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サクリファイス


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本書は、第5回本屋大賞で二位になったという。と同時に大薮晴彦賞を受賞したそうだ。
その帯の文句にもひかれ、本書を手に取った。

本書が取り上げるのは、自転車ロードレースの世界。
休日に旅先でよくロードレーサーを見かける。数人で列を作り、整然と走る姿は清々しい。

私自身、かつてマウンテンバイクで台湾を一周したことがある。
現地の百貨店で購入した自転車で一周するといういきあたりばったりの旅だったが、なんとか十日ほどで完走した。
もちろん、大学生五人による完全に素人の集まりだったので、この旅で自転車を極めたというつもりは毛頭ない。けれど、なんとなく自転車で長距離を旅する上で気をつけ、心を配るべき勘所はおぼろげに感じたつもりだ。

だが、本書で描かれる自転車ロードレースの世界は、私の理解をはるかに超えて深い。犠牲や駆け引きなど、想像を遥かに超えた複雑な競技のようだ。私はそのことを本書に教えてもらった。

ヨーロッパでは自転車ロードレースはとても人気のある競技である。それは以前から知っていた。本書の中でも言及されているツール・ド・フランスはテレビ中継を視聴したこともある。

だが、私は自転車レースをチーム戦だとあまり考えていなかった。もちろん、チームで参加する以上は団体競技の性格もあるのだろうと思っていたが、ここまでとは。せいぜい、F-1のように二人のチームドライバーがいて、ポイントによっては一方のドライバーがもう一人に勝ちを譲る程度でしか考えていなかった。そもそも、実業団レースと言う認識すら希薄だった。

そうした競技レースの世界に焦点を当てた本書は、一見すると個人競技にも思える自転車ロードレースの競技が、実はチームプレイの性格を強く持っていることを教えてくれる。

似たような競技として、公営ギャンブルである競輪がある。競輪の勝ち負けを決めるのは、単なる速さなどの身体能力だけではないと聞いたことがある。先輩と後輩の関係や、仲の良さ、出身地など、速さ以外の要素が勝敗を分けるため、競輪ファンはそこも含めて予想するそうだ。

ロードレースの世界も、それが当てはまるらしい。チームの中でエースやアシストの役割が設けられる。
各ステージごとの勝利と年間を通しての勝利を目指し、各地の各ステージを転戦する。各ステージは、それぞれ山岳コースや平地のスプリントコースなどの特色がある。選手は自らの得意なコースとそうでない場所を判断し、勝てるところでは全力で勝利を目指す。そうでないコースではポイントを積み上げて年間を通しての勝利のために走る。
だが、ロードレースはチームプレーが求められる。であるが故に、脱輪したエースのためにアシストの選手がその場でタイヤを差し出す事もある。レースを棄権することもあるし、勝てるレースであってもあえてエースに勝ちを譲らなければならないこともある。

自転車ロードレースが持つ密接なチームワークと駆け引き。その世界は、部外者にはわかりづらい。
本書はその人間関係に着目している。各地を連戦する過酷な戦いを描きながら、チームの中で起こる軋轢や葛藤と、そこから生じる人間ドラマを物語に仕立てている。

本書のタイトルのサクリファイスとは、犠牲を意味する。
チームのために犠牲となる選手は、内面にどういう重苦しい思いを宿しているのか。
チームや選手の過去に起こった悲劇。それは犠牲やチーム内の人間関係の葛藤が生んだのかもしれない。
チーム内の疑心とそこから生まれる微妙な人間関係のひだを盛り込みつつ、著者はミステリ仕立てで選手の内面や戦う姿を描ききった。そこに本書の面白さがある。

主人公は、チーム・オッジのチカだ。チカこと、ぼくの視点で本書は物語られる。
チカは、チーム・オッジには入ったばかりの若手だ。チーム・オッジには、同期の伊庭とチームのエースである石尾、それに他のメンバーもいる。各選手たちの互いの協力のもと、スタッフも含めて各地のレースを転々としている。
チカはもともと陸上の選手だったが、速さ故に受ける注目が重荷となった。そのため、チームプレイに徹することもできる自転車ロードレースの世界に飛び込んだ。
だから、もともとアシストの役目に徹することには何の屈託もない。だが、その心はなかなかチームメートには伝わらない。

同期の伊庭は選手としての野心を持ち、それを隠そうともしない。
そんな伊庭に比べ、チカはクライムヒルのコースに強さを発揮し、単なるアシストには終わらない存在感を大会で示し始める。
そんな若い二人の台頭に、エースの石尾はポーカーフェースを貫き、何を考えているのかわからない。
だが、石尾にはかつてレースの中で事故で衝突した仲間が、選手生命を断念した過去を背負っている。その事件については、石尾の地位を脅かそうとしたその選手を石尾が妨害したのではないかとの疑いがささやかれている。

