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R帝国


著者による『教団X』は凄まじい作品だった。宗教や科学や哲学までを含めた深い考察に満ちており、読書の喜びと小説の妙味を感じさせてくれた。

本書はタイトルこそ『教団X』に似ているが、中身は大きく違っている。本書は政治や統治や支配の本質に切り込んでいる。

「朝、目が覚めると戦争が始まっていた。」で始まる本書は、近未来の仮想的な某国を舞台にしている。
本書は日本語で書かれており、セリフも日本語。そして登場人物の名前も日本人の名前だ。

それなのに本書の舞台は日本ではない。日本に限りなく近い設定だが、日本とは違う別の国「R帝国」についての小説だ。

本書を読み進めると、R帝国に隣り合う国が登場する。それらの国は、中国らしき国、北朝鮮らしき国、韓国らしき国、ロシアらしき国、アメリカらしき国を思わせる描写だ。
だが本書の中ではR帝国が日本ではないように、それらの国は違う名前に置き換えられている。Y宗国、W国、ヨマ教徒、C帝国といった具合に。

一方、本書内にはある小説が登場する。その小説に登場する国の名前は”日本”と示されているからややこしい。
その小説では、日本の沖縄戦が取り上げられている。

なぜ沖縄戦が起きたのか。それは当時の大本営の作戦指導によって、日本の敗戦を少しでも遅らせるための時間稼ぎとして、沖縄が選ばれたからだ。それによって多くの県民が犠牲となった。
沖縄県庁の機能は戦場での県政へと強いられ、全てが軍の指導の下に進められた。その描写を通し、著者は戦いにおいて民意を一切顧みずに戦争に人々を駆りる政治の本質に非道があることを訴えている。

作中の小説では日本を取り上げながら、本書には日本は登場せず、R帝国と呼ぶ仮の存在でしかない。
おそらく著者は、本書で非難する対象を日本であるとじかに示さないことによって、左右からの煩わしい批判をかわそうとしたのかもしれない。

政治やそれをつかさどる政府への著者の態度は不信に満ちている。もちろんそこに今の日本の政治が念頭にあることは言うまでもない。
著者の歴史観は明らかであり、その考えをR帝国として描いたのが本書であると思う。
本書には政府がたくらむ陰謀が横行している様子が書かれる。民が求める統治ではなく、政府の都合を実現するための陰謀に沿った統治。統治がそもそも民にとっては無意味であり、有害であることを訴えたいのだろう。
その考えの背後には、合法的な政権奪取までのプロセスの背後にジェノサイドの意図を隠し持っていたナチスドイツとそれを率いるヒトラーを想定しているはずだ。

こうした本書の背後の考えは普通、陰謀論と位置付けられるのだろう。
だが、私は歴史については、もはや陰謀があったかどうかを証明することが不可能だと思っている。そのため陰謀論にはあまり関わらず、あくまで想像力の楽しみの中で取り扱うように心がけている。
あると信じれば陰謀はあるのだろう。政府がより深い問題から目をそらさせるためにわざと陰謀論を黙認していると言われれば、そうかもしれないとも思う。

本書は、陰謀論を好む向きには好評だろう。だが、私のように陰謀論から一定の距離を置きたいと考える読者には、物足りなく思える。
少なくとも、私にとって著者の『教団X』に比べると本書は共感できなかった。

批判的に本書を読んだが、本書には良い点もある。全体よりもディテールで著者が語る部分に。

「歴史的に、全ての戦争は自衛のためという理由で行われている。小説『ナチ』のヒトラーですら、一連の侵略を自衛のためと言っている。もしあの戦争でナチが勝利していれば、歴史にはそう書かれただろう。
相手に先に攻撃させる。国民を開戦に納得させるための、現代戦争の鉄則の一つ。
あまりにも大胆なこういう行為は、逆に疑われない。なぜなら、まさか自分達の国が、そんなことをするとは思えないから。それを信じてしまえば、自分達の国が、いや、自分達が住むこの世界が、信じられなくなって不安だから。無意識のうちに、不安を消したい思いが人々の中に湧き上がる。その心理を“党“は利用する。
無意識下で動揺している人ほど、こういう「陰謀論」に感情的に反論する。そうやって自分の中の無意識の思いを抑圧し消そうとする。上から目線で大人風に反論し安心する人達もいる。そもそも歴史上、一点の汚点・悪もない先進国など存在しないから、国の行為全てを信じられること自体奇妙だがそういう人はいる。」(239ページ)

