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週末沖縄でちょっとゆるり


本書を読んだのは沖縄へ向かう機中だ。私にとっては九カ月ぶりの沖縄、前回の旅は沖縄戦と琉球文化を知る旅だった。ただ、二十二年ぶりの沖縄だったため、各訪問先のごとの思い出を作るのに精一杯だった。その時のブログは以下のリンクに書いた通り。今回は家族との旅を楽しむつもり。戦跡も巡るが、美ら海水族館やビーチにもいく。
家族で沖縄 2018/3/26
家族で沖縄 2018/3/27
家族で沖縄 2018/3/28

前回の旅で触れることのできた琉球の文化はほんの一部。沖縄にはもっと奥深いところに旅人の心を揺り動かす何かがあるはず。そう思い、今回は沖縄の文化について事前に予習することにした。

本の内容が現実にリンクした時、読書の醍醐味は実感となる。この実感は、おととしに家族で訪れた長崎で味わった。浦上天主堂が一部の遺構を残して撤去された経緯を描いた本< ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」 >を読んだ翌日、長崎の街を歩いた時に感じた思い。本に描かれた天主堂の遺構や再建された天主堂をこの目で見たときに感じた感動は、読書家としての私自身の生き方に誤りはないと確信させた。

本書は実に面白かった。そして本書の内容が私の沖縄の旅にリンクした。だからこそ思い出に残った。

第一章の「沖縄そば」がすでにそうだった。前回の私の沖縄旅の目的の一つは、沖縄そばの神髄を知ることにあった。そのことは先に紹介したブログに書いたとおり。私が旅の途中で食べたのは豊見城にある「名嘉地そば」さんだ。それはとてもおいしかった。だが、革命的な発見を思わせるほどでもなかった。私が知っている沖縄そばとは、本土で食べるものだった。本土で食べる沖縄そばは、本当に沖縄そば本来の味なのだろうか。その探究心に駆られて訪れた「名嘉地そば」さんは、本土で食べる沖縄そばをおいしくした味だった。だが、それでは私の沖縄そばの本質を知りたい欲求を満たせない。私の知らない沖縄そばがあるのでは、と疑っていた。

東南アジアから台湾をへて沖縄、そして日本。その円弧上に沿って北上するうちに、麺文化は食べる麺からすする麺へと姿を変えて行く。そう書いたのは著者だ。それは確かに瞠目すべき発見に違いない。ところが、著者が発見はした事実とはそれだけにとどまらない。著者は沖縄そばが本土に影響されつつある現状をも発見する。そして著者は、沖縄そばが次第に食べるそばから啜るそばに変わってゆきつつあるのでは、と懸念する。その事実は、ずいぶん前から沖縄に足を運んできた著者だからこそ気づけたのだろう。おそらく著者の発見とは、食文化を語る上でずいぶんと貴重なものだと思う。

著者は沖縄そばを知るため、那覇から食べ歩きを始める。その探求はファミリーマートで売られている沖縄そばにまで及ぶ。本書で紹介されているファミリーマートの沖縄そばは私も目撃した。だが、本書を読んでいたためか食指は動かなかった。

著書の探究は那覇では実を結ばなかった。だから著者は国道58号線を北上しながら食べる沖縄そばを求める。そして、普天間にある三角食堂と、名護の八重食堂で著者は食べる沖縄そばに巡り合う。両者ともに那覇ではなく、郊外で見つかったところが興味深い。著者は、沖縄そばの中に那覇そばというカテゴリーがあるのでは、と結論を出す。それもまた興味深い。なぜならば、Wikipediaからの知識では、沖縄そばは那覇で生まれ、発展したはずだから。
ちなみに今回の沖縄の旅において、私は糖質オフダイエット中だったのであまり沖縄そばを食べなかった。しかし、知念岬の近くにある南城市地域物産交流館で食べた野菜そばはとてもおいしかった。

著者の啜るそばと食べるそばの切り分けは興味深い。おそらく的を射た指摘なのだろう。ただ著者は、啜るそばに変わったからと言って沖縄そばがまずくなったのではなく、むしろ全体のレベルは上がっているという。
私が知りたい沖縄そば。それは食べるそばを指すのだろうか。であれば、多分まだお目にかかったことがないはず。私が本土で食べたことのある、そして前回と今回の旅で食べた沖縄そばとは、本土向けにアレンジされた啜るそばではないか。ということは、私はまだ沖縄そばを知らない。多分、食べる沖縄そばを味わえた時、ようやく私は沖縄そばの世界の入り口に立てるのだろう。それまでは沖縄そばについて蘊蓄を披露するのはよしたい。

