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タイガーズ・ワイフ


生と死。
それは私たちに人間にとって永遠の問題だ。頭ではわかっているつもりになっても、心で理解することが難しい。

人が自分の死を実感することは、不可能のようにも思える。それは、死が儀式で飾られる今の日本ではなおさら到達できない概念のように思える。

かつての戦争では、無数の人が死んだ。空襲によって燃え上がった翌朝の街には黒焦げの焼死体が数限りなく転がっている。それが当たり前の日常だった。
そうした光景が当たり前になると死への感覚がマヒしてしまう。その時に同時に起こるのは、死が日常になることだ。実感として死が深く刻み込まれる。
戦乱に次ぐ戦乱の日々が続いた中世の日本ではなおさら死は身近だったはずだ。
今の日本は平和になり、死の感覚は鈍っている。もちろん私もそうだ。それが平和ボケと呼ばれる現象ではないだろうか。

平和な日本とは逆に、世界はまだ争乱に満ちている。例えば本書の舞台であるバルカン北部の国々など。
著者はセルビアの出身だという。幼時に騒乱を避け、各国を転々とした経験を持ち、アメリカで作家として大成した経歴を持っているようだ。
そのため、本書には生と死の実感が濃密なほどに反映されている。

例えば舞台となったセルビアとその周辺国。バルカン半島は火薬庫と呼ばれるほど、紛争がしきりに起こった地である。
死者は無数に生まれ、生者は生まれてすぐに死を間近にしていた。

本書において、著者は人の死の本質を描こうとしている。生と死をつかさどる象徴があちこちに登場し、読者を生死への思索へと向かわせる。
例えば主人公は、人の生と死を差配する医者だ。主人公に多大な影響を与えた祖父も医者だった。本書の冒頭はその祖父の死で始まる。

主人公は、祖父の死の謎を追う。なぜ祖父は死ぬ間際に誰にも黙って家族の知らない場所へ向かったのか。何が祖父をその地に向かわせたのか。
主人公は奉仕活動に従事しながらの合間に祖父の死を追い求める。
奉仕活動の現場で主人公は墓掘りの現場に遭遇し、人々の間に残る因習と向き合う経験を強いられる。墓場は濃厚な死がよどむ場所であり、このエピソードも本書のテーマを強める効果を与えている。

祖父の生涯を追い求める中、主人公は祖父の子供時代に起きた不思議な出来事を知る。
永遠の生命を持つ謎めいた男。殺しても死なず、時代を超えて現れる男。祖父はその男ガヴラン・ガイレと浅からぬ因縁があったらしい。
不死もまた、人の生や死と逆転した事象だ。

不死の本質を追究することは、生の本質を追い求める営みの裏返しだ。
そもそも、なぜ人は死なねばならないのか。死は人間や社会にとって欠かせないのだろうか。不死を願うことは、生命の本分にもとるタブーなのだろうか。
死が免れない運命だとすれば、なぜ人は健康を願うのか。そもそも死が当たり前の世界であれば、医者など不要ではないか。
著者は生と死に関する疑問の数々を読者に突き付ける。そして、死と生の不条理と不思議を描いていく。

祖父の謎めいた出来事の二つ目は生を象徴する出来事だ。つまり誕生。
ここから著者はバルカンの豊穣な神話の世界を描いていく。
サーカスから逃げ出した虎が周辺の人々を襲う。そんな中、夫のルカに日頃から虐待されていた幼い嫁は、夫のルカが忽然と姿を消した後に妊娠が発覚する。
虎が辺りを彷徨っている目撃情報もある中、幼かった祖父は、幼い嫁に食料をひそかに運んでやる。
あたりには虎の気配が満ちている中、幼い嫁と幼かった祖父は襲われずに生き延びる。幼い嫁は虎の嫁ではないかといううわさがまことしやかに語られる。

そんな虎を追って、剥製師のクマのダリーシャが罠をあちこちに仕掛ける。だが虎は捕まらない。やがてクマのダリーシャも死体となって見つかる。その姿を見つけたのは薬屋のマルコ・パロヴィッチ。

著者は、ルカや虎の嫁、クマのダリーシャ、薬屋のマルコといった人々を生い立ちから語る。
彼らの生い立ちから見えてくるのは、街の歴史と、戦争に苦しんできた人々の生の積み重ねだ。
そうした歴史の積み重ねの中に祖父や主人公は生を受けた。無数の生と死のはざまに。

