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ウルフ・ホール 下


下巻では、ウルジーの寵臣だったトマス・クロムウェルがヘンリー八世に目をかけられ、信を得てゆく様が描かれる。

ウルジーが失脚した原因となった、ヘンリー八世の離婚問題。それはキャサリン・オブ・アラゴンを離縁し、アン・ブーリンと結婚する事に執心したヘンリー八世のわがままから起こった。アン・ブーリンも気が強く、王と結婚するためにやすやすと操を捧げないしたたかさを持っている。王の気持ちをうまく操りながら、自らの栄達へ一歩ずつ登っていくアン・ブーリン。

トマスは、両者の間に立ち、ヘンリー八世の意に沿うように巧みな才能と弁舌を発揮する。
そして難題だった、離婚と結婚を解決する。

それによって、トマスはますますヘンリー八世の寵をわがものにしていく。徐々に立場と権勢が上がり、王室の全てを掌握するまでになる。
その過程でトマスは相手によって冷酷な言葉を操り、相手を屈服させることに意を砕く。
本書はその様な振る舞いをするトマスの内面を描く。トマスの内面は葛藤を覚えるが、任務を遂行するために心を無にし、自らに与えられた役割を全うしようとするトマス。

本書の上巻は、イギリス王室やテューダー王朝に対する知識がなかったため、読むのにてこずった。だが、下巻になってくるとようやく知識も備わってくる。そして本書の面白みがわかってくる。

トマスを権謀術数に長け、狡猾で世渡りのうまい宮廷の臣として認識してしまうことはたやすい。
だがその視点は、周囲に比べあまりにも才能に恵まれた人間の悲哀を見逃している。

自らが成り上がろうとの意思がさほどないのに、自らの能力だけで時流に乗って上昇してしまう人物。こうした人物は時代を超えてどこにでもいる。もちろん現代にも。
ヘンリー八世からの寵が増すとともに、トマスの内面を描く記述からは、愛情やゆとりを感じさせる描写が減っていく。潤いがなくなり、乾いてゆく。忙しさのあまりに。そして交渉ごとにすり減って。

トマスにも後妻を迎える機会はあった。アン・ブーリンの姉からも結婚をほのめかされもした。トマスは、後にヘンリー八世の妃となるジェーン・シーモアへのほのかな思いも漂わせつつ、忙しさを言い訳に再婚に踏み切ろうとしない。家族への愛情が軽々しい行いにトマスを走らせないのだろう。
そしてトマスはますます積み重なる任務に忙殺されてゆく。

トマスをめぐる環境の変化とトマス自身の抱える葛藤。それが丹念に積み重ねられ、巧みに折り合わされていくうちに層の厚い物語が私たちをいざなってゆく。

後半はなんといっても、トマス・モアに対するトマスの戦いが中心となる。
ヘンリー八世の離婚問題に端を発したカトリック教会からの離脱。そしてイングランド国教会の設立。
それに頑強に抵抗する大法官トマス・モア。自らの信念と信仰に忠実であろうとするこの人物をどのようにして説得し、国王の意思を通させるか。
トマスは硬軟を織り混ぜてトマス・モアを説得しようと苦心する。
だが、自らの良心という、目に見えない最強の鎧を身にまとったモアは頑として譲らない。

かつてはヘンリー八世の寵臣であり重臣として名をはせたトマス・モアは、トマスにとってはるか高みにいる人物。トマス・モアに対し、トマスの手を尽くした恫喝や説得も通じない。

信仰と頭脳。信心と能率。その二つの対立軸が、本書の中であらゆる視点と立場から描かれている。
結局、トマス・モアは自らに殉じる。安らかに覚悟を決めたトマス・モアは、ロンドン塔のギロチンの露と消える。
それはすなわち、ここまで登りつめてきたトマスにとって初めての失点。

本書はこの時点で幕を閉じる。トマス自身の敗北感をほのめかしながら。

史実では、この後にもさまざまな出来事が起こる。ヘンリー八世は、世継ぎを産めなかったアン・ブーリンを離縁し、アン・ブーリンもまた、ロンドン塔へと消える。
そしてトマス自身もロンドン塔で死を迎える。四人目の妃選びに失敗した責任を取らされて。

だが、アン・ブーリンやトマスに待ち受けている運命は本書では描かれない。それらは本書の続編にあたる「罪人を召し出せ」で描かれている。

本書の上下巻を通して描かれるのは、トマス自身に降りかかる運命を暗示する壮大な物語だ。栄達の階段を登っていきながら、その高み故、落ちると死に直結する。
誰が差配しようと、最後に権力を持つのはヘンリー八世。トマスやウルジーやトマス・モアではない。
描かれる彼らの栄枯盛衰は、すべてはトマス自身の運命を暗示している。

