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鞆ノ津茶会記


本書は著者の最晩年の作品だ。

著者は序でこのように述べている。
「私は茶の湯の会のことは、現在の茶会のことも昔の茶会のことも全然智識が無い。茶会の作法や規則なども全く知らないが、自分の独り合点で鞆ノ津の城内や安国寺の茶席で茶の湯の会が催される話を仮想した。」(六ページ)

著者は福山の出身らしい。私はそのことを知らなかった。
福山から鞆ノ津まではそれほど遠くない。本書を読む一年前、kintone Caféで福山に行った際、鞆の街並みを初めて訪れてみた。安国寺には行けなかったが、本書にも登場する鞆城跡には訪れた。城跡からみた鞆ノ浦の眺望や、瀬戸内の凪いだ海の景色を堪能した。

そこで何度も行われた茶会の様子と、交わされた会話を連ねてゆくことで、著者は戦国時代の激動の世相を客観的に描いている。
本書はまず、天正16年3月25日のお茶会の様子から始まる。場所は足利義昭の茶屋だ。一度は将軍の座に就いた足利義昭は、その後ろ盾であるはずの織田信長によって追放され、当時は鞆ノ津にいたことが知られている。

そのお茶会では戦国の世に生きる人々がさまざまな噂話を語る。語られるのは、まず九州征伐。
当時、鞆ノ津は毛利家の支配下にあった。毛利家の重鎮である小早川隆景は島津軍を攻めるため九州へと従軍し、留守にしている。

そうした戦国の世の現実をよそに茶会に集う人々。ある人は引退し、ある人は悠々自適の暮らしを営んでいる。そして、茶会の中で騒然とした世間の噂話を交わし合う。

当時にあっては、こうした情報交換こそが激動の世の中を生き抜くために欠かせなかったのだろう。
本書は、11年近くの時間を描く。鞆を舞台にしたこの物語の中で登場人物の増減や異動はあるが、おおかたの顔ぶれは似通っている。

おそらく毛利家にとって最大の試練は、羽柴秀吉軍が備中高松城を包囲した時だろう。
だが、それは本能寺の変によって変わる。城主の清水宗春の切腹を条件として、羽柴軍は明智軍と雌雄を決するために東へと引き返していった。
その試練を超えたからこそ、このようにお茶会も楽しめる。

本書はまずそうした当時の毛利家の置かれた状況を思い起こしながら読むとよい。

毛利家にとって最大の試練を乗り切った後、つかの間の平安が続く。
島津攻めが終わった後は、小田原攻め。日本を西に東にと軍勢は動く。だが、荒波の立つ世相とは逆に鞆ノ津は凪いだように穏やか。人々は茶会を楽しみ、そこで世間の噂話に花を咲かせる。
その客観的な視点こそが本書の特徴だ。

小田原攻めの結果、太閤秀吉によって諸国は平定され、日本は統一された。
ところが、鞆ノ津は運よく戦火から逃れられていた。そのため、茶会で交わされる噂話には緊迫感が欠けている。あくまでも茶の湯の場の弛緩した話として、平穏に噂話は消費されてゆく。
世の中の激動と反するような鞆ノ津の状況がうまく表現されている。

だが、秀吉の野心は日本を飛び出す。朝鮮半島の向こう、明国へと。それによって、鞆ノ津を治める小早川隆景は渡海することになった。
鞆ノ津も世間の影響からは全く無関係ではない。茶会をする人々は、そうした世の中の動きを噂話とし、茶会の興に添える。

この時期、千利休が秀吉によって切腹させられたことはよく知られている。
茶会に集う人々にもそのような噂が上方より流れてきた。皆で切腹に至る原因を推測し合う。

本書で語られる原因は、千利休の切腹は朝鮮攻めを太閤秀吉に諫めたことで怒りを買った、というものだ。この説は私もあまり聞いた記憶が無く新鮮だった。
だが、確かにそういう解釈もあるだろう。当時の人々がそうした推測をさえずっていた様子が想像できる。
茶の湯を広めた千利休の話題を茶の湯の場で語らせるあたり、著者の想像力が感じられる。

人々は太閤秀吉も耄碌した、などとくさしつつ、一方で朝鮮の地で繰り広げられているはずの戦の戦局を占う。
一進一退の攻防がさまざまな手段で伝えられ、日本でも朝鮮での戦いに無関心でなかったことが窺える。

やがて文禄・慶長の役は太閤秀吉の死によって撤収される。その際の騒然とした状況なども本書は語る。人々は続いての権力者が誰か、ということに話題の関心を移してゆく。
庶民というか中央政局から一歩退いた人のたくましさが感じられる。

そこでちょうど、度重なる戦役から戻ってきたのが安国寺恵瓊だ。外交僧であり、大名と同等の地位を得ていたとされる安国寺恵瓊。この人物が茶会に参加することになり、本書の中でも茶会の中に度々噂に上がっていた長老が、日本の歴史の節目節目に登場していたことを読者は知る。

太閤秀吉が亡き後の実権は徳川家康に移りゆく。家康に対抗する石田三成との反目と、それぞれの思惑を抱えた諸大名の動きが茶の湯の場での自由な噂話となって語られてゆく。

本書は鞆ノ津を舞台としている。おそらく鞆ノ津以外にも全国のあちこちで茶会が開かれ、それぞれで談論がなされ、謀議がたくらまれていったことだろう。
茶の湯の意味が本書を通して浮かび上がってくるようだ。

本書は関ヶ原の戦いの直前までを茶の湯の参加者に語らせ、そして唐突に終わりを告げる。
その終わり方は唐突だが、実は関ケ原の戦いの後に斬首された安国寺恵瓊の最期を暗示しているともとれる。
知っての通り、関ヶ原の戦いでの毛利軍は、ひそかに家康に内通していた吉川広家によって南宮山の陣にくぎ付けにされていたからだ。しかも戦後処理の際、毛利家は安国寺恵瓊を生贄に仕立てるかのように引き渡した。そのおかげか、西軍の総大将という役割でありながら毛利家の取りつぶしを逃れた。

