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太陽の子


本書は、関西に移住した沖縄出身者の暮らしを描いている。
本書の主な舞台となる琉球料理屋「てだのふあ・おきなわ亭」は、沖縄にルーツを持つ人々のコミュニティの場になっていた。そのお店の一人娘ふうちゃんは、そのお店の看板娘だ。
本書は、小学六年生のふうちゃんが多感な時期に自らの沖縄のルーツを感じ、人の痛みを感じ、人として成長していく物語だ

お店の場所は本書の記述によると、神戸の新開地から東によって浜の方にくだった川崎造船所の近くという。今でいう西出町、東出町辺りだろう。この辺りも沖縄出身者のコミュニティが成り立っていたようだ。

『兎の眼』を著した人としてあまりにも有名な著者は、かつて教師の職に就いていたという。そして、17年間勤めた教員生活に別れをつげ、沖縄で放浪したことがあるそうだ。

本書は、その著者の経験がモチーフとなっている。教員として何ができるのか。何をしなければならないかという著者の真剣な問い。それは、本書に登場する梶山先生の人格に投影されている。
担任の先生としてふうちゃんに何ができるか。梶山先生はふうちゃんと真剣に向き合おうとする。ふうちゃんのお父さんは、沖縄戦が原因と思われる深い心の傷を負っていて、日常の暮らしにも苦しんでいる。作中にあぶり出される沖縄の犠牲の一つだ。

「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間になりたくない」(282ページ)
このセリフは、本書の肝となるセリフだろう。ふうちゃんからの手紙を、梶山先生はその返信の中で引用している。

ここでいう知らなければならないこととは、沖縄戦の事実だ。

私はここ数年、沖縄を二度旅している。本書を読む一昨年と三年前のニ回だ。一度目は一人旅で、二度目は家族で。

一度目の旅では、沖縄県平和祈念資料館を訪れた。そこで私は、沖縄戦だけでなく、その前後の時期にも沖縄が被った傷跡の深さをじっくりと見た。
波間に浮き沈みする死んだ乳児の動画。火炎放射器が壕を炙る動画。手榴弾で自決した壕の避難民の動画。崖から飛び降りる人々の動画。この資料館ではそうした衝撃的な映像が多く見られる。

それらの事実は、まさに知らなくてはならないことである。

沖縄は戦場となった。それは誰もが知っている。
だが、なぜ沖縄が戦場になったのか。その理由について問いを投げかける機会はそう多くない。

沖縄。そこは、ヤマトと中国大陸に挟まれた島。どちらからも下に見られてきた。尚氏王朝は、その地政の宿命を受け入れ、通商国家として必死に生き残ろうとした。だが、明治政府の政策によって琉球処置を受け、沖縄県に組み入れられた琉球王朝は終焉を迎えた。
沖縄の歴史は、戦後の米軍の占領によってさらに複雑となった。
自治政府という名称ながら、米軍の軍政に従う現実。その後日本に復帰した後もいまだに日本全体の米軍基地のほとんどを引き受けさせられている現実。普天間基地から辺野古基地への移転も、沖縄の意思より本土の都合が優先されている。
その歴史は、沖縄県民に今も圧力としてのしかかっている。そして、多くの沖縄人(ウチナーンチュ)人が本土へと移住するきっかけを生んだ。

だが、日本に移住した後も沖縄出身というだけで差別され続けた人々がいる。ヤマト本土に渡ったウチナーンチュにとっては苦難の歴史。
私は、そうした沖縄の人々が差別されてきた歴史を大阪人権博物館や沖縄県平和祈念資料館で学んだ。

大阪人権博物館は、さまざまな人々が人権を迫害されてきた歴史が展示されている。その中には沖縄出身者が受けた差別の実情の展示も含まれていた。関西には沖縄からの出稼ぎの人々や、移民が多く住んでいて、コミュニティが形成されていたからだ。
本書は、沖縄の歴史や沖縄出身者が苦しんできた差別の歴史を抜きにして語れない。