不条理にも思える権力構造。それこそが封建制度の持つ本質なのだろう。
その残酷さの中、自らの能力を精一杯に生かしつつ、自らに与えられた運命を懸命に生きるトマスの描き方がとても印象に残る。

本書のタイトルであるウルフ・ホールとはジェーン・シーモアとその一族の領地の居館に付けられた別名だ。
狼の穴とは、言うまでもなく剣呑な宮廷をたとえた比喩だろう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の故事のように、外からは決して分からず、中に入らねば理解できない厳しい場所。
ウルフ・ホールとは同時に、トマスが持つジェーン・シーモアへの淡い恋心を踏まえたタイトルでもあるはずだ。
ウルフ・ホールの中に入ったからこそ、トマスは栄達への階段を上れた。それもまた否めない。それがもとで後世に悪名を残したことも。だが、実在のトマス・クロムウェルとは才に恵まれたがゆえにヘンリー八世に使い捨てられた憐れむべき人物だったのかもしれない。

上下巻で分厚く、読み応えのある一冊。上巻ではなかなか読み進められずに苦しんだが、読み終えて良かったと思える一冊だ。
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‘2020/06/27-2020/06/30


ウルフ・ホール 上


本書はブッカー賞受賞作品だ。それもあって手に取った。
表紙には見覚えのある人物の肖像画が載っている。トマス・クロムウェル。帯にもその人物の名前が記されていたが、かつて高校時代に世界史の授業で聞いたことがある。
だが本書を読む前の私は、クロムウェルはおろか当時のイギリス王室やテューダー朝の歴史についてほとんど知識を持っていなかった。

にもかかわらず、私は借りてきた本書を読み始めた。上下巻を合わせて1000ページ近くある本書を。

正直に言うと、上巻を読むのはかなり難儀した。

なぜなら、本書にはイギリス王朝や王室に関するこまごまとした記述がいたるところにちりばめられているからだ。

おそらく英国人であれば、本書を読むのは容易いのだろう。だが、私のような別の時代、別の民族の人間が、当時のイギリスについての知識を有していない場合は、本書には苦労させられるかもしれない。登場する多くの人物や数々のエピソードは、当時のイギリスを知らないと共感しにくい。
例えば太平記の戦闘が終わった後の南北朝の対立を描いた小説をイギリス人が読めば同じような感覚になるだろうか。

本書は全部で六部からなっている。そのうち上巻では四部の途中までを含んでいる。

第一部は、トマス・クロムウェルの幼少時代を描いている。子供に対する虐待を当たり前のように行う父ウォルター。その境遇に耐えながら、父のもとから逃げることに必死のトマス・クロムウェル。この描写がなかなか秀逸だ。
ところが、ここで私はてこずった。その理由として、長じてからのトマス・クロムウェルの人物像に十分な知識がないためだと思われる。
私がトマス・クロムウェルについての印象を強く持っていれば、幼少期に味わった苦しみが、長じてからヘンリー八世の時代を代表する稀代の策謀家で寵臣を作り上げたのだと共感できたはず。そして本書に一気に引き込まれたはずだ。
本書は実に細かく時代の様子を描いている。幼少期のトマス・クロムウェルの苦しむ姿と長じたトマス・クロムウェルが内面に抱える苦悩は、当時の時代背景やエピソードが生き生きと描かれてこそ、浮き彫りになる。だが、当時の世相や文化をよく知らない私にはそれがかえって混乱の元になってしまった。

物語はやがて、クロムウェルがヘンリー八世に重宝される場面に差し掛かる。
ヘンリー八世とはイギリス国教会を創設したことで著名だ。カトリックからの離脱を一国王が成し遂げたことは、世界史上にも特筆されるべき事績だろう。
なぜそのようなことをしようと思ったのか。それは、当時のカトリックが結婚を神聖なものとみなし、離婚は断じて認めない姿勢を示していたからだ。それがたとえ国王であっても。

だが、多情で精力にあふれたヘンリー八世にはカトリックの掟に納得がいかない。
ヘンリー八世にとって、正当な男性の嫡子を設けることは何にもまして優先されるべき聖なる義務だ。そのためには、六人の妃を次々と入れ替えることもいとわない。ヘンリー八世にとって、世継ぎを生まない妃など離婚する対象にすぎない。

