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コロナ感染記


9月1日(水曜)。
この日はサテライトオフィスで作業と三件の打ち合わせを予定していました。
いつもは家から最寄駅までバスで向かうのですが、この時なぜか車で向かったのは、何かの虫の知らせだったのでしょうか。3.11の時、常駐先に行かず家で仕事をしていたように。

虫の知らせがリイイインと告げたのは、電車に乗ってサテライトオフィスの最寄駅で下車し、サテライトオフィスに着く直前です。
妻からの連絡が全てを暗転させました。
妻によると、次女が体調の悪化で学校から早退したので迎えに行ってほしいとのこと。さらには大阪から新幹線で戻っている妻も体調が悪くなっているとのこと。それがコロナの第一報でした。

妻子の願いをむげにもできず、サテライトオフィスで二時間ほど慌ただしく打ち合わせなどをこなした後、逃げるようにそそくさと帰りました。そして、家の最寄駅まで電車で戻ったところ、次女と大阪から戻ってきた妻を拾うことができました。特に次女の体調が悪い様子。

私はその後、家で作業をこなしていました。

次女の体調は悪く、熱が出ている模様。妻もあまり体調が良くない模様。
すると、私の体調にも異変が。喉に違和感が生じたではありませんか。

その後、PCR検査薬を買いに妻と一緒に駅前まで一緒に向かいました。
戻ってから、翌日に打ち合わせを予定していたお客様のもとに、以下のようなメッセージを送りました。それが17時45分。

「一応、正直にお伝えしておくと、まだ定かではないのですが、
家族がコロナに感染した可能性があります。

PCR検査薬を購入したのですが、おそらくこの後発送しても結果が明日になってしまいます。

私は30日に一回目のワクチンを打ちましたが、今、少しだけ喉に違和感を感じています。○○の状況を見ると、オンラインで参加させていただいたほうが良いかもしれません。
それ以外は問題ないのですが、いかがいたしましょうか。」

すると、メッセージを送ってから少したって、急に倦怠感が私の身体全体を覆い始めました。いわゆるインフルエンザの症状のような。
あ、コロナになってもうた、とすぐに感じました。コロナの暗黒面が口を開けて私を飲み込んでいきます。

9月2日(木曜)。
この日はもともと、朝から四件の打ち合わせが予定されていました。

昨日のメッセージにも書いていた通り、都心の客先に行く予定も絡めていましたが、昨日のメッセージの後、オフラインの打ち合わせは延期にしていただきました。
私は自分が確実にコロナ患者であることを自覚しながら、完全に仕事モードで一日を送っていました。三件の打ち合わせはリモートで対応。

11時から12時に新規打ち合わせ一件。14時から15時に新規打ち合わせ一件。16時から17時まで新規打ち合わせ。
この時点では、まだ私の頭は明晰で、やり取りもきちんと普段通りにできていました。
コロナ何するものぞ。負けへんで~。

妻と次女は、15時に病院に行きその場で抗体検査をしてもらい、陽性反応をいただいてきました。私は打ち合わせがあったので病院には行けず。

9月3日(金曜)。
この日は2件の打ち合わせが予定されていました。10時半から11時と、15時から16時。
あと内部の打ち合わせを2件。
発症後、二日間はそこまで熱がなかったのですが、少しずつ疲労と熱が私の身体をむしばんでいるのがわかります。打ち合わせをしていてもしんどくなってきました。
そんな中、昨日今日と新たな案件の引き合いもいただいています。休んでいる場合ではないのです。

そんな中、念のため8月の26、27日に訪問したお客様にもコロナ感染の報告を。
さらに、妻にも許可を取って、家族のうち三人がコロナ陽性になった旨をSNSで書き込みました。

コロナであることを公表したとは言え、この日は週末には終えておかねばならない作業があり、私が寝たのは夜中の二時半過ぎ。

なお、妻と長女はPCR検査でも陽性が確定したらしく、保健所から自宅療養の指示を受けました。
この時、わが家で無事なのは長女一人のみ。買い物やその他の家事は彼女にお任せの状態。感謝感謝です。
頼もしい長女は、自分以外全員が陽性にもかかわらず、ワクチンを打たずに陰性のまま、乗り切ってくれました。

9月4日(土曜)。
この日は土曜日。お客様から連絡がない一日。ですが、私にはやるべき作業があったので作業していました。
この日、私も病院で抗体検査とPCR検査をしに行くつもりでしたが、いざ出かけようとした時、既に午前の診療受付の時間は過ぎていました。