やがて虎の嫁が臨月を迎えようとした頃、虎の嫁は死体で見つかる。そして虎は忽然と姿を消す。

本書の冒頭は、祖父に連れられた動物園での主人公の追憶から始まる。
なぜ祖父がそれほどまでに動物園の、それも虎に執着するのか。それがここで明かされる。
虎はあくまでも生きのびようとしたのだ。生への執着をあらわにして。
だが、動物園は相次ぐ戦乱の中で放置され、動物たちは次々と餓死していった。
祖父が子供の頃に見かけた虎はどこかに子孫を残しているのだろうか。

成長して医師になり、重職に上り詰めた祖父は、子供の頃と若い日に出会った生と死の象徴である二人の人物に再び出会うため、最後に旅にでた。
主人公はそのことに思い至る。

生と死に満ちた時代を生き抜いた祖父は、生涯を通じて生と死のメタファーに取り付かれていた。
おそらくそれは、著者自身の体験も含まられているはずだ。
あとがきには訳者による解説が付されている。そこでは祖父のモデルとなった人物との交流があったそうだ。

そうした思い出を一つの物語として紡ぎ、神話と現実の世界を描いている本書。戦争に苦しめられた地であるからこそ、生と死のイメージが豊穣だ。

生と死、そして戦争を描く手法は多くある。その二つの概念を即物的に描かず、歴史と神話の世界のなかに再現したところに本書の妙味があると思う。

‘2020/07/18-2020/07/31


やし酒飲み


本書はアフリカ文学の最高峰としての評価を得ているようだ。
私も本書の独特の世界に惹かれた。

アフリカと聞くと、私たちは子供の頃に刷り込まれたイメージに縛られてしまう。
未開の地。広大なサハラ砂漠を擁する北部。またはサバンナのそこら中に野生動物が闊歩している大陸。
旱魃や腹を肥大させた子供の写真が脳裏に刻まれている。ルワンダのフツ族とツチ族の凄惨な内戦がニュースを彩った日からさほどたっていない。
民族同士で無益な抗争に明け暮れる一方で、極度の飢えに苦しんでいる。そんな印象が強い。

いわゆる発展途上国だらけの大陸。
そんな印象が今や一新されていることは、ネットで少し検索してみればすぐ分かる。
大都会には高いビルも並んでいる。インフラが整う前に世界の情報技術の恩恵を受けたため、モバイルを使ったマイクロ・エコノミーが他国より発達している。
むしろ、文明に疲れ始めた西洋文明の諸国よりもアフリカにこそ今後の発展が約束されている。そんな話もよく耳にする。

とはいえ、アフリカは遠い。私たちにとってネットで知る実情のアフリカは、幼い頃に聞いたターザンがジャングルで動物と語らうアフリカに及んでいない。それが正直な印象だ。

その印象に縛られた視点から見た時、本書が描くアフリカは私たちの幼い頃の印象を上書きしてくれる。
呪術が有効で、不可思議な出来事が頻繁に起こる地。

主人公はやし酒造りの名人を求め、あちこちを旅して回る。
この構成は、私たちがよく知る日本神話の世界に近い。
日本神話の中では、イザナギが黄泉の国に行った妻を追い、山彦は兄たちに言いつけられて旅をする。そしてスサノオは、さまざまな地をさまよう。

旅は神話にとって、欠かせない要素だ。ギルガメシュも旅をしていたし、モーゼと彼に従う人々もエジプトから約束の地を目指した。

本書は、まさに神話の世界を現代の物語として著している。
もっとも、アフリカにも人々が語り継いできた物語があるはずだ。著者がそれらを思い起こしながら本書を著したことは間違いない。
しかも本書で主人公たちはJUJUというものに願いをかけ、その力で困難を乗り越えていく。

JUJUとは、依り代のようなものに違いない。それは私たちも神話の世界でお馴染みのものだ。
例えばスサノオは八岐大蛇を退治する前、生贄にされそうになっていたクシナダヒメを櫛に変えて八岐大蛇と対決する。
そもそも、国産み神話からして、イザナギとイザナミがかき混ぜた矛から滴り落ちた雫から国が産まれる。スサノオもイザナギの鼻から産まれたとされている。(左の眼から天照大神、右の眼から月読命)。神自体をものから産まれたものとみなすのが日本神話だ。
今でも山そのものを御神体とみなして祈る風習は私たちの中に普通に息づいている。他にも呪いの藁人形の習俗もある。

