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翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて


何も考えずに笑える映画が見たい。
そんな妻の希望に応えて観てきた。

本作は『翔んで埼玉』の続編だ。私は『翔んで埼玉』を家族と一緒にテレビで見たことがある。
虐げられる埼玉と支配する東京、そして周囲に蟠踞する県の関係はとても斬新だった。いわば、県民ショーのようなアプローチだ。
旅を愛する私としては楽しめた。

本作は何も考えずに楽しむべき映画なので、レビューなど無粋な営みは本作にはむしろ邪魔だと思う。本来ならばこの記事を書く必要もない。
だが、私にとって本稿は観劇記録を残すための場である。そのため、あまり堅苦しい内容にならないように書き残しておく。

本作は近畿を舞台にしている。
前作で舞台となった埼玉や東京や千葉や神奈川は本作にはほとんど登場しない。

では「翔んで埼玉」なのにどう翔べば舞台が近畿になるのだろうか。

前作も含めて「翔んで埼玉」で描かれる世界は、私たちの住む日本とは別の世界、別の時間線からなっている。
それでいながら、この後で例を挙げる通り、私たちがよく知る地形や建物、ランドマークや文化風土が登場するのが本作の面白さだ。むしろ、ずれていることに面白さがある。

近畿に無理やりつなげる話の流れは、埼玉から東京に伸びる六路線の争いを発端とする。
東武、JR、西武は東京に進出することだけに血道をあげ、埼玉を横につなげようとする構想には目もくれない。バラバラの埼玉を一つにまとめるため、主人公の麻実麗は越谷に海を作ろうとする。そこで和歌山の白浜まで行くことから本作の物語は動き出す。

そもそも、埼玉に武蔵野線を作りたいとの切実な願いがすでに現実世界を無視している。現実に存在する武蔵野線の存在は本作では当然のように無視されている。そこにツッコミを入れてはいけないのだ。

そして、一行が訪れた近畿のあちこちは、かなり異様な場所に変えられている。
アホらしくてなんぼの本作ではあるが、元関西民の私から見ても、そのくだらなさとぶっとび具合は何度も声を出して笑わされた。

たとえば、片岡愛之助さんが演ずる大阪府知事は冷酷かつド派手。隈取りのようなメイクがまた憎々しさを醸し出している。通天閣のふもとの新世界あたりに登場する知事の背後には通天閣がそびえ、周りを親衛隊のような連中が囲む。当然その親衛隊が身を包むユニフォームは黄色の縦縞。まさにタイガースのイメージそのものである。
このような吹っ切れた戯画感は本作の面白さに確かに貢献している。忖度無用でガンガン突っ込んだ笑いがいい。滑ろうが受けようがお構いなし。関西を知らない方にとっては本作は面白みを感じにくいかもしれないけど、それも気にしない製作陣のすがすがしさが素敵だ。だからこそ、私たちも面白さを感じて大笑いする。

極め付けは、大阪府知事に逆らったものはすべて甲子園の地下に放り込まれる設定だ。
甲子園出身の私としては、地元をおちょくりおってという苛立ちより前に、甲子園の地下を巨大な労働収奪の地獄に変えてしまう発想に笑うしかなかった。
「甲子園へ放り込んだれ〜!」と吠える大阪府知事の台詞回しは流石の一言。

海外のヒーロー物の映画にもこのような地下牢獄(『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のような)が出てくるが、監督の年齢はひょっとして私と同年代ではなかろうか、と思わせられた。
そこで働く労働者の姿は、完全にチャーリーとチョコレート工場に登場する映像そのものであり、ウンパルンパそのものを堂々とパクり、完全に確信犯として笑いをとりに来ている。

私の故郷兵庫ですらも、芦屋とそれ以外の街の間といった具合に分けられている。
それでいながら藤原紀香さん演じる市長は神戸なんやからようわからん。
そうした思い切った区分けの仕方が本作の良さだ。

裏で何を考えているかわからない京都人のことも揶揄されている。そこに登場する山村紅葉さんの強烈な存在感は、神戸市長と不倫している設定の川崎真世さん扮する京都市長すら凌駕してしまっていた。
その一方で、大阪や兵庫に比べると印象の薄い和歌山と奈良の気の毒なこと。例えば一行が最初に訪れた和歌山など、白浜を除けばパンダしか出てこない。奈良も鹿とわずかな出番のせんとくん以外はスルーされている。うーん。