なお、私の味覚・嗅覚障害が始まったのはこの日からだったように記憶しています。
娘が買ってきてくれたBaskin Robbinsのアイスクリームは甘いだけの塊に。味噌汁は塩辛く生暖かい未知の汁へ。

9月5日(日曜)。
この日の私は、完全に仕事をする気力と体力を失い、終日ベッドに寝て読書に勤しんでいました。
この日から発熱が37℃を超えたように記憶しています。

9月6日(月曜)。
午前。一人で車を運転して抗体検査とPCR検査を受けに行きました。確か朝の時点で私の体温は37.7℃。
病院に着きましたが、病院の中には入りません。外の駐車場で検査が完結します。他の患者さんに移すとまずいので。
そのため、先生と二人の看護師さんが完全防備で駐車場に現れ、その場で抗体検査のセッティングを。細く禍々しいほど長い綿棒が左の鼻の穴から喉の奥へと侵入し、コロナはいねえが~と巣を漁ります。この異物混入感はヤバい。
苦痛に満ちた時間の後、私は唾を容器になみなみと満たす作業に没頭しました。

私の凌辱され放題の喉の奥からはその場で陽性反応が出ました。これで私も名実ともに陽性者です。
唾からのPCR検査の結果は翌日。
なお、この時に酸素飽和度を測ってもらったのですが96%でした。8/30に一回目のワクチンを受ける直前は98%だったので、肺に違和感はないけれど2%も下がっていたのですね。

なお、お医者さんに払う料金の1700円を持っておらず、慌てて近くの郵便局で出金してきました。何も手が触れぬようにして。私は今や世に隠すもののない陽性保菌者。一切のおさわりは厳禁!
病院に行く前は、せっかくなので近くの城跡や牧場に行こう、などとのんきなことを考えていた私。病院を後にする時、そんな気力は雲散霧消していました。一刻も早く帰って休みたい。

身体がしんどく、作業をするのも一休みずつ。ですが、メールやチャットの連絡は多く届きます。その度に一つ一つ対応します。

9月7日(火曜)。
この日、妻と次女を対象に町田市保健所より自宅療養のためのサバイバル物資を送ってもらいました。飲料や食料の数々。ありがたい。
前日に受けたPCR検査の結果も陽性判定となり、私も保健所による自宅療養者の一員に仲間入り。これから毎日、指示を待つ身です。
この日から発熱が38℃台を超えることが当たり前になりました。

熱がある中、お客様とのやり取りはいく度も発生しました。そして、私の正気もだんだんと怪しくなっていきます。メールやチャットの内容を後で読み返した時の誤字脱字の多さ。仕事のクオリティが保てない自分に怒る気力すら湧きません。後から考えるとこれだけの誤字脱字をよくも送っていたと思います。平常時にはありえない状態です。

夜、あまりにもしんどいので保冷剤を枕に寝ました。

9月8日(水曜)。
この日の翌朝にとあるお客様との打ち合わせが予定されていました。その打ち合わせまでに53件のkintoneのデータを正しいデータに修正する必要に迫られていました。ところが、53件のデータを開き、そのレコードの三項目を修正して保存するだけの作業がなかなか進みません。
休んでは気力を振り絞って作業に戻る。その繰り返しで、ようやく作業を終えられました。
平常では10分も掛からないはずの作業に、3時間近くかけた気がします。これでは、とても仕事になりません。朦朧とした脳裏に、さすがに仕事人として絶体絶命ではないかという思いがよぎります。

9月9日(木曜)。
早朝、大量の発汗で起きました。すると、熱も下がっていました。

ところが午前に久しぶりにオンライン・ミーティングを行ったところ、受け答えすらままならない自分に気づきました。次に話そうとしたことが脳内で像を結ばず、フリーズしてしまいます。話している最中に咳が出てしまい、途中で失礼することもしばしば。およそ商談を行うには不適切な状態。あまりのことに焦りよりも前に呆ける自分。

午後には、弊社内部での打ち合わせも行いました。ところが、私の状況は午前と同じです。話すべきことがまとまらず、論旨が一貫しない。直前に話した内容を忘れ、自分の中で支離滅裂になってしまう。
仕事人として相当ヤバい状況です。私はそのことに絶望しました。このままだと廃業もやむをえないかも。弊社の社員に申し訳ない、これから家族をどう養っていこうか。そんな思いが頭の中で生まれては消えていきます。
これがコロナの恐るべき後遺症かと戦々恐々とし、落ち込みました。

