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故郷七十年


数年前に著者の故郷である福崎を訪れたことがある。

その訪問の記録はこちらのブログにまとめた。
福崎の町に日本民俗学の礎を求めて

訪問する前の秋には、神奈川県立近代文学館で催された「柳田國男展」を見た。展示を見た感想はこちらのブログにまとめている。
生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよを観て

著者の偉大なる実績と生涯はその二つの経験で十分に学んでいたつもりだ。著者だけでなく、著者の生家である松岡家がとても偉大であったことも含めて。というのも、著者を含めて成長した松岡家の四兄弟の皆が世に出て名を残したのだから。
民俗学という研究分野が、私にとっての関心でもある。どうすればあれだけの成果をあげられたのだろうか。
著者が私に感銘を与えたことは他にもある。著者が博覧強記を誇る民俗学の巨人として実績を積み上げながら、実はキャリアのほとんどを官僚として勤め上げたことだ。

私は展示会において、著者がどのようにして日々の勤めと自らの興味を両立したのかについて強い興味を持った。
そこで展示会を訪れた後、福崎の街を訪れた。
著者が少年時代を過ごした場所を見てみたいと思ったためだ。

私が訪れた福崎の街。今もなお中国自動車道が街を横断し、JR播但線が南北を貫く交通の要衝だ。だが、今の福崎の状況からかつての街道の栄華を想像することは難しい。東西の動脈を擁するとはいえ、かつての往来のあり方とは違ってしまっている。かつての繁栄のよすがを今の福崎から想像することは難しい。
訪れた著者の生家の近くは拓けている。農村風景の余韻もの残っている。が、著者が幼い頃は旅人が頻繁に往来し、家の存在感はさらに顕著だったはずだ。
生家は明治・大正の様子をかろうじて想像させる。そのたたずまいは、著者が小さい家だったと本書でも述べている通りの質素な印象を私に与えた。生家の裏山から受ける印象はからりとして明朗。民俗という言葉からうける暗さやしがらみを感じなかった。

著者は、どういうところから民俗学の関心を得たのだろうか。

まず一つは、本書にも書かれている通りだ。生家近くの三木家の書物から受けた恩恵は大きい。三木家へ預けられている間に、著者は三木家にあった何百、何千冊の書物をあまねく読み込んだようだ。それはは著者の世その冊数は何千冊もあったことだろう。書物の世界をきっかけに、人間の住むこの世界への想像をたくましくしたことは想像がつく。さらに、これも本書に書かれているが、街道に面した著者の家の近くにはありとあらゆる旅の人が行き交い、幼き著者はそうした人々から興味深い地方のよもやま話を聞かされたのだろう。

あともう一つだけ考えられるのは著者が場所による文化の違いを若い頃から知ったことだ。著者は、福崎で生まれ育った。が、長じてのちに茨城の布佐で医師となって診療所を開いた長兄を頼り、茨城へ住み家を移した。つまり著者は幼い頃に兵庫の福崎と茨城の布佐の二カ所で育った。文化が全く違う東西の二カ所で暮らした経験は、地域ごとの風習や民俗の違いとして著者の心に深く刻まれただろう。

私が訪れたのは福崎だけだ。布佐にはまだ訪れたことがない。
もっとも、私が訪れたところで福崎と布佐の違いをつぶさに観察できると思えない。ただ、当時は今よりも訛りや習わしやしきたりの違いも大きく、若き日の著者に大きな影響を与えた事を想像するしかない。

本書で著者は福崎で過ごした日々と、布佐で受けた日々の印象を事細かに書いている。

本書はインタビューを聞き書きし、再構成したものだという。著者はおそらく椅子に座りながら昔を語ったのだろう。昔を記憶だけですらすらと語れること著者の記憶力は驚くべきことだ。
著者の博覧強記の源が、老年になっても幼い頃のことを忘れないその記憶力にあったことは間違いない。
私は本書から、著者のすごさが記憶力にあることを再確認した。

民俗学とは、文献と実地を見聞し、比較する学問である。インターネットのない著者の時代は、文献と文献をつなげる作業はすべて記憶力に頼っていたはずだ。たとえ手帳に書きつけていたとしても、そのつながりを即座に思い出すには記憶の力を借りる必要があった。
各地の伝承や伝説をつなぎ合わせ、人々の営みを一つの物語として再構成する。
誰も手をつけていなかったこの学問の奥深さに気づいた時、著者の目の前には可能性だけがあったことだろう。
ましてや、著者が民俗学を志した頃は江戸時代の風習がようやく文明開化の波に洗われつつあった。まだまだ地域ごとの違いも大きく、その違いは今よりもいっそう興味をそそられるものだったはずだ。
そう考えると今のインターネットや交通が発達した現代において、民俗学の存在意義とはなんだろうか。

私が考えるに、文明が地域ごとの違いを埋めてしまいつつある今だからこそ、その違いを探求する事は意義があるはず。
本書を読み、民俗学に人生をかけようと思った著者の動機と熱意の源を理解したように思う。

最後に本書から感銘を受けたことを記しておきたい。
このこともすでに展示会を訪れて感じ、本稿でも述べた。それは、著者の民俗学の探究が中年に差し掛かって以降に活発になった事だ。

私たちは人生をどう生きれば良いか。
著者のように官吏として勤務につきながら、自分の興味に打ち込むために何をすれば良いか。

本書を読む限りでは、それは幼い頃からの経験や環境にあることを認めるしかない。
幼い頃の環境や経験に加え、天賦の才能が合わさり、著者のような個人が生まれるのだろう。

では、私たちは著者のような才能や実績を前に何をすれば良いのだろうか。
それはもちろん、時代を担う子供たちへ何をすればよいのか、についての答えだ。
子供たちに何をしてあげられるのか。経験・環境・変化・交流。

私たちが著者のようになることは難しいが、子供たちにはそのような環境を与えることはできる。
著者の人生を概観する本書は、著者の残した実績の重さとともに、人が次の世代に何ができるかを教えてくれる。

2020/11/11-2020/11/21


父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。


本書は、経済関係の本を読む中で手に取った一冊だ。新刊本で購入した。

タイトルの通り、本書は父から娘に向けて経済を解説すると体裁で記されている。確かに語り口こそ、父から娘へ説いて教えるようになっているが、内容はかなり充実している。まさに深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい。

