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夜更けのエントロピー


著者の名前は今までも知っていた。だが、読むのは本書が初めてかもしれない。

著者の作風は、本書から類推するにブラックな風味が混ざったSFだが、ホラーの要素も多分に感じられる。つまり、どのジャンルとも言えない内容だ。
完全な想像上の世界を作り上げるのではなく、短編の内容によっては現実世界にもモチーフを求めている。
本書で言うと2つ目の「ベトナムランド優待券」と「ドラキュラの子供たち」、そして最後の「バンコクに死す」の三編だ。これらの三編は「事実は小説より奇なり」を地で行くように、過酷な現実の世界に題材をとっている。
史実で凄惨な現実が起こった場所。そこを後年の現代人が迷い込むことで起きる現実と伝説の混在。それを描いている。
人の醜さが繰り広げられたその地に今もなお漂う後ろ暗さ。その妖気に狂わされる人の弱さを描き出す。
本書の全体に言えるのは、現実の残酷さと救いのなさだ。

本書には近未来を題材にとった作品もある。「黄泉の川が逆流する」「最後のクラス写真」の二編がそうだ。ともに現実の延長線にありそうな世界だが、SFの空想としてもありうる残酷な未来が描かれている。

残りの二編「夜更けのエントロピー」「ケリー・ダールを探して」は、過去から現代を遡った作品だ。歴史的な出来事に題材をとらず、よりパーソナルな内容に仕上がっている。

本書の全体から感じられるのは、現実こそがSFであり、ホラーであり、小説の題材であるという著者の信念だ。
だが著者は、残酷な現実に目を背けず真正面から描く。それは、事実を徹底的に見つめて初めて到達できる境地だろう。
この現実認識こそ、著者の持ち味であり、著者の作風や創作の意図が強く感じられると理解した。

以下に一編ずつ取り上げていく。

「黄泉の川が逆流する」
死者を復活させる方法が見つかった近未来の話だ。
最愛の妻を亡くした夫は、周囲からの反対を押し切り、復活主義者の手を借りて妻を墓場から蘇らせる。
だが、夫の思いに反して、よみがえった妻は生きてはいるものの感情がない。精気にも乏しく、とても愛情を持てる相手ではなくなっていた。

死者を蘇らせたことがある家族を崩壊させていく。その様子を、ブラックな筆致で描いていく。
人の生や死、有限である生のかけがえのなさを訴える本編は、誰もが憧れる永遠の生とは何かを考えさせてくれる一編だ。

「ベトナムランド優待券」
解説で訳者も触れていたが、筒井康隆氏の初期の短編に「ベトナム観光公社」がある。
ベトナム戦争の戦場となった場所を観光するブラックユーモアに満ちた一編だ。ただ、本編の方が人物もリアルな描写とともに詳しく描かれている。

日常から離れた非現実を実感するには、体験しなければならない。
観光が非日常を売る営みだとすれば、戦争も同じく格好の題材となるはずだ。

その非現実を日常として生きていたのは軍人だろう。その軍人が戦場を観光した時、現実と非現実の境目に迷い込むことは大いにありうる。
本書はブラックユーモアのはずなのに、戦場の観光を楽しむ人々にユーモアを通り越した闇の深さが感じられる。それは、著者がアメリカ人であることと関係があるはずだ。

「ドラキュラの子供たち」
冷戦崩壊の中、失墜した人物は多い。ルーマニアのチャウシェスク大統領などはその筆頭に挙げられるはず。
その栄華の跡を見学した主人公たちが見るのは、栄華の中にあって厳重な守りを固めてもなお安心できなかった権力者の孤独だ。
この辺りは、トランシルバニア、ドラキュラの故地でもある。峻烈な統治と権力者の言動を絡め、残酷な営みに訪れる結末を描いている。
正直、私はルーマニアには知識がない。そのため、本編で描かれた出来事には入り込めなかったのが残念。

「夜更けのエントロピー」
保険会社を営んでいると、多様な事件に遭遇する。
本編はそうした保険にまつわるエピソードをふんだんに盛り込みながら、ありえない出来事や、悲惨な出来事、奇妙な出来事などをちりばめる。それが実際に起こった現実の出来事であることを示しながら。
同時に、主人公とその娘が、スキーをしている描写が挿入される。

