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この国の未来に私や弊社ができること


金曜日の朝に流れた安倍元首相が銃撃されたニュースはかなりの衝撃を私に与えました。

そのニュースを私は八王子に向かう電車の中で知りました。
八王子駅に着くと、ちょうど日本共産党の候補者の方が街頭演説をしていました。私が通りがかった時、先ほど入ってきたニュースとして銃撃のことに言及されていました。暴力は許されない、私たちは議会で議論してこの国を良くしていく、とその方は熱弁をふるっておられました。

用事を済ませた私がコワーキングスペースで仕事をしていたら、安倍元首相が死去されたニュースが飛び込んできました。
そこから、ジワジワと私の中に衝撃が染み渡ってきました。何か大切なものが抜け落ちてしまったかのような。

その喪失感がどこから来るものなのか。私はその感情を持て余し、衝動的にバーに飛び込みました。
バーから出て八王子の駅に向かうと、読売新聞の号外が配られていたので一枚手に取りました。

帰宅した後も今朝になってもまだその衝撃は去りません。さらに一日おいても。
衝撃を受けた理由を自分なりに考えるため、本稿に著してみます。なぜ衝撃は去らないのか。

その前に私の政治的な立場を明らかにしておきます。
私はどちらかというとノンポリのその他大勢に属しています。特定の政党にも宗教にも属していません。シンパでもなく、オルグもされていません。
改憲には賛成の立場です。ただし、それは武力行使を許すためでなく、逆に専守防衛のために自衛の軍隊を持つことを条文に明記するためです。他にも施行当時にはなかった国民の権利の考えを今の時代に合わせてアップデートすべきだと思っています。多様性を重んじ、LGBTQ+も加味した憲法として。

安倍元首相は改憲に向けてリーダーシップを発揮しておられました。私は氏に改憲の可能性を感じていました。安倍元首相とは目指す方向が違う可能性はありましたが、私は期待し、応援していました。ところが、疑惑を招くような数々の行いがありました。あれには失望させられました。日本を変えたいのなら脇を甘くせず、一切の疑惑を招かないよう、注意深く振る舞ってほしかったと。

ですが、政治家も官僚も人間です。私は人間の能力では皆が完全に納得できる政策を立案し、施行するのは不可能だと思っています。
そして、誤りを犯さない人間もいません。安倍元首相は聖人君子のパーフェクトヒューマンではありませんでした。が、それが逆に、人間の強さと弱さを兼ね備えた名政治家の証だったと思います。

衝撃を受けた理由を考えてみました。

事件が起きたのが、私が三週間前に通りがかった大和西大寺駅の北口だったから何かの数奇な縁を感じたのでしょうか。多分違います。
事件の夜、私は大和西大寺駅前で一緒に飲んだ後輩に連絡しました。すると、その後輩はたまたま大和西大寺駅にいたらしく、駅の写真を撮って送ってくれました。いつもと変わらないであろう駅の様子を見て、私が感じた衝撃の理由が最近に訪れた場所だからではないことが分かりました。

では安倍元首相が有名だからでしょうか。これも違うように思えます。アメリカのケネディ大統領やジョン・レノンが撃たれた時の世間の反応もこのような感じだったのでしょうか。ですが、ジョン・レノンが撃たれた時、私は7歳でした。全く記憶していません。

アメリカ同時多発テロ事件のような、私たちがよく理解できない主義主張による凶行だからでしょうか。これも違うと思います。
今のところ、報道によれば犯人には、政治的な信条の他に動機があるらしいとのことです。多くのアンチを抱えていた安倍元首相ですが、アンチが主張する理由をある程度は知っています。その理由があったからこそ、もっとも安倍元首相が標的に選ばれやすかったことも。

では、日頃から起きている悲惨な事件や事故と今回の事件は何が違うのでしょう。何がこれほどに衝撃を与えるのでしょう。

私は、ネットの暴力がついにリアルを侵食し始めた怖さにあると思います。
今までも、わが国では暗殺が多数なされました。元首相や現職の首相も。テロもそう。平成にはオウム真理教が暴走し、令和でも京都アニメーションの放火が世間に衝撃を与えました。他にも通り魔事件や凶悪な犯罪は何度も発生しています。
ですが、こうした暴力は、私たちにとっては突発のものでした。犯人の中で人知れず憎悪が増幅していたにせよ、私たちがそれを知る術はありませんでした。オウム真理教による脅威はサリン事件の前から一部のマスコミで報道されていましたが、当時はまだネットが未開拓でした。世間にオウム真理教の内情は知られていませんでした。
戦前のテロは社会に不安が高まり、それが新聞などで報道された中で行われていました。ですが、当時はネットもなく、今の情報の広がり方とは明らかに異なっています。
今までの事件は、どれも事態が起こってから、動機を後追いしてさかのぼる種類のものでした。それは論理による振り返りです。

ところが、安倍元首相の場合、ネットの中でアンチの世論が形成されていました。中には見苦しい暴言も散見されました。
今回、犯人の動機が報道されています。それによると政治信条ではなく、私的な理由が動機だそうです。ガードが堅い特定団体の関係者を襲うかわりに、その団体とのつながりを報道されていた安倍元首相を狙ったと。
ここからは私の推測ですが、その団体とつながりがあると報道されたことが犯人の矛先を向かせたのではないかと。もしそうだとしたら、ネットに渦巻くアンチの声は、リアルへの緩衝効果どころか、犯罪を後押しした結果を招きました。

私は今まで、こうしたネット内のアンチの声を鬱憤の発散の場として許容し、甘くみていました。
ですが、たまり続ける鬱憤はリアルの場で暴発する。そのことが実証されたのが今回の事件だったと思います。その恐ろしさが私に衝撃を与えたのだと考えています。論理による振り返りを許さない現実の恐怖。

ネットが出現する以前のメディアや通り魔事件犯人の心の中は、いわば閉じた情報でした。ですが、ネットにあふれる情報は、社会に向けて開かれています。そうした情報は社会に広がっているため、希釈され発散され、凝縮して暴発しない。私はそのように油断し、勘違いをしていました。
犯人の行為は許せません。罪を償ってもらうのは当然ですが、それで終わらせず、社会をなんとかしないと。

このような事態が起こった今、私や弊社のような情報技術に携わるものはどうすれば良いのでしょう。
まず、確認しておきたいのは、今まさに進んでいる情報社会の流れは絶対に後には戻らないことです。これからも社会にはますます情報が流れ、あらゆるものがデータで表現されていくはずです。それは間違いありません。

多分、情報技術に関わる人は、私も含めてこれからも忙しい日々を送ることでしょう。
その時、技術者は個人情報を含む機密情報の扱いには細心の注意を図ることが求められます。ヒューマンエラーをなくすための仕組みの導入を含めて。
ただし、秘匿すべき情報を除けば、これからは逆に情報を開示していく時代になると思います。
すでにビットやバイトなどのパケットの仕組みやネットプロトコルなどのレイヤー1からレイヤー6までは規格が策定され、公開されています。レイヤー7のアプリケーションに関わる部分は私や弊社が関わる部分です。そこも機密情報を公開しない限りにおいて、求められれば開示できるよう、備えておくことが必要です。

これからは、情報は原則として公開するものというポリシーを持つことが私たちに求められます。いわば情報の民主化です。
情報が特定の組織や立場に握られない社会。誰もが公平に世の中の情報を享受できる社会。
国や民族や性別や宗教や信条や立場や門地によって与えられる情報が区別されない社会。
社会から疎外されたと感じる人がいなくなり、いかなるパーソナリティの方でもなじめるような社会。

そうした社会を創るためには、そうした方々にあまねく情報を配信できる仕組みを作らねばなりません。
また、あらゆる方がきちんと情報を扱うリテラシーを備えることも大切です。そのための教育も必要でしょう。
今回の犯人のように、自らの中の衝動に追い詰められる人を少しでも減らしていかなければ。

弊社も私もそのような社会が実現できるよう、努力していきたいと思います。

今日は参議院議員選挙です。私も投票してきました。
皆さんも投票の権利を行使し、社会に参加して、まずは身の回りから不満に思う部分を変えていってほしいと思います。
ただし、それには時間がかかります。すぐに世の中は変わりません。身の回りもすぐには変わりません。何年も何年もかけて変えていかなければ。
事件の翌日、私が好きな場所の一つである、世田谷の慶元寺を訪れました。そこで門前に掲げられていた標語をアップしておきます。何事も好転するまでには若干のタイムラグがあるのです。

末筆になりましたが、安倍元首相に心からの哀悼をささげたいと思います。あなたの死を無駄にはしないように。そして改憲への志を引き継いでいけるように。


土の中の子供


人はなにから生まれるのか。
もちろん、母の胎内からに決まっている。

だが、生まれる環境をえらぶことはどの子供にも出来ない。
それがどれほど過酷な環境であろうとも。

『土の中の子供』の主人公「私」は、凄絶な虐待を受けた幼少期を抱えながら、社会活動を営んでいる。
なんとなく知り合った白湯子との同棲を続け、不感症の白湯子とセックスし、人の温もりに触れる日々。白湯子もまた、幼い頃に受けた傷を抱え、人の世と闇に怯えている。
二人とも、誰かを傷つけて生きようとは思わず、真っ当に、ただ平穏に生きたいだけ。なのに、それすらも難しいのが世間だ。

タクシードライバーにはしがらみがなく、ある程度は自由だ。そのかわり、理不尽な乗客に襲われるリスクがある。
襲われる危険は、街中を歩くだけでも逃れられない。襲いかかるような連中は、闇を抱えるものを目ざとく見つけ、因縁をつけてくる。生きるとは、理不尽な暴力に満ちた試練だ。

人によっては、たわいなく生きられる日常。それが、ある人にとってはつらい試練の連続となる。
著者はそのような生の有り様を深く見つめて本書に著した。

何かの拍子に過去の体験がフラッシュバックし、パニックにに陥る私。生きることだけで、息をするだけでも平穏とはいかない毎日。
いきらず、気負わず、目立たず。生きるために仕事をする毎日。

本書の読後感が良いのは、虐待を受けた過去を持っている人間を一括りに扱わないところだ。心に傷を受けていても、その全てが救い難い人間ではない。

器用に世渡りも出来ないし、要領よく人と付き合うことも難しい。時折過去のつらい経験から来るパニックにも襲われる。
そんな境遇にありながら、「私」は自分に閉じこもったりせず、ことさら悲劇を嘆かない。
生まれた環境が恵まれていなくても、生きよう、前に進もうとする意思。それが暗くなりがちな本書のテーマの光だ。
そのテーマをしっかりと書いている事が、本書の余韻に清々しさを与えている。

