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球界に咲いた月見草 野村克也物語


本書を読んだのは、野村克也氏が亡くなって三カ月後のことだ。

もちろん私は野村氏の現役時代を知らない。野村氏は私が7歳の頃に現役を引退しているからだ。
ただ、野村氏が南海ホークスの選手だった頃に住んでいた家が、私の実家から歩いて数分に位置していたと聞いている。ひょっとしたら幼い時にどこかですれ違っていたかもしれない。

現役時代から、解説者として監督として。野村氏の成し遂げた偉大な功績は今更言うまでもない。
また、野村氏は多くの著書を著したことでも知られる。実は私はそれらの著書は読んだことがない。ただ、野村氏の場合はその生涯がそもそも含蓄に富んでいる。

その生涯を一言で表現すると”反骨”の一言に尽きるだろう。本書のタイトルにそれは現れている。月見草。この草は600本の本塁打を打った際、インタビューを受けて語った中に登場する。野村氏の生きざまの体現として知られた。

本書は、野村克也という一人の野球人の生涯を丹念に追った伝記だ。本人も含めて多くの人に証言を得ている。
幼い頃、父が中国で戦死し、母も大病を患うなど貧しさの少年時代を過ごしたこと。高校の野球部長が伝をたどってつないでくれた南海ホークスとのわずかな縁をモノにして入団したものの、一年でクビを告げられたこと。そこから捕手として、打者として努力を重ね、戦後初の三冠王に輝いたこと。選手で一流になるまでにはさまざまな運にも助けられたこと。
南海ホークスでは選手兼任監督として八シーズンの間、捕手と四番と監督の三つの役割を兼任したこと。ささやき戦術や打撃論、キャッチャーのポジションの奥深さ。王選手や張本選手との打撃タイトルや通算成績の熾烈な争い。

南海ホークスから女性問題で解任されたあとも、生涯一捕手としてボロボロになるまでロッテ、西武と移り、45歳まで捕手を務め上げたこと。
その後解説者として腕を磨き、ノムラスコープと言う言葉で野球解説に新風を送り込み、請われて就任したヤクルト・スワローズでは三回の日本一に輝いた。本書の冒頭はその一回目の優勝のシーンで始まっている。

本書には書かれていないが、その後も阪神タイガースや楽天イーグルスの監督を務め、社会人野球の監督まで経験した。
楽天イーグルスの監督時代には、そのキャラクターの魅力が脚光を浴び、スポーツニュースでもコーナーが作られるまでになった。

本書には月見草を語ったインタビューの一節が載っている。
「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある。自己満足かもしれないが、そんな花もあっていい。月見草の意地に徹し切れたのが、六○○号への積み重ねになった」(230ページ)

長年日の当たらないパ・リーグにいた野村氏。だが、その生涯を通して眺めれば、月見草どころか超一流のヒマワリであったことは間違いない。
ただ、その結果がヒマワリだったからと言って、野村氏のことをあの人は才能があったから、と特別に見てはならない。
確かに、野村氏の生涯は、結果だけ見れば圧倒的な実績に目がくらむ。そして、野村氏のキャラクターには悪く言えばひがみっぽさもある。
たが、そうした境遇を反骨精神として自らのエネルギーに変え、自らを開花させたのも本人の意思と努力があってこそ。
努力を成し遂げられる能力そのものを才能と片付けてしまうのは、あまりにも野村氏に失礼だと思う。

本書の中には、野村氏に師匠がいなかったことを惜しむ声が度々取り上げられる。かの王選手を育てた荒川博氏も本書で語っている。遠回りせずに実績を残せたのに、と。一人の力で野村氏は自らを作り上げてきたのだ。荒川氏はそれが後年の野村氏に役立っているとも述べている。

私が野村氏の生涯でもっとも共感し、目標にできるのは独りで学んだことだ。なぜなら私も独学の人生だから。
一方、私が野村氏の生涯でもっともうらやましいと思うのは、幼い頃に苦難を味わったことだ。私は両親の恩恵を受けて育ち、その恩に強く感謝している。だが、そのために私が試練に立ち向かったのは社会に揉まれてからだ。今になって、子供の頃により強靭な試練に巡り合っていれば、と思う。そう思う最近の自分を逆に残念に感じるのだが。