ふうちゃんは、お父さんが子供の頃に体験した惨禍を徐々に知る。沖縄をなぜ疎ましく思うのか。なぜ心を病んでしまったのか。お父さんが見聞きした凄惨な現実。
お店の常連であるロクさんが見せてくれた体の傷跡と、聞かせてくれた凄まじい戦時中の体験を聞くにつけ、ふうちゃんは知らなければならないことを学んでいく。

本書の冒頭では、風ちゃんは自らを神戸っ子であり、沖縄の子ではないと考え、沖縄には否定的だ。
だが、沖縄が被ってきた負の歴史を知るにつれ、自らの中にある沖縄のルーツを深く学ぼうとする。

本書には、山陽電鉄の東二見駅が登場する。江井ヶ島駅も登場する。
ふうちゃんのお父さんが心を病んだのは、ふらりと東二見や江井ヶ島を訪れ、この辺りの海岸線が沖縄の南部の海岸線によく似ていたため。訪れた家族やふうちゃんはその類似に気づく。
どれだけの苦しみをお父さんが味わってきたのか。

父が明石で育ち、祖父母が明石でずっと過ごしていた私にとって、東二見や江井ヶ島の辺りにはなじみがある。
また明石を訪れ、あの付近の光景が沖縄本島南部のそれに似ているのか、確かめてみたいと思った。

そして、もう一度沖縄を訪れたいと思った。リゾート地としての沖縄ではない、過去の歴史を直視しなければならないと思った。沖縄県平和祈念資料館にも再訪して。

私は、国際政治の複雑さを理解した上で、それでもなお沖縄が基地を負担しなければならない現状を深く憂える。
そして、本書が描くように沖縄から来た人々が差別される現状にも。今はそうした差別が減ってきたはず、と願いながら。

‘2020/03/28-2020/03/31


神戸三宮・北野・梅田 2019/4/29-4/30


ゴールデンウィークを利用し、実家へと旅しました。
ざっと旅日記にまとめておこうと思います。

一日目、4/29
柿生駅前のオリックスレンタカーで車を借り、家で荷物を積み込んだ後、出発。
都内に出ていた妻を駅で拾ったのは19:30頃。
そこから東名に乗って西へとひた走った私。海老名SAと岡崎SAに寄っただけで、まっしぐらに車を駆り、実家に着いたのは夜中でした。

二日目、4/30
朝から夫婦で西宮神社へお参りに。関西に住んで二十年を超えた私ですが、年に一回の氏神様へのご挨拶は欠かせません。
娘たちが二人とも入学したことを報告し、感謝しました。

神の杜 平成惜しみ 初夏の雨
西宮神社にて

その後は、一度実家に戻り、娘たちを連れて電車で神戸へ向かいました。
三宮駅から高架下の雑多なお店を歩き回り、あちこちのお店を冷やかした私たち。
オシャレでありながら、なにやら雑多なエネルギーのあふれる高架下は、東京ではあまり見かけない場所のはず。娘たちも、あちこちのお店を見て回っていました。
昔も今も、私にはあまり興味のない場所なのですが・・・

高架下を堪能した後は、北野の方へ。神戸情緒を存分に感じながら、坂を上っていくこのあたりの景色を目に焼き付けます。
かつて、妻と付き合い始めた頃、北野を歩き回ったことが思い出されます。
妻は北野の界隈が好きなので、ここ数年、帰省の度に妻とこの辺りは歩き回っています。
ところが、娘たちを二人とも連れてきたことがありませんでした。多分、家族四人でこの辺りを歩き回るのは初めてでしょう。

北野工房のまちでは、地元の灘の酒を集めたアンテナショップで、うまい日本酒の試飲を堪能しました。北野工房のまちを訪れるのは何度目かですが、灘の酒がこれだけ飲める場所があることを知ってうれしかったです。
あまりに酒が美味しくて、二本買って帰りました。仙介と百黙を。

続いて私たちが食事をとったのは、「ザ・シーズンランドマーク神戸 北野」というお店。ここでは、神戸らしくビーフカレーに舌鼓をうちました。美味しかった。神戸がビーフカレーの本場かどうかは知らんけど。
異人館のような外観のスターバックスをはじめ、辺りに散在する異国情緒に満ちた建物を眺めながら歩くひととき。娘たちにも北野の街並みの魅力を感じてもらえたかも。