実は私も、娘に向けてこの本を購入した。私の長女は、イラストレーターの個人事業主として中学生の頃から活動している。
私も経営者とはいえ、経済的にはまだゆとりはない。有能な経営者とは言えないだろう。だが、少なくとも四人の家族を養うだけの金銭はこれまでに稼いできた。
だが、娘はまだこれからだ。個人事業主とはそれほど簡単に稼げるものではない。実際、どこかに常駐しておらず、家で仕事している娘はまだ稼ぎが少ない。
だからこそ、本書のように経済の本を読んで勉強しておいた方が良い。私はそう思った。
今まで経済をろくすっぽ学ばずにやってきた私が、さんざん苦労してきたからだ。

本書の第一章では、なぜ格差が生じるのかについて説明する。
南北問題と言う言葉がある。同じ地球の北半球と南半球で富に格差が発生している現実だ。裕福な北米やヨーロッパ、中国と、貧しい南半球の国々。
なぜ違うのか。それは『銃・病原菌・鉄』でも示されていたが、地理的な問題だ。南北に長いアフリカは、緯度によって季節や気候ががらりと違ってしまう。そのため、作物も簡単に伝播させることが難しい。ところが、東西に伸びたユーラシア大陸では気候の違いがあまり発生しなかった。そのため、一つの文明・文化が勃興すると、さしたる障害もなしに東西に素早く広がった。北アメリカも同じように。
そして、オーストラリアなど、自然が豊かな国では人々はただ自然から食物をいただくだけで生きていけた。身の危険もないため、人々は植物を貯めておく必要も、余剰を意識する必要もなかった。

第二章は市場をテーマにしている。経験価値と交換価値。その二つの価値は長らく経済の両輪だった。
個人の体験は交換が利かない。だから自らの経験や知識を人のために役立てた。個人の経験それ自体に価値があり、対価が支払われる。経験価値だ。
ところが徐々に貨幣経済が発展するとともに、市場で貨幣と商品を交換する商慣習が成り立ってゆく。市場において貨幣を介してモノを交換する。交換価値だ。
何かを生産し、それを流通させるまでには資産が欠かせない。自然の原材料や加工道具、それに生産手段だ。さらにそうした資産を置く場所と空間。さらに、かつては奴隷として抱える労働力も資産に含まれた。そうした資産や不動産や労働力は、交換できる価値として取り扱うことができた。
過去のある時期を境に、人類の経済活動において交換価値は経験価値を凌駕した。

第三章では、交換価値で成り立っていた経済が次の段階に進む様子を取り上げている。利益や借金が経済活動の副産物ではなく、企業にとって目的や手段となる過程。それが次の段階だ。

賃金も地代も原料や道具の値段も、生産をはじめる前からわかっている。将来の収入をそれらにどう配分するかは、あらかじめ決まっているわけだ。事前にわからないのは、起業家自身の取り分だけだ。ここで、分配が生産に先立つようになった。(78ページ)

既存の封建社会のルールに乗らなくてもよい起業家は、借金をして資産を増やし、それをもとに競争するようになった。

第四章では、借金が新たな役割を身につけた理由を説明する。
借金とは、現在の価値と未来に利子がついている価値との交換だ。貸主は貸した金銭が、将来にわたって利子付きで戻ってくること期待する。つまり、将来の価値と今の価値の交換だ。その差額である利子が貸主の利益となる。

今、周りにある企業や国、銀行と取引するのではない。将来の企業、国、銀行と交換する。それが借金のカラクリだ。今、存在する価値の総量以上は借りられない。だが、将来の利子を加えると、今の価値の総量よりも高い金額が借りられる。これが金融の原点であり、ありもしない富がなぜ次々と生まれてくるカラクリだ。
貨幣をさして兌換貨幣と呼ぶ。かつては金を保有している国が、いつでも保有する金と貨幣を交換してもらえる約束と信頼の上で貨幣を発行していた。いわゆる金本位制だ。
その考えを推し進めると、将来も今の経済体制が維持される前提のもと、未来の利子がついた価値と今の価値を交換する金融の仕組みが成り立つ。

第五章では、労働と賃金関係について説明される。今までの説明で、経済の成り立ちが描かれてきた。だが、今やロボットや人工知能が人類の労働力にとって替わろうとしている。それらとどう共存するか。
本書はこの後第六章、第七章、第八章と人類が今直面している問題に経済の観点から切り込んでいく。仮想通貨や環境問題、人類の未来といった問題に。
実は本書は、この後半からがさらに面白い。

今の市場経済に未来はあるのか。経済活動に携わる人の誰もが考えたことがあるのではないだろうか。
一見すると、社会を回すためには今の方法しかないように思える。需要と供給。給与と消費。資本と市場。人の欲求と向上心をかなえ、勝者と敗者を生産しつつ、今の資本主義の世の中は動いている。

だが、その概念に揺らぎが生じたからこそ、SDG’sの概念が提唱されている。持続可能な開発目標。つまり今のやり方のままでは持続が不可能であることを、国連をはじめ誰もが感じている。
その中にうたわれている十七の目標は一見すると真理だ。資源は限られているとの前提のもと、化石燃料を燃やしてあらゆる社会活動が回っている。金融システムもコンピューターが幅を利かせるようになった以上、電力とは切っても切れない。今の経済活動は有限の資源を消費することを前提に動いている。その前提を変えなければ、経済活動や地球に未来はないと。それが著者の懸念だ。
交換価値とは、自然を破壊しても生じる価値であり、人の欲望には限度がない。著者はおそらく、SDG’sが唱える十七の項目ですら生ぬるいと感じているに違いない。

将来に対する信頼が今の金融システムを支えている。その将来が危うくなっている。
利子が戻ってくるはず将来が危ういとなると、借金がリスクとなる。つまり信頼が崩れてしまう。金融システムの前提である錬金術は、将来への信頼が全てだ。

将来の価値と今の価値を交換する。つまり将来を食いつぶしているのが今の経済の本質だ。果たして将来を食いつぶしてよいのだろうか。食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
人間が今まで動かしてきた制度や社会を変えるのはすぐには難しい。だが、この社会を維持していかなければならない。今のままのやり方ではどこかで限界が来る。

