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七日間ブックカバーチャレンジ-天津飯の謎


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day7 「天津飯の謎」

Day7が終わろうとしています。

Day1~Day7の中では、挙げるべき作品はまだまだありました。
歴史・時代小説や純文学でも挙げるべき作品はたくさんあります。ラテンアメリカの小説をはじめとした世界の諸文学も。
SFでも名作はいくつもあります。小松左京、筒井康隆の両氏の作品を挙げられなかったのは無念です。
私が当チャレンジでお渡ししたバトンのどれかが、こうした本を紹介してくれることを願っています。
私のブログでも今後、読んだ本のレビューは続けていくつもりです。

さて、それらの本を差し置いて、ブックカバーチャレンジの最終日にこちらの本を取り上げるのには理由があります。

今までのDay1~Day6で、私は本の紹介をしながら、人生観についても触れてきました。
その人生観は今までに読んできた5000冊ほどの本から培ってきたものです。
思い込みを排し、データを重視する(Day1)。
史実を尊重しつつ、歴史のロマンを大切にする(Day2)。
人生の中で現れる謎に感謝し、それを解く前向きな心を持つ(Day3)。
ゼネラリストではなくエキスパートであろうとする(Day4)。
入門書を読み込み、スキルを磨く(Day5)。
多様性を重んじ、自らの想いを体現するサービスに奉仕する(Day6)。
どれもが、私の人生にとってかけがえのないインプットを与えてくれました。

人生とは、システムと同じくインプットに対してアウトプットを行ってこそ完結すると思っています。
私が読んできたあらゆる本からインプットし、自らの中に育ててきた人生観。
あとは、それをどうやってアウトプットするかです。
私はそろそろ、アウトプットも視野に入れなければならない年齢に差し掛かっています。

ここでいうアウトプットとは、ビジネスの現場からすれば成果物です。
そうした意味でいえば、私は小学生のころから数えきれないほどのアウトプットを生み出してきました。
夏休みの絵日記、読書感想文、自由研究、テストの答案、年賀状、発表会、大学の卒論、Excelの帳票、Wordの文書、ホームページ、メール、提案書、プレゼン資料、プログラム、仕様書、テストエビデンス、学会発表、セミナー、エトセトラエトセトラ。

もちろん、それらはアウトプットです。
ですが、それらを人生のアウトプットとして、集大成とみなしてよいかと問われるとどこか違う気がするのです。

私には妻も娘もいます。家も持ち家です。
そのように、家族や家庭の基盤を残すことも人生のアウトプットと呼べるかもしれません。
そして、家族はいなくとも、後輩にスキルを伝授したり、次の世代に知恵や技術を託すことも立派なアウトプットの一つでしょう。

ですが、スキルや技術や思いはしょせん、形のないものです。
それがどう伝えられるかは、次の世代に渡した時点で自らの手から離れてしまいます。

子にしても同じです。確かに、幼い頃に家庭でほどこした教育は子どもが成長した後も人生に大きく影響を与えます。
ですが、成人してから後の子どもの人生は、子ども自身のものです。親のアウトプットとみなすことには抵抗があります。

何か、確固としたアウトプットを残したい。
仕様書のどこかに記した名前ではなく、セッション資料の冒頭に記した名前ではなく、会社の創立者として登記簿に載せる名前でもない。
ある時点の自分の一部をくっきりとした形として残せるような、人生のアウトプットが欲しい。

様々なブログやツイートやウォールをアップし、ExcelやWordやPowerpointでドキュメントをせっせと作っても、そうしたアウトプットは、すぐにファイルサーバーやオンラインストレージの片隅でアーカイブされていきます。誰からも顧みられずに。
それは寂しい。
もっと確固としたアウトプットの手段はないものか。

例えば、本書のように自らの名が冠された著作として。
それもISBNが付与され、国立国会図書館に収められるような著作として。

まさに本書はそうやって生み出された一冊です。

本書は、皆さんが中華料理店で注文する天津飯を取り上げています。
その名前の由来は何なのか。作り方の変遷、起源、材料、伝来のルートはどういう歴史をたどってきたのか。
そうした点まで含めて調べ上げた労作です。
本書を読むと、中華料理店のメニューを見る目が変わります。

私たちが普段過ごしている生活の中に、こうした謎は無数に埋もれています。
そうした謎を見つけだし、興味を向け、調査に没頭する。
なんと豊かな人生なのだろう、と思います。

著者は、天津飯という興味の対象を自らの職業とは関係のないところから見つけています。
そうした対象を見つけるには、普段から広く興味と関心を抱いていないと難しいはずです。

仕事に没頭するのも良いですが、日々の忙しさの中に、そうした視野を持つ努力を怠ってはなりません。
さもないと、引退した途端、やりがいを失って一気に老け込むということになりかねません。

私にとって本書は、常に私の先をゆく、人生の師匠が示してくれた、文字通りの手本です。

ということで、五つ目のバトンを渡させていただきます。本書の著者である 早川 貴正 さんです。
23歳の頃、強烈な鬱から脱出しようとあがく私が、Bacchus MLというメーリングリストのオフ会で早川さんに出会ってから24年がたちました。
風来坊で何をやりたいのかもわからずにいた若い頃の私は、早川さんのような生き方をしようと思って一念発起し、今に至っています。
妻との結婚式の二次会では乾杯の発声もお願いしましたし、長女が乳児のころから何度もお世話になっています。
私がかつて、広大かつ膨大な家賃のかかる家を苦労して売却するにあたって、わざわざ大阪からやってきて、親身に相談に乗ってくださいました。

20代前半の私が大変お世話になり、一生頭が上がらない恩人は何人かいます。
ですが20数年の年月は、そうした人たちとの連絡を途絶えさせてしまいました。
ですから、早川さんが今もこうやって、つながってくださっていることにとても感謝しています。

私もはやく、ISBN付きの本を出版し、師匠に追いつけるように努力したいと思います。
世の中の面白さにきづき、その謎を掘り進めてゆけるように。
そして、一度は一緒にスコットランドを旅したいです。

「天津飯の謎」
新書:207ページ
早川貴正(著)、ブイツーソリューション(2018/10/26出版)
ISBN978-4-86476-639-5

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「占星術殺人事件」
Day4 「ワーク・シフト」
Day5 「かんたんプログラミング Excel VBA 基礎編」
Day6 「チームのことだけ、考えた。」
Day7 「天津飯の謎」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ #天津飯の謎


kintone EvaCamp 2019に参加しました


令和元年11月6日。
幕張の某ホテルに代表の私はいました。
翌日から二日間にわたって開催されたCybozu Days 2019 東京を控え、kintone エバンジェリストが集うパーティーに参加するためです。

