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FACTFULLNESS


本書は、とても学びになった。
本書を読んだ当時の感想は、7日間ブックカバーチャレンジという企画で以下の文書にしたためた。
その時から一年数カ月が経ったが、今も同じ感想を抱いている。

Day1で取り上げるのは「FACTFULLNESS」です。昨年、ベストセラーになりましたよね。

今、コロナを巡っては連日、さまざまな投稿が花を咲かせています。その中には怪しげな療法も含まれていましたし、私利私欲がモロ見えな転売屋による投稿もありました。また、陰謀論のたぐいが盛んにさえずられているのは皆様もご存じの通りです。

私はFacebookでもTwitterでも、そうした情報を安易にシェアしたりリツイートすることを厳に謹んでいます。なぜなら、自分がその道に疎いことを分かっているからです。
ですが、四十も半ばになった今、自分には知識がある、と思い込んでしまう誘惑があることも否めません。
私のように会社を経営し、上司がいない身であればなおさらです。
独りよがりになり、チェックもされないままの誤った情報を発信してしまう愚は避けたいものです。

本書は、私に自分の無知を教えてくれました。私が世界の何物をも知らない事を。

冒頭に13問の三択クイズがあります。私はこのうち12問を間違えました。
著者は世界各地で開かれる著名な会議でも、出席者に対して同様の問いを出しているそうです。いずれも、正答率は低いのだそうです。

本書の問いが重要なこと。それは、経歴や学歴に関係なく、皆が思い込みで誤った答えを出してしまうことです。
著者によれば、全ては思い込みであり、小中高で学んだ知識をその後の人生でアップデートしていないからだそうです。
つまり真面目に学んだ人ほど、間違いを起こしやすい、ということを意味しています。

また著者は、人の思考の癖には思い込ませる作用があり、その本能を拭い去るのはたやすくないとも説いています。

本書で説いているのは、本能によって誤りに陥りやすい癖を知り、元となるデータに当たることの重要性です。
また、著者の意図の要点は、考えが誤りやすいからといって、世の中に対して無関心になるなかれ、という点にも置かれています。

本書はとても学びになる本です。少しでも多くの人に本書を読んでほしいと思います。
コロナで逼塞を余儀なくされている今だからこそ。
陰謀論を始め、怪しげな言説に惑わされないためにも。

正直にいうと、私はいまだに偏見の霧に惑わされている。
というか、偏見に惑わされないと思うあまり、判断を控えている。
コロナの中でオリンピック・パラリンピックを開催し、その後、急に感染者数が減った事。私はこの時、なんの判断も示さなかった。
専門家でないことはもちろんだが、私の中で下手な判断をくだせば逆効果になると思ったからだ。
こればかりはFACTFULNESSを読んでも実践できなかった点だ。

「世界は分断されている」「世界がどんどん悪くなっている」「世界の人口はひたすら増える」「危険でないことを恐ろしいと考えてしまう」「目の前の数字がいちばん重要」「ひとつの例にすべてがあてはまる」「すべてはあらかじめ決まっている」「世界はひとつの切り口で理解できる」「だれかを責めれば物事は解決する」「いますぐ手を打たないと大変なことになる」
これらは本書が説く思い込みの例だ。

コロナは世界中でワクチンの争奪戦を呼び起こした。
その時、先進国ではいち早くワクチンが行き渡ったが、発展途上国ではいまだにワクチンが出回っていないという話も聞いた。
この情報は、果たして正しい情報なのか。
上記に書いた思い込みではないのだろうか。
私はこれもまだきちんと調べられていない。

FACTFULLNESSは怪しげなニュースソースに乗っかって言説を吐くことを諫めてくれた。
だが、このように一大事の際に何をみれば正しい情報を得るのか、という点については、一人一人が探していくしかない。
例えばテレビ番組では連日コロナ関連の報道がなされていたが、ああした番組をただ見比べて自分で判断していく以外に道が見つけられなかった。
テレビ局ごとに別の専門家が意見をいい、それを比較するのが精いっぱい。