そのために著者は本書を用いて、さまざまな提言を行っている。

交換価値のかわりに経験価値が重んじられる社会に。
機械が幅をきかせる未来に、そもそも交換価値は存在しないこと。
機械が生み出した利益をベーシックインカムとして還元すること。
権力は全てを商品化しようとするが、地球を救うには全ての民主化しかないこと。

とても素晴らしい一冊だったと思う。

‘2020/04/01-2020/04/08


アクアビット航海記-打たれてもへこたれない


今までの連載を通じ、私の人生を振り返ってきました。
私の人生は決して平坦なものではありません。
何度も凹まされ、傷ついてきました。鼻をへし折られるぐらいならまだしも、やくざさんの家に飛び込み営業で殴られたり、営業成績の不調でその場で丸刈りにされたり。本連載のvol.20〜航海記 その8で書いた通りです。

この後の連載でも触れますが、この後の私はもっと強烈なトラブルにも巻きこまれます。

今、自分で思い出してみてもよくやって来れたと思います。正直、その時々の自分がぶち当たった過酷なストレスをどうやってやり過ごしてこられたのか。自分でもよくわかっていません。

おそらく、持って生まれた性格もあったはずです。のんきでマイペースで、のんびりしていた性格が私を救ってくれたのでしょう。
私は中学生の頃にはいじめにも遭いました。そのたびに、心の中で何回も人を殴りました。数えきれないほどです。実際、中学の時に一度だけ切れて目の前が真っ赤になり、気が付いたらグーで相手を殴っていたこともありました。

切れる自分も知っています。今でも自分を聖人君子だとは思っていません。悪業にも手を染めたこともあります。欲望にも負けやすい性格です。自分は今でも人様に誇れるほどの人間ではないと考えています。

本稿は8月10日に書いていますが、8月6日に小田急線で傷害事件がありました。車内で切れて何人もの人を刃物で刺した事件です。私も影響を受け、二駅を歩いて帰りました。
報道によると、犯人は思い通りにならないことが重なった揚げ句に切れて凶行に及んだようです。

もし私が今までの人生で今回の犯人のように切れていたら、私の今はありません。もしくは、人に切れる前に自分の中が切れて精神に失調をきたしていたかもしれません。

そこで今回は、メンタルについて書いてみたいと思います。

なぜメンタルか。それは、独立や起業を行う上で、メンタルのセルフケアは必須だからです。場合によっては会社勤めの方がよかった、と思うような目にも何度も遭うはずです。そのあたりについては、本連載の最初の頃にメリットとデメリットとして書かせていただきました。

ですが、そのたびにお客様やパートナーとケンカを繰り返していたのでは成長はありません。
もちろん、私もそうしたケンカをしてきました。多くの失敗の果てに今の私があります。そうした失敗の中には、この方には足を向けて寝られないといまだに後悔する失敗も含まれています(この後の連載で書くつもりです)。

どうやれば、メンタルを平常に保てるのか。

まず、過去を忘れないことです。むしろ、過去は何度も思い返すべきです。失敗を何度も何回でも。その時も反省する必要はありません。反省を義務にするぐらいならむしろ居直って開き直った方がよいぐらいです。自分は決して間違っていないという思いを強くしたってよいのです。
悔しい思いや屈辱を何度も自分の中で思い起こすことは耐性となって自らを鍛えます。どれほどの苦しい思いも、当事者だったその瞬間に比べると痛みは比較にならないほど楽に感じるからです。
私はそのことをvol.20〜航海記 その8に書いた当時に学びました。
当事者であるその瞬間が一番しんどい。その時に味わった屈辱は、その瞬間をやり過ごせば過去の記憶に変わります。やくざに監禁されそうになる恐怖や、衆人環視の中で頭を刈られる屈辱ですら。

私はこうした記憶や他にも無数にある記憶を何度も何度も脳内にフラッシュバックさせました。大成社にいた当時の辛さは上京して結婚し、子供が大きくなった6,7年の後も夢で私を苦しめました。ですが、ときぐすりとはよく言ったものです。今では完全に克服しました。
むしろ、そうした振り返りを幾度となく行うことで、自分が客観的に見えてきます。すると今の立場からの批評も行えるのです。批評は、あの時はああすればよかったという改善へとつながります。

私の場合、何度も何度も脳内で耐え抜いたためか、同様の出来事にあっても前の経験と比較できる余裕まで生まれるようになりました。
私はそのため、当時を忘れるよりも、むしろ薄れる記憶を呼び起こそうとします。数年前に大阪を訪れた際、わざわざ大成社のあった大国町のビルにも訪れました。この後の連載で触れる昭島市の某倉庫には近くを通るたびに訪れるようにしています。

ストレスをやり過ごすもう一つのコツは、過去の嫌な出来事を思い起こすのと同じぐらい、自分の人生でよかった瞬間を思い起こすことです。
例えば小学校の球技大会で決めたシュートや、先生や親に褒められた体験。旅行でやり遂げた達成感や何かのイベントを無事に過ごせた陶酔感など。

私の人生に劇的な瞬間はそう多くありません。ですが、思い出してみるとそうした成功体験のようなものが見つかりました。たとえささいな経験であっても、誰にもこうした幸せな経験の一つや二つはあるのではないでしょうか。

苦しかったことや楽しかったことを思い出す習慣。それは、両方をひっくるめての人生という考えに導いてくれます。
私が持っている人生観は、人生の谷と山を均すと平らになるというものです。禍福は糾える縄の如しにも似ているかもしれません。
結局、苦楽が繰り返されての人生です。今のストレスは未来のハピネスの前触れでしょうし、今回の幸いは、次回の辛いによってあがなわれます。そう考えておけば、何が来ても恐れることはありません。

もう一つのストレスから逃れるコツは、さまざまな人生を知っておくことです。さまざまな人の話を聞くのもよいでしょう。小説を読んで登場人物の運命に心を痛めるのもよいでしょう。自伝や伝記から偉人の蹉跌やそこからの這い上がりを参考にするのもよいでしょう。映画や漫画やアニメから心を揺さぶられるのもよいでしょう。
自分に人生があるのなら、今まで生きてきたあらゆる人にもそれぞれの人生があったはずです。あらゆる人生の姿やあり方をストックとして持っておけば、自分だけが特別と感じる罠から逃れられます。
小説や映画の効用は、あらゆる人々の感情の動きに自分を委ねられることです。しかもそれを自分自身の痛みとして感じるのではなく、あくまでも作中の人の被った痛みとして苦しまずに追体験できます。小説や映画に若いうちから多く触れておくことは人生のさまざまな形を教えてくれるのでお勧めです。
結局、人は等しく最後には死ぬのです。それまでの道のりがどうであろうとも、最後には前へ前へと押し出され、死が安らかな眠りをもたらしてくれます。そう思えば、人生の出来事に一喜一憂せず、日々を少しでも楽しく生きようと思えませんか。

