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ベルカ、吠えないのか?


これまたすごい本だ。
『アラビアの夜の種族』で著者は豪華絢爛なアラビアンナイトの世界を圧倒的に蘇らせた。
本書は『アラビアの夜の種族』の次に上梓された一冊だという。

著者が取り上げたのは犬。
犬が人間に飼われるようになって何万年もの時が過ぎた。人にとって最も古くからの友。それが犬だ。

その知能は人間を何度も助けてきた。また、牧羊犬や盲導犬のような形で具体的に役立ってくれている。そして、近代では軍用犬としても活動の場を広げている事は周知の通りだ。
軍用犬としての活躍。それは、例えば人間にはない聴覚や嗅覚の能力を生かして敵軍を探索する斥候の役を担ったり、闇に紛れて敵軍の喉笛を噛み裂いたりとさまざまだ。

二十世紀は戦争の世紀。よく聞く常套句だ。だが著者に言わせると二十世紀は軍用犬の世紀らしい。

本書はその言葉の通り、軍用犬の歴史を描いている。広がった無数の軍用犬に伝わる血統の枝葉を世界に広げながら物語を成り立たせているからすごい。

はじめに登場するのは四頭の軍用犬だ。舞台は第二次大戦末期、アリューシャン諸島のキスカ島。日本軍による鮮やかな撤退戦で知られる島だ。
その撤退の後、残された四頭の軍用犬。四頭を始祖とするそれぞれの子孫が数奇な運命をたどって広がってゆく。

誰もいないキスカ島に進駐した米軍は、そこで放置された四頭の犬を見つけた。日本軍が残していった軍用犬だと推測し、四頭を引き取る。それぞれ、違う任地に連れてゆかれた四頭は、そこでつがいを作って子をなす。
その子がさらに子をなし、さらに各地へと散る。
なにせ、二年で生殖能力を獲得する犬だ。その繁殖の速度は人間とは比べ物にならない。

軍用犬には訓練が欠かせない。そして素質も求められる。日本の北海道犬が備えていた素質にジャーマン・シェパードや狼の血も加わったことで、雑種としてのたくましさをそなえた軍用犬としての素質は研ぎ澄まされてゆく。

軍用犬にとって素質を実践する場に不足はない。何しろ二十世紀は戦争の世紀なのだから。
第二次大戦の痛手を癒やす間もなく国共内戦、そして朝鮮戦争が軍用犬の活躍の場を提供する。そして米ソによる軍拡競争が激しさを増す中、ソ連の打ち上げたスプートニク2号には軍用犬のライカが乗った。さらにはベルカとストレルカは宇宙から生還した初めての動物となった。
ベトナム戦争でも無数の軍用犬が同じ先祖を源として敵味方に分かれ、それぞれの主人の命令を忠実に遂行した。さらにはソビエトが苦戦し、最終的に撤退したアフガニスタンでも軍用犬が暗躍したという。

それだけではない。ある犬はメキシコで麻薬探知の能力に目覚めた。ある犬は北極圏へと無謀な犬ぞりの旅に駆り出された。またある犬は小船に乗ってハワイから南方の島へと冒険の旅に出、人肉を食うほどの遭難に乗り合わせた。またある犬はドッグショウに出され、ハイウェイで跳ねられ道路で平たく踏まれ続ける運命を受ける。
著者の想像力の手にかかれば、犬の生にもこれだけ多様な生きかたをつむぐことができるのだ。

お互いが祖を同じくしているとも知らずに交わり、交錯し、牙を交える犬たち。
犬一頭の犬生をつぶさに追うよりも、犬の種を一つの個体とみなし、それぞれの犬に背負わされた運命の数奇さを追う方がはるかに物語としての層が厚くなる。
ある人間の一族を描いた大河小説は多々あるが、本書ほどバラエティに富んだ挿話は繰り込めないはずだ。
それを繁殖能力の高い犬の一族で置き換えたところに本書の素晴らしさがある。
その広がりと生物の種としてのあり方。これを壮大に描く本書は物語としての面白さに満ちている。

無数の犬はそれぞれの数だけ運命が与えられる。その無数のエピソードが著者の手によって文章にあらわされる。無数の縁の中で同じ祖先を持つ犬がすれ違う。それは壮大な種の物語だ。
その面白さを血脈に見いだし、大河小説として読む向きもいるだろう。
だが、犬にとってはお互いの祖先が等しい事など関係ない。血統などしょせん、当人にとっては関係ない。そんなものに気をかけるのは馬の血統に血道をあげる予想屋か、本書の語り手ぐらいのものだ。

