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日本でいちばん大切にしたい会社3


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月末に経営の理想を思い出すため、本書に目を通すようにしている。
本書はシリーズの三冊目にあたる。読むたびに感動を受ける。刺激も受けるし、新鮮さを感じさせてくれる。

本書は、全部で七つの会社が取り上げられている。

一つ目は、徳武産業株式会社。香川県さぬき市の会社だ。もともとは手袋のメーカーだった。だが、靴の方が年間を通しての売り上げが見込めるため、業態を転換したそうだ。

この会社がユニークなのは、お年寄り向けに靴を特化したことにある。お年寄りだからあまり出歩かない。そのような固定観念は捨てなければならない。
お年寄りであってもおしゃれはしたい。むしろ、外に出たい。それなのに履く靴がないため、病院や家に閉じこもってしまうのが課題だそうだ。

靴は左右で一足。そんな固定観念さえも一蹴するのが徳武産業だ。
お年寄り向けの靴を販売するにあたり、左右のサイズを別々に作成するどころか、左右の靴をそれぞれ単品で販売する施策まで打っているという。そうした靴業界の常識を打ち破るサービスも、あくまでもお年寄りの希望に寄り添うため。その姿勢はお年寄りに対してだけではない。障害者に対しても同じだ。まったくすごいと言うしかない。

ついては、中央タクシー株式会社。長野県長野市にある会社だ。もともと、タクシー会社を継いで経営に奮闘していた社長が、あらためて自らの理想とするタクシー会社を目指して設立したそうだ。

残念なことに、タクシー業界には少し身を持ち崩しかけたようなドライバーもいたという。そのイメージはまだまだ世の中に根強い。タクシー業界にとっては、イメージの改善が喫緊の課題だと思う。中央タクシーも初めの頃は経験者を多く抱えていたため、その中にはガラの悪いドライバーもいたと言う。それを未経験者の募集から始め、既存のドライバーに煙たがられながらも社員教育を続けてきたことで、十年たった今ではドライバーは未経験者がほとんどを占めたと言う。

そうした社員教育の成果が実り、中央タクシーと言えば長野県内では同業者からも手本とされるまでになったそうだ。

タクシー業界は上にも書いた通り、まだ古い体質が幅を利かせている業界だ。そのため、会社を改革するため、タクシー業界の組合の存在がかなり足かせになったらしい。そこで中央タクシーは組合から脱退した。さらに長野オリンピックによって県内の景気が上向く中、オリンピックによる景気よりも地元のお客様を優先する姿勢を示した。それによってさらに地元の尊敬を勝ち得たそうだ。

その次に行った施策は、長野から成田や羽田へ向かう便を空港便として発足させたことだ。すべてはお客様のニーズのため。その施策が支持された。利益は後からついてくると顧客を第一に考える姿勢は本書にふさわしい。

三社目は、株式会社日本レーザー。東京都新宿区にある会社だ。もともとはとあるメーカーの子会社だった。だが、経営者と従業員による自社買収の結果、完全に独立した。
子会社の立場は親会社に縛られる。資産的にも資金的にも従属した立場だ。自らの会社の理想を追うためには、子会社の立場に甘んじず、独立独歩がふさわしい。

独立時の社長は、親会社からの出向社員だった。にもかかわらず、就任後、子会社側に骨を埋めると宣言した。それで社員の心をつかみ、さらにそこから努力を重ねた結果、完全に独立を成し遂げたと言う。

会社の最大の目的とは雇用すること。この会社の姿勢は、まさに見習うべきものだろう。
鶏口となるも牛後となるなかれ。それは私のモットーだ。それを実現するため、親会社や巨大会社の傘下に甘んじず、自立を目指すべきだろう。

四つ目はラグーナ出版。鹿児島県鹿児島市の会社だ。
精神障がい者のため、福祉と企業の間を隔てる壁を壊すことを目指し、メンタルヘルスに関する文芸誌や書籍の発刊を行っているという。

心の病はとても厄介だ。私もかつて鬱になったことがあるからよくわかる。重篤な症状で苦しむ人は、自分ではどうしようもない心の動きに苦しめられているのだろう。

そうした人々にとって、生きる意味とは何だろう。そこにもちろん答えはない。だが、心の病に苦しむ人々がやりがいや働きがいを見つけられれば、心の苦しみから少しでも遠ざかった暮らしが送れる。そのため、働く場所が必要なのであれば作るべきだ。このラグーナ出版もそうした会社だ。

五社目は、株式会社大谷。新潟県新潟市の会社。印章つまり印鑑だ。印鑑業界は今、厳しい状況に置かれている。リモートワークやペーパーレスの風潮が盛んだからだ。私も電子契約を率先して行っている。

だが、それがこうした会社の仕事を奪っていると考えると、後ろめたい思いに駆られる。障害者雇用をかなり率先して行っているこちらの会社に対して何かできる事はないだろうか。
そこで私も株式会社大谷のホームページを見に行ってしまった。すると本稿をアップする前日には、ウイスキー製造に乗り出すという記事を見かけた。ぜひ応援したいと思う。

六社目は島根電工株式会社。島根県松江市の会社だ。地域の設備工事の会社だが、従来型のゼネコンや官公庁の仕事から脱却することに成功した。「お助け隊」と言う制度を作り、細かい設備工事を請け負うことで成長してきた。大口受注からの脱却。それはどの会社でも苦労することだろう。私も弊社を立ち上げるにあたり、最初から大口顧客に頼らないと決めてやってきた。さまざまな施策を打つ中、やらねばならないのはきめ細かいサービスと営業だ。それを感じた。