会場の窓からは、美しい光景が広がっていました。
夕日の色合いを背後に黒くそびえる富士山。
足元にはZOZOマリンスタジアムがまばゆく輝いています。
マリンスタジアムのそばには、明日からの祝祭に備え、ひっそりとうずくまる幕張メッセが。
素晴らしく印象に刻まれる光景でした。

その日の様子は
こちら
の記事にアップされています。
まさに、Cybozu Days の前日にふさわしく、意気みなぎる時間でした。
すばらしい場所と時間をご用意くださったサイボウズ社の皆様には感謝です。

サイボウズさんは、今までもCybozu Daysの前日にはこうした場をご用意してくださっていました。
そして、私も時間の許す限り参加してきました。
ところが、今回のEvaCampはその中でも特に意義あるものです。
今までは、サイボウズ公認 kintone エバンジェリストといっても、お墨付きサイトがありませんでした。
なので、私たちエバンジェリストは自分で発信するしかエバンジェリストを認知してもらうすべがなかったのです。

今回、公式サイトが設けられ、エバンジェリストが名実ともに認められたことは大きな変化といえましょう。
こちらに一覧が

2014年8月よりkintone エバンジェリストに任命された私。
すでに5年の月日が経過しました。
ところが、最初の二年間の私のエバンジェリストとしての活動は、自他ともに満足のいくものではありませんでした。

Cybozu Daysですらかろうじて一日、しかも数時間参加できる程度。
他のあらゆる展示会には参加すらできませんでした。
もちろん、新規kintone案件も数える程度。
cybozu developer networkに記事を書き、毎年年末のkintone advent calendarに書き、たまにkintone Café を開き、登壇する程度。

そんな私は、2017年の秋に常駐現場を卒業し、すでに2015年の春に果たしていた法人化もあいまって、ようやく活動できる時間を手に入れられました。

おかげさまで昨年の秋辺りからkintone案件が増え、今では社業の6~7割を占めるまでになっています。そして毎日、kintoneのことを考えています。

今回、kintone エバンジェリストとして継続するかどうか。決断を求められましたが迷う余地はありません。速攻で継続を決意しました。
出だしの二年の空白を埋めるためにも。
その間、活動の鈍い私に業を煮やしながらも見放さないでいてくれたサイボウズ社の担当者様のご厚意に報いるためにも。
そして、私自身が望むワークライフバランスのためにも。

世にいろいろなサービスはありますが、私にとってサービスの背景にある哲学に最も共感できるサービスがkintoneなのです。
このサービスを提案し、使ってもらうことで社会になにがしかの貢献ができていると思える。
それって働き方を考える上でとても大切だと思えます。特に技術者には。

まだまだ世の中には固定観念という目に見えないモンスターが跋扈しています。
それを一つ一つなくしていくために、私は求められる限り、kintoneを薦め、広めていこうと思います。


ミスター・メルセデス 下


下巻は上巻からの承前で「毒餌」の章で始まる。ホッジズの友人ロビンスンの捜査を妨害しようと、ブレイディはロビンスン家の犬を毒殺しようとくわだてる。ところがその毒餌を、ブレイディの同居する母アンが誤って口にしてしまう。泡を吹いて死んでゆく母。これをみた時、ブレイディからタガが外れる。善良な市民という名のタガが。

ただでさえ、ホッジズとの息迫るやりとりでささくれ立ち高ぶっているブレイディの精神。すでに暴走し始めていた彼の心の崩壊は、母の死によってますます拍車がかかる。身から出た錆、という言葉はブレイディはこれっぽっちも届かない。「青いデビーの傘の下」のメッセージにホッジズを殺すと宣言し、ホッジズの車に爆弾を仕掛ける。ところが車が爆発した時、ホッジズの車を運転していたのはジャネル・パタースン。ホッジズがメルセデスを調査する中で知り合い、恋仲になったミセス・トレローニーの妹だ。恋人を殺されたホッジズの怒りは頂点に達し、二人の戦いは誰にも止められない段階に突入する。この戦いは「死者への電話」の章で著者の培ってきたスキルのすべてを費やして描かれる。

本書には登場人物がそれほど多くない。少なくとも著者の今までの大作よりは控えめだ。そして、ホッジズとブレイディの対決が大きな構成となっている。なので物語の視点は二人の行動に合わせて動く。二人のすぐ上から見下ろす神の視点だ。視点も限定され、視野も広くない。ホッジズとブレイディの戦いに迫った描写が主になる。だから読者は存分に二人の戦いを堪能できる。

ホッジズは、メルセデス・キラーがどうやってミセス・トレローニーのメルセデスのキーを開けたかを突き止める。そしてメルセデス・キラーがブレイディ・ハーツフィールドであることも突き止めてしまう。

荒ぶるブレイディの次なるたくらみ。それをホッジズがどう食い止めるのか。一気に物語はクライマックスに向かう。「キス・オン・ザ・ミットウェイ」で描かれるクラスマックスへの流れは著者が得意とするところだ。著者の熟練のストーリーテリングを読者は存分に堪能できる。この章は、著者が今までに発表して来たホラーの骨法をいかし、従来の筆さばきのまま、のびのびと書ける。この章の流れは、過去に著者が出してきた幾多の名作を思い出させる。そしてミステリーである以上、超常現象も不要だ。

それどころか、著者はスタイルを変える必要もない。なぜならここまで本書を読んで来た読者は、すでに本書がミステリーであると了解しているからだ。だからこの章が今までの著者の作品を思い出させたとしても、ミステリーとして違和感なく読める。追い詰められ、自暴自棄になった犯罪者と、猟犬のような探偵の知恵比べ。そこには善と悪の対立が明確に描かれている。

断章として置かれた「公式声明」は本書のミステリーとしての締めだ。ここで著者はミステリーとしての作法にのっとっている。いったん本書をミステリーとして終わらせた後、著者は本書の結末を読者が予想する方向から少しずらす。カタルシスでもカタストロフィでもない結末へと。その結末は本書の続編を予感させる。そして実際、本書には続編が用意されている。本書の結末も、続編以降と密接につながるはずだ。

そこで著者は、ほんの少しだけ著者の得意とするジャンルに読者を誘い込む。もちろん、ミステリーの枠組みを大きく外れない程度に。ミステリーとしての本書が締められた後、エピローグで描かれるのが「ブルー・メルセデス」だ。

本書は見事なまでにミステリーとして完結している。そればかりか、続編としての色っ気を放ちつつ、著者の従来のホラー路線のファンにもサービス精神を発揮している。「ミステリーを書いたけど、ホラーもまだまだ書くよ」と。だが、そのようなサービス精神を断章に挟み、続編に色気を出すにせよ、ミステリーとしての結構が素晴らしいことが第一だ。そこがきちんと描かれていること。ロジックやプロットがかっちりしており、読者のイマジネーションをホッジズとブレイディの対決に向かせたこと。それが本書をミステリーとして成り立たせている。
だからこそ、本書はエドガー賞を受賞できたのではないか。