「私」をありきたりな境遇に甘えた人物でなく、生きる意志を見せる人物として設定したこと。
それによって、本書を読んでいる間、澱んだ雰囲気にげんなりせずにすんだ。重いテーマでありながら、そのテーマに絡め取られず、しかも味わいながら軽やかな余韻を感じることができた。

なぜ「私」が悲劇に沈まずに済んだか。それは、「私」が施設で育てられた事も影響がある。
施設の運営者であるヤマネさんの人柄に救われ、社会のぬかるみで溺れずに済んだ「私」。
そこで施設を詳しく書かない事も本書の良さだ。
本書のテーマはあくまでも生きる意思なのだから。そこに施設の存在が大きかったとはいえ、施設を描くとテーマが社会に拡がり、薄まってしまう。

生きる意思は、対極にある体験を通す事で、よりくっきりと意識される。実の親に放置され、いくつもの里親のもとを転々とした経験。中には始終虐待を加えた親もいた。
その挙句、どこかの山中に生きたままで埋められる。
そんな「私」の体験が強烈な印象を与える。
施設に保護された当初は、呆然とし、現実を認識できずにいた「私」。
恐怖を催す対象でしかなかった現実と徐々に向き合おうとする「私」の回復。生まれてから十数年、現実を知らなかった「私」の発見。

「私」が救われたのはヤマネさんの力が大きい。「私」がヤマネさんにあらためたお礼を伝えるシーンは、素直な言葉がつづられ、読んでいて気持ちが良くなる。
言葉を費やし、人に対してお礼を伝える。それは、人が社会に交わるための第一歩だ。

世間には恐怖も待ち受けているが、コミュニケーションを図って自ら歩み寄る人に世間は開かれる。そこに人の生の可能性を感じさせるのが素晴らしい。

ヤマネさんの手引きで実の父に会える機会を得た「私」は、直前で父に背を向ける。「僕は、土の中から生まれたんですよ」と言い、今までは恐怖でしかなかった雑踏に向けて一歩を踏み出す。

生まれた環境は赤ん坊には一方的に与えられ、変えられない。だが、育ってからの環境を選び取れるのは自分。そんなメッセージを込めた見事な終わりだ。

本書にはもう一編、収められている。
『蜘蛛の声』

本編の主人公は徹頭徹尾、現実から逃避し続ける。
仕事から逃げ、暮らしから逃げ、日常から逃げる。
逃げた先は橋の下。

橋の下で暮らしながら、あらゆる苦しみから目を背ける。仕事も家も捨て、名前も捨てる。

ついには現実から逃げた主人公は、空想の世界に遊ぶ。

折しも、現実では通り魔が横行しており、警ら中の警察官に職務質問される主人公。
現実からは逃げきれるものではない。

いや、逃げることは、現実から目を覆うことではない。現実を自分の都合の良いイメージで塗り替えてしまえばよいのだ。主人公はそうやって生きる道を選ぶ。

その、どこまでも後ろ向きなテーマの追求は、表題作には見られないものだ。

蜘蛛の糸は、地獄からカンダタを救うために垂らされるが、本編で主人公に届く蜘蛛の声は、何も救いにはならない。
本編の読後感も救いにはならない。
だが、二編をあわせて比較すると、そこに一つのメッセージが読める。

‘2019/7/21-2019/7/21


声の狩人 開高健ルポルタージュ選集


著者を称して「行動する作家」と呼ぶ。

二、三年前、茅ヶ崎にある開高健記念館に訪れた際、行動する作家の片鱗に触れ、著者に興味を持った。

著者は釣りやグルメの印象が強い。それはおそらく、作家として円熟期に入ったのちの著者がメディアに出る際、そうした側面が前面に出されたからだろう。
だが、行動する作家、とは旅する作家と同義ではない。

作家として活動し始めた頃、著者はより硬派な行動を実践していた。
戦場で敵に囲まれあわや全滅の憂き目をみたり、東西陣営の前線で世界の矛盾を体感したり。あるいはアイヒマン裁判を傍聴してで戦争の本質に懊悩したり。

著者は、身の危険をいとわずに、世界の現実に向き合う。
書物から得た観念をこねくり回すことはしない。
自らは安全な場所にいながら、悠々と批判する事をよしとしない。
著者の行動する作家の称号は、行動するがゆえに付けられたものなのだ。

そうした著者の姿勢に、今さらながら新鮮なものを感じた。
そして惹かれた。
安全な場所から身を守られつつ、ブログをかける身分である自分を自覚しつつ。
いくら惹かれようとも、著者と同じように戦場の前線に赴くことになり得ない事を予感しつつ。

没後30年を迎え、著者の文学的な業績は過去に遠ざかりつつある。
ましてや、著者の行動する作家としての側面はさらに忘れられつつある。
だが、冷戦後の世界が再び動き出そうとする今だからこそ、冷戦の終結を見届けるかのように逝った行動する作家としての姿勢は見直されるべきと思うのだ。

冷戦が終わったといっても、世界の矛盾はそのままに残されている。
ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が崩され、東西ドイツや南北ベトナムが統一された以外は何も変わっていない。
朝鮮は南北に分断されたままであり、強大な国にのし上がった中国を統治するのは今もなお共産党だ。
ロシア連邦も再び強大な国家に復帰する機会を虎視眈々と狙っている。
そもそも、イスラム世界とキリスト世界の間が相互で理解し合うのがいつの日だろう。パレスチナ国家をアラブの国々が心から承認する日はくるのだろう。ドイツで息を吹き返しつつあるネオナチはナチス・ドイツの振る舞いを拒絶するのだろうか。
誰にも分からない。

それどころか、アメリカは世界の警察であることに及び腰となっている。日韓の間では関係が悪化している。EUですらイギリスの離脱騒ぎや、各国の財政悪化などで手一杯だ。
世界がまた混迷に向かっている。

冷戦後、いっときは平穏に見えたかのような世界は実は休みの時期に過ぎなかったのではないか。実は何も解決しておらず、世界の矛盾は内で力を蓄えていたのではないか。
その暗い予感は、わが国の活力が失われ、硬直している今だからこそ、切実に迫ってくる。
次に世界が混乱した時、日本は果たして立ち向かえるのだろうか、という恐れが脳裏から去らない。

本書は著者が旅先でたひりつくような東西の矛盾がぶつかり合う現場や、アイヒマン裁判を傍聴して感じたこと、などを密に描いたルポルタージュ集だ。

「一族再会」では、死海の過酷な自然から、この土地の絶望的な矛盾に思いをはせる。
古来、流浪の運命を余儀なくされたユダヤ民族は、苛烈な迫害も乗り越え、二千数百年の時をへて建国する。
生き残ることが至上命令と結束した民族は強い。
自殺者がすくないのも、そもそも自殺よりも差し迫った悩みが国民を覆っているから。
著者の筆はそうした本質に迫ってゆく。

「裁きは終わりぬ」では、アイヒマン裁判を傍聴した著者が、600万人の殺人について、官僚主義の仮面をかぶって逃避し続けるアイヒマンに、著者は深刻に悩み抜く。政治や道徳の敗北。哲学や倫理の不在。
アイヒマンを皮切りに、ナチスの戦犯のうち何人かはニュルンベルクで判決を受けた。だが、ヒトラーをはじめとした首脳は裁きの場にすら現れなかった。
一体、何が裁かれ、何が見過ごされたのか。
著者はアイヒマンを絞首刑にせず生かしておくべきだったと訴える。
顔に鉤十字の焼き印を押した生かしておけば、裁きの本質にせまれた、とでもいうかのように。

「誇りと偏見」は、ソ連へ旅の中で著者が感じ取ろうとした、核による終末の予感だ。
東西がいつでも相手を滅ぼしうる核兵器を蓄えてる現実。
その現実の火蓋を切るのは閉鎖されたソ連なのか。そんな兆しを著者は街の空気から嗅ぎ取ろうとする。
ステレオタイプな社会主義の印象に目をくらまされないためにも、著者は街を歩き、自分の目で体感する。
今になって思うと、ソ連からは核兵器の代わりの放射能が降ってきたわけだが、そうした滅びの終末観が著者のルポからは感じられる。

「ソヴェトその日その日」は、終末のソ連ではなく、より文化的な側面を見極めようとした著者の作家としての好奇心がのぞく。
共産主義の教条のくびきが解けようとしているのではないか。暗く陰惨なスターリンの時代はフルシチョフの時代をへて過去となり、新たなスラヴの文化の華が開くのではないか。
著者の願いは、アメリカが主導する文化にNOを突きつけたいこと、というのはわかる。
だが、数十年後の今、スラヴ文化が世界を席巻する兆しはまだ見えていない。

「ベルリン、東から西へ」でも、著者の文化を比較する視点は鋭さを増す。
東から西へと通過する旅路は、まさに東西文化に比較にうってつけ。今にも東側を侵そうとする西の文化。
その衝突点があからさまに国の境目の証となってあらわれる。
それでいながらドイツの文化と民族は同じであること。著者はここで国境とはなんだろうか、と問いかける。
文化を愛する著者ゆえに、不幸な断絶が目につくのだろうか。

「声の狩人」は、ソ連を横断してパリに着いた著者が、花の都とは程遠いパリに寒々しさを覚える。
アルジェリア問題は激しさを増し、米州機構反対デモが殺伐とした雰囲気をパリに与えていた。
実は自由を謳歌するはずのパリこそが、最も矛盾の渦巻く場所だったという、著者の醒めた観察が余韻を与える。
結局著者は、あらゆる幻想を拒んでいた人だったのだろう。

「核兵器 人間 文学」は、大江健三郎氏、そして著者とともに東欧を訪問した田中 良氏による文だ。
三人でフランスのジャン・ポール・サルトルに質問を投げかける様が描かれる。
ジャン・ポール・サルトルは、のちにノーベル文学賞を受賞するも、辞退した硬骨の人物として知られる。
ただ、当代一の碩学であり、時代の矛盾を人一番察していたサルトルに二人に作家が投げかける質問とその答えは、どこか食い違っている感が拭えない。
この点にこそ、東西の矛盾が最も表れているのかもしれない。