そんなヘンリー八世の姿勢は、ヨーク大司教のトマス・ウルジーを苦しめる。ウルジーの立場は、ローマのカトリック総本山から任命された枢機卿としての役割と国王の寵臣の板挟みになっていた。それでありながら、カトリックの教義から国王の意思を翻させなければならない。教皇の意思を伝えるウルジーは、板挟みになったあげく、ヘンリー八世の説得に失敗する。
そればかりか、ヘンリー八世からの寵を失って一気に失脚する。ロンドンから都落ちして、地元のヨークの館で逼塞させられて。
権力者といえども、国王の意向には逆らえない。かつて身にまとっていたきらびやかな聖職者としての衣装も全て没収される。
なのにウルジーは、国王に対して反逆の意思はない。ただわが身の境遇の変化を嘆くのみ。

そのようなヨーク大司教ウルジーこそが、クロムウェルのパトロンだった。クロムウェルは、そのような落ちぶれたパトロンに対して手のひらを返さず、誠意を持って振る舞おうと努力する。

諸外国語を操り、財務や経理などにも明るいトマス・クロムウェルの才能。その才をウルジーは愛し、側において重用した。
が、トマスの努力もむなしく、ウルジーにくだされた処罰はとうとう撤回も赦免もされぬまま、地方の教区で没する。

本書は、トマスの視点から描かれる。トマスの内面は、ウルジーに対してあくまでも誠実であろうとする。そこには策謀を巡らす二枚舌のイメージはない。
そして、トマスの家族への思いも描かれている。娘二人が、流行病でなくなったときの描写にそれが表れている。早世した妻や、若い頃にヨーロッパのあちこちを旅した際、現地で愛情を交わした女性への追憶も本書では描かれる。
本書は、そのようなクロムウェルの内面を描くことで、腹黒く策謀に長けた人物とされる後世の評価を覆そうとした意欲が見える。
本書で描かれるトマス・クロムウェルとは狡猾な人物ではない。むしろ、あまりにも才能を持ちすぎたため、時代の波に飲み込まれた悲劇の人物として解釈されている。

トマス・クロムウェルはその才能をどこで磨いたのか。
本書は、父ウォルターのもとから逃げ出した後の流浪だったはずの時期についてあまり触れない。

所々にトマスの追想として挿入される程度だ。どこでどのような履歴をたどり、才能を磨き、努力したのか。普通であれば、この部分を描くことで、小説はもっとも面白くなるはずだ。

だが著者はそうした誘惑には目もくれない。
そのかわり、家族との時間やさまざまに舞い込む任務や仕事に取り組み、王室のさまざまな思惑の中で確実に日々をこなしてゆくトマス・クロムウェルの姿を描く。

‘2020/06/15-2020/06/27


双頭の鷲


ジャン・コクトーが才人である事を示す有名な写真がある。フィリップ・ハルスマン「万能の人」のことだ。腕を六本持ったコクトーが、タバコをすいながらペンを書き、本を読み、はさみを持ち・・・・コラージュカットのその写真は、「ジャン・コクトー 画像」で検索すればすぐに見られる。

この写真が表現しているとおり、彼の才能は様々な分野で発揮された。だが私は、恥ずかしながら ジャン・コクトー の作品のほとんどを観ていないし読んでいない。もちろん戯曲も。本作は、ジャン・コクトーの戯曲「双頭の鷲」を元に、宝塚バージョンとしてアレンジされている。妻から本作の誘いを受けた際は、即座に観ると答えた。

ジャン・コクトーが1946年に発表したというこの戯曲は、ハプスブルク家の暗殺された皇妃エリザベートと暗殺犯ルイジ・ルキーニの関係を取り上げている。皇妃エリザベートといえば、宮廷生活の窮屈さを極度に嫌った女性としてよく知られている。晩年は夫と息子にも先立たれ、世を憚るように生きたことでも有名だ。そんな彼女を暗殺対象に選んだ無政府主義者ルイジ・ルキーニの動機は、王侯貴族なら誰でもよくて、彼女は偶然居合わせたために殺されたとも伝わっている。厭世的なエリザベートが偶然暗殺される運命に遭う巡り合わせに、ジャン・コクトーは人生の皮肉を見出したのかもしれない。そして彼は、戯曲という形式で表現しようとしたのだろう。

「エリザベート」といえば、ミュージカル版が知られている。海外でロングランとなり、わが国でも宝塚やそれ以外の舞台でおなじみだ。ミュージカル版「エリザベート」は、死に惹かれるエリザベートと死神トートの関係を通じ、彼女の欲する自由が生と死のどちらかにあるのか、をテーマとしている。厭世的なエリザベートはこちらでもモチーフとなっているのだ。