一方で、この日の夜に9/3にいただいた新規案件の納品報告を行いました。翌日には先方より状況が良好であるとのご連絡もいただけました。その後、9/14にお客様環境へのインストールも終わり、無事に納品・検収となりました。
コロナの症状がピークに達している間にどうやって納品した?と、自分でも信じられない思いでした。私の中のコビトさんに感謝ですね。

9月10日(金曜)。
熱は下がったのですが、私の咳が治まりません。
次女は9/7には熱が下がり、平常の暮らしに戻りつつありました。妻も9月8日には熱は下がった模様。ところが、妻の咳が一向に治まらないのです。ひょっとすると私から再び妻にコロナウィルスを送り返している可能性が。夫婦でコロナをパスし合っているほど暇じゃないので、妻は夜、別の部屋で寝ました。

私一人で寝室を占拠したのですが、この日の夜、病状が次の段階に進んでいることに気づきました。
肺の違和感です。いわゆる肺炎の症状と思われます。息苦しく、きちんと息が肺に行き渡っていない状態。気づかぬうちに肺にウィルスが忍び込んでいたのです。
無理やり深呼吸を繰り返し、肺が死滅しないように努力しました。ここで眠ったが最後、二度と目を覚めない恐怖。コロナの軽症患者が突然死亡したとの報道が眼前にちらつきます。
自分のし残したことの多さに絶望する暇すら与えられず、命と意識がフッと虚無の中に消える。そんな恐怖が私を脅かします。
この時の私の酸素飽和度は何パーセントだったのでしょうか。測っていないので何とも言えないのですが、あるいは80%台にまで落ち込んでいたのかもしれません。

9月11日(土曜)。
保健所からの定期電話で、咳と肺の違和感のことを話しました。
ところが、私の症状はまだ軽症に属する様子。酸素飽和度すら測られずに、私の自宅療養期間は12日で終了とのご指示をいただきました。

この日、気力を奮って読読ブログを一本書き上げました。「アンジェラの灰」。ブログを書くにもエネルギーが必要です。何よりも論旨を整合させる知力が求められます。内容の良しあしはともかく、自分がまたブログを書き上げられたことに満足しました。

9月12日(日曜)。
先に自宅療養期間を終えた妻と次女が、新大久保に買い出しに行きたいと願っています。私もいい加減、外に出たい。そのため、新大久保まで運転しました。
妻子を新大久保で降ろした後、私は一人で中野の哲学堂公園へと向かいました。
初めて訪れた哲学堂公園の園内は、上り下りの勾配があります。園内を歩きながら上り下りを繰り返しましたが、体力の衰えは顕著です。咳もときおり飛び出してきます。
園内には数多くの哲学の概念が設けられています。そうした場所で向かい合い、哲学に頭を働かせられません。哲学とは無縁の知力。とはいえ、異変に襲われず、園内を歩けたのは吉兆です。

この日、携帯電話を家に忘れてしまいました。その間、保健所から日曜日にもかかわらず何度かご連絡をいただいていました。申し訳ないです。
保健所のご担当者は毎日連絡を絶やさずにくださいました。ありがたいことです。感謝です。

私の発熱は治まり、残る症状は咳だけ。後は私の仕事人としての能力が元に戻っているのか。後遺症は残るのか。それらを見極めないことには、私の将来が不透明です。

味覚・嗅覚障害ですが、この日の前日ぐらいに戻った気がします。この日、新大久保で買ってきた食材を家族で久々に食卓を囲んで食べたのですが、その美味しかったこと!

9月13日(月曜)-14日(火曜)。
まだ本調子ではないのですが、作業を行い、指示を出して過ごした両日でした。
合間には、近所を散歩しました。自らの体力の回復具合を見定めるためです。というのも、10日近くも外に全く出ずに過ごす経験はこれまでの私の人生でもめったにありません。予想通り、私の足腰はめっきり弱っていました。

自分の気力・知力・行動力・判断力がどの程度まで衰えたのか。
私の仕事人としての能力はコロナ前のレベルから比較してどれほど低下したのか。それが知りたいという切実な思い。

13日と14日にも読読ブログをそれぞれ一本アップしました。「殺人鬼フジコの衝動」「日本昔話百選」。自分にとってこの二つの記事は、分析や論旨など満足していません。ただ、記事をアップするごとに、自分のロジカルな力の回復を信じることができました。