私も、ここに書かれた内容と同じ考えを持っている。
先進国のすべてに歴史上の悪行はあると考えているし、そのことに対して感情的に反応する人を見ると冷めた気分になる。
そもそも国とは本来、定義があいまいなものだ。集団が組織となり、それが集まって国となる。同じ民族・人種・言葉・文化を共通項として。国とはそれだけの存在にすぎない。
そのようなあいまいな国を存続させるには、民に対してもある幻想を与える必要がある。
その幻想を統治する根拠を文化や宗教や民族や経済や福祉といったものに置き、最大多数の最大幸福の原理を持ち出して全体の利益を奉る。

そのため、政府とは個人の自由を制限する装置として作動し、全体の利益を追求する。個人とは本質的に相いれない。

人は生きているだけで、他の人に影響を与える生き物だ。生きている以上、その宿命からは逃れようがない。生きているだけで環境は消費され、人口密度が増すのだから。
そうすると行き着くところは個人的な内面の自由だ。

とはいえ、私は陰謀論の信者になろうとは思わない。国による陰謀を信じようと信じまいと、現状は何も変わらないからだ。
自由意志を信じる私の考えでは、政府による統治や統治の介入をなくし、自分の生を全うするためには自分のスキルや考えを研ぎ澄ませていくしかない。
「僕は自分のままで、……自分の信念のままで、大切な記憶を抱えながら生涯を終えます。それが僕の……プライドです」
私は本書とそのように向き合った。

ところが、宗教は内面の自由までも支配下におこうとする。一人もしくは複数の神の下、崇高な目的との縛りで。

本書にもある教祖が登場する。その教義も列挙される。
おそらく、『教団X』にも書かれた宗教と科学の問題に人の抱える課題は集約されていくはずだ。だが、その日が来るのは永遠に近い日数がかかると思う。

「人間は結局素粒子の集合でできている。生物も結局は化学反応に過ぎないとすれば、この戦争も罰も、ただ人間にはそう見えるだけで、実は物理学的なしかるべき流れ、運動に過ぎないと言う風に。…その運動を俯瞰して眺める時、私はそこに、温度のない冷酷さしか感じない。見た目は激痛を伴う戦争であるのに、ただの無意味な素粒子達の流れ、運動である可能性が高いのだ。この奇妙な感覚に耐えるためかのようにね、私もどんどんと人間でなくなっていくように思うのだよ。もし私が戦争で莫大な数の人間を殺し、R帝国を破産させ、これまでの支配層の国々に飛び火させ、それで得た天文学的な資産で今度は貧国を助けるつもりだとしたらどうだ? 私がというより、何かの意志がそのつもりだったとすれば、結果的にお前は将来の善の実現を阻むことになる。」(362ページ)

あとがきに著者が書いているとおり、私たちが持つべき態度は「希望は捨てないように」に尽きる。

‘2020/08/16-2020/08/17


動物農場


『1984』と言えば著者の代表作として知られている。その世界観と風刺の精神は、現代でも色褪せていない。むしろその名声は増すばかりだ。
権力による支配の本質を描いた内容は、人間社会の本質をえぐっており、情報社会の只中に生きる現代の私たちにとってこそ、『1984』の価値は真に実感できるのではないだろうか。
今でも読む価値がある本であることは間違いない。実際に昨今の言論界でも『1984』についてたびたび言及されているようだ。

本書も風刺の鋭さにおいては、『1984』には劣らない。むしろ、本書こそ、著者の代表作だと説く向きもある。
私は今回、本書を初めて読んだ。
本書のサブタイトルに「おとぎばなし」と付されている通り、本書はあくまでもファンタジーの世界の物語として描かれている。

ジョーンズさんの農場でこき使われている動物たちが、言葉を発し、ジョーンズさんに反乱を起こし、農場を経営する。
そう聞かされると、たわいもない話と思うかもしれない。

だが、動物たちのそれぞれのキャラクターや出来事は、現実世界を確実に模している。模しているどころか、あからさまに対象がわかるような書き方になっている。
本書が風刺する対象は、社会主義国ソビエト連邦だ。しかも、本書が書かれたのは第二次世界大戦末期だと言う。
著者はイギリス人だが、第二次世界大戦末期と言えば、ヤルタ会談、カイロ会談など、ソビエトとイギリスは連邦国の一員として戦っていた。
そのため、当時、著者が持ち込んだ原稿は、あちこちの出版社に断られたという。盟友であるはずのソビエトを風刺した本書の出版に出版社が恐れをなしたのだろう。