そうした長老の哀切な運命を暗示しつつ、本書は終わる。それが読者に余韻を残す。

本書の解説で加藤典洋氏が詳細に語っている通り、本書は著者の最晩年の作である。だが、戦国の世を茶の湯の会という客観的な手法で描いた傑作といえる。
また鞆ノ津に行きたいと思う。

‘2020/02/09-2020/02/12


福山・三次・常清滝・邑南町 2019/3/2


昨夜、部屋に戻るなり、のび太くんもかくや、という速さで寝てしまった私。
アンカーホテルの一階の素晴らしいバーの存在を知ったのは翌朝のことでした。

いや、ホテルに泊まる前から、アンカーホテル福山の朝食の目玉が特製ホットドックだという事は知っていたのですよ。何しろkintone Café広島の前田さんから勧められていたので。むしろ、それが目的でこのホテルを選んだようなもので。

ところが、その朝食を出すお店が夜はバーになっている事は気づきませんでした。ましてや、そのバーを運営するのが福山では有名なバーあき乃さんということも。
朝、ホットドックを食べながら、バーカウンターに並ぶ桜尾GINのボトルの群れをうらめしく見つめる私。桜尾GINは広島の産んだGINの銘酒。今回の旅でも蒸留所が近ければ、訪れようかと思ったくらいです。
私の無念がどれほど深かったかは、この旅の直後に雑誌Whisky Galoreの懸賞で桜尾GINを見事当選させたことからもわかっていただけるかと。

さて、昨夜の深酒も旅の朝の清々しさの前には消え、私の前に開けているのは輝かしき一日。
一刻も早く今日の思い出を作りたいと、私の翼は早くも目的地に向かい、飛び立とうとします。
なので、福山城には登城せず、大手門からその姿を見上げるのにとどめました。

翼、いや、タイヤは国道2号線を西へ向かって転がります。福山西インターからは山陽道を、さらに尾道ジャンクションからは尾道自動車道を北へと。
私は、濃い霧が立ち込める山々を縫うように車を駆っていきました。そして降りたのは三次東インター。そう、広島県の北部です。

今日は私にとって初めて訪れる地、三次の街並みを散策し、常清滝を愛でるのが目的です。

三次市の旧市街は、古い町並みが保存されていました。昔ながらの広壮な門構えが並び、そこを貫く石畳の道。それらが整然とした印象を与えてくれます。
ここは全国に散在する小京都と呼ばれる地の一つ。ですが、石畳の広々とした感じは、混み込みした京都とは一線を画し、むしろ清潔ですらありました。
私が訪れた五十日後には「三次もののけミュージアム」の開館を控えていて、街の活性化には抜かりがない様子。

ですが、今日は先を急がねばなりません。夜には東京に居なければならないのですから。
私は常清滝へ急ぎました。
ところが、そんな私を三次の魅力がからめとろうと迫ってきます。毛利家ゆかりの地、という殺し文句で。

そこは尾関山公園。
戦国時代は毛利家に属する三吉氏が治めていたといいます。
江戸時代初期には賤ヶ岳七本槍の一人として名高い福島正則が広島藩の藩主となった時、臣下の尾関氏が城主となったことでこの名がついたとか。

わたしの記憶が確かならば、萩を除いて毛利家ゆかりの山城に訪れた経験はないはず。
前日に訪れた鞆城跡といい、毛利家のゆかりの城に二日続けて訪れられたのも、広島を旅する喜びというべきでしょう。これこそまさに吉縁。

尾関山公園の中は、風情のある日本庭園のように設えられており、そこには一人の女性の像が立っていました。
近寄ってみると、女性は、浅野内匠頭長矩の奥方である阿久利姫でした。
初代三次藩主の浅野長治の息女であり、幼少期を三次で過ごしたのだとか。
そして、浅野内匠頭長矩といえば忠臣蔵を語る上で絶対に欠かせない人物。
三次市とは忠臣蔵にも深い縁を持つ街だった事を知り、歴史の縁の深さをあらためて思い知らされました。
こうやって土地と歴史の交わる点に立ちあえる喜び。それこそが旅の醍醐味です。

尾関山のてっぺんには展望台があり、三次の街を一望の下に見ることができます。
三次は霧の街としても知られているのだとか。川が合流し、それが霧を生み、しかも盆地であるため霧はとどまる。
私が見たときも、うっすらとした霧が街を覆っていました。尾道自動車道を走っていた時に見た霧もあざやか。この辺の風土を語るには霧が欠かせないことを記憶しました。
春の街 訪ねて霧や 旅の夢
尾関山公園にて

盆地にたゆたう霧は、かくも幻想的。
そんな事を思いながら尾関山から眺めていると、下に一本の筋が光っている事に気づきました。その筋こそは三江線が走っていた線路です。

三江線は、私が三次を訪れる一年近く前に廃線となってしまいました。
三次と江津を江の川に沿って行き交っていたこの線も、最後は惜しまれて廃止されたようです。
私が訪れた尾関山駅は、駅舎やホーム、線路が残っており、いつ列車が到着してもおかしくない様子。ただし、ホームの駅名標や駅舎の看板は撤去され、傍目には駅である事に気づきません。
それでも駅舎の入り口には、三江線LAST RUNの文字が記されたチラシが貼られ、ここがかつて駅だった事を今に伝えています。
おそらくは地元の鉄道愛好者が残していったものでしょう。

尾関山から見下ろした三江線は、最初はいつ列車が走ってくるのだろうと思えたほど。その感想は尾関山駅のホームでも変わりませんでした。廃線の現実に慣れていない様子が、かえって廃線が地元へ与えた哀惜の深さを思わせてくれます。

