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浮世の画家


先日、読んだ『遠い山並みの光』に続く著者の二作目の長編小説である本書。前作と同じく戦後の日本が舞台となっている。

テーマは、時代による価値の移り変わりに人はどうあるべきか。
『遠い山並みの光』にも戦前の考えを引きずったまま、戦後になって世の中の転換に困惑する人物が登場した。主人公の義父にあたる緒方さんだ。

本書の主人公である画家の小野は、その緒方さんをより掘り下げて造形した人物だ。
戦前に戦争を推進する立場についていたため、戦後になって世の中から声を掛けてもらえず、引退も同然の毎日を過ごしている。
かつて盛り場だった街で、昔からのなじみであるマダム川上がやっているバーに通う日々。
本書の時代背景は、1948年10月から1950年6月にかけての一年八カ月の期間だ。

その時期とは、ようやく戦後の復興が端緒についた時期。進駐軍による占領は続いており、その中で戦後の新体制への移行や憲法の施行が行われ、戦時中の日本のあらゆる価値がもっともドラマチックに捨て去られた時期だ。
その時期の日本の某都市を舞台に、小野の周りの人間模様を描くことで日本の置かれた状況を描き出している。

だが、本書には終戦後の日本を彩った歴史の年表に並ぶような出来事はほぼ出てこない。
著者はあえてそうした社会の変動を描かず、社会の通念の流れと価値の観念が揺り動いたことを本書の登場人物の日常から表現する。

人々の考えが変わった証し。それは、小野に対する目に見えない冷淡な世間の対応として現れる。
考え方の変化を読者に伝える題材として、著者はお見合いに着目する。お見合いとはまさに日本の慣習であり、人々の考え方の変化がもっとも見えやすい対象だ。

小野の次女の紀子は、先方からの急な断りによって縁談を破談にされる。あまりに急な先方の豹変に困惑する紀子と姉の節子。その理由を敏感に感じた節子は、父にそれとなく理由を伝えようとする。だが、小野の反応はあいまいなもの。なぜ破談になったのかを気づいていないようにすら思える。

著者が巧みなのは、小野の周囲に人物を配置する手法だ。小野のかつての弟子だけでなく、娘二人とその家族や見合い相手を置く。それだけで、戦後日本の風潮の転換を具体的な思想やイデオロギーを出さずに表現しているのだから。

長女の節子は息子の一郎を連れてくる。が、一郎の幼さに迎合しようとする小野は、ローン・レンジャーに夢中になり、アイスクリームを欲しがる太郎に手を焼く。
かつてならば、家長の権威を振りかざし、いうことをきかせられたものを、孫に厳しく接することにためらい戸惑う小野。

人々の価値が変わってしまったことを如実に示すのが、小野と一郎の関係だ。

モリさんこと師匠の森山に対して小野が放った決別の言葉も、小野に跳ね返ってくる。
「先生、現在のような苦難の時代にあって芸術に携わる者は、夜明けの光と共にあえなく消えてしまうああいった享楽的なものよりも、もっと実体のあるものを尊重するよう頭を切り替えるべきだ、というのが僕の信念です。画家が絶えずせせこましい退廃的な世界に閉じこもっている必要はないと思います。先生、ぼくの良心は、ぼくがいつまでも〈浮世の画家〉でいることを許さないのです」(267ページ)

森山は、かつて武田工房に属する一人の画家に過ぎなかった小野を招いてくれた人物だ。
だが、技巧に秀でた小野はさらに独立への道を選ぶ。そして、同時期に知り合った国粋主義の思想を持つ松田知州に誘われる。そしてともに新日本精神運動を起こす。
小野が戦後に冷遇される理由は、翼賛体制に寄り添った新日本精神運動へ参加したことが原因と思われる。戦中に軍国主義を推進した政治家や実業家が戦後に公職から追放されたのと同じ理由と理解すればよい。

だが、単純に小野をかたくなな軍国主義の持ち主として描いていないことが著者の工夫だ。
小野がモリさんこと森山のもとを去った理由となる作風の変化は、社会の低層をキャンバスに写し取ろうとした小野の決意にある。それは、作中には描かれていないが、軍部が問題視したプロレタリアの精神すら感じさせるものだ。
組織を去ってまで己の道を貫こうとした小野のあり方は、進め一億火の玉だと叫ばれた戦前の風潮とは一線を画している。そこを見逃してはならないと思う。
小野はただ、時代の風潮に寄り添うことを良しとせず、自らの道を歩もうとしただけなのだ。そうした意味では、小野もまた時代の犠牲者に過ぎないと思う。