「サルトルとの四十分」は、そのサルトルとの会談を振り返った著者にる感想だ。
パリに来るまでソ連を訪れ、その中で左翼陣営の夢見た世界とは程遠い現実を見た著者と、西洋文化を体現するフランスの文化のシンボルでもあるサルトルとの会談は、著者に埋めようもない断絶を感じさせたらしい。
日本から見た共産主義と、フランスから見た共産主義の何が違うのか。
それが西洋人の文化から生まれたかどうかの差なのだろうか。
著者の戸惑いは今の私たちにもわずかに理解できる。

「あとがき」でも著者の戸惑いは続く。
本書に記された著者の見た現実が、時代の流れの速さに着いていけず、過去の出来事になってしまったこと。
その事実に著者は卒直に戸惑いを隠さない。

そうした著者の人物を、解説の重里徹也氏は描く。
「開高がしきりにのめりこんでいくのは、こういう、現実と理想の狭間に生まれる襞のようなものに対してである」(239ページ)

ルポルタージュとは、そうした営みに違いない。

‘2018/11/1-2018/11/2


時が滲む朝


日本語を母語としない著者が芥川賞を受賞するのは初めてのことらしい。そのためか、本書には「ん?」と感じる表現が散見される。そうした表現は日本語の文章ではあまり見られない。それは中国で生まれ育った著者が、生まれながらにして日本語を使いこなしていないからだろう。でも、それもまた著者の文体だ。そう思えば気にならないし、むしろ独特の色合い、個性だと思えばよい。

それよりも本書で浮いているのは馬先輩が挟む英語だ。著者は馬先輩の凡人ぶりを際立たせるために、このような英語表言を挟み込んだのだろうか。明らかに本書の中では浮いてしまっている。

そうした点を除けば、本書はとても読みやすい。特に、私のような第二次ベビーブーム世代には、尾崎豊の登場だけで共感できると思う。

本書は、理想に燃えた若者が成長し、世間の流れに飲み込まれて行く様子が描かれる。舞台は中国。本書でいう燃える理想とは、中国の民主化だ。理想に燃えた青年たちが、親となって生活に追われ、本書の主人公のように中国を出て、異国で過ごす日々で、世間の中に紛れてゆく姿。そうした姿を著者は同じ時代を生きた人として見つめ、小説に著した。

一方でわが国だ。すでに時代や世代の精神なる言葉は聞かれなくなって久しい。私たちの世代に戦争はすでに遠い。学生運動すら、生まれる前後には下火になっていた。つまり、理想として掲げる対象がなかった。そんな中で青年の前半生を送ったのが私たちだ。

例えば私が第二次ベビーブーム世代を代表する何かを書こうとしたとする。ところが見事なまでに空っぽだ。無理もない。オイルショックがあったとはいえ、日本の経済成長はすでに十分な繁栄を私たちに与えてくれた。泡が弾けるまで好景気を満喫する日々。電化製品が色と音を弾けさせる街中。ゲームはよりどりみどり。いくつもあるテレビチャンネルが、好きなだけただで番組を見せてくれる。食い物や飲み物にも事欠かない。そんな日々のどこに若者が不満を抱えるというのか。せいぜい、オウム真理教で心の充足をうたう組織のおぞましさや、阪神・淡路大震災で世界の不安定さにおののくぐらいが関の山だろう。

ところが著者の世代には、書かねばならないテーマ(国の民主化)と事件(天安門事件)があった。それはある意味ではうらやましい。

少なくとも文学の材料として、日本の若者には共通の理想は掲げにくい。ところが、隣の中国には描くべき現実、掲げるべき理想が山のようにあった。共産党の一党独裁、地方の貧しさ、文化大革命の余韻。キリがない。そんな若者たちが民主化を求める声は、天安門事件において頂点にに達した。

私は当時、高校生になったばかり。どういうきっかけかは忘れたが、天安門事件に強烈な興味を持った。日々の新聞で天安門事件に関する記事を全て切りぬき、スクラップブックに貼り付けた。多分、スクラップブックは今でも実家の部屋に置いてあるはず。私にとって、天安門事件こそが、リアルタイムで最初に興味を持った国際的な事件だった。毎日飛び込んでくる衝撃のニュースに興奮し、新聞を隅から隅まで読み込む。リアルタイムで日々のニュースを熟読したのは、天安門事件が最初で最後だろう。だからこそ、本書で描かれた天安門事件は、私にとって共感の対象となった。

本書でもう一つ、第二次ベビーブーム世代にとって心惹かれる要素がある。それは尾崎豊だ。代表曲「I Love You」が本書ではキーとなる。テレサ・テンの歌声に陶酔し、成長した主人公だが、本書の後半では尾崎豊の「I Love You」に心を鷲掴みにされる。

中国の若者が掲げた理想への思いが、尾崎豊を通して日本で暮らす若者に届く。それは日本からの視点では生まれにくい発想だ。著者ならでは、といえよう。だが、著者が本書で描いたことによって、あらためて尾崎豊の存在とはなんだったのか、という疑問に考えが及ぶ。そこで思うのが、尾崎豊こそは、上にも書いた世代の精神を歌い上げた人ではなかっただろうか。衣食住が満たされ、あり余るモノに囲まれた日本の若者は何に理想を求めたか。それは管理からの脱出だ。退屈な授業と受験勉強。やっとの事でそれを突破したら、待っているのは定年まで続く組織での日々。しかももれなく通勤ラッシュがついてくる。尾崎豊は高度成長期の日本の若者ならではの現実のつまらなさと目指すべき理想を歌に乗せ、カリスマとなった。

主人公とその親友は本書の中で二狼とあだ名をつけられる。つまりオオカミだ。本書にはオオカミと豚の比喩も現れる。豚にはなるな、オオカミであれ、と。そのフレーズは明らかに尾崎豊の『Bow!』からの引用だろう。私が好きな尾崎豊の曲の一つだ。その曲の中で尾崎豊はこう叫んでいる。

鉄を喰え 飢えた狼よ
死んでもブタには 喰いつくな

私は二十三才のある日、一日中、尾崎豊の「シェリー」を聴いて過ごしたことがある。青年が襲われる理想と現実のギャップに、心の底から悩みながら。その時にも、その後にも尾崎豊の詩には何度も奮い立たされてきた。上に引用した「Bow!」もその一つ。どう生きたいのか、どう生きねばならないのか。中年になった今でもその理想は忘れられない。

本書に登場する尾崎豊の歌詞は「I Love  You」だけだ。でも、オオカミと豚のくだりは、私にとっては完全に「Bow!」を連想させる。だからこそ私は本書は本書に共感が持てた。そして、中国の若者が理想を求めた気持ちもわずかながらでも理解できる。天安門事件の当時、私はまだ真面目に授業を受けていた。そして尾崎豊にはそれほど惹かれていなかった。だが、天安門事件に特に興味を惹かれた私には、理想を求める気持ちが少しずつ芽吹きはじめたのだろう。後年、私を助けてくれることになる尾崎豊の掲げた理想。そして中国の若者が抱く理想。それらが本書において時代の精神として結晶し、尾崎豊の歌として提示されている。その結晶の成長は、私自身の精神の成長にリンクしている。だからこそ、三十年近くたった今でも、本書に共感できるのだと思う。当時を思い返しながら。

もちろん、理想とは実現できないからこそ理想だ。本書の登場人物たちもそのことを理解しつつ年を重ねる。主人公は、自分を慕ってくれていた中国残留孤児で日本に戻った女性と結婚する。そして日本で苦労しながらパソコンを覚え、生活の糧を得る。二狼と称されたもう片方は、中国に残ってデザイン会社を立ち上げる。彼も理想や革命を語るよりも、いまや経営のためにはカワイイデザインを手がけることも辞さない。二人の師はフランスに亡命し、理想をともに掲げていた同志もアメリカやフランスに亡命し、それぞれが生きてゆくための糧を稼ぐことに必死だ。私もそう。ようやく40歳を過ぎて独立は果たしたものの、営んでいることは資本主義の一つの歯車に過ぎない。

理想と現実のギャップに苦しんだ今だからこそ言えるが、数年前に若者が立ち上げたSEALDsも、たしかに主張の空虚さはあったにせよ、世の中を変えたいとの熱意は理解できる。むしろ、若者とは理想を求めて当然の存在なのだ。そして現実の手ごわさに悩み、挫折する。だが、現実の高い壁に跳ね返されたのなら、より穏健な方法で少しずつ世の中を変えていけばよいだけのこと。いまの保守系の重鎮たちの昔を見てみるがいい。かつて左向きの主張にのめり込んでいた人間のどれだけ多いことか。

世の中の流れに乗るふりをして、心の中のオオカミを忘れなければいい。私はそうやって中年の今も人生に折り合いをつけている。本書の主人公たちもそう。国が異なろうとも、理想は持ち続ける。それが青年の美しさなのだから。

‘2018/09/17-2018/09/19


バベル九朔


著者の作品の魅力とは、異世界をうまく日常に溶け込ませることにある。しかも異世界と現実をつなぐ扉を奇想天外で、かつ映像に映えるような形で設定するのがうまい。

関西の三都、そして奈良や滋賀を舞台とした一連の著者の作品は、どこも私の良く知る場所なだけに著者の発想を面白くとらえられた。

本書はそうした場所の縛りがない。おそらく、関東のどこかと思われる。どこかは分からないが、鉄道の駅のすぐそばに建つ古びた雑居ビルが本書の舞台だ。主人公は親族の残した遺産であるこのビルの管理人をしている。20台半ばでサラリーマンを辞め、作家を志望しつつ、日々小説を書く。時間に自由が利くこの仕事にうまい具合にありつき、日々を満喫している。

5階建ての雑居ビルは、祖父が建てたもの。歴史のあるこのビルの歴代のテナントは野心的なコンセプトの店が多い。なぜかは知らないが、祖父はそういうお店を積極的に入れるようにしていたのだとか。なので店子の入れ替わりが激しい。今の店は以下のテナントで構成されている。
地下一階「SNACK ハンター」
一階「レコ一」
二階「清酒会議」・・双見
三階「ギャラリー蜜」・・蜜村
四階「ホーク・アイ・エージェンシー」・・四条