最後は新神戸駅の方から下ってにしむら珈琲店へ。
このあたりは私と妻にとって思い出の地。娘たちを連れ、夫婦の思い出の地を連れ歩くのもまた一興です。娘たちに神戸の良さを感じてもらえたなら何よりです。

神戸を堪能したところで、阪急に乗って梅田へ。
あと一年半強で酒が飲めるようになる長女、そして調理師学校に入学し、サービスの世界にも興味を抱く次女。
bar harbour Innは親として娘たちに推薦できる場所です。
二人ともマスターの藤田さんが丁寧に作ってくださったノンアルコールカクテルを美味しいと飲んでいました。
大人になる心構えを、少しでも感じてくれれば、と思います。
長女はその場で藤田さんの似顔絵を描いて進呈していました。

そして今日は事前に連絡を入れ、私が人生の師匠と目する早川さんとお会いすることができました。
多分、娘たちは早川さんに会うのは十年ぶりぐらいかもしれません。

若い頃の私が、早川さんに初めてbar Harbour Innで出会った頃、ようやく鬱も癒えはじめたばかりでした。その頃の私に今の未来図は決して想像できなかったです。東京に住んでいることも、結婚していることも、こんなに大きく育った娘たちがいることさえも。
人生の滋味と大人になることの意味を深く感じた時間でした。

ありがたさを感じつつ、実家では両親も含めて卓を囲んでの鍋を。
さっそく北野工房のまちで買ってきた仙介をうまいうまいと飲み干しつつ。


地震に備える仕事と生活


熊本で大きな地震がありました。

奇しくも兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)と同じマグニチュードだったそうですね。
断層を震源とした都市直下型としても同じ構造のように思えます。

当時、兵庫県南部地震で被災した者としては、今回の地震には思うところが多々あります。

その思いは、どうしても目前に迫っているといわれる首都圏直下型地震にたどり着きます。2020年のオリンピックも近づいている東京ですが、耐震対策については依然として改善の兆しが見えません。

私はこの4月からワークスタイルを変えました。3月までは月~金は都心で客先に常駐するスタイル。4月からは週の半分を弊社事務所や町田近辺で仕事するスタイル。ワークスタイル切り替えの理由の一つは、地震に対するリスク回避です。

2011/3/11。東日本大震災が起きた日の私はたまたま家で仕事をしていました。当時、私は日本橋の某金融機関本店で勤務していました。しかし、この日は個人で請けていたお仕事を進めたくて、家で仕事をしていたのです。一方、妻は地震発生の瞬間、仕事で錦糸町にいました。結局妻が帰って来たのは翌朝のこと。小学校に通っていた娘たちを迎えに行ったのは私でした。

もしそのとき、私が普段どおり日本橋に向かっていたら、娘たちは父や母の迎えもないまま、心細い思いを抱えて学校で一夜を過ごすことになったことでしょう。

その経験は、私に都心常駐の仕事が抱えるリスクを否応なしに意識させました。個人事業主となってから5年。ゆくゆくは常駐に頼らぬ仕事を目指そうと漠然とは思っていました。でも、都心常駐から町田近辺での仕事へ、という切り替えを真剣に模索するようになったのは3.11の後です。そして昨年は1.17の阪神・淡路大震災が発生して20年の節目でした。自分の被災者としての思い出を振り返るにつれ、ワークスタイル切り替えの思いはさらに強まりました。

私が個人事業を法人化したのはその余韻もさめない4/1のことです。法人化にあたって、どこにビジネスの基盤を置けばよいか、かなり考えました。個人事業主であれば身軽です。仮に首都圏直下型地震が起き、都心で受託していた仕事が継続できなくなったとしても、別の場所で仕事を頂くことができたかもしれません。でも法人化を成した後ではそうも身軽ではいられません。いざ都心が地震で甚大な被害を蒙ったとして、ビジネスの重心が都心に偏っていると、経営基盤にも深刻なダメージが及ぶでしょう。弊社のような創立間もない零細会社としてはなおさらです。そのようなリスクを軽視することはできませんでした。