七つ目は、株式会社清月記。葬祭業を営んでいる。
東日本大震災でもかなりの数のご遺体を納棺したという。それらすべてをやり遂げたその責任感。
こちらの会社も顧客第一のサービスを貫き、地道に業績を伸ばしてきた。

本書には著者が常々訴える、顧客第一よりも従業員第一の事例はそこまで出てこない。だが、著者は一貫してこう言っている。従業員が会社に愛着を持っていないのに、顧客に対して十分なサービスができるわけがない、と。

本書に登場する会社も顧客第一のサービスが支持を受けて業績を伸ばしている。顧客を優先したサービスが提供できることは、同時に会社が従業員第一の経営を続けている証しなのだろう。本書には何よりも雇用を優先するという言葉も紹介されている。

私もそれを踏まえた経営がしたいと思う。

‘2020/08/30-2020/08/31


アメリカの高校生が学んでいるお金の教科書


経済学の本をもう一度読み直さなければ、と集中的に読んだ何冊かの本。本書はそのうちの一冊だ。
新刊本でまとめて購入した。

前から書いている通り、私には経済的なセンスがあまりない。これは経営者としてかなりハンディキャップになっている。

私だけでなく妻も同じ。お金持ちになるチャンスは何度もあったが、そのために浪費に走ってしまった。だからこそ長年私も常駐作業から抜け出せなかった。その影響は今もなお尾を引いている。

私は若い考えのまま、お金に使われない人生を目指そうとした。金儲けに走ることを罪悪のようにも考えていた時期もある。
二十代前半は、金儲けに走ることを罪悪のように考えていた。

妻は妻で、生まれが裕福だった。そのために、浪費の癖が抜けるのに時間がかかった。
幸いなことに夫婦ともまとまったお金を稼ぐだけの能力があった。そのため、家計は破綻せずに済んだ。だが、実際に破綻しかけた危機を何度も経験した。

私たち夫婦のようなケースはあまりないだろう。だが、私たちに限らず、わが国の終身雇用を前提とした働き方は、お金について考える必要を人々に与えなかった。
一つの企業で新卒から定年まで勤めあげるキャリアの中で、組織が求める仕事をこなしていけばよかった。お金や老後のことも含めた金の知識は蓄える必要がなかった。それらは企業や国が年金や保険といった社会保障で用意していたからだ。

私もその社会の中で育ってきた。そのため、金についての教育は受けてこなかった。風潮の申し子だったといってもよい。
だが、私はそうした生き方から脱落し、自分なりの生き方を追求することにした。ところが、お金の知識もなしに独立したツケが回り、会社を立ち上げ法人化した後に苦労している。もっと早く本書のような知識に触れておけば。

世間はようやく終身雇用の限界を知り、それに紐付いた考えも少しずつ改まりつつある。
私も自分の経験を子どもやメンバーに教えてやらねばならない。また、そうした年齢に達している。

本書は、アメリカの高校生が学ぶお金についての本だ。
アメリカは今もまだ世界でトップクラスの裕福な国だ。経済観念も発達している。貧富の差が激しいとはいえ、トップクラスのビジネスマンともなると、わが国とは比べ物にならないほどの金を稼ぐことが可能だ。

それには、社会の仕組みを知り尽くすことだ。金が社会を巡り、人々の生活を成り立たせる。
人が日々の糧を得て、衣服に身を包み、家に住まう。結婚して子を育て、老後に安閑とした日々を送る。
そのために人類は貨幣を介して価値を交換させる体系を育ててきた。会社や税金を発明し、労働と経済を生活の豊かさに転換させる制度を育ててきた。
金の動きを理解すること。どのようなルートで金が流れるのか。どのような法則で流れの速度が変わり、どの部分に滞るのか。それを理解すれば、自らを金の動きの流れに沿って動かさせる。そして、自らの財布や口座に金を集めることができる。

その制度は人が作ったものだ。人智を超えた仕組みではない。根本の原理を理解することは難しい。だが、人間が作った仕組みの概要は理解できるはずだ。
本書で学べることとはそれだ。

第1章 お金の計画の基本
第2章 お金とキャリア設計の基本
第3章 就職、転職、起業の基本
第4章 貯金と銀行の基本
第5章 予算と支出の基本
第6章 信用と借金の基本
第7章 破産の基本
第8章 投資の基本
第9章 金融詐欺の基本
第10章 保険の基本
第11章 税金の基本
第12章 社会福祉の基本
第13章 法律と契約の基本
第14章 老後資産の基本

各章はラインマーカーで重要な点が強調されている。
それらを読み込んでいくだけでも理解できる。さらに、末尾には付録として絶対に覚えておきたいお金のヒントと、人生における三つのイベント(最初の仕事、大学生活、新社会人)にあたって把握すべきヒントが載っている。
それらを読むだけでも本書は読んだ甲斐がある。私も若い時期に本書を読んでおけばよかったと思う。

376-378ページに載っている「絶対に覚えておきたいお金のヒント10」だけは全文を載せておく。

絶対に覚えておきたいお金のヒント10
この本ではお金についていろいろなことを学んだが、いちばん大切なのは次の10項目だ。

1、シンプルに
お金の管理はシンプルがいちばんだ。複雑にすると管理するのが面倒になり、自分でも理解できなくなってしまう。

2、質素に暮らす
お金は無限にあるわけではなく、そして将来何が起こるかは誰にもわからない。つねに倹約を心がけていれば、いざというときもあわてることはない。

3、借金をしない
個人にとっても家計にとっても、代表的なお金の問題は借金だ。借金は大きな心の負担になり、人生が破壊されてしまうこともある。ときには借金で助かることもあるが、必要最小限に抑えること。