一方。小野は自らが冷遇されていることを心の底では理解していながら、娘たちにはなんでもない風を装う。そして、紀子の見合いの席では率直に自らの戦時中の言動を謝罪しようとする。小野は本書において頑迷な人物としては描かれない。見苦しい自己弁護に堕ちない小野の印象は、物語を読み進めるほどに変わってゆく。共感すら覚えたくなる人物だ。

小野の具体的な過ちが一体何かは、終盤までぼやかされている。にもかかわらず、本書はある種の清々しさがある。
それは周囲が小野の過去にこだわって距離を置こうとする対応とは逆に、小野自身は時代の流れに乗ろうとせず、人としての信念のままに過去から未来へと、たどたどしいながらも歩もうとしているからだろう。それは、浮世の画家というタイトルから受ける印象とは逆だ。

日本人の血をひいているとはいえ、異国の英語文化の中で育った著者。そんな著者が著した日本の物語は、価値の転換や文化の違いなどを隔てているだけに、層をなしていて読みごたえがある。

‘2020/01/05-2020/01/09


画狂人 北斎


ここ一年、私にとって両国界隈はぐっと身近な場所となった。個人的に訪れるのは、江戸東京博物館や国技館、回向院、横網町公園やクラフトビールパブのpopeyeなど。そしてこの一年で、両国でお仕事のご縁も結ばせていただくことになった。今、私にとって両国は公私ともに熱い場所だ。

本作を観る機会も両国でのお仕事のご縁からいただいた。観劇の一週間前のこと。おかげで素晴らしい舞台経験ができた。きっかけをくださった方にはとても感謝している。

昨年秋にすみだ北斎美術館が開館したことは記憶に新しい。だが、わたしはまだ訪れていないし、積極的に観に行こうとも思っていなかった。両国界隈を歩くと嫌でも葛飾北斎の痕跡が目につくのに。例えば生家跡だったり寓居跡だったり。江戸時代の風情が残されているとはいえない両国界隈だが、北斎が遺した足跡は両国のあちこちに点在している。それなのに、私は両国を何度も訪れながら、ついに北斎自身に興味を持つことがなかった。

でも今は違う。今の私は北斎にとても興味をもっている。なぜなら本作を観たから。本作こそは、私に葛飾北斎の世界を教えてくれた。科学者並みに計算され尽くした構図。枠にはまらず、破天荒な人生観。画に打ち込んだ壮絶な執念の力。北斎の娘お栄との奇妙な生活。齢90を控え、なお長命を欲した活発な意思。北斎を知れば知るほど、北斎は私の生き方の範となるべき人物に思えてくる。中途半端な私の生き方を、よりアグレッシブにしたのが北斎ではなかったか。生涯に93回引っ越し、三万点の作品をのこし、画号を幾度も変え、貪欲に自らの生き方を追求した人物。そう伝えられているのが葛飾北斎。知れば知るほど魅力的に思えてくる。

本作は、葛飾北斎についての朗読劇だ。朗読劇、という芸術形式は私にとっては初めて。朗読会のような感じだろうか。あるいは直立不動、または座像のように動かぬ朗読者たちが、単調に台本を読んでいくような光景。レコーディングスタジオでアテレコする声優さんのような感じ?本作をみるまで、私はそんな想像を抱いていた。

ところがそうではなかった。本作は私の貧困な演劇知識で創造の及ぶような朗読劇ではない。そもそもそんなありきたりな演出を宮本亜門氏がよしとするはずはないのだ。本作は宮本亜門氏が演出と脚本を担当している。朗読劇と銘打たれているとはいえ、舞台のダイナミズムを損なうような演出をするはずがない。

朗読劇であるため、朗読者にはそれぞれのもち場が用意されている。その前には譜面台のような台本置きが設けられている。そこには台本が載せられている。朗読者たちはそれを読み、そしてめくっていた。しかし朗読者は、そこでただ台本を読んでいたのではない。読むのではなく、確かに演じていたのだ。朗読者たちは舞台を動きまわり、それぞれの役を演じる。そもそも、演じているのは名の知れた有名な役者さんであるから、台本など要らないはずなのだ。実際、舞台を動き回る時、役者さんの手元に台本はない。動と静。そこには確かな演劇のダイナミズムが息づいていた。