本書はすでに続編とさらに続々編まで出ているという。近いうちに読もうと思う。

‘2017/08/10-2017/08/11


ミスター・メルセデス 上


著者と言えばモダン・ホラーの帝王。私は著者の作品のほとんどを読んできた。そして私の意見だが、著者はホラーに関わらず現代で最高の作家の一人だと思っている。例えば『IT』は読んでいて本気で鳥肌が立った。映画のような映像のイメージに頼らず、文章だけでこれほどの怖さを読者に届けられる。著者の腕前はもはやただ事ではない。

そして本書は、著者が初めて本格的なミステリーに挑んだ一作だ。信じられないことに、はじめて本格的に手掛けたミステリーがいきなりアメリカのミステリーの最高賞であるエドガー賞の長編部門を受賞してしまった。まさにすさまじいとしか言いようがない。

本書は著者にとって初の本格的なミステリーと銘打たれてはいるが、ここ数年の著者の作品にはミステリーの要素が明らかに感じられていた。作品を読みながら、ミステリーの要素が増していることは感じていた。いずれ著者はミステリーにも進出するのではないか。そんな気がしていた。そして満を持して登場したのが本書。当然のことながら抜群に面白い。

ただ、言っておかなければならないのは、本書がミステリーだからといって著者のスタイルが全く変わっていないことだ。たとえば冒頭。早朝から市民センターに列を作り、合同就職フェアの開場を並んで待つ人々。眠いながらも職を求めることに必死な人々の様子を著者は熟練の筆致で書き分ける。細かく、しかもくどくなく。たくさんの登場人物を書き分け、血の通った人物として肉付けする著者の腕は今までの作品の数々で目の当たりにしてきた。本作にもブレはない。まさに安定の筆さばき。プロローグにあたる「グレイのメルセデス」で見せる著者の腕は、ホラーの巨匠として読者の顔を恐怖に引きつらせた今までと劣らず素晴らしい。たかだか10数ページのプロローグにおいてすら、すでに読者をひきつけることに成功している。ライトを煌々と照らしながら列をなす人々に突っ込んでくるメルセデス・ベンツの強烈な恐ろしさ。人々の恐怖と絶望と呆然の刹那が描かれた出だしからしてページを繰る手が止まらない。

続いての「退職刑事」では、スミス&ウェッスンの三八口径のリボルバーを撫でつつ、人生を無気力に過ごすホッジズの姿が映し出される。彼は刑事を退職して半年たち、時間と暇を持て余している。ついでに人生も。退職後に失ってしまった生きがいを、永遠の眠りに変えて救ってくれるはずのリボルバー。その日を少しずつ先延ばししながら、テレビを無気力に眺めている。そんな日々を送っていたホッジズに一通の封書が届く。その送り主は、自分こそが市民センターで8人の市民が轢き殺した事件の犯人、メルセデス・キラーであると名乗っていた。そして手紙の中で己を捕まえられないまま警察を退職したホッジズをあざ笑い、挑発していた。

日々に倦みつつあったホッジズに届いた手紙。それは老いた刑事の心に火をともす。果たしてその手紙は、ホッジズは元同僚に渡すのか。そうするはずがない。ホッジズはまずじっくりと長文の手紙を検討する。文体や語句、活字に至るまで。そこから犯人の人物像を推測し、これが果たして真犯人によって書かれたものかどうかを考える。その知的な刺激はホッジズから自殺の欲望を消し飛ばす。そればかりか、現役の頃、自らを充実させていた猟犬の本能を呼び覚ました。

そしてすぐに登場するのがブレイディ・ハーツフィールド。のっけから犯人であることが示される彼は、犯人の立場で読者の前に現れる。そう、本書は刑事と犯人の両方による視点で描かれる。読者はホッジズとブレイディの知恵比べを楽しめるのだ。ブレイディは挑発的だが、知能も持っている。ホッジズとの駆け引きをしながら、善良な市民として町に溶け込んでいる人物として登場する。

ホッジズがどうやってブレイディに迫るのか。読者はその興味で次々とページをめくるはずだ。まず、ホッジズは元同僚に連絡し、調査を進める。そこで問題となるのは、どうやってブレイディはメルセデスを運転したのか、という謎だ。8人を轢き殺したメルセデスの持ち主はミセス・トレローニー。ところが彼女は絶対に鍵は施錠したし、自分が持っているマスターキーは紛失したこともないし、スペアキーは常に同じ場所に保管していると言い張る。ところがもしそれが事実だとすれば、メルセデス・キラーはメルセデスをどうやって運転したのか。できるはずがないのだ。そして今や、ミセス・トレローニーはこの世の人ではない。愛車が殺戮に使われた事実は彼女を自死に追いやるに十分だった。つまり、どうやってメルセデス・キラーは運転席に入り、人々の上に猛スピードで突っ込んだのかという謎を説くヒントはミセス・トレローニーからはもらえなくなったのだ。その謎を解くべきは刑事たち、そしてホッジズたち。

今までの著者の作品と本書を読み、大きく違う点。それは、「どう」物語が進むのかではなく、「なぜ」という視点を持ち込んだことだ。鍵はどうやって使われたのか。その謎こそが本書を王道のミステリーとして成り立たせている。ここにきて、読者は本書をミステリーとして読まねばならないことに気づく。ホラー作家のストーリーテリングに酔いしれている場合ではないぞ、と。これはいつものスティーヴン・キングとは一味違うぞ、と。そして本書は正当のミステリーとして読まれ始める。

続いての「デビーの青い傘の下で」では、ホッジズとメルセデス・キラーの間でメッセージが交換される。章の名前にもある「デビーの青い傘の下で」とはオンラインチャットの名称だ。メルセデス・キラーから送られてきた最初の手紙にIDが書かれており、メルセデス・キラーは大胆にもホッジズとの会話のパイプをつないできたのだ。そのオンラインチャットを通じて、ホッジズがメルセデス・キラーに連絡を取る。もちろん周到に準備を重ねた上で。ホッジズの狙いは一つ。いかにしてメルセデス・キラーを揺さぶり、日の光の下に引きずり出すか。そこに長年、猟犬として修羅場を潜ってきたホッジズの知恵のすべてが投入される。そしてホッジズとブレイディの間に駆け引きが始まる。この駆け引きこそ、本書の一番の魅力だ。ただでさえ登場人物の心を描き出し、さも現実の人物のように縦横無尽に操ることに長けた著者。そのスキルのすべてが宿敵の二人の会話に再現されるのだ。これが面白くならないはずがない。ディスプレイに描かれた文字を通し、元刑事と犯人が知恵のすべてをかけてぶつかり合う。ここが真に迫る描写だったからこそ、本書はエドガー賞を受賞したのだと思う。