スキーの楽しみがいつ保険の必要な事故に至るのか。
そのサスペンスを読者に示し、興味をつなぎとめながら本編は進む。
各場面のつなぎ方や、興味深いエピソードの数々など、本編は本書のタイトルになるだけあって、とても興味深く面白い一編に仕上がっている。

「ケリー・ダールを探して」
著者はもともと学校の先生をやっていたらしい。
その経験の中で多くの生徒を担当してきたはずだ。その経験は、作家としてのネタになっているはず。本編はまさにその良い例だ。

ケリー・ダールという生徒に何か強い縁を感じた主人公の教師。
ケリー・ダールに強烈な印象を感じたまま、卒業した後もケリー・ダールと先生の関係は残る。
その関係が、徐々に非現実の様相を帯びてゆく。
常にどこにでもケリー・ダールに付きまとわれていく主人公。果たして現実の出来事なのかどうか。

人との関係が、本当は恐ろしいものであることを伝えている。

「最後のクラス写真」
本編は、死人が生者に襲いかかる。よくあるプロットだ。
だが、それを先生と生徒の関係に置き換えたのが素晴らしい。
本編の中で唯一、生ける存在である教師は、死んだ生徒を教えている。

死んだ生徒たちは、知能のかけらもなくそもそも目の前の刺激にしか反応しない存在だ。
そもそも彼らに何を教えるのか。何をしつけるのか。生徒たちに対する無慈悲な扱いは虐待と言っても良いほどだ。虐待する教師がなぜ生徒たちを見捨てないのか。なぜ襲いかかるゾンビたちの群れに対して単身で戦おうとするのか。
その不条理さが本編の良さだ。末尾の締めも余韻が残る。
私には本書の中で最も面白いと感じた。

「バンコクに死す」
吸血鬼の話だが、本編に登場するのは究極の吸血鬼だ。
バンコクの裏路地に巣くう吸血鬼は女性。
性技の凄まじさ。口でペニスを吸いながら、血も吸う。まさにバンパイア。

ベトナム戦争中に経験した主人公が、20数年の後にバンコクを訪れ、その時の相手だった女性を探し求める。
ベトナム戦争で死にきれなかったわが身をささげる先をようやく見つけ出す物語だ。
これも、ホラーの要素も交えた幻想的な作品だ。

‘2020/08/14-2020/08/15


波形の声


『教場』で文名を高めた著者。

短編のわずかな紙数の中に伏線を張り巡らせ、人の心の機微を描きながら、意外な結末を盛り込む手腕には驚かされた。
本書もまた、それに近い雰囲気を感じる短編集だ。

本書に収められた七つの短編の全てで、著者は人の心の暗い部分の裏を読み、冷静に描く。人の心の暗い部分とは、人の裏をかこう、人よりも優位に立とうとする人のサガだ。
そうした競争心理が寄り集まり、混沌としてしまっているのが今の社会だ。
相手に負けまい、出し抜かれまい。その思いはあちこちで軋轢を生み出す。
そもそも、人は集まればストレスを感じる生き物だ。娯楽や宗教の集まりであれば、ストレスを打ち消すだけの代償があるが、ほとんどの集まりはそうではない。
思いが異なる人々が集まった場合、本能として競争心理が生まれてしまうのかもしれない。

上に挙げた『教場』は、警察学校での閉じられた環境だった。その特殊な環境が物語を面白くしていた。
そして本書だ。本書によって、著者は一般の社会のあらゆる場面でも同じように秀逸な物語が書けることを証明したと思う。

「波形の声」
学校の子供達の関係はまさに悪意の塊。いじめが横行し、弱い子どもには先生の見えない場所でありとあらゆる嫌がらせが襲いかかる。
小学校と『教場』で舞台となった警察学校。ともに同じ「学校」の文字が含まれる。だが、その二つは全く違う。
本編に登場する生徒は、警察官の卵よりも幼い小学生たちだ。そうした小学生たちは無垢であり、高度な悪意は発揮するだけの高度な知能は発展途上だ。だが、教師の意のままにならないことは同じ。子どもたちは自由に振る舞い、大人たちを出し抜こうとする。先生たちは子どもたちを統制するためにあらゆる思惑を働かせる。
そんな中、一つの事件が起こる。先生たちはその問題をどう処理し、先生としての役割をはたすのか。

