。それが舞台上に不思議な効果を生んでいた。
その一方で、本作は一人一役に固定されている。緒方さんが演じるのはタレーランのみ。
そのかわり、各日の午前と午後の部によって担当する声優さんが変わる。タレーランだけでなく、マリーもナポレオンもカレームも。
東京では41公演が予定されているが、おそらくそのすべての公演ごとに配役のパターンが変わっているはずだ。

一公演の間は一人一役だが、別の日をみるとまったくちがう組み合わせで演じられる。
私が見た公演では、それぞれが完璧に役にはまっていたように思った。が、別の日はナポレオンを女性が演ずることもあるようだ。
でも、それぞれが男性も女性も演じ分けられるのだから、そうした区分けは不要だろう。本作でも男性のタレーランを女性の緒方さんが演じていたのだし。
それが観客にとって新たな発見をもたらす。
まさに朗読劇だからこそできるやり方だと感じた。

そして演奏陣も素晴らしかった。ピアノとバンドマスターを兼ねて見事に舞台を占めてくださった斎藤龍さん、ヴァイオリンのレイ・イワズミさん、チェロの堀沙也香さん、フルートの久保順さん、そしてパーカッションの山下由紀子さん。

フランスの激動の動きを具体的に説明するのが朗読陣のセリフだとしたら、演奏陣の皆さんは当時のフランスの空気を音楽に奏でていた。

また、本作も脚本が素晴らしいと感じた。
本作には、演奏陣による音楽、銃声が派手に音を立て、スモークが流れる演出もある。
ただし、朗読劇という性格上、俳優が動きで観客の目を惹くことができない。
つまり、脚本が演目の出来を大きく左右する。

本作はその肝心の脚本がお見事だと思う。
随所に印象的なセリフが語られ、それが私たちを当時のフランスの激動へと連れて行ってくれる。

また、脚本がお見事だと感じたのは、全編に通じるテーマが深いことだ。
そのテーマとは戦争と平和。
ロシアの文豪トルストイが著した大河小説のタイトルと同じだが、奇しくもこの小説が取り扱う時期も本作と同じナポレオン時代だ。

ナポレオンといえば、世界史上でも傑物としられている。一代でコルシカの貧しい出から皇帝へと上り詰め、人類史上でも有数の出世頭として名を残した。
だが、その生涯は戦いに次ぐ戦いであり、平和とは対極のイメージを持つ。

本作のユニークな点は、戦争を体現するナポレオンに対し、平和のひと時の象徴ともいえる料理を配置したことだ。料理人とはすなわち平和を作る人。
フランス料理を創始したとされるアントナン・カレームが体現する平和と、ナポレオンの嵐のような戦いの一生を組み合わせたところに本作の妙味がある。
戦争と平和を料理という観点から解釈しなおし、それを当代きっての偉大な人物になぞらえた点こそ、原作と脚本と演出をやり遂げた藤沢さんの卓見だと思う。

果たして戦いと料理は両立するのか。
本作では、最初は反発し合った二人が心を通い合わせていく様子が描かれる。それと同時に、同志だったはずのタレーランとナポレオンの間に隙間風が吹き始める。ナポレオンは皇帝という立場に縛られ、いつしか自由の心を失っていく。その一方で、戦争に傾倒するナポレオンの心中は、平和な体現者であるカレームと心を通わせ始める。
人を否応なく変えていく権力の恐ろしさと、権力に引きずられる人の心の弱さ。それが、戦争と平和という対立するテーマに集約されていくところに引き込まれた。

料理と戦争は、一糸乱れぬ統制を求める点で共通しており、対立するテーマではなく、むしろ近しい関係にある。
また、それぞれの人生には思い出となる食べ物がある。そこに人の哲学や信条が込められる(本作では硬いパンの上にある人生として二人の共通点が語られる)。
ということは、戦争と平和も互いに相いれぬ概念ではなく、ともに人の営みの上にある概念なのだ。

だからこそ、タレーランがウイーン会議でフランスは救われたと話す後に語る「世界は同じ晩餐会に参加している」というセリフが説得力を持つ。
戦争も平和もしょせんは人の織りなす社会の一側面に過ぎない、と。