繰り返しますが、私は大した人ではありません。今でも何かのイベントに登壇する際は緊張します。
ですが、それは必ず乗り切れると思えるようになりました。
私はイベントに臨む前、こう考えるようにしています。
「当事者である瞬間はやがて必ず終わる。」
「時間は止まらず、必ず前に進む」
自分が失敗して恥をかこうと、人に迷惑をかけてしまおうと、自分も含めて前へ前へと押し流してゆく。それが時間です。全ての人や物事に止まることを許さない。それが時間のありがたみです。

明日プレゼンが控えていようが、大きな商談が控えていようが、その瞬間はやってきて、そして去っていきます。人生とはその繰り返しにすぎません。失敗してもそれを取り返す努力さえすれば、次のチャンスはいつの日か巡ってきます。
そのためにも、辛かった経験や楽しい経験を何度でも思い返してみましょう。その繰り返しが自分の中に改善案やひらめきを必ず与えてくれます。すると苦しかったことも楽しかったことに変わるのです。

いかがでしょう。打たれてもへこたれない私のコツを感じていただけたでしょうか。もちろん、本稿が全ての人に当てはまるとは思いません。ですが、皆さんにとって少しでも参考になれば幸いです。


海の上のピアニスト


本作が映画化されているのは知っていた。だが、原作が戯曲だったとは本書を読むまで知らなかった。
妻が舞台で見て気に入ったらしく、私もそれに合わせて本書を読んだ。
なお、私は映画も舞台も本稿を書く時点でもまだ見たことがない。

本書はその戯曲である原作だ。

戯曲であるため、ト書きも含まれている。だが、全体的にはト書きが括弧でくくられ、せりふの部分が地の文となっている。そのため、読むには支障はないと思う。
むしろ、シナリオ全体の展開も含め、全般的にはとても読みやすい一冊だ。

また、せりふの多くの部分は劇を進めるせりふ回しも兼ねている。そのため、主人公であるピアニスト、ダニー・ブードマン・T・D・レモン・ノヴェチェント自身が語るせりふは少ない。

海の上で生まれ、生涯ついに陸地を踏まなかったというノヴェチェント。
私は本書を読むまで、ノヴェチェントとは現実にいた人物をモデルにしていたと思っていた。だが、解説によると著者の創造の産物らしい。

親も知らず、船の中で捨て子として育ったノヴェチェント。本名はなく、ノヴェチェントを育てた船乗りのダニー・ブードマンがその場で考え付いた名前という設定だ。
ダニー・ブードマンが船乗りである以上、毎日の暮らしは常に船の上。
船が陸についたとしても、親のダニーが陸に降りようとしないので、ノヴェチェントも陸にあがらない。
ダニーがなくなった後、ノヴェチェントは陸の孤児施設に送られようとする。
だが、ノヴェチェントは人の目を逃れることに成功する。そして、いつの間にか出港したヴァージニアン号に姿を現す。しかもいつの間に習ったのか、船のピアノを完璧に弾けるようになって。

そのピアノの技量たるや超絶。
なまじ型にはまった教育を受けずにいたものだから、当時の流行に乗った音楽の型にはまらないノヴェチェント。とっぴなアイデアが次から次へと音色となって流れ、それが伝説を呼ぶ。
アメリカで並ぶものはなしと自他ともに認めるジェリー・ロール・モートンが船に乗り込んできて、ピアノの競奏を挑まれる。だが、高度なジェリーの演奏に引けを取るどころか、まったく新しい音色で生み出したノヴェチェント。ジェリーに何も言わせず、船から去らせてしまう。
その様子はジャズの即興演奏をもっとすさまじくしたような感じだろうか。

本書では、数奇なノヴェチェントの人生と彼をめぐるあれこれの出来事が語られていく。
これは戯曲。だが、舞台にかけられれば、きらびやかな演奏と舞台上に設えられた船内のセットが観客を楽しませてくれることは間違いないだろう。

だが、本書が優れているのは、そうした部分ではない。それよりも、本書は人生の意味について考えさせてくれる。

世界の誰りも世界をめぐり、乗客を通して世界を知っているノヴェチェント。
なのに、世界を知るために船を降りようとしたその瞬間、怖気づいて船に戻ってしまう。
その一歩の距離よりも短い最後の一段の階段を乗り越える。それこそが、本書のキーとなるテーマだ。

船の上にいる限り、世界とは船と等しい。その中ではすべてを手中にできる。行くべきところも限られているため、すべてがみずからの意志でコントロールできる。
鍵盤に広がる八十八個のキー。その有限性に対して、弾く人、つまりノヴェチェントの想像力は無限だ。そこから生み出される音楽もまた無限に広がる。
だが、広大な陸にあがったとたん、それが通じなくなる。全能ではなくなり、すべては自分の選択に責任がのしかかる。行く手は無限で、会う人も無限。起こるはずの出来事も予期不能の起伏に満ちている。

普通の人にはたやすいことも、船の上しか知らないノヴェチェントにとっては恐るべきこと。
それは、人生とは本来、恐ろしいもの、という私たちへの教訓となる。
オオカミに育てられた少女の話や、親の愛情に見放されたまま育児を放棄された人が、その後の社会に溶け込むための苦難の大きさ。それを思い起こさせる。
生まれてすぐに親の手によって育まれ、育てられること。長じると学校や世間の中で生きることを強いられる。それは、窮屈だし苦しい。だが、徐々に人は世の中の広がりに慣れてゆく。
世の中にはさまざまな物事が起きていて、おおぜいのそれぞれの個性を備えた人々が生きている事実。

陸にあがることをあきらめたノヴェチェントは、ヴァージニアン号で生きることを選ぶ。
だが、ヴァージニアン号にもやがて廃船となる日がやってきた。待つのは爆破され沈められる運命。
そこでノヴェチェントは、船とともに人生を沈める決断をする。