本書で主人公がJUJUに願いをかけ、願いを託す行動は、実は日本人にとっては特に珍しくないことが分かる。
また、本書に登場する出来事は乱雑で雑多に思えるかもしれない。だが、それらは日本であってもお馴染みの概念だ。

例えば王様やそこで働く人々の間にある労働のあり方。さらには、生産と消費のつながり。また感情と制度の反目も描かれている。芸術と仕事の対立も。
もちろん本書が最も念入りに描いているのは生と死の表裏一体の関係だ。結局、先に挙げた概念も生と死を取り巻く出来事に過ぎない。
私たちは何のために生き、死ねばどうなるのか。それは日本だろうがアフリカだろうが全く関係なく、どこでも共通の関心事である。

本書をそのように読めば、この混沌とした物語の筋が通り始めてくる。

本書はやし酒をモチーフにしている。物心がついた後、飲むことしか能のない主人公がやし酒造りの名人を求めてさまよう話だ。だが、単なる酔っ払いの話ではない。
もちろん、人は酔うとあれこれおかしな妄想を頭に湧かせる。
一方で、普段の生活ではそのような妄想は理性の名の下に押さえ込み、人前ではおくびにも出さない。
その裏側では押さえ込まれた想像力がスキを見つけて表に出ようとたくらんでいる。
酒を飲めば理性のブロックが外れ、あらゆるものが混じり合った想像力の出番だ。人の内面には得体のしれない想像力が渦巻いている。

だからこそさまざまなものが入り混じった、本書のような取り留めもない神話の世界は私たちをどこか懐かしい思いにさせる。
理性にブロックされた整然とした世界でなく、ありったけの想像力を駆使した奇想天外な世界。
本書は、そのような多彩な物語を展開するからこそ、西洋文明の人々に支持されたのだろう。

本書の巻末で訳者の土屋哲氏が、実は本書はアフリカでは評判が高くなく、西洋諸国でとても高評価を得ていると紹介している。

それは西洋が理性の名のもとに押さえつけた、整然としない内面を本書が存分に開放しているからだろう。

冒頭に記した通り、幼い頃に植え付けられたアフリカに対するイメージはぬぐいがたい。だが、そのイメージのまま、豊かな想像力を押さえ込むのが正しいと思い込まされていないだろうか。むしろそのような原始的な力こそが、人間を人間として強くするように思う。
これから情報技術はより進化し、私たち人間の外で圧倒的な力を発揮していくに違いない。その時、私たちはもう一度自らの人間的な能力に目を向けるはずだ。この豊潤の想像力をどのように操るか。本書はそれをまさに体現した一冊だと思う。

‘2020/05/26-2020/05/29


海の上のピアニスト


本作が映画化されているのは知っていた。だが、原作が戯曲だったとは本書を読むまで知らなかった。
妻が舞台で見て気に入ったらしく、私もそれに合わせて本書を読んだ。
なお、私は映画も舞台も本稿を書く時点でもまだ見たことがない。

本書はその戯曲である原作だ。

戯曲であるため、ト書きも含まれている。だが、全体的にはト書きが括弧でくくられ、せりふの部分が地の文となっている。そのため、読むには支障はないと思う。
むしろ、シナリオ全体の展開も含め、全般的にはとても読みやすい一冊だ。

また、せりふの多くの部分は劇を進めるせりふ回しも兼ねている。そのため、主人公であるピアニスト、ダニー・ブードマン・T・D・レモン・ノヴェチェント自身が語るせりふは少ない。

海の上で生まれ、生涯ついに陸地を踏まなかったというノヴェチェント。
私は本書を読むまで、ノヴェチェントとは現実にいた人物をモデルにしていたと思っていた。だが、解説によると著者の創造の産物らしい。

親も知らず、船の中で捨て子として育ったノヴェチェント。本名はなく、ノヴェチェントを育てた船乗りのダニー・ブードマンがその場で考え付いた名前という設定だ。
ダニー・ブードマンが船乗りである以上、毎日の暮らしは常に船の上。
船が陸についたとしても、親のダニーが陸に降りようとしないので、ノヴェチェントも陸にあがらない。
ダニーがなくなった後、ノヴェチェントは陸の孤児施設に送られようとする。
だが、ノヴェチェントは人の目を逃れることに成功する。そして、いつの間にか出港したヴァージニアン号に姿を現す。しかもいつの間に習ったのか、船のピアノを完璧に弾けるようになって。