本書の冒頭にはカラスが登場する。カラスといえば雑居ビルにはふさわしい存在だ。そして、カラスが本書の肝となって物語を動かしてゆく。カラスのような面相の女と、謎の男たちがバベル九朔に侵入し、狼藉を働く。やがて管理人である主人公の周りにも、そしてビルのあちこちにも怪しげなきざしが満ち始める。主人公の管理の範囲をはみ出し、ビルに歪みが生じ始める。そして異世界への扉が開く。

本書が描く異世界は、今までの著者の作品の中でも異質だ。今までの著者の作品は、現実の大阪や京都、奈良や滋賀に異質な世界が密かに浸してゆく構成だった。その時、登場人物たちはあくまでも現実側の人間でありつづけた。しかし本書は違う。本書は主人公が異世界の中に入り込む。だから、本書の現実の舞台は、どこかが曖昧に描かれる。どこかの鉄道駅のそばの雑居ビル、という事しかわからぬバベル九朔。現実の世界はそのビルの中に限定される。関西の特徴的な都市に頼っていた今までの作品とは違う。

現実が曖昧に描かれている分、異世界の描写は非現実的な描写が色濃く描かれている。こちらの現実世界の法則や風景は望めない。どうやって異世界の風景や法則を描き出すか。おそらくは著者にとっても難しい挑戦だったと思う。だが、著者は本書において、現実との差異を見事に描いている。メビウスの輪のように堂々巡りする世界。坂を上った先に坂の下の景色がひらけ、坂を下ると坂の上の景色が見える世界。時間と空間が歪み、堂々巡りする光景。

その異世界は、作家を志望する主人公の妄想と願望を結び付けさらには祖父の残した秘密にも関わってくる。そのあたりの描写がうまいと感じる。なお、本作の奥付けで初めて知ったが、著者は作家としてデビューする前、実際に管理人の仕事をしていたという。どうりで管理人のリアルな業務が描けるわけだ。

上にも書いた通り、本書が特徴的なのは、日常の暮らしと奇想の世界の書き分けだ。現実の世界に住む主人公は、リアルな現実感覚の持ち主として描かれる。作家を志望しているが、実直な管理人。だからこそ、主人公の目から見た異世界は異常に映る。そのギャップがいい。

本書の各章のタイトルは、管理人の定例作業からつけられている。
第一章 水道・電気メーター検針、殺鼠剤配置、明細配付
第二章 給水タンク点検、消防点検、蛍光灯取り替え
第三章 階段掃き掃除、水道メーター再検針
第四章 巡回、屋上点検、巡回
第五章 階段点検
第六章 テナント巡回
第七章 避難器具チェック、店内イベント開催
第八章 大きな揺れや停電等、緊急時における救助方法の確認
第九章 バベル退去にともなう清算、その他雑務
終章  バベル管理人
これだけを読むと、本書は何やらつまらなそうな内容に思えてしまう。だが、逆で面白く仕上がっていることは言うまでもない。

むしろ、ここに挙げた管理人の仕事が、異世界が現実を侵食する様子に一致しており、ここでも現実と異世界の描写がうまく書き分けられている事を感じる。どうやって描いているかは、本書を読んでいただくとして、その一致を楽しむと良いだろう。現実の世界の裏側には、常に幻想の世界が控えている。

今までの関西の諸都市を舞台に小説を発表してきた著者が、本書において新たな道を切り開いたことをうれしく思う。それは読書人の特権である、新たな世界への期待であるからだ。

著者はこれからどういう方向に進んでいくのだろう。幻想作家の道を選ぶのだろうか。それとも伝奇小説の分野に新境地を見いだすのだろうか。私にはわからない。だが、本書は著者にとって新たなきっかけとなるように思える。引き続き、新刊が出たら読みたいと思える作家の一人だ。


資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ


誰だって若い頃は理想主義者だ。理想に救いをもとめる。己の力不足を社会のせいにする時。自分を受け入れない苦い現実ではなく己の望む理想を望む誘惑に負けた時。なぜか。楽だから。

若いがゆえに知識も経験も人脈もない。だから社会に受け入れられない。そのことに気づかないまま、現実ではなく理想の社会に自分を投影する。そのまま停滞し、己の生き方が社会のそれとずれてゆく。気づいた時、社会の速さと向きが自分の生き方とずれていることに気づく。そして気が付くと社会に取り残されてしまう。かつての私の姿だ。

私の場合、理想の社会を望んではいたが、現実の社会に適応できるように自分を変えてきた。そして今に至っている。だから当初は、資本主義社会を否定した時期もあった。目先の利益に追われる生き方を蔑み、利他に生きる人生をよしとした時期が。利他に生きるとは、人々が平等である社会。つまり、綿密な計画をもとに需要と供給のバランスをとり、人々に平等に結果を配分する共産主義だ。

ところが、共産主義は私の中学三年の時に崩壊した。その後、長じた私は上京を果たした。そして社会の中でもがいた。その年月で私が学んだ事実。それは、共産主義の理想が人類にはとても実現が見込めないことだ。すべての人の欲求を否定することなどとてもできないし、あらゆる局面で無限のパターンを持つ経済活動を制御し切れるわけがない。しょせん不可能なのだ。

人の努力にかかわらず結果が平等になるのであれば、人はやる気をなくすし向上心も失われる。私にとって受け入れられなかったのは、向上心を否定されることだ。機会の平等を否定するつもりはないが、結果の平等が前提であれば話は別。きっと努力を辞めてしまうだろう。そう、努力が失われた人生に喜びはない。生きがいもない。それが喪われることが私には耐えがたかった。

また、私は自分の中の欲求にも勝てなかった。私を打ち負かしたのは温水洗浄便座の快適さだ。それが私の克己心を打ちのめした。人は欲求にはとても抗えない、という真理。この真理に抗えなかったことで、私は資本主義とひととおりの和解を果たしたのだ。軍門に下ったと言われても構わない。

東京で働くにつれ、自分のスキルが上がってきた。そして理想の世界に頼らず、現実の世界に生きるすべを身につけた。ところが、私が求めてやまない生き方とは、日常の中に見つからなかった。スキルや世過ぎの方法、要領は身についたが、それらは生き方とは言わない。私は生き方を日々の中にどうしても見つけたかった。それが私のメンタリティの問題なのだということは頭では理解していても、実際に社会の仕組みに組み込まれることへの抵抗感が拭い去れない。それは日々の通勤ラッシュという形で私に牙をむいて襲い掛かってきた。

果たしてこの抵抗感は私の未熟さからくる甘えなのか。それともマズローの五段階欲求でいう自己実現の欲求に達した自分の成長なのか。それを見極めるには資本主義をより深く知らねばならない、と思うようになってきた。資本主義とは果たして人類がたどり着いた究極なのだろうか、という問いが私の頭からどうしても去らない。社会と折り合いをつけつつ糧を得るために、個人事業主となり、法人化して経営者になった今、ようやく社会の中に自分の生き方を溶け込ませる方法が見えてきた。自分と社会が少しだけ融けあえたような感覚。少なくともここまで達成できれば、逃げや甘えと非難されることもないのでは、と思えるようになってきた。

それでもまだ欲しい。資本主義の極意が何で、どう付き合っていけばよいかという処方箋が。私にとって資本主義とは自らと家族の糧を稼ぐ手段に過ぎない。今までは対症療法的なその場しのぎの対応で生きてきたが、これからどう生きれば自らの人生と社会の制度とがもっともっと和解できるのか。その疑問の答えを本書に求めた。

著者の履歴はとてもユニーク。高校時代は共産主義国の東欧・ソ連に留学し、大学の神学部では神について研究し、外務省ではソ連のエキスパートとして活躍した。そのスケールの大きさや意識の高さは私など及びもつかない。しかし一つだけ私に共通していると思えることが、理想を目指した点だ。神や共産主義といったテーマからは、資本主義に飽き足らない著者の姿勢が見える。さらに外交の現場で揉まれた著者は徹底的なリアリストの視点を身に着けたはず。理想の甘美も知りつつ、現実を冷徹に見る。そんな著者が語る資本主義とはどのようなものなのか。ぜひ知りたいと思った。

本書は資本主義を語る。資本主義の中で著者が焦点を当てるのは、日本で独自に根付いた資本主義だ。「私のマルクス」というタイトルの本を世に問うた著者がなぜ資本主義なのか。それは著者の現実的な目には資本主義がこれからも続くであろうことが映っているからだ。私たちを縛る資本主義とは将来も付き合わねばならないらしい。資本主義と付き合わねばならない以上、資本主義を知らねばならない。それも日本に住む以上、日本に適応した資本主義を。もっとも私自身は、資本主義が今後も続くのかという予想については、少し疑問をもっている。そのことは下で触れたい。

著者はマルクスについても造詣が深い。著者は、マルクスが著した「資本論」から発展したマルクス経済学の他に、資本主義に内在する論理を的確に表した学問はないと断言する。私たちは上に書いた通り、共産主義国家が実践した経済を壮大な失敗だと認識している。それらの国が採用した経済体制とは「マルクス主義経済学」を指し、それは資本主義を打倒して共産主義革命を起こすことに焦点を与えていると指摘する。言い添えれば統治のための経済学とも言えるだろう。一方の「マルクス経済学」は資本主義に潜む論理を究明することだけが目的だという。つまりイデオロギーの紛れ込む余地が薄い。著者は中でも宇野弘蔵の起した宇野経済学の立場に立って論を進める。宇野弘蔵は日本に独自に資本主義が発達した事を必然だと捉える。西洋のような形と違っていてもいい。それは教条的ではなく、柔軟に学問を捉える姿勢の表れだ。著者はそこに惹かれたのだろう。

この二点を軸に、著者は日本にどうやって今の資本主義が根付いていったのかを明治までさかのぼって掘り起こす。

資本主義が興ったイギリスでは、地方の農地が毛織物産業のための牧場として囲い込まれてしまった。そのため、追い出された農民は都市に向かい労働者となった。いわゆるエンクロージャーだ。ただし、日本の場合は江戸幕府から明治への維新を通った後も、地方の農民はそのまま農業を続けていた。なぜかというと国家が主導して殖産興業化を進めたからだ。つまり民間主導でなかったこと。ここが日本の特色だと著者は指摘する。

たまに日本の規制の多さを指して、日本は成功した社会主義国だと皮肉交じりに言われる。そういわれるスタートは、明治にあったのだ。明治政府が地租を改正し、貨幣を発行した流れは、江戸時代からの年貢という米を基盤とした経済があった。古い経済体制の上に政府主導で貨幣経済が導入されたこと。それが農家を維持したまま、政府主導の経済を実現できた明治の日本につながった。それは日本の特異な形なのだと著者はいう。もちろん、政府主導で短期間に近代化を果たしたことが日本を世界の列強に押し上げた理由の一つであることは容易に想像がつく。