なお、本章の補足としてシーブンについての考察も載っており、これも興味深かった。シーブンとは沖縄の定食屋で出されるサイドメニューのことだという。メニューに載っている料理を注文すると、サービスでサイドメニューがドドんと出される。その量の多さは、料理に込められたサービス精神の表れだ。私はまだシーブンを知らない。前回も今回も定食屋には入らなかったから。さらに私は、ホテルや観光地の食事しか沖縄料理をしらない。だから、沖縄料理を語る愚は避けなければ、と自戒した。

第二章「カチャーシー」も、本書を読んですぐ、旅の中で経験したことの一つだ。

カチャーシーとは何か。それは琉球の踊りだ。阿波おどりや盆踊りのようなものと思えばいい。だが、それらの踊りとは明らかに違う、琉球に独自の振りがあるのだという。本書にはこう書かれている。「なお、不慣れな本土の人間が踊ると、たいていは阿波踊りになる。」(71ページ)

著者が栄町市場のカメおばぁにカチャーシーを習う。そして、カチャーシーが何かを悟る。沖縄ではめでたいことがあるとすぐにその場でカチャーシーを皆で踊り狂うという。

本書を読んだ後、私はカチャーシーが何かを体験する。それは国際通りでのことだ。妻が以前の旅で訪れたという波照間https://hateruma.jcc-okinawa.net/という店に入った(実は妻の勘違いで、違う店だったのだが)。このお店で食べた料理はおいしかったが、それ以上に島唄三線のライブがあり、私の中で印象に残っている。島唄三線のライブが終わりに近づくと、座敷で飲み食いしていた客が何人もランダムにステージに上げられ、皆で踊る。私は幸いなのか残念なのか、ステージに連れていかれなかったため、カチャーシーを踊る経験は積めなかった。だが、これがカチャーシーか、と目の前で見聞きできたのは大きい。本書を読んでいた私は、目の前の楽しげな騒ぎがカチャーシーであることを理解できた。

本章は本書の中でも核心ともいえる。なぜなら、沖縄病について考察されているからだ。著者はその中で本土と沖縄の根本の違いについても鋭く触れている。

沖縄病について触れた文章を引用する。
「沖縄病という病は、基本的に片思いだから、その人の沖縄への思いだけが空まわりする。しかしどこか嬉しい。片思いとは、そういうものだ。かつて僕自身、かなり重い沖縄病を患っていたから、そのあたりの感覚はよくわかる。
 沖縄病に罹った人たちの一部は、移住を決意する。沖縄に移り住む・・・それは簡単なことではない。若者が沖縄に仕事を見つけて移るのならまだしも、本土生活の基盤があった人にとっては大変な覚悟である。人生のターニングポイント・・・と考える人もいる。そこまで沖縄への思いが増幅される。」(64P)

著者は自らが経験したカチャーシーを語り、まだ沖縄の人になりきれていない自分を悟る。それは八重山商工が甲子園に出た時のことだ。試合に勝った後、自然とカチャーシーがスタンドで沸き起こる。ところが著者はその場にいながら腰が上がらなかったのだという。それでも著者は悟る。
「カチャーシーとは踊りではなく、嬉しさを示す手段なのだ。」(88P)

著者はカメおばぁからカチャーシーを教えられながら、笑顔がないことを注意される。カチャーシーとは喜びの表現だからだ。そしてうれしさとは自然に出てくるものでないと駄目だ。観察者として傍観するのではなく、主導者として表現しなければならない。そこに沖縄と本土の違いがある。著者は沖縄と本土の違いを考える。ところが核心をつこうとしてつけていない。著者自身が自身の本土から来た者としてのアイデンティティと沖縄に染まる理想を紐づけようとして苦心している様が本章からはよく分かる。だから本章は本書でも核となるのだ。