本書は、血統に連なって生きたそれぞれの犬の生を人間の愚かな戦争の歴史と組み合わせるだけの物語ではない。
それだけでは単なるクロニクルで本書が終わってしまう。

本書は犬たちのクロニクルの合間に、犬と少女との心の交流を描く。
ただし、交流といってもほのぼのとした関係ではない。付き合う相手が軍用犬である以上、それを扱う少女も並の少女ではない。
少女はヤクザの親分の娘であり、そのヤクザがロシアにシノギを求めて進出した際、逆に人質としてとらわれてしまう。11歳から12歳になろうかという年齢でありながら、自らの運命の中で生の可能性を探る。

少女が囚われた場所は、ソ連の時代から歴戦の傭兵が犬を訓練する場所だった。
その姿を眺めるうちに、ロシア語の命令だけは真似られるようになった少女。イヌと起居をともにする中で調教師としての素質に目覚めてゆく。

軍用犬の殺伐な世界の中でも、人と犬の間に信頼は成り立つ。
それをヤクザの素養を持つ少女に担わせたところが本書の面白さだ。
単なる主従関係だけでなく、一方向の関係だけでなく、相互に流れる心のふれあい。それを感じてはじめて犬は人間の命令に従う。
そのふれあいのきっかけとなった瞬間こそが、本書のタイトルにもなった言葉だ。

人の歴史を犬の立場から描いた本書は、斬新な大河小説だと言える。

‘2020/07/11-2020/07/12


さくら


最近の私が注目している作家の一人が著者だ。
著者の「サラバ!」を読み、その内容に心を動かされてから、他の作品も読みたくて仕方がない。
著者の作品は全てを読むつもりでいるが、本書でようやく三冊を読んだにすぎない。

本書は著者が上梓した二冊目の作品らしい。
本書を読んでみて思ったのが、二冊目にして、すでに後年の「サラバ!」を思わせる構成が出来上がりつつあることだ。
基本的な構成は、ある奇矯な家族の歴史を描きながら、人生の浮き沈みと喜怒哀楽を描くことにある。
個性的な家族のそれぞれが人生を奔放に歩む。そして、それぞれの個人をつなぐ唯一の糸こそが家族であり、共同体の最小単位として家族を配している。
「サラバ!」も家族が絆として描かれていた。本書もまた、家族に同じ意味合いを持たせている。

本書でいう家族とは長谷川家のことだ。
主人公の薫が久しぶりに帰京する場面。本書はそこから始まる。
薫が帰ってきた理由は、広告の裏に書かれた父からの手紙がきっかけだった。
薫が帰った実家に待っていたのは、太った母親と年老いた犬さくらの気だるいお迎えだ。その傍らで妹のミキが相変わらずお洒落に気を使っている。

なにやらいわくがありそうな長谷川家。
著者は長谷川家の今までのいきさつを語ってゆく。
美男と美女だった父と母。二人が出会い、結婚して最初に生まれたのが薫の兄、一だ。
さらに薫が生まれ、しばらくしてミキが生まれる。美しく貴いと書いてミキ。
その名前は、はじめての女の子の誕生に感動した父が、こんなに美しく貴い瞬間をいつまでもとどめておきたいと付けた。

この時、長谷川家は幸せだった。幸せを家族のだれもが疑うことがなかった。
誰にでもモテて人気者の兄。それなりに要領よく、目立たぬようにそつなくこなす薫。そして誰の目をも惹く美貌を持ちながら、癇の虫の強いミキ。三人が三様の個性を持ちながら、幸せな父と母のもと、長谷川家の将来は晴れわたっているはずだった。

そんな家族のもとにやってきたのが、雑種の大型犬であるさくら。
その時期、両親は広い庭のついた家を買い、さくらはその庭を駆け回る。
何もかもが満たされ、一点の曇りもない日々。
なんの屈託もない三人兄妹と両親にはユニークな知り合いが集まってくる。
父の昔からの友人はオカマであり、ミニには同性愛の傾向がある。兄の一の彼女は美貌をもちながら家庭に問題を持つ矢嶋さん。

長谷川家をめぐる人々に共通するのは、マイノリティという属性だ。
同性愛もそうだし、性同一性障害も。
周りがマイノリティであり、そのマイノリティの境遇は長谷川家にも影響を及ぼす。それは本書の展開に大きく関わるため、これ以上は書かない。