伝説となるほどのピアノの技量を備えていても、人生を生きることはいかに難しいものか。その悲しい事実が余韻を残す。
船を沈める爆弾の上で、最後の時を待つノヴェチェントの姿。それは、私たちにも死の本質に迫る何かを教えてくれる。

本来、死とは誰にとっても等しくやってくるイベントであるはず。
生まれてから死ぬまでの経路は人によって無限に違う。だが、人は生まれることによって人生の幕があがり、死をもって人生の幕を下ろす。それは誰にも同じく訪れる。

子供のころは大切に育てられたとしても、大人になったら難しい世の中を渡る芸当を強いられる。
そして死の時期に前後はあるにせよ、誰もが人生を降りなければならない。
それまでにどれほどの金を貯めようと、どれほどの名声を浴びようと、それは変わらない。

船上の限られた世界で、誰よりも世界を知り、誰よりも世界を旅したノヴェチェント。船の上で彼なりの濃密な人生を過ごしたのだろう。
その感じ方は人によってそれぞれだ。誰にもそれは否定できない。

おそらく、舞台上で本作を見ると、より違う印象を受けるはずだ。
そのセットが豪華であればあるほど。その演奏に魅了されればされるほど。
華やかな舞台の世界が、一転して人生の深い意味を深く考えさせられる空間へと変わる。
それが舞台のよさだろう。

‘2019/12/16-2019/12/16


珠玉


本書は著者にとって絶筆となった作品だ。すでに病に体を蝕まれていた著者。本書は大手術の後、病み上がりの時期に書かれたという。そして本書を脱稿してすぐ、再度の発作で亡くなったという。そんな時期に発表された本書には回想の趣が強い。著者の人生を彩った出来事や体験の数々が、エッセイにも似た不思議な文章のあちこちで顔を出す。

著者の人生をさまざまに彩った出来事や体験。私たちは著者が著した膨大なエッセイから著者の体験を想像し、追っかける。だが、私たちには、著者が経験した体験は文章を通してしか伝わらない。体験とは、本人の記憶にしか残らないからだ。私たちはただ、文章からイメージを膨らませ、著者の体験を推測することしかできない。

著者の体験で有名なものは、釣り師としての冒険だろう。また、ベトナム戦争の前線に飛び込み、死を紙一重で逃れた経験もよく知られている。壽屋の社員として酒と食への造詣を養い、それを数々のエッセイとして発表したことも著者の名を高めた。そうした著者が過ごしてきた多方面の経験が本書には断片的に挟まれる。エッセイなのか、小説なのか判然としない、著者自身が主人公と思われる本書の中で。

著者は作家として名を成した。名を成したばかりか、己の生きた証しをエッセイや小説に刻み、後世に残すことができた。

ところが、本書からはそうした積み上げた名声や実績への誇らしさは微塵もない。むしろ、諦念やむなしさを感じるのは私だけだろうか。それは著者がすでに重い病を患っていたから、という状況にもよるのかもしれない。

本書に満ちているのは、人生そのものへの巨大な悲しみだ。著者ほどの体験を成した方であっても、死を目前にすると悲しみと絶望にくれる。なぜなら未来が残されていないから。全ては過去に属する。現在、病んでいる自分の肉体でさえも。本書からは未来が感じられない。全編に過去を追憶するしかない悲しみが漂っている。

死ぬ瞬間に走馬灯が、という月並みな言葉がある。未来がわずかしか残されていない時、人の心はそうした動きを示す。実際、未来が閉ざされたことを悟ると、人は何をして過ごすのだろう。多分、未来に楽しみがない場合、過去の記憶から楽しみを見いだすのではないか。それがストレスをためないために人の心が本能的に振舞う作用のような気がする。

著者は作家としての名声を持っている。だから、過去の記憶から楽しみを拾い上げる作業が文章に著す作業として置き換えることができた。おそらくは依頼されていた執筆の責任を果たしながら。

輝いていた過去の記憶を原稿に書きつけながら、著者は何を思っていたのだろうか。それを聞き出すことはもはやかなわぬ願いだが、これから死ぬ私としては、そのことが知りたい。かつて茅ケ崎市にある開高健記念館を訪れ、著者が使っていたままの状態で残された書斎を見たことがある。そこでみた空っぽの空間と本書に漂う悲しみのトーンは似通っている。私が死んだ後、絶対的な空虚が続くのだろうか。誰も知らない死後の無に恐れを抱くしかない。

本書は三編から成っている。それらに共通するのは、宝石がモチーフとなっていることだ。言うまでもなく、宝石は未来に残り続ける。人は有限だが、宝石は永遠。著者が宝石をモチーフとしたのもわかる気がする。まさに本書のタイトル「珠玉」である。病の悲しみに沈み、過去の思い出にすがるしかないからこそ、そうした日々を思い出しながら原稿に刻んでゆく営みは著者に救いをもたらしたのではないか。著者は自らの過去の体験が何物にも代えがたい珠玉だったのだ、と深く感じたに違いない。三編に登場する宝石のように。

「掌のなかの海」は、主人公が訪れたバーで知り合った船医との交流を描いた一編だ。世界の海や港の話に花を咲かせる。そこでは著者が培った旅の知識が縦横に披露される。そこで主人公が船医から託されたのがアクアマリン。船乗りにふさわしく青く光るその貴石には”文房清玩”という一人で楽しむための対象として紹介される。息子を亡くしたという船医が感情もあらわに寂しいと泣く姿は、著者の不安の表れに思える。

「玩物喪志」は、主人公が良く訪れる渋谷の裏道にある中華料理店の店主との物語だ。世界の珍味をあれこれと肴にして、食の奥深さを語り合う二人。その店主から受け取ったのがガーネット。深い赤が長方形のシェイプに閉じ込められた貴石だ。主人公の追想は今までの人生で見つめて紅や緋色に関するイメージであふれかえる。サイゴンでみた処刑の血の色、ワインのブドウから絞られた透き通る紅、はるばる海外のまで出かけてみた川を埋めるキング・サーモンの群れの紅。

追憶に満ちたこの一編は、著者の人生のエッセンスが詰め込まれているといえよう。ここに登場する店主の友人が無類のギャンブラーであることも、著者の思想の一端の表れに違いない。