「宿敵」
高校野球のライバル同士が甲子園出場をかけて争ってから数十年。
今ではすっかり老年になった二人が、近くに住む者同士になる。かつてのライバル関係を引きずってお互いの見栄を張り合う毎日。どちらが先に運転免許証を返上し、どちらが先に車の事故を起こすのか。
家族を巻き込んだ意地の張り合いは、どのような結末にいたるのか。

本編は、ミステリーや謎解きと言うより人が持つ心の弱さを描いている。誰にも共感できるユーモアすら感じられる。
こうした物語が書ける著者の引き出しの多さが感じられる。とても面白い一編だ。

「わけありの街」
都会へ送り出した大切な息子を強盗に殺されてしまった母親。
犯人を探してほしいと何度も警察署に訴えにくるが、警察も持て余すばかり。
子供のことを思うあまり、母親は息子が住んでいた部屋を借りようとする。

一人でビラを撒き、頻繁に警察に相談に行く彼女の努力にもかかわらず、犯人は依然として見つからない。
だが、彼女がある思惑に基づいて行動していたことが、本編の最後になって明かされる。

そういう意外な動機は、盲点となって世の中のあちこちに潜んでいる。それを見つけだし、したたかに利用した彼女への驚きとともに本編は幕を閉じる。
人の心や社会のひだは、私たちの想像以上に複雑で奥が深いことを教えてくれる一編だ。

「暗闇の蚊」
モスキートの音は年齢を経過するごとに聞こえなくなると言う。あえてモスキート音を立てることで、若い人をその場から追い払う手法があるし、実際にそうした対策を打っている繁華街もあるという。
その現象に着目し、それをうまく人々の暮らしの中に悪巧みとして組み込んだのが本編だ。

獣医師の母から折に触れてペットの治療や知識を伝授され、テストされている中学生の息子。
彼が好意を持つ対象が熟女と言うのも気をてらった設定だが、その設定をうまくモスキート音に結びつけたところに本編の面白みがあると思う。

「黒白の暦」
長年の会社でのライバル関係と目されている二人の女性。今やベテランの部長と次長のポジションに就いているが、一人が顧客への対応を間違えてしまう。
会社内の微妙な人間関係の中に起きたささいな出来事が、会社の中のバランスを揺るがす。
だが、そうした中で相手を気遣うちょっとした振る舞いが明らかになり、それと同時に本編の意味合いが一度に変わる。

後味の爽やかな本編もなかなか面白い。

「準備室」
普段から、パワー・ハラスメントにとられかねない言動をまき散らしている県庁職員。
県庁から来たその職員にビクビクしている村役場の職員たち。
その関係性は、大人の中の世界だからこそかろうじて維持される。

だが、職場見学で子どもたちがやってきた時、そのバランスは不安定になる。お互いの体面を悪し様に傷つけずに、どのように大人はバランスを保とうとするのか。
仕事の建前と家庭のはざまに立つ社会人の悲哀。それを感じるのが本編だ。

「ハガニアの霧」
成功した実業家。その息子はニートで閉じこもっている。そんな息子を認めまいと辛辣なことをいう親。
そんなある日、息子が誘拐される。
その身代金として偶然にも見つかった幻の絵。この絵を犯人は誰も取り上げることができないよう、海の底に沈めるように指示する。

果たしてその絵の行方や息子の命はどうなるのか。
本書の中ではもっともミステリーらしい短編が本編だ。

‘2020/08/13-2020/08/13


嘘をもうひとつだけ


私がまだ読んでいない「加賀恭一郎」シリーズは数冊ある。本書もその一つ。本作は連作短編集だ。五編が収められている。

本書の全体に共通しているテーマは女性のうそについて。女性がつくうそにはさまざまな目的がある。その多くは自らの過失や犯した罪を隠すため。そんなうそはその場しのぎであり、入念な計画もなく、狡知をこらしてもない。全ては急ごしらえなうそ。だから聡い人物にかかるとばれてしまう。それが加賀恭一郎であればなおさら。