私は尾関山駅跡を訪れたことで、三江線にも興味を持ちました。
常清滝へ向かう途中で訪れた、道の駅ゆめランド布野では、三江線の廃線当日を記録した写真集が売られており、つい購入してしまったほど。
残念ながら三江線は地方路線としての役割を果たしていないと判断されましたが、地元の人々にとっては日常の足だったことが分かります。
こうして一年後も路盤や線路が残されていることからも、地元の人々の諦め切れない思いの程が知れます。

さて、私は常清滝への道を目指しました。
常清滝は早春の気を存分にまとい、長大な筋となって流れ落ちていました。
三月とはいえ、まだまだ冬の気配が濃厚に残っているこの辺りには、肌寒ささえ感じました。この近辺はブッポウソウの生息地でもあるらしく、鳥の鳴き声が山々を癒やしています。私も周囲を見回しては、ブッポウソウを探しましたが見つけられませんでした。
あたりが春の芽生えに備え、山の鮮烈な気を蓄える中、長大な滝となって流れる落ちる常清滝。日本の滝百選に選ばれるだけのことはあります。
鳥・水・樹 常に清くを 味わえり
常に清く この場であれば 守れます。
常清滝にて

私は観瀑台からと、滝壺に降りての二カ所から、広島随一の滝を堪能しました。私にとって三十滝目となる日本の滝百選の滝です。去りがたい。




近くの川の駅常清に立ち寄った後、江平駅跡にも立ち寄りました。ここも廃止された三江線を構成した駅の一つです。
この駅も、廃線の現実を受け入れられない様子。むしろ、廃線を直前にした寂れた時間のまま、固まっているように思えます。それがかえって廃線の現実を浮き彫りにしていました。
道路が線路を跨ぐ部分には鉄パイプの柵とJR西日本の表記があり、それがなければ廃駅とは気づかないほどです。
いつでも駅として復活できそうな感じ。それがかえって、現実の寂しさを映し出していました。江平駅のたたずまいは、今回の旅でも印象に残った風景の一つです。
後はただ 早春の川に 身を映し
旧江平駅にて


続いて私が向かったのは近くの稲滝。標識を見つけたので立ち寄ってみました。
滝へ至る道は、かつては車が通れたのでしょう。舗装され、一定の幅を持っていました。
ですが、歩行者すら長い間絶えていたらしく、積もった土砂と落石、倒木に埋もれた道は、歩くのにも難儀するほどでした。
稲滝の姿が見える程度までは近づけたのですが、肉薄まではできません。少し、物足りない距離からの撮影しかできませんでした。

私は最後にもう一カ所。旧三江線の駅に寄りました。それは宇都井駅。島根県。邑南町にある駅です。
江平駅もギリギリ島根県に含まれていましたが、宇都井駅はより内陸に位置しています。
まさか、今回の旅で島根県に足を踏み入れるとは思っていなかった私は、はるばる島根県にまでやってきた感慨に浸りました。

この辺りで三江線は短絡するためでしょう、高架を走っています。
そのため、宇都井駅のプラットホームはかなりの高い位置にあります。ホームまでは百段ほどはあろうかと思える階段を登らなくてはなりません。
宇都井駅はそうしたアプローチからか、印象的な外観を持っていました。もし中国の駅百選が選定されていれば、きっと選ばれていたと思えるほど。

宇都井駅まで来る道中にも多くのサイクリストに遭遇しました。どうやら彼らのほとんどは、この宇都井駅を目指していたようです。
駅の周辺にもそうしたサイクリストが集っており、駅の周りは自転車の集散地となっていました。
私も彼らに混ざり、写真を撮りまくりました。近くの小川のせせらぎが心地よい音を立てていたのが印象に残っています。
宇都井駅で残念だったのは、廃駅になったため、プラットホームへの階段が閉じられていたことです。
今ではNPO法人江の川鉄道が時おりトロッコ列車を走らせており、その時だけはプラットホームまで上がれるようです。
駅の音や 雪解け水に 後託し
旧宇都井駅にて

こうやって閉じられた入口は、廃線の現実を見る者に突きつけているようです。
その現実は、この宇都井駅にも邑南町にも確実に影を落としているはず。
もっとも、三江線の廃止がこの地域にどのような影響を与えたのか、わたしにはよく分かりません。
ですが、一つだけ言えるのは、宇都井駅の遺構が地方の衰退の一つのモニュメントとなっていることです。私はこの地方のおかれた現実をしっかりと心に刻みました。

そんな私も今日、都会の親玉である東京に帰らなければなりません。
東京に帰るには、車で西宮まで戻り、さらに新幹線に向かう行程が待っています。
なぜ今日中に帰らなければならないのか。
それは、明日の朝から千葉の鋸山での登山が控えていたからです。

ひょっとしてこのスケジュール、かなりの無理があるのでは?
今更ながら、そんなことを思った私。13:30には宇都井駅に別れを告げ、三次市内まで車を走らせました。そして、14:30過ぎには三次インターチェンジから中国自動車道の流れに乗りました。
そこからは、休憩をせずに甲子園の実家まで。
確か、実家に着いたのは17:30頃だった気がします。

そして、そのタイミングで届いたのです。明日の鋸山への登山が雨天で中止になったという連絡が。
そうと知っていたら、もう少し島根や三次に止まっていられたものを。
その連絡をくださったのが、三次にルーツを持つ方だったというのも何かの暗合に思えます。
ですが、天候まではどうしようもありません。それもまた旅のつれづれなのだと諦めました。
そして、もう一泊実家に泊まらせてもらうことにしました。

翌日は若き日の私がお世話になった芦屋市役所を訪れ、今一度この目に原点である日々を思い返しました。それはとても有意義な時間でした。

また次回、笠岡、鞆の浦、福山、三次市、邑南町には機会を見つけてきたいと思います。この目が景色を愛でられるうちに。

この旅を通してご縁をいただいた皆様、本当にありがとうございました。


笠岡・鞆・kintone Café 広島@福山 2019/3/1


この旅を振り返るには、その前年の秋までさかのぼらなければなりません。
2018年の秋、kintone Café JAPAN 2018が日本橋のサイボウズ社で開催されました。それは、全国で活動するkintone Caféのリーダーが集まる場所。
その集まりに参加していたkintone Café 広島のリーダーである安藤さんに、来春は登壇します、と約束したのです。