法人化当初から描いていたワークスタイルの変更は、1年を経てこの4月から一部ではありますが成し遂げることができました。しかしまだまだです。私の目標は日本全国にあります。人を雇って支店を置くのもよいですが、できれば私自身が日本を巡り、巡った各地域の人々と交流できるような仕事がしたいと思っています。いわば旅の趣味と仕事を両立できるようなワークスタイル。

実際、私が大阪で非常にお世話になり、東京でも度々お世話になった方は、堅実な士業に従事しながらも、全国から引き合いを受けては地方を度々訪れているそうです。この方のワークスタイルやライフスタイルは、昔から私の目標とするところです。

私がそういったワークスタイルを実現できたあかつきには、各地を訪れてみたいと思います。地震の被害から復興され、ますます名城としての風格を備えた熊本城を見つつ、地域振興の仕事をお手伝いできているかもしれません。東北の沿岸部では活発な市場の掛け声の中、IT化のお手伝いができるかもしれません。雪深い新潟の山里では、うまい日本酒を頂きながら地元の人々と日本酒文化を世界に発信するための戦略を肴に歓談しているかもしれません。実家に帰った際には、30年前の阪神・淡路大震災からの歴史をかみ締めながら、地元の友人たちと飲んでいるかもしれません。

でも、まずは足元です。足元を固めないと。そのためにはワークスタイルの変革をぜひとも成功させるために努力することが必要です。町田にビジネスの拠点を置いたとして、首都圏直下型地震のリスクは少しは軽減されますが、立川断層を震源とした地震が起きた場合は甚大な被害を受けるでしょう。富士山が仮に噴火した場合もそうです。火山灰による被害は都心よりもさらにひどいものになるでしょう。結局、問題とすべきでは場所ではなく、一箇所に長く留まるようなライフスタイルといえるのかもしれません。

また、どこにいても災害が起こりうるのであれば、いつも災害に関して備えておく必要があります。昨年の秋、東京都民には充実した防災手帳が配布されました。内容はすばらしいの一言です。これを再び読むことを怠ってはならないでしょうね。また、普段から「いつも」地震に備えるためには、以前にも読ん読ブログでも紹介しました以下の本が参考になります。
地震イツモノート―阪神・淡路大震災の被災者167人にきいたキモチの防災マニュアル

なお、こちらの内容はWebでも無料で公開されています。是非お読み頂くことをお勧めします。

最後になりますが、熊本で被災された方々に平穏の日々がなるべくはやく訪れますように。私個人の体験から、被災された方にとって外部でどういった報道がされようが、どういったブログが書かれようが、何のイベントが自粛されようが、全く関係ないことはよくわかっているつもりです。私が書いたこのブログにしても、ほとんどの被災者の方には届かないことでしょう。

でも、私自身にとって熊本の地震には何かのご縁を感じるのです。それは冒頭に挙げたような阪神・淡路大震災の類似もあるでしょう。さらには、ここ2週間私が開発で使っているCodeIgniterというフレームワークを介したご縁もあります。3.11が起きた日、私が自宅で作業していたのが、まさにCodeIgniterを使った開発でした。それ以来数年ぶりに使っていたら今回の地震に遭遇しました。

そんな訳で、熊本の地震には何かの縁を感じます。その縁を私がどういう行動で太くするか、それはこの後考えてみようと思います。まずは先に紹介した地震イツモノートを紹介して、これからの地震への備えについて注意喚起しようと思います。


アメリカひじき・火垂るの墓


実は著者の本を読むのは初めて。本書のタイトルにもなっている「火垂るの墓」も初めてである。しかし、粗筋はもちろん知っている。スタジオジブリによるアニメを一、二度見ているためだ。「火垂るの墓」は、アニメ以外の文脈からも反戦という括りで語られることが多い。そのため私もすっかり知ったつもりになっており、肝心の原作を読めていなかった。今回が初めて原典を読むことになる。きっかけは「火垂るの墓」が私のふるさと西宮を主な舞台としているからだ。故郷についてはまだまだ知らないことが多く、ふるさとを舞台にした芸術作品にもまだ見ていないものが多い。折を見て本書を読むいい機会だったので今回手に取った。