チカは、そんな選手たちの間に漂う空気を感じつつも、選手としてやるべきことを行う。
そんなチカのアシストとしての献身は、海外のチームからも注目され、チームへの誘いもかかる。

日本人選手にとって、海外のチームに参戦する事は見果てぬ夢の一つだ。そこに惹かれるチカ。そうした、選手としての素直な夢とアスリートとしての矜持。そこにチームメートとの駆け引きがうまく絡む。微妙なバランスの上に立つ関係を著者は絶妙に書き分け、物語を進めていく。

かつての石尾が起こした事故の背後にはどういう事情があったのか。
その謎を物語の背後におきながら、本書に陰湿な読後感はない。むしろアスリートとしての気持ちの純粋さを感じさせる余韻。それこそが本書の評価を高めたのだろう。

私はチームプレイがあまり得意ではない。そうした駆け引きが苦手な方だ。だが、また機会があれば数人で近距離の自転車の旅はしてみたいと思う。

‘2020/08/28-2020/08/29


R帝国


著者による『教団X』は凄まじい作品だった。宗教や科学や哲学までを含めた深い考察に満ちており、読書の喜びと小説の妙味を感じさせてくれた。

本書はタイトルこそ『教団X』に似ているが、中身は大きく違っている。本書は政治や統治や支配の本質に切り込んでいる。

「朝、目が覚めると戦争が始まっていた。」で始まる本書は、近未来の仮想的な某国を舞台にしている。
本書は日本語で書かれており、セリフも日本語。そして登場人物の名前も日本人の名前だ。

それなのに本書の舞台は日本ではない。日本に限りなく近い設定だが、日本とは違う別の国「R帝国」についての小説だ。

本書を読み進めると、R帝国に隣り合う国が登場する。それらの国は、中国らしき国、北朝鮮らしき国、韓国らしき国、ロシアらしき国、アメリカらしき国を思わせる描写だ。
だが本書の中ではR帝国が日本ではないように、それらの国は違う名前に置き換えられている。Y宗国、W国、ヨマ教徒、C帝国といった具合に。

一方、本書内にはある小説が登場する。その小説に登場する国の名前は”日本”と示されているからややこしい。
その小説では、日本の沖縄戦が取り上げられている。

なぜ沖縄戦が起きたのか。それは当時の大本営の作戦指導によって、日本の敗戦を少しでも遅らせるための時間稼ぎとして、沖縄が選ばれたからだ。それによって多くの県民が犠牲となった。
沖縄県庁の機能は戦場での県政へと強いられ、全てが軍の指導の下に進められた。その描写を通し、著者は戦いにおいて民意を一切顧みずに戦争に人々を駆りる政治の本質に非道があることを訴えている。

作中の小説では日本を取り上げながら、本書には日本は登場せず、R帝国と呼ぶ仮の存在でしかない。
おそらく著者は、本書で非難する対象を日本であるとじかに示さないことによって、左右からの煩わしい批判をかわそうとしたのかもしれない。

政治やそれをつかさどる政府への著者の態度は不信に満ちている。もちろんそこに今の日本の政治が念頭にあることは言うまでもない。
著者の歴史観は明らかであり、その考えをR帝国として描いたのが本書であると思う。
本書には政府がたくらむ陰謀が横行している様子が書かれる。民が求める統治ではなく、政府の都合を実現するための陰謀に沿った統治。統治がそもそも民にとっては無意味であり、有害であることを訴えたいのだろう。
その考えの背後には、合法的な政権奪取までのプロセスの背後にジェノサイドの意図を隠し持っていたナチスドイツとそれを率いるヒトラーを想定しているはずだ。

こうした本書の背後の考えは普通、陰謀論と位置付けられるのだろう。
だが、私は歴史については、もはや陰謀があったかどうかを証明することが不可能だと思っている。そのため陰謀論にはあまり関わらず、あくまで想像力の楽しみの中で取り扱うように心がけている。
あると信じれば陰謀はあるのだろう。政府がより深い問題から目をそらさせるためにわざと陰謀論を黙認していると言われれば、そうかもしれないとも思う。

本書は、陰謀論を好む向きには好評だろう。だが、私のように陰謀論から一定の距離を置きたいと考える読者には、物足りなく思える。
少なくとも、私にとって著者の『教団X』に比べると本書は共感できなかった。