とにかくいえるのは、本書がマイノリティを始めとしたタブーに果敢に挑んだ作品ということだ。
尾籠な話と敬遠されがちなうんこやおしっこに関する話題、子作りのセックスに関する話題、そしてマイノリティに関する話題。
どれもこれも書くことに若干のためらいを覚えるテーマだ。ところが著者はそのタブーをやすやすと突破する。さり気なく取り上げるのではなく、正面切って描いているため、読む人によっては抵抗感もあることだろう。

だが、ここまでタブーを堂々と取り上げていると、逆に読者としても向かい合わずにはいられなくなる。本書の突き抜けた書き方は、タブーをタブーとして蓋をする風潮に間違いなく一石を投じてくれた。

何よりもわが国の場合、文学の伝統が長く続いている割には、そうしたタブーが文学の中から注意深く取り除かれている。もちろんそれは文学の責任ではない。
今までの日本文学もその時代の日本の世相の中では冒険してきたはずだと思う。
だが、その時代ごとの日本社会にはびこるタブーが強すぎた。そのため、今から考えるとさほど刺激が強くないように思えても、当時の世論からはタブーを取り扱ったことで糾弾されてきた。
そして、今までに文学で取り上げられてきたタブーの中でも、障害者の問題や性的マイノリティの問題はまだまだ正面から描いた作品は少ないように思える。

そんなマイノリティを描いた本書であるが、マイノリティであるからこそ、それをつなぐ絆が求められる。
それこそが家族だ。本書では、マイノリティをつなぐ紐帯として家族の存在を中心に置いている。
あまりにも残酷な運命の神は、長谷川家をバラバラにしようと向かい風をひっきりなしに吹き付けてくる。
本書の表現でいうと、「ああ神様はまた、僕らに悪送球をしかけてきた。」という感じで。

そうした逆境の中、薫と父の帰還を機に家族が一つになる。
そして、一つになろうとする家族にとって欠かせないのがさくらの存在だ。
さくらは言葉がしゃべれない。それゆえに、自己主張が少ない。だからこそ奇天烈な家族の中でさくらは全員をつなぐ要であり得た。
著者はさくらの心の声を描くことで、さくらにも人格を与えてる。むろんその声は作中の人物には聞えない。だが、さくらの心の声をさりげなく混ぜることで、さくらこそが家族をつなぎとめる存在であると伝えているのだろう。

実は人間社会にとって、ペットも立派なマイノリティだ。
そして、ペットとはマイノリティでありながら、要の存在にもなりうる。そのようなペットの役割を雄弁に語っているのが本書だ。
実際、著者はあとがきにもそのことを書いている。そのあとがきによると著者の飼っていたサニーという雑種がさくらのモデルらしい。著者はいかなる時も尻尾を振って意志を表わすサニーにどれだけ慰められたかを語る。その経験がさくらとなって本書に結実したのだと思う。

私もペットを二匹飼っている。彼女たちには仕事の邪魔もされることが多いが、慰安となってくれる時もある。
ワンちゃんを飼うとその存在を重荷に感じることがある。だが、本書を読んでペットもマイノリティであることを感じ、もう少し大切にしないとな、と思った。

また、私の中に確実にあるはずのマイノリティへの無意識のタブー視も、本書は意識させてくれた。勇気をもってタブーに目を向けていかないと。そして克服していかないと。
そもそも誰しもマイノリティだ。
自我は突き詰めると世界から閉ざされている。その限りにおいて、人は本質では確実に孤独で少数派の存在なのだ。
だからこそ、最小の信頼しあえるコミュニティ、家族の重要さが際立つ。

そして、人生にはマイノリティにもマジョリティにも等しく、山や谷が待ち構えている。
そうした試練に出会う時、本心から心を許せる家族を持っていると強い。
本質的にマイノリティな人間であるからだ。
マイノリティが自らの核を家族に預けられた時、マイノリティではなくなる。たとえ社会の中ではマイノリティであっても、孤独からは離れられるのだ。
その確信をくれたのが本書だ。

‘2019/3/24-2019/3/28


最後のウィネベーゴ


饒舌の中に現れる確かな意思。著者が物語をコントロールする腕は本物だ。

以前読んだ『犬は勘定に入れません』でも著者の筆達者な点に強い印象を受けた。本書を読んで思ったのは、著者が得意とするのは物語のコントロールに秀でたストーリーテラーだけではなかったということだ。