西洋とは違った形で根付いた資本主義であっても、資本主義である以上、景気の波に左右される。その最も悪い形こそが恐慌だ。第二章では日本を襲った恐慌のいきさつと、それに政府と民間がどう対処したかを紹介しつつ、日本に特有の資本主義の流れについて分析する。

宇野経済学では恐慌は資本主義にとって欠かせないプロセス。景気が良くなると生産増強のため、賃金が上がる。上がり過ぎればすなわち企業は儲からなくなる。設備はだぶつき、商品は売れず、企業は倒産する。それを防ぐには人件費をおさえるため、生産効率をあげる圧力が内側から出てくる。その繰り返しだという。

私が常々思うこと。それは、生産効率が上昇し続けるスパイラル、との資本主義の構造がはらんだ仕組みとは幻想に過ぎず、その幻想は人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティによって終止符を打たれるのではないかということだ。言い換えれば人類という労働力が経済に要らなくなった時、人工知能によって導かれる経済を資本主義経済と呼べるのだろうか、との疑問だ。その問いが頭から去らない。生産力や賃金の考えが経済の運営にとって必須でなくなった時、景気の波は消える。そして資本すら廃れ、人工知能の判断が全てに優先される社会が到来した時、人類が排除されるかどうかは分からないが、既存の資本主義の概念はすっかり形を変えるはずだ。あるいは結果の平等、つまり共産主義社会の理想とはその時に実現されるのかもしれない。または著者や人類の俊英の誰もが思いついたことのない社会体制が人工知能によって実現されるかもしれないという怖れ。ただそれは本書の扱うべき内容ではない。著者もその可能性には触れていない。

国が主導して大銀行や大企業が設立された経緯と、日本が日清・日露を戦った事で、海外進出が遅れた事情を書く海外進出の遅れにより、日本の資本主義の成長に伴う海外への投資も活発にならなかった。その流れが変わったのが第一次大戦後だ。未曽有の好景気は、大正デモクラシーにつながった。だが、賃金の上昇にはつながらなかった。さらに関東大震災による被害が、日本の経済力では身に余ったこと。また、ロシア革命によって共産主義国家が生まれたこと。それらが集中し、日本の資本主義のあり方も見直さざるを得なくなった。我が国の場合、資本主義が成熟する前に、国際情勢がそれを許さなかった、と言える。

社会が左傾化する中、国は弾圧をくわえ、海外に目を向け始める。軍が発言力を強め、それが満州事変から始まる十五年の戦争につながってゆく。著者はこの時の戦時経済には触れない。戦時経済は日本の資本主義の本質を語る上では鬼っ子のようなものなのかもしれない。また、帝国主義を全面に立てた動きの中では、景気の循環も無くなる、と指摘する。そして恐慌から立ち直るには戦争しかないことも。

意外なことに、本書は敗戦後からの復興について全く筆を割かない。諸外国から奇跡と呼ばれた高度経済成長の時期は本書からスッポリと抜けている。ここまであからさまに高度経済成長期を省いた理由は本書では明らかにされない。宇野経済学が原理論と段階論からなっている以上、第二次大戦までの日本の動きを追うだけで我が国の資本主義の本質はつかめるはず、という意図だろうか。

本書の最終章は、バブルが弾けた後の日本を描く。現状分析というわけだ。日本の組織論や働き方は高度経済成長期に培われた。そう思う私にとって、著者がこの時期をバッサリと省いたことには驚く。今の日本人を縛り、苦しめているのは高度経済成長がもたらした成功神話だと思うからだ。だが、著者が到達した日本の資本主義の極意とは、組織論やミクロな経済活動の中ではなく、マクロな動きの中にしかすくい取れないのだろうか。

本書が意図するのは、私たちがこれからも資本主義の社会を生きる極意のはず。つまり組織論や生き方よりも、資本主義の本質を知ることが大切と言いたいのだろう。だから今までの日本の資本主義の発達、つまり本質を語る。そして高度成長期は大胆に省くのではないか。

グローバルな様相を強める経済の行く末を占うにあたり、アベノミクスやTPPといった問題がどう影響するのか。著者はそうした要素の全てが賃下げに向かっていると喝破する。上で私が触れた人工知能も賃下げへの主要なファクターとなるのだろう。著者はシェア・エコノミーの隆盛を取り上げ、人と人との関係を大切に生きることが資本主義にからめとられない生き方をするコツだと指南する。そしてカネは決して否定せず、資本主義の内なる論理を理解したうえで、急ぎつつ待ち望むというキリスト教の教義にも近いことを説く。

著者の結論は、今の私の生き方にほぼ沿っていると思える。それがわかっただけでも本書は満足だし、私がこれから重きを置くべき活動も見えてきた気がする。

‘2017/11/24-2017/12/01


夜明け前のセレスティーノ


著者もまた、寺尾氏による『魔術的リアリズム』で取り上げられていた作家だ。私はこの本で著者を初めて知った。寺尾氏はいわゆるラテンアメリカにの文学に花開いた\”魔術的リアリズム\”の全盛期に優れた作品を発表した作家、アレホ・カルペンティエール、ガブリエラ・ガルシア=マルケス、ファン・ルルフォ、ホセ・ドノソについては筆をかなり費やしている。だが、それ以降の作家については総じて辛口の評価を与えている。ところが著者については逆に好意的な評価を与えている。私は『魔術的リアリズム』で著者に興味を持った。

著者は共産主義下のキューバで同性愛者として迫害されながら、その生き方を曲げなかった人物だ。アメリカに亡命し、その地でエイズに罹り、最後は自殺で人生に幕を下ろしたエピソードも壮絶で、著者を伝説の人物にしている。安穏とした暮らしができず、書いて自らを表現することだけが生きる支えとなっていた著者は、作家として生まれ表現するために生きた真の作家だと思う。

本書は著者のデビュー作だ。ところがデビュー作でありながら、本書から受ける印象は底の見えない痛々しさだ。本書の全体を覆う痛々しさは並みのレベルではない。初めから最後まであらゆる希望が塗りつぶされている。私はあまりの痛々しさにヤケドしそうになり、読み終えるまでにかなりの時間を掛けてしまった。

本書は奇抜な表現や記述が目立つ。とくに目立つのが反復記法とでも呼べば良いか、いささか過剰にも思える反復的な記述だ。これが随所に登場する。これらの表記からは、著者が抱えていた闇の深さが感じられる。それと、同時にこう言った冒険的な記述に踏み切った著者の若さと、これを残らず再録し、修正させなかった当時の編集者の勇断にも注目したい。私は本書ほど奇抜で無駄に続く反復表現を読んだことがない。

若く、そして無限に深い闇を抱えた主人公。著者の半身であるかのように、主人公は虐げられている。母に殺され、祖父に殺され、祖母に殺され。主人公は本書において数限りなく死ぬ。主人公だけではない。母も殺され、祖父も殺され、祖母も殺される。殺され続ける祖母からも祖父からも罵詈雑言を投げつけられ、母からも罵倒される主人公。全てにおいて人が人として認められず、何もかもが虚無に漂い、無に吸い込まれるような救いのない日常。

著者のような過酷な人生を送っていると、心は自らを守ろうと防御機構を発動させる。そのあり方は人によってさまざまな形をとる。著者のように自ら世界を創造し、それを文学の表現として昇華できる能力があればまだいい。それができない人は自らの心を分裂させてしまう。例えば統合失調症のように。本書でも著者の母は分裂した存在として描かれる。主人公から見た母は二人いる。優しい母と鬼のごとき母。それが同一人格か別人格なのかは文章からは判然としない。ただ、明らかに同一人物であることは確かだ。同一人物でありながら、主人公の目に映る母は対象がぶれている。分裂して統合に失敗した母として。ここにも著者が抱えていた深刻な状況の一端が垣間見える。

主人公から見えるぶれた母。ぶれているのは母だけではない。世界のあり方や常識さえもぶれているのが本書だ。捉えどころなく不確かな世界。そして不条理に虐待を受けることが当たり前の日々。その虐待すらあまりにも当たり前の出来事として描かれている。そして虐待でありながら、無残さと惨めさが一掃されている。もはや日常に欠かせないイベントであるかのように誰かが誰かを殺し、誰かが誰かに殺される。倒錯し、混迷する世界。

過剰な反復表現と合わせて本書に流れているのは本書の非現実性だ。\”魔術的リアリズム\”がいう魔術とは一線を画した世界観。それは全てが非現実。カートゥーンの世界と言ってもよいぐらいの。不死身の主人公。決して死なない登場人物たち。トムとジェリーにおける猫のトムのように、ぺちゃんこになってもガラスのように粉々になっても、腹に穴が開いても死なない登場人物たち。それは\”魔術的リアリズム\”の掲げる現実とはかけ離れている。だからといって本書は子供にも楽しめるスラップスティックでは断じてない。なぜなら本書の根底に流れているのは、世界から距離をおかなければならないほどの絶望だからだ。

むしろ、これほどまでに戯画化され、現実から遊離した世界であれば、なおさら著者にとってのリアルさが増すのではないだろうか。だからこそ、著者にとっては本書の背景となる非現実の世界は現実そのものとして書かれなければならなかったのだと思う。そう思わせてしまうほど本書に書かれた世界感は痛ましい。それが冒頭にも書いた痛々しさの理由でもある。だがその痛々しさはもはや神の域まで達しているように思える。徹底的に痛めつけられ、現実から身を守ろうとした著者は、神の域まで自らを高めることで、現実を戯画化することに成功したのだ。

あとは、著者が持って生まれた同性愛の性向にどう折り合いをつけるかだ。タイトルにもあるセレスティーノ。彼は当初、主人公にとって心を許す友人として登場する。だが、徐々にセレスティーノを見つめる主人公の視点に恋心や性欲が混じりだす。それは社会主義国にあって決して許されない性向だ。その性向が行き場を求めて、セレスティーノとして姿を現している。現実は無慈悲で不条理。その現実を乗り切るための愛や恋すら不自由でままならない。セレスティーノに向ける主人公の思慕は、決して実らない。そしてキューバにあっては決して実ってはならない。だから本書が進むにつれ、セレスティーノはどんどん存在感を希薄にしてゆく。殺し殺される登場人物たちに混じって、幽霊のように消えたり現れたりするセレスティーノ。そこに主人公の、そして著者の絶望を感じる。