和歌山や奈良をさしおいて、本書のサブタイトルに祭り上げられている琵琶湖。
だが、かつて甲子園に住んでいた私にとって、琵琶湖や滋賀のイメージは実はそれほど強くなかった。たとえ琵琶湖が近畿の水がめであり、淀川を通じて琵琶湖から水の恩恵を受けていたにもかかわらず。

そのような各県のあいだの歪んだ距離感も本作に描かれる面白さだ。
本作の中では、琵琶湖のすぐそばに甲子園があるような感じで描かれている。だが、電車でもこの距離は近くはない。むしろ小旅行ですらある。
そもそも、甲子園が大阪の牢獄と言う時点でもう時空が歪みまくっている。

本作には最新の近畿の名所が登場しない。肩で風を切って歩いているはずの「あべのハルカス」や「空中庭園」も出てこない。「USJ」も全くと言ってもいいほど登場しない。
そのかわりに本作に登場している近畿って、一昔前の近畿ちゃうの?
監督の世代ってひょっとして私と同じ位で、しかも若い時期に上京したんと違う?と思いたくなった。知らんけど。

東京の誰かが関西に抱いているなんとなくの知識の断片をさらに拡大すると、本作で描かれたような感じに戯画化されるんやろか。

これは元関西人としてはとても気になる視点だ。
なるほど、私が上京した当時もそういうふうに思われていたんやろか、と。
この視点は、もう少し視野を広げれば外国の方が日本に対して思うステレオタイプなイメージにも通ずるのかもしれない。例えば、ハラキリ、カロウシ、ゲイシャ、スシ、ポケモンのような。

本作を見ていると、自分の中の故郷への視点と、世間の人、特に関東の人が近畿に対して抱くイメージのどちらが正しいのか、自信を無くす。

実は旅をしない一般の方にとって、近畿のイメージとは、古い情報からアップデートされていないのだろうか。インターネットが情報を簡単に提供する今の時代にもかかわらず。

そうした困惑を私に引き起こす本作。そうした認識のずれも含めて記憶に残る映画だった。

‘2023/12/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


バベル九朔


著者の作品の魅力とは、異世界をうまく日常に溶け込ませることにある。しかも異世界と現実をつなぐ扉を奇想天外で、かつ映像に映えるような形で設定するのがうまい。

関西の三都、そして奈良や滋賀を舞台とした一連の著者の作品は、どこも私の良く知る場所なだけに著者の発想を面白くとらえられた。

本書はそうした場所の縛りがない。おそらく、関東のどこかと思われる。どこかは分からないが、鉄道の駅のすぐそばに建つ古びた雑居ビルが本書の舞台だ。主人公は親族の残した遺産であるこのビルの管理人をしている。20台半ばでサラリーマンを辞め、作家を志望しつつ、日々小説を書く。時間に自由が利くこの仕事にうまい具合にありつき、日々を満喫している。

5階建ての雑居ビルは、祖父が建てたもの。歴史のあるこのビルの歴代のテナントは野心的なコンセプトの店が多い。なぜかは知らないが、祖父はそういうお店を積極的に入れるようにしていたのだとか。なので店子の入れ替わりが激しい。今の店は以下のテナントで構成されている。
地下一階「SNACK ハンター」
一階「レコ一」
二階「清酒会議」・・双見
三階「ギャラリー蜜」・・蜜村
四階「ホーク・アイ・エージェンシー」・・四条

本書の冒頭にはカラスが登場する。カラスといえば雑居ビルにはふさわしい存在だ。そして、カラスが本書の肝となって物語を動かしてゆく。カラスのような面相の女と、謎の男たちがバベル九朔に侵入し、狼藉を働く。やがて管理人である主人公の周りにも、そしてビルのあちこちにも怪しげなきざしが満ち始める。主人公の管理の範囲をはみ出し、ビルに歪みが生じ始める。そして異世界への扉が開く。

本書が描く異世界は、今までの著者の作品の中でも異質だ。今までの著者の作品は、現実の大阪や京都、奈良や滋賀に異質な世界が密かに浸してゆく構成だった。その時、登場人物たちはあくまでも現実側の人間でありつづけた。しかし本書は違う。本書は主人公が異世界の中に入り込む。だから、本書の現実の舞台は、どこかが曖昧に描かれる。どこかの鉄道駅のそばの雑居ビル、という事しかわからぬバベル九朔。現実の世界はそのビルの中に限定される。関西の特徴的な都市に頼っていた今までの作品とは違う。