そのピアノの技量たるや超絶。
なまじ型にはまった教育を受けずにいたものだから、当時の流行に乗った音楽の型にはまらないノヴェチェント。とっぴなアイデアが次から次へと音色となって流れ、それが伝説を呼ぶ。
アメリカで並ぶものはなしと自他ともに認めるジェリー・ロール・モートンが船に乗り込んできて、ピアノの競奏を挑まれる。だが、高度なジェリーの演奏に引けを取るどころか、まったく新しい音色で生み出したノヴェチェント。ジェリーに何も言わせず、船から去らせてしまう。
その様子はジャズの即興演奏をもっとすさまじくしたような感じだろうか。

本書では、数奇なノヴェチェントの人生と彼をめぐるあれこれの出来事が語られていく。
これは戯曲。だが、舞台にかけられれば、きらびやかな演奏と舞台上に設えられた船内のセットが観客を楽しませてくれることは間違いないだろう。

だが、本書が優れているのは、そうした部分ではない。それよりも、本書は人生の意味について考えさせてくれる。

世界の誰りも世界をめぐり、乗客を通して世界を知っているノヴェチェント。
なのに、世界を知るために船を降りようとしたその瞬間、怖気づいて船に戻ってしまう。
その一歩の距離よりも短い最後の一段の階段を乗り越える。それこそが、本書のキーとなるテーマだ。

船の上にいる限り、世界とは船と等しい。その中ではすべてを手中にできる。行くべきところも限られているため、すべてがみずからの意志でコントロールできる。
鍵盤に広がる八十八個のキー。その有限性に対して、弾く人、つまりノヴェチェントの想像力は無限だ。そこから生み出される音楽もまた無限に広がる。
だが、広大な陸にあがったとたん、それが通じなくなる。全能ではなくなり、すべては自分の選択に責任がのしかかる。行く手は無限で、会う人も無限。起こるはずの出来事も予期不能の起伏に満ちている。

普通の人にはたやすいことも、船の上しか知らないノヴェチェントにとっては恐るべきこと。
それは、人生とは本来、恐ろしいもの、という私たちへの教訓となる。
オオカミに育てられた少女の話や、親の愛情に見放されたまま育児を放棄された人が、その後の社会に溶け込むための苦難の大きさ。それを思い起こさせる。
生まれてすぐに親の手によって育まれ、育てられること。長じると学校や世間の中で生きることを強いられる。それは、窮屈だし苦しい。だが、徐々に人は世の中の広がりに慣れてゆく。
世の中にはさまざまな物事が起きていて、おおぜいのそれぞれの個性を備えた人々が生きている事実。

陸にあがることをあきらめたノヴェチェントは、ヴァージニアン号で生きることを選ぶ。
だが、ヴァージニアン号にもやがて廃船となる日がやってきた。待つのは爆破され沈められる運命。
そこでノヴェチェントは、船とともに人生を沈める決断をする。

伝説となるほどのピアノの技量を備えていても、人生を生きることはいかに難しいものか。その悲しい事実が余韻を残す。
船を沈める爆弾の上で、最後の時を待つノヴェチェントの姿。それは、私たちにも死の本質に迫る何かを教えてくれる。

本来、死とは誰にとっても等しくやってくるイベントであるはず。
生まれてから死ぬまでの経路は人によって無限に違う。だが、人は生まれることによって人生の幕があがり、死をもって人生の幕を下ろす。それは誰にも同じく訪れる。

子供のころは大切に育てられたとしても、大人になったら難しい世の中を渡る芸当を強いられる。
そして死の時期に前後はあるにせよ、誰もが人生を降りなければならない。
それまでにどれほどの金を貯めようと、どれほどの名声を浴びようと、それは変わらない。

船上の限られた世界で、誰よりも世界を知り、誰よりも世界を旅したノヴェチェント。船の上で彼なりの濃密な人生を過ごしたのだろう。
その感じ方は人によってそれぞれだ。誰にもそれは否定できない。

おそらく、舞台上で本作を見ると、より違う印象を受けるはずだ。
そのセットが豪華であればあるほど。その演奏に魅了されればされるほど。
華やかな舞台の世界が、一転して人生の深い意味を深く考えさせられる空間へと変わる。
それが舞台のよさだろう。