約束した以上、果たすのは当然。
Messengerのやり取りによって決まった開催日が3/1でした。

前夜、新幹線で甲子園の実家に向かい、両親と鍋を囲んだ私。
翌朝、実家の車を借りて福山へ向かいました。
宝塚ICから中国自動車道と山陽自動車道を乗り継ぎ、一路西へと車を駆る私。今回は同乗者もおらず、車内には私ひとり。つまり、リハーサルには持ってこいです。夜に話す内容を何度も繰り返しフロントガラスに向けて語る私。多分、反対車線を走る超人的な動体視力のドライバーからは不気味に映ったことでしょう。

夜の登壇に向け、やる気に満ちた私。
とはいえ、高速道を降りたのは笠岡インターチェンジ。福山の一つ手前です。
なぜ、笠岡?
それはもう、私のいつものパターンが発動したからです。仕事で地方に行く際は必ず観光を組み込む。それは私の王道。
いったんkintoneのことは忘れ、笠岡を堪能したい!
そんな私が目指したのはカブトガニ博物館。

カブトガニ博物館は、まだ未訪問でした。なので前から一度は来たいと願っていました。何せ世界で唯一のカブトガニを取り上げた博物館ですから。
館内にはカブトガニの生態が観察できるよう、大小のカブトガニが多数、水槽で飼育されています。
この博物館では、生きる化石とも言われるカブトガニの生態や、なぜ笠岡にカブトガニが生息しているのかについての詳しい展示がされています。それらの展示はどれもが興味深く、知識として得がたいものです。なぜなら、カブトガニはあまり水族館でも見かけないからです。つまり、カブトガニの生きざまや萌えるポイントを知らずに生きてきたのです。

水槽の中でもあまり動かず、ジッとしている個体もいれば、雌雄のツガイが交尾中のまま、水槽に固定されたかのように動かない姿も食い入るようにみました。
何もかもがミステリアス。それでいて憎めない存在。
エイリアンのモデルになったのでは?と思わせるいかついフォルムを擁しているカブトガニに、萌えを感じる人はなかなかいないはず。
もし興味を持ったあなたは一度カブトガニ博物館に来てみることをお勧めします。

私の印象に強く残ったのは、カブトガニの血液から薬が作られていることです。
カブトガニの独特の青白い血からしか作れない薬があるらしく、それがここ笠岡で製薬会社と連携して作られているとか。
素晴らしいことです。それ以上に素晴らしいのは、青白い色の鮮烈さ。
カブトガニに対しては「おめえらの血は何色だァ」とすごんで見せても「青白ですが、何か?」と返し技を喰らうので気を付けなければ。

カブトガニ博物館には、養殖池やシアターや化石展示など見所に富んでいます。この博物館のためだけに笠岡に来る価値はあると思えました。そう言い切ってしまえるほど、全国でも唯一無二の存在なのです。
博物館の受付ではマンホールカードもいただきました。笠岡市のマンホールにはカブトガニがあしらわれていて、コレクターの琴線をくすぐってくれます。

博物館の外には大きめの公園が設えられ、そこには等身大と思われる巨大な恐竜の像が何体も展示されています。笠岡では恐竜も発掘されたらしく、館内にも化石が展示されていました。
私が訪れたとき、ちょうど幼稚園の園児たちが見学に来ていて、恐竜の周りでお弁当を食べていました。この中で何人が古生物学者になってくれることやら。楽しみです。


カブトガニ博物館の目の前に広がる海は、カブトガニの住処であることが納得できるほど凪いでいました。
この穏やかな海の光景は、笠岡を思い出すたびに脳裏に浮かぶことでしょう。

この海に 太古の奇跡 輝きぬ
笠岡市立カブトガニ博物館にて

私がまだ知らずにいた笠岡の魅力。
そうした出会いに恵まれる経験こそが、旅の妙味です。

他にも笠岡の魅力はあるはず、と駅前のラーメン店を探したのですが、あいにく車を停めるスペースが見つからず。
海辺の隠れ家のような場所にあるうどん屋も訪れてみましたが、そこも あいにくの閉店日でした。天は私に笠岡の食い物をお預け遊ばしやがる。

ところが私に、天は笠岡ラーメンを賜ってくださったのです。
それは広大な干拓地の中にある道の駅ベイファーム笠岡まで足を伸ばしたときの事。
せめてそこで軽く食事だけでも、と思った私に笠岡ラーメンの写真が。醤油ベースのそれをつるりと。ご馳走さまです。
時間が遅くなったので、惣菜ビュッフェまで用意されていたのですが、さすがにそれは我慢しました。
道の駅に売られている農産物はどれもがとても美味しそう。この地の豊かさを感じます。

何しろ、あたりは広大です。干拓によって生まれたとされる道の駅周辺は、広大な農地。この広がりから、豊穣な産物が生産される。まさにこれは笠岡のランドスケープ。
海と干拓地の平らで広やかな様子は、私の記憶に笠岡の魅力として残り続けるはずです。

続いて私が向かったのは鞆の浦。
私はかつて、福山には来たことがあります。だが、その時には鞆の浦は訪れませんでした。その時の私が訪れたのは、ホロコースト記念館。その話はまた別に。

さて、私の期待を裏切らぬように、鞆の浦は、風情と歴史を全力で私の眼前で表現してくれていました。
古来より風待ちの港町として栄えてきた伝統。それは、道の狭さにもあらわれています。車を止める場所を見つけられず私に鞆の街を二周もさせてしまうほど。

