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タイタンの妖女


著者の名前は前から知っていた。だが、きちんと読んだのはひょっとすると本書が初めてかもしれない。

本書のタイトルにもある”タイタン”は、爆笑問題の太田さんが所属する事務所は本書のタイトルが由来だそうだ。著者のファンである太田さんに多大な影響を与えていることがわかる。

正直に書くと、本書はとても読みにくい。
訳者は、SF小説のさまざまな名作を訳した浅倉久志氏である。だから訳文が読みにくいことが意外だった。氏が訳した他の作品では、訳文が読みにくい印象を受けた覚えがない。それだけに意外だった。本書はまだ浅倉氏が駆け出しの頃に手がけた訳文なのかもしれない。

本書は直訳調に感じる文体が読むスピードを遅らせた。
でも、作品の終盤に至って、ようやく著者の描こうとする世界の全体が理解できた。そして読むスピードも早まった。

著者が描きたいこと。それは、人類の種としての存在意義とは何かという問いだ。その問いに沿ってテーマが貫かれている。
人は何のために生き、どこに向かっているのか。私たちは何のために発展し、どこに向かって努力し続けるのか。
その中で個人の意識はどうあるべきなのか。
そのテーマは、SFにとどまらない。純文学の世界でも昔からあらゆる作品で取り上げられている。

今、科学の力がますます人類を助けている。それと同時に、人類を無言の圧力で締めあげようともしている。
科学の力は必要。そうである以上、SFはそのテーマを探求するための最も適したジャンルであるはずだ。
本書は、そのテーマを取り上げたSFの古典的な名作として君臨し続けるだろう。

本書は人が人であり続けるための過去の記憶。その重要性を描く。過去と現在の自我は、記憶によってつながっている。
記憶が失われてしまうと、過去の自分と今の自分の連続性が損なわれる。そして人格に深刻な支障が出る。
火星人の軍隊として使役されるだけの兵隊の姿。それは、記憶をしなった人格がどれほど悲惨なものかを私たちに示してくれる。
マラカイ・コンスタントは、彼の生涯を通してさまざまな境遇に翻弄される。記憶を失った人格が翻弄される様子は、ただただ痛ましい。

一方、神の如き全能者であるウィンストン・N・ラムファード。彼は本書において、人の目指す目標を描くための格好の存在として登場する。現在と過去、そして未来の出来事。それらをあまねく把握し、自在に創造も干渉もできる存在として。
そのような神の如き存在は、私たちにとっては理想でもある。人類とは、これまでその理想を目指して努力してきたのかもしれない。
だからそのあり方の秘密が明かされるとき、私たち人類は何のために誕生し、そして進化したかについて深刻な疑問を抱くに違いない。

マラカイ・コンスタントの大富豪としての存在は、ツキだけで成功を収めてきた人生の虚しさを突きつける。経済とは、富とは、生きがいとは何か。そのような深刻な疑問は読者にとっても人類にとっても永遠のテーマだ。それを著者は読者に突きつける。

そうした疑問に答えられる存在。それは普通、神と呼ばれる。
だが、本書においてはそれは神ではない。
むしろ神よりももっと厄介で認めたくない存在かもしれない。
私たち人類を、創造し、遠隔で操ってきた存在。より高次の生命体、つまり異星人である。

異星人の不在は今の科学では証明できない。そうである以上、人類がそうした生命体によって操られていないとだれが断言できようか。
そうしたテーマこそ他ジャンルで取り上げるのは難しいSFの独擅場でもある。

自由な意思を奪われ、地球、火星、水星、土星の衛星タイタンと運命を操られるままにさすらうコンスタント。
ツキだけに恵まれ、好き勝手に豪遊する本書の冒頭に登場するコンスタントには好感が持てない。
ところが記憶を奪われ、善良にさすらうコンスタント、あらためアンクの姿からは、人の悪しき点が排除されている。だから好感が持ちやすい。
そうした描写を通して著者が書こうとするのは立身出世のあり方への強烈なメッセージだ。
私たちが社会の中で成功しようとしてあがき、他人を陥れ、成り上がろうとするあらゆる努力を本書は軽々と否定する。

種としての生き方の中で個人の意思はどこまで許されるのか。そしてどこまでが虚しい営みなのか。
宗教とは何で、進化とは何か。科学の行く先とは何か。芸術とはどういう概念で、機械と生物の境目はどこにあるのか。
本書はそうした問いに対して答えようとしている。その中で著者のメッセージはエッセンスとしてふんだんに詰め込まれている。

本書は新しく訳し直していただければ、とても読みやすい名作となり得るのではないだろうか。

一つだけ本書で印象に残った箇所を引用しておきたい。
本書の筋書きにはあまり関係がないと思われる。だが、今の私や技術者がお世話になっているクラウドについてのアイデアは、ひょっとしたら本書から得られたのではないか。
「一種の大学だ――ただし、だれもそこへは通わない。だいいち、建物もないし、教授団もいない。だれもがそこにはいっており、まただれもそこにはいっていない。それは、みんなが一吹きずつのもやを持ちよった雲のようなもので、その雲がみんなの代りにあらゆる重大な思考をやってくれるんだ。といっても、実際に雲があるわけじゃないよ。それに似たあるもの、という意味だ。スキップ、もしきみにわたしの話していることがわからないなら、説明してみてもむだなんだよ。ただ、いえるのは、どんな会議も開かれなかったということだ」(286ページ)