なぜ、このような形態を宮本亜門氏は採ったのだろう。わたしにはその真意がわからない。ただ、想像はしてみたい。私の想像だが、場面が頻繁に切り替えられるため、それを整理する進行役が必要だったからではないか。本作の舞台は平成29年の東京、そして化政文化華やかなりし江戸の二つだ。二つの時代を本作は幾度も行き来する。そのため、場面の進行役を置くことで場面展開を観客にわかりやすくした。そのため、朗読劇の形態を採ったという考えが一つ。

もう一つは、観客に北斎の魅力をわかりやすく伝えるためではないか。本作の狙いは、観客に北斎の魅力をわかりやすく紹介することにある。それは本作がすみだ北斎美術館のオープニングで上演され、大英博物館の北斎展で上演されたことからも明らかだ。本作は北斎研究家による講演の様子が登場する。背景にプロジェクションマッピングで北斎の絵がふんだんに表示される。朗読劇であれば、このように舞台から北斎研究家が講演する、という演出が観客に受け入れられやすい。また、講演という形態を採ることで、わかりやすく観客に北斎の紹介を済ませてしまえる。実に合理的な演出ではないか。だからこそ、朗読劇という体裁をとったのではないかと思う。

また、本作で工夫があるのが、現代側の場面にもドラマ性を持たせていることだ。現代東京に登場するのは北斎研究家の長谷川南斗とその助手峰岸凜。長谷川南斗は北斎の計算され尽くした構図を称賛し、現代に通じる北斎の先駆性を紹介する。彼の視野には北斎の娘であり、画家としても後世に名を遺すお栄の貢献は入らない。単なる北斎の娘、そして身の回りの世話をする女中としてしか。そんな師の説に助手の凛は違和感を感じる。ことあるごとに論を戦わせる二人。二人にはそれぞれの過去のしがらみがあった。南斗は双子の兄が画壇で天才画家として持てはやされた一方、自分には絵の才能がなかったことを劣等感として持ち続けている。それなのに兄は才能を持ったまま自殺してしまい、自分だけが遺されたことで劣等感を鬱屈している。美術評論家として糧を得ている現状も飽き足りていない。凛は画家としての将来を嘱望された天与のセンスの持ち主。だが、東日本大震災ですべてを失い、以来絵筆を折ったままの状態が続いている。

そういった背景を持たせることで、現代の二人に単なる北斎のキュレーター以上の役割を与えているのだ。それが本作により深みを与えていることは言うまでもない。演出の醍醐味とはこういうことなんだろうと思う。南斗を演じていた菊地創さんと凛を演じていた秋月三佳さんは、本作のポスターには写真付きで登場していなかったが、本作には欠かせない演者だったと思う。

そんな現代から一転して江戸。江戸では北斎と娘のお栄が喧々諤々としながら画業に専念している。白状すると、私は本作を観るまでお栄の存在を知らなかった。長谷川南斗には、単なるお手伝いとしてしか扱われなかったお栄だが、宮本亜門氏の演出ではお栄は単なるお手伝いや娘ではなく共作者として描かれている。

なぜお栄は北斎の陰に隠れ、共作者に甘んじているのか。そこには父北斎に対するお栄の尊敬がある。生活をともにすると絵以外には無頓着でうんざりさせられる父。「親でなければ、絵師でなければとっくに飛びだしていた」」とは、作中のお栄のセリフだ。ところが悪態をつき、伝法な口調で罵倒しながら、お栄は北斎から離れない。なぜならそこには尊敬があるから。あまりに巨大すぎる才能と絵に対する向上心。それがお栄を捕まえて離さない。

そんなお栄の複雑な感情を、演じる中嶋朋子さんは巧みに演じていた。本作の主題は、お栄とは北斎にとってなんだったか、だといっていい。つまり見方を変えれば本作の主役はお栄なのだ。お栄が父北斎に向ける複雑な心境をいかにして観客に伝えるか。ここに本作の肝があるように思う。そんな北斎を演じていたのが志賀廣太郎さん。気性の荒いお栄と同じぐらい奇天烈な北斎。ところが、本作の北斎は少しおとなしい。それもそのはず。本作で描かれる北斎は老境の北斎なのだから。達観しつつ、生には執着。悟りつつ、画業には貪欲。そんな老境の北斎を、志賀さんは見事に演じていた。