4、ひたすら貯金
いくら稼いでいるかに関係なく、稼いだ額よりも少なく使うのが鉄則だ。早いうちから貯金を始めれば、後になって複利効果の恩恵を存分に受けることができる。

5、うまい話は疑う
儲け話を持ちかけられたけれど、中身がよく理解できない場合は、その場で断って絶対にふり返らない。うまい話には必ず裏がある。

6、投資の多様化
多様な資産に分散投資をしていれば、何かで損失が出ても他のもので埋め合わせができる。これがローリスクで確実なリターンが期待できる投資法だ。

7、すべてのものには税金がかかる
お金が入ってくるときも税金がかかり、お金を使うときも税金がかかる。商売や投資の儲けを計算するときは、税金を引いた額で考えること。

8、長期で考える
今の若い人たちは、おそらくかなり長生きすることになるだろう。人生100年時代に備え、長い目で見たお金の計画を立てなければならない。

9、自分を知る
お金との付き合い方には、個人の性格や生き方が表れる。将来の夢や、自分のリスク許容度を知り、それに合わせてお金の計画を立てよう。万人に適した方法は存在しない。

10、お金のことを真剣に考える
お金は大切だ。お金の基本をきちんと学び、大きなお金の決断をするときは入念に下調べをすること。お金に詳しい人から話を聞くことも役に立つ。

‘2020/05/01-2020/05/11


保科正之 民を救った天下の副将軍


本書を読んだのは二泊三日で参加した福島県お試しテレワーク体験ツアーの帰り、東北新幹線の車内だ。

その際、私たちが宿泊していたのは猪苗代町。ゲストハウス道の旅籠「椿」さんで二泊お世話になった。
https://hatago-tsubaki.net

この旅については別のブログにもアップしたので、そちらを見ていただければと思う。
福島県お試しテレワーク 1日目 2020/1/16
福島県お試しテレワーク 2日目 2020/1/17
福島県お試しテレワーク 3日目 2020/1/18

この椿さんのすぐ近くにあるのが土津神社だ。

宿のすぐ近くにあるにもかかわらず、今回の旅では土津神社を訪れる時間が捻出できなかった。猪苗代城や稲川酒造、近隣の夜の街を訪れられたのだが。
ツアーである以上、団体行動は優先である。仕方のないことだ。まあ、夜に日本酒を飲みまくっていて、早朝に起きられなかった私が悪いのだが。

保科正之公は会津松平藩の藩祖として名高い。当然、墓所も会津若松城にほど近い場所、つまり会津若松市内にあるものとばかり思っていた。
ところが、今回の旅にあたって事前に調べたところ、保科正之公の墓所は土津神社にあり、御祭神でもあることがわかった。
つまり、保科正之公を語るには猪苗代町は不可欠な場所なのだ。

以前、著者が保科正之公をとり上げた本「慈悲の名君 保科正之」を読んだ。
その中には当然、土津神社のことも紹介されていたはず。だが、調べるまでそのことが記憶から抜け落ちていた。反省している。

もうひとつ、今回の旅で保科正行公について考える契機となったことがある。それは最終日にツアー参加者の皆さんと別れ、会津若松の飯盛山に登ったことだ。
飯盛山。そこは幕末の会津戦争で白虎隊の悲劇が起こった場所だ。
今まで行ったことがなかった飯盛山に今回初めて訪れてみた。

会津藩への忠義を貫いた若者たちの立派だが悲しい行動。その元をたどれば、藩祖である保科正之公が残した遺訓「会津家訓十五箇条」にある。その中では徳川家への忠誠を強く命じていた。そのため、会津藩は最後まで徳川家に殉じた。会津の街を蹂躙され、遺骸すら埋葬を許されないほどの抵抗を続けてまで、徳川家への忠誠を愚直に貫いた。
その抵抗の象徴こそ、白虎隊の悲劇といえよう。
私は飯盛山にたたずみ、白虎隊の悲劇と、封建制がもたらした哲学について考えを巡らせていた。

本書は地元の福島民友新聞の連載を書籍にまとめたものだという。だから、福島県民へのリップサービスもあっただろう。全編が保科正行公への賛辞に満ちあふれている。少し客観性が欠けているのでは、と思えるほどだ。
著者は今までに七冊の保科正之公に関連した書籍を世に問うてきたという。だから、その愛着や傾倒は半端ではないはずだ。だがらこそ、本書はもう少し客観的な筆致で書くべきではなかったか。

私は保科正之公については「慈悲の名君 保科正之」で大体のことを理解していた。その治世は見事。学ぶべきことも多い。
ただ、私は「慈悲の名君 保科正之」のレビューにも書いた通り、保科正之公の業績を評価する上で、封建時代の影響を割り引いて考えなければと思っている。
本書にも紹介されている通り、保科正之公が晩年に残した「会津家訓十五箇条」の中には、「婦人女子の言、一切聞くべからず。」という条がある。その背景には、側室から継室になったお万の方が、跡継ぎを滅ぼそうとして誤って実の娘を毒殺してしまった事件があったという。そのため、そうした条文が追加されたと著者は説く。
そうした事情を差し引いても、結果として残された条文を現代の私たちが鵜呑みにするわけにはいくまい。