今の世界情勢が私たちに突きつける世相を鑑みるに、本作の提示するテーマは考えさせられる。
ウクライナとロシアのいつ終わるともしれない戦い。イスラエルとパレスチナの長年にわたる争い。
戦争が愚かなことは事実だが、なぜいつになっても戦争は終わらないのか。
わが国では遠くの国の出来事として、私も含めて他人事に感じている。そして、おいしい酒や料理に舌鼓をうっている。

この矛盾こそが今のこの星の現実であり、私たち人間の永遠に克服できない業なのかもしれない。

本作もまた、機会があればもう一度観たいと思える作品だ。

‘2023/12/17 19:00開場 シアタークリエ
https://www.tohostage.com/voicarion/2023spoon/index.html


VOICARION ⅩⅥ 大阪声歌舞伎 拾弐人目の服部半蔵


実は私が舞台を見るのは約三年四カ月ぶりだ。二〇一九年の夏以来。
私が舞台から遠ざかったのは、コロナが世の中を席巻したことが理由ではない。
私が舞台を見なくなった大きな理由は宝塚歌劇団にある。その理由は今までブログで度々書いてきたのでここでは省く。

実は大阪上本町の新歌舞伎座で夜のVOICARIONを観劇したこの日、私は本来、日中に東京の高円寺で長女と別の舞台を見ている予定だった。それがいろいろな事情によって、大阪の上本町で、しかも劇場についてから当日券を購入し、本作を観劇する流れになった。その事情はくだくだしくなるので割愛するが、家族で仲間割れしたわけではない事は書いておく。

その経緯によって、事前に席を購入していた妻とは別の席で観劇することになった。しかも、劇場に着くまでの私は観るつもりもなかった。したがって予備知識はほぼ皆無の状態で客席に座った。ところが、これが期待以上によい舞台だった。

プレミア音楽朗読劇と銘打たれた本作。幕が開く前、客席に響くのはひぐらしの鳴き声。ひぐらしが別のひぐらしの鳴き声を引き継ぎ、途切れずにひぐらしが鳴き続けている。

朗読する七人の俳優は、劇の最初から最後まで割り当てられた場を動かずに演じ切る。自分の場がくれば色付きのスポットライトが当たり、ずっと起立して朗読する。場が終わればライトは消え、闇の中に溶けて椅子に座る。
俳優が朗読の間、手に持つのは台本だ。演劇のスタイルとしては少々奇異に感じるこの姿。思い出すのは声優がアテレコで演じるスタジオの風景だ。
それもそのはずで、七人の俳優たちは声優として名を成した方々。
妻のひいきは緒方恵美さん。本作においては、沖田総司を演じている。

その他の六人の俳優が演じる役は以下の通り。

・服部半蔵(二代目/十二代目)・・・山口勝平さん
・松平定敬/徳川家康・・・高木渉さん
・桂小五郎/毛利輝元・・・諏訪部順一さん
・高杉晋作/世鬼政時・・・立木文彦さん
・服部弥太郎/岡田以蔵・・・朴璐美さん
・仏生寺弥助・・・梶裕貴さん

これらのキャラクターを俳優の皆さんは演じ分けている。
もちろん、声色を使い分けて。

本作の舞台は二つの時代にまたがっている。
本筋となる時代は、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる幕末だ。徳川幕府の世を終わらせるため奔走する桂小五郎と高杉晋作。尊王攘夷派と呼ぶ。
尊王攘夷派に対する勢力は、幕府に味方する佐幕派だ。松平定敬は幕末の桑名藩主として著名だが、その桑名藩にはかの服部半蔵の十二代目が家老として仕えていた。
そこにやってきたのは、仏生寺弥助。幕末の剣豪として名前は知られていないが、一説には幕末に活躍したあまたの剣豪の中でも最強だったという。もともとは桂小五郎や高杉晋作と道場で知った仲だが、講談でしった服部半蔵の末裔である十二代目に弟子として近づく。彼らを護衛するのが新鮮組の手練れ剣士である沖田総司。

長州藩には徳川幕府に雪辱をすすがねばならない理由がある。それは関ヶ原の合戦だ。勝者となって天下を握った徳川家康に対し、敗者の側についてしまった長州藩の無念。
関ヶ原の戦いによって徳川家に膝を屈した毛利家の当主輝元は、ひそかに徳川幕府に反抗する布石を打とうと画策する。
そこで豊臣家にひそかに送り込まれたのが世鬼政時。毛利家の抱える忍びの頭だ。
毛利家が世鬼衆を忍びとして抱えるなら、徳川家は服部半蔵が忍びを率いて暗躍する。