‘2019/12/16-2019/12/16


マイケル・K


生きることの本質とは何か。人は一人で生きていけるのか。
本書が語っていることは、それに尽きる。
政治が不安定な上、頻繁に内戦のおこる南アフリカ。その過酷な自然は、人に試練を課す。
そうした不条理な現実を、主人公マイケル・Kは生きる。そして内戦で荒廃した国を歩く。

そこに生きる庶民は、毎日を生き抜く目的だけに費やしている。
文化や享楽を楽しむどころではない。娯楽など知らずに生きている。本書には余暇を楽しむ庶民の姿はほぼ見られない。
マイケル・Kもまた、娯楽を知らない。彼はただ日々を生きることに汲々としている。生の目的を、ただ生き抜くことだけにおいた人物として描かれる。

主人公マイケル・Kは組織になじめない。人とものコミュニケーションがうまく取れず、一人で生きる道を選ぶ。彼は孤独を友とし、世界を独力で生きようとする。
娯楽や文化とは、集団と組織にあって育まれるもの。それゆえ、孤独で生きるマイケル・Kが娯楽や文化に触れることはない。
マイケル・Kが主人公である本書に、生きる楽しみや生の謳歌を感じさせる要素は希薄だ。

マイケル・Kが孤独である象徴は名前に現れる。本書のなかで、保護されたマイケルを難民キャンプで見知っていた警官がマイケル・Kをマイケルズと呼ぶ下りがある。その警官は、難民キャンプではマイケル・Kがマイケルズと呼ばれていたこと、なのにここではマイケルと名乗っていることを指摘する。
その挿話は、マイケル・Kが組織ではなく個人で生きる人物であることを示している。
コミュニティのなかでは、娯楽や文化に触れる機会もあるだろう。だが、一人で生きるマイケル・Kが娯楽や文化を見いだすことは難しい。

マイケル・Kは個人で生きる道を選ぶ。そのことによって彼は仲間からの助けを得る機会を失った。
マイケル・Kは自給自足で生き抜くしかなくなる。そこでマイケル・Kは自分の力で道を切り開く。耕作し、収穫し、狩猟する。
その姿は、生の本質そのものだ。
平和を享受し、バーチャルな世界が現実を侵食しつつあるわが国では、生きることの本質がどこにあるのか見えにくい。

本書において、老いた母を手押し車に乗せ、当て所もなくさまようマイケル・Kの姿。彼にとって生きる目的は曖昧だ。それだけに、かえって生きる意味が明確になっている。
迫害からの自由。生存が脅かされているからこそ、生き延びたい。その姿は生の本能に忠実だ。
母を亡くした後、一人で生きていこうとするマイケル・Kの姿からは、生への渇望が強く感じられる。目的はただ生き抜くことのみ。

南アフリカのように内戦が国を覆い、あらゆる人に自由が制限されている場所。そうした場所では何のために生きるのか。
そこでは、生の意味は生き抜くことのみに絞られる。
むしろ、内戦によって生の価値が著しく損なわれたからこそ、当人にとっての生がより切実となる。
戦争や災害時には平時よりも自殺者が少なくなる、との通説はよく知られている。本書を読んでいるとその通説が正しいように思えてくる。

傍観者から見ると、戦争の際には生の価値は低いように思える。死は多くの死者数に埋もれ、統計となるからだ。

彼はまるで石だ。そもそも時というものが始まって以来、黙々と自分のことだけを心にかけてきた小石みたいだ。その小石がいま突然、拾い上げられ、でたらめに手から手へ放られていく。一個の固い小さな石。周囲のことなどほとんど気づかず、そのなかに、内部の生活に閉じこもっている。こんな施設もキャンプも病院も、どんなところも、石のようにやりすごす。戦争の内部を縫って。みずから生むこともなく、まだ生まれてもいない生き物(209P)。

「自分に中身をあたえてみろ、なあ、さもないときみはだれにも知られずにこの世からずり落ちてしまうことになるぞ。戦争が終わり、差を出すために巨大な数の引き算が行われるとき、きみはその数表を構成する数字の一単位にすぎなくなってしまうぞ。ただの死者の一人になりたくないだろ?生きていたいだろ?だったら、話すんだ、自分の声を人に聞かせろ、君の話を語れ!」(218P)

戦争はあまりにも膨大な死者を生み出すため、外から見ると一人一人の死に思いが至らなくなる。ところが戦争に巻き込まれた当人にとっては、死に直面したことで生きる意味が迫ってくる。生き抜く。
死を間近にしてはじめて、人ははじめて生きることに執心する。もしそのような相反する関係が成立するのだとすれば、生とはなんと矛盾に満ちた営みだろうか。