繰り返すが、私は本書ほどに痛々しい小説に出会ったことがない。だからこそ本書は読むべきだし、読まれなければならないと感じる。

‘2017/08/18-2017/08/24


民王


政治をエンターテインメントとして扱う手法はありだ。私はそう思う。

政治とは厳粛なまつりごと。今や政治にそんな幻想を抱く大人はいないはず。虚飾はひっぺがされつつある。政治とは普通のビジネスと同じような手続きに過ぎないこと。国民の多くはそのことに気づいてしまったのが、今の政治不信につながっている。かつてのように問題発生、立案、審議、議決、施行に至るまでの一連の手続きが国民に先んじている間はよかった。しかし今は技術革新が急速に進んでいる。政治の営みは瞬時に国民へ知らされ、国民の批判にさらされる。政治の時間が国民の時間に追いつかれたことが今の政治不信を招いている。リアルタイムに情報を伝えるスピードが意思決定のための速度を大幅にしのいでしまったのだ。今までは密室の中で決められば事足りた政策の決定にも透明さが求められる。かろうじて体裁が保てていた国会や各委員会での論議もしょせんは演技。そんな認識が国民にいき渡り、白けて見られているのが現状だ。

そんな状況を本書は笑い飛ばす。エンターテインメントとして政治を扱うことによって。例えば本書のように現職首相とその息子の人格が入れ替わってしまうという荒唐無稽な設定。これなどエンターテインメント以外の何物でもない。

本書に登場する政治家からは威厳すら剥奪されている。総理の武藤泰山だけでなく狩屋官房長官からも、野党党首の蔵本からも。彼らからは気の毒なほどカリスマ性が失われている。本書で描かれる政治家とはコミカルな上にコミカルだ。普通の社会人よりも下に下に描かれる。政治家だって普通の人。普通のビジネスマンにおかしみがあるように、政治家にもおかしみがある。

総理の息子である翔が、総理の姿で見る政治の世界。それは今までの学生の日々とも変わらない。自己主張を都合とコネで押し通すことがまかり通る世界。就職試験を控えているのにテキトーに遊んでいた翔の眼には、政治の世界が理想をうしなった大人の醜い縄張り争いに映る。そんな理想に燃える若者、翔が言い放つ論は政治の世界の約束事をぶち破る。若気の至りが政治の世界に新風を吹き入れる。それが現職総理の口からほとばしるのだからなおさら。原稿の漢字が読めないと軽んじられようと、翔の正論は政治のご都合主義を撃つ。

一方で、息子の姿で就職面接に望む泰山にも姿が入れ替わったことはいい機会となる。それは普段と違う視点で世間を見る機会が得られたこと。今まで総理の立場では見えていなかった、一般企業の利益を追うだけの姿勢。それは泰山に為政者としての自覚を強烈に促す。政治家の日々が、いかに党利党略に絡みとられ、政治家としての理想を喪いつつあったのか。それは自らのあり方への猛省を泰山の心に産む。

そして、大人の目から見た就職活動の違和感も本書はちくりと風刺する。面接官とて同じ大人なのに、なぜこうもずれてしまうのか。それは学生を完全に下にみているからだ。面接とは試験の場。試験する側とされる側にはおのずと格差が生まれる。それが就職学生に卑屈な態度をとらせ、圧迫面接のような尊大さを採る側に与える。本書で泰山は翔になりきって面接に臨み、就職活動のそうした矛盾に直面する。そして理想主義などすでに持っていないはずの泰山に違和感を与える。就職活動とは、大人の目からみてもどこか歪な営みなのだ。

本書に登場する政治家のセリフはしゃっちょこばっていない。その正反対だ。いささか年を食っているだけで、言葉はおやじの臭いにまみれているが、セリフのノリは軽い。だが、もはや虚飾をはがされた政治家にしかつめらしいセリフ回しは不要。むしろ本書のように等身大の政治家像を見せてくれることは政治の間口を広げるのではないか。政治家を志望する人が減る中、本書はその数を広げる試みとして悪くないと思う。

象牙の塔、ということばがある。研究に没頭する学者を揶揄する言葉だ。だが、議員も彼らにしかわからないギルドを形成していないだろうか。その閉鎖性は、外からの新鮮な視線でみて初めて気づく。本書のようにSFの設定を持ち込まないと。そこがやっかいな点でもある。

それらについて、著者が言いたかったことは本書にも登場する。それを以下に引用する。前者は泰山が自分を省みて発するセリフ。後者は泰山が訪れたホスピスの方から説かれたセリフ。

例えば306ページ。「政界の論理にからめとられ、政治のための政治に終始する職業政治家に成り下がっちまった。いまの俺は、総理大臣かも知れないが、本当の意味で、民の長といえるだろうか。いま俺に必要なのは、サミットで世界の首脳とまみえることではなく、ひとりの政治家としての立ち位置を見つめ直すことではないか。それに気づいたとたん、いままで自分が信じてきたものが単なる金メッキに過ぎないと悟ったんだ。いまの俺にとって、政治家としての地位も名誉も、はっきりいって無価値だ。」

322ページ。「自分の死を見つめる人が信じられるのは、真実だけなんです。余命幾ばくもない人にとって、嘘をついて自分をよく見せたり、取り繕ったりすることはなんの意味もありません。人生を虚しくするだけです」

政治とは扱いようによって人を愚人にも賢人にもする。政治学研究部の部長をやっていた私も、そう思う。

‘2017/04/10-2017/04/11


ひかりふる路~革命家、マクシミリアン・ロベスピエール/SUPER VOYAGER!


事前に本作を観ていた妻子から言われていたこと。それは「ロベピッピはパパも気に入ると思うよ」だった。なぜ本作をロベピッピと呼ぶのかはさておき、パパ向きの作品と太鼓判を押されていた本作。確かにおっしゃる通り見応えある作品だった。

本作の何がよかったか。それは、フランス革命にそれほど明るくない私に革命の流れを思い出させてくれたことだ。実のところ、本作を観るまで私がフランス革命について知っていた知識とは高校の世界史でならう程度。歴史は得意だったので、大まかな流れは覚えていたとはいえ、寄る年波がだんだん私の記憶を薄れさせていた。だが、年のせいにしていつまでも若いころの知識を更新しないのはさすがにまずい。なんといっても宝塚歌劇団とフランス革命は切っても切れない関係なのだから。ヅカファンの妻子とこれから仲良くやっていく以上、私もフランス革命の知識くらい持っておかないと。それぐらいは夫として父としての責務ではないか?

そもそも私は宝塚歌劇団の歴史を語る上で欠かせない『ベルサイユのバラ』を観劇していない。原作も読んだことがない。『ベルサイユのバラ』はフランス革命を真っ正面から扱っていたはず。なのにそれを見ていない。これはまずいかも。『ベルサイユのバラ』だけではない。私には舞台、小説、映画のどれかでフランス革命を真っ正面から扱った作品に触れた経験がないのだ。たとえば、私がおととし観た『スカーレット・ピンパーネル』やかつて読んだディケンズの『二都物語』。これらも側面からしかフランス革命を描いていない。また、かつてテレビで放映されていた『ラ・セーヌの星』も内容をろくに覚えていない始末。つまり私はフランス革命の最も熱い時期を扱った作品を知らない。目まぐるしく変わる情勢に人々が翻弄された時期こそフランス革命の肝だというのに。そう、本作こそは、私にとって「はじめてのフランス革命」となったのだ。

もう一つ、本作が私を引きつけた要素がある。それは、革命家の挫折をテーマとしていることだ。本作の主人公は、タイトルにもあるとおり、マクシミリアン・ロベスピエール。私の高校生と同じレベルの知識でもフランス革命の立役者として記憶に刻まれている人物だ。本作のパンフレットで作・演出の生田大和氏が語っている。「彼の人生を想う時、ごくシンプルな疑問として「理想に燃える青年」がなぜ「恐怖政治の独裁者」に堕していったのか」。このテーマは、理想主義にはまりかけた青年期を経験した私にとって身に覚えのあるものだ。

私のような凡人を例に出すまでもなく、歴史とは革命家の挫折の積み重ねだ。旧体制を打倒することに全精力を使い果たし、そのあとの国の仕組み構築に失敗する人物のいかに多かったことか。古くは項羽。彼は秦を倒したのち、ライバルの劉邦を戦いでこそ圧倒したが、人望に秀で内政に長けた劉邦に敗れた。ロシア革命は確かにロマノフ王朝を打倒した。が、レーニン亡き後、スターリンによる大粛清の時代が待ち受けている。中国共産党もそう。国共内戦の結果、国民党を台湾に追いやったはよいが、大躍進政策の失敗で幾千万人もの餓死者をだし、文化大革命では国内の文化を破壊せずにはいられなかった。キューバ革命も、革命のアイコンであるチェ・ゲバラが革命後どういう生涯を送ったか。彼は革命当初はカストロの右腕として内政を担当した。それはまさに孤軍奮闘が相応しい活躍だった。革命の理想に現実を近づける事業に疲弊した彼は、キューバを出奔してしまう。内政を諦めたゲバラはコンゴやボリビアでの革命闘争に自らの天命を捧げることになる。我が国でも同様の例はある。日本赤軍があさま山荘事件で破滅するまでの間、凄惨なリンチと自己批判の末に内部崩壊したことは記憶に新しい。革命後に国を運営することに成功したまれな例である我が国の明治維新ですら、維新後十年もたたずに内乱と暗殺によって維新の三傑のうち二人を失っているのだ。

乱世の梟雄でありながら、治世の能臣たり得ること。それが困難なことは上に挙げたように今までの歴史でも明らかだ。ロベスピエールもその困難を克服できなかった。彼は体制のクラッシャーとしては名をはせた。しかし、体制のクリエイターとしては失格の烙印を押されている。

そもそも、革命を軌道に乗せるためには、革命を支持した者への利害の調整が求められる。ただ旧体制の打倒とスローガンを掲げておけばよかった革命期とちがうのはそこだ。革命そのものよりも、革命後の治世こそ格段に難しい。そして、革命に掲げた自らの理想が高ければ高いほど、革命後の利害の調整にがんじがらめになってしまう。その結果、ロベスピエールが採ったような極端な恐怖政治の路線に舵を切ってしまうのだ。追い込まれれば追い込まれるほど、自分の理想こそが唯一無二であると殻をまとってしまう。そして視野は絶望的に狭くなる。本作はそのような状態に陥ってゆく人物の典型が描かれる。徐々に追い詰められ、自らの理想で首が絞まってゆくロベスピエールを通じて。