「一滴の光」は、主人公が鉱物の店で手に入れたムーンストーンの白さから始まる。本編では新聞社に勤める記者の阿佐緒とのエロティックな性愛が描かれる。温泉につかり、山々を散策し、温泉宿で抱き合う。ムーンストーンの白さとは、エロスの象徴。著者の人生を通り過ぎて行った女性がどれだけいたのかは知らない。著者は家庭的にはあまり円満でなかったという。だからこうした関係にわが身の癒やしを得ていたのかもしれない。

三編のどこにも家庭の団欒を思わせる記述はない。そんな著者だが、本編には著者が生涯でたどり着いた女性についての感想を思わせる文が記されている。
(・・・女だったのか)(192P)
(女だった・・・)(193P)

後者は本書の締めの一文でもある。この一文を書き記した時、著者の胸中にはどのような思いが沸き上がっていたのだろうか。この一文が著者の絶筆であるとするならば、なおさら気になる。

‘2018/09/20-2018/09/22


相手に「伝わる」話し方


私が年末と年初に行うことがある。それは一年の反省と抱負だ。数年前から実施を心がけている。2017年の年末は一年を振り返り、2018年の年初には抱負を立てた。

2017年、私が反省すべき最も大きな点は、人前で話す機会がほとんどなかったことだ。2016年はあちこちで話す機会があったのに、2017年はしゃべる機会が作れなかった。これは私にとって大いに反省すべき点だ。なので2018年の抱負には、人前で話す回数を2016年並みに増やす、という目標を加えた。本書はその抱負を踏まえ、話すスキルの参考とするために読んだ。

私は自分の話すスキルに劣等感を持っている。その劣等感の大部分は、活舌の悪さとしゃべっている時にたまに唾が飛ぶことからなっている。その原因も分かっている。矯正歯科医の妻から「オペ症例」と言われる私の受け口だ。それが私にとっての劣等感となり、人前で積極的にしゃべろうとする気持ちにブレーキをかけていた。

しかし、それではだめだ。独立した以上、露出を増やさねばならない。そして誰もが自分の意見をテキストで簡単に世に問える今、文章だけに頼るのでは露出効果が見込めない。本音をいうと、私はあまり自らを露出するのは好きではない。だが露出は独立と自由を得るための代償だと肚を決めている。書きつつしゃべり、人前に己をさらけ出す。そのスキルを磨かないことには私の今後はない。

だが、私には滑舌の悪さという欠点がある。その欠点をカバーできるだけのしゃべる技術。それは何だろう。そう考えた時、思い浮かんだのはアナウンサーの姿だ。彼らはしゃべることで糧を得ている。芸能人もそう。彼らもしゃべることで飯を食っている。だが、テレビで活躍する芸能人のような頭の回転の速さは私にはない。なので、アナウンサーのように話す技術で私の欠点を挽回したい。そう思ったのが本書を手に取った理由だ。

著者はアナウンサー出身でありながら、バラエティ番組でも立ち位置を確立した方だ。バラエティの手法も取り入れ、視聴者の興味を惹きつつ、報道の芯を保った番組作りをしている。その姿にはかねがね良い印象を持っていた。選挙特番のみならず、核実験や仮想通貨など、テレビが今、本当に放送すべき番組を企画し、自ら視聴者の前に立つ。そのような著者のことを今後も応援したいと思っている。

著者は1973年にNHKに入局した。そして、さまざまの部署や職務で仕事に取り組んできた。その経験は話し手として、報道者としての著者を鍛えてきたことだろう。著者は自らの職歴をさかのぼり、仕事の中で著者が学んできた話す技術を惜しみなく披露する。本書は私にとって参考となる気づきがたくさんあった。

参考になったのは、話し方の技術だけではない。職歴の語り方も同じく参考となった。私は2017年の夏から翌春にかけ、ウェブ上の連載で自らの職歴について語った。本音採用で連載しているアクアビット航海記「ある起業物語」がそれだ。本書を読み始めた時、連載はちょうど私が東京に出て仕事を始めたあたりに差し掛かっていた。連載はすでに進んでいたが、その後も私が職に就き、社会で経験を積んでいく様子を書いてゆかねばならない。転職を繰り返していく中で、それぞれの職から何を学んだのか。それを読者にどうやってうまく伝えるか。そのやり方は本書が参考となった。もちろん、それまでの連載でも職歴を伝える事は意識していた。だが、本書を読んだことで、まだ私のやり方に改善の余地はある、と思わされた。

著者がそれぞれの職場で学んだことは私にも参考となった。たとえば著者が研修を終えて最初に配属されたのは松江放送局。そこで著者は警察を担当する記者に任ぜられる。先輩から簡単な引継ぎを受けた後は、一人で取材して回らねばならない。先輩に「後任です」と紹介されたときは型どおりのあいさつを返されるが、先輩がいなくなった後、新米の記者に投げられる視線は冷たい。値踏みされ、信頼できる人間と見定められるまでは話しかけてもらえない。著者はその壁を乗り越えるのに苦労する。著者はその試練を乗り越えるにあたり、セールスマンのような動きをしなければ、と開眼する。商品を売り込む前に自分を売り込め、というわけだ。それは私が普段から励行する、FacebookなどのSNSに投稿する行いに通じている。Facebookへの投稿は、私という人間を知ってもらうためだと思っている。

とはいえ、私のワークスタイルは、著者が例えたようなセールスマンの営業手法に比べると若干の違いがある。私の場合、どちらかというと案件ありきで話をすることが多い。何かを無から売り込むのではなく、まずお客様にニーズがあり、それを受けて私が提案することが多い。だから本書で描かれるような、何度も繰り返し自分を売り込むことで仕事を円滑に回せるようになった、というケースは当てはまらないことも多い。案件ありきで私が呼ばれ、その後、一度か二度の訪問をへて受注が決まることがほとんどだ。ただ、私は一度案件を受注すると、その後も継続して案件をいただくことが多い。それは、仕事そのものもそうだが、私という人間を見てもらえたからではないかと思っている。そのためにはお客様との雑談が重要になる。そのためのネタを事前にSNSに発信しておき、自分がこういう事に関心があるとさりげなく発信する。それが雑談につながり、雑談が信頼を生み、それが仕事につながる。そうした意味で、雑談を大切にするという著者の学び取った極意にはとても共感できるのだ。