ストーリーテラーに技巧を凝らすだけではなく、著者自身の個人的な思想をその中に編み込む。本書で著者はそれに成功し、なおかつ物語として成立させている。本書に収められた4編は、いずれも饒舌に満ちた展開だ。饒舌なセリフのそれぞれが物語の中で役割を持ち、活きいきと物語に参加する。そればかりでなく積み重なっていくセリフ自身に物語の進路を決定させるのだ。その上ストーリーの中に著者の個人的な思想の断片すらも混ぜ込んでいるのだから大した文才だ。そもそも、口承芸でない小説で、地の文をあまり使わずセリフのほとんどで読ませる技術はかなりの難易度が要ると思う。それをやすやすと成し遂げる著者の文才が羨ましい。

女王様でも
これは、アムネロールという月経を止める薬が当たり前のように行き渡った未来の物語。アムネロールなる架空のSF的設定が中心ではあるが、内容は女性の抱える性のあり方についての問題提議だ。月経という女性性の象徴ともいうべき生理現象への著者なりの考えが述べられている。本書には生理原理主義者ともいうべき導師が登場する。導師である彼女は月経を止める試みを指弾する。それは男性を上に置く愚かな行いであるというのだ。彼女は生物としての本来の姿を全うするようパーディタを導こうとする。パーディタとは本編に登場する一家の末娘。アムネロールが当たり前となった周囲とは違う導師の教えに惹かれる年代だ。

一家の長はパレスチナ問題の解決に東奔西走する女性であり、本書には生理の煩わしさから解放された女性の輝きが感じられる。それは当然ながら著者の願望でもあるはずだ。

一家はパーディタを呼び出し、導師の主催する集まりからの脱退を忠告する。だが、そこに現れたのは導師。導師は話を脱線させがちな一家の女性たちの饒舌に苛立ち席を立つ。男性支配に陥った哀れな人々、と捨て台詞を残して。だが、導師の苛立ちは女性に特有の饒舌への苛立ちであり、導師の中に男性支配の原理を読み取ったのは私だけだろうか。

月経のつらさは当然私には分からない。だが、本章の最後で月経の実態を聞かされたパーディタが発する『出血!? なにそれ、聞いてないよ!』のセリフに著者の思いが込められている。かくも面倒なものなのだろう。女性にとって生理というやつは。

著者は本編で、女性性と男性性は表裏一体に過ぎないという。そんな七面倒な理屈より、女性にとって月経がとにかく厄介で面倒なのだ、という切実な苛立ちを見事にドタバタコントに収め切ったことがすごいのだ。

タイムアウト
時間発振器という機械の実験に伴うドタバタを描いた一編だ。時間は量子的な存在だけでなく、現在子としてばらばらに分割できるというドクターヤングの仮説から、登場人物たちの過去と未来がごちゃ混ぜに現在に混入する様を描く。著者のストーリーテリングが冴えわたり、読み応えがある。

本章では、家庭の些事に忙殺されるうちに、輝ける少女時代を失ってしまう事についての著者の思いが投影されている。本編に登場するキャロリンの日常は子育てと家庭の些事がてんこもり。ロマンスを思い出す暇すらもない日々が臨場感を持って描かれている。著者自身の経験もふんだんに盛り込んでいるのだろう。

過ぎ去りし日々が時間発振器によって揺さぶられるとき、人々のあらゆる可能性が飛び出す。本編はとても愉快な一編といえるだろう。

スパイス・ポグロム
これまたSF的な雰囲気に彩られた一編だ。異星人とのカルチャーギャップを描いた本編では、全編がドタバタに満ち溢れている。舞台は近未来の日本。日本にやって来た英米人を書くだけでもカルチャーギャップの違いでドタバタが書けるところ、異星人を持ってくるところがユニーク。異性人の言動によってめちゃめちゃになるコミュニケーションがとにかくおかしい。著者が紡ぎだす饒舌がこれでもかというばかりに味わえる。

著者は本編でコミュニケーションの重要性よりも、コミュニケーションが成り立つことへの驚きを言いたいのではないか。一般にコミュニケーションが不得手と言われる日本を舞台にしたことは、日本人のコミュニケーション下手を揶揄するよりも、コミュニケーションの奥深さを指している気がする。ただ、いくら技術が進歩しようとも、あくまでコミュニケーションの主役は人類にあるはず。とするならば、コミュニケーションの不可思議さを知ることなしに未来はないとの著者の意見だと思われる。