一篇目「火垂るの墓」の文体は実に独特だ。独特な節回しがそこかしこに見られる。しかしくどくない。過度に感情に訴える愚を避けている。淡々と戦争に翻弄される兄妹の境遇が語られる。

戦争が悲惨なことは云うまでもない。多くの体験談、写真から、映画や小説、舞台に至るまで多数語られている。普段、慎ましく生活する市民が国の名の下に召集され、凄惨な銃撃戦に、白兵戦に否応なしに巻き込まれる。銃後の市民もまた、機銃掃射や空襲で直接の被害を受ける。もう一つ、間接的な被害についても忘れてはならない。それは子供である。養育する大人を亡くし、空襲の最中に放り出された子供にとって、戦争はつらい。戦時を生きる子どもは、被害者としての時間を生きている。

「火垂るの墓」が書かれた時代からも、60年の時を経た。今はモノが余りすぎる時代だ。私も含めてそのような時代に育った子供が、「火垂るの墓」で描かれた境遇を実感するのはますます難しくなっている。西宮を知っている私でも戦時中の西宮を連想することはできない。「火垂るの墓」は今まで著者自身によっても様々に語られ、事実でない著者の創作部分が多いことも知られている。それでも、「火垂るの墓」は戦争が間接的に子供を苦しめることを描いている。その意義は不朽といえる。

我が家では妻が必ず見ると泣くから、という理由により滅多にみない。水曜ロードショーであっても土曜洋画劇場であっても。しかし、そろそろ娘達には見せておかねばならないと思う。見せた上で、西宮のニテコ池や満地谷、西宮浜を案内できれば、と思う。これらの場所が戦時中、アニメに描かれたような貧しさと空腹の中にあったことを如何にして教えるか。私の課題とも言える。もっとも訪れたところで今の子供たちに実感することは至難の業に違いないだろうが。

本書には「火垂るの墓」以外にさらに五篇が収められている。まずは二篇目「アメリカひじき」。こちらは敗戦後の日本の世相が描かれている。そこでは復興成ったはずの日本に未だに残る負け犬根性を描いている。未だ拭い去れない劣等感とでもいおうか。TV業界に勤務する俊夫の妻京子が、ハワイで知り合ったヒギンズ夫妻を客人として迎え、好き放題されるというのが筋だ。俊夫は終戦時には神戸にいて、戦時中のひもじさや、進駐軍の闊歩する街を見てきている。父は戦死したが、空腹には勝てず、ギブミーチョコレート、ギブミーチューインガムと父の敵である進駐軍にねだる。終戦の日にアメリカが神戸の捕虜収容所に落とした物資の豊かさと、その中に混ざっていた紅茶をアメリカひじきと思って食べた無知の哀しみ。

ヒギンズ夫妻は、すでに引退したが、かつて進駐軍として日本にいたことがある。俊夫と京子のおもてなしは全て袖にされ、全く感謝もされない。我が道をゆくかのごとく自我を通すヒギンズは、もてなされることを当然とする。その上で俊夫と京子の親切心は全てが空回りとなる。食事も性欲も、すべてにおいて俊夫の想像を凌駕してしまっているヒギンズには、勝者としての驕りが満ちている。その体格や態度の差は、太平洋戦争で日米の戦力や国力の差にも通ずる。

挙句の果てに接待に疲れ果てて、諍いあう俊夫と京子。俊夫と京子が豪勢な食事を準備したにもかかわらず、その思いを歯牙にもかけず、別の場所に呼ばれて行ってしまったヒギンズ夫妻。俊夫はその大量の食材をせっせと胃の中に収めるのであった。その味は高級食材であっても、もはやアメリカひじきのように味気ないものでしかない。