批判的に本書を読んだが、本書には良い点もある。全体よりもディテールで著者が語る部分に。

「歴史的に、全ての戦争は自衛のためという理由で行われている。小説『ナチ』のヒトラーですら、一連の侵略を自衛のためと言っている。もしあの戦争でナチが勝利していれば、歴史にはそう書かれただろう。
相手に先に攻撃させる。国民を開戦に納得させるための、現代戦争の鉄則の一つ。
あまりにも大胆なこういう行為は、逆に疑われない。なぜなら、まさか自分達の国が、そんなことをするとは思えないから。それを信じてしまえば、自分達の国が、いや、自分達が住むこの世界が、信じられなくなって不安だから。無意識のうちに、不安を消したい思いが人々の中に湧き上がる。その心理を“党“は利用する。
無意識下で動揺している人ほど、こういう「陰謀論」に感情的に反論する。そうやって自分の中の無意識の思いを抑圧し消そうとする。上から目線で大人風に反論し安心する人達もいる。そもそも歴史上、一点の汚点・悪もない先進国など存在しないから、国の行為全てを信じられること自体奇妙だがそういう人はいる。」(239ページ)

私も、ここに書かれた内容と同じ考えを持っている。
先進国のすべてに歴史上の悪行はあると考えているし、そのことに対して感情的に反応する人を見ると冷めた気分になる。
そもそも国とは本来、定義があいまいなものだ。集団が組織となり、それが集まって国となる。同じ民族・人種・言葉・文化を共通項として。国とはそれだけの存在にすぎない。
そのようなあいまいな国を存続させるには、民に対してもある幻想を与える必要がある。
その幻想を統治する根拠を文化や宗教や民族や経済や福祉といったものに置き、最大多数の最大幸福の原理を持ち出して全体の利益を奉る。

そのため、政府とは個人の自由を制限する装置として作動し、全体の利益を追求する。個人とは本質的に相いれない。

人は生きているだけで、他の人に影響を与える生き物だ。生きている以上、その宿命からは逃れようがない。生きているだけで環境は消費され、人口密度が増すのだから。
そうすると行き着くところは個人的な内面の自由だ。

とはいえ、私は陰謀論の信者になろうとは思わない。国による陰謀を信じようと信じまいと、現状は何も変わらないからだ。
自由意志を信じる私の考えでは、政府による統治や統治の介入をなくし、自分の生を全うするためには自分のスキルや考えを研ぎ澄ませていくしかない。
「僕は自分のままで、……自分の信念のままで、大切な記憶を抱えながら生涯を終えます。それが僕の……プライドです」
私は本書とそのように向き合った。

ところが、宗教は内面の自由までも支配下におこうとする。一人もしくは複数の神の下、崇高な目的との縛りで。

本書にもある教祖が登場する。その教義も列挙される。
おそらく、『教団X』にも書かれた宗教と科学の問題に人の抱える課題は集約されていくはずだ。だが、その日が来るのは永遠に近い日数がかかると思う。

「人間は結局素粒子の集合でできている。生物も結局は化学反応に過ぎないとすれば、この戦争も罰も、ただ人間にはそう見えるだけで、実は物理学的なしかるべき流れ、運動に過ぎないと言う風に。…その運動を俯瞰して眺める時、私はそこに、温度のない冷酷さしか感じない。見た目は激痛を伴う戦争であるのに、ただの無意味な素粒子達の流れ、運動である可能性が高いのだ。この奇妙な感覚に耐えるためかのようにね、私もどんどんと人間でなくなっていくように思うのだよ。もし私が戦争で莫大な数の人間を殺し、R帝国を破産させ、これまでの支配層の国々に飛び火させ、それで得た天文学的な資産で今度は貧国を助けるつもりだとしたらどうだ? 私がというより、何かの意志がそのつもりだったとすれば、結果的にお前は将来の善の実現を阻むことになる。」(362ページ)

あとがきに著者が書いているとおり、私たちが持つべき態度は「希望は捨てないように」に尽きる。

‘2020/08/16-2020/08/17


戦場に散った野球人たち


東京ドームに併設されている野球体育博物館。私が毎日通っても飽きないと断言できる博物館の一つだ。だが、忙しさのあまり、なかなか訪れる暇がない。本書を読み終えた時点では、最後に訪れてから10年以上経っており、生涯でも二三度しか訪問できていなかった。

数年前、当時後楽園に本社のあったサイボウズ社でのイベントで後楽園を訪れたことがあった。その帰り、野球体育博物館を訪問したのだが、閉館時刻に間に合わず涙を呑んだ。その時、館内に入れないのならせめて一目見ようと探し回ったのが鎮魂の碑。その時点で私はまだ一度も鎮魂の碑を観たことがなかった。にもかかわらず、その時は鎮魂の碑を見つけられず退散した。

小学校三、四年生の頃から野球史を読むのが好きで、大人向けの野球史の書物を読んでいた私。戦前の野球人についての記事を読むと必ず出てくるのが戦没の文字だ。子供心にも、その言葉には志半ばで奪われた命の無念のようなものを感じていた。沢村栄治、景浦将、吉原正喜、嶋清一、楠本保。子供の私にとって、それら戦没野球人は特別な存在だった。子供の頃の私が意識した初めての戦争犠牲者とは、戦没野球人のことだったように思う。それもあって、一度は鎮魂の碑は見たいと思っていた。