画狂人、鬼才、偏屈者。とかく天才画家にはそういうエキセントリックな人間像を当てはめやすい。だが実は、葛飾北斎とは志賀さんが演じた人ではなかったか。飄々とした、絵だけ描いていれば幸せな、その代わりに他のことは何もしないだけの人ではなかっただろうか。

本編が終わった後、宮本亜門氏と隅田北斎美術館館長の菊田氏によるアフタートークがあった。お二人のトークから感じられたのは、世界中で今なお研究され、賞賛される北斎の姿だ。そしてお二人が北斎を敬愛する様子も伺えた。それは、演劇の世界で活躍する宮本亜門氏の生き方にも反映するのだろう。開演前と開演後のロビーで談笑する宮本亜門氏からは、名声に興味をもたず、ただ演出が好きで北斎が好きな思いが伝わってきた。

北斎にしてもそう。他からの視点など気にすることはない。ただ自分の好きな道を一心不乱に生きればいい。人生を悔いなく生きるとは、まさにそういうことなんだなあ、と。

‘2017/09/17 曳舟文化センター 開演 17:30~

https://www.city.sumida.lg.jp/bunka_kanko/katusika_hokusai/hokusai_info/gakyojinhokusai.html


写実絵画の魅力


本書を読む前の年、2015年の秋に妻とホキ美術館を訪問した。ホキ美術館とは千葉の土気にある写実絵画専門の美術館だ。

もともと私は写実絵画に関心を持っていた。そんなところに誘われたのが日向寺監督による映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」。私の友人が日向寺監督の友人と言うこともあってご招待頂いた。この映画からは期待を遥かに上回る感銘を受けた。(レビュー

2014年の夏に観たこの映画をきっかけに写実絵画にますます興味を持った私は、ホキ美術館の存在を知る。ホキ美術館は日本で唯一といってよい写実絵画専門の美術館だそうだ。それ以来、行きたいと願っていた。

そんなところに、妻がホキ美術館に行きたいと言い出した。テレビ番組でホキ美術館が取り上げられているのを観て行きたくなったらしい。これ幸いと、妻とともにホキ美術館に訪れた。本書は美術館の売店で図録代わりに購入した一冊だ。

ホキ美術館には、ホキ美術館創設者と館長のお眼鏡にかなった写実絵画が数百点飾られている。そのほとんどが我が国の写実画家による選りすぐりの作品だ。海外作家の作品はほとんどない。それでいてこれだけレベルの絵画が集められたこと。それは我が国の写実画家の裾野の広さとレベルの高さを表している。

実際、ホキ美術館に陳列されている作品にはただただ圧倒される。少し離れると写真と見まごうばかりの作品も、間近にみると筆跡が認められ、写真とは違う手仕事であることがわかる。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」は、野生の鳥の巣とその中に産み落とされていた卵を写実的に再現した大作「聖なるものⅣ」の製作過程を中心に話が進む。スクリーンの中で映し出された製作過程からは、凄まじい根気と集中力が伝わってくる。野田氏による「聖なるものⅣ」はスクリーンで克明に観られる。とはいうものの、あくまで作品はスクリーン越しにしか観られない。そしてそれは撮影監督が向けるカメラの角度とタイミングによって切り取られる。観客が望む角度と時間で観られないのだ。ホキ美術館にはこの「聖なるものⅣ」が飾られている。もちろん好きなだけ観賞できる。しかもホキ美術館に陳列されている他の作品も「聖なるものⅣ」に匹敵するレベルの作品だ。が他にも多く陳列されている。そのレベルは、我が国の写実絵画の到達点を示しており、ひたすら圧倒されるばかりだ。

「聖なるものⅣ」が飾られているのはホキ美術館のギャラリー8。ここには、我が国の著名な写実画家十五人の代表作が一点ずつ飾られている。

本書には、ギャラリー8に代表作を展示する十五人のうち十四人による写実絵画についての考えや哲学、技法について語ったインタビューを軸に構成されている。

始めて写実絵画に触れた方が思うのは、このような事ではないだろうか。
「で、写真とどう違うの?」
白状すると、「魂のリアリズム 画家 野田弘志」を観る前の私の心にもそんな疑問があった。写実絵画の技術的な素晴らしさは理解できても、その芸術性についてはよくわかっていなかったのだ。しかしその疑問は、「魂のリアリズム 画家 野田弘志」で製作の現場を見聞きし、ホキ美術館で現物を目にし、そして本書で他の写実画家たちの肉声を通じて払拭される。