野村氏がさまざまな書物を著していることは上に書いた。
おそらくそれらの書物には、ビジネスの上で世の中を渡るために役に立つ情報が詰まっているだろう。
私がそれらの本を読んでいないことを承知で言うと、野村氏の反骨の精神がどういう境遇から生み出されたのかを学ぶ方が必要ではないかと思う。あえてその境遇に自分を置かずにビジネスメソッドだけ抽出しても、実践には程遠いのではないか。
今、私も自分の生き方を変えなければならない時期に来ている。ちょうど野村氏が選手を引退してから、評論家として生きていた年齢だ。私は野村氏のような名伯楽になれるだろうか。今、私にはそれが試されている。

くしくも本稿を書き始めた日、日本シリーズでヤクルト・スワローズが20年ぶりに日本一に輝いた。スワローズの高津監督は野村氏の教え子の一人として著名だ。
人が遺すべきものとして金、仕事、人がある。言うまでもなく、最上は人た。
亡くなった野村氏はこの度のスワローズの日本一を通し、人を遺した功績で今もたたえられている。

私も人を遺すことに自分のマインドを変えていかないと。もちろん金もある程度は稼がなければならないが。
それらを実現するためにも、本書は手元に持ち続けたいと思う。そして、本書が少しでも読まれることを願う。

‘2020/05/25-2020/05/25


もっと遠くへ 私の履歴書


本書を読む少し前、Sports Graphic Numberの1000号を買い求めた。
そこには、四十年以上の歴史を誇るNumber誌上を今まで彩ってきたスポーツ選手たちの数々のインタビューや名言が特別付録として収められていた。

その中の一つは著者に対してのインタビューの中でだった。
その中で著者は、755本まで本塁打を積み上げた後、もっとやれたはずなのにどこか落ち着いてしまった自分を深く責めていた。引退した年も30本のホームランを打っていたように、まだ余力を残しての引退だった。それを踏まえての言葉だろう。
求道者である著者のエピソードとして印象に残る。

著者が引退したのは1980年。私が小学校1年生の頃だ。
その時に担任だった原田先生から聞いた話で私の印象に残っていることが一つだけある。それは、王選手がスイングで奥歯を噛み締めるため、ボロボロになっていると言う話だ。なぜかその記憶は40年ほどたった今でもまだ残っている。
後、私は著者によるサインが書かれた色紙を持っていた。残念なことにその色紙は、阪神淡路大震災で被災した後、どさくさに紛れて紛失してしまった。実にもったいないことをしたと思う。

本書は、著者の自伝だ。父母や兄との思い出を振り返った子供時代のことから始まる。
浙江省から日本に来て五十番という中華料理の店を営んでいた父の仕事への取り組み。双子の姉だった広子さんのことや、東京大空襲で九死に一生を得たこと。
墨田区の地元のチームで野球に触れ、左投げ右打ちだった著者を偶然通りがかった荒川選手が左打ちを勧めたところ、打てるようになったこと。
甲子園で優勝投手となり、さらにその後プロの世界に身を投じたこと。プロに入って数年間不振に苦しんでいたが、荒川博コーチとともに一本足打法をモノにしたこと。
さらに巨人の監督に就任したものの、解任される憂き目に遭ったこと。そこで数年の浪人期間をへて、福岡ダイエーホークスの監督に招聘されたいきさつ。長きにわたってチームの構築に努力し、心ないヤジや中傷に傷つきながら、日本一の栄冠に輝いたこと。さらにその後WBC日本代表の初代監督として世界一を勝ち取るまで。

本書を読む前から、著者の文庫本の自伝なども読んでいた私。かねて福岡のYahoo!ドームの中にあると言う王貞治記念館を訪問したいと切に思っていた。福岡でお仕事に行くこともあるだろうと。
本書を読んでますますその思いを募らせていた。

それがかなったのが本書を読んでから11カ月後のこと。福岡に出張に行った最終日、PayPayドームと名前を変えた球場の隣にある王貞治ベースボールミュージアムに行くことができた。