本書は、それら戦没野球人を列伝式に取り上げている。

「新富卯三郎」「景浦将」「沢村栄治」「吉原正喜」「嶋清一」「林安夫」「石丸進一」
本書で取り上げられているのはこちらの七名。いずれも戦前のプロ野球選手であり、戦没して靖国神社の祭神となっている。

それぞれの章では、中等野球や大学、プロ野球と故人の関わりに筆を費やしている。そして、戦中の消息と分かっている限りの最期の瞬間を描き出している。これは各章に共通する構成だ。

本書で取り上げられた戦没野球人のうち、「新富卯三郎」はかろうじて名前を記憶していた程度。球歴やその死に様など詳細な事実を知ったのは本書を読んでの事だ。また「林安夫」は凄まじいまでのシーズン登板回数で名前を知っていた。だが、最期の様子は本書を読むまで知らなかった。

「景浦将」「沢村栄治」「吉原正喜」「嶋清一」については私が子どもの頃からすでに伝説の人々。その無念さは子供の私にもつたわっていた。後年、書かれた記事や書籍のいくつかは読んだことがある。でも、本書を通して初めて知ったこともある。「沢村栄治」の師匠が巨人の往年のエースだった中村稔氏の師匠と同じであるエピソードは聞いたことがあった。が、巨人・中日で活躍した西本聖投手のフォームが「沢村栄治」の師匠を通して中村稔氏から伝授された事は本書を読んで初めて知った。テレビや野球カードでも西本氏の豪快な足をあげるフォームはおなじみだったが、それが沢村氏のあのフォームに由来を持っているとは知らなかった。

「石丸進一」については、実は伝記本を持っている。なので、最期のキャッチボールなどの逸話についても知っていた。

知っていた方も知らなかった事も含め、なぜ戦没野球人の逸話は人を惹きつけるものを持っているのだろう。それは多分、好きなものを戦争にうばわれた、という真っ直ぐな悲しみが伝わって来るからではないだろうか。戦争に命を奪われた人は、当たり前だが戦没野球人以外にもたくさんいる。出征して異国の地に眠り、靖国神社の祭神と祀られている人。核分裂の熱線に一瞬で妬かれた人。機銃掃射や焼夷弾に貫かれ焼かれた人。いずれも不条理な死を余儀なくされた。それらの犠牲者と戦没野球人を差別化するのが愚かな事はもちろんだ。それらの戦没者の方々にも好きな人やスポーツ、物事はあったはずだ。でも、戦没野球人を描いた文章からは好きな野球を奪われた無念がストレートに迫ってきたのだ。多分、子供の頃の私にはより一層強烈に焼き付けられた。

殺される、という悲劇にはさまざまな想いがついてまわる。妻や子や親にとってみれば親しい人が喪われた悲しみがあるはずだ。では、殺された当人にとってみればどうだろう。多分、殺される瞬間の恐怖もあるだろう。だが、それよりも自らが殺されることで、自分の一切の可能性が閉ざされる事、そして、したいと思っていた事が未来永劫できなくなる。その理不尽さへの無念ではないだろうか。

彼ら戦没野球人達が打ち込んだ野球。それは、今の我々が野球に対してもつ重みとは明らかに違う。彼らが打ち込んだ野球とは、野球害毒論として新聞紙上で公然と非難される野球であり、卑しい職業として風当たりの強かった職業野球の野球であり、敵性スポーツとして軍部から睨まれた野球なのだ。そんな野球への風潮をモノともせずに野球に打ち込んだ彼らがだからこそ、好きな野球を戦争に奪われたとの無念さが我々にも迫って来るのではないだろうか。

著者もおそらくは同じ思いを持っているのではないか。著者は私と同じ年でもあり、興味の向きも似ていることから、密かに注目しているノンフィクションライターである。以前にも『昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち』を読み、レビューを書いた。

本作もまた、私の心にビシッとハマる一作だ。著者のノンフィクションは私の心に訴える何かがある。

本書を読んで一ヶ月後、私は衝動を抑えられず、野球体育博物館を訪れた。もちろん、鎮魂の碑にも。その前でしばしたたずみ、好きな事を戦争で諦めざるをえなかった彼らに思いを馳せた。彼らは、物言わぬまま名前だけを私の前にさらしている。おそらく、戦没野球人達の名前は鎮魂の碑によって永らく残されることだろう。だが、彼らの事績は名前だけではない。本書で書かれたような、それぞれの青春や希望や人生、そして草創期の野球に捧げたという事実も忘れずにいたいものだ。

‘2016/01/12-2016/01/14