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日本辺境論


日本を論じるのがもっとも好きな民族は日本人。良く聞くフレーズだ。本書にも似た文が引用されている。

はじめに、で著者は潔く宣言する。本書もまた、巷にあふれる日本論の一つに過ぎないことを。そして、本書の論考の多くは梅棹忠雄氏や養老孟司氏ら先人の成果に負っていることを。著者の姿勢は率直だ。本書を先賢によって書かれた日本論の「抜き書き帳」みたいなもの、とすらいうのだから。(P23)

だからといって、本書を先人たちの成果の絞りかすと軽んじるのは愚かなこと。絞りかすどころか、含蓄に富んでいる。もし本書が絞りかすだとすれば、誰が本書を出版するものか。著者一流の謙遜だと思う。その証拠に著者は先ほどの宣言に続けてこう書いている。本書の「唯一の創見は、それら先人の貴重な知見をアーカイブに保管し、繰り返し言及し、確認するという努力を私たち日本人が集団的に怠ってきているという事実に注目している点です」と(P23)。

著者の謙遜にもかかわらず、本書の内容は新鮮だ。確かに結論こそ先賢の業績に沿ったものかもしれない。しかし、著者が論拠とするエピソードは現代の風俗を含んでいる。つまり本書は、現代の視点で見直した日本論なのだ。もっとも今風とはいえ、著者が本書で展開する論考にはインターネットからの視点が抜けているのは事実だ。しかし、本書での著者の結論から逆をたどれば、ネット社会が盛んな今もなお辺境にある日本という見方もできるのだ。

日本のどこが辺境なのか。「I 日本人は辺境人である」で著者は検証を試みる。日本の辺境性を明らかにするため、著者が取り上げた例は多岐に渡る。余りにも範囲が広すぎるため、ここで一々挙げることすらためらわせるくらいに。ほんの一例を紹介してみる。オバマ大統領の就任演説。太平洋戦争における海軍将校や大臣達の言葉。ヒトラーの戦争観。中華思想と小野妹子の親書。征韓論と日清日露戦争時の日本外交。

そこから導き出す著者の論点を要約すると、日本人のメンタリティは、他国との比較によって築き上げられてきたとの結論に落ち着く。「はじめに」で著者が告白したとおり、他国との比較という先人が出した日本への論考は枚挙に暇がない。丸山眞男、川島武宜、梅棹忠雄といった碩学諸氏。これら諸氏が主張したことは、今まで日本人が世界の主人公として主体的に振る舞ってきたことは一度もないということ。日本が主体となるのではなく、他国との比較において日本の在り方を突き詰めたところに、日本人の心性や文化はあるということ。それは良いことでも悪いことでもない。それが日本なのだ、という現状認識がある。それが著者の出した結論であり、よって立つ視座である。以下に本書の中でそのことが端的に述べられている箇所を抜き出してみる。

私たちの国は理念に基づいて作られたものではない。(P32)

私たちは歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何かということについてほとんど何も語りません。代わりに何を語るかというと、他国との比較を語る(P34)。

國體を国際法上の言葉で定義することができなかったという事態そのものが日本という国家の本質的ありようをみごとに定義している(54P)。

特に最後の引用が含まれる52ページから56ページの部分は、太平洋戦争の総括がなぜ今も出来ないか、との問いへの回答になっている。東京裁判において、戦争の共同謀義の罪状にあたる証拠が見つけられず、その罪状で求刑出来なかったことはよく知られている。そこから、昭和初期の日本が國體や戦争の行く末を考えずに戦争に突き進んでいった理由について、本書の論考はヒントになるだろう。

最近はとくに、日本と他国を比べ優劣を語る議論がまた勢力を盛り返している。ネット論壇ではとくに。しかし、そのような比較論は、すでに先人達が散々論じ尽くしている。もはやそれを超える画期的な視点の日本論は出てきそうにない。著者もそれは先刻承知しているのだろう。だからこそ本書は先賢らが提示した論をなぞるだけ、と「はじめに」で述べているのだ。その前提として著者が「I 日本人は辺境人である」で主張するのは、こうなったらとことん「辺境」を極めようではないか、ということである。ここまで「辺境」を保ちつつ国を続かせてきた国は他にない。我が国が普通の国でないのなら、その立場を貫こうではないか、というわけだ。それが本書の、そして著者のスタンスである。