ミュージアム内に展示された内容はまさに宝の山のようだ。しかも平日の夜だったこともあり、観客はとても少なかった。私はミュージアムを心ゆくまで堪能することができた。帰りの新幹線さえ気にしなければ、まだまだいられたと思う。
そしてその展示はまさに本書に書かれたそのまま。動画や実物を絡めることにより、著者の残した功績の素晴らしさが理解できるように作られていた。

ミュージアムでは一方足打法の連続写真やそのメリットも記され、等身大のパネルやホログラム動画とともに展示され、一本足打法が何かをイメージしやすい工夫が施されていた。
その脇に「王選手コーチ日誌」と表紙にタイトルが記されたノートが置かれていた。荒川博コーチによる当時のノートだ。中も少しだけ読むことができたが、とても事細かに書かれていた。著者もこのノートの存在をだいぶ後になるまで知らなかったらしい。
ミュージアムの素晴らしさはもちろんだが、一方で本書にも長所がある。例えば、一本足打法の完成まで荒川氏と歩んだ二人三脚の日々で著者自身が感じていた思いや、完成までの手ごたえ。その抑えられた筆致の中に溢れている感謝の気持ちがどれほど大きいか。それを感じられるのは本書の読者だけの特典だ。これはミュージアムとお互いを補完し合う意味でも本書の良さだと思う。

そこからの世界の本塁打王としての日々は、本書にも詳しく描かれている通りだ。

ただ、著者の野球人生は単に上り調子で終わらないところに味がある。藤田監督の後を継いで巨人の監督に就任して五年。その間、セ・リーグで一度優勝しただけで、日本シリーズでは一度も勝てなかった。そして正力オーナーから解任を告げられる。
数年後、福岡ダイエー・ホークスから監督就任の依頼があった著者は悩みに悩んだ結果、受諾した。当時のホークスはとても弱いチームだった。かつて黄金時代を築いた南海ホークスの栄華は既に過去。身売りされて福岡に来たもののチーム力は一向に上向かない。
そんなところに監督として招聘されたのが著者。ところがそこから数年、なかなか勝てない時が続いた。バスに卵を投げつけられるなど、ひどい仕打ちを受けた。

それを著者はじっと耐え忍び、長い時間をかけてホークスを常勝チームに育て上げていった。今でこそソフトバンク・ホークスと言えば常勝軍団として名をほしいままにしている。その土台を作ったのが著者であることは誰も否定しないはずだ。

ミュージアムでもホークスの監督時代のことは多く取り上げられていた。だが私は、著者の選手時代の輝きに当てられたためか、あまりその展示は詳しくみていない。
著者のためにこのような立派なミュージアムを本拠地に作ってくれる。それだけで著者が福岡で成し遂げた功績の大きさがわかろうと言うものだ。

本書はあとがきの後も、著者の年表が載っている。さらに全てのホームランの詳細なデータや輝かしい記録の数々など、付録だけでも60ページ強を占めている。
まさに、本書は著者を語る上で絶対に落とせない本だと思う。
いつかは著者も鬼籍に入るだろう。その時にはもう一度本書を読み直したいと思う。

‘2020/05/01-2020/05/01


死闘 昭和三十七年 阪神タイガース


私が自由にタイムマシンを扱えるようになったら、まず昭和三十年台の野球を見に行きたい。
今までにも同じような事を何度か書いたが、相も変わらずそう思っている。

野武士軍団と謳われた西鉄ライオンズ。親分の下、百万ドルの内野陣と称された南海ホークス。名将西本監督が率いたミサイル打線の大毎。迫力満点の役者が揃った東映フライヤーズ。在阪の二球団も弱かったとはいえ、阪急ブレーブスは後年の黄金期へと雌伏の時期を過ごし、近鉄もパールズからバッファローズへと名を変え模索する時期。

昭和三十年台のプロ野球とは実に個性的だ。

あれ? と思った方はその通り。ここに挙げたのは全てパ・リーグのチーム。

では、セ・リーグは? 昭和三十年台のセ・リーグは、語るに値しないのだろうか。この時期のセ・リーグに見るべきものは何もないとでも? そんなはずはない。でも、この時期の日本シリーズの覇者はパ・リーグのチームが名を連ねる。以下に掲げるのは昭和30年から39年までの日本シリーズのカードだ。