つまり、ミュージカル版「エリザベート」の原案とは、ひょっとすると本作「双頭の鷲」にあるのではないだろうか。自由を求め、そしてそれが叶わないことを知ると絶望のあまり厭世的になったエリザベート。彼女の生涯は、文字通り劇的であり、舞台化されることは必然だったのかもしれない。そしてそこに最初に着目した人こそがジャン・コクトー。だとすれば、本作は是非観ておくべきだろう。

本作と「エリザベート」とどちらがミュージカル版として先に初演されたのかは知らない。だが、演出面など似通った箇所に気付いたのは私だけではないはずだ。例えば、ナレーター兼狂言回しの存在。ミュージカル版は、エリザベート裁判の被告となったルイジ・ルキーニの陳述をナレーションとし、観客をエリザベートの生きた時代に導いていた。本作でもナレーターが配され、観客の道案内として重要な役割を担っている。

また、原作の戯曲は6人のみが登場する室内劇として書かれていたという。しかし、本作の出演者は総勢21人だ。ただ、舞台の進行を6人で行うことには変わりない。では、残りの15人(ナレーターを除くと14人)は何をしていたのか。それは、舞台に動きやテンポを生み出す役割ではないかと思う。いわば「動」の動き。

本作の舞台は終始クランツ城内王妃の部屋に固定されている。その壁は巨大なデザイン板ガラスとなっており、ガラスの向こうに人がおぼろげに映るようになっている。14人の演者は、男女パパラッチA~Gとして、ガラスの向こう側に座っている姿を見せている。そうやって常時舞台を囲むことによって、舞台に緊張感をもたらしているのだ。この役割は「静」の動きに他ならない。「静」と「動」の二つの動きを舞台に表現するのがこの14人だといえる。

14人+1人の追加された演者たちが舞台で繰り広げる演出こそが、ジャン・コクトーの戯曲をベースとした見事な芸術作品として本作を成り立たせている。そのことは間違いないと思う。

また、もう一点本作で見逃せない演出がある。それは音だ。舞台の正面奥はバルコニーとなっている。皇妃が暗殺犯スタニスラスと出会うシーンは、バルコニーの向こうで風がうなりをあげ、雷鳴が響き渡る嵐の中だ。その間、自由を求める皇妃は窓を開け放しにしているのだが、皇妃の心中を表すかのように雷鳴が響きわたる。風が吹き込み落ち葉が舞い込む。嵐に紛れて暗殺犯を追う銃声が舞台に響き渡る。

ここまで音響効果が効果的に使われているとなると、音楽にも期待できそうだ。だが正直なところ、本作に死角があるとすれば、それは魅力的なキラーチューンの不在だ。ようするにキャッチーでメロディアスな曲がない。せいぜいが皇妃とスタニスラスが唱和する「双頭の鷲のように」ぐらいだ。そして音響効果が曲の不在を埋めるかのように随所に使われている。

そんな本作であるが、スタニスラスを演じているのは歌劇団理事でもある轟悠さん。普段は専科として各組の脇を締めるために出演している。が、本作では堂々たる主役として魅力的な低音を響かせていた。お年も相当召されているとは思うのだが、そう思わせないほど見事な男役っぷりだった。

その轟さんの相手役を勤める皇妃は、現在宙組の娘役トップである実咲凛音さんが勤めていた。妻いわく、演技よし歌もよしのすばらしい生徒さんだとか。それもうなづけるほど、見事な歌唱と演技だった。そして、厭世観を持っているがゆえに暗殺者に惹かれるという皇妃の矛盾した心中が表現されないことには本作は舞台作品として成り立たない。そこが表現されてはじめて、ジャン・コクトーの戯曲化の意図を舞台に移し変えたといえる。実咲凛音さんはまさに適役といえる。

主役の二人以外の主要な5人についても見事な役者振りで舞台を締めており、宙組の充実振りがうかがえるというものだろう。

それにしても残念に思うのが、本作にキラーチューンがないことだ。それがあれば、本作はもっと世界的な作品となりそうなものを。「エリザベート」とかぶってしまう点は否めないが、本作はオリジナルかつ「エリザベート」の姉妹編として十分に通ずる可能性を秘めている。私も機会があればジャン・コクトーの原作戯曲を読んでみたいと思う。そして、私の考えた本作の意図が戯曲にどの程度込められているのか確かめてみようと思う。

‘2016/12/14 神奈川芸術劇場 開演 13:00~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2016/laigleadeuxtetes/index.html