Articles tagged with: 病気

蛍の森


著者は被爆後の広島を語る上で重要な三人の人物を描いたノンフィクション「原爆 広島を復興させた人びと」を著した。私はこの本を読んで著者に注目した。
その著者が初めて出した小説が本書だ。

ハンセン病、またの名をらい病と呼ばれる病気がある。かつては業病として恐れられた。遺伝病と誤解され、患者は忌み嫌われた。各地にハンセン病患者を収容する隔離施設ができ、収容された後は子が作れないよう断種手術がなされた。そんな忌まわしい歴史がある。

今では遺伝病ではなく、菌に侵されることで発病するメカニズムが解明されている。らい菌の感染力は弱く、万が一発病しても殺菌と治癒が可能だという。伝染する可能性も、密接な接触がなければ高くないことが分かっている。

つまり、過去に行われていた患者に対する隔離や断種などの政策はいずれも、医療知識の不足が招いた迫害だったことが判明している。
らい予防法は廃止された。ここ数年はハンセン病患者による国を相手取った訴訟が各地で結審し、国の責任や違憲であったことなど原告の訴えが認められつつある。
ニュース報道の中ではさまざまな迫害に耐えてきたハンセン病患者の涙ながらの訴えがマスコミなどで報じられた。

だが、私たちは、らい病患者が被った苦しみの深さをまだ知らない。

私はかつて、大阪人権博物館(リバティー大阪)で、ハンセン病患者の差別の実態を展示で見たことがある。
だが、それでも迫害の凄まじさやそれに耐えてきた患者たちの慟哭の意味を真剣に考えたことがなかった。そして、彼/彼女らの苦悩について、本書を読むまで私は何も知らなかった。

本書は、香川と徳島の間の山村を舞台としている。差別から逃れ、隠れ住むらい病患者たちを描きながら、人間の暗い本性を暴いている。その描写は、あまりにも陰惨である。
著者は今までノンフィクションの分野でさまざまな題材を手掛けてきた方だ。だが、ノンフィクションの手法を採るとモデルとなった方や関係者に迷惑をかけかねない。おそらく著者はそう判断したのだろう。
著者は本書を小説の形で展開させている。

四国と言えばお遍路さん。よく知られている。四国を訪れるとよく目にする。つまりお遍路さんは街中を歩きまわっていても不自然ではない存在だ。
そのため、四国八十八箇所を巡る以外の目的を持っていても、お遍路さんに紛れて各地を巡ることが可能だ。
本書に登場するのは、らい病の治癒を願いながら旅から旅へと移動し、施しを受けなければ生活がたちいかなかったらい病患者たちだ。

私はお遍路さんの背後にそのような事情があることを知らなかった。そしてこれが著者の独自の創案であるかどうかも知らない。
本書はそうした事情を持ったらい病患者による組織が四国の各地に点在し、その中で外から隔離されたらい病の患者同士でコミュニティーを形成していた設定で話が進む。
らい病のことをカッタイと呼ぶ異名がある。彼らはカッタイ者と呼ばれ差別されていた。
本書ではカッタイ寺の住職を中心に、ほそぼそと隠れ住むらい病患者の暮らしが描かれている。

1952~3年。そして2012年。2つの時代が本書では描かれる。
両者をつなぐのは乙彦だ。

幼い頃、雲岡村に住んでいた乙彦は、父なし子として自分を産んだ母によって育てられた。そうした生まれから、雲岡村の人にはあまり良く思われていなかった。しかも母は自ら首を吊って死んでしまう。その結果、乙彦は村の深川育造の下に身を寄せた。だが、迫害はいっそうひどくなる一方で、ついに村から脱出しようとする。
その時に乙彦は少女の小春に助けられ、カッタイ村の一員として迎えられる。

時は流れて2012年。乙彦の息子である私の視点で物語が進む。
医者であり、結婚もしていた私。だが、父の乙彦が、雲岡村で深川育造を殺そうとした事件が私の人生に深く影を落としている。
リサイクル業で成功し、都議にまで上り詰めた父が、なぜ全てを投げ捨てるような行いをしたのか。その殺人未遂から十年がたち、今度は深川育造ともう一人の男が行方不明になった。ついに我慢の限界を迎えた妻から離婚を突きつけられた私は、雲岡村で行方不明事件の捜査をしている警察から参考人として呼ばれる。

乙彦はどこに行ったのか。そして昔、乙彦の身に何があったのか。
この二つの物語を軸として本書は進んでいく。
その中で本書のテーマであるらい病患者たちが被った迫害の歴史が赤裸々に語られてゆく。

本書は、人間の持つ差別意識など、醜い部分も臆せずに描いている。

2012年のわが国は高度経済成長を遂げ、さまざまな社会的な闇が過去のものとして顧みられなくなりつつある。
だが、つい数十年前までは、この国にはいわれなき差別が横行し、因習やしがらみが色濃く残っていたことは忘れてはならない。
戦後の民主主義が広く国民に伝わったといっても、田舎ではまだまだ過去を引きずっていた事実を私たちは認識しておかねば。なぜなら、かつてのムラ社会にはびこっていた差別は、ネット上に舞台を移してあちこちで被害者を生み出しているのだから。

過去に比べて知識も増え、教育も行き渡った現在。だが、皆の心から差別が一掃されたか。もちろんそんなことはない。
文明のレベルが上がり、国民の識字率が上がっても、人が差別意識を持つ心のあり方は改善されることはないのだ。