結局、停める場所が見つからず、観光案内所に車を停めさせてもらいました。最初は観光案内所にも一瞬だけ停めさせてもらうつもりだったのです。
ところが、少し街に足を踏み入れた私は出会ってしまったのです。保命酒の店舗に。
風情のある建物に掲げられる保命酒の看板。それが数軒連なり、通りを構成している。私はそのたたずまいにすっかり魅了されてしまいました。

保命酒の知識など全く持たぬまま、鞆の浦に迷い込んだ私。予期せぬ酒蔵の出現にすっかり上機嫌となり、鞆の浦から去り難くなってしまいました。
入江豊三郎本店の店舗に入り、店員さんにあれこれ質問させてもらい、製法の資料などを興味深く拝見しました。
養命酒とほぼ製法は同じらしいのですが、鞆の浦の賑わいとともに、全国的な知名度も落としてしまったとか。
惜しい。一介の飲んべえに過ぎないただの風来坊の私ですが、保命酒はもっと知ってもらいたい、と思える存在でした。
私も一本、入江豊三郎商店の一リットル瓶を、両親のために買い求めました。

保命酒によって鞆への興味がむくむくと湧いた私。
続いて向かったのは、鞆城跡。
天守は現存しませんが、天守の代わりに歴史博物館が鞆の街を見守っています。
天守台から見下ろす鞆の街、そして瀬戸内海。まさに絶景です。早春の瀬戸内海の景色とはこのようなものか、と悦にいる私。

ちなみにこの時の私は、鞆の浦がモデルとなったといわれる「崖の上のポニョ」は確かに意識していましたが、それほどの感慨は持ちませんでした。鞆城址からのアングルがポニョのしんに思い当たらなかったからかもしれません。
そもそも街もあまりポニョのことは表に出していない様子。
それはそうでしょう。これだけの観光資産を抱えていればポニョに頼らなくとも十分なはず。
ポニョの海 なだらかに春 歌いけり
鞆の浦にて

ますます鞆の浦に興味を抱いた私は、夜のkintone Caféのことなどすっかり忘れ、せっかくなので鞆の浦をさらに見て歩きたくなりました。
まず観光案内所に一度戻り、きちんとお店の人に話しをしてお金を支払い
、ついでに私向けに四蔵の製品がそれぞれミニボトルになったお土産を購入しまして。

再び街を巡り始めた私が訪れたのは、常夜燈のある海辺です。この日は観光客も多かったのですが、地元の中学生がボランティアガイドをしている姿に打たれました。数人ではなく、20人以上はガイドがいたでしょうか。積極的に声を掛けてくるのです。
私も声を掛けてくれた男子に太田家住宅や七卿落ちの史跡の由来を教わりました。なんだか胸がほっこりしました。

常夜燈のたもとにいた地元の古老らしき方は、ガイドさんの説明に納得がいかないらしく、文句を垂れていました。
わたしもその古老には常夜燈の由来をいろいろと教わりました。が、古老もいつの日か、ガイドできる体力がなくなるはず。
だからこそ中学生がガイドを行うことが重要なのです。
彼ら彼女らの存在がどれだけ観光客には爽やかに映るか。そして将来、地元への愛着をどれだけ養ってくれるか。
私にとって、鞆の浦の思い出の一つがこのガイドさんたちとの出会いでした。

常夜燈の側にはいろは丸展示館があり、そこは中に入って見学しました。坂本龍馬が乗っていて、紀伊藩の明光丸と衝突して沈んだあの船です。

私は最後に、坂本龍馬が隠れて住んでいたという桝屋清右衛門宅の隠れ部屋を見学しました。
鞆の浦とは、さほど広くない街の至る所にこうした歴史の面影を宿す場所があります。歴史が好きな人にとって、鞆には何日滞在しても飽きないことでしょう。
「竜馬がゆく」の世界がこうして今も残されていることに、粛然とした思いがよぎります。
室町、安土桃山時代、江戸時代、幕末と歴史の年輪が刻まれた鞆の浦の魅力は一度だけの訪問では到底味わい切れるものではないのでしょう。

わたしにとって見るべきところはまだまだあり、安国寺や平賀源内生祠など行けなかった場所からはいまだに後ろ髪を引っ張られ続けています。
ですが、そろそろ福山に向かわなければ。何のために福山にきたのか忘れそうになってしまいます。

私が福山でとったのはアンカーホテル。福山城の近くです。
シャワーを浴び、登壇内容の最後の確認をしていると、私と同じく遠方からkintone Café広島に来られた久米さんからご連絡があり、一緒にタクシーで会場に向かいました。
その後のkintone Café広島の詳細は、

kintone Café 広島 vol.12 @福山に登壇しました


に記しており、本項では割愛します。

とにかく、とても充実した一日でした。この旅でお会いした皆様、ありがとうございました。


星籠の海 下


上巻で広げるだけ広げた風呂敷。そもそも本書が追っている謎は何なのか。読者は謎を抱えたまま、下巻へ手を伸ばす。果たして下巻では謎が明かされるカタルシスを得られるのだろうか。下巻ではさすがにこれ以上謎は広がらないはず。と、思いきや、事件はますますよくわからない方向に向かう。

石岡と御手洗のふたりは、星籠が何かという歴史の謎を追いながら、福山で起こる謎の事件にも巻き込まれてゆく。その中で、福山に勢力を伸ばし始めた宗教団体コンフューシャスの存在を知る。しかも、コンフューシャスを裏で操る黒幕は、御手洗が内閣調査室から捜査を依頼されていた国際的なテロリストのネルソン・パク本人である事実をつかむ。どうも福山を舞台とした謎めいた事件の数々は、宗教団体コンフューシャスの暗躍にからんでいるらしい。