第三章「LCC」は、沖縄の航空事情について語る。今回の沖縄の旅でも私たちはスカイマークを使った。それだけに、著者の言いたいことが理解できた。東京都心部から成田空港へのアクセス時間や、成田から那覇へのLCCの発着の時間。LCCの誕生が沖縄本島へのアクセスだけでなく石垣島や宮古島への往来を楽にしたこと。沖縄へしょっちゅう行き来するという著者だからこそ書ける考察に満ちていたのが本章だ。

第四章「琉球王国と県庁」は、本書の中でも若干異質だ。少なくとも、本書のタイトルが表わすゆるさとは違う。硬派な内容で埋められている。基地問題と沖縄。地上戦と沖縄。本土の沖縄。米軍と沖縄。どれほど沖縄が観光で栄えようとも、それらの問題を忘れ去るわけにはいかない。そうした矛盾の中で沖縄はどう生きてきたのか。そして、これからどう生きようとするのか。それを著者は探っていく。本章からは、被害者としての沖縄だけではなく、したたかな沖縄の姿も見えてくる。

著者は沖縄を取り上げるライターとして、観光本も手掛けているそうだ。著者は観光地沖縄を扱いながらも、被害者としての沖縄を忘れていいのか、と自らに問う。また、同時に米軍基地の存在が沖縄に利益を与えている現状もきちんと踏まえる。理想と現実の両者を見つめながら、沖縄は生きていかなければならない。基地がいい、悪いといった単純な二元論に陥っていないところが評価できる。

「沖縄は戦争の犠牲になった。しかし、本土の人々が、加害者意識に縁どられた視線をいくら向けてくれても、沖縄の人が豊かになるわけではなかった。沖縄の人々がほしいのは、同情ではなく、島が生きていく方法論だった。」(147P)
この文は、基地の反対運動に奔走する運動家への問題提起になっている。沖縄=善、本土=悪という視点にこだわっていては導き出すのもむずかしいだろう。本書が朝日文庫に収められており、親会社が朝日新聞社である事を考えると興味深い。
今回の沖縄旅行の三日目の朝、私は県庁前あたりをうろついた。その前の夜は北谷のアメリカンビレッジにも訪れた。初日はひめゆりの塔やアブチラガマで戦地に立った。本章は、そうした私の経験にリンクした。この章も本書では見逃せない。

第五章「波照間島」もまた味わい深い章だ。波照間島という日本最南端の島。その地を「離島の離島」という言葉で描き出しつつ、そこを訪れる訪問者の心境を探ってゆく。著者の友人で「ウルトラマン研究序説」を編集した人物がいるという。その人物は結局自死の道を選んだそうだ。そして自死する前に波照間島をいく度も訪れていたとか。そして一人で凧を挙げていたことが紹介される。著者はその友人を感傷的に振り返る。離島の離島は果たして人生の終着駅になりうるのだろうか。

今回の旅では波照間島には行かなかった。が、那覇で訪れた居酒屋の名前が波照間だったこともあり、本書と私の旅のリンクは続く。

第六章「農連市場」は、再開発の波によって姿を消した農連市場の姿をカメラマンの阿部稔哉氏が写真に収めている。再開発された農連市場の横を通ったのは、旅行の二日目、美ら海水族館へと向かう時。外観もすでに新しい姿だったので、本書に収められたような姿はみられなかった。だが、旅の三日目に市場本通りとむつみ橋商店街を少し歩いた。両方ともに昔ながらの庶民的な雰囲気に満ちていた。おそらく在りし日の農連市場もこのような場所だったのでは、と推測できたように思う。

第七章「コザ」は、今や寂れてしまったコザを仲村清司氏が文章に著している。コザは沖縄市にあり、嘉手納基地の足元にある。日本返還前にコザ暴動がおこった場所でもある。そのコザはかつては米兵で大賑わいだったらしいが、今は閑散としているという。その歴史や今の現状をルポルタージュの風味で描いたのが本章だ。

旅の二日目の夜、沖縄在住の友人の一家と北谷のアメリカンビレッジで夕食を一緒に過ごした。アメリカン・ビレッジは繁盛しており、沖縄でも成功したショッピングセンターとして評価が高いようだ。訪れた私も家族もアメリカン・ヴィレッジの活気を楽しんだ。アメリカンのはビレッジはコザからそう離れていない。