続く「II 辺境人の「学び」は効率がいい」で著者は辺境人として生きる利点を語る。そもそも日本には起源から今にいたる自国の思想の経歴が語れない、という特徴がある。自らの思想の成り立ちが語れないということは、論考に幅や余裕がなくなること。それは、自説について断定的な姿勢をとることであり、譲るゆとりを忘れることでもある。そういった病理を炙り出すため、本書で著者が取り上げたのは国歌国旗にまつわるナショナリズムだ。戦後の日本を縛り付けてきた左右両翼の争い。その論争の行く末は、いまだに見えない。それもここで挙げた論理を当てはめることで理由がつきそうだ。左右の思想ともに自らの思想が経てきた歴史や深みを語れない。それは借り物の思想だから、というのが著者の意見だ。

ここで私が思ったのは、左右の論争に決着がつけられないのは、自らの経緯が語れないということよりも、絶対的な宗教、決定的な思想が日本にないことが理由では、と思った。それは、目新しい考えでもなんでもない。ごく自然に出てきた私の疑問だ。

著者は、左右の思想になぜ論争の終わりが来ないのかについての理由を解き明かしにかかる。それは私の思ったことにも関係する。師弟という関係の本質。日本では芸事を極めることを「道」に例える。武道、茶道、書道など。道とは続くもので、終わりのないものの象徴だ。

著者はここで師弟関係の意味を極言する。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であったとする。でもその人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する(149P)。と。

著者がここで落語のこんにゃく問答を例に出すのは秀逸だと思う。しかし、著者がいうのは曖昧で形のない形而上の対象ではないだろうか。それらについては当てはまるかもしれないが、具体的な対象については「道」や「師弟関係」とは少し違うのではないか。目の前に見える近視眼的な対象に対する日本人の集中力は秀でている。それに異論のある方は少ないはずだ。著者にいわせれば、目の前に見えている対象は、学びの対象になりえないのだろうか。ここが少し疑問として残った。

そういった私の疑問に対し、著者は続く「III 「機」の思想」で”機”の概念を持ち出す。”機”とはなにか。それを説明するために著者は親鸞を担ぎ出す。親鸞もまた、道の終着点を見出すことの無意味さを知り、道という概念とは求め続けることに意味あり、ということを知る人ではなかったか。親鸞の有名な”悪人正機説”。この中には”機”の字が含まれている。

著者は親鸞を辺境固有の仮説を検証しようとした宗教家ととらえているようだ。「霊的に劣位にあり、霊的に遅れているものには、信の主体性を打ち立てるための特権的な回路が開かれている」(166P)、という文にもそれが見られる。

修行の目的地という概念を否定した親鸞。それは、辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない(169P)、と著者は受け取る。

著者はここで”機”を説明するため、柳生宗矩を評するため沢庵和尚が使った「石火之機」という言葉を持ち込む。意思に基づいた動作ではなく、瞬間の動作。主体の意思さえない、本能の動作。反応以前の反応。それが「石火之機」だ。主体なく生きることは、すなわち辺境に生きることに等しい。そう著者は言いたいのだろう。ところがここまで書いておきながら、「悪人正機」の中の”機”について著者は特に触れないのだ。ここまで論を進めたのだから、あとは分かるでしょ?ということなのだろうか。であれば、あとはこちらで結論を導くしかない。それはつまり、存在論的に悪人であらねばならない我々が正しい”機”に導かれるには主体を捨てねばならない。”機”とはそういう”機”ではないか。

左右両翼の論争がなぜいつまでも終わらないのか、との著者の意見を噛み砕いているとここまで来てしまった。ここで改めて著者の言いたいことを私なりに解釈してみたいと思う。

主体がなく反応以前に反応する”機”。それは外来の事物について反応する前に有用性を見極め受け入れることである。日本人が辺境人としてあり続けたのは、”機”に導かれ道をしるため、主体を捨てて無私の境地で無条件に外来からの理論を信じてきたから。無条件に無私の境地の中で、その思想の由来や経緯を意識することなく外来思想を取り入れ続けてきたから。