不気味なほどに、インターネットの仕組みを表していないだろうか。

‘2020/05/12-2020/05/19


アジャストメント


フィリップ・K・ディックといえば、SF作家の巨匠として知られる。

映画化された作品は数多い。だが、著者はとうの昔に世を去っている。没年が1982年というから亡くなって30年以上経つ。それなのに2010年代になってもなお映像化された作品がスクリーンを賑わしている。こんなSF作家は著者だけかもしれない。

本書に収められた短編のうち最近のものは「凍った旅」だ。この作品は1980年に発表されている。1980年といえばインターネットどころか、マッキントッシュやウィンドウズが生まれたての頃だ。インターネットはまだ軍事用の連絡手段としてごくごく一部の人間にしか開放されていなかった時期。ネットライフなど、SF作家の脳内にも存在したか怪しい。著者が脂に乗っていた世代はさらに二世代ほど遡る。本書に収められた作品の多くはそのような時代に着想された。

そんな古き良き時代に産み出された著者の作品が、現代でもなお映像化されるのは何故だろう。

本書に収められた短編にはその疑問を解き明かす鍵が隠れている。

それは人の心を描いている、ということではないか。人の心の作用は、技術が発達した今もまだ闇の中だ。人工知能が当たり前となった現代にあっても、人の心の深淵は未知。精神医学も脳神経学も、脳波や言動といった表面に聴診器を当てて心の動きを推し量っているにすぎない。

つまり、著者の扱うSF的な主題は、今なおSFとして通用するのだ。たとえ道具立てが古びていようとも。そんなものは映像に表現する際に最新の意匠を当てはめれば済む。それだけの話だ。ここにこそ今なお著者の作品が映像化される理由が隠れていると思う。

その点を以下に示してみよう。

「アジャストメント」
2011年にマット・デイモン主演で映画化された。本編では、環境が人の心が作り出したものか、それとも環境があってその中に人の意識が作動するか、いわゆる唯物論と唯識論が取り上げられている。

「ルーグ」
犬と人間の交流の断絶を描いている。つまり、犬の心と人間の心は吠え声を通してしか繋がり得ないという事だ。犬が絶望的にいくら泣き喚こうが、人間にはただのうるさい無駄吠えとしか聞こえない事実。

「ウーブ身重く横たわる」
心のタブーの産まれる所に切り込んだ著者のデビュー作。何がタブーを作り出すのかがとても鮮やかに描かれる。

「にせもの」
ぼくがぼくだということを示す方法。記憶も自我もコピーされたとして、果たして自分が自分であることをどうやって証明すればよいか。自我のあり方について鋭くえぐった一編だ。

「くずれてしまえ」
本編は、心が陥る怠惰の罠を書いている。もしくは想像力の涸渇と言い換えてもよい。なんでもコピー自在な異種生物によって支えられた世界。それが崩壊して行く様。なにやら技術に依存しきった人類の未来を描いているようで不気味な一編。

「消耗員」
この一編は心とはあまり関係なさそうだ。いわゆる異種=虫とのファンタジー。

「おお! ブローベルとなりて」
本編は、同族以外のものを排除しようとする差別意識をテーマとしている。

「ぶざまなオルフェウス」
本編は、芸術家や歴史に名を残す人物に降り立つ霊感を扱っている。いわゆるひらめき。著者自身が登場するのも笑える。歴史改変ものでタイム・パラドックスに無頓着なのはご愛嬌だ。

「父祖の信仰」
信仰と忠誠の話だ。もしくは個人と組織の対立と言い換えてよいかもしれない。薬が登場するが、それは信仰や忠誠の媒介を象徴しているのだろう。そういった媒介物があって初めて、信仰や忠誠は成り立つのかもしれない。むしろ、成り立たないのだろう。

「電気蟻」
本編はロボットの自我の話だ。自我に気づいたロボットが自殺する話。これは、心の自律性を風刺していると思われる。

「凍った旅」
本編は、記憶や幼き日のトラウマの深刻さを描いている。長期睡眠者の意識だけが目覚めた中、宇宙船の統御コンピュータが、長期睡眠者の精神ケアのため、時間稼ぎに幼い日々の記憶を蘇らせる話だ。全てを暗く自虐的に受け取ってしまう長期睡眠者の心の闇が、ケアされていく様子が描かれている。

「さよなら、ヴィンセント」
これはリンダ人形のモデルのリンダについての物語だ。何かせずには自分のありようを確かめられない。そんな心の弱さが簡潔に記されている。

「人間とアンドロイドと機械」
これは著者のエッセイだ。内容や主旨がかなり回りくどく説明されており、全貌を把握することは難しい。私が受け取った著者のメッセージは、人間とアンドロイドと機械を厳密に区別する術はないということだ。自我よりも行動様式、もしくは存在論にまで話は及ぶ。その該博なエッセイの中で著者の結論を見出すのは難しい。結局は人間的な属性などどこにもない、という結論だと思ったが、どうだろうか。

‘2016/04/14-2016/04/20