私は夕食の場で友人にコザの今がどうなのか聞いた。すると、まだ夜のコザは華やかだと言って夜の様子を写真で見せてくれた。米兵が多数たむろする歓楽街として、コザは今も機能しているようだ。ただし、女性が行く場所ではないとか。

それは仲村氏が取材した後、コザが盛り返したためなのか。それとも仲村氏のルポのタイミングがたまたま寂れていた時間帯だったのか。私には分からない。だが、北谷アメリカンヴィレッジがこれだけにぎわっていることは確かだ。コザの賑わいがそっくり北谷に移っただけなのかもしれないし、そもそもコザを訪れたことのない私には判断できない。どちらにせよ、私は今までの三度の沖縄旅行でコザに行ったことがない。次回、沖縄を訪れたあかつきにはコザを訪れようと思う。友人の一家もコザの近くに住んでいることだし。

第八章「沖縄通い者がすすめる週末沖縄」
第九章「在住者がすすめる週末沖縄」の両章はタイトルそのままの内容だ。それほどページ数は多くない。だが、ガイドマップには載っていない情報なので面白いかもしれない。むしろ、著者の視点ではない沖縄が紹介されており、ためになる情報だ。本書の他の情報と同じく。

‘2018/03/26-2018/03/26


沖縄ひとり旅 2017/6/20



ぐっすりと眠った私。すがすがしく目を覚まします。妻からホテルグレイスリー那覇を勧められた理由。それは朝食にあります。とても充実していて種類もたくさんよ、と言われていたのです。寝ぼけ眼で訪れた私は、妻の言葉の意味を理解します。とても良いです。朝食バイキングの品ぞろえはわたしをとても満足させてくれました。海ブドウが食べ放題なのもよいです。


満腹した私は、チェックアウトを済ませ、国際通りへ。昨日の大荒れの天気が一転、晴れ間がのぞいています。今日の旅路やよし。元々の天気予報から計画したとおり、今日は屋外をメインとした場所へと向かいます。斎場御嶽へと。再び沖縄本島の南部へと相棒を駆って向かいます。


やがて車は南城市に着き、太平洋に沿って走る国道331号線へ。このあたりも沖縄南部ののどかさが感じられます。私はそこから海岸線をたどって知念岬へ。ここの道の駅の駐車場に車を停め、斎場御嶽への入場券を買い求めます。連絡があって作業の必要があった私は、道の駅の中でパソコンを広げ作業。道の駅には御嶽についての説明書きがあり、事前に知識を仕入れます。


そしてそこから白砂が敷き詰められた道をのぼり、斎場御嶽へ。この道中がすでに南国感を出しています。いやがおうにも期待は高まるばかり。両側に茂る木々も、私の旅情を掻き立ててくれます。やがて御嶽の入り口へつき、受付を済ませて御嶽の本丸へと急ぎます。


御嶽とは6/18分のブログでも書きましたが、琉球の人々にとって重要な祭祀の場。那覇空港についてすぐに訪れた安次嶺御嶽もよかったのですが、つかみどころのない円形の広場に石造の遺構があるだけでした。それが御嶽の一般的な姿なのか。そう思った私の認識は斎場御嶽で一新されました。


本来なら一般の人は入れない場所。聖地なのですから。それなのに、聖なる由来がありそうな遺構が足元に置かれています。香炉が足元に無造作に置かれた通路には、何も考えなければ普通のハイキングコースのよう。ところが奥に進むにつれ、うっそうとした樹木が覆いはじめ、聖地の装いをまといはじめるのです。まず最初にとおるのは大庫理(ウフグーイ)。岩が祭壇のように見立てられ、聖なる場としての威厳を表わしています。続いて寄満(ユインチ)を向かいましたが、そこもまた、聖地としての面影を濃厚に宿していました。
そして大庫理から寄満への道すがら、大きな池があります。これは実は沖縄戦の艦砲射撃で着弾した跡地が池になったところだとか。あたりにはサンショウウオが群がっており、あちこちでたむろしています。池には白い泡のような物体が浮いており、そこにサンショウウオが群がっています。聖地なのにサンショウウオを餌付けしているのか?と疑問がムラムラと湧きます。それにもまして、沖縄最高の聖地でありながら艦砲射撃の被害から逃れることのできなかった現実。これがこの地が沖縄であることをいやおうなく私に伝えてきます。