年度    勝者    勝 分 負  敗者
------------------------
昭和30年  巨人(セ)  4   3  南海(パ)
昭和31年  西鉄(パ)  4   2  巨人(セ)
昭和32年  西鉄(パ)  4 1 0  巨人(セ)
昭和33年  西鉄(パ)  4   3  巨人(セ)
昭和34年  南海(パ)  4   0  巨人(セ)
昭和35年  大洋(セ)  4   0  大毎(パ)
昭和36年  巨人(セ)  4   2  南海(パ)
昭和37年  東映(パ)  4 1 2  阪神(セ)
昭和38年  巨人(セ)  4   3  西鉄(パ)
昭和39年  南海(パ)  4   3  阪神(セ)

10年間で見ると、パ・リーグのチームが6度覇を唱えている。中でも昭和31年〜34年にかけては三原西鉄に日本シリーズ3連覇を許し、鶴岡南海には杉浦投手の快投に4連敗を喫している。後世の我々から見ると、この時期のプロ野球の重心は、明らかにパ・リーグにあったと言える。それこそ一昔前に言われたフレーズ「人気のセ、実力のパ」がピッタリはまる年代。いや、むしろ残された逸話の量からすると、人気すらもパ、だったかもしれない。

では、後世の我々がこの時代を表すフレーズとして知る「巨人・大鵬・卵焼き」はどうなのだ、と言われるかもしれない。これは当時、大衆に人気のあった三大娯楽をさす言葉として、よく知られている。

だが、ここで書かれた巨人とは、本書の舞台である昭和37年の巨人には当てはまらない。当てはまるとすれば、それはおそらくONを擁して圧倒的な力でV9を達成した時代の巨人を指しているのではないか。だが、V9前夜のセ・リーグは、まだ巨人以外のチームにも勝機が見込める群雄割拠の時期だった。この時期、セ・リーグを制したチームは巨人だけではない。三原魔術が冴え渡った大洋ホエールズの優勝は昭和35年。結果として大洋ホエールズが頂点に立った訳だが、一年を通して全チームに優勝の可能性があったと言われており、当時のセ・リーグの戦力均衡がそのままペナントレースに当てはまっていたと言える。

この時期にセ・リーグを制したチームはもう1チームある。それが、本書の主役である阪神タイガースだ。昭和37年と39年の2度セ・リーグを制した事からも、当時のタイガースはセ・リーグでも強豪チームだったと言える。

本書は1度目の優勝を果たした昭和37年のペナントレースを阪神タイガースの視点で克明に追う。この年のタイガースはプロ野球史に名を残す二枚看板を抜きにして語れない。小山正明氏と故村山実氏。二人の絶対的なエースがフル稼働した年として特筆される。

当時のタイガースの先発投手は、この二人を軸とし、藤本監督によって組み上げられていたことはよく知られている。今も言われる先発ローテーションとは、この年のタイガースが発祥という説もあるほどだ。

本書はキャンプからはじまり、ペナントレースの推移を日々書き進める。いかにして、藤本監督が二枚看板を軸にしたローテーションを確立するに至ったのか。二枚看板のような絶対的な力はないとは言え、それ以外の投手も決して見劣りしない戦績を残していた。そういった豊富な投手陣をいかにしてやり繰りし、勝ち切るローテーションを作り上げるか。そういった藤本監督の用兵の妙だけでも本書の内容は興味深い。

また、この時期のタイガースは投手を支える野手陣も語る題材に事欠かない。試合前の守備練習だけでもカネを払う価値があったとされるこの時期のタイガースの内野陣。一塁藤本、二塁鎌田、遊撃吉田、三塁三宅。遊撃吉田選手は今牛若との異名をとるほどの守備の名手として今に伝わる。今はムッシュとの異名のほうが有名だが。その吉田選手を中心に配した内野守備網はまさに鉄壁の内野陣と呼ばれた。打撃こそ迫力に欠けていたにせよ、それを補って余りある守備力が昭和37年のタイガースの特徴だった。藤本監督の用兵も自然と投手・守備偏重となるというものだ。