あと、共通体験の重要さに著者は触れている。これはわかる。お互いの共通体験を増やすことで、話のタネが増える。これも私がFacebookにいろいろと書き込む理由の一つだ。いわば私から共通体験のネタを提供する。それが商談の場で会話を生み、共通の場を作る。もちろん、それがどこまで効果を上げているのかは分からない。だが、何かしらの効果はあると信じている。

あと、話し上手は聞き上手という言葉も出てくる。これもよくわかる。本書を読む4年前に私が読んだ『最高の仕事と人生を引き出す 「聞き方」の極意』(レビュ-)でも学んだことだ。

著者はその後、広島放送局でも経験を積む。警視庁の担当として夜回りで事件のネタを探す過酷な日々だったようだ。その次に著者が苦労したこと。それは記者レポートを担当したことだ。テレビのニュース画面に登場し、現場の状況をレポートする。この経験は著者を表現者として次のステージに進めた。著者が記者レポートの仕事を通して学んだことの大切さ。まず始めに朗読なのかリポートなのかを意識すること。つまり、書かれた文章を読むだけなら誰にでもできるが、それは単なる朗読に過ぎない。そこでリポートを極めるため、著者はいくつかのメモだけを手元におき、即興で文章を組み立ててしゃべる訓練をしたという。もう一つ著者が説くことがある。それは書き言葉と違い、しゃべり言葉は後から読み返すことができないという真理だ。つまり、話す順序をきちんと考えなければ聞き手には話す内容が伝わらないという気づき。これはとても重要なことだ。この章で著者が訴えることは、私も普段あまり意識できていなかったことだ。ここで学んだことは、私は多分、音読の訓練から行うべき、という反省だ。私には黙読の習慣が身につきすぎてしまっている。黙読ではなく朗読。この習慣が身につけば、書き言葉の文体にも良い影響を与えるに違いない。

ここでは著者の失敗したエピソードが一つ披露される。それは、活舌の悪い著者が、タクシーの運転手に警視庁までと言ったつもりが錦糸町に連れていかれた、というもの。活舌に劣等感を持つ私には勇気づけられるエピソードだ。

あと、つかみの言葉をしっかり考えることの重要性も述べられている。そのために著者は、普段から目の前に広がる光景を即時に描写し、頭の中でしゃべる練習に励んだそうだ。その中で著者が掴んだ極意の中には、「手あかのついた言葉は何も語っていないのと同じ」や、「専門用語を安易に使うな」というのもある。両方ともに私にとっては耳の痛い警句だ。

続いて著者はテレビスタジオでキャスターとして働くようになった経験を語る。ここで得た経験はどちらかといえばテレビ業界で使われるテクニックに偏っている。しかし、フリップ(NHKではパターンと呼ぶらしい)の効用について触れるなど、著者の経験をテレビ寄りだからといって見逃してはならない。例えば私たちがプレゼンテーションを行う際、画面にアニメーションを付けたり、ホワイトボードを併用したりすることがある。まさにその手段にも通じるのがテレビの手法だ。テレビに代表されるようなビジュアルと音声の併用は、プレゼンテーションの上でも役に立つはずだ。動画の利用がは今後のテーマとして重要なので、テレビのみに通じる手法だと捨てておくのはもったいない。

続いて著者が触れるのは、週刊こどもニュースを担当した時の苦労だ。子どもに対しては、大人に対する手法は通用しない。まず、わかってもらうための言葉を吟味しなければならない。著者が本書で一番語りたいと力を入れたのはこの点だ。著者を単なる記者出身のキャスターから、一皮むけさせたのは、週刊こどもニュースでの体験が大きいと著者は言う。子どもに向けた分かりやすい表現を心掛けたことで、著者は表現者として他の人とは違う存在感を身に着けたのだろう。

分かりやすく。難しい内容だからこそ、余計に分かりやすく。このことは私が以前から改めなければ、と自分を戒めつつ、いまだにうまくできていない課題だ。簡単な言葉を使いながら、内容に深みをだす。これこそ私が以前から試行錯誤している部分なのだから。

本書は以下のような構成からなっている。
第1章 はじめはカメラの前で気が遠くなった
第2章 サツ回りで途方に暮れた
第3章 現場に出て考えた
第4章 テレビスタジオでも考えた
第5章 「わかりやすい説明」を考えた
第6章 「自分の言葉」を探した
第7章 「言葉にする」ことから始めよう

1章から5章までは著者の職歴と経験が語られ、6章と7章はまとめに相当する。どこを読んでも本書からは得るものが多い。私も本書を読んだことで、少しずつしゃべる技術に向上がみられた。だが、まだ著者のレベルには程遠い。引き続き精進したいと思う。

‘2018/01/10-2018/01/17


社畜のススメ


社畜のススメ。実に目を惹くタイトルである。著者と編集者の狙いが透けて見えるような。が、敢えてその挑発に乗り、本書を手に取った。

社畜。このように言われて鼻白む方は多いことだろう。私もその一人である。それどころか、社畜とは正反対の人生を歩まんと日々あがく者である。社畜的な生き方を嫌った挙句、30歳頭で個人事業主として独立し、以来8年半ほど生計を立てている。だからこそあえて、本書を手に取ったと言ってもよい。自分にとって対極にある思想ほど、自分の欠点を補ってくれるものはない。本書を読むことで、私の中で何が変わり、何が強化されるのか。そのような期待も込めて、本書を読み進めた。

会社の為に私を滅し、組織のために奉公する者。社畜という言葉には、そのような蔑みと憐みの意味が込められがちである。最近では自嘲的な意味でも、自己憐憫の揶揄言葉としても使われることが多い。いづれにせよ、社畜という語感から前向きな言葉を汲みとることは難しい。

だが、本書は敢えて「社畜のススメ」なる言葉をタイトルに選んだ。

新潮社からは、出版に当り、このような紹介文が附されている。

・・・多くの企業や職場を見てきた著者は、「社畜」でないサラリーマンこそ苦しんでいることに気づきます。若手のうちから個性や自由を求めたり、キャリアアップを夢見て転職難民になったり、安易な自己啓発書にすがったり……。

「ひとりよがりの狭い価値観を捨て、まっさらな頭で仕事と向き合う。自分を過剰評価せず、組織の一員としての自覚を持つ」
本書で提唱するのは、こうした姿勢をもつ「クレバーな社畜」です。
サラリーマンには「社畜経験」が不可欠である、本当に成長するための最も賢い”戦略”である――その理由を解説します。・・・