ホッジズとブレイディの戦いは、続いての「毒餌」によって一層激しくなる。そして、感情をあらわにした駆け引きがブレイディの勝ち誇った心にほころびを生じさせる。正常に世の中を送っているように日々を繕っているが、彼の抱える異常性が少しずつあらわになってゆく。その結果がこの章の題となっている毒の餌だ。少しずつ二人の対決が核心に入り込んでいくところで本書は終わる。

著者の盛り上げ方の巧みさは相変わらずだ。一気に下巻に突入してしまうこと間違いなし。

‘2017/08/08-2017/08/09


人間臨終図鑑Ⅲ


そもそもこのシリーズを読み始めたのは、『人間臨終図鑑Ⅰ』のレビューにも書いた通り、武者小路実篤の最晩年に書かれたエッセイに衝撃を受けてだ。享年が若い順に著名人の生涯を追ってきた『人間臨終図鑑』シリーズも、ようやく本書が最終巻。本書になってようやく武者小路実篤も登場する。

本書に登場するのは享年が73歳以降の人々。73歳といえば、そろそろやるべきことはやり終え、従容として死の床に就く年齢ではないだろうか。と言いたいところだが、本書に登場する人々のほとんどの死にざまからは死に従う姿勢が感じられない。そこに悟りはなく、死を全力で拒みつつ、いやいやながら、しぶしぶと死んでいった印象が強い。

有名なところでは葛飾北斎。90歳近くまで生き、死ぬに当たって後5年絵筆を握れれば、本物の絵師になれるのに、と嘆きつつ死んでいった。その様は従容と死を受け入れる姿からはあまりにかけ離れている。本書に登場する他の方もそう。悟りきって死ぬ人は少数派だ。本書は120歳でなくなった泉重千代さんで締めくくられている(本書の刊行後、120歳に達していなかったことが確認されたようだが)。私が子供の頃になくなった重千代さんは当時、長寿世界一の名声を受けていた方。眠るように死んでいったとの報道を見た記憶がある。例えトリを飾った方が消えるように亡くなっていても、他の方々の死にざまから受ける印象は、死を受け入れ、完全な悟りの中に死んでいった人が少ないということだ。多くの方は、十分に死なず、不十分に死んだという印象を受ける。

わたしは30代の後半になってから、残された人生の時間があまりにも少ない事に恐れおののき、焦りはじめた。そして、常駐などしている暇はないと仕事のスタイルを変えた。私の父方の家系は長命で、祖母は100歳、祖父も95歳まで生きた。今の私は45歳。長命な家計を信じたところで後50年ほどしか生きられないだろう。あるいは来年、不慮の事故で命を落とすかもしれない。そんな限られた人生なのに私のやりたいことは多すぎる。やりたいことを全てやり終えるには、あと数万年は生きなければとても全うできないだろう。歳をとればとるほど、人生の有限性を感じ、意志の力、体力の衰えをいやおうなしに感じる。好きなことは引退してから、という悠長な気分にはとてもなれない。

多分私は、死ぬ間際になっても未練だらけの心境で死んでいくことだろう。そしてそれは多くの人に共通するのではないだろうか。老いた人々の全てが悟って死ねるわけではないと思う。もちろん、恍惚となり、桃源郷に遊んだまま死ねる人もいるだろう。ひょっとしたら武者小路実篤だってそうだったかもしれない。そういう人はある意味で幸せなのかもしれない。ただ、そういう死に方が幸せかどうかは、その人しか決められない。人の死はそれぞれしか体験できないのだから。結局、その人の人生とは、他人には評価できないし、善悪も決められない。だから他人の人生をとやかくいうのは無意味だし、他人から人生をとやかく言われるいわれもない。

今まで何千億人もの人々が人生を生き、死んでいった。無数の人生があり、そこには同じ数だけの後悔と悟りがあったはず。己の人生の外にも、無数の人生があったことに気づくことはなかなかない。身内がなくなり、友人がなくなる経験をし、人の死を味わったつもりでいてもなお、その千億倍の生き方と死にざまがあったことを実感するのは難しい。

私もそう。まだ両親は健在だ。また、母方の祖父は私が生まれる前の年に亡くなった。遠方に住んでいた母方の祖母と父方の祖母がなくなった際は、仕事が重なりお通夜や告別式に参列すらできなかった。結局、私がひつぎの中に眠る死者の顔を見た経験は数えるほどしかない。ひつぎに眠る死者とは、生者にただ見られるだけの存在だ。二度と語ることのない口。開くことのない眼。ぴくりとも動かない顔は、こちらがいくら見つめようとも反応を返すことはない。私がそのような姿を見た経験は数えるほどしかない。父方の祖父。大学時代に亡くなった友人二人。かつての仕事場の同僚。あとは、6,7度お通夜に参列したことがあるぐらい。祖父と友人の場合はお骨拾いもさせていただいた。もう一人の友人はなくなる前夜、体中にチューブがまかれ、生命が維持されていた状態で対面した。私が経験した死の経験とはそれぐらいだ。ただ、その経験の多少に関係なく、私は今までに千億の人々が死んでいったこと、それぞれにそれぞれの人生があったことをまだよく実感できていない。

『人間臨終図鑑』シリーズが素晴らしいこと。それは、これだけ多くの人々が生き死にを繰り返した事実だけで占められていることだ。『人間臨終図鑑』シリーズに登場した多くの人々の生き死にを一気に読むことにより、読み手には人の生き死にには無数の種類があり、読み手もまた確実に死ぬことを教えてくれる。著者による人物評も載せられてはいるが、それよりも人の生き死にの事実が羅列されていることに本書の価値はある。

人生が有限であることを知って初めて、人は時間を大切にし始める。自分に限られた時間しか残されていないことを痛感し、時間の使い道を工夫しはじめる。私もそう。『人間臨終図鑑』シリーズを読んだことがきっかけの一つとなった。自らの人生があとわずかである実感が迫ってからというもの、SNSに使う時間を減らそうと思い、痛勤ラッシュに使う時間を無くそうと躍起になった。それでもまだ、私にとって自分の人生があとわずかしか残されていないとの焦りが去ってゆく気配はない。多分私は、死ぬまで焦り続けるのだろう。