最後のウィネベーゴ
表題作である本編で描かれるのは、滅びゆくものへの愛惜だ。情感を加えて描かれる本編は何か物悲しい。イヌが絶滅しつつある近未来の世界。イヌだけでなく動物全般がかつてのようにありふれた存在ではなくなっている。そればジャッカルも同じ。その保護されるべきジャッカルが、ハイウェイで死体となって発見された事で本編は始まる。ジャッカルはなぜ死んだのか、という謎解きを軸に本編は進む。

犬のいない世界が舞台となる本編のあちこちに犬への愛惜が織り込まれる。人類にとってこの惑星で最良の友とも言える犬。犬が居ない世界は愛犬家にとっては悪夢のような世界だろう。おそらくは著者もその一人ではないか。犬がいない世界の殺伐とした様子を、著者はじっくりと描きだす。

たとえ殺伐とした未来であっても、当然そこを生活の場とする人々がいる。そんな人々の中に、キャンピングカーで寝起きする老夫婦がいる。彼らの住まいはかつてアメリカでよく見られた大型キャンピングカーのウィネベーゴ。老夫婦はウィネベーゴを後生大事に使用し、観光客への見世物として生計を立てる。老夫婦は、本編においては喪われるものを慈しむ存在として核となる。イヌのいない世界にあって、彼らにとってのウィネベーゴは守らねばならないものの象徴でもあるのだ。

本編からは、現代の人類に対する問題提起も当然含まれる。われわれが当たり前のように享受しているモノ。これらが喪われてしまうかもしれない事を。

巻末には編訳者の大森望氏による解説もつけられている。こちらの内容はとても的確で参考になる。

‘2016/5/30-2016/6/3


都心には皇居という緑があるのに、自然には冷たい


梅雨入りとなり、湿度の高い日々が続きます。そんな湿っぽい日常をもっと湿らせる光景を目撃しました。 それは、燕の巣に対するこの仕打ち。 IMG_5934

毎日通っている客先近くのビル。このビルの一階部分は、立体駐車場の入口も兼ねています。この入口の天井には警告用のパトランプが備え付けられていて、毎年、燕が営巣します。今年も五月の連休が明けた頃、巣作りに励むつがいを見かけました。野生でありつつ、たくましく人間の施設を利用する子育てに共感し、毎日の通りすがりに応援していました。 IMG_5053

やがて雛たちも数羽姿を見せ、ますます賑わいを見せる天井の巣。私も毎日巣を横目に見ながらその家庭的な営みに癒されていました。ところがある日、巣を残して忽然とツバメ達は姿を消してしまいました。私も相当落胆しました。 ところが、数日後、何気なく通りがかったところ、パトランプの反対側に巣が出来ているではありませんか!不屈のツバメがめげずに営巣の準備に勤しむ様子を確認できました。或いは別のツバメがよい場所を見つけたとやってきたのかもしれませんが、やった!頑張れ~と私は内心で喝采を叫びました。

ところが翌日、わくわくしながら、雛の誕生を見に行ったのですが、そこで見たのは冒頭に載せた写真のような衝撃的な仕打ちでした。燕の営みは破壊され、二度と復活出来ないようにされていました。

毎朝この場所を通うようになって、三度目の春です。実は巣が壊される光景を見るのは今回が初めてではありません。この場所で巣作りをしたツバメは、毎年何者かに巣作りを中断させられているのです。壊されたり撤去されたり。それにも関わらず、今年も果敢にチャレンジしたつばめの行為は無惨な結末を迎えました。それも今まで見た中で一番救いのないやり方によって!

おそらく巣を撤去した何者かは、このビルの関係者かもしれません。その何者かが巣を撤去するに当たっては、私などのうかがい知れぬ深い事情があったのかも知れません。店子の車の天井に粗相をしたり、あるいは店子が頭にウンを授けられたりしたのかも。店子の怒髪が天を衝き、巣は刺されたのでしょう。撤去した何者かの気持ちも分からないでもありません。私としても、家の玄関の頭上に営巣されたら温かく見守りますが、妻の歯科診療室の入口頭上に営巣されたら、何らかの策は考えざるを得ません。巣の撤去人の事情が分からない以上は安易な断罪は控えるべきなのかもしれません。ええ、そうですとも。

しかし、あの口をピーチク開けていた雛たちの行く末を思うと、心の片隅がじめじめし、カビが繁殖していくかのようです。梅雨だというのに、誕生日を迎えたばかりというのに。せめて、巣の処刑人が、巣をまるごと安全な場所に移設し、そこで無事に雛を旅立たせてくれていれば、私の心も晴れ渡るのですが。