本書の説く内容に従うならば、私たちはよりおおもとのニュースソースにあたり、加工・脚色された情報を見極めなければならない。
だが、コロナは遠くの国の出来事ではなく、自らに降りかかった災厄だ。しかも何が正しいのか専門家すらわかっていない現在進行形の出来事。
そうなると冷静に判断することも難しい。
それがコロナの混乱の本質だったように思う。

気を付けなければならないのは、これがコロナに限らないことだ。これから起こるはずのさまざまな事件や災厄についても同じ。
マスコミも私たちも等しく、コロナから学ばなければならないことは多いはず。反省点は多い。
「大半の人がどこにいるのかを探そう「悪いニュースのほうが広まりやすいと覚えておこう」「直線はいつかは曲がることを知ろう」「リスクを計算しよう」「数字を比較しよう」「分類を疑おう」「ゆっくりとした変化でも変化していることを心に留めよう」「ひとつの知識がすべてに応用できないことを覚えておこう」「誰かを責めても問題は解決しないと肝に銘じよう」「小さな一歩を重ねよう」
まずは、これらの提言を実践するしかない。

ただ、本書を読んだ後、私が実践し続けようと心がけていることはある。
それは謙譲の心だ。
上の7日間ブックカバーチャレンジの後、弊社は人を雇う決断をした。そして人を雇った。
それが今年だ。
人を雇うことによって、今までの一人親方として営業と開発と総務経理を兼ねる立場から指導する立場へと役割を変えた。

そうなると指導する前提で話をしなければならない。指導ということはあらゆることに秀でている必要があるのだろうか。
否。そんなことはない。
確かに開発にあたっては、知識が必要だ。
だが、本当に経営者は開発の知識において従業員を上回っていないとだめなのだろうか。
違うと思う。
その時に私の心に去来するのは、謙譲の心だ。決して自分が正しいと思わない。
これは本書から得た学びだ。13問のうち12問を間違えた自分が正しいはずがないのだから。

‘2020/04/20-2020/04/28


蛍の森


著者は被爆後の広島を語る上で重要な三人の人物を描いたノンフィクション「原爆 広島を復興させた人びと」を著した。私はこの本を読んで著者に注目した。
その著者が初めて出した小説が本書だ。

ハンセン病、またの名をらい病と呼ばれる病気がある。かつては業病として恐れられた。遺伝病と誤解され、患者は忌み嫌われた。各地にハンセン病患者を収容する隔離施設ができ、収容された後は子が作れないよう断種手術がなされた。そんな忌まわしい歴史がある。

今では遺伝病ではなく、菌に侵されることで発病するメカニズムが解明されている。らい菌の感染力は弱く、万が一発病しても殺菌と治癒が可能だという。伝染する可能性も、密接な接触がなければ高くないことが分かっている。

つまり、過去に行われていた患者に対する隔離や断種などの政策はいずれも、医療知識の不足が招いた迫害だったことが判明している。
らい予防法は廃止された。ここ数年はハンセン病患者による国を相手取った訴訟が各地で結審し、国の責任や違憲であったことなど原告の訴えが認められつつある。
ニュース報道の中ではさまざまな迫害に耐えてきたハンセン病患者の涙ながらの訴えがマスコミなどで報じられた。

だが、私たちは、らい病患者が被った苦しみの深さをまだ知らない。

私はかつて、大阪人権博物館(リバティー大阪)で、ハンセン病患者の差別の実態を展示で見たことがある。
だが、それでも迫害の凄まじさやそれに耐えてきた患者たちの慟哭の意味を真剣に考えたことがなかった。そして、彼/彼女らの苦悩について、本書を読むまで私は何も知らなかった。

本書は、香川と徳島の間の山村を舞台としている。差別から逃れ、隠れ住むらい病患者たちを描きながら、人間の暗い本性を暴いている。その描写は、あまりにも陰惨である。
著者は今までノンフィクションの分野でさまざまな題材を手掛けてきた方だ。だが、ノンフィクションの手法を採るとモデルとなった方や関係者に迷惑をかけかねない。おそらく著者はそう判断したのだろう。
著者は本書を小説の形で展開させている。