子供の頃の私は、自分が死ねばどうなるのかを突き詰めて考えていた。自分が死んでも世の中は変わらず続いていき、自分の眼からみた世界は二度と見られない。二度と物を考えたりできない。それが永遠に続いていく。死ねば無になるということは本に書かれていても、それは自分の他のあらゆる人々についてのこと。自分という主体が死ねばどうなるのかについて、誰も答えを持っていなかった。それがとても怖く、そして恐ろしかった。だが、成長していくにつれ、世事の忙しさが私からそのような哲学的な思索にふける暇を奪っていった。本書を読んだ今もなお、自我の観点で自分が死ねばどうなるか、というあの頃感じていた恐怖が戻ってくることはない。

だが、死ねば誰もが一緒であり、どういう人生を送ろうと死ねば無になるのだから、人生のんびり行こうぜ、という心境にはとても至れそうにない。だからこそ私は自分がどう生きなければならないか、どう人生を豊かに実りあるものにするかを求めて日々をジタバタしているのだと思う。

あとは世間に自分の人生の成果をどう出せるか。ここに登場した方々は皆、その道で名を成した方々ばかり。世間に成果を問い、それが認められた方だ。私もまた、その中に連なりたい。自分自身を納得させるインプットを溜め込みつつ、万人に認められるアウトプットを発信する。その両立は本当に難しい。引き続き、精進しなければなるまい。できれば毎年、自分の誕生日に自分の享年で亡くなった人の記事を読み、自分を戒めるためにも本書は持っておきたい。

果たして私が死に臨んだ時、自分が永遠の無の中に消えていくことへの恐れは克服できるのだろうか。また、諦めではなく、自分のやりたいことを成し遂げたことを心から信じて死ねるのか。それは、これからの私の生き方にかかっているのかもしれない。

‘2017/07/25-2017/07/26


ウィスキー・ドリーム─アイラ島のシングルモルトに賭けた男たち


夢を追う楽しみ。夢に向かって進む喜び。

本書はウイスキー造りの夢を追う人々の物語だ。

ここ10数年ほど、世界的にウイスキーが盛り上がりを見せている。だが、20年ほど前はウイスキーの消費が落ち込み、スコットランドのあちこちで蒸溜所が閉鎖を余儀なくされた。本書の舞台であるBruichladdichもそう。

スコットランド 、アイラ島。そこはモルト好きにとって憧れの地だ。大西洋に面し、荒々しく陰鬱な天気にも翻弄されるこの地は、ウイスキー作りに最適とされている。アイラ島のウイスキーといえば、地の利を生かした個性的な味が世界のウイスキーの中でも異彩を放っている。ボウモア、ラフロイグ、ラガヴーリン、アードベッグ、ブナハーヴン、キルホーマン、カリラなど、世界的に有名なブランドも擁している。Bruichladdichもその一つ。

ウイスキーの製造工程の中で麦を糖化させるため麦芽にする作業がある。麦の発芽を促すことで、でんぷんを糖に変える作業だ。しかしそこから芽が出てしまうと、今度は逆に麦芽の中の糖分が減ってしまう。そのため、ピートを焚いて麦芽をいぶし、発芽を止める。その時に使うピートとは、ヘザー(ヒース)が枯れて堆積し、長い年月をへて泥炭となったものだ。ピートをいぶすことで麦芽にピートの香りがつく。そしてピート自体が、長年大西洋の潮の香りを吸い込んでいる。そのため、ピート自体が独特な香味をウイスキーに与えるのだ。アイラ島のウイスキーにはそのヨード臭とも呼ばれる薬品のような香りが特徴だ。(あえてピートを焚かない蒸留所もあるが。)

80年代のウイスキー不況によって、Bruichladdichは閉じられてしまい、操業再開のめどもないまま大資本の間を転々としていた。それに目をつけたのがロンドンでワインを商っていたMark Reynier。彼はワインで培ったノウハウはウイスキーでも生かせるはずと買収に乗り出す。そしてBruichladdichの所有者に何年ものあいだ働きかけ続ける。難航していた資金調達も劇的なほどに土壇場でめどがつき、蒸留所の買取に成功する。まさに夢を追い、それを努力によって成就させた幸せな人だ。

夢とは単に願うだけでは叶わない。本書は夢を実現するにあたって、全ての人が覚悟しておかねばならない苦難と苦労がつづられた本だ。そして実現したら何物にも勝る喜びが待っていることも記されている。

アイラ島の様子はGoogle マップやストリートビューを使えば、日本にいながら確認できる。私も何度もディスプレイ上で憧れの地を探索している。そこでわかるのはアイラ島が純然たる田舎であることだ。だがMarkはそこも含めて惚れ込んだのだろう。ロンドンの渋滞や都会生活に心底辟易していたMarkが何度も漏らす言葉が本書には紹介されている。その言葉はMarkと同じく都会に疲れている私には同感できるものだ。

本書を読んでいると、人生を何かに賭けることの意味やその尊さが理解できる。都会でしか得られないものは確かにある。だが、都会で失うものの多さもかなりのダメージを人生に与える。

Bruichladdichの場合、幸運もあった。それはJim McEwanをボウモア蒸留所から迎えたことだ。伝説のブレンダーとして知られるJimは15才からボウモア蒸留所で経験を積んでいた。ボウモア蒸留所はサントリーが所有している。Jimはサントリーの下で世界中をマーケティング活動で回る役目もこなさねばならず疲れを感じていた。そんなJimとMarkの夢が交わりあい、JimはBruichladdichでウイスキー造りの陣頭指揮を取る立場に就く。閉鎖前に蒸留所長だった人物や他のメンバーも参加し、蒸留を再開することになる。

本書には、Bruichladdichで蒸留が始まる様子や、最初のテスト蒸留の苦心などウイスキーが好きな読者には感動できる所が多い。Bruichladdichの蒸留工程で使われる施設にはビクトリア時代から使われているというマッシュタン(糖化槽)やウォッシュバック(発酵槽)など。それを使いながら、人力で蒸留してゆくのがウイスキー作りのだいご味。それらの描写はウイスキー党にとっては耐えがたいまでに魅力的だ。

本書で面白いのは、本場のウイスキー造りの野卑な側面も臆せず書いていることだ。日本の蒸留所を訪れるとウイスキー造りに洗練され統制された印象を受ける。だが、ひと昔前のスコットランドのウイスキーの現場は本書で書かれるように荒削りだったのだろう。これは日本の蒸溜所を描いた書籍には見られない。また、何度も日本の蒸留所を訪れた私にもわからない雰囲気だ。本書からは本場のウイスキー造りのライブ感が伺えるのがとてもうれしい。

ここまで苦心して作られたウイスキー。それがアクアマリン色の目立つボトルでバーに置かれれば、呑助にとって飲まずにはいられない。あえてアクアマリン色のボトルにするなどの、マーケティング面の努力が功を奏し、Bruichladdich三年目ぐらいで黒字を達成する。