ここが唐突なのだ。上巻でたくさん描かれてきた謎とは、御手洗潔とネルソン・パクの宿命の対決に過ぎないのか、という肩透かし。そもそも、宿命の対決、と書いたが、私はネルソン・パクをここで初めて知った。御手洗潔に宿命のライバルがいたなんて!これは『御手洗』シリーズの全て順番に忠実に読んでこなかった私の怠慢なのだろうか。シリーズを読んできた方にはネルソン・パクとは周知の人物なのだろうか。シャーロック・ホームズに対するモリアーティ教授のように。私の混乱は増すばかり。多分、おおかたの読者にとってもそうではないか。

御手洗潔の思わせぶりな秘密主義は毎回のことなのでまあいい。でも、急にネルソン・パクという人物が登場したことで、読者の混乱はますはずだ。それでいながら、辰見洋子が瀕死でテーブルに両手両足を縛り付けられている事件や、赤ん坊が誘拐され、その両親は柱に縛り付けられるという新たな謎が下巻になってから提示される。どこまで謎は提示され続けるのだろうか。それらの謎は、どれも福山を舞台にしていることから、コンフューシャスの暗躍になんらかの繋がりはあるのだろう。でも、読者にはそのつながりは全く読めない。小坂井茂と田丸千早は演劇を諦めて福山に戻ってきた後、どう本筋に絡んでくるのか。鞆で暮らすヒロ少年と忽那青年は本筋で何の役割を果たすのか。そこにタイトルでもある星籠は謎をとく鍵となるのだろうか。

無関係のはずの複数の事件を結びつける予想外のつながり。その意外性は確かに推理小説の醍醐味だ。だが、本書の場合、そのつながりがあまりにも唐突なので少々面食らってしまう。辻褄を無理矢理合わせたような感触すらうける。コンフューシャスという宗教団体に黒幕を登場させ、実は御手洗はその黒幕をずっと追っかけていた、という設定もいかにも唐突だ。

本書が、星籠とは何かと言う謎をひたすらに追っかけていくのであればまだ良かった気がする。それならば純然たる歴史ミステリーとして成立したからだ。ところが、他の複数のエピソードが冗長なあまり、それらが本筋にどう繋がるのかが一向に見えてこない。このところ、著者は伝承や伝説をベースに物語を着想することが多いように思うが、あまりにも付け足しすぎではないだろうか。むしろ、上下で二分冊にする必要はなく、冗長なエピソードは省き、冒険活劇めいた要素もなくしても良かったと思う。

星籠が何を指すのかという謎を追うだけでも、十分に意欲的な内容になったと思う。星籠が何かということについては、本稿では触れない。ただ、それは歴史が好きな向きには魅力的な謎であり、意外な正体に驚くはず。そして、星籠の正体を知ると、なぜ本書が福山を舞台としたのか、という理由に納得するはずだ。また、上巻の冒頭で提示された、瀬戸内海という場を使った壮大な謎が、物語にとって露払いの役割にしかなっていない事を知るはずだ。それは瀬戸内海という海洋文化を語るための導入の役割であり、大きな意味では無駄にはなっていない。

だが、その謎を軸にした物語を展開するため、エピソードを盛り込みすぎたことと、冒険活劇めいた要素を盛り込みすぎたことが、本書をいささか冗長にしてしまったようだ。もちろん、下巻で、上巻から展開してきた多くの謎は収束し、とかれてゆく。だが、謎の畳まれ方がいく分、乱雑に思えてしまうのは私だけだろうか。その豪腕ともいうべき物語のまとめ方はすごいと思うが。

本書を映画化するにあたり、雑誌「ダ・ヴィンチ」で特集があった。著者のインタビューも載っているし、今までの著者の名作の紹介も載っている。その特集をあらためて読むと、著者の偉大さをあらためて思う。上巻のレビューにも書いた通り、私の人生で最もなんども読み返したのは『占星術殺人事件』。私にとって、永遠の名作でもある。その一冊だけでも著者の評価はゆるぐことはないだろう。

本書を『占星術殺人事件』と比べると、私にとってはいささか冗長で、カタルシスを得るには至らなかった。ただし、本書を読んで数カ月後、思いもよらない形で私は本書とご縁ができた。kintoneのユーザー会で訪れた福山、そして鞆。どちらも、本書で描かれたようなおどろおどろしさとは無縁。本書でヒロ少年と忽那青年が暮らす鞆は、豊穣に広がる海が、かつての水軍の栄華を思い起こさせてくれた。街並みもかつての繁栄を今に残しており、歴史を愛する私にとって、素晴らしい体験を与えてくれた。美しく、また、楽しい思い出。

その旅を思い出し、初めて本書の真価が理解できた気がした。本書はいわばトラベルミステリーの一つなのだと。著者は福山の出身であり、本書は映画化されている。つまり、本書は、映画化を前提として描かれたに違いない。そこに著者の得意とする壮大な謎解きと、福山の歴史ロマンをくわえたのが本書なのだ。福山や鞆を訪れた経験の後、本稿を書き始めて、私はそのことに思い至った。

トラベルミステリーと聞くと、手軽なミステリーとの印象がついて回る。だが、本書を仮にトラベルミステリーととらえ直してみると、印象は一変する。福山とその周辺を魅力的に描き、歴史のロマンを取り上げ、さらには大胆なトリックがいくつも。さらには冒険活劇の要素まで加わっているのだ。つまり、本書は上質のトラベルミステリーといえるのではないだろうか。もちろん、そこに悪い意味はない。

本稿を書きながら、また、福山と鞆の浦に行きたくなったのだから。

‘2018/09/05-2018/09/05


星籠の海 上


本書は映画化されるまで存在に気付かなかった。映画の番宣で存在をしったので。かつてのように推理小説の状況をリアルタイムでウォッチする暇もない最近の私。推理小説の状況を知るのは年末恒例の「このミステリがすごい」を待ってからという状態だ。本書が『御手洗』シリーズの一冊だというのに。

御手洗潔といえば、名探偵。私が今までの人生で最も読み返した本は『成吉思汗の秘密』と『占星術殺人事件』。御手洗潔は後者で鮮烈なデビューを果たした主人公だ。御手洗と言えば相棒役の石岡を外すわけにはいかない。御手洗と関わった事件を石岡が小説に著す、というのが今までの『御手洗』シリーズのパターンだ。