だが、封建時代の限界にとらわれていたとはいえ、老人への福祉を提案するなど、江戸時代屈指/の随一の名君と手放しに称賛する著者の意見にはうなづける点も多い。
ただ、いくら保科正之公が名君であっても、ことごとく現代の政治家が保科正之公と比較され、けなされては立つ瀬がないように思う。
著者は民主党政権の政治家をけなし、低い評価を与えている。この本が上梓された当時、東日本大震災が起こった。周知のとおり、当時の与党は民主党だった。だから民主党の政治家が俎上に挙げられているのだろう。
ただ、私の意見では当時の与党が自民党でもさほど変わらなかったと思っている。あの災害は政治家のレベルでどうこうできるものではなかったと思う。事前に津波を想定した防波壁を作らなかった東京電力のミスだと思っている。

確かに今の政治家の中に保科正之公と比較できる資質の持ち主は見当たらないと断言する著者の意見は否定しない。だが、江戸時代と現代では、政治家が扱う情報量があまりにも違う。その事情は勘案してもよいのではないか。
もちろん、情報量に関係なく無私の心で政治にあたれているかどうかは別の問題である。実行力や発信力も含め、今の政治家にも反省すべき点は多いと思う。

となると、私たちは本書から保科正之公の何を学べばよいのだろうか。
それは、謙虚であること、そして孝を根本に置いたその心のありようだと思う。
もう一つは、いざという時に迅速かつ簡潔に決断をし、事態を処理することにあるのではないだろうか。

保科正之公が謙虚であったこと。それは、常に養父の保科正光公に感謝し続けたことに表れていると思う。実質、天下の副将軍の立場にあっても保科の名字を名乗り続けたことや、将軍の座を決して望まず、補佐に徹し続けたことでもその謙虚さは明らかだ。
ただ謙虚なだけでなく、明暦の大火で示した果断な決断と迅速な対応は、まさに名君と呼ぶにふさわしい。

もう一つ、徹底的に任せられる度量の深さも保科正之公の美点だと思う。
なんと二十三年の長きにわたり、一度も会津に帰らなかったという。その間、江戸で幕政に携わり、将軍を補佐し続けていたのだから。
その間、会津では名宰相である田中正玄に藩政を委ねていた。もちろん適宜報告を受け、指示は出していただろう。でもそれだけで会津藩に善政を敷き続けたのだから、リモートワークの元祖と呼べるかもしれない。
そこまでの長期間、藩政を家臣に任せ続けたことは保科正之公の器の大きさだと思う。管理に血眼になる世の管理者には見習ってほしいものだ。

本書の末尾には「特別対談」と称し、東大名誉教授の山内昌之氏と著者の対談が載っている。
内容は本書のまとめのようなものだが、江戸時代の名君として名高い上杉鷹山や徳川光圀の両者をあまり評価せず、保科正之公をやけに持ち上げていたのが印象的だった。逆効果だと思うのだが。

‘2020/01/18-2020/01/18


明日の子供たち


著者は、執筆スタイルが面白い作家だと思う。

高知県庁の観光政策を描いた『県庁おもてなし課』や、航空自衛隊の広報の一日を描いた『空飛ぶ広報室』などは、小説でありながら特定の組織を紹介し、広く報じることに成功している。
そのアプローチはとても面白いし、読んでいるだけで該当する組織に対して親しみが湧く。そのため、自らを紹介したい組織、出版社、作家にとっての三方良しが実現できている。

本書もその流れを踏まえているはずだ。
ある先見の明を持つ現場の方が、広報を兼ねた小説が書ける著者の異能を知り、著者に現場の問題点を広く知らしめて欲しいと依頼を出した。
私が想像する本書の成り立ちはこのような感じだ。

というのも、本書で扱っているのは児童養護施設だ。
児童養護施設のことを私たちはあまりにも知らない。
そこに入所している子供たちを孤児と思ってしまったり、親が仕事でいない間、子供を預かる学童保育と間違ったり、人によってさまざまな誤解を感じる人もいるはずだ。
その誤解を解き、より人々に理解を深めてもらう。本書はそうしたいきさつから書かれたのではないかと思う。

私は、娘たちを学童保育に預けていたし、保護者会の役員にもなったことがある。そのため、学童保育についてはある程度のことはわかるつもりだ。
だが、親が育児放棄し、暴力を振るうような家族が私の身の回りにおらず、孤児院と児童養護施設の違いがわかっていなかった。本書からはさまざまなことを教わった。

甘木市と言う架空の市にある施設「あしたの家」には、さまざまな事情で親と一緒に住めない子供たちが一つ屋根の下で暮らしている。

本書の主人公は一般企業の営業から転職してきた三田村だ。彼より少し先輩の和泉、ベテランの猪俣を中心とし、副施設長の梨田、施設長の福原とともに「あしたの家」の運営を担っている。

「あしたの家」の子供たちは、普段は学校に通う。そして学校から帰ってきた後は、夕食や宿泊を含めた日々の生活を全て「あしたの家」で過ごす。
職員は施設を運営し、子供たちの面倒を見る。

ところが、子供たちの年齢層は小学生から高校生まで幅広い。そうした子供たちが集団で生活する以上、問題は発生する。
職員ができることにも限界があるので、高校生が年少者の面倒を見るなどしてお互いに助け合う体制ができている。