Markの想いは尽きない。彼の想いは全ての原料をアイラ島で供給したウイスキー造りにも向く。その製品は私も以前バーで見かけたことがある。まだ飲んだことはないが、こだわりの逸品と呼んでよいだろう。さらにはフェノール値(ピートを燻して得られる煙香の成分)が200PPMを超えたというOCTOMOREへの挑戦も本書にかかれている。また、Bruichladdichの近所にありながら1983年に閉鎖されたままとなっているポート・エレン蒸溜所の復活にまでMarkの想いは向かう。さらにはジンの蒸留に乗り出したりと、その展開は留まるところを知らない。

本書はポート・エレン蒸溜所を復活させる夢に向けて奔走する描写で本書はおわる。

だが、本書が刊行された後のBruichladdichにはいくつか状況の変化があったようだ。それは大手資本の導入。Markとその仲間による買収は全くの自己資本によるものだった。それは彼らの理想が大手資本の論理から独立した真のウイスキー造りにこだわることにあったからだ。その熱き想いは本書のあちこちに引用される。だが、これを書いている今、Bruichladdichの所有者はフランスのレミー・コアントローだ。本書には、彼らの理想に反し、レミー社の資本を受け入れるに至った経緯は書かれていない。それはぜひ知りたかったのだが。それともう一つの出来事はポート・エレン蒸溜所の復活を断念したニュースだ。これもまた残念なニュースだ。ポート・エレン蒸留所については、本書を読んで半年ほどたった頃、ウイスキー業界の大手であるディアジオ社が復活させるニュースが飛び込んできた。それはそれで喜ばしいニュースだが、私としては個人の力の限界を思い知らされるようで複雑な気分だ。

だが、Bruichladdichのウイスキー造りの夢は潰えたわけではない。それを確かめるために本書を読んだ数日後、新宿のバーhermitを訪れた。そこで飲んだのがアクアマリン色のボトルでおなじみのBruichladdich12年と、OCTOMOREだ。実は両者を飲むのは私にとっては初めてかもしれない。特にOCTOMOREは全くの初めて。ともにおいしかったのはもちろんだがOCTOMOREには強烈な衝撃を受けた。これは癖になりそう。そして、これだからウイスキー飲みはやめられないのだ。

20年ほど前、私は本場でウイスキーを知りたいとMcCallan蒸溜所に手紙を送ったことがある。雇ってほしいと。また、私が大阪の梅田でよく訪れるBar Harbour Innのオーナーさんや常連客の皆さんで催すボウモア蒸溜所訪問ツアーに誘われたこともある。しかし、私はともに実現できていない。本書を読み、Bruichladdichを味わった事でますます行きたくなった。それは今や私の夢となって膨らんでいる。

もちろん、私の夢など本書で紹介された夢よりはずいぶんと小粒だ。だが、まずは夢を願うだけでなく、実現させなければ。スコットランドに行きたいという思い、アイラ島やスカイ島の蒸留所を巡りたいとの思いが、本書を読んで燃え盛っている。かならずや実現させる。

‘2017/02/18-2017/02/20


自殺について


なにしろ題名が「自殺について」だ。うかつに読めば火傷すること確実。

悩み多き青年には本書のタイトルは刺激的だ。タイトルだけで自殺へと追い込まれかねないほどに。23歳の私は、本書を読まなかった。人生の意味を掴みかね、生きる意味を失いかけていた当時の私は、絶望の中にあって、本書を無意識に遠ざけていた。ありとあらゆる本を乱読した当時にあっても。

だが、今になって思う。本書は当時読んでおくべきだった、と。

もし当時の私が本書を読んでいたとしたら、どう受け取っただろう。悲観を強めて死を選んだか。それとも生き永らえたか。きっと絶望の沼に陥らず、本書から意味を掴みとってくれていたに違いないと思う。本書は人を自殺に追いやる本ではない。むしろ本書は人生の有限性を説く。有限の生の中に人生の可能性を見出すための本なのだ。

自殺は、苦患に充ちたこの世の中を、真に解脱することではなく、或る単に外観的な-形の上からだけの解脱で紛らわすことであるから、それでは、自殺は、最高の道徳的な目標に到達することを逃避することになる(199ページ)。

このように著者ははっきり主張する。つまり、自殺した者には解脱の機会が与えられないということだ。なんとなく著者に厭世家のイメージを持っていた私は、著書を初めて読む中で著者への認識を改めた。

確かに本書を一読すると厭世観が読み取れる。だが、それはあくまで「一読すると」だ。本書の内容をよく読むと、厭世観といっても逃げの思想に絡め取られていないことがわかる。むしろ限りある苦難の生を生きるにあたり、攻めの姿勢で臨むことを推奨しているようにすら思える。

そのことは時間に対する著者の考えで伺える。43ページで著者は、時間は、ひとつの無限なる無なのだから、と定義している。また、32ページでは、それに反して意思は、有限の時間と空間とを占める生物の身体として、と定義している。つまり著者によると、自己を意識する自我が主体だとすれば、時間とはそれ以外の部分、つまり客体に適用される。しかし、主体である我々に時間は適用されない。適用されないにもかかわらず、時間の有限の制約を受けることを余儀なくされた存在だ。そして限られた時間に縛られながら、精一杯の欲望を満たそうとする儚い存在でもある。そこに生きる悩みの根源はあると著者はいう。

もう一つ。自我にとって認識できる時間は今だけだ。過去はひとたび過ぎ去ってしまうと記憶に定着するだけで実感はできない。過去が実感できないとは、過去に満たされたはずの欲求も実感できないことと等しい。一度は満たしたかに思えた欲求は一度現在から過ぎ去ると何も心に実感を残さない。つまり、欲求とは満たしたくても常に満たせないものなのだ。そんな状態に我々の心は耐えられず、不満が鬱積して行く。何も手を打たなければ、行く手にあるのはただ欠乏そして欲望のみ。生を意欲すればするほど、それが無に帰してしまう事実に絶望は増して行くばかり。著者は説く。意欲する事の全ては無意味に終わると。尽きぬ欲求を解消する手段は自殺しかない。そんな結論に至る。私が悩める時期に幾度も陥りかけたような。

好色や多淫は、著者にとっては人間の弱さだ。けれども、その弱さが種の保存という結果に昇華されるのであれば、それで弱さは相殺されると著者は考える。

著者の論が卓抜なのは、生を種族のレベルで捉えていることだ。個体としての生が無意味であっても、それが種の存続にとっては意味があるということ。つまり生殖だ。著者は淫楽をことさらに取り上げる。人は性欲に囚われる。それも人が囚われる欲の一つだ。しかし、性欲の意義を著者は種の存続においてとらえる。そして親が味わった淫楽の代償は次の世代である子が生の苦しみとして払う。