彼の抱く理想は、決して荒唐無稽なものではなかった。例えば、
 ロベスピエール「人にはそれぞれの心がある。そして心で憎み合い、争い、奪いあう。その連鎖を止める手立てを探している。その理を見つける事ができるなら、私は私の命を差し出しても惜しくない」
 マリー=アンヌ「それがあなたの理想なの?」
  ロベスピエール「いや、願いだ。願いは未来だ。理想は思い出と共にある」
第7場のこのやりとりで、ロベスピエールは自らの理想が過去にあることを図らずも吐露している。過去にあったことは、実現できた経験に等しい。「未来へ~」と合唱するマリー=アンヌとロベスピエールの願いは美しく響く。それはロベスピエールの理想が過去に実現されたもの、すなわち未来にかなうはずの願いだからこそ美しいのだ。

しかし、彼の理想は現実の前に色あせてゆく。第10場で盟友だったはずのダントンから投げられる言葉がそれを象徴している。
 ダントン「これだけは覚えておけ、俺たちは理想のために革命を始めた。だが、政治ってやつは俺たちが思っている以上に現実なんだ。現実の前では理想なんて無力なもんだ」
 ロベスピエール「無力だと」
このセリフなどは、先にも紹介した歴史上の革命家がたどった挫折そのままだ。

第13場Bの場面では、ダントンが最後にロベスピエールを説得しようとして、ロベスピエールの理想主義者としての致命的な弱点を暴く。
 ダントン「わかってないのはお前の方だ。理想だ、徳だと口では言うが、おまえが与えているのは血と生首と恐怖だ」
 ロベスピエール「今はそう見えるかもしれない。だが、革命が達成されればいずれ」
 ダントン「いいや、そんな日は来ない」
 ロベスピエール「なぜ、そう言いきれる」
 ダントン「おまえが喜びを知らないからだよ。どういうわけか、お前は喜びを遠ざける」
結局、人は理想よりも、目の前の美食や美酒、美女に目移りする生き物なのだ。清廉であろうとすればするほど、潔白であろうとすればするほど、それを人に強要した時に思い通りに動いてくれない他人と自分の思惑にずれが生じてゆく。上のダントンとの会話などまさにその事実を証明している。

なお、今回はこれらのセリフを本レビューで再現すべきだと思ったので、妻にお願いしてLe CINQという劇の詳しいパンフレットを買ってもらった。その中には全セリフが収められており、上記もそこから引用させてもらっている。

本作の何がよいかといえば、場面転換のメリハリだ。本作はセットとライトアップがうまく組み合わされており、場面が転換する瞬間と、前後の場面の主役が誰なのかを観客に明確に伝えることに成功している。今まで見た観劇よりも本作で場面転換の鮮やかさが印象に残った理由は何か。私が思うにそれは、本作のいたるところに描かれていたギロチンをかたどった斜めの線だと思う。開幕前に上がった緞帳の裏には、幕に銀色の筋が右上へと伸びていた。20度ほどの角度で右上に伸びる線がギロチンをかたどっていることはすぐにわかった。そしてこの線は建物のひさし、橋に映る影など、本作を通して舞台のあちこちで存在感を主張する。中でも印象に残るのは、上に紹介したロベスピエールとマリー=アンヌが語らうシーンだ。このシーンで二人が語らう橋に映る影として。それはロベスピエールの目指す革命がギロチンによって断ち切られることを予期しているのと同時に、二人の目指す未来が右肩上がりの線上にあることも示しているのだと思う。つまり、彼の目指す革命とは、この時点では実現が見込めており、二人の未来と表裏一体だったのだ。本作では場面ごとの主人公の心理が斜めによぎる線の色や輝きで表現されている。そのため、場面ごとに何に感情を移入すればよいのか、観客には絶妙なガイドになっているのだ。私はそう受け取った。私が本作の場面転換のメリハリが効いていたと思うのは、そういうところにある。

あと、本作で良かったのは声の通りだ。私が座ったのは1階22列。結構後ろのほうだ。それなのに出演者が発するセリフも、そして何十人もの合唱の言葉も比較的聞き取れた。実は私はあまり耳の聞こえが良くない。今までも観劇をしていて聞き取りにくいことなどしょっちゅうだった。が、本作のセリフはよく聞き取れた。これはとても珍しくそしてうれしい。上でLe Cinqからセリフを引用したのも、本作のセリフがよく聞き取れるがゆえにかえって覚えきれなかったことが理由だ。トップの二人の歌声も素晴らしく、それに加えてセリフもよく聞こえる本作は、私にとって気持ちのよい一作となった。

なお、トップ娘役の真彩希帆さんの演ずるマリー=アンヌは、作・演出の生田大和氏がパンフレットで語った言葉によると本作において唯一の架空の人物のようだ。何の不自由もない貴族の暮らしが革命の勃発によって婚約者ともども奪われ、その復讐のために革命の立役者として著名なロベスピエールを狙って近づくうちに恋に落ちるという設定だ。まさに絶妙な設定であり配役だと思う。上に挙げたシーンでは、ロベスピエールの望む理想の暮らしが、マリー=アンヌの失った日々にシンクロするという演出が施され、彼らの掲げる理想が実現する可能性が説得力をもって観客に迫ってきた。

本作は二幕物が好きな私にとって、一幕でも尺の短さが気にならないほど、起承転結がしっかりとまとまった作品として記憶に残ると思う。

さて、レビューである。私がこのところ宝塚を観劇する上で心がけていること。それはレビューの魅力に開眼することである。凄惨な処刑のシーンや悩み苦しむ主人公を見るだけでは観客のカタルシスが得られない。それは私もわかっているつもりだ。だからこそ一幕物の後にはレビューが配され、華麗なラインダンスや目まぐるしく切り替わるきらびやかなシーンで観客の目を奪わねばならない。それも理解しているつもりだ。

正直なところ、まだ舞台に物語性を求める私にとって「SUPER VOYAGER!」と名付けられた本作の魅力がつかみ取れたとは言えない。だが、私は本作を観る前から肝に銘じていたことがある。すなわちレビューに物語性を追うのが徒労だということだ。そういう物語性を排した視点から見ると、本作は二カ所が記憶に残った。一つ目はシーン17,18で披露された白燕尾の群舞のシーンだ。大階段を上り下りしながら、斜めに交差する動き。実に見事だったと思う。あと一つ印象に残ったこと。それはオーケストラボックスの演奏だ。本作で惹かれたのはここだ。リズム隊やギターなど、オーケストラボックスから流れる演奏にビートと切れがみなぎっていた。

私は演奏する姿を見るのが好きだ。ロックコンサートでもついついドラマーの一挙手一投足に目が行ってしまうくらいに。そんな私なので、キレっキレの本作の演奏が流れてくるオーケストラボックスの中をついのぞいてみたくなった。そしてオーケストラボックスの中の人々を表に出せないのだろうか、と妄想をたくましくしてしまった。もちろんオーケストラが表に出れば、舞台のジェンヌさんは隠れてしまう。それはほとんどの観客にとって不本意なことに違いない。多分、圧倒的多数の方に反対されるだろう。でも、オーケストラボックスを底上げするなどして、オーケストラの皆さんを表に出す演出もあってもいいではないか。一度くらい、舞台の華麗な群舞と歌、そして楽器を奏でる皆さんが一堂に集まる様を眺めてみたいと思うのだが。どうだろうか?

‘2018/02/01 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/hikarifurumichi/index.html


1Q84 BOOK 3


BOOK 1とBOOK 2で幻想は現実を蚕食し、過去と現在は和解されつつあった。BOOK 3である本書はそれらはどのように和解され続けるのだろうか。

お互いの存在を意識し、探し合うようになった青豆と天吾。二人がいかにして、どこでいつ出会うか。本書はそのすれ違いが摩擦を生み、それが摩擦熱となって過剰な現実を消し去っていく。

牛河は教団の依頼を受け、教祖暗殺犯である青豆を追う。潜伏する青豆は、性行為のないまま、受胎する。それはちょうど、天吾が父の療養所を訪ねた際、その療養所の看護婦と性行為を行ったタイミングに合致する。現実と幻想が融けあった瞬間である。

探し求める天吾の子であると固く信じ、潜伏先でお腹の子を慈しむ青豆。お互いの結晶であるそれは、いうまでもなく、現実と幻想の融和の象徴であり、その誕生と二人の再会は、物語の大団円を意味する。

BOOK 2でもすでにその饒舌を遺憾なく発揮していた牛河は、雑然とした現実の中でも、特に汚れた部分の体現者である。彼はその優れた実務能力を最大限に活用し、青豆の行動を追い続ける。その様は滑稽であり、戯画的である。現実と幻想の融和がテーマとなる本書の中で、牛河は何を表しているのだろう。それこそが過剰な現実というやつではないだろうか。

BOOK 1 のレビューで「茫洋としてつかみどころのない、見えないもの。現実の色に塗れず、むしろそこから遠ざかり零れ落ちる。そんな世界観を抱く氏の著作」と書いた。テーマを浮かび上がらせるため、1Q84の3作では現実に敢えて近づいた描写を見せた著者だが、雑多な日常には依然として関心が薄いように見える。著者の理想とする現実。それは幻想と融和しても違和感のない現実であろう。政治やITや喧噪といった現実は眼中にないのであろうし、大した価値も置いていないに違いない。牛河の偏執狂的な監視生活の描写を読むと、今の現代社会の余裕のなさを風刺したようにも読める。結果として牛河は、青豆の依頼を受けたタマルに苦しい死に様を強いられる。その死に様は見にくく、死後も教団によって事務的に死を取り扱われ、初めからいなかったかのように死体のまま台に放置される姿は哀れを誘う。

牛河の転落前の人生のヒトコマとして、中央林間の一戸建ての生活イメージが随所に挟まれる。著者が牛河を通じて提示した汚れた現実という価値観。平凡な人生の象徴である郊外のマイホームが、実は汚れた現実の発信源とでも言いたげな描写である。本書で示される幻想と融和する現実とは対極であり、私を含めたほとんどの読者にとって苦い現実である。著者はそういった汚れた現実を否定し、現実と幻想が融和する際に発する熱で消し去ろうとしている。