敢えてタイトルを逆説的にし、社畜ではない生き方をススメる。そのように穿った読み方をしたくなるほど、挑発的で無謀なタイトルである。

しかし本書で提唱される生き方は、社畜ではない生き方どころか、社畜そのものである。看板に偽りはない。ただし、社畜といっても、従順な羊のような、自我を失くした社畜をススメている訳ではない。本書でススメているのは、上の紹介文によると「クレバーな社畜」である。クレバーな社畜とは、一見すると組織に飼いならされているように見せかけ、その実、組織を利用する者、とでも言おうか。

ここに至り、早合点する方もいるかもしれない。ほら、やはりタイトルとは違い、本書は社畜ではない生き方を薦めているのではないかと。しかし残念なことにそうではない。本書で薦める生き方はあくまで社畜的なそれである。

だが、本書が俎上に上げる人種は、実は社畜ではない。料理されるのは、社畜と正反対の人種である。社畜的な生き方を拒み、自分探しに明け暮れ、組織に埋没しない自己を誇る者。つまり私のような者である。社畜という言葉に嫌悪を抱き、組織に背を向けて独立独歩の道を歩もうとする者。このような者たちを本書は糾弾し、蔑み、そして憐れむ。自分探しに拘った結果、結果としてキャリアを損ない、才能を空費させ、人生を虚しくする。社畜的でない者たちに対する本書の記述は実に手厳しい。逆に社畜的な生き方を選ぶものこそが自己を成長させ、人生を実りあるものにする、というのが、本書の主張といっても過言ではない。

上に挙げた新潮社による紹介文の冒頭にもそのような事が書かれている。社畜化する自分を恐れるあまり、会社という強大な力を持つ組織から学ぶ機会をみすみす逃し、じり貧の人生を歩む。そのような人々に対する批判とこれからの若者にそうならないため、クレバーな社畜の道をススメる。本書はそのような生き方を提唱し、分かりやすいタイトルとして社畜のススメをタイトルに掲げる。

冒頭にも挙げたように、私は8年半、個人事業主として生計を立てている。果たして私は、本書で批判される者たちなのだろうか。それとも隠れ社畜なのだろうか。または、批難圏外の人種なのだろうか。本書を読みながら、私は幾度も自問自答した。

そして結論を出した。社畜でこそないかもしれないが、社畜と同じ道を、同じだけの苦労を辿ってきたからこそ、今の自分があるのだと。

本書は、圧倒的なビジネスセンスの持ち主に対し、社畜的な生き方をススメない。むしろそういう人にはどんどんわが道を進めと背を押す。しかし大多数の人々はそのような類まれな才能を持っているわけではない。ではどうするべきなのか。それは、地道に下積みを重ねる他はない、と著者はいう。ビジネススキル、生き様、そして人生。組織と組織に生きる社畜仲間から歯を食いしばって学ぶ物は多い。理不尽さに耐え、組織の論理に揉まれる。それによってしか、あなたにとって成功の目はない。たとえそれが社畜と揶揄されようとも。それが著者の訴えたいことだと思う。

わが身を顧みるに、20代、30代、社畜的な生き方から身を背けてきたつもりだった。が、その分、随分と失敗を重ねている。そしてそのような失敗の中から、自分で学んだ事、その時々でご縁のあった同僚や先輩、後輩から教えられた事のいかに多かったか。本書ではサービス残業を推奨する箇所がある。世論と逆行した主張である。しかし我が身を振り返ると、個人事業主にとってはそもそも残業という観念がない。何があろうと納期に間に合わせるのが当然であり、場合によっては徹夜も辞さない。個人事業主だからといってなんのことはない。やはり下積みなのである。そして社畜的なのである。ただそれが組織に対する滅私奉公という形を取らず、お客様に対する想いと自分の矜持に掛かるかの違いである。俺流と独学を気取ってあがいた分、遠回りしてしまったのが私のキャリアだったのだということに、本書を読んで思い至らされた。

このことを認めるのは、実につらい。つらいし、情けない。でも、これが現実。生まれながらのビジネスセンスを持たざる者の、現状である。しかし、それが無駄だったかというと、そうではない。遠回りしたが、社畜として組織の中で頑張ってきた人に比べ、何ら引けを取ることはないと考えている。それは、組織の中で身を擦り減らす人々と同じくサービス残業をし、お客様の要望に応え、満員電車に揺られて常駐先に通いつめ、という努力をし続けてきたからと考えている。

私は本書を読みながら考えた。そして考えが上に挙げた結論に至るにつれ、自らの来し方を振り返った。その結果、本書で著者が言いたかったことが会得できたのではないかと思っている。

本書は、社畜のススメと書いてあるが、40、50代のビジネスマンに対し、社畜的なキャリアを歩めとは言わない。むしろ社畜として培ってきた経験を活かしてステップアップしろと述べている。それが管理職なのか、閑職なのか、それとも独立なのか。それは個人個人の選択の問題であろう。

ただ、最後に言っておかねばならないことがある。それは、本書はあくまで著者から読者へのメッセージであり、その受け取り方もまた、個人個人の選択の問題であるということ。本書が主張する論点の適用範囲は会社組織や地域社会、家庭にはない。本書が伝えたいメッセージは、読者の内面の充実を図るためのものであり、社会や組織に適用するものではない。著者の発するメッセージを咀嚼せず、外部に働きかけるとどうなるか。新聞の社会面に目を通すと、その悪例に事欠かない。経営者が社畜を是とし、社員を疎かにした経営を行うとどうなるか。社畜を肯んじて、家庭を顧みず仕事に溺れるとどうなるか。ブラック企業、過労死、熟年離婚、児童虐待、パワハラ。禍々しい言葉が次々湧き出す。要は本書を読んで会得したことは、自己内で完結させ、成長の糧とすればよいのである。それを怠り、鵜呑みにして吐き出すと、出てくるのは害毒だけである。

私は幸か不幸か、自分のワークライフスタイルに合わせ、個人事業主として曲がりなりにも生計をたて続けられている。本書で得たのは、これまでの自分の苦労が無駄ではなかったという肯定の思い。そして次代の人々の為に伝えるための材料である。今後は、本書の内容を踏み台にし、自分に期待しつつ独立への道を推し進めていきたい。また、機会があれば若い人々に生きるという事の妙味と重みを伝えられたらと願っている。

’14/06/16-‘14/06/17