本書が書かれた当時の南アフリカでは、アパルトヘイトがまかり通っていた。
漫然と生きることが許されないばかりか、強制的に分別され、差別と選別が当たり前の現実。
その現実において、一人で生きることを選ぶマイケル・Kのような生き方は異質だ。

戦争は一人の個性を全体に埋もれさせる。または、埋もれることを強いる。兵士は軍隊に同化することを強制され、住民は銃後の名のもとに国への奉仕に組み込まれる。そして死ねば巨大な統計の数字となる。なんという不条理なことだろう。

本書は、マイケル・Kという一人の男に焦点を当てる。独力で生きようとする男に焦点を当てる。彼の内面から、または外からの視点から。
マイケル・Kを通して描かれるのは、戦争という巨大な悲劇で生きることの意味だ。
生きることの本質とは何か。人は一人で生きていけるのか。それを追求した本書は偉大だ。

‘2019/10/24-2019/10/28


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


水の家族


著者の作品は一時期よく読んでいた。孤高ともいうべき、極端にせりふの少ない作風。生きるとは孤独を身にまとうことを実践するように、群れることを極端に遠ざける姿勢。著者の作品は私の生き方にも少なからず影響を与えていると思う。

本書は再生復活版として著者があらためて手を入れて出版した作品だそうだ。再生復活版が原書からどのぐらい変わったのか。原書を読んでいない私には、それはわからない。多分、本質的には変わっていないはずだと思う。

セリフを極端に控え、言葉によるコミュニケーションを抑えめにする作風。そのため、著者の語りには一つの傾向がある。それは人でないモノを語り手とすることだ。私が著者を読むきっかけとなった『千日の瑠璃』は、その手法を極端に推し進めている。千日を一日ごとに違う章で書き連ねた 『千日の瑠璃』 は、意表をつく語り手からの独特の視点が印象的だった。なにせ毎回語り手が違うのだから。ある日は犬だったり、別の日は空だったり。『千日の瑠璃』で確立した手法は、源流をたどると一つは本書に行き着くはずだ。なぜなら本書の語り手は死者だから。

本書はタイトル通り、ある家族が描かれる。 草葉町というどこにでもありそうな町。そんな町に住むありふれた家族が本書の主人公だ。草葉町の近くには忘れじ川が流れ、天の灘に注ぐ。餓鬼岳が屹立して、麓に広大な草原を抱える。語り手には八重子という妹がいる。離れの仏間で寝たきりの母がいる。天の灘に毎日繰り出しては海の幸を持ち帰る父がいる。一人餓鬼岳の麓で馬たちと暮らす祖父がいる。夜ごと密漁に精を出すはみ出し者の弟がいる。実直に金融機関に勤める兄と、いささか嫁の立場になじめないように見える兄嫁がいる。そして語り手は生を持て余した死者だ。誰にも知られぬまま餓死しし、あばら屋で死骸と化している。

著者は神の視点を持つ語り手を求めるため、四兄弟の二番目である語り手に死んでもらう。そして死者の立場から語り手へと仕立てる。魂だけの存在であるため動くのは自在だ。 水に交じってどこにでも行き、さえぎる物のない視点で本書を語る。自由な境遇ゆえ、家族の営みや、家族を取り巻く土地の出来事をつぶさに見聞きする。この魂は死してなお自我を持っている。自分が死ぬに至るまでの挫折と蹉跌の日々を反芻して後悔する自我を。

語り手が生家から逐電するに至った理由。それは妹八重子との許されざる関係だ。兄妹の間の超えてはならない一線。それを目撃した母は仏間にこもり切りになってしまう。よりによって知恵遅れの妹に手を出してしまった罪の意識に苛まれた語り手は、良心の呵責に耐え切れず、生家と草葉町を離れて都会の騒がしさに身を投じる。都会のドライで非情な日々は語り手を消耗させ、ほうほうの体で草葉町へと舞い戻らせる。そして、どの面下げて実家に顔を出せようか、というなんの根拠もない面目にこだわる。そんな語り手は、竹林に荒れるがままに忘れ去られていたあばら家に住まううち、ついに餓死する。