9月15日(水曜)-16日(木曜)。
咳が一向に治りません。ですが、それぞれ両日にオンライン会議を一件ずつこなしました。
しゃべると咳が口を飛び出してきます。ですが、少しずつ商談をこなしていくにつれ、自分の口に滑らかさや判断力が戻ってきているのが感じられます。
これは自分の救いとなりました。
15日にも読読ブログを一本アップできました。「その後の鎌倉 抗心の記憶」。書いていて、少しずつ自分の文章に論旨が備わってきていることを感じました。

9月17日(金曜)。
この日は、もともと9/10にリアルで渋谷で打ち合わせの予定がありました。ところが私がコロナに罹患したため、延期をお願いしました。延期をご快諾いただいた後も、私は自分の体力や商談に臨む能力に自信を失っていました。そのため商談のタイミングを遅らせてもらっていました。
でも、大きな案件。私も腹をくくらねばなりません。
この日の朝、渋谷にお伺いしました。二件のリアル商談を合わせて二時間。商談の間、私はフリーズもせず、自分で話していることの脈絡も失わずに過ごせました。ホッとしました。
私と同行してくれたのは、この案件で一緒に組む技術者さん。彼にカニ味噌ラーメンをごちそうしました。

私は商談の後、行きたい場所がありました。新馬場です。沢庵和尚が徳川家光より賜った東海寺と、東海寺から離れた場所にある大山墓地の中にある沢庵和尚のお墓が目当てでした。
渋谷から大崎まで電車で移動し、大崎から東海寺と墓地までを歩く。さらに墓参りの後は、大井町まで歩きました。
沢庵和尚については、この後のブログに書くつもりです。
私の体力の衰えは顕著です。ただ、自分の知的好奇心が衰えていないことと、何かを知ることについての自分の思いが失われていないことが確認できました。限りのある人生の尊さに思いをはせたことも。

この日は夕方から二件の打ち合わせがあり、サテライトオフィスから対応する予定でした。ですが、疲れたので自宅まで戻ってから打ち合わせに参加。
商談をこなすごとに口が滑らかになってきているのがわかります。ときおり咳き込む以外は。

夜は、新たな案件で、複数のPaaS/SaaSの連携フロー図の作成を一気に行いました。
そうした作業を通じて、コロナ前の自分に戻りつつあることが実感できました。自分はまだ仕事がこなせる。そんな状況に感謝しつつ。

9月18日(土曜)。
雨だったので、家の中で作業を行っていました。作業を行うための知力や集中力はだいぶ元の水準に戻りつつあることが感じられました。
この日も読読ブログを一本アップしました。「日本書記の世界」。こうやって文章を書くことが、仕事の上でも有効なリハビリテーションになっています。

9月19日(日曜)。
せっかくの休みで、快晴なので妻と二人で房総半島をドライブしてきました。海岸で波と戯れつつ、美味しいものを食べる。コロナから生還した夫婦にまばゆく映る人生。
この時の往復の道中、妻とたくさんのことを話せたのは旅ならでは。人生とは何か。何のために生きるのか。夫婦にとって今の人生の中で何が障害だったのか。多くのことを話し合いました。

夫婦ともにコロナを経験した今、残り余生が急に現実感を伴って迫ってきました。
コロナ前から常に考え続けてきたこと。それは仕事だけで終わるにはもったいない人生の豊かさです。豊かな人生を全うするにはどうすればよいか。そして、何をしなければならないのか。
そうした私の考えについて、腹を割って話し合いました。ドライブは話し合いにはうってつけです。

9月20日(月曜)。
三連休の最終日。まだ咳き込む自分が残っています。
知力・気力はだいぶ戻ってきた感触があります。
ですが、体力はどうか。本当にこれからの人生を生き抜ける体力は戻ってきたのか。

それを試すため、一人で山登りへ。電車を乗り継ぎ、笹子駅まで。そこから滝子山へアタックしました。
ところが、高尾駅で30分乗り継ぎに待たされたこともあり、滝子山の登山道に着いたのは14時過ぎ。そこから登れるところまで登ったのですが、日が暮れた後の自分の体力に全く自信がなく、16時前に三丈の滝で越前撤退を決断しました。
帰路、私は自分の体力のなさや準備不足の失敗に心の底から憤っていました。
立ち寄った笹一酒造の酒遊館で購入した日本酒を一合、帰りの電車で飲み干しました。そして見事に酔っぱらってしまいました。目がちかちかし、目の前の明かりが異様にまぶしい。
八王子の駅前広場をさまよい、ベンチで横になる私。横になっている私の横では若者がスケボーを持ちながらしゃべっています。この時、狩られていたら、おじさんは瞬殺されたはずです。