さらに歩く私の前に広がったのが巨大な岩盤。上に覆いかぶさるように迫る岩からは二点で水が滴り、受ける石造りのツボのようなものがしつらえられています。シキヨダユルアマガヌビーとアマダユルアシカヌビーという名前なのですが、こういう見るからに聖なる遺構が、何ら保護されずにおかれていることに、沖縄の器の大きさを物語るようです。


そしてその岩盤の奥の脇には、通路が直角三角形に切り出されたようになっています。その奥にあるのが三庫理。これこそ斎場御嶽の奥の院。琉球最高の聖地です。そしてもちろん、誰でも入れます。奥へ進むと見るからに聖なる道具と思われる遺構が足元におかれています。看板には金製勾玉が近世出土した旨が書かれているのですが、足元は無造作。掘ろうと思えば掘れてしまいます。しかもその壁の反対側には樹木で切り取ったような向こうに海が広がっています。うすく地平に広がるのは久高島。アマミキヨが琉球に渡ってくる前、久高島からやってきたという伝承があります。つまり三庫理こそは琉球の国生み伝説の地でもあるのです。


それなのに、これほどまでに無防備。かつては男子禁制の場だったというここは、聞得大君の仕切る祭祀の地でした。それなのにこれほどひらかれてことがよいのだろうか、と思えます。こうやって私がブログに書くことで斎場御嶽の観光客増加に寄与してしまうのでは、と思えるほど。すでに私が訪れた時にも十数人の観光客が訪れていました。それでもなお、聖地としての厳かさを失っていなかっただけに、何らかの対策が成されるのではないかと思いました。


なお、オオサンショウウオが群がっていた泡の正体。それはモリアオガエルの卵だそうです。受付にわざわざ戻ってスタッフの方に伺ったところ、そうおっしゃっていました。しかもあれは餌付けしているのではなく、自然に産卵されたものだそう。とても貴重なものが見られました。

ここは、ぜひとも再訪したいと思いました。

帰りの道々にで両側に広がる店々にも立ち寄りたかったのですが、一つのお店だけ寄るにとどめました。でも観光地ずれしていない様子はとても良い印象でした。もっとゆっくりしたいところですが、すでに大幅に時間超過の予感が・・・


と思いながら、知念岬郵便局で風景印を押してもらい、知念岬にも歩いて向かう私です。やはり海を一望にして自分の小ささを見つめないと。そしてこれからの自分の未来がこれだけ広がっていることを心を全開にして受け止めないと。そう思って降り立った知念岬から見た海の凪いでいたこと!

そこから一路、ひめゆりの塔へ。誰もが行く場所とはいえ、22年ご無沙汰にしていたとなると行かねばなりません。22年前に強烈な印象を受けた、レクイエムの流れるホールの印象が変わっていないことと、それ以外の展示物をしっかり胸に刻まないと。


到着したひめゆりの塔は、入り口からして記憶の外でした。そして、記念館の傍に壕の入り口が大きく孔を開けているのですが、そこの印象も全くありませんでした。まったく私は22年前に何を見ていたのか。記念館にはいると展示を凝視します。どうやってひめゆり部隊が結成されたのか。彼女たちの学園生活。沖縄戦が始まってからの経過や、彼女たちが少しずつ追い詰められ、傷つけられてゆく様。そして、私が22年前に訪れたホールは同じでした。ひめゆり部隊の皆さんの顔写真、名前、死にざまとなくなった地。もちろん行方不明の人もたくさん。

さらにすっかり忘れていたのですが、上に口を開けていた壕は、地下でこのホールに繋がっているのです。すっかり忘れていました。ホールには生きながらえることのできた方の体験談が読めるようになっています。ホールの手前では体験談を語る語り部の方の動画が流れており、見入ってしまいました。今は上品な老婦人となっている彼女たちが、これほどの地獄を見たのかと思えば複雑な気分に囚われます。