それを知ってもなお、著者が抱く社会主義への疑いは根強いものがあった。それが本書の執筆動機になったと思われる。
当時はまだ、共産主義の恐ろしさを人々はよくわかっていなかったはずだ。
粛清の嵐が吹き荒れたスターリン体制の内情を知る者もおらず、何よりもファシズムを打倒することが何よりも優先されていた時期なのだから。
だから今の私たちが思う以上に、本書が描かれた時代背景にもかかわらず本書が出版されたことがすごいことなのだ。

もちろん、現代の私たちから見ると、共産主義はもはや歴史に敗北した過去の遺物でしかない。
ソ連はとうに解体され、共産主義を掲げているはずの中国は、世界でも最先端の資本主義国家といってよいほど資本主義を取り入れている。
地球上を見渡しても共産主義を掲げているのは、北朝鮮のほかに数か国ぐらいではないだろうか。

そんな今の視点から見て、本書は古びた過去を風刺しているだけの書物なのだろうか。
いや、とんでもない。
古びているどころか、本書の内容は今も有効に読者に響く。なぜなら、本書が風刺する対象は組織だからだ。
そもそも共産主義とは国家が経済を計画し、万人への平等を目指した理想があった。だからこそ、組織だって狂いもなく経済を運営していかねばならない建前があった。
だからこそ、組織が陥りやすい落とし穴や、組織を運営することの困難さは共産主義国家において鮮明な矛盾として現れたのだと思う。そのことが本書では描かれている。

理想を掲げて立ち上がったはずの組織が次第に硬直し、かえって人民を苦しめるだけの存在に堕ちてゆく。
われわれはそうした例を今まで嫌というほど見てきた。上に挙げた共産主義を標榜した諸国において。
その多くは、共産主義の理想を奉じた革命者が理想を信じて立ち上げたはずだった。だが、理想の実現に燃えていたはずの革命家たちが、いざ統治する側に入った途端、自らが結成した組織に縛られていく。
それを皮肉と言わずして何と呼ぼう。

それにしても、本書に登場する動物達の愚かさよ。
アルファベットを覚えることがやっとで、指導者である豚たちが定めた政策の矛盾に全く気付かない。
何しろ少し前に出された法令の事などまるで覚えちゃいないのだから。
その無知に乗じて、統治する豚たちは次々と自らに都合の良いスローガンを発表していく。朝令暮改どころではない速さで。

柔軟といえば都合はいいが、その変わり身の早さには笑いがこみあげてくるしかない。

だが、本書を読んでいると、私たちも決して動物たちのことを笑えないはずだ。
先に本書が風刺する対象は共産主義国家だと書いた。が、実はあらゆる組織に対して本書の内容は当てはめられる。
ましてや、本書が描かれた当時とは比べ物にならないほどの情報量が飛び交っている今。

組織を担うべき人間の処理能力を上回るほどの判断が求められるため、組織の判断も無難にならざるを得ない。または、朝令暮改に近い形で混乱するしか。
私たちはその実例をコロナウィルスに席巻された世界で、飽きるほど見させられたのではないだろうか。

そして、そんな組織の構成員である私たちも、娯楽がふんだんに与えられているため、本書が描かれた当時よりも衆愚の度が増しているようにも思える。
人々に行き渡る情報量はけた違いに豊かになっているというのに。

私自身、日々の仕事に揉まれ、ろくにニュースすら読めていない。
少なくとも私は本書に出てくる動物たちを笑えない自分を自覚している。もう日々の仕事だけで精いっぱいで、政治や社会のニュースに関心を持つ暇などない状態だ。
そんな情報の弱者に成り下がった自分を自覚しているけど、走らねばこの巨大な世の中の動きに乗りおくれてしまう。私だけでなく、あらゆる人が。

本書の最後は豚と人間がまじりあい、どちらがどちらか分からなくなって終わりを迎える。
もう、そんな慄然とした未来すら来ているのかもしれない。
せめて、自分を保ち、客観的に世の中を見るすべを身に着けたいと思う。

‘2019/8/1-2019/8/6


ビジュアル年表 台湾統治五十年


はじめ、著者の名前と台湾が全く結びつかなかった。
エンターテインメントの小説家として名高い著者が台湾にどのように関係するのか。
そのいきさつについては、あとがきで国立台湾歴史博物館前館長の呂理政氏が書いてくださっている。
それによると、2013年の夏に日本台湾文化経済交流機構が台湾を訪れたが、著者はその一員として来台したという。