横たわりながら、酔っぱらいながら、私は自分の情けなさに心の底から失望し、コロナごときで体力を落とした自分の体たらくに強烈な反発を感じていました。
今後の自分に課す目標は、山梨百名山制覇。それぐらいやってやる、という決意とともに。

ですが、そうした自らの怒りの底に、自分の可能性もかすかに感じていました。
それは、自分の中に相変わらず強烈な現状維持への拒否感があること、人生に変化をつけたいと言う意思の強さが再確認できたことです。
コロナに負けてたまるかという意思が残っているのなら、自分はコロナに打ち負かされることはない。
強烈な怒りの奥底に、自分の芯の手ごたえを確かめられた一日でした。

9月21日(火曜)。
この日も多数、打ち合わせをしました。
打ち合わせしていて、頭の中が真っ白になったり、自分の脳の動きが制御不能になったりの恐怖に襲われることはなかったです。仕事人として役に立てないという絶望感に覆われることも。
さまざまなプログラミング作業にも手を染めましたが、ロジックを構築する能力に支障はなさそうです。
後は、いつになれば私から咳が去るのか。

9月22日(水曜)。
この日は、サテライトオフィスに赴いて作業していました。
サテライトオフィスを訪問するのはコロナ発症の日以来です。この時、サテライトオフィスに訪れてすぐ、妻子を迎えるために急遽帰宅したのでした。

朝一にも家で打ち合わせをこなし、サテライトオフィスでもオンライン・オフラインを含め、複数の打ち合わせをこなした一日でした。
サテライトオフィスに始まり、コロナからの回復に向けたサテライトオフィスにいる今。そろそろ自分のコロナについて著す時期だろうと思いました。
ただし、咳はまだ残っており、決して完治ではありません。私に可能なのは、いずれ完治すると信じることのみ。
くしくもこの日は、とうとうコロナから逃げ延びた長女が一回目のワクチンを打った日。

私もコロナ患者として、その痛みを多少なりとも知ることができました。
今後、コロナが世界中から根絶されることはないでしょう。だからこそ、少しでも多くの人がコロナに罹患せず、そして家にこもらずにそれぞれの人生を全うしてほしい。そう願います。
まずは皆さんがワクチンを可能な限り打ってくださることを。私も二回目のワクチンを九月末には打ちたいと考えています。

コロナのわが家にかかわってくださった皆さま、本当にありがとうございました。


叫びと祈り


本書は毎年末に恒例のミステリーのランキングで上位に推された。
連作の短編集である本作は、著者の処女作。初めての小説で上々の評価を得た著者の実力は確かだと思う。

実際、本書はとても面白い。ミステリーの骨法をきちんと備えている。
語りの中にときおり詩的な描写が挟まれ、それでありながら、簡潔な文体で統一されている。さらに短編なので一つ一つの物語がすいすいと読める。ミステリーが苦手な方にも勧められる。

何よりも面白いのは、本書に登場するそれぞれの物語の舞台が国際色豊かなことだ。本書に収められた五編のうち、日本が舞台の物語は一つもない。

五編の物語はそれぞれ、サハラ砂漠、中部スペインのレエンクエントロの風車、ウクライナに隣接する南ロシアロシア南部の修道院、アマゾン奥地のジャングル、東南アジアのモルッカ諸島の島、といった特殊な環境を舞台としている。

日本人にはなじみのない環境と文化。その中で起こる謎。斉木が解決するのはそのような事件だ。
斉木は、世界の問題を取り上げる雑誌の記者だ。語学に堪能で、海外の暮らしには不自由を覚えることはない。さらに、物事に対する深い洞察力を持っている。

「砂漠を走る船の道」

本編こそが、著者の名を大きく高めた一編だ。

砂漠をゆくキャラバン。
キャラバンが向かうのは塩を算出する場所。ここで岩塩を切り出し街へと運ぶ。
太陽が目を灼き、砂が肌を痛めつける。砂がすぐに覆い隠してしまうため、過酷な道は道の体をなしていない。
その道を間違いなく行き来し、天気や環境を知悉するには長年の経験が欠かせない。
キャラバンの一行は荷駄を預けるラクダとリーダーと二人の助手、そしてリーダーに懐く若いメチャボ。
だが、帰途に砂嵐に遭遇し、リーダーは死ぬ。その帰り道には二人の助手のうち一人がナイフを刺されて死んでいた。