私はこの旅行の2カ月半前に「ひめゆりの塔」を読みました(レビュー)。その中では生徒たちの赤裸々な感情が描かれていていたのですが、先生の役割は幾分薄めでした。しかしひめゆり部隊を引率した先生が戦後贖罪のために尽くしたことも知られています。今回、特別展として先生に焦点を当てた展示も催されていました。私はとてもその展示に感銘を受けました。なぜなら、今の私の年齢とは、当時の先生方が生徒たちを引率した年齢に近いからなのです。私がこの当時の先生たちと同じ立場に置かれたらどのように行動したでしょうか。時勢に迎合し、軍国主義を唱え押し付けていたのでしょうか。それとも生徒と友達のように接していたのでしょうか。それとも頼りにならず生徒たちを真っ先に戦場に迷わせた教師だったのでしょうか。わかりません。ひめゆり部隊が晒された砲弾の嵐は、普通の人間が経験できる場所ではないので、私には想像すらできません。

だから私は先生方の写真や担当教科、そして人となりを伝えるパネルをじっくり読みました。私が彼らだったらどう対処しただろうと思いながら。それは今の私が親としてどう娘たちに接するかの自問自答にも繋がります。また、教育学の教授だった祖父の影響からか、教育を担う者の目線も含んでいたと思うのです。その印象はあまりにも強く、家でもじっくり読んでみるため図録を駆ってしまうほどに。

ひめゆりの塔を出たのはすでに微妙な時間。ですが、駐車場わきのソフトクリーム屋さんでソフトクリームをいただきつつ、客あしらいに慣れたおじさんと話します。すでに沖縄滞在の時間が残されていないと思いつつ、梯梧の塔にも足を延ばします。ここも別の学校の学徒の慰霊の場所です。

この付近には同様にこのような塔があちこちに立っています。そのすべてに幾人もの人々の想いが込められているのでしょう。

さて、帰りは道の駅に二カ所寄って物産を全速力で冷やかした以外は、全力で那覇空港に近いレンタカー屋に向かいます。レンタカー屋に返した後は、帰りは歩いて帰らず素直に送迎バスで空港へ。なぜこんなに急いだかというと、17年ぶりの再会があったから。17年前、辻堂の護摩焚き会でご夫婦と知り合い、そのすぐ後に結婚式の披露宴にも呼んでくださった方。その方は数年していきなり家族で沖縄に移住したのです。以来、Facebookと年賀状だけのやりとりが続いていたのですが、今回思い切って声をかけてみたところ、帰りの那覇空港でお会いすることになったのです。その方の決断力と行動力には尊敬するしかありません。今回お会いしてお話しした内容は、とても参考になりました。ビジネスの面もそうですが、実際に沖縄移住への経緯を本に執筆し、それでアマゾンのカテゴリー別で一位にもなった経験。編集者とのやりとりや、それが本になっていくまでのいきさつ。この方との話し合いから二カ月がたち、私に本音採用での連載「アクアビット航海記」の話が来ます。もちろん即答で引き受けたことはいうまでもありません。

この方と空港の食堂でお話しできたのは1時間もありませんでした。あまりにも濃いお話であっという間に時間が過ぎてしまいました。17年ぶりという思いも忘れるほどに。最後は搭乗時間ギリギリになってしまい。ダッシュで走ってぎりぎり帰りの便に乗れましたが。

帰りは羽田からバスで町田まで。妻に迎えに来てもらいました。素晴らしい旅でした。


沖縄ひとり旅 2017/6/19


朝四時過ぎにおきて、妻に町田駅まで送ってもらいます。羽田空港行きのバスは04:55発。車か徒歩か自転車以外に自宅から駅へと向かうすべはありません。送ってくれた妻に感謝です。ま、私も妻が沖縄に行く時は町田や羽田まで送っているのですが。

バスの中ではまどろんでいましたが、無事に遅れることなくバスは到着。手続きをさっと済ませ、搭乗口からすぐのパソコン用デスクで作業です。今回はパソコンも持って来て合間に仕事をこなしながらの旅なのです。ここらへんが学生だった22年前とは技術の進展でも私の立場でも違うところです。

22年ぶりではないのですが、一人で飛行機に乗るのも相当久しぶり。多分、2006年に仕事で苫小牧に出張して以来です。今回は搭乗口で醜態を晒すことなく搭乗できました。ところが、荷物の中に本を入れっぱなしにするミスをしてしまい。仕方ないのでふて寝です。もっとも、寝不足が続いている私は本を開く前に落ちていたでしょうが。そんなわけで、スカイマークで配ってくれるコラボキットカットをもらう間も無く、着陸前までずっと寝ていました。願わくはいびきや大口あけた寝姿で人様に迷惑をかけていなければよいのですが。