生殖の後に、生がつづき、生の後には、死が必ずついてくる。(81ページ)

或る個人(父)が享受した・生殖の淫楽は彼自身によって贖われずに、かえって、或る異なった個人(子)により、その生涯と死とを通して贖われる。ここに、人類というものの一体性と、それの罪障とが、ひとつの特殊な姿で顕現するのだ。(81-82ページ)

上にあげた本書からの二つの引用は、生きる意味を考える上で確かな道しるべになると思う。つまるところ、個人の夢も会社の成長も、あらゆる目標は種の存続に集約される。そういうことだ。逆にそう考えない事には、死ねば全てが無になってしまう事実に私は耐えられない。おそらく人々の多くにとっても同じだと思う。

ここで誤解してはならないことが一つある。それは子を持つことが人類の必須目的という誤解だ。子を持つことは人の必要条件ですらないと思う。人生の目的を個体の目的でなく、種の目的に置き換える。そうする事で、子を持つことが義務ではなくなる。例えば子がいなくとも、種の存続に貢献する方法はいくらでもある。上司として、隣人として、同僚として。ウェブやメディアで人に影響を与えうる有益な情報を発信する事も方法の一つだ。要は子を持たなくても種のために個人が貢献できる手段はいくらでもあるという事。それが重要なのだ。その意識が生きる目的へと繋がる。著者は生涯結婚しなかったことで知られるが、その境遇が本書の考察に結実したのであればむしろ歓迎すべきだと思う。

本書で著者が展開する哲学の総論とは、個体の限界を認識し、種としての存続に昇華させることにある。それは個体の生まれ替わりや輪廻転生を意味するのだろうか。そうではない。著者が本書で展開する論旨とはそのようなスピリチュアルなほうめんではない。だが、種の一つとして遍在する個体が、種全体を生かすための存在になりうるとの考えには輪廻転生の影響もありそうだ。著者の考えには明らかに仏教の影響が見いだせる。

著者の考えを見ていくと、しっかりと仏教的な思想が含有されている。実際、本書には仏教やペルシャ教を認め、ユダヤ教を認めない著者の宗教観がしっかりと表明されている。なにせ、ユダヤ教が、文化的な諸国民の有する各種の信仰宗教のなかで、最も下劣な地位を占めている(181ページ)とまで述べるのだから。

著者がユダヤ教、その後裔としてのキリスト教に相容れようとしないのは、自殺という著者の考えの根幹を成す行為が、これら宗教では何の論拠もなしに宗教的に禁じられているからではないか。著者は自殺を礼賛しているのではない。むしろ禁じている。だが、ユダヤ・キリスト教が自殺を禁じる論拠になんら思想的な錬磨もなく、盲目的に自殺を禁ずることを著者は糾弾する。

ここまで読むとわかるとおり、著者にとっての自殺とは、種の存続には何ら益をもたらさない行為だ。そもそも個人がいくら個人の欲求を満たそうにもそれは無駄なこと。生とはそもそも辛く苦しい営み。だからこそ、種としての貢献や存続に意義を見出すべきなのだ。つまり、個人としての欲望に負け自殺を選ぶのは、著者によれば個人としての解脱にも至らぬばかりか、種としての発展すら放棄した行為となる。

だが私は思った。著者の生きた時代と違い、今は人が溢れすぎている。生きることがすなわち種の存続にはならない。むしろ、生きることそのものが地球環境に悪影響を与えかねない。そんな時代だ。いったい、この時代に自殺せず、なおかつ種の存続に貢献しうる生き方はありうるのだろうか。多分その答えは、著者が説く、人を自殺に至らしめる元凶、つまり際限なき欲求にある。欲求の肥大を抑える事は、自殺欲望を抑制することになる。また、欲求の肥大が収まることで、地球環境の維持は可能となる。それはもちろん、種の存続にもつながる。つまり、自殺と人間の存続は表裏一体の関係なのだ。自殺の欲求から醒めた今の私は、本書からそのようなメッセージを受け取った。

もちろん、そんな単純には個々人の人生や考えは戒められないだろう。国にしてもそう。東洋の哲学を継承するはずの中国からして、猛烈な消費型生活に邁進し、自殺者も出しているのだから。少し前までの我が国も同じく。だが、それでもあえて思う。自殺を超越しての解脱を薦め、個体の限りある 生よりも種としての存続に人生の意義を説く本書は、東洋人の、仏教の世界観に親しんだ我々にこそ相応しい、と。

‘2016/06/08-2016/06/15


鉄の骨


一世を風靡した半沢直樹による台詞「倍返しだ!」。文字通り倍返しに比例するように著者の名前は知られるようになった。著者の本が書店で平積みになっている光景は今や珍しいものではない。自他ともに認める流行作家といえよう。とはいえ、私の意見では著者は単なる流行作家ではない。むしろ、経済小説と呼ばれるジャンルを再び活性化させた立役者ではないか。そう思っている。

かつて、城山三郎氏や高杉良氏、清水一行氏による経済小説がよく読まれていた。経済的に上り調子だったころ、つまり高度経済成長期のことだ。それら経済小説には、戦後日本を背負って立つ企業戦士たちが登場する。読者はその熾烈な生き様をなぞるかのように経済小説を読み、自らもまた日本の国運上昇のために貢献せん、と頑張る気を養った。しかし、今はそうではない。かつて吹いていた上昇の風は、今の日本の上空では凝り固まっているように思われる。いわゆる失われた二十年というやつだ。長きに亘った停滞期は、人々の心に自国の未来に対する悲観的な視点を育てた。これからも日本の未来に自信を失う人々は増えていくことだろう。あるものは右傾化することで自国の存在意義を問い、あるものは左傾化して団結を謳う。そんな時代にあって、著者は新たな経済小説の道を切り開こうとする。

著者の凄いところは、経済や資本、組織の冷徹なシステムを描いて、それでいて面白いエンターテイメント性を残しているところである。先に描いた先人たちの経済小説は、経済活動や競争の事実それ自体の面白さをもって小説を成り立たせていたように思う。しかし、これだけ情報や娯楽が溢れる今、経済活動を描いただけでは目の肥えた読者を振り向かせることは難しいのかもしれない。著者はその点、江戸川乱歩賞受賞者として娯楽小説の骨法にも通じている。元銀行員としての知識に加え、娯楽小説の作法を会得したのだから売れないはずがない。

本書は、建設業界を描いている。「鉄の骨」とは建設業界を表すに簡潔で的を射た比喩だといえる。建設業界の中で一人の青年が揉まれ、成長する様が書かれるのが本書だ。

現場で建設に携わる事が何よりも好きな主人公平太。ある日、辞令が出され、本社業務課へ異動となる。そこは別名談合課とも言われる、建設業界の凄まじい価格競争の最前線。公共プロジェクトを入札で落とさねば業績は悪化するため、現場の空気は常に厳しい。