著者はその縁で、もともと興味を持っていた台湾の歴史を描こうと思ったそうだ。
本書の前に読んだ「日本統治下の台湾」のレビューにも書いたが、私ははじめて台湾を訪れたとき、人々の温かさに感動した。そして、台湾と日本の関係について関心を持った。
著者もおそらく同じ感慨を抱いたに違いない。

はじめに、で著者はベリーの来航から90年間で、日本がくぐり抜けた歴史の浮き沈みの激しさを描く。
そして著者は、その時期の大部分は、日本が台湾を統治していた時期に重なっていることを指摘する。つまり、当時の台湾にはかつての日本が過ごした歴史が残っている可能性があるのだ。

本書はビジュアル年表と言うだけあって、豊富な図面とイラストが載っている。
それは、国立台湾歴史博物館と秋惠文庫の協力があったからだそうだ。
それに基づき、著者は台湾の統治の歴史を詳細に描く。歴代の台湾総督の事歴や、領有に当たっての苦労や、日本本土との関係など。

本書は、資料としても活用できるほど、その記述は深く詳しい。そして、その視点は中立である。
台湾にもくみしていないし、日本を正当化してもいない。

ただ、一つだけ言えるとすれば、日本は統治した以上は整備に配慮を払っていたことだ。
本書にも詳しく載っているが、図面による台湾の街の様子や地図の線路の進展などは、五十年の間に次々と変わっていった。それはつまり、日本の統治によりインフラが整備されていったことを表している。
特に有名なのは八田氏による烏山頭ダムの整備だ。そうした在野の人物たちによる苦労や努力は否定してはならないと思う。
歴代総督の統治の意識によっても善し悪しがあることは踏まえた上で。

特に児玉源太郎総督とその懐刀だった後藤新平のコンビは、一時期はフランスに売却しようかとすら言われていた台湾を飛躍的に発展させた。
日本による統治のすべてをくくって非難するより、その時期の国際情勢その他によって日本の統治の判断は行われるべきではないだろうか。

そうした統治の歴史は、本書の前に読んだ「日本統治下の台湾」にも描かれていた。が、本書の方が歴史としての記述も資料としての記述も多い。

私はまだ、三回の台湾訪問の中で台湾歴史博物館には訪れたことがない。初めての台湾旅行では故宮博物院を訪れたが、あくまでも中国四千年の歴史を陳列した場所だ。
台湾の歴史を語る上で、私の知識は貧弱で頼りないと自覚している。だから、本書の詳細な資料と記事はとても参考になった。

特に本書に詳しく描かれている当初は蛮族と呼ばれた高砂族の暮らしや、蛮行をなした歴史についてはほとんどを知らなかった。
高砂族を掃討する作戦については、本書に詳しく描かれている。それだけでなく、当時の劣悪な病が蔓延していた様子や、高砂族の人が亡くなった通夜会場の様子なども。本書は台湾の歴史だけではなく、先住民族である高砂族の文化にも詳しく触れていることも素晴らしい。
おそらく私が最初の台湾旅行で訪れた太魯閣も、かつては高砂族が盤踞し、旅行どころか命の危険すらあった地域だったはずだ。
そうした馴化しない高砂族の人々をどうやって鎮圧していったのかといういきさつ。さらには、男女の生活の様子や、差別に満ちた島をデモクラシーの進展がどう変えていったのか。
皇太子時代の昭和天皇の訪問が台湾をどう親日へと変えていったのか。本書の記述は台湾の歴史をかなりカバーしており、参考になる。

また、本書は日本の歴史の進展にも触れている。日本の歴史に起こった出来事が台湾にどのように影響を与えたのかについても、詳しく資料として記していることも本書の長所だ。
皇民化政策は、この時期の台湾を語るには欠かせない。どうやって高砂族をはじめとした台湾の人々に日本語を学ばせ、人々を親日にしていったのか。
八紘一宇を謳った割に、今でも一部の国からは当時のふるまいを非難される日本。
そんなわが国が、唯一成功したといえる植民地が台湾であることは、異論がないと思う。

だからこそ、本書に載っている歴史の数々の出来事は、これからの日本のアジアにおける地位を考える上でとても興味深い。それどころか、日本の来し方とこれからの国際社会でのふるまい方を考える上でも参考になる。

本書はまた、太平洋戦争で日本が敗れた後の台湾についても、少しだけだが触れている。
日本が台湾島から撤退するのと引き換えに国民党から派遣されてやってきた陳儀。台湾の行政担当である彼による拙劣かつ悪辣な統治が、当時の台湾人にどれほどのダメージを与えたのか。
そんな混乱の中、日本人が台湾での資産をあきらめ、無一文で日本に撤退していった様子など。