五章に分かれた本書のそれぞれでは、子供たちと職員の苦労と施設の実態が描かれる。

「1、明日の子供たち」

施設に行ったことのない私たちは、無意識に思ってしまわないだろうか。施設の子供のことを「かわいそうな子供」と。
親に見捨てられた子とみなして同情するのは、言う側にとっては全く悪気がない。むしろ善意からの思いであることがほとんどだ。
だが、その言葉は言われた側からすると、とても傷つく。
施設を知らず、施設にいる子供たちのことを本気で考えたことのない私たちは、考えなしにそうした言葉を口にしてしまう。

三田村もまた、そうした言葉を口にしたことで谷村奏子に避けられてしまう。
高校二年生で、施設歴も長い奏子は、世の中についての知識も少しずつ学んでいるとはいえ、そうした同情にとても敏感だ。

「2、迷い道の季節」

施設の子供達が通っているのは普通の公立の小中高だ。
私も公立の小中高に通っていた。もっとも、私はボーッとしていた子供だったので、そうした問題には鈍感だったと思う。だから、周りの友達や他のクラスメイトで親がいなくて施設に通って子のことなど、あまり意識していなかった。

ところが、本書を読んでいると、そうした事情を級友に言いたくない子供たちの気持ちも理解できる。
ひょっとすると、私の友人の中にも言わないだけで施設から通っている子もいたのかもしれない。

本書に登場する奏子の親友の杏里は、かたくなに施設のことを誰にも告げようとしない。
施設の子供が自らの事情を恥じ、施設から通っていることに口を閉ざさせる偏見。私はそうした偏見を持っていないつもりだし、娘たちに偏見を助長するようなことは教えてこなかったと思う。
だが、本当に思い込みを持っていないか、今一度自分に問うてみなければと思った。

「3、昨日を悔やむ」

高校を出た後すぐに大学に進んだ私。両親に感謝するのはもちろんだ。
だが、進学を考えることすら許されない施設の子供たちを慮る視点は今まで持っていなかった。
そもそも、育児放棄された子供たちの学費はどこから出ているのか。
高校までは公的機関からの支援がある。とはいえ、大学以降の進学には多額の学費がいる。奨学金が受給できなければ大学への進学など不可能のはずだ。

だから、「あしたの家」の職員も施設の子供達を進学させることに消極的だ。
進学しても学費が尽きれば、中退する以外の選択肢はなくなる。それが中退という挫折となり、かえって子供を傷つける。だから、高校を卒業した後すぐに就職させようとする。
猪俣がまさにそうした考えの持ち主だ。

でも、生徒たちにとってみれば、それはせっかく芽生えた向学心の芽が摘まれることに等しい。和泉はなんとか進学をさせたいと願うが、仕事を教えてくれた猪俣との間にある意見の相違が埋まりそうにない。

「4、帰れる場所」

施設にいられるのは高校生までだ。その後は施設を出なければならない。高校生までは生活ができるが、施設を出たら自立が求められる。世の中をたった一人で。
それがどれだけ大変なのかは、自分の若い頃を思い出してみてもよくわかる。

サロン・ド・日だまりは、そうした子供の居場所として設立された。卒業した子供たちだけでなく、今施設にいる子供たちも大人もボーッとできる場所。
ここを運営している真山は、そうした場所を作りたくて日だまりを作った。仕事や地位を投げ打って。

その思いは崇高だが、実際の運営は資金的にも大変であるはずだ。
こうした施設を運営しようとする人柄や思いには尊敬の念しかない。本書に登場する真山は無私の心を持った人物として描かれる。

ところが、その施設への公的資金の支出が打ち切られるかもしれない事態が生じる。
その原因が、「あしたの家」の副施設長の梨田によるから穏やかではない。梨田は公聴会で不要論をぶちあげ、施設の子供達にも行くなと禁じている。

子供達の理想と大人の思惑がぶつかる。理想と現実が角を突き合わせる。

そこに三田村が思いを寄せる和泉がかつて思いを寄せていた度会がからんでくる。
著者が得意とする恋愛模様も混ぜながら、本書は最終章へと。

「5、明日の大人たち」

こどもフェスティバルは、施設のことを地域の人たちや行政、または政治家へ訴える格好の場だ。

そこで施設の入所者を代表して奏子が話す。本書のクライマックスだ。
さらに本書の最後には奏子から著者へ、私たちのことを小説に書いて欲しいと訴える手紙の内容が掲載されている。

最後になって本書は急にメタ構造を備え始める。小説の登場人物が作者へ手紙を書く。面白い。
本稿の冒頭にも書いたとおり、著者がそうした広報を請け負って小説にしていること。そのあり方を逆手にとって、このような仕掛けを登場させるのも本書の面白さだ。

本書の末尾には、本書の取材協力として
社会福祉法人 神戸婦人同情会 子供の家
そして、本文に登場する手紙の文面協力として、
笹谷実咲さんの名前が出てくる。

人々の無理解や偏見と対し、施設の実情や運営の大変さを人々に伝えるなど、本書の果たす役割は大きい。
通常のジャーナリズムでは伝えられないことを著者はこれからもわかりやすく伝え続けて欲しいと思う。

‘2019/12/20-2019/12/20


ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える


若い時には理想主義にふけっていた私。利潤の追求は間違っている、とかたくなに信じていた。人々が利潤を独占せず、広く人々に共有できれば、世の名はもっと良くなる。半ば本気でそんなことを考えていた。

経営者になった今、さすがに利潤を無視するわけにはいかない。それは利潤が利潤を呼び、いつまでも成長することが経済のあり方だから、と無邪気に信じているからではない。有限の資源しかない地球でそんなことは不可能だ。利潤を追い求める営みを認めるのは、私の中に飢えへの恐怖があるからでもない。