今でこそ「お・も・て・な・し」が脚光を浴びる我が国。野茂、イチロー、錦織、ソフトボール、ラグビー、バブル期の米資産の買い占めなど、表面上はアメリカに何ら引け目を感じさせない今の我が国。しかし、世界に誇る高度成長を遂げる前はまだまだ負け犬根性がこびりついていたのかもしれない。「アメリカひじき」には、その当時のアメリカへの複雑な感情が盛り込まれており、興味深い。

今でこそ、対米従属からの脱却を叫ぶ世論。あの当時に決められた一連の政策を、それこそ憲法制定から間違っていたと決め付ける今の世論。だが、当時は当時の人にしか分からぬ事情や思惑があり、今の人には断罪する資格などない。「アメリカひじき」を読む中、そのような感想が頭に浮かんだ。

三篇目の「焼土層」は、復興成った日本のビジネスマンが、敗戦の日本を振り返る話。芸能プロダクションに努める善衛には、かつて神戸で12年間育ててくれた養母が居た。それがきぬ。終戦直後の混乱の中、善衛を東京の親族に送り届けるため、寿司詰め電車でともに上京したきぬ。以来二十年、善衛はサラリーマンとして生活し身を立てる。そして身寄りのないきぬは神戸でつつましく生き続け、とうとう亡くなった。きぬを葬る為に神戸へ向かう善衛。

20年の間に、善衛は変わり、日本も変わった。しかしきぬは、何も変わらず終戦後を生きていた。養母へのせめてものお礼にと毎月1万円をきぬに送金していた善衛。が、遺品を整理した善衛は、きぬが善衛からの仕送りだけを頼りに生きていたことを知る。そのことに善衛は自分の仕打ちの非道さを思い知る。そして、忘れようと思った敗戦後の月日が自分の知らぬところできぬの中に生き続けていたことに思いを致す。

云うまでもなく、本篇は戦後の日本の歩みそのものを寓意化しているといえる。日本が何を忘れたのか、何を忘れ去ろうとしているのか、を現代の読者に突き付けるのが本篇と言える。

四篇目「死児を育てる」。これもまた日本の辛く苦しい時期を描いた一篇だ。日本の辛く苦しい時期といえば、真っ先に戦時中の空襲の日々が挙げられる。

主人公の久子は、幼いわが子伸子を殺した容疑で取り調べ室にいる。

子煩悩の夫貞三は伸子をことのほか可愛がっていた。しかし、得体のしれない違和感を伸子に抱き続ける久子。ノイローゼなのか、育児疲れなのか、久子の殺害動機を問い質す刑事たち。取調室の中から、久子の意識は空襲下の防空壕へと飛ぶ。空襲下、まだ幼い妹の文子を喪った記憶に。東京の空襲で母を亡くし、幼い文子を連れて新潟へと疎開する久子。しかし、姉妹に気を配ってくれるものなどいない。防空壕で夜泣きする文子に久子の心身は蝕まれる。文子の分の配給食を横取りし、殴りつけては夜泣きを止めさせる久子。しかも新潟は第三の原爆投下予定地として市民は気もそぞろとなり、久子は文子を土蔵に置き去りにしたことも気付かぬまま飛び出す。戻ってきた時、文子は置き去りにされたまま死に、身体はネズミにかじられていた。

伸子を産んでからの久子が抱える違和感と文子との思い出がよぎり、交差する。我々読者には、久子が伸子を殺した理由を容易に察することが出来る。育児放棄でもノイローゼでもなく、文子への罪悪感といえば分かりやすいか。

本篇における久子と文子の関係は、「火垂るの墓」における清太と節子のそれを想起させる。とはいえ、物語の構成としては「火垂るの墓」よりも文体も含めて洗練されているのが本篇であるように思える。中でも最終頁は実に印象深い。すぐれた短編の持つ鮮やかなひらめきに溢れている。本書の六篇の中でも、本篇は短編として最も優れていると思えるのではないか。また、本篇が反戦文学としての骨格も失わず、短編としてしまった体つきをしていることも印象深かった。