こうした人物たちの関係は複雑に見える。が、恐れることはない。本作は朗読劇だ。俳優たちは動かない。しかもスポットライトがあたる。そのため、その場面で登場する人物が観客には一目で分かる。
例えば徳川家康と二代目服部半蔵。桂小五郎と高杉晋作。松平定敬と服部半蔵十二代目と服部弥太郎と仏生寺弥助。場面によっては服部弥太郎と服部半蔵十二代目と沖田総司。沖田総司と岡田以蔵。こうした組み合わせが頻繁に切り替わる。

本作で印象的だったのは、動きのない舞台を逆手にとった演出だ。先ほどまで桂小五郎と高杉晋作を演じていた二人が、一瞬で毛利輝元と世鬼政時になる。時代を超えて。そうしたメリハリの利かせ方が本作の舞台の動きにアクセントを与えている。

私は観劇中、何回か目をつぶってみた。カセットブックの朗読を聞くのと朗読劇はどう違うのか。それは、舞台上で実際に生で行われているライブ感だろう。実際、俳優さんは何度もトチっていたようにみえた。それこそがライブ感だ。目の前で瞬時に役割を切り替える素早さも含めて。

本作にアクセントを加えるのは場面展開だけではない。音と光もだ。
スポットライトだけでなく、スモークが流れ、落雷が響く。バックスクリーンに映る光景が場面に動きを与える。
そして音。本作の音はとても豪華だ。
邦楽の主役となる楽器が舞台の背後。一段上から場面のあちこちで情緒を奏でる。津軽三味線、尺八、筝、太鼓・鳴り物、篠笛・能管、十七絃筝。実に豪華だ。音楽監督は津軽三味線奏者の吉田良一郎さん。あの吉田兄弟の方だ。

本作を私にとって期待以上に仕立ててくれのは脚本だ。
徳川と毛利の260年の怨憎を背景に、殺伐とした世を忍んで生きることの苦しさ。
生と死が隣り合わせの時代にあって、人は何に救いを求めて生きるのか。

「怒って剣を振るのではなく、悲しんで酒をのむのではなく、笑いながら酒を楽しみ、剣を学ぶ。
笑って剣を学んでいたのに、大人になると悲しんだり怒ったりしながら剣を振るう。」
このセリフを語るのは、自尊心は薄いが、天真爛漫で剣の天才である仏生寺弥助の姿に、自らを投影した人物だ。その人物は自らを自嘲する。
私も笑って仕事がしたい。が、本作を見ている頃の私は、次々とやってくる案件の波におぼれ、ついきつい指導をするようになっていた。だからこそ、このセリフは結構刺さった。

もう一つは、昼行燈とあざけられた十二代目の服部半蔵だ。忍びをしていたのは有名な二代目だ。それ以降は改易され、忍びを捨て、武士としても太平の世になれてしまった。
ところが、その服部家に伝わる一子相伝の秘があるという。

本作のネタをばらすことになるが、よいだろう。

服部家300年の奥義。それは「忍ぶ人々の痛みを知る」ことだ。

日々の暮らしのつらさや苦しさに負けず、生きる人々の痛みを知り、縁をつなぎ続ける。
天正伊賀の乱によって殲滅させられ、各地に散らばった伊賀者のネットワーク。その縁を何百年も生かし続ける。そしていざ、ことが起きれば、地に埋伏していたセミが夏に一斉に地面に現れ、鳴き声をつなぐように協力する。

本作のメッセージは人との縁の大切さだ。
そのメッセージは、人との縁だけで生き抜いてきた私を肯定してくれた。

おそらくこの苦しい世の中にあって、私と同じく勇気づけられた観客は多かったはずだ。
三回のカーテンコールは二回目からはスタンディングオベーションとなった。

退場を促すアナウンスにはこのようなセリフも織り込まれていた。「三年間、私たちは忍んできました。夏の蝉のように。」
演劇人の苦しさと希望を感じた。

‘2022/12/03 新歌舞伎座 開演 18:30~

https://www.tohostage.com/voicarion/2022hanzo/