青豆と天吾の再会、つまりは現実と幻想の融和は、本書の最初から予測がついた結末であり、読者にとってカタルシスとは遠い結末なのかもしれない。しかし青豆と天吾が互いに描いていた、小学生からの純粋な愛が結ばれる様を読んでいると、現実と幻想の融和も不可能ではない、という気にさせられる。

汚れた現実ではなく、どの現実を幻想と融和させるのか。それこそが本書の一番のテーマであり、著者が現実をあえて書いてまで表したかったことなのかもしれない。

’14/06/04-‘14/06/07


1Q84 BOOK 2


BOOK 1 の最後の章で、青豆と天吾の世界に、現実からの脅威が押し寄せる。BOOK 2 である本書では、序破急の破らしく、一気に物語が展開する。徐々に現実感を喪失しつつあった世界に、現実が否応なしに押し寄せる。青豆は謎の信仰集団のトップの暗殺を柳屋敷の老婦人から依頼される。天吾には牛河なる人物が接触を図ってきて、代筆の事実を知っていることをそれとなく匂わせられる。ふかえりは天吾の元から失踪し、あゆみは謎の死を遂げる。

その一方で、1984年である世界は青豆には別の世界、つまり1Q84にその姿を変えつつあり、その速度は増すばかりである。

現実は幻想と共存できるのか。それとも所詮は別のもの、別々の道を歩むしかないのか。物語の行方がどこに向かおうとしているのか、BOOK 1に引き続き、読者をつかんで離さない展開はお見事としか言いようがない。

BOOK 1では現実からの疎外がテーマではないかと書いた。本書では果たして何がテーマなのだろうか。私には過去と現在の和解、というテーマが湧きあがってきた。

本書で、天吾は房総半島の某所の療養所にいるNHK集金人だった父と再会を果たす。答えない父に対し、自分の半生を滔々と話す。そして青豆は謎の宗教団体の教祖であり、ふかえりの父と目される人物を殺す直前、過去の出来事について教えを受ける。そしてNHK集金人の後について歩いた幼き日の天吾と、宗教団体の伝道者として親の伝道について歩いた青豆が、小学生時代に鮮烈で刹那的な交流を持っていたことが明かされる。現実は過去、幻想は今。過去と現在が和解する時、現実から疎外されていた幻想は受け入れられる。「空気さなぎ」の世界がますます現実を侵食する本書において、過去と現在の和解がテーマになっていることは避けては通れないポイントなのだろう。「空気さなぎ」の登場人物であるリトル・ピープルといった登場者は、現実と幻想を結び付けられるのか。教祖が世を去った今、誰がそれを成しうるのか。

青豆と天吾がお互いの存在を意識し合い、探し求めるようになり、本書は幕を閉じる。次はいよいよ序破急の急である。物語は大団円に向かって突き進む。

’14/06/01-‘14/06/03


1Q84 BOOK 1


本稿を書き始める数日前、今年度のノーベル文学賞受賞者が発表された。有力候補とみなされていた村上春樹氏は、残念ながら受賞を逃した。毎年のように候補者に名が挙がる氏であるが、本人は同賞に対しそれほどの拘りはないように思える。私の思い込みであるが、今までに読んだ氏の著作からはそういった色気があまり感じられなかったためである。茫洋としてつかみどころのない、見えないもの。現実の色に塗れず、むしろそこから遠ざかり零れ落ちる。そんな世界観を抱く氏の著作からは、ノーベル賞といった世俗の栄誉は縁遠いように思えた。今までは。

本作は、今までの著者の作品とは現実との関わり方が違うように思える。より近寄っていると言っても良い。その近寄り方は、現実にすり寄り媚を売るのとは少し違う。本作のテーマを際立たせるため、あえて現実に近寄って描写した。そんな感じである。テーマを浮かび上がらせるため、背景となる現実を彫っては捨て、削っては捨てる。そうすることで、提示されるテーマはより鮮明になる。

BOOK 1<4月-6月>と名付けられた本書は、芸事にいう序破急の序にあたる。青豆なる殺し屋稼業の女性と、川奈天吾なる小説家志望の塾講師。この二人が本書全体の主人公となる。何も関わりの無いように思える二人の日常が交互に章立てされて物語は進む。序といっても退屈な状況説明が続くわけではない。のっけから読者を引きつける展開が待っている。青豆は、首都高の上でタクシーを降り、非情出口まで歩いてそこから降りていくといったような。目的地のホテルで鮮やかな手技で男の命を奪うといったような。天吾の方は、天才少女作家の応募作を改作し、添削して世に出すといったような。

二人が過ごす、彼らなりに穏やかな日常。そのような日常を転換すべく訪れた展開。そんな中、二人の考えや生い立ちが徐々に語られていく。物語の行く末に興味を持たせ続けながら序の状況説明や人物説明まできっちり行ってしまうあたり、さすがの熟練の技である
先に、本書は今までの著者の作品よりも現実に近づいた描写が目立つと書いた。しかし、近づいたといっても近づきすぎず、現実の瑣末なディテールには踏み込まない。現実の描写とは、あくまで二人の人物像を際立たせるための小道具である。青豆の殺人者としての技量は殊更に誇張しない。性欲が溜まると男をあさりに行く程度の日常。そこには現実のディテールは不要で、その少々危険な香りのする日常を追うだけで読者は次の展開が待ち遠しくなる。一方、危うい行動とは無縁に思える天吾の日常も同じである。塾講師としての日常の雑務にはあまり触れない。小説の応募や選考や出版といった祭り事からも距離を置く。天才少女作家である「ふかえり」を配し、そのエキセントリックでマイペースな行動が天吾を振り回すだけで、読者はますます目が離せなくなる。

話は天吾の代筆した「空気さなぎ」の爆発的なヒットと、仲介した編集者である小松の存在、さらには「ふかえり」の幼少期から、謎の信仰集団が登場するに至って、天吾の日常は破天荒なそれへと変わっていく。柳屋敷に住む謎の老婦人からの青豆への依頼と、柳屋敷の謎めいた執事タマルとの関わりを通し、青豆の世界も大きく動く素振りを見せる。彼女を取り巻く日常がいつの間にか別のものにすり替わり、少しずつ現実が幻想的な色を帯び始める。

ここまで読んでいて、私はテーマと思われるものが浮かび上がっていることに気付いた。それは現実からの疎外である。謎の信仰集団は、当初は現実に背を向けて自給自足を営むだけの集団だったが、急速に閉鎖的になっていく。天吾の幼少期、NHKの集金人である父に休日ごとに集金に連れまわされ、学校ではNHKというあだ名で呼ばれ疎外される。「空気さなぎ」があまりにも大ヒットし、代筆がばれないよう、喧騒から逃れるように世間から疎外された日常をふかえりと過ごす。青豆はあゆみという婦人警官と世界との疎外感を埋めるために、性の逸脱に精を出す。

謎の信仰集団の成立過程、NHK集金人、あゆみを通した婦人警官の描写。ここにきて、著者の筆は精緻を描き、詳細を語る。今までの著者の小説にはない描きっぷりである。その結果、浮かび上がってきたのが世界からの疎外感である。私などは、疎外感が本書の唯一のテーマである、と序の時点で早合点してしまったほどである。

’14/05/27-‘14/06/01


小暮写眞館


人生の各情景を切り取って、小説の形に世界を形作るのが小説家の使命だとすれば、仮想世界が徐々に幅を利かせつつある現状について、彼らはペンでどう対峙し、どの視点から情景を切り取っていくのだろうか。

そんな疑問に対する一つの答えが本書である。

小暮写真館という閉店した事務所兼住居に引っ越してきた一家の日常が描かれていくのだが、どこにでもいるような一家であるはずなのに、主人公一家を応援せずにはいられなくなる。主人公だけではなく、出てくる登場人物や彼らが住む街についても、愛着が湧くに違いない。

なぜか。それは現実としっかり向き合い、それを自力で乗り越えていく意思に共感を覚えるからではないだろうか。

書かれている内容は、大事件でもなければ謎めいた出来事で満ち満ちているわけでもない。だが、それら一つ一つが実に丁寧に描かれている。心霊現象の解明や人形劇に興味を持ち、町の様子を老人たちに聞き込みに行き、鉄道に乗っては写真を撮り・・・

心霊現象は仮想世界にはそぐわないものだし、人形劇はデジタルではできない生の演劇。老人たちに聞きこむ街の様子はネットの口コミ情報とは対極をなしているし、鉄道に乗る臨場感はシミュレーターでは味わえない。キーボード越しに悪態をつくのではなく、相手に対面で啖呵を切る。

上に挙げた内容はほんの一例だが、現実世界と真摯に向き合う登場人物たちの姿、そして著者が書きたかった主張がそこかしこにみられる。

だからといって本書がアンチデジタル、アンチインターネットを訴えるような底の浅い作品でないことは、登場人物がSNSやネット検索も駆使する様が活写されていることで明らかで、その辺に対する著者の配慮もきちんとなされているところにも好感が持てる。

全編を通して仮想世界が徐々に幅を利かせつつある現状に対する著者の回答がこめられているのが容易にわかるのだが、実はそれを表現することは至難の業ではないかと思う。改めて著者の凄味を見せつけられた作品となった。

’12/03/03-12/03/09


ブランコのむこうで


著者の本を手に取るのは久しぶり。長編は初めてかな。スウィフトのガリバー旅行記を思い起こさせる内容。あちらは架空の国々を訪問していく中でそれらの国々の人々を通して人間を風刺していたけれど、こちらの本は夢の国を次々と訪れていく。

現実の主人が寝ている間には夢の国を、起きている間は現実の国を、交互に訪れるという設定が秀逸。現実が苦しければ苦しいほど夢の世界に逃避し、しかも現実のうっぷんを晴らすようなゆがんだ世界を形作る人間の心の弱さを風刺している。

実際の著者も猜疑心や自尊心に自ら苦しんでいたとは評伝にも紹介されていることだけど、自身の弱さをわかっていたがゆえに、こういう形で自らをも風刺していたんだろうか、と思わされた。

ことすれば余分な装飾を省いたショートショートだけが注目されがちな著者だけれど、きちんと自らの内面と向き合ったこういうすぐれた作品も残していたことも世間にもっと知ってもらいたいと思った。

’11/11/18-’11/11/19