多分、著者の結論を正しいとすれば、日本で思想の争いに決着を求めるのは無理だ。そして日本の思想に論理的整合性を求めるのは無駄なことだ。そこには私が考えたような絶対的思想の不在だけでない、別の理由がある。だが、それを承知で、著者は辺境人として生きてみようと呼びかけるのだ。その曖昧さをも受け入れた上で。

「IV 辺境人は日本語と共に」で著者は日本語を爼上にあげる。日本語は、表意文字と表音文字が混在しているのが特徴だ。そこには、仮名に対する真名という対比の関係がある。話し言葉を仮の名と呼び、外来の文字を真の名と呼ぶ。この心性がすでに辺境的なのだと著者はいう。外来の言葉を真の名と尊び、土着の言葉を借りの名という。つまり外来を重んじ、土着を軽んじる。この着眼点は凄いと思った。そしてそのことが日本を発展に導き、我々の文化に世界史上でも有数の重みを与えた。我々はそのことを素直に受け入れ、喜んでもいいのではないか。

年明け早々にヒントに富んだ書を読め、満足だ。

‘2015/01/15-2015/01/19


官能の夢―ドン・リゴベルトの手帖


本書は著者の「継母礼賛」の続編にあたる。不覚にも私がそのことを知ったのは本編を読み終えてから。訳者によるあと書き解説で知ることになった。本編でも読者承前を踏まえたような書き方がしてあり、私はそれを著者一流の自在に読者を迷わせる迷宮的な手法と早合点しながら読み終えていた。読み終えてから本書に前編があった事を知り、肩透かしを食らった思いだ。

著者の作品は見かける度に図書館で借りて読んでいる。とはいえ、図書館で巡り会えなければ古本屋での出逢いを待つしかない。大手書店のラテンアメリカ文学コーナーにはよく立ち寄るのだが、価格が高くなかなか手が出ない。そんな訳で、「継母礼賛」を未読のまま、先に本書を読み終えてしまった次第だ。

とはいえ、「継母礼賛」を読まずに本書を読んだからといって、本書を楽しめなかったわけではない。先に、読者承前を前提とした本編の記述を著者一流の手法と早合点したと書いた。私の場合は、本書の前段を知らぬままに本書を読んだことで、スリルと想像が増す効果があった。

本来、読み手にとって無限の解釈を許すのが優れた文学作品ともいえる。その伝で言えば、前段がなくても本編だけで読者に解釈を許す本書はまさに手本とも云える。仮に「継母礼賛」を読んだ後に本書を読んだとすれば、また別の感想を抱いたかも知れないが。

本書には、ドン・リゴベルトの手帖というサブタイトルがついている。リゴベルトとは、ルクレシアの夫である。前作「継母礼賛」で義理の息子である美少年フォンチートと過ちをおかしたのがルクレシアだ。本書では、前作の結末で引き離された(と思われる)ルクレシアとフォンチートとリゴベルトが、愛と官能を通じて再び交わる。

義理の母と犯した罪の意識をどこかに置いてきたようなフォンチートが、突然ルクレシアの元を訪れることから本書は始まる。天使と悪魔の両方の資質を備えたフォンチートの天真爛漫な振る舞いに、ルクレシアは翻弄される。しかしながらも、夫リゴベルトへの貞淑を貫く。この辺りは前作での駆け引きがどうだったか分からないのだが、想像するに駆け引きの結果過ちを犯したルクレシアが、一点して貞淑な自らを貫くといった対比が想像できる。是非前作を読んでみたいと思う。

本書の合間に挿入されるリゴベルトの妄想では、美しき妻ルクレシアは、様々な性の冒険を楽しむ。そのあたり、虚実がない交ぜとなった描写は著者の真骨頂といえる。前作において妻に裏切られた形となったリゴベルトは、倒錯的な感情に身を任せるまま、妻を背徳の極みに置き、それでいてなお美しい妻を崇拝し、手帖の中で性の冒険を続けさせる。

果たして、妻と夫、義理の息子は再び分かり会えるのだろうか。読者の興味は尽きない。そして読者は興味の赴くままに本書のめくるめく官能の世界の味わうことになる。加えて前作を読んでいない私にとっては、ルクレシアとフォンチートがどのような過ちを犯し、何故三人が離れ離れになったのかという興味が尽きず、著者のマジックに浸り続けたまま本書を読了出来た。