本書の中で石岡が述懐した記録によれば、本書は『ロシア幽霊軍艦事件』の後に起こった事件を小説化しているという設定だ。そして本書の後、御手洗潔はスウェーデンに旅立ってゆく。本書は、御手洗潔が最後に国内で活躍した事件という体をとっている。

ではなぜ、著者は御手洗潔を海外に飛び出させてしまったのだろう。それは著者が御手洗潔を持て余してしまったためだと思う。本書の冒頭で描かれるエピソードからもその理由は推察できる。

かのシャーロック・ホームズばりに、相手を一瞥しただけでその素性を見抜いてしまう観察力。『占星術殺人事件』の時に描かれたようなエキセントリックな姿は影を潜め、その代わりに快活で多趣味な御手洗潔が描かれている。つまり、パーフェクト。超人的な観察能力は『占星術殺人事件』の時の御手洗潔には描かれておらず、もっと奇天烈なキャラクターとして登場していた。ところが今の御手洗潔はパーフェクトなスーパーマンになってしまっていた。そのような人間に主人公を勤めさせ続けると、著者としては推理小説が書けなくなってしまう。なぜなら、事件が起こった瞬間に、いや、事件が起こる前に超人的な洞察力で防ぐのがパーフェクトな名探偵だからだ。神がかった人間が秘密をすぐに見破ってしまうとすれば、著者はどうやって一冊の本に仕立て上げられるというのか?

作者としても扱いに困る存在になってしまったのだ。御手洗潔は。だからこのところの『御手洗』シリーズは、御手洗潔の子供時代を描いたり、日本で苦労しながら探偵役を務める石岡からの助けに、簡潔なヒントをスウェーデンからヒントをよこす役になってしまった。

本書はその意味で御手洗潔が日本で最後に手掛けた事件だという。今後御手洗潔が日本で活躍する姿は見られない気がする。本書は石岡のメモによると1993年の夏の終わりに起こった設定となっている。

著者の作品は、壮大な科学的事実を基に着想されていることが多い。死海の水がアトピー治療に効くとか、南半球と北半球では自然現象で渦の向きが逆転するとか。本書もそう。ところが著者は、もはやそうした謎をもとに物語を構築することをやめてしまったようだ。本書はどこからともなく死体が湧いて打ちあがる瀬戸内海の興居島の謎から始まる。ところがそのような魅力的な謎を提示しておきながら、その謎はあっけなく御手洗が解いてしまう。

ただし、そのことによって、著者は瀬戸内海に読者の目を向けさせることに成功する。紀伊水道、豊後水道、関門海峡のみが外海の出入り口であり、潮の満ち引きに応じて同じ動きをする海。それを御手洗潔は時計仕掛けの海と言い表す。

それだけ癖のある海だからこそ、この海は幾多の海戦の舞台にもなってきたのだろう。そして今までの歴史上、たくさんの武将たちがこの海を統べようとしてきた。平清盛、源義経、足利尊氏。そのもっとも成功した集団こそ、村上水軍。本書はもう一つ、村上水軍に関する謎が登場する。戦国の世で織田信長の軍勢に敗れた村上水軍は、信長の鉄甲船に一矢報いた。ところが、本能寺の変のどさくさに紛れ、その時に攻撃した船は歴史の闇に消えたという。

ところが、幕末になり、ペリー率いる四隻の黒船が浦賀沖に姿をあらわす。黒船に対応する危急に迫られた幕府から出船の依頼がひそかに村上水軍の末裔に届いたという。それこそが本書のタイトルでもある星籠。いったい星籠とは何なのか、という謎。つまり本書は歴史ミステリーの趣を濃厚に漂わせた一冊なのだ。

ところが、上巻のかなりの部分で星籠の謎が語られてしまう。しかも本書は、本筋とは違う挿話に多くの紙数が割かれる。これは著者の他の作品でもみられるが、読者は初めのうち、それらの複数のエピソードが本筋にどう絡むのか理解できないはずだ。

本筋は御手洗や石岡が関わる興居島の謎だったはずなのに、そのほかに全く関わりのない三つの話が展開し始める。一つ目は、小坂井茂と田丸千早の挿話だ。福山から東京に出て演劇に打ち込む青春を送る二人。その栄光と挫折の日々が語られてゆく。さらに、福山の街に徐々に不気味な勢力を伸ばし始めるコンフューシャスという宗教が登場し、その謎めいた様子が描かれる。さらに、福山にほど近い鞆を舞台に忽那青年とヒロ少年の交流が挟まれる。ヒロ少年は福島の原発事故の近くの海で育ち、福山に引っ越してきたという設定だ。共通するのは、どの話も福山を共通としていること。そこだけが読者の理性をつなぎとめる。

四つのストーリーが並行してばらばらに物語られ、そこに戦国時代と幕末の歴史までが関わってくる。どこに話が収束していくのか、途方にくれることだろう。そもそも本書でとかれるべき謎が何か。それすらわからなくなってくる。興居島に流れ着く死体の謎は御手洗が解いてしまった。それを流したのは誰か、という謎なのか。それともコンフューシャスの正体は誰か、という謎なのか。それとも星籠の正体は何か、という謎なのか。それとも四つの話はどうつながるのか、という謎なのか。

そもそも本書が追っている謎は何なのか。それこそが本書の謎かもしれない。目的が不明な小説。それを狙って書いたとすれば、著者のミステリー作家としての腕はここに極まったといえよう。

下巻になると、それらの謎が少しずつ明かされてゆくはず。そんな期待を持ちながら上巻を閉じる。そんな読者は多いはずだ。

‘2018/09/04-2018/09/04


kintone Café 広島 vol.12 @福山に登壇しました


3月1日に開催されたこちらのイベントに弊社代表である私長井が参加し、登壇して参りました。

昨年秋のkintone Café Japanの懇親会で結ばれた今回のご縁。今年に入ってから示されたCaféのお題は「小さい組織でのkintone活用術!」だとか。
https://kintone-cafe-hiroshima.connpass.com/event/119652/