今、私は経営者として順調に売り上げを上げ続けている。だが、それは私が健康だからできること。何かの理由で仕事ができなくなったとたん、収入は途絶える。そうなったら飢えの恐怖が私の心身をむしばむに違いない。その恐れは常に心のどこかに居座っている。私の心身に異常が生じた時、どこからともなく助けが得られる。などと虫のいいことは考えていない。よしんば助けが得られたとしても、それは最低限の生活を送るための資金がせいぜいだろう。だから私は、利潤を追い求めるだけが人生ではない、という理想は捨てていないが、経済の論理は無視できないと思っている。

そこで、ベーシック・インカムだ。生きていくのに必要な金額が国から支給される。しかも無条件に。助成金や補助金のような複雑な申請はいらない。ただ、もらえる。魅力でしかない制度だ。

だが、経営者になった今、私はこの制度に無条件に賛成できないでいる。それは、私が経営者になった事で、勤しんだ努力だけ見返りがあるやりがいを知ってしまったからだ。勤め人だった頃のように失敗や逆境を周囲のせいにする必要はない。失敗は全て己のせい。逆に努力や頑張りが見返りとして帰ってくる。全ての因果が明確なのだ。見返りがあるということは人を前向きにする。それは人間に備わった本能からの欲求だ。楽になりたいとか、利潤が欲しいという理由ではなく、自分の生き方を自分で管理できる喜び。

だから、私はベーシック・インカムの思想にある「無条件に」という言葉には引っかかりを感じる。「無条件に」という言葉には、努力や責任が一切無視されている。もちろん、弱い立場の方に対してベーシック・インカムが適用されることは否定しない。私がもし、体を壊して仕事ができなくなった時、ベーシック・インカムから無条件に給付を受けられればどれだけ助かるか。それを考えた時、弱い方へのセーフティとしてのベーシック・インカムは必要だと思う。だが、それでは今の福祉制度と変わらなくなってしまう。

私が抱えるベーシック・インカムへの矛盾した思い。その疑問を解決するには勉強しなければ。本書はそうした動機で手に取った。

本書は全6章からなっている。ベーシック・インカムの理念や仕組みだけでなく、古くから検討されてきたベーシック・インカムの歴史が紹介されている。民主主義の勃興に時期を合わせるようにベーシック・インカムは提唱されてきた。その歴史は意外と古い。今までの人類の歴史で、幾人もの哲学者や経済学者、また、マーティン・ルーサー・キングの様な著名な運動家がベーシック・インカムの考えを提唱してきた。ベーシック・インカムはにわかに現れた概念ではないのだ。私は本書を読むまでベーシック・インカムの長い歴史を全く知らなかった。

第1章 働かざる者、食うべからずー福祉国家の理念と現実

この章ではベーシック・インカムの要諦が語られる。著者はその定義をアイルランド政府がベーシック・インカム白書の中で示した定義から引用する。
・個人に対して、どのような状況におかれているかに関わりなく無条件に給付される。
・ベーシック・インカム給付は課税されず、それ以外の所得は全て課税される。
・給付水準は、尊厳をもって生きること、生活上の真の選択を行使することを保障するものであることが望ましい。その水準は貧困線と同じかそれ以上として表すことができるかもしれないし、「適切な」生活保護基準と同等、あるいは平均賃金の何割、といった表現となるかもしれない。

より詳しい特徴として、本書はさらに同白書の内容から引用する。
(1)現物(サービスやクーポン)ではなく金銭で給付される。それゆえ、いつどのように使うかに制約はない。
(2)人生のある時点で一括で給付されるのではなく、毎月ないし毎週といった定期的な支払いの形をとる。
(3)公的に管理される資源のなかから、国家または他の政治的共同体(地方自治体など)によって支払われる。
(4)世帯や世帯主にではなく、個々人に支払われる。
(5)資力調査なしに支払われる。それゆえ一連の行政管理やそれに掛かる費用、現存する労働へのインセンティブを阻害する要因がなくなる。
(6)稼働能力調査なしに支払われる。それゆえ雇用の柔軟性や個人の選択を最大化し、また社会的に有益でありながら低賃金の仕事に人々がつくインセンティブを高める。

この章では他にもベーシック・インカムのメリットが紹介される。その中で、社会保険や公的扶助の現状もおおまかに紹介される。そうした制度が対象とする貧困層に対し、国家はどう認識し、どう対処してきたのか。それは国が行うべき機能の一つと挙げられている。だが、かつて貧困層とは国から完全に見捨てられた層だった。

貧困層とは、雇用されず、生計が成り立たない人々をさす。国としてみれば完全雇用が達成されれば社会保障は不要。だが、現実にはそうはいかない。しかも日本の場合、生活保護対象世帯のうち、実際に保護を受けているのは二割程度だという。これは捕捉率というそうだが、先進国の中でも日本の捕捉率は際立って低いそうだ。

そもそも生活保護とは、貧困者を選別する制度につながる。他にも公的な社会システムはある。そのうち、生活保護制度だけが対象を選別するそうだ。選別という行為は、為政者にとって避けたい。ならば、誰に対しても等しく適用されるベーシック・インカムの制度のほうが政策にも取り入れやすい。そうした観点を著者は説く。

日本ではそのため、完全雇用に近づけるようなワーク・フェアの施策がとられていると著者は指摘する。完全雇用が達成できれば、民間に福祉を完全に委ねられる。そのような発想だろう。だが、諸外国のワーク・フェアと比べ、日本のワーク・フェアには公の補助が欠けているという。