著者は、差別する側の人間にも理解を示す人がいたことを記している。その一方でカッタイ村の住民の中にも醜い心を持つ人物がいることも忘れずに書く。

人は、置かれた状況によって醜くもなる。だが、どのような状況であっても心を気高く持ち続けることもできる。

本書の陰惨な余韻は、乙彦がかつてどのような出来事を経験し、それが今にどのような影響を与えたか分かったところで消えない。
むしろ、その余韻は私の心の奥底に潜む本能を引きずり出す。差別をしてしまう本能。
私は本書を読んだことでその本能を突きつけられた。だが、そうした本能の醜さを認めた上で、自分を律して生きていくしかないと思っている。

‘2020/02/02-2020/02/04


夏の災厄


本書の巻末には瀬名秀明氏による解説が付されている。残念ながら私にはそれに勝る水準のレビューは書けそうにない。その解説に全ては書かれている。だが、及ばぬことは分かっていても書きたいのがレビュー。二番煎じを承知で書いてみたいと思う。

本書は、日常に潜む恐怖を描いた小説だ。なので、しょせんは作り事だ。いくら感じても、どれだけ心動かされても、読者はどこかひとごととして物語を読む。

そこには、どこかしら油断がある。作り話とたかをくくり、自分には降りかからないという油断が。小説とは日常と異なる日常の描かれる場。とはいえその日常は、決して自分に降りかかるはずのない作り話の出来事。のはず。

だから、本書のようなリアリティーに満ちた小説を前にすると、不安に苛まれる。こんなはずではなかった、と。本書のリアルとは、誰かが生きた過去のリアルではなく、自分に迫ることもありえる未来のリアルだ。読者は自分の未来を本書の中に見る。それが読者を不安に陥れる。

本書で起こる疫病の蔓延は、人類の歴史に起きた悲劇をなぞっている。ペスト、天然痘、スペイン風邪、AIDS、エボラ出血熱、SARS。歴史に刻まれたパンデミックであり、誰かの生涯を悲嘆に暮れさせたリアル。だが、それらは医療が未開だったころの災厄だ。通常ならば、こういった疫病がわれわれを襲う物語に作り話感は拭えない。

人類の未来に起こりうるリアルとは、そのような疾病ではないように思える。では、どういう疾病なら、未来のリアルとして受け止められるか。それは、新型インフルエンザ、MRSA、未知の感染症である。医学を嘲笑うかのように着々と抗生物質への耐性を身にまとい、牙を研ぐウイルスたち。ある日、油断したわれわれを一斉に襲い、猖獗を極める。そんなリアルであれば、未来に待っているような気がする。

本書に登場するのは日本脳炎だ。私も子供の頃、予防接種を受けさせられた。しかも、この疾病の名前には日本が付く。ということは、日本にまだ潜んでいておかしくないのだ。かつてこの国で幾人もの患者を死に追いやった病。過去のリアルとして、この設定は十分説得力を持っている。では未来のリアルはなんだろうか。それは、日本脳炎がほぼ根絶されたという油断にある。つまり、警戒態勢が解かれ、弛緩している現状をついて、再び日本脳炎が猖獗を極めるところにある。

いま、仮に大流行したとすればどうなるだろう。接種されてない人にはもちろん、新種のウィルスであれば接種済みの人にも甚大な被害が及ぶ可能性は高い。

週刊誌の下世話な煽り記事に過剰反応することは禁物。それは確かだ。でも、気温の上昇気配は皆が等しく実感しているはずだ。南方でもらってくる病気だったはずのマラリアが日本で猛威を奮う日はすぐそこに来ているように思える。では日本脳炎はどうか。マラリアだけでなく、日本脳炎にその可能性はないのか。その不気味な切迫感は、首都圏直下型地震や東南海地震の切迫感に匹敵するかもしれない。これが、著者が取り上げた日本脳炎というリアルだ。

一方、著者が描く埼玉県昭川市はどうか。本書巻頭に地図が掲載されている。昭川市の地図だ。これがまた、絶妙にリアルなのだ。関東以外の方にはわかりにくいと思われるが、昭川市という自治体はない。しかし、地図にのっている鉄道はには至池袋や至国分寺という記載がある。これは西武線を指しているに違いない。線路の組み合わせ的には本書の舞台は所沢あたりを指しているように思える。また、昭川市という名からは東京都昭島市や旧秋川市を連想させる。現実の自治体やそこの住民には迷惑を掛けずに、本書の舞台設定はぎりぎりまでリアルな地理を志向している。

著者は作家になる前は公務員だったという。つまり公務員の仕事への熱量を熟知しているはずだ。公務員だから仕事は適当、というステレオタイプな考えが当てはまらないのは当然だ。自分から決して仕事は作りに行かないかもしれないが、受け持った職掌に含まれる仕事はおろそかにしない。公務員に特有の温度感が、本書ではうまく書かれている。

ここで下手に昭川市の職員をヒロイックに書いてしまうと、途端に物語からリアルさが失われる。著者は本書で読者を突き放したかのように書く。メリハリの聞いた展開よりは実直な展開を。本書の筆致で長編を書き上げるのは至難の技ではないかと思う。だが、一読してドラマ性をあえて放棄したかにみえる本書の文体こそが、本書にリアルさを与えている。

ただ、それだからこそ一点だけ不満がある。ここまでリアルを追求した本書だからこそ、プロローグや動機で登場した某国を持ち出す必要はなかったのではないか。それが唯一本書からリアルさを失わせ、作り物めいた感じになっているように思う。ウィルスは自然に発生にしたほうが、偶然であったとしてもリアルさが担保できていたように思うのだ。

‘2016/06/26-2016/06/26