現実が曖昧に描かれている分、異世界の描写は非現実的な描写が色濃く描かれている。こちらの現実世界の法則や風景は望めない。どうやって異世界の風景や法則を描き出すか。おそらくは著者にとっても難しい挑戦だったと思う。だが、著者は本書において、現実との差異を見事に描いている。メビウスの輪のように堂々巡りする世界。坂を上った先に坂の下の景色がひらけ、坂を下ると坂の上の景色が見える世界。時間と空間が歪み、堂々巡りする光景。

その異世界は、作家を志望する主人公の妄想と願望を結び付けさらには祖父の残した秘密にも関わってくる。そのあたりの描写がうまいと感じる。なお、本作の奥付けで初めて知ったが、著者は作家としてデビューする前、実際に管理人の仕事をしていたという。どうりで管理人のリアルな業務が描けるわけだ。

上にも書いた通り、本書が特徴的なのは、日常の暮らしと奇想の世界の書き分けだ。現実の世界に住む主人公は、リアルな現実感覚の持ち主として描かれる。作家を志望しているが、実直な管理人。だからこそ、主人公の目から見た異世界は異常に映る。そのギャップがいい。

本書の各章のタイトルは、管理人の定例作業からつけられている。
第一章 水道・電気メーター検針、殺鼠剤配置、明細配付
第二章 給水タンク点検、消防点検、蛍光灯取り替え
第三章 階段掃き掃除、水道メーター再検針
第四章 巡回、屋上点検、巡回
第五章 階段点検
第六章 テナント巡回
第七章 避難器具チェック、店内イベント開催
第八章 大きな揺れや停電等、緊急時における救助方法の確認
第九章 バベル退去にともなう清算、その他雑務
終章  バベル管理人
これだけを読むと、本書は何やらつまらなそうな内容に思えてしまう。だが、逆で面白く仕上がっていることは言うまでもない。

むしろ、ここに挙げた管理人の仕事が、異世界が現実を侵食する様子に一致しており、ここでも現実と異世界の描写がうまく書き分けられている事を感じる。どうやって描いているかは、本書を読んでいただくとして、その一致を楽しむと良いだろう。現実の世界の裏側には、常に幻想の世界が控えている。

今までの関西の諸都市を舞台に小説を発表してきた著者が、本書において新たな道を切り開いたことをうれしく思う。それは読書人の特権である、新たな世界への期待であるからだ。

著者はこれからどういう方向に進んでいくのだろう。幻想作家の道を選ぶのだろうか。それとも伝奇小説の分野に新境地を見いだすのだろうか。私にはわからない。だが、本書は著者にとって新たなきっかけとなるように思える。引き続き、新刊が出たら読みたいと思える作家の一人だ。


プランク・ダイブ


本書を読む前、無性にSFが読みたくなった。その理由は分かっている。本書を読む少し前からワークスタイルを変えたからだ。常駐先での統括部門でのフル稼動から、月の半分を自分で営業し仕事を請けるスタイルへ。それは技術者としてプログラマとして第一線に立つことを意味する。その自覚が私をSFへと向かわせたのだろう。

また、SFジャンルの今を知りたくなったのも本書を手に取った理由だ。今は現実がかつてないほどSFに近づいた時代。A.Iを取り上げた記事が紙面やサイトを賑わせ、実生活でもお世話になる事が多くなりつつある。ドローンは空を飛び交う機を静かに伺い、Googleが世に出したAlphaGoはついに現役の囲碁世界チャンピオンを破った。今やサイエンス・フィクションと名乗るには、中途半端なホラ=フィクションだと現実の前に太刀打ちできない。

そのような現実を前に最前線のSF作家はどのような作品で答えるのか。そのことにとても興味があった。著者の作品を読むのは初めてだが、現代SF作家の最高峰として名前は知っていた。著者ならば私の期待に応えてくれるはずだ。

本書に納められた作品は直近で2007年に発表されたものだ。そのため、ここ数年の爆発的ともいえるIT技術の発展こそ本書には反映されていない。だが、本書は人々が当たり前のようにネットを使い、人工知能を現実のものとして語る時代に産み落とされている。

果たして著者の産み出す未来世界は現実を凌駕し得るか。

私の問いに対し、著者は想像力と科学知見の全てを駆使して応えてくれた。私の懸念は著者の紡ぐ新鮮なSFによって解消されたといっていい。サイエンス・フィクションの存在意義が科学を通して読者に夢を見させることにあるとすれば、本書はそれを満たしている。私にとって本書は、科学が発達した未来の姿だけでなく科学がもたらす希望も与えてくれた作品となった。