であらば、私が話すべきテーマは自治会しかあるまい、と思いました。昨年六月、サイボウズ社においてチーム応援ライセンスの記念セミナーに登壇しました。その際に取り上げた主な話題はCybozu LiveからCybozu Officeへの移行。kintoneにはわずかしか触れられませんでした。ところが、自治会業務にとってkintoneは欠かせないサービスなのです。ならば、今回のkintone Café 広島は私が思い描くテーマを深める良い機会となるはず。

今回、参加者の中にはkintoneを触った事のない方もいらっしゃるとか。であるなら、私は技術に深入りすまい。kintoneを導入するにあたっての前提だけを語ろうと思いました。自治会の業務は、他の小さい組織のモデルケースにもなるだろうし。技術的な観点や実際のkintoneの使用デモは、他の登壇者久米さん、山川さんが触れてくれるはず、との期待をこめて。

そんな思いで資料をまとめ始めたものの語るべきことは多い。チーム応援ライセンスの概要にも触れておきたい。そして私に与えられた時間は二十分。なのにスライドの枚数はどんどん増えてゆき、ついには六十枚を突破。

福山駅から久米さん夫妻とタクシーに乗り、会場である猪原歯科さんについたのは開演15分前。入るなり、中の洗練された様子に感嘆することしきり。私の妻も歯科診療所を経営しているのですが、規模が違いすぎます。副院長である猪原健先生が自らご案内してくださるという光栄にも恵まれまして、私たちは数名で院内を見学させていただきました。ただただ感嘆しながら。

うちの妻の歯科診療室はユニット一台。妻が受付と医師も兼ねています。ところが猪原歯科さんはパーティションで区切られた四つのユニットと三つの個室診療室を擁しています。さらには内科診療室や言語療法室なども備わっており、そのすべてが駐車場から完全バリアフリーというのがすごい。入り口の待合室のソファーも素晴らしいし、何よりもオープンキッチンの存在が異彩を放っています。このオープンキッチンは「摂食・嚥下リハビリ中の患者様・ご家族様に対して、嚥下食や高カロリー食の調理方法等をレクチャーするキッチン設備」と謳われています。私は今までも妻の関係からあちこちの歯科医院に訪れましたが、オープンキッチンが備わった歯科診療所は初めてみました。さらに、最新型のデジタル印象採得からセラミックの最終修復物まで作り上げてしまうという優れモノの機械が鎮座し、私はただただ感嘆の言葉しか出ません。歯科技工士さんも院内で常駐されており、猪原歯科さんが院内の管理にkintoneを活用されている理由がわかった気がします。

猪原歯科さんは1946年に設立してから70年以上の歴史を持っているとのこと(サイト)。妻の実家の歯医者も借地にさえしていなければ60年の歴史は誇れていただろうに。とその解体を見守った私に、複雑な思いが去来しました。

さて、kintone Café 広島 vol.12の開催です。安藤さんの司会によって始まり、トップバッターは私。安藤さんが今回の参加者の皆様にkintoneの認知度を伺ってくださったところ、技術面で深入りしないほうがよい、との判断は当たったようでした。ところが、しゃべっているうちに話し始めた時間を忘れてしまい、なんとか60枚近くのスライドを語ったものの、時間を超過するという凡ミス。冒頭のアンケートでkintoneをほぼ使ったことのない方が多かったため、予定していなかったアプリのデモにまで話を広げたのはやりすぎでした。

まあ、笑ってもらいたいところで受けがとれたのは自分の中で認めてもよいかも。あと、昨年のチーム応援ライセンスの記念セミナーで登壇した際も思ったのですが、自治会というネタは刺さる人とそうでない人に分かれます。今回は数人の方が熱心にうなづいてくださっていました。ただ、そうでない方は反応が薄い。私の反省点として、自治会という対象は中小企業にも通ずる、という論点をもう少し強調するべきでした。
https://slides.com/yoshikazunagai/kintonecafe_hiroshima_vol12/fullscreen

私の後に登壇してくださったのは福岡からご参加の久米さん。スペースの使い方、というテーマで、マルチアカウントを操りながらのコメントや通知のやりとりの実例を披露していただきました。コミュニケーションこそが重要との私の主張を深めてもらい、皆さまもよりご理解が進んだのではないかと。私自身、今後の登壇では一人で全部こなす可能性もあります。そのためにもマルチアカウントを駆使したデモは習得しないと。
https://www.slideshare.net/jkume/20190301-kintone-caf-hiroshimavol12

さらに続いては岡山からご参加の山川さんによるウェブ連携のデモ。kintoneの内容をwordpressなどのCMSに表示させる実例をシンプルな例で説明してくださいました。実はデータベースだけの導入でもkintoneは業務改善に大きな効果を発揮します。それがシンプルな実例として見られたのは良かった。私も実装経験はあり、記事にも書いた事があります。サイト内のカタログが簡単に修正できるデモは、参考になりました。
https://www.slideshare.net/secret/9hlG9PwUCFI2cM

私が伸ばしてしまった時間を後のお二人がきっちり時間内に収めたのはさすが。とっても感謝です。

最後に質疑応答の時間では、私が触れたポータルのカスタマイズなどにご質問を頂戴しました。ポータルの整備こそ、リテラシーの壁を越えてkintoneを広めるための要点という私の見込みに自信が持てました。
https://www.kintonecafe.com/activities/4327!

夜の懇親会では、広島といえば海の幸、という事で楽しい会話においしい料理とお酒に癒やされました。kintone Caféの懇親会は毎回、楽しみなのです。

ご参加の皆様、運営の皆様、猪原歯科の皆様、誠にありがとうございました!