著者はそんな語り手を突き放す。突き放しながらも語り手である彼の独白はさえぎらない。さえぎらないので、語り手がぼとぼとと漏らす愚痴とも後悔ともつかない語りを文章として採録する。そこには後ろ向きの気持ちしかない。一方、中途半端な自分の一生を償うかのような前向きな精神も語り手は発揮する。かつての自分を償うかのように、語り手は八重子の生き方に暖かい目を注ぐ。語り手ではないどこかの誰かと子を作った八重子は、子の世話を餓鬼岳の麓に住まう祖父とともに行う。山に住まう祖父は、たくさんの馬と八重子と孫とともに住む。そこにはただ自由がある。世間の干渉も、見えや体裁もない自由が。そんな彼らの日々を語り手は逐一語ることはない。なぜなら語り手は水を伝ってしか動けないからだ。

語り手が常に干渉し、観察できる水の家族たちは水に囚われている。父は日々海に出て作業をする。その一本筋の通った生き方は語り手にはまぶしく映る。何物にも妨げられないだけの堂々とした構えで漁にいそしむ父は、一家の中の重鎮にふさわしい。だが、寡黙すぎるゆえに家の問題に干渉しない。そしてひたすら日々の糧を持ち帰る営みに淫している。そして弟。密漁に情熱を傾ける弟も水に囚われた日々を送っている。地元の金融機関に勤める兄は傍目には堅実な日々を送っているようにみえる。だが、兄嫁の奔放さが兄の日々を脅かす。ある日兄嫁の奔放な行いに衝撃を受けた兄は雨の降りしきる中を泥酔する。兄もまた、水に屈するのだ。いうまでもなく、水とは本書において人間のしがらみの象徴だ。

水の家族の男性陣は水に囚われるが、それに反して水の家族の女性陣は水に囚われない。奔放な兄嫁は水そのものであるかのように、貞操すらも水のように扱い自在に生きる。母は家族の問題に背を向け、自らをよどんだ水として家に渦巻く。水に同化するのだ。妹の八重子もみずみずしい生の喜びを享受し、水の流れのように闊達と生き抜く。

そしてもっとも水に対して動じない者は祖父だ。馬を養いながら、手作りの凧を飛ばして日々を生きる祖父は、もはや何物にも影響を受けない。まさに水の柔軟さと剛直さを備えている。祖父がもっともその真価を発揮するのは大風のシーンだ。凧は竜と化して祖父を空へと運び去ろうとする。それに必死に抗い手なずけようとする祖父。雨風と祖父の戦いは祖父が勝利を収め、龍となった凧は糸が切ればらばらになる。水を制御した祖父が、一家の礎であることを表す場面だ。

それが合図となり、密漁がばれそうになり水の中であわや死にかけた弟は、かろうじて生還し真っ当な生活へのきっかけをつかむ。仏間にこもる母は表にでて漁から帰ってきた父と久しぶりに言葉を交わす。水のように奔放な妻に絶望した兄は、何事もなかったかのように妻を許し、元の暮らしへと収まる。八重子とその子は相も変わらず生を謳歌しする。そして、もっとも水に囚われ続けてきた語り手は、ついに死を脱し、時空を超えた境地へと昇ってゆく。

水に囚われながら、水を逆に生かしてきた人間の営み。それを一家族の在り方をとおして描いた本作は、まさに丸山節ともいうべき魅力に満ちた一編だ。

‘2017/05/25-2017/05/31


魂のリアリズム 画家 野田弘志


写実画。現実と寸分たがわぬ姿を再現する表現法である。目を中心に五感を最大限に働かせ、最新の手先の技術を駆使し、現実を別の次元であるキャンバスに写し取る。素晴らしい作品ともなると、その場の様子ばかりか、時間や匂いまで再現されており、ただ魅入るばかりである。私も抽象画よりはどちらかというと写実画の方が好みである。

だが、最近のIT技術の進展は、素人でも簡単に現実の一瞬を写し取ることを可能にした。デジカメの力を借りて。ディスプレイの画素を通し、プリンタから印字した紙の上で、人々はいとも簡単に現実の断面を鑑賞する。一見すると、画家が精魂込めた作品を、素人が労せずに再現しているようにも思える。写実画とはなんのために存在するのか、と疑問を持つ向きも多いだろう。写実画が好きな私にしても、心の片隅でそのような疑問を持たなかったと言えばうそになる。

本作は、現代日本にあって写実画の第一人者とされる野田弘志氏に焦点を当てたドキュメンタリー映画である。野田氏の製作過程や芸術・美に対する考え方などが、71分という短めの尺に凝縮されている。前にも書いた写真と写実画の違いについては、本作が雄弁に語っている。