どの謎も、あとから分かればいかにもその場しのぎの偽装だ。ところが、偶然が重なったり、部外者が後からみた程度ではすぐには見当がつかない。しかし、わずかなほころびが加賀恭一郎には矛盾と映る。そしてそれを見越した巧妙なカマをかけると、背後の犯罪が暴かれる。すべてが推理小説の、捜査の常道に沿っている。五編ともお見事だ。ただし、この後に発表される『赤い指』に比べると、少し物足りなさは感じた。本書は「加賀恭一郎」シリーズでも中期に位置する。『赤い指』は冷徹な頭脳を持つ加賀恭一郎を豊かな人情を秘めた魅力的な人物として書かれた傑作だ。「加賀恭一郎」シリーズはここで確立したともいえる。それからすると、本書は短編集だ。どちらかといえば優れた頭脳の持ち主としての加賀恭一郎が前面に出ていた。キャラクターの魅力が確立される直前の作品といえる。

だが、加賀恭一郎が持つ別の魅力は、五編においてきっちり書かれていた。それは謙虚さだ。聞き込みのセリフの一言一言に、加賀恭一郎の謙虚さがにじみ出ている。そういえば、このシリーズ全体に通ずるのが、物的証拠より聞き込みによって事実に迫ることを重んじていることだ。物的証拠とは聞き込みで得た結果を補強するものでしかない。聞き込みによって事件の全貌を見いだしてゆく加賀恭一郎の特徴が、本書ですでに確立しているのがわかる。

「嘘をもうひとつだけ」
「冷たい灼熱」
「第二の希望」
「狂った計算」
「友の助言」
とある五編のそれぞれのタイトルは、それぞれを読み終えてから見てみると、言いえて妙なタイトルになっている。その中でも「冷たい灼熱」という反語的なタイトルをもつこちらは、一番ひねりが効いているように思った。内容も「冷たい灼熱」は、他の四編と一線を画している。本編のキーとなるのはとある悪癖だ。だが、最期までその悪癖の固有名詞は明かされないままだ。多分業界への配慮なんだろう。けれど、それがかえって印象に残った。

うそとは多くの場合、自分にとっての利益が他人にとってのそれと相反する場合に生まれる。自分の願う利益が他人にとって不都合な場合、それを押し通すためには事実を隠したりうそを言ったりしなければならない。それは本来、許されることではない。だが、人はうそをついてしまう。もしばれた場合には社会から制裁が科される。だが、それを覚悟してまでうそをつく。人をそうまでさせる理由は人によってそれぞれだ。そこをいかに現実にありそうな理由として書くか。そして、うそを付くほか選択肢がなくなった、追い詰められた人間の弱さをどうかくのか。それもまた、推理小説にリアルさを与える。しかも短編の場合は、うその原因を簡潔に記さなければならない。推理小説の作家の腕前が試される点はここにもある。そこがしっかりと説得力を備えて書かれているのが、本書の魅力だ。

そもそも推理小説とはうそを出発点としなければ成り立たない。動機よりもアリバイよりもトリックよりも、まずはうそが優れた短編を生む。どうやってうそにリアルさを持たせるか。どのようにうそに説得力を持たせるか。そして、いかにして簡単にばれないうそを仕込むのか。優れたうそをひねり出すのは、簡単なようでとても難しいはず。あえて言ってしまうと、推理小説を書く作家とは、とびきりのウソツキでなければならないのだ。多分、著者はそれを十分に理解していたはず。だからこそ本書が生まれたのだろう。うそに目を付けたのはさすがだ。

冒頭に書いた通り、本書は推理小説の短編はこう書くべき、の見本だ。「加賀恭一郎」シリーズというより、すぐれた推理小説の短編として読むのがオススメだ。

‘2017/08/11-2017/08/12


首折り男のための協奏曲


『首折り男のための協奏曲』という題がつけられた本書。ミステリーのタイトルとしてありだと思うし、著者ならではのひねりの効いた題名だともいえる。表紙カバーの見返し部分には、辞典の項目のように「協奏曲」「首」についての定義が並べられている。もっともこの趣向、著者の今までの作品を読まれた方にはお馴染みなのだが。

「協奏曲」の項には、気の利いた定義が添えられている。「上手なピアニストと上手なオーケストラが同じステージに立ったからといって、名演になるとは限らない。」

また「首」の定義はこうだ。「普通は細く、折れやすいし折られやすい。人間の首は、この『首折り男のための協奏曲』に収録されている物語の数と同じ7つの頸椎によって支えられている」