国民党がどのようにして台湾にやってきて、どのような悲惨な統治を行ったか。本書の国民党に対する記述は辛辣だ。そして、おそらくそれは事実なのだろう。
台北の中正紀念堂で礼賛されているような蒋介石の英雄譚とは逆に、当初の国民党による統治は相当お粗末な結果を生んだようだ。
だからこそ2.28事件が起き、40年あまり台湾で戒厳令が出され続けたのだろうから。
このたびの旅行で私は228歴史記念公園を訪れたが、それだけ、この事件が台湾に与えた傷が深かったことの証だったと感じた。
そして、国民党の統治の失敗があまりにも甚大だったからこそ、その前に台湾を統治した日本への評価を高めたのかもしれない。

本書がそのように政権与党である国民党の評価を冷静に行っていること。それは、すなわち台湾国立歴史博物館の展示にも国民党の影響があまり及んでいない証拠のような気がする。
本書を読み、台湾国立歴史博物館には一度行ってみたくなった。

この旅で、私は中正紀念堂の文物展示室の展示物である、蒋介石が根本博中将に送った花瓶の一対をこの目で見た。
根本博中将と言えば、共産軍に圧倒的に不利な台湾に密航してまで渡り、金門島の戦いを指揮して共産軍から守り抜いた人物である。
だが、中正紀念堂には根本博中将に関する記述はもちろんない。日本統治を正当化する展示ももちろんない。

そんな根本中将への公正な評価も、台湾国立歴史博物館では顕彰されているのかもしれない。
それどころか、日本による統治の良かった点も含め、公正に評価されているとありがたい。
そんな感想を本書から得た。

‘2019/7/24-2019/7/25


風刺漫画で読み解く 日本統治下の台湾


家族で台湾旅行に行く前日から本書を読み始めた。読み終えたのは、桃園国際機場へ向かう飛行機の中だ。
台湾にはこの旅の半年前にも妻と二人で出かけた。その時は妻も初訪問で、しかも慌ただしい旅だったので、通りをかろうじて歩き回った程度。
今回の台湾旅行は娘たちも同行した。娘たちにとっては初めての台湾。なので、今回の旅も観光客としての移動に終始した。

私にとって台湾は三度目だ。妻と二人で旅する前に台湾を訪問したのは、その二十三年前のこと。
その時は、自転車で約十日かけて台湾を一周した。その前後の三、四日間では台北を動き回り、観光に費やした。
夏の台湾を自転車で一周した経験は、私にとって絶大な自信となった。それと同時に、日本に対する台湾の人々の想いの深さが感じられたことでも印象に残っている。
道中、各地で年配の方が流暢な日本語で私たちに声を掛けてくださった。そして、あれこれと世話をしてくれた事が忘れられない。
親日国の台湾。その印象が強く残っている。懐かしさとともに。

ここ最近、わが国とお隣の韓国との関係がとても良くない。戦後でも最悪と言われる日韓関係が続いている。
だが、台湾の人々は、今もなお日本に好意を持ってくれているようだ。
今回の家族旅行でも、何店ものお店を巡った。そうしたお店に並ぶ商品に、日本語で書かれたパッケージのいかに多かったことか。

日本語をしゃべれる人こそ減っているものの、台湾の皆さんの日本に対する感情の悪化は全く感じられなかった。二十三年前の旅行で得た印象が覆される出来事にも遭うこともなく。

そもそも、日本にとっての台湾とは、日清戦争の賠償で清国から割譲された地だ。
それ以来、第二次大戦で敗れた日本が台湾の統治権を失うまでの五十年間、台湾は日本の統治下にあった。

日本統治下の日々は、台湾にとって良いことばかりだったはずはない。時には日本による誤った行いもあったはずだ。
だが、結果的にはかなりの好印象を台湾の人々に与えた事は確かだ。それは私が三回の台湾旅行で体感している。
そうした対日感情を育んだ五十年間の統治の秘密は何か。統治に当たって、台湾の方々にどのように日本への信頼感を醸成したのか。それを知りたいと思っていた。

日本による台湾の統治がどのように行われたのか。それを解き明かすのが本書だ。
そのために著者がとったアプローチはとてもユニークだ。当時の現地の新聞の漫画を取り上げている。新聞の漫画と言えば、一目で世相を表すような工夫が施されている。だから、当時を知る資料としては一級であるはず。本書は新聞の漫画を取り上げ、それらをふんだんに載せることにより、当時の台湾の世相を今に伝えている。