さて、飛行機は何事もなく那覇空港に到着です。ちょっと蒸し暑いかな。大雨と聞いていましたが、かろうじて雨雲の中で水滴はとどまっていてくれてます。22年前に二等船室から降り立った那覇港では、夏でありながら明らかに内地と違う温度差に南国を感じて舞い上がった記憶があります。が、今回はそれほど温度差を感じません。

前日のブログにも書いた通り、22年前の旅の帰りが空路だったのかどうか忘れています。なので、那覇空港を使うのが初めてなのかどうかもわかりません。それもあってか、数キロ先のレンタカー屋まで歩いて行く羽目に。いや、迷ったわけではないのですよ。

どういう事か。まず、レンタカーで手間取りました。妻から聞いていたのは、搭乗券の裏に記載されている電話番号に連絡すれば割引料金でレンタカーが使えるということ。ところが、ウェブサイトにアクセスし、予約したところ「予約仕舞いのため予約できません」との表示が出て焦る焦る。ウェブサイトに記載のあったあるセンターに電話すると、最寄り店で対応するという返答だったので、最寄店への連絡先を教えてもらいます。ところが、最寄店に連絡しても割引できないいうとつれない返事が。そんなはずあらへんと焦ります。空港のレンタカーカウンターに聞いてみたところ、パンフレットの正規料金でしか扱えないと言われてしまう始末です。1日あたり1500円以上は価格差があるのだとか。救いを求める意味で再び予約センターに電話し、事情を説明します。すると、当日予約はウェブからできないという当たり前のような回答をいただき。ウヘェ。じゃあ車で五分とやらの店舗に行って、そこで直接借りるか、と重たい荷物を担いで歩き出します。

ところが、空港って歩いて脱出することを前提とした作りになっていないのですよね。公共機関か自家用車でしか出られない。22年前にはなかった「ゆいレール」かバスかタクシー、またはレンタカー会社の送迎バスを使わないと。そして、車で五分のレンタカー屋の場所は歩いてどれぐらいなのかがわからない。しかも「ゆいレール」とレンタカー屋も離れている。せっかく日本最西端の駅を利用したくてもこれでは無理。

結局、レンタカーの予約センターとお話ししながら日本最西端の駅のシンボルをカメラに収めただけ。「ゆいレール」の軌道にまたがらず、その下を歩くことにしました。しかも、その下に向かうための通路が全く見つからず、まともに道に沿って軌道の下にたどり着こうとすればとんでもなく遠回りになりそう。なので危険を覚悟で片側数車線の道を横断しました。後で調べたら遠回りと言っても約1キロほどでした。さて、到着早々暗雲が立ち込める旅の始まりですが、暗雲では済まず、ついに雨が降り始めます。そんな中、傘を持って来なかった私はテクテクと重い荷物をもって歩きます。この辺りの無鉄砲な行動は22年前となんら変わりません。

軌道下を歩くこと1キロ近く。安次嶺交差点が見えて来ました。信号を渡って、レンタカー屋へ向かおうとした私の目に飛び込んで来たのは、安次嶺御嶽と書かれた石碑。おお、早くも御嶽が。今回の旅は斎場御嶽が目的でしたが、他にも小さな御嶽も観ておきたかったのです。階段を上がったそこにあったのは、円形の広場とでもいうべき場所。御嶽について何も調べず、イメージも持たずに来た私。祭壇めいたものが野ざらしになっている御嶽の姿を見て納得。これを本土の聖域に例えるならなんでしょう。神社とは明らかに違います。広場や公園とも違う。飾り気のない御嶽ですが、何か侵し難いものを感じさせます。うーむ、これが御嶽か。御嶽とは琉球の民族宗教でいう聖地。祭祀が行われ、神に仕える人々のみが入れる場。そんな場の事です。