この二つの定義は著者によって書かれたものだろう。あたかも本書の構成を宣言するかのように。連作短編集。それは、著者が得意とする形である。

本書に出てくる人物達は多彩だ。平凡な老夫婦。いじめを受ける中学生の中島。大男の小笠原。事件に巻き込まれ濡れ衣を着せられそうになる丸岡。依頼に応じて対象の過去を洗う探偵黒澤。そして謎の首折り男。

「大人になっても、人生はつらいわけ?」

本書の序盤で中島の口から発せられたセリフだ。

それに「中学生よりはましだ」と答える大男。

本書はいじめを扱う。いじめのつらさを語り、いじめに耐え抜いて大人になることを語り、大人の社会でも続くいじめを語る。

軽妙な会話の中に意表をつくウィットを挟む。著者の作品に一貫して見られる作風だ。本書においてもその作風は健在だ。クワガタや時空のねじれ、チャップリン。傍目には脈略のない話題をつなぎつつ、首折り男と黒澤を中心として連作短編は続く。

本書に収められた各編の中で、一番の異色作は「合コンの話」。実はここには首折り男も黒澤も他の人物たちも出てこない。それもそのはず、本書の各編はそもそも首折り男のための協奏曲として書かれたわけではない。それは本書巻末のあとがきで著者によって明かされる。もともとは様々な雑誌に発表した短編を、首折り男のための協奏曲としてまとめたものらしい。

そこで「合コンの話」だ。この作品には、箇条書きや報告書、メールの応酬など、いろいろな文章形式が混ぜこまれている。異色と言ってもいい。内容自体は、合コンに集った男女の織り成す人間模様が描かれるだけなのだが。

この新たな表現形式を模索するような一編は、単体であれば評価できる。しかし本書の中では明らかに異色である。浮いているといってもよい。恐らくは雑誌に発表したはよいがおさめるべき単行本がなく、本書に含めたのだろう。

本編以外は、発表された各編をもとに連作短編集として編み直したにしては良くできていた分、最後が画竜点睛を欠く形になってしまったように思う。それが残念だ。

最後の一編は別の短編集に収めるべきだったと思う。

‘2015/12/17-2015/12/20


繁栄の昭和


いつの間に筒井御大の最新作が出ていたのを見逃していた。不定期的にWeb連載されているblog「偽文士日録」1、2ヶ月に一度はチェックしているのに。不覚。

本書は短編集である。題名を見ただけでは高度成長期の日本を舞台にした内容と思う向きもあろう。高度成長期といえば、著者がスラップスティックの傑作を連発していた時期。繁栄とは著者自身の脂の乗り切った作家生活のそれを
指しているのではないかと。しかし、そうではない。

繁栄の昭和
大盗庶幾
科学探偵帆村
リア王
一族散らし語り
役割演技
メタノワール
つばくろ会からまいりました
横領
コント二題
附・高清子とその時代

「繁栄の昭和」
時代設定や文体など、本書に収められたそれぞれの短編は旧かな遣いこそ使っていないが昭和初期を意識している。名探偵や魔術師といった登場人物の肩書きは江戸川乱歩のそれ。主人公は緑川英龍なる架空の探偵小説作家の愛読者という設定。その主人公がとある事件の探偵を頼まれ捜査に乗り出す。ご丁寧に事件の犯行現場見取り図まで載せられている。

主人公は自らを緑川英龍の小説世界の登場人物になぞらえる。そして主人公の生きるのが昭和40年代なのに昭和初期を思わせる描写になっていること。そしてそれが緑川英龍の昭和の繁栄をとどめたいとする意図であることを看破する。言わば本編は小説のメタ世界を描いた一編である。著者にとってはメタ小説はお手の物だろうが、それを敢えて作り物っぽい昭和初期の時代設定でやってみせたのが本編。

「大盗庶幾」
少年の頃、ポプラ社の少年探偵団シリーズに熱中した人は本編に喜ぶに違いない。華族に生まれ、好奇心や運命の導きで軽業や変装を覚えた男の成長譚が本編だ。少年探偵団シリーズを読み込んだ方には、早い段階でこの物語が誰を描いた物語かピンと来るはず。そういえば江戸川乱歩の著作でも、他の方の著作でも彼の成り立ちを読んだことがないことに気付いた。しかし、彼の前半生は、少年探偵団シリーズの愛読者にとって大いに気になるはずだ。何故執拗に明智小五郎に挑戦状を叩きつけ続けるのか、彼の財力や組織力はどこから湧いてくるのか。本編末尾に明かされる正体は、もはや蛇足といってよいだろう。怪人二十面相。