実際のところ、作家によっては現物をみてキャンバスに写し取る方だけではなく、写真をモチーフとして写実絵画を書く方もいらっしゃるようだ。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」でもそう。野田弘志氏からして、写真を補助素材として使用しているのだから。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」では鳥の巣の卵の写真を基に「聖なるものⅣ」を描き進める野田氏の姿が映っている。

そうなると、写実絵画と写真の違いはますます不明確になってゆくばかりだ。

その疑問を払拭する考えを本書の中で幾人もの画家が述べている。彼らによると、写真に現れた風景を素材としても、写真にはないマチエール(素材感)を出せるのが写実絵画の魅力だという。確かに質感や遠近感、陰影など、平板な写真には出すことのできない画家としての味わいが写実絵画にはある。

それは、ホキ美術館で写実絵画を間近で観ると良く分かる。写実絵画をごく近くで観ると、そこには明らかに画家の作為の跡がある。筆遣いや塗りムラ、筆圧や絵具の盛りなど。こういった細部で見ると明らかに絵であるのに、少し離れるとそれは写真と遜色のない風景が再現されているのだ。しかも写真に写し取られた平板な現実ではなく、画家の目を通した立体的な現実がある。カメラのレンズと画家の目の立体感の違いについては、本書でも幾人の画家が言及していた。

結局のところ、鑑賞者にとってもっとも安心できる写実とは、自分の目に映る現実に近い像なのだ。そして、どれだけ写真の解像度が上がろうとも、写真とは所詮は細かいドットの集合に過ぎない。つまり、自分の目に映る現実の代替としては、写真は究極のところで成り得ないのだ。写真の技術がどれだけ精細を究めようとも越えられない一線がそこにはある。

写実画家とは、越えられない一線には最初から挑まない。それよりも他のアプローチで現実に迫ろうとする。人間の目と脳の認識に忠実であろうとした写実絵画は、技術主体ではなく人間主体の芸術を目指していると思う。本書に載っている写実画家の方々の言葉から、そのような哲学を感じ取った。

私はダリの絵には感銘を受けたが、一方でピカソの抽象画にはゲルニカを除けばあまり感銘を受けない。抽象画とは、目に映らない意識の世界だ。あえてデッサンを狂わせた抽象画は、目に映る景色をスキップして脳の混沌とした無意識に直接訴えかける。一方の写実絵画は目に映る景色をそのまま受け止める。だが、目から意識への伝達や技法も含めた部分で勝負する。一見すると目に映る景色を題材としているがために、視覚と質感に画家の技術や感性が映し出された作品は、鑑賞者を安心させる。だが、安心を与えながらも技術とセンスによってフィルタされた作品は、目に映る景色の中の質感を確かに伝えてくれる。つまり、逆の意味で脳内の視覚を司る部分に訴えかけるのが写実絵画なのだと思う。

「魂のリアリズム 画家 野田弘志」とホキ美術館と本書は、3セットで観て頂きたいと思う。どれもが写実絵画を理解するためのよい教材だ。

‘2016/04/07-2016/04/08


魂のリアリズム 画家 野田弘志


写実画。現実と寸分たがわぬ姿を再現する表現法である。目を中心に五感を最大限に働かせ、最新の手先の技術を駆使し、現実を別の次元であるキャンバスに写し取る。素晴らしい作品ともなると、その場の様子ばかりか、時間や匂いまで再現されており、ただ魅入るばかりである。私も抽象画よりはどちらかというと写実画の方が好みである。

だが、最近のIT技術の進展は、素人でも簡単に現実の一瞬を写し取ることを可能にした。デジカメの力を借りて。ディスプレイの画素を通し、プリンタから印字した紙の上で、人々はいとも簡単に現実の断面を鑑賞する。一見すると、画家が精魂込めた作品を、素人が労せずに再現しているようにも思える。写実画とはなんのために存在するのか、と疑問を持つ向きも多いだろう。写実画が好きな私にしても、心の片隅でそのような疑問を持たなかったと言えばうそになる。

本作は、現代日本にあって写実画の第一人者とされる野田弘志氏に焦点を当てたドキュメンタリー映画である。野田氏の製作過程や芸術・美に対する考え方などが、71分という短めの尺に凝縮されている。前にも書いた写真と写実画の違いについては、本作が雄弁に語っている。