五篇目「ラ・クンバルシ-タ」と六篇目「プアボーイ」は、ともに戦後の混乱の中、身寄りなく生きる少年の無頼な生き様を描いている。この二篇からは戦争の悲惨さよりは、次世代へと向かう逞しさが描かれている。戦争で経験させられた痛みと、その後の復興の最中を生き延びた必死な自分への再確認を、著者はこの二篇に託したとすら思えるのである。そこには、戦後マルチな才能を発揮し、世の中を生き延びた著者自身の後ろめたさも含まれているように思え、興味深い。後ろめたさとは、罪もなく戦争で死んでいった人々に対し、生き延びたことへの無意識の感情だ。

だからといって、著者の生き方は戦死者も含めて誰にも非難できはしまい。私自身も含め。そもそも、私は自粛という態度は好まない。昭和天皇の崩御でも、阪神・淡路大震災でも東日本大震災でも世に自粛の空気が流れたことがあった。しかし、私自身阪神・淡路大震災の被災者として思ったのは、被害者から平穏無事に生きる人々に対して云うべき言葉などないということだ。太平洋戦争で無念にも亡くなられた方々が泉下から戦後の日本について思う感情もまた同じではなかろうか。

著者はおそらくは贖罪の心を小説という形に昇華することが出来た恵まれた方であるとも言える。その成果が、本書に収められた六篇である。そこに贖罪という無意識を感じたとしても、それは私の受け取り方次第に過ぎない。著者の人生をどうこう言えるのは、著者自身でしかないのは論をまたない。そういえば著者のホームページもすっかり更新がご無沙汰となっている。しかしあの往年の破天荒な生き様が失われたとは思いたくない。本書の諸篇にみなぎる、動乱を生き抜いた人生力を見せてもらいたいものだ。

‘2014/11/18-2014/11/22


村上朝日堂の逆襲


エッセイを読むのも好きです。

特に村上春樹さんのエッセイはあまり気負った題材でもなく、何かを批判したりすることもあまりなく、他人を罵倒することもなく、人間なんて所詮は、といういい意味での諦めが漂っています。かといって毒にも薬にもならないエッセイかというと、そんなことはなく、油断していると蜂の一刺しにやられてしまうような、適度な緊張感を孕んでいるところもまたよいです。

本書は再読だったか初読だったかは忘れましたが、先日、実家から持ち帰ってきた数冊の蔵書のうちの一冊です。手に取ったのも、なんとなくという感じです。読む10日ほど前にお亡くなりになった、本書の共著者である安西水丸さんのことが直接の影響だったわけではありません。少しは影響があったのだろうけど。

村上春樹さんは、私の同郷の人です。なので、氏が書いた阪神間についてのエッセイを読む度に郷愁が掻き立てられます。そういえば本書を読む1か月前にも明石や三宮を訪れたのでした。そうでした。それで本書を手に取ったのだろうな。うむ。

本書でも、「関西弁について」「阪神間キッズ」「夏の終わり」の3編が私の郷愁を満たしてくれました。東京に住むものが、かつて住んでいた関西を眺めて、という構図も私の心境と同じ。

他にも「「うゆりずく」号の悲劇」でなんていう一篇も。船やトラックの側面に書かれている、あのなぞの言葉についての考察です。なんとなく気になっていたけれど、よくよく考えれば妙なことについて考えを致せるそのアンテナ感度には尊敬をおぼえます。

本書は、1985年から1986年にかけて連載されたもののようですが、当時の東京の状況を描いたエッセイもよいです。「政治の季節」「バビロン再訪」とか、当時も今も、東京って変わったようでいて、何も変わっていないのだな、と思ったりして。

でも本書に収められたエッセイで一番よかったのは「オーディオ・スパゲティー」かな。オーディオに凝ると配線や設備を揃えるのが大変、という要約すれば他愛もない内容なのだけれども、その背後の分析が鋭い。「少なくともテクノロジーに関してはデモクラシーというものは完全に終結してしまっているように僕には思える」なんて、今のITやSNS全盛の時代の状況を見通したセリフが1985年に書けるところに、村上春樹さんの凄味があると思いました。

’14/03/29-’14/04/01