第2章 家事労働に賃金を!ー女たちのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイタリア、イギリスで繰り広げられたここ数十年のベーシック・インカムの運動をおさらいする。女性がベーシック・インカムを主張する場合、通常の値上げ運動とは性格が異なる。というのも、通常の値上げ運動は失業時や低所得者の救済を主な目的とする。だが、そうした運動には女性の家事労働に視点が向いていない。そもそも女性が家事労働に従事する場合、それ自体に報酬が支払われることはない。一般的な家庭では、夫たる男性が外で稼ぎ、収入を持ち帰る。妻たる女性は、それを受け取り、家庭のために使う。つまり、夫から受け取る金額の中に、家事労働の報酬も暗黙のうちに含まれている。そのような解釈だ。

だが、報酬を暗黙でなく、家事労働それ自体に報酬を与えよ、というのが彼女たちの主張だ。だが、家事労働の労力など測れるはずもない。なので、女性に対するベーシック・インカムを要求するのが、本章で取り上げる運動の趣旨だ。

アメリカでの運動にはマーティン・ルーサー・キング牧師が関わっていた。そこには公民権運動の一環としての性格もあったのだろう。当時、黒人の女性は弱い立場にあった。それを救済するための手段の一つとして検討されたのがベーシック・インカムだった。イタリアではその運動がもう少し趣を変え、家事労働自体が他の賃金労働と等しく労働だ、という主張がなされた。ただ、ここで誤解してはならないのが、主婦業への賃金を求める運動ではなかったということだ。

イギリスでは要求者組合という形をとり、弱者への福祉も含めた運動に広がってゆく。その中で、受給資格をめぐる議論もより深まっていったという。例えばベーシック・インカムを受ける資格がある女性は、一人暮らしなのか、男性と同居しているか、結婚しているか、など。要は生計を男性に援助してもらっているかどうかによって、ベーシック・インカムの受給資格は変動する。

第3章 生きていることは労働だー現代思想のなかのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイギリスでは女性によるベーシック・インカムの運動が衰退したが、イタリアでは発展して長く続いた理由を考察する。そこには賃労働の拒否、そして家事労働の拒否、という二重の拒否があった。ベーシック・インカムはその主張の解決策でもあった。それは、労働の価値化をどう捉えるか、という次の考察につながってゆく。労働とは通常、何か基となるものから付加価値を生み出す営みを指す。生み出された付加価値のうち、労賃が労働者に支払われるというのが古典的な経済の考えだ。そして、今までは家事労働には付加価値が発生しないと考えられていた。発生したとしてもそれは家庭内で消費されてしまうと。もし家事労働に付加価値が発生するとすれば、それは夫である労働者が外で付加価値を生み出すための労働であり、子供という次代の労働力を社会に生み出すための労働であり、それ自体に価値を見いだす考えがなかった。

本章では、行きていること自体が労働という観念が紹介される。生きているだけで労働と認められるなら、その労働には賃金が支払わねばならない。それこそがベーシック・インカムという論法だ。その考えは斬新にも思えるし、突飛にも思える。もちろん、その考えが認められれば、ベーシック・インカムの論理はこれ以上なく確かなものだろう。なにしろ、仕事内容や性別、資産に応じた額の増減を考えずに済むからだ。

日本でも青い芝の会という障害者の権利向上を求める集まりがあるそうだ。青い芝の会では、障害者は生きている、すなわち労働だとの考えに基づいているという。著者はそれもベーシック・インカムに近いと考えているようだ。

後に触れるように原資をどうするか、という問題を脇に置くとすれば、私もこうした考えをベーシック・インカムの一つとみなすことに賛成したい。

間奏 「全ての人に本当の自由を」ー哲学者たちのベーシック・インカム

ここでは哲学者たちがベーシック・インカムをどう考えてきたかについて触れられる。ベーシック・インカムは社会主義や無政府主義に比べ、人類にとって適正な制度であるというバートランド・ラッセルの説や、真の自由を人類が得るためには、必要だとするフィリップ・ヴァン=パレイスの考えが紹介される。苦痛からの逃れる意味での自由ではなく、より真の意味での自由。ベーシック・インカムが給付された場合、生存のために働く必要はなくなる。だが、それでも働きたい人が働く自由も保証されるべき。そうした選択の幅が拡充されるのがベーシック・インカムの根本思想だという。

第4章 土地や過去の遺産は誰のものか?ー歴史のなかのベーシック・インカム

ベーシック・インカムの考え方は、社会制度が封建主義から次の民主主義に移ってしばらくしてから生まれた。それは同時に経済制度が資本主義に変わったとみなしても良い。要するに近代の社会制度が生まれ、ベーシック・インカムの考え方も芽生えた。本書はそれらの紹介を順に進めてゆく。現代の資本主義国家では、土地の私有が認められている。だが、資本主義が勃興した当初、土地は共有という考えがまだ支配的だった。つまり誰にでも土地の権利があり、その土地から収入を得られる権利があったということだ。その考えを敷延すると、まさにベーシック・インカムの考え方そのものとなる。無条件で収入を得る権利というベーシック・インカムの考え方が、土地の扱いという観点で資本主義の発生時からあったことを著者は指摘する。

その考えは、経済学の中でも代々受け継がれてきたという。弱者を救済するための社会制度という性格は同じだが、保険や保護を社会が担うのではなく、無条件に給付するベーシック・インカムのほうが、制度として有効だとの考えも一定数で唱えられていたそうだ。それは、社会主義が見事に失敗した今でも変わらない。