一方で、そんな私の気持ちを晴れやかにさせる出来事もありました。

我が家の四女であるヨークシャーテリアの野々花。このやんちゃなレディが野生に呼ばれ、行方不明になってしまいました。夜間のことだったので、闇に紛れてしまい、探しても見つからず。しかも悪いことには、今梅雨史上最高の土砂降りが我が家の周辺を襲いました。気温が上がったとはいえ、これだけの雨に叩かれたら、せめて雨の凌げる場所に逃げていてくれたら・・・そんな夜を過ごしました。

翌朝、野々花の行方は、町田警察署からの連絡で判明しました。しかも、保護されたのが雨の降る前だったらしく、つやつやした毛並みのままに。届けて下さった方には感謝の言葉しかありません。その方に直接お礼の言葉を掛けられればどんなに良かったか。(個人情報保護を盾に警察署では教えてくれませんでした。この件については云いたいこともあるので、また書きます)

実は我が家にはチワワのお姉さんも居て、名を風花といいます。この風花も飼い主に似てか、しょっちゅう脱走し、放浪するのです。特に引越日当日にいなくなった際は、全く行方がつかめず、町田市中のペットショップに貼り紙をしてもらい、近所のスーパーにも貼り紙をさせてもらいました。その結果、2週間後に我が家に戻ってきたのですが、その際にも親切なお宅の家で保護されていました。しかも前よりも肥太って悠々と。

私の住む町田は、駅前の繁華街こそ西の渋谷という異名をとるほどに俗っぽくなってしまいました。しかし、私の住む家の近所はまだまだ自然に恵まれ、住宅地と農地が共存できています。そして、犬を愛する親切な人々が住まって下さっている場所でもあります。貴志祐介氏による小説「悪の経典」の舞台でもあるのですが、小説に出てくる「ハスミン」とは違って人情の感じられる場所です。

都会だから酷薄で、田舎だから人情。そういった紋切り型の判断をするのは禁物です。それはよく分かっています。分かってはいるのですが、今回のツバメの一件を思い返すに、どうしてもそういう思いが湧いてしまうのです。一度そう思ってしまうと、このあたりの瀟洒な邸宅街に対して、少し距離を置いた感想を抱いてしまいかねません。住まわれている方々はツバメを排除する人々ではなく、むしろ素晴らしい人々なのでしょう。なのに、ツバメの一件だけでそう思わせてしまうほど、今回の一件からは強烈な印象を植え付けられました。靖国神社や東郷元帥記念公園、清水谷公園、千鳥ヶ淵公園といった素晴らしい公園を擁し、大使館や学校といった上品な建物が多いこのあたり。私もその雰囲気に好意を持っているこの地。

そういえば、この界隈、普段昼食で歩き回っていて、犬や猫にほとんど会うことがありません。ツバメが営巣に来るくらいだから、近隣の自然も相当豊かなのに違いありません。あるいは皇居の森は相当数のツバメの一大繁殖地となっているのかもしれません。このあたり、本来は自然にあふれた素晴らしい場所のはずなのです。私のような町田の農村地に住む者にとっても、このあたりの緑の豊かさは一頭群を抜いています。これは私の故郷大阪の都心部の緑の乏しさと比べれば断然の違いです。例えば大阪環状線の内側で思いつく緑といえば、大阪城公園と靱公園、天王寺公園、御堂筋の並木くらいでしょうか。それに比べ、東京の都心部の豊かさはくらべものになりません。

それなのに街からはツバメを排除し、人間の営みを優先する。何かがズレテイル。

この辺りは、かつて入江でした。入り江であるがゆえに、地盤は脆弱です。そしていずれは来るといわれている首都圏直下型地震もこのあたりに甚大な被害をもたらすとされています。自然を目の前にしながら、自然を忘れた人々。存在を遠ざけ、忘れていた自然から、いつか手痛いしっぺ返しを食らわないとも限りません。

皇居ではよく自然観察会が開かれているといいます。私もまだ一度も参加したことがありません。もし、ツバメの巣を××された方が、ツバメに対して愛着がゼロなのであれば、こちらの拙文を読む機会があったら、一度は皇居の見学会に行かれてみてはいかがでしょうか。普段どれだけの宝物に囲まれ、どれだけの不安定な場所に住んでいるのか、思いを致すとよいです。