本書の内容は難解だ。だが、面白い。本書に登場するのは人類の未来。その未来では人工知能によって人類が滅ぼされておらず、人類が技術を乗りこなしている。遠い遠い未来の話だ。その未来には私の実存は無くなっていることだろう。だがもしかするとデータとして残っているかもしれない。あわよくば、私という実存はデータとしてだけではなく、意識して思考する主体として活動しているかもしれない。そんな希望が本書には描かれている。

ここまで書いて気づいた。私が自分の死を恐れていることに。人類が絶滅し、私の意識が無限の闇の中に沈んでいくことに。

本書には、未来の人類が登場する。そして彼らは意識をデータ化し事実上の不死を実現している。

その技術の恩恵を今の世代が受けることはおそらくないだろう。不死を手に入れる特権は、さらに未来の世代まで待たねばならない。私たちは果たして死した後に何を残せるのだろうか。本書のとある一節では、既に亡くなった死者をデータ化して復活させることは難しいと宣告される。今の私たちが実存者として意識し思考する事はおそらくないだろう。それでも、本書からは人類の未来に差すいく筋かの光が感じられた。

それは私にとって何よりの喜びであり救いだ。

本書には、難しい宇宙論を駆使した一編が収められている。芸術や物語という、今の我々が依って立ち、救いとしている伝承や伝統を突き放し、否定するような一編もある。

それでもなお、本書に収められた科学の行く末は、我々に取っての希望だ。

囲碁が人工知能に負ける時代を共有している私たち。この中でどれほどの人々の生きた証が後世に残されるのか。そんな技術の恩恵に与れるのは一握りなのかもしれない。でも、本書には書かれていないとはいえ、あらゆる社会的な矛盾が技術によって一掃された未来。本書からはそのような希望すら汲み取れる。

‘2016/04/10-2016/04/14


ネジ式ザゼツキー


著者の幾多の名作の中に眩暈という作品がある。記憶を無くした男の語る異世界に迷い込んだかのようなエピソード。彼はいつどこで何をしでかし、何故に記憶を喪ったのか。

一見無節操に見えるそれらのエピソードから、地球上のとある場所で起こった事件を御手洗潔が突き止める、という粗筋だったように思う。

著者の地理学、物理学、心理学、民俗学、医学などの博識を駆使し、壮大な謎解きを繰り広げた作品だった。もう二十年以上読んでおらず、大分忘れつつあったのだが、本書を読み、その地球規模の謎が久々に脳裏に甦った。

本書は、記憶を無くした男による奇想天外な話をもとに、御手洗潔がその謎を解明する、ほぼ眩暈のプロットをなぞった作品である。

ただし、眩暈から二十年以上経ち、現実世界の時の潮に合わせ、御手洗シリーズの作品世界も満ち引きを繰り返している。本書では御手洗潔はスウェーデンで脳学者として教授職に就いており、御手洗潔のワトソン役として知られる石岡は登場しない。本書はその大学病院にきた患者が示す荒唐無稽な童話、それとインタビューで患者が語る謎を、御手洗潔が解き明かす趣向である。

本書が目眩と違う点は突拍子もない童話の存在にある。タンジール蜜柑共和国への帰還というその童話は、異常に高い蜜柑の樹の上方に住む民族。背中の肩甲骨に羽の名残がある住民、人口の筋肉で飛ぶ飛行機。そのような場所がこの星に存在するのか。

また、本書を目眩と区別するもうひとつの点は、その死体。首と胴体が離れ、それぞれに凹凸のネジが埋め込まれるという驚愕の死に様。そんな死体が本当に存在するのか、そのトリックの意味とは?

これが、御手洗潔の手によって鮮やかに解き明かされる様は見ものである。

少々強引な論理飛躍を感じさせる箇所がないでもなく、着想ありきで、論理を後付で構築した感がありありだが、それでも本書はこれぞ著者の真骨頂ともいうべき逸品である。

‘2014/8/30-2014/9/2


光の帝国―常野物語


柳田國男の有名な作品として、遠野物語がある。岩手県の遠野地方に伝わる説話集を筆記したもので、妖怪譚や怪異譚、民俗学的な記述まで、多岐に亘った内容のそれは、日本民俗学の嚆矢として名高い書物である。

本書は、題名からも分かるとおり、遠野物語を明らかに意識したと思われる。常野物語とは、常野と呼ばれるどこか世間とは違う場所に属する人々の物語である。常野に属するとはいえ、本書で描かれる舞台は、読者の属する世間である。そこで書かれる出来事やしきたりも、世間の約束事に従っている。