雄弁に語ると書いたが、本作は解説のセリフをだらだら流すだけの、教則ビデオのようなものではない。むしろ逆である。台詞は極限までそぎ落とされ、静謐と思えるほどの間が全編を通して流れる。ギターやチェロによる効果音楽も合間に流れるが、野田氏の製作過程の場面では、静寂、または時計のチクタク音のみが流れる。真摯な眼差しと手先の筆さばきがアップで映され、観客は、スクリーン全体で雄弁に語られる写真と写実画の違いを受け止める。そのあたり、本作では音響の使い方が実に適切である。監督を始めとするスタッフの真摯な仕事ぶりが本作で取り上げられている内容に反映されているのが感じられる。

本作冒頭で、野田氏の代表作の数々が映し出される。本作の中心に据えられるのは『聖なるもの THE-IV』という鳥の巣をモチーフとした作品である。野田氏のアトリエ近くに設えられていた野生の鳥の巣を巨大キャンバスに再現した一枚。本作ではその製作過程を中心として進行する。当初見つけた時は巣の中に1個の卵だったのが、2個になり、5個になり、5羽の雛が孵る。が、ある日野田氏が見てみると巣ごと忽然と消えていたという。おそらくは他の動物に雛ごとさらわれたのであろうと野田氏は語る。生と死をテーマに据える野田氏は、その誕生の尊さと、その儚さについて、生き永らえることのなかった雛たちの生が、キャンバスに永遠に残ることを願う。

製作過程はこうである。まず、デジカメで精緻な写真を撮影する。そしてキャンバスを自らの手で貼りつける。次にデジカメ写真を2m×2mほどのキャンバス大まで拡大する。拡大の際は、下書き用の写真なので複数の用紙に分割して印刷し、それをテープで貼り合わせる。キャンバスにカーボン紙を貼り付け、その上に先ほど貼り合わせた写真を載せる。あとはそこから輪郭などを線描ですべて書き込んでいく。毛布やタオルやクッションを駆使しての重労働である。終われば、書き込んだ内容がカーボン紙を通してキャンバスにうっすらと写し取られている。キャンバスを今度は可動式の台に垂直に立て、撮影した写真を観ながら、正確に写しつつ描いていく。

野田氏は語る。ただ写すだけでなく、デフォルメなどは自身の解釈も含めると。眼前にある美を目に映ったままに再現するのではなく、その奥に隠れている口には言えない美の本質を再現したいと。それは現実の単なる模倣ではなく、作品として魂を入れる作業である。製作過程を観ていると、本当にこれが精密な作品に仕上がるのか、と不安になるような出だしである。写真の輪郭をカーボン紙で模写した直後も、油絵具を塗り始めてからも、完成品に比べると遠く及ばない。それを野田氏は何度も粘り強く油絵具で重ね塗りを加えていく。すると絵に命が吹き込まれていく。見る見るうちに現実的なフォルムになる。色合いが写真に近づき、それを上回る。質感さえもが写真を凌駕する。

製作過程の合間に、北海道伊達市のアトリエ周辺の景色の季節の移り変わりが挟まれる。有珠山は色づき、太陽が山を鮮やかに染め、落ち葉が舞い、雪が白く覆う。野田氏はその合間にも奥様と雪かき道具を持参でゴミ捨てに行き、広島で整体師による整体治療を受け、講演を行い、絵画塾の主催者として弟子に絵の心を伝達する。画商の訪問を受け、愛弟子をアトリエに招いて絵の道を教え諭す。

野田氏はいう。一枚の絵に一年はかかると。本作もまた、一年の季節の移り変わりと、『聖なるもの THE-IV』製作過程の進展を同調させる。一年の間に野田氏がこなす様々な仕事の姿を通し、野田氏の肉声を通して、その芸術観や美に対する考え方が紹介される。

最後に入念なチェックと、署名を終えたときの、野田氏の満足げな顔が実によい。自らに向き合う魂の仕事を終えた男の顔である。この顔を観るために、もう一度本作を観ても良いぐらいである。作中で野田氏が語る一節で、イラストレーターの仕事を辞め、画家として一人立ちする決意を述べる下りと、何をどのように書きたいとかではなく、ただ絵が描きたいと思ったという下り。そして愛弟子に絵の道を諭す時の下り。仕事とはこうありたいものである。

’14/8/30 テアトル新宿