四国と言えばお遍路さん。よく知られている。四国を訪れるとよく目にする。つまりお遍路さんは街中を歩きまわっていても不自然ではない存在だ。
そのため、四国八十八箇所を巡る以外の目的を持っていても、お遍路さんに紛れて各地を巡ることが可能だ。
本書に登場するのは、らい病の治癒を願いながら旅から旅へと移動し、施しを受けなければ生活がたちいかなかったらい病患者たちだ。

私はお遍路さんの背後にそのような事情があることを知らなかった。そしてこれが著者の独自の創案であるかどうかも知らない。
本書はそうした事情を持ったらい病患者による組織が四国の各地に点在し、その中で外から隔離されたらい病の患者同士でコミュニティーを形成していた設定で話が進む。
らい病のことをカッタイと呼ぶ異名がある。彼らはカッタイ者と呼ばれ差別されていた。
本書ではカッタイ寺の住職を中心に、ほそぼそと隠れ住むらい病患者の暮らしが描かれている。

1952~3年。そして2012年。2つの時代が本書では描かれる。
両者をつなぐのは乙彦だ。

幼い頃、雲岡村に住んでいた乙彦は、父なし子として自分を産んだ母によって育てられた。そうした生まれから、雲岡村の人にはあまり良く思われていなかった。しかも母は自ら首を吊って死んでしまう。その結果、乙彦は村の深川育造の下に身を寄せた。だが、迫害はいっそうひどくなる一方で、ついに村から脱出しようとする。
その時に乙彦は少女の小春に助けられ、カッタイ村の一員として迎えられる。

時は流れて2012年。乙彦の息子である私の視点で物語が進む。
医者であり、結婚もしていた私。だが、父の乙彦が、雲岡村で深川育造を殺そうとした事件が私の人生に深く影を落としている。
リサイクル業で成功し、都議にまで上り詰めた父が、なぜ全てを投げ捨てるような行いをしたのか。その殺人未遂から十年がたち、今度は深川育造ともう一人の男が行方不明になった。ついに我慢の限界を迎えた妻から離婚を突きつけられた私は、雲岡村で行方不明事件の捜査をしている警察から参考人として呼ばれる。

乙彦はどこに行ったのか。そして昔、乙彦の身に何があったのか。
この二つの物語を軸として本書は進んでいく。
その中で本書のテーマであるらい病患者たちが被った迫害の歴史が赤裸々に語られてゆく。

本書は、人間の持つ差別意識など、醜い部分も臆せずに描いている。

2012年のわが国は高度経済成長を遂げ、さまざまな社会的な闇が過去のものとして顧みられなくなりつつある。
だが、つい数十年前までは、この国にはいわれなき差別が横行し、因習やしがらみが色濃く残っていたことは忘れてはならない。
戦後の民主主義が広く国民に伝わったといっても、田舎ではまだまだ過去を引きずっていた事実を私たちは認識しておかねば。なぜなら、かつてのムラ社会にはびこっていた差別は、ネット上に舞台を移してあちこちで被害者を生み出しているのだから。

過去に比べて知識も増え、教育も行き渡った現在。だが、皆の心から差別が一掃されたか。もちろんそんなことはない。
文明のレベルが上がり、国民の識字率が上がっても、人が差別意識を持つ心のあり方は改善されることはないのだ。

著者は、差別する側の人間にも理解を示す人がいたことを記している。その一方でカッタイ村の住民の中にも醜い心を持つ人物がいることも忘れずに書く。

人は、置かれた状況によって醜くもなる。だが、どのような状況であっても心を気高く持ち続けることもできる。

本書の陰惨な余韻は、乙彦がかつてどのような出来事を経験し、それが今にどのような影響を与えたか分かったところで消えない。
むしろ、その余韻は私の心の奥底に潜む本能を引きずり出す。差別をしてしまう本能。
私は本書を読んだことでその本能を突きつけられた。だが、そうした本能の醜さを認めた上で、自分を律して生きていくしかないと思っている。

‘2020/02/02-2020/02/04