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哄う合戦屋


生き急ぐ多くの現代人にとって、過去を描く歴史・時代小説は、教養臭いものとして遠ざけられがちである。

だが、私は将来への展望とは、過去の土台があってこそ、と常々考えている。実在・架空を問わず、歴史上の登場人物のたどった歩みには、自分の行先にとっての参考や指針となることがおうおうにしてある。

昨年末に友人より薦めて頂き、お借りした本書には、私にとって得るところが多々あった。

時は16世紀半ば。越後の上杉家が台頭し、甲斐では、武田晴信(信玄)が領土拡大の野望を隠そうともしない。両者の激突場となる気配濃厚の、川中島合戦前夜の信州が本書の舞台である。

二大勢力の狭間でしのぎを削る豪族たちの一つ、遠藤家は、内政に定評のある当主吉弘の下、領民一体となった経営を行っている。そこに風来坊として仕官する石堂一徹と、遠藤吉弘の娘若菜。そして吉弘を交えた3人が本書の主人公である。

題名からも想像できるとおり、表向きの主人公は、世に聞こえたいくさ上手として設定された石堂一徹となっている。名利を求めず、己の能力がどこまで戦国の世に通ずるかを人生の目的に据えた男として。本書を通して、軍師として主君を支える男の生き様の潔さに心震わすことも一つの読み方。

しかし、私は本書の面白みは他にもあると思う。むしろ、本書に込めた著者の思いとは、「物事の本質を見抜くことの美しさと苦み」にあったのではないか、と。

苦みとは、人々と視点の達する深みが違うため、感情や考えがずれる生きづらさを指す。たとえば、一徹がいくさの手柄話をせがまれる場面。そこで一徹は、首級を挙げたことよりも、戦況を自由自在に操ったことを手柄とする。もちろんそれは家臣たちには伝わらず、困惑で迎えられる。また、隣国との争いの一番手柄を最初に情報を知らせた者に与え、肝心の戦いで敵の大将を討ち取ったものに与えない。それがもとで、その者から恨みを買う。

美しさとは、外面の技巧よりも、内面にその物の真実を見て取る考えを指す。たとえば一徹は、若菜の描いた絵に、技巧ばかりが先走る若さを見抜き、その絵から想像がふくらむ余地のないことを指摘する。また、領民に慕われる若菜の、才能から来る無意識の打算に対し、その無意識を意識する強さと、そうせざるをえない立場の弱さに対し、共感を覚える。

そして吉弘はその間に立ち、領主としての立場や体面といった、物事の表面を完結させようとする。それは、娘を一徹に渡したくないとの親のエゴであり、一徹のお蔭で領地を拡大できたのに、その地位に甘んじて一徹を疎んずると心の弱さである。吉弘は、本書では物事の本質を見抜くことと逆の、人間的な弱さの持ち主として描かれる。

本書の面白みは、表立った激動の歴史を追うことよりも、この3者の心の動きを追うことにあると思う。そして彼らの世渡りの術とは、現代に生きる我々にも参考になるのではないか。会う人々、抱える仕事、あふれる情報。その中からどのようにして本質を見極め、自分の行動を律するか。本書から考えさせられることは多い。

いままで、本書についても著者についても知らずにいた。このような佳作を生み出す作家がまだまだ多数、私の読書経験から漏れている。読書は人生にとって涸れない泉とはよく言ったもので、こういう新たな喜びが与えられるから、読書は面白い。

’14/01/15-14/01/16