本書には多くの漫画がとり上げられているが、その中でもよく登場するのが国島水馬の風刺漫画だ。私はこの人物については、本書を読むまでは全く知らなかった。
それもそのはずで、国島水馬は台湾の現地紙にしか漫画を連載をしなかった。しかも戦前から戦後にかけて消息を断ち、どのような最期を遂げたのかもわかってない。全くの無名に近い存在なのだ。

だが、国島水馬や他の方の描いた漫画を追っていくと、日本が台湾をどのように統治していったかがわかる。
統治にあたり、日本人が台湾にどのように乗り込んだのか。日本で時代を作った大正デモクラシーは台湾ではどのように波及し、人々はどのように民主化の風になじんでいったのか。
本書は風刺漫画を通して台湾の世相を紹介するが、本島人と日本人の対立や、日本からは蕃族と呼ばれた高砂族への扱いなど、歴史の表には出てこない差別の実相も紹介している。

少しずつ台湾統治が進みつつあり、一方で日本の本土は関東大震災に傷つく。
その時、台湾の人々がどのように本土の復興に協力しようとしたか。また、その翌年には、皇太子時代の昭和天皇が台湾旅行を行うにあたり、台湾の人々がどのように歓迎の儀式を準備したか。そうしたことも紹介される。

台湾が少しずつ日本の一部として同化していくにつれ、スポーツが盛んになり、女性の地位も改善が進み、少しずつ日本と台湾が一つになってゆく様子も描かれている。

ところが、そんな台湾を霧社事件が揺るがす。
霧社事件とは、高砂族の人々が日本の統治に対して激烈な反抗を行った事件だ。日本の統治に誤りがなかったとは言えない理由の一つにこの霧社事件がある。
霧社事件において、高砂族の人々の反抗心はどのように収束したか。その流れも漫画から読み解ける。
不思議なことに、霧社事件を境に反抗は止み、それどころか太平洋戦争までの間、熱烈な日本軍への志願者が生まれたという。
霧社事件の事後処理では高砂族への教化が行われたはずだ。その洗脳の鮮やかさはどのようなものだったのか。それも本書には紹介されている。

その背景には、台湾から見た内地への憧れがある。台湾からは日本が繁栄しているように見えたのだろう。
ところが当時の日本は大正デモクラシーの好景気から一転、昭和大恐慌と呼ばれる猛烈な不景気に突入する。その恐慌が軍部の専横の伏線となったことは周知の事実だ。
そんな中、どうやって台湾の方々に日本への忠誠心を育ませたのか。それは、本書の記述や漫画から推測するしかないが、学校教育が大きな役割を果たしたのだろう。
先日、李登輝元台湾総統が亡くなられたが、単に支配と被支配の関係にとらわれない日本と台湾の未来を見据えた方だったと思う。
おそらくは李登輝氏の考えを育んだ理由の一つでもあるはず。

残念なことに、本書は国民党が台湾にやってきて以降の台湾には触れていない。
時を同じくして国島水馬も消息を絶ち、現地の風刺漫画に日本語が載ることはなくなった。
だが、本書の紹介によって、現地の人々に日本の統治がどのように受け入れられていったのかについて、おおまかなイメージは掴めたように思う。

本書から台湾と日本の関係を振り返った結果、よいことばかりでもなかったことがわかる。
だからこそ、私が初めて台湾を訪れた時、日本の統治が終わってから五十年もたっていたにもかかわらず、台湾の年配の方々が日本語で暖かく接してくれた事が奇跡に思える。
それは、とりもなおさず五十年の統治の日々の成果だと思ってよいはず。
もちろん、先に書いた通り、日本の統治の全てが正しかったとは思わない。
それでも、中国本土、台湾そして日本と言う三つ巴の緊張の釣り合いを取るために、台湾を統治しようとした日本の政治家や官僚の努力には敬意を払いたい。霧社事件のような不幸な事件があったとはいえ、烏山頭ダムを造った八田氏のような方もいたし、日本の統治には認められるべき部分も多いと思っている。
私が初めて台湾を訪れた時に感じた感動は、こうした方々の努力のたまもののはずだから。

私もまた台湾に行く機会があれば、地方を巡り、次は観光客としてではなく、より深く台湾を感じられるようにし、本書から受けた印象を再確認したい。
日韓関係の望ましい未来にも思いを致しつつ。

‘2019/7/22-2019/7/23