雄弁に語ると書いたが、本作は解説のセリフをだらだら流すだけの、教則ビデオのようなものではない。むしろ逆である。台詞は極限までそぎ落とされ、静謐と思えるほどの間が全編を通して流れる。ギターやチェロによる効果音楽も合間に流れるが、野田氏の製作過程の場面では、静寂、または時計のチクタク音のみが流れる。真摯な眼差しと手先の筆さばきがアップで映され、観客は、スクリーン全体で雄弁に語られる写真と写実画の違いを受け止める。そのあたり、本作では音響の使い方が実に適切である。監督を始めとするスタッフの真摯な仕事ぶりが本作で取り上げられている内容に反映されているのが感じられる。

本作冒頭で、野田氏の代表作の数々が映し出される。本作の中心に据えられるのは『聖なるもの THE-IV』という鳥の巣をモチーフとした作品である。野田氏のアトリエ近くに設えられていた野生の鳥の巣を巨大キャンバスに再現した一枚。本作ではその製作過程を中心として進行する。当初見つけた時は巣の中に1個の卵だったのが、2個になり、5個になり、5羽の雛が孵る。が、ある日野田氏が見てみると巣ごと忽然と消えていたという。おそらくは他の動物に雛ごとさらわれたのであろうと野田氏は語る。生と死をテーマに据える野田氏は、その誕生の尊さと、その儚さについて、生き永らえることのなかった雛たちの生が、キャンバスに永遠に残ることを願う。

製作過程はこうである。まず、デジカメで精緻な写真を撮影する。そしてキャンバスを自らの手で貼りつける。次にデジカメ写真を2m×2mほどのキャンバス大まで拡大する。拡大の際は、下書き用の写真なので複数の用紙に分割して印刷し、それをテープで貼り合わせる。キャンバスにカーボン紙を貼り付け、その上に先ほど貼り合わせた写真を載せる。あとはそこから輪郭などを線描ですべて書き込んでいく。毛布やタオルやクッションを駆使しての重労働である。終われば、書き込んだ内容がカーボン紙を通してキャンバスにうっすらと写し取られている。キャンバスを今度は可動式の台に垂直に立て、撮影した写真を観ながら、正確に写しつつ描いていく。

野田氏は語る。ただ写すだけでなく、デフォルメなどは自身の解釈も含めると。眼前にある美を目に映ったままに再現するのではなく、その奥に隠れている口には言えない美の本質を再現したいと。それは現実の単なる模倣ではなく、作品として魂を入れる作業である。製作過程を観ていると、本当にこれが精密な作品に仕上がるのか、と不安になるような出だしである。写真の輪郭をカーボン紙で模写した直後も、油絵具を塗り始めてからも、完成品に比べると遠く及ばない。それを野田氏は何度も粘り強く油絵具で重ね塗りを加えていく。すると絵に命が吹き込まれていく。見る見るうちに現実的なフォルムになる。色合いが写真に近づき、それを上回る。質感さえもが写真を凌駕する。

製作過程の合間に、北海道伊達市のアトリエ周辺の景色の季節の移り変わりが挟まれる。有珠山は色づき、太陽が山を鮮やかに染め、落ち葉が舞い、雪が白く覆う。野田氏はその合間にも奥様と雪かき道具を持参でゴミ捨てに行き、広島で整体師による整体治療を受け、講演を行い、絵画塾の主催者として弟子に絵の心を伝達する。画商の訪問を受け、愛弟子をアトリエに招いて絵の道を教え諭す。

野田氏はいう。一枚の絵に一年はかかると。本作もまた、一年の季節の移り変わりと、『聖なるもの THE-IV』製作過程の進展を同調させる。一年の間に野田氏がこなす様々な仕事の姿を通し、野田氏の肉声を通して、その芸術観や美に対する考え方が紹介される。

最後に入念なチェックと、署名を終えたときの、野田氏の満足げな顔が実によい。自らに向き合う魂の仕事を終えた男の顔である。この顔を観るために、もう一度本作を観ても良いぐらいである。作中で野田氏が語る一節で、イラストレーターの仕事を辞め、画家として一人立ちする決意を述べる下りと、何をどのように書きたいとかではなく、ただ絵が描きたいと思ったという下り。そして愛弟子に絵の道を諭す時の下り。仕事とはこうありたいものである。

’14/8/30 テアトル新宿