著者はここで、経済制度の分析にまで踏み込んでいない。だが、現行の資本主義の制度の中でも、土地が共有である考えは受け継がれていて、ベーシック・インカムの根拠となる考えは有効であるとの立場のようだ。それはもちろん、人は生きているだけで労働だからベーシック・インカムの権利がある、という考えにも照応する。

第5章 人は働かなくなるか?ー経済学のなかのベーシック・インカム

ここが今の私には関心の高い点だ。

今の社会福祉は、労働を前提としている。だが、社会からは明らかに人間が必要な労働量が減ってきている。それは、技術革新の恩恵にあずかるところが大きい。つまり、労働がないのに報酬を払わねばならない未来が近づいている。もしそうなったら、労働を基に付加価値をつける営利組織はたちまち立ちいかなくなる。だからこそ国や団体による報酬の支給が必要というわけだ。こうした課題を経済学者は今までさんざん議論してきた。

本書に紹介されるのは、どちらかというとベーシック・インカムに賛成の立場の論考だ。だから反対の意見はあまり登場しない。それを差し置いても、今の社会制度で福祉を継続するためには、保険や保護に頼るのは困難になりつつある。そのような意見が優勢になりつつあると著者は指摘する。

ただ、本書の全体を通し、説得力のあるベーシック・インカムの財源が登場しない。これは考えものだ。たぶん現実問題として、財源の不足こそがベーシック・インカムが普及しない最大の理由だと思うからだ。私としては、ベーシック・インカムの普及には技術の力が欠かせないと思っている。資本からではなく、技術の力で全く違う資源からベーシック・インカムとして支給する何かを生み出す。それが実現するまで、私はベーシック・インカムの実現は難しいと思う。

もう一つ、日本においてそれほどベーシック・インカムの議論が熱中しないのは、わが国には自治体による道路、水道、ガス、電気といったインフラが整備されているからだ。現時点で民営化されているとはいえ、こうしたインフラはもともと国家による国民へのサービスだった。だから現状で十分なサービスを享受できているわが国民にさらにベーシック・インカムの恩恵を施す必要はあるのか、という疑問が生じる。

インフラも整っておらず、実際に生活を送るには収入が欠かせない国の場合、ベーシック・インカムの必要性はある。ただ、生活必需品をそれほど労せずに享受できるわが国では、ベーシック・インカムの普及についての議論が深まらない。もちろん、より多様性のあるサービスを受けられる選択の幅があっても良いと思う。だからこそサービスではなく財で等しく受給できるベーシック・インカムは、国民がサービスを自由に選ぶために必要なのかもしれない。原資の安定供給を技術の進化に頼らねばならない現状は変わらないにせよ。

今、年金制度の崩壊が叫ばれている。年金は、その支給の資金を原資をもとに投資した利子でまかない、支給額を安定確保するために努力していると聞く。つまり、既存の旧来の拡大成長を前提とした経済論理に年金制度は完全に組み込まれている。有限の地球に無限の拡大成長は考えにくいとすれば、それをベースに考えられた福祉にどれほどの期待が持てるのだろう。

もちろん、福祉サービスとベーシック・インカムは別ということは理解している。ただ、本章でも提示されているように、何らかの社会的な貢献活動の代償は制度として設けられているべきだと思う。つまり、働いてこそ代償は受け取れる、という考えだ。

第6章 〈南〉・〈緑〉・プレカリティーベーシック・インカム運動の現在

だからこそ、本章で取り上げられる現在のベーシック・インカムを分析する視野が必要だと思う。章のタイトルにある<南>とは既存の資本主義の熟練国ではなく、新興の国々を指す。要はいまだ発展途上にある国々の事だ。<緑>というのは緑の党のような、持続が可能な社会を目指す人々を言う。

ここで著者はエーリッヒ・フロムを登場させる。フロムもまたベーシック・インカムの提唱者だったそうだ。彼は著書『自由からの逃走』で著名だ。その中で彼が唱えたのは自由を持て余した人々がナチスを生んだという理論だ。だが、それとは別に、ベーシック・インカムこそが人々をより自由にするとの考えも持っていたらしい。そして、彼は財ではなく生活必需品の提供でならばベーシック・インカムが成り立つのではないか、と考えていたそうだ。上にも書いたとおり、私はすでに物資が充実している日本では、生活必需品の提供というベーシック・インカムは成り立たないと思う。著者も同じ考えをもっているようだ。

プレカリティという言葉の意味は本章には出てこない。調べたところ、不安定とか予測できないという意味のようだ。第二章で登場した各国のベーシック・インカム運動のその後が本章では紹介される。どうすれば人々がひとしく恩恵を受けられるのか。それはかつての私がまさに目指そうとした社会でもある。そのような社会の実現が経営者としての立場では難しいことも理解している。まさに今の経済制度では現実は不安定で将来は予測できない。だが、これからも理想の実現に向けた努力は注視していきたいと思っている。

本書は各章ごとにまとめが設けられたり、巻末でもあらためてベーシック・インカムのQ&Aの場が設けられたり、各章のあとにはコラムが設けられたり、なるべく読者への理解を進めるような工夫がちりばめられている。何が人類にとって最適な福祉なのか、本書は一つの参考資料となるはずだ。私も自分の理想がどこにあるのか、さらなる勉強を重ねたいと思う。

‘2018/10/17-2018/10/23