一体、何が動機なのか。その動機の謎と過酷な環境の組み合わせがとても絶妙。その関連が印象に残る。
結末ではもう一つの謎も明かされる。その意外性にも新たなミステリーの地平を見せられた気がする。

「白い巨人」

この一編は、風車をめぐる歴史の謎が絡む。
レコンキスタ。それはかつて、イベリア半島を支配したイスラム勢力を再びアフリカに追いやる運動だ。本編に登場する風車は、レコンキスタの戦いの中で、敵であるイスラム側の戦況を味方に伝えようとした斥候が追われ、逃げ込んだ場所だ。逃げ込んだ斥候は風車の中にうまく隠れ、レコンキスタの成就に決定的な役割を果たしたという。

本編に登場するサクラが、かつて想いを寄せた女性を見失ってしまったのも同じ風車。人を消す風車の謎を軸に本編は進む。

風車の謎以外にも、もう一つの謎が明かされる結末もお見事。

「凍れるルーシー」

生きているように、こんこんと永遠の眠りにつく遺体。それを不朽の体、つまり不朽体という。
西洋にはそうした不朽体がいくつか報告されているそうだ。

十字架の上で死んだメシアが復活する。言うまでもなくキリスト教の教義の中心にある奇跡だ。そうした現象を教義に据えるキリスト教が文化に深く影響を与えている以上、西洋のあちこちで不朽体のような現象への関心が高いことは理解できる。

本編の舞台である南ロシアの修道院にも、不朽のリザヴェータの聖骸がある。今までは世間に知られていなかったリザヴェータを聖人として認定してもらうよう、修道院長がロシア正教会に申請を出したことがきっかけで事件は動く。修道院には聖骸を熱狂的に崇める修道女がいて、聖人申請がうまく行かないのではと不安に苛まれる。

そんな所に修道院長が死体となって発見されたことで、事態は一気に混迷に向かう。

本編も短編ならではの簡潔でキレのある物語だ。効果的な謎の提示と収束が魅力的だ。

「叫び」

本編の舞台はアマゾンの奥地だ。隔絶された部族を取材したクルーが遭遇する殺人事件。
だが、斉木たちクルーが部族の集落を訪れた時点で、集落には正体が不明の伝染病が猖獗を極めていた。殺人が起こる前からすでに絶滅寸前の部族。

そのような絶望的な状況でありながら殺人が起こる。どうせ死んでしまうのに、なぜ殺人を犯す必要があるのか。その動機はどこにあるのか。
そこには部族が持つ独特な世界観が深くかかわっている。

本書を通じて思うのは、著者は動機を考えるのがとてもうまいことだ。
それは世界各国の社会や文化についての深い造詣があるからに違いない。
文化によって守るべき考えはそれぞれだ。ある文化では当たり前の慣習が、ある文化では忌むべき振る舞いとなる。よく聞く話だ。

それを短い物語の中で読者に簡潔に伝え、文化によってはそのような動機もありなのだ、ということを謎解きと並行して読者に納得させる。

その技は簡単ではない。

「祈り」

こちらは今までの四編とは少し趣が違っている。語り手によって語られるのはゴア・ドア──祈りの洞窟についてだ。
語り手は誰に対して物語を語っているのか。そこでは上に紹介した四編の物語が断片的に触れられる。

語りの中から徐々に露になってくるのは、斉木が不慮の事故で記憶を失ったこと。
世界を股にかけ、最も自由な生き方をしていた斉木。日本人の認識の枠を超え、自由な考え方をモノにしていたはずの斉木に何が起こったのか。

文化にはさまざまな形がありうるし、その中ではさまざまな出来事が起こりうる。
文化の違いに慣れ、事故に強かったはずの斉木にも防げなかった衝撃。それだけの衝撃を斉木はどこでどのように受けたのか。

果たして斉木は復活しうるのか、

本編はミステリーよりも、四編の短編を受けた一つの叙情的な物語の色が濃い。
文化はいろいろとあれど、それらを共有するのも伝え合うのも人、ということだろう。

‘2019/12/8-2019/12/11