本書には様々な性の冒険が描かれている。しかし、決して下世話なポルノ紛いの内容ではない。むしろ、女性の神秘を解き明かすためには性は不可欠と考える著者の思想すら感じられる。

本書の随所には、ドン・リゴベルトの妄想だけでなく、衒学的な芸術論が挿入されている。例えばある箇所ではスポーツ礼賛の風潮を攻撃し、争いの結果に一喜一憂することの愚かさに苦言を呈する。別の場所では、ポルノ的なあらゆるものを人間の官能の可能性を貶める害あるものとして熾烈に攻撃する。

著者は本書で、官能とは肉体の運動や姿勢でなく、精神のあり方であることを語っている。例えドン・リゴベルトが妄想の中で妻を乱交やレズや不貞やフェティシズムやスワッピングに耽らせようとも、実際のルクレシアは、一時の過ちを悔いる貞淑な妻であり続ける。

仮にルクレシアがその様な不倫行為に身を堕としたら、本書はドン・リゴベルトの唾棄するポルノに堕ちてしまう。官能の神秘とはあくまでも精神世界の中で高められなければならない。それが著者の主張だ。本書においてはドン・リゴベルトの手帖の中での独白として、他の衒学的な芸術と同一のものとして官能が置かれる。つまり、官能の神秘を欲望に塗れさせてはならない、という著者の思想が垣間見えるのが本書だ。そういった著者の思想に依った形でのルクレシアとリゴベルトの間を通る官能と貞淑の綱引きが本書を文学作品としての高みに押し上げている。

本書のカバーにはエゴン・シーレの絵画が配されている。フォンチートが性的に魅せられているのは、エゴン・シーレの生き方そのものである。本書に登場するフォンチートは、その二面性をもってルクレシアを誘惑する。性的な締め付けが今とは格段に厳しいハプスブルグ王朝支配下のウィーン。その地その時代にあってなお、放埓な性と放縱な人生をしか生きられなかったエゴン・シーレの人生にルクレシアは官能の精神性を見る。そしてエゴン・シーレの化身ともいえるフォンチートに対するに貞淑という鎧をまとい、俗な過ちに溺れず精神的な官能の高みに居続けるルクレシア。官能というものを俗に落とさず精神的な高みに持ちあげ続ける緊張関係こそが、著者にとって重要であることは、ここでも明らかになっている。一時は過ちをおかしたとはいえ、ルクレシアはフォンチートが天性に持つ女たらしの魅力に耐え、再び夫ドン・リゴベルトとの愛に戻る。

その再会のシーンで、ドン・リゴベルトがみっともなく頼りない一面を晒す。しかし、本書に込めた著者の主張から推し量るに、官能を現し導く主体は男性ではなく、女性であるはず。ポルノ的=男性視点の快楽が貶められる本書では、ドン・リゴベルトの抱く妄想は妄想で終わらねばならない。それ故にドン・リゴベルトはヒーローであってはならない。ドン・リゴベルトの演じる醜態を、著者はそのような暗喩を込めて描いたのだと思う。そこに女性に媚びるフェミニズムを見るのはおそらく正しくない。フェミニズムとは男性視点の裏返しに過ぎない。真の官能とは、表層の観念的なところにあるのではなく、もっと根元的な精神の奥深くに横たわっている。著者が本書の中で主張したい思想を、私はそう受け取った。

もっとも、この感想は「継母礼賛」を読むと変わるかも知れない。「継母礼賛」という題からは、私が上に書いたような著者の意図が伺える。とはいえ、そこにはもう一段深い仕掛けが隠されているかもしれない。「継母礼賛」を読んでみないことには、私の本書から読み取った考えもまた、著者の仕掛けた周到な罠に陥り、穿った妄想でしかない可能性もある。

かつての私は、図書館にない本はすぐに取り寄せ依頼をしていた。今はなき西宮中央図書館で。私の考えが思い違いでないことを確かめるためにも、あの頃のように取り寄せをお願いし、なるべく早く読んでみようと思う。「継母礼賛」を。

‘2015/5/22-2015/5/30