業界では、入札競争が過熱しないよう、業者間で入札の価格や落札者を順番に割り当てる商慣行が横行している。これを談合という。調整者・フィクサーが手配し、族議員が背後で糸を引くそれは、云うまでもなく経済犯罪。露見すれば司法の手で裁かれる。

平太の働く一松組も例外なく談合のシステムに組み込まれている。凄まじい暗闘が繰り広げられる中、一松組は少しでも利益を確保しつつ安価で入札し受注につなげようとする。他方ではフィクサーに対して受注を陳情し、フィクサーは他の工事案件との釣り合いを見て、各業者に受注量を割り振る。きちんと機能した談合では、入札の回数や各回の全ての談合参加業者の入札額まで決められているのだとか。本書にはそういった業界の裏が赤裸々に描かれている。銀行出身者である著者の面目躍如といったところか。

談合の中には、傍観者を決め込み、冷徹にリスクを見極め回避しようとする銀行の存在も垣間見える。そして、談合の正体を暴き、法に従って裁きを下そうとする検察特捜部も暗躍する。

談合につぐ談合で思惑が入り乱れる建設業界とは無縁に、平太の彼女である萌は大学を卒業して銀行に勤めている。建設業界の闇慣習に染まりつつある平太の価値観と、冷徹な銀行論理に馴染みつつある萌の思いはすれ違い始める。悩める萌に行員の園田が接近し、萌の思いを平太から引き離そうとする。園田は一松組の融資担当者であり、仕事柄入手した一松組の将来性の危うさを萌に吹き込み二人の仲を裂こうとする。このように、著者は経済や資本の論理の中に人間の感情の曖昧さを持ち込む。そのさじ加減が実にうまい。

談合という非人間的な戦場にあっても、平太の業務課の仲間も人間味豊かに描き分けられている。先輩。同僚、課長。そして専務。談合と一言で切って捨てることは誰にでもできる。問題はその渦中に巻き込まれた時に、どういった態度を取るか。このことは、現場のリアリティを知る者にしか語れない葛藤である。本書で描かれる登場人物は、端役に至るまで活き活きとしている。平太や業務課先輩の西田。課長の兼松。専務の尾形。フィクサーの三橋やライバル社の長岡。それぞれがそれぞれの役柄に忠実に、著者の作り上げるドラマの配役を演じている。中でも機縁から平太が何度も相対することになるフィクサーの三橋が一際目立つ。三橋が語る台詞の端々からは、談合に関わる人々の宿命や弱さを見ることができる。善悪二元論では語れない、経済活動が内包する宿業を淡々と語る三橋は、本書を理解する上で見逃せない人物である。

著者はおそらくは銀行員時代の人脈から談合の実録を綿密に取材し、本書に活かしたのだろう。おそらくはモデルとなった人物もいるのかもしれない。そう思わせるほど、本書で立ち振る舞う人物達の活き活きした人物描写は本書の魅力だ。談合という経済論理に対する人間臭さこそが本書の肝と言っても良い。経済活動の制約や非人間的な論理の中でなお生きようとする人々の群像劇。本書をそう定義しても的外れではないだろう。

本書の結末は、ここでは明かさない。が、本書を読み終えた時、そこには優れた小説に出会った時に感じるカタルシスがある。一つの達成感といってもよいだろうか。確かに一つの物語の完結を見届けたという感慨。このような読後感を鮮やかに読者の前に提示する著者とは、まだまだこれからも付き合っていきたいと願っている。著者のこれからの著作からは日本の経済小説の未来、ひいては日本の未来すら読めるかもしれないのだから。

‘2015/6/23-2015/6/24


労働問題について


安部内閣が、ホワイトカラーエグゼンプション導入を再び打ちだしてからというもの、労働問題があちこちで再燃しているように思えます。日々、労働問題に関する記事をどこかで見かけます。

今日もBLOGOSにて以下のような記事がアップされていました。
https://blogos.com/outline/106995/

内容は退職強要とも取れる内容です。日本IBM社から退職を強要された方が上司の方とのやりとりを録音し、その一部を文章化したものです。やりとりとしては強要と受け取られても仕方ないと思います。が、おそらくはこのご時世、もっとひどい形の解雇通告も行われていることでしょう。ここに出されているのは、別室に呼ばれて個別に言われるだけまだましと思います。

ホワイトカラーエグゼンプションなど、経営側の理論であることはいうまでもありません。おそらくはこの導入を契機として、次々に労働者への束縛、あるいは低賃金化が進んでいくのではないかと思います。

私も雇われる側としての立場、雇う側としての立場も経験があります。どちらの意見も立場があるのは分かります。社保の負担、福利厚生負担も相当な額が必要で、簡単に賃上げに踏み切れない気持ちも分かります。最初から社員の労力を絞り上げることを前提として収支計画を立てる場合は別ですが。

とはいえ、労働者の立場としては、折角の人生、気持ち良い労働をして過ごしたいですよね。家族のために誇りを持って働く。これはすごく大事なことだと思います。

そんなふうに思っていても、冒頭に紹介したような事例の通り、いつ何時、馘首の憂き目にあうか分かりません。私も20代前半の頃、朝礼の場で馘首宣告を受けたことがあります。あれはやはりショックなものです。人よりものんきな私でもそうだったのですから、大抵の方にとっては世界が音を立てて崩れる、そんな思いもすることでしょう。

しかし、まだ我が国の求人状況が改善する兆しは見えません。景気は好転の兆しも見え始めているようですが、企業が雇用に積極的でないことに変わりはありません。海外のほうが人件費が安く、IT化の進展で人件費の切り詰めはまだまだ可能です。おそらくは今後、首切りも普通に行われていくことになるでしょう。我が国でも。

そのためには、いつ馘首宣告を受けても、動じない心と経済の準備をしておいたほうがよいのかもしれません。また、普段から身を立てる技術は身に付けておいたほうがよいでしょうね。料理や運転など、事務仕事や営業仕事の合間にも、目の前には世界が広がっています。

スマホでゲームをやる時間があれば、やれることは沢山あると思います。再就職が厳しく心が折れそうなときでも、色んな方と普段から接する癖をつけておくだけで、思わぬご縁から次の人生が開けないともかぎりません。

要はいつ首になっても自分と家族の生活は守る。その覚悟だけは身にまとっておくことです。これからは労働者にとっても安泰な時代ではありません。

私にとっても同じです。これから経営者となるにあたって、この労働状況は逆にチャンスです。長時間勤務ではなく、短時間集中型で、やりがいも得られるような会社作りを目指していきたいと思います。