と、ここまでは野球史を読めばなんとなく読み解ける。

本書は昭和37年のセ・リーグペナントレースをより詳細に分解する。そして、読者は概要の野球史では知りえない野球の奥深さを知ることになる。本書では名手吉田のエラーで落とした試合や二枚看板がK.O.された試合も紹介されている。鉄壁の内野陣、二枚看板にも完璧ではなかったということだろう。後世の我々はキャッチフレーズを信じ込み、神格化してしまいがちだ。だが、今牛若だってエラーもするし、針の穴を通すコントロールもたまには破綻する。本書のような日々の試合の描写から見えてくる野球史は確かにある。それも本書の良さといえよう。日々の試合経過を細かく追った著者の労は報われている。

また、他チームの状況が具に書かれていることも本書の良い点だ。先にこの時期の巨人軍が決して常勝チームではなかったと書いた。原因の一つはON砲がまだ備わっていなかった事もある。しかし、昭和37年とは王選手のO砲が覚醒した年でもあるのだ。王選手といえば一本足打法。それが初めて実戦で披露されたのが昭和37年である。以降、打撃に開眼した王選手の打棒の威力は言うまでもない。ON砲が揃った巨人軍の打棒にもかかわらず昭和39年にも優勝したタイガースはもっと認められて然るべき。が、昭和40年代の大半、セ・リーグの他のチームは巨人の前に屈し続けることになる。

その前兆が本書では解き明かされている。ON砲の完成もその一つ。また、阪神タイガースの鉄壁の守備網にほころびが見え始めるのも昭和37年だ。鉄壁の内野陣の一角を成し、当時のプロ野球記録だった連続イニング出場記録を更新し続けていた三宅選手の目に練習中のボールがぶつかったのだ。それによって、三宅選手が内野陣から姿を消すことになるのも昭和37年。また、不可抗力とはいえボールをぶつけてしまった小山投手も、翌昭和38年暮れに世紀のトレードと言われた大毎山内選手と入れ替わって阪神を去る事になる。つまり三宅選手の離脱は、すなわち二枚看板の瓦解に繋がることになったのだ。本書でも小山投手と村山投手の間に漂う微妙な空気を何度も取り上げている。両雄並び立たずとでもいうかのように。

なお、本書ではペナントレースの後始末とも言える日本シリーズにはそれほど紙数を割かない。が、その後の阪神タイガースを予感させるエピソードが紹介されている。それは相手の東映フライヤーズの水原監督に対する私情だ。先に日本シリーズで西鉄ライオンズが巨人を三年連続して破った事は書いた。球界屈指の好敵手であった三原監督に三年連続して負けた水原監督は、さらに翌年の日本シリーズで鶴岡南海に4タテを食らわされることになる。さらには昭和35年のペナントレースでセ・リーグに戻ってきた三原監督の大洋によってセ・リーグの覇権を奪われることになる。それによって巨人監督を追われる形となった水原監督が東映フライヤーズの監督となり、ようやくパ・リーグを制したのがこの年だ。そして、水原監督が巨人選手の頃の監督だったのが阪神藤本監督。水原監督を男にしてやりたいという藤本監督の温情があったのではないか、と著者はインタビューから推測する。

そういった人間関係でのゴタゴタはその後の阪神タイガースを語るには欠かせない。その事を濃厚に予感させつつ、著者は筆を置く。昭和37年の紹介にとどまらず、その後のセ・リーグの趨勢も予感させながら。

昭和40年からのプロ野球は、それこそ巨人・大鵬・卵焼きの通り、巨人の独り勝ちとなってしまう。だが、そこに理由が無かったわけではない。それなりの出来事があり、その結果がV9なのだ。その前兆こそが、本書で描かれた昭和37年のペナントレースにあること。これを著者は描いている。本書は昭和37年のペナントレースについての書であるが、実は巨人V9の原因を見事なまでに解き明かした書でもあるのだ。

本書は日本プロ野球史のエポックをより深く掘り下げた書としてより知られるべきであり、実りある記録書として残されるべきと思う。

‘2015/7/27-2015/7/30