「科学探偵帆村」
著者の元々の得意分野であるSFに昭和初期の荒唐無稽な空想科学小説の赴きを加えた小品。とはいえ、本編の舞台は昭和から平成の現代へと移る。処女懐胎をテーマに御大の放つ毒がちらちらと漂う一編。特に最後の文などは著者の作品ではおなじみの締め方だ。

「リア王」
著者のもう一つの顔が舞台役者であることは有名だ。本編では舞台役者としての自身に焦点を当てている。短編の場を借り、著者が望む演劇の姿を披瀝する。とかく堅苦しく考え勝ちな演劇論に一石を投じた一編といえよう。

「一族散らし語り」
著者が一頃影響を受けていたマジックリアリズム。私も著者のエッセイなどからマジックリアリズムを知り愛好するようになった。そのマジックリアリズムを日本古来の怪談風味で味付けた一編。願わくば、この路線で凄まじい長編を上梓して頂ければ。御大なら出来うると思うのだが。ま、これは単なる一ファンの世迷い言である。

「役割演技」
著者の風刺がピリッと効いている。社交界の華やかな舞台に現れては消える主人公。実は社交界の華という役割を担う、下層階層の雇われ人。ブランドや女優のカタカナ語の乱舞する前半から、マイナスイメージのカタカナがまばらな後半まで。著者の風刺精神は今なお健在で嬉しくなる。

「メタノワール」
テレビ界でも未だに顔の利く著者の多彩な交流が垣間見える一編。実名で俳優達がズバズバ登場。俳優としての著者の、舞台裏と舞台上の姿が交わりあい、役割の境目が溶けて行く。俳優としての己を表から引き下げ、メタ世界から見つめた世界観は流石。

「つばくろ会からまいりました」
短い掌編。入院した妻に変わって家政婦としてやって来た若い女性との交流を描いている。家で夕食を誘ったところ、呑みすぎて泊まってしまった彼女。モヤモヤとしながら男は手を出さない。翌朝、彼女は行方不明となり、妻は昏睡状態となる。妻が彼女の姿を借りて、最後に交流するという筋。愛妻家として知られる著者の今を思わせる好編。

「横領」
小心ものであるが業務上背任の罪を犯した男女の寸劇がハードボイルドタッチに描かれる。著者のペダンチックな思想が登場人物の部分として登場し、著者の考えの断片を短編化しようとした一編。本書に収められた諸編の中ではいまいち消化できなかった一編である。

「コント二題」については、ノーコメント。

「附高清子とその時代」
本編はかつて著者の上梓したベティ・ブーブ伝を彷彿とさせる。トーキー時代の女優高清子をについてエッセイ風に論じている。私にとって高清子とは全く初耳の女優だが、著者の筆にかかると興味が湧いてくるから面白い。トーキー時代の日本映画は全く見たことがないのだが、引き込ませる。私のように興味ない人をも引き込ませるほど語ることのできる著者の文才を羨ましく思う。

著者の創作意欲はまだまだ衰えそうもない。それは冒頭に紹介した「偽文士日録」を読んでいる

‘2015/8/28-2015/8/30


つぎの岩につづく


単に科学技術の粋を描いたり、宇宙や別の星の住人を物珍しく描くこと。これだけがSFではない。それは以前にも書いたように思う。異世界や異文明を描くことで、人類自身を描こうとする営み、これもSFの大切な役割ではないかと思っている。

本書は題名からも想像できる通り、シリアスなハードSFではない。16編の短編からなる本書は、むしろ軽妙ですらある。その中の数編はSFというジャンルではなく、一つの短編として世に問えるだけの内容となっている。人間存在を違う視点から描くという点において。

むしろ、SFという固定観念で読んでかかるよりも、優れた短編集として読んだ方が良い気がする。SF的な設定を借りてはいるものの、示唆に富んだ内容はすぐれた短編集を読む喜びを充分に与えてくれる。

視点を変えて自分自身を、人類自身を眺めたとき、どんなに滑稽なものか。自分に悩んだ時、行き詰った時。視点を変えることでそれらの悩みが取るに足りないものだったということはままあることである。本書はそういう視点変換のトレーニングによいかもしれない。

’14/3/12-’14/3/15