本作は連作短編の形式を取っている。それぞれの短編では、世間の中に住まう常野の民達が常野の民であることを隠しつつ生きている。隠しつつも、常野の民の持つ様々な能力を発揮し、周囲の人々を救い、癒す。またある時は常野からの世間に忍び入るあやしの影を撃退する。

短編とはいえ、本書は作者のストーリーテラーの力量が遺憾なく発揮されている。常野という異世界の設定がなくても、十分優れた短編として通用する粒ぞろいの内容が揃っている。常野の民の持つ能力は、短編の基本設定と、物語の進展において、欠かせないものとして書かれている。が、それも短編の面白さにとっては本質ではなく、本書においても多種多様な短編群をつなぐコンセプトのようなものとして機能している。

著者の短編作家としての技量を改めて見直した一作。

’14/07/09-‘14/07/12


つぎの岩につづく


単に科学技術の粋を描いたり、宇宙や別の星の住人を物珍しく描くこと。これだけがSFではない。それは以前にも書いたように思う。異世界や異文明を描くことで、人類自身を描こうとする営み、これもSFの大切な役割ではないかと思っている。

本書は題名からも想像できる通り、シリアスなハードSFではない。16編の短編からなる本書は、むしろ軽妙ですらある。その中の数編はSFというジャンルではなく、一つの短編として世に問えるだけの内容となっている。人間存在を違う視点から描くという点において。

むしろ、SFという固定観念で読んでかかるよりも、優れた短編集として読んだ方が良い気がする。SF的な設定を借りてはいるものの、示唆に富んだ内容はすぐれた短編集を読む喜びを充分に与えてくれる。

視点を変えて自分自身を、人類自身を眺めたとき、どんなに滑稽なものか。自分に悩んだ時、行き詰った時。視点を変えることでそれらの悩みが取るに足りないものだったということはままあることである。本書はそういう視点変換のトレーニングによいかもしれない。

’14/3/12-’14/3/15


リーシーの物語 下


上巻のレビューに書いたけれど、じっくり読むという目標が、もろくもくずれ、下巻は3日で読み終えてしまっている。

これは退屈になって斜め読みになったのではなく、物語の面白さに追われてしまったため。

上巻のレビューに書いたように、大枠の展開は今までの作品と似たような感じなんだけど、それは読んだ後だから言えることであって、著者のストーリーテリングの手妻に翻弄されてしまった下巻の読書体験であったといえる。

加えて下巻になってからは展開も時制と語り手と場所が縦横無尽に入れ替わりたち替わり現れるため、じっくりと考えながら読み進めると却って混乱することになると思う。そう思えるほど大量に敷き詰められた布石がつぎつぎとひっくり返っては眼前に現れていくような下巻の展開だから。

本書は再読をし、何度も味わったほうがよい類の小説ではないかと思うし、再読を促すことこそがまさに著者の狙いなのではないかと勘ぐってしまう程だ。

物語の喜びを味わわせることのできることが作家の喜びであるとすれば本書は成功していると思う。何せ、本書は死んだ作家が生前に残した意思が、死後に大活躍する話だからだ。著者が死して後も、物語を読む喜びを読者に与え続けられるとすれば、それこそ作家冥利に尽きること間違いないだろう。

著者の作家としての意思が込められた小説として、後世に残る作品ではないかと思う。

’11/12/14-’11/12/17


リーシーの物語 上


著者の本も大分読んできているけれど、最近はちょっと展開がマンネリ化の方向にあるなぁ・・・と思うことが多い。

正直言ってこの本も展開としては今までの名作たちと同じような部分もあるにはあるのだけれど、著者の凄いところはその描写のディテールにあり、大枠の展開は同じであったとしても、場面場面に今まで見たことのない新しい驚きと謎を提示していくことで、読者をぐいぐいと物語の渦にひっぱっていくところにあると思う。

本書もまた、伏線を多数敷きまくるところで上巻を費やしているのだけれど、その伏線の敷き方が巧みで、人物造形や出来事の描き方がすぐれているため、後から思い返すと大筋の展開が似たものであったとしても、読んでいる間はそのことを全く感じさせない内容となっている。

効果的な小道具の使い方やキーワードの見せ方など、本当に読んでいて万華鏡のようにつぎつぎとワンダーストーリーが繰り広げられることに感嘆を禁じ得ない。

本書を読むにあたっては、筋を追っかけてしまうと著者の本の豊かさに触れられないということが分かっていたので、今回はこのあたりの細かい描写をじっくり味わうため、あえてゆっくりと時間をかけて読んでみた。

’11/12/07-’11/12/13