空港から雨の中を歩き、出だしから悄然としていましたが、災い転じて何とやら、で御嶽の様子を知ることができました。これもまた旅の幸運。

安次嶺御嶽からさらに1キロほど歩き、レンタカー屋にたどり着きます。レンタカー屋と道を挟んで反対側には陳在しているのはローソン。今回の旅で初の初のコンビニエンスストア。それはローソンとなりました。旅の楽しみは地元物産の物色にあります。さぞやこのローソンでも私の購買欲をくすぐる品が待っているはず。ところが、ほとんどの商品は本土と同じ。前はもう少し独自の品ぞろえだった気がするのですが。このあたり、22年の月日が物流環境を変えたことがわかります。

レンタカー屋さんではトヨタのpremioをお借りしました。白。内装も木目調で、レンタカーでありながらとても高級感のある作り。しかも安い。沖繩は車文化なので、レンタカーも安価なのですね。この辺りも22年前と変わりません。車を借りるついでにご好意で傘もレンタル。レンタカサー。なんだかウチナーングチの響きです。ちなみにレンタカサーというのは旅行から戻った翌日、本稿を書いて思いつきました。傘を借りた時は、そんな余裕はなく、早く沖繩に繰り出すことで頭がいっぱいだったので。

那覇空港でパンフレットを集めた私は、さらに空港から歩きながら、今日の行動を考えていました。だてに歩いていたわけではないのです。そして決めた最初の訪問先は忠孝酒造。泡盛製造所です。那覇空港からすぐという売り文句がパンフレットに載っており、そこに書かれていた小さな蒸留所との文句も私の目を惹きます。

「くぅーすの杜 忠孝蔵」というのが忠孝酒造の観光客用施設の名前です。ここの駐車場に駐めたはいいのですが、ちょっとしたトラブル発生。私が外に出ようとするとpremioが泣くのです。この旅で私と相棒の契りを結んだpremioはスマートキーで起動します。スマートなのです。そして若干気位が高い。であるからには、きっと私の扱いのどこかが気にくわなかったはず。premioをなだめようにもスマートキーの扱いがわからず、駐車場でピーチクパーチクと泣くpremioと十分近く過ごすはめに。すでに周りは大雨。駐車場の周りには誰もいませんでした。これが人だかりのある場所だったらかなり恥ずかしいことになっていたはず。結局、ギアがパーキングに入っていないのに鍵をかけて出ようとしたことがpremioの怒りをかったらしい。でも、これでお互いのことがようやく分かり合えました。二日間、いい相棒になれそう。

しかし「くぅーすの杜 忠孝蔵」に入った途端、相棒のことは私の頭から消し飛びます。足を踏み入れた途端に私を包む甘く芳醇な香り。生まれて初めて入った泡盛蒸溜所というだけで素晴らしいのに、さらに。泡盛の象徴でもある甕が存在感を備えてたくさん並んでいます。はやる気持ちを鎮め、まずは見学ツアーを申し込みます。待ち時間の間、売店をさまよう私。ドライバーゆえ、試飲はあきらめるほかないのがつらい。それでももろみ酢やあまざけなどの試飲が豊富にできます。これがまたうまい!泡盛の種類も多く、瓶と甕とが並ぶさまは壮観。甕売りの商品もあれば、ビン詰め商品も。まさに目移りするとはこのこと。忠孝酒造の名は、実は今回の旅行でガイドブックを読むまで知りませんでした。こちらに並んでいるビンを見ると、よく酒屋にあるカラフルな泡盛のラベルとは違って落ち着いた感じです。

その理由は、見学に先立って観覧した紹介ビデオで理解しました。創業は戦争が終わって間もない頃とのことですが、とても研究に力を入れた熱心な蔵だということがわかります。泡盛業界では初となる自社での甕造りに着手したり、古式泡盛の製法である「シー汁浸漬法」で社員が醸造学博士号を取得したり、沖縄県産マンゴーから採取した酵母での酒造りに取り組んだり。空港に近いという醸造所をうたい、結構、商売っ気のある酒蔵なのかな、という若干の懸念も訪問前に持っていました。ですが、その懸念は杞憂でした。実にしっかりとした泡盛づくりの哲学を持たれている様子。そうやって説明を受けてみると、並んでいる甕の数々がとても神々しく思えてくるから不思議です。

ビデオにつづいて、仕込み工程をガラス越しに見学させてもらいます。清潔な感じの室内では蒸しの工程でしょうか。職人さんが一人、黙々と働いていました。無機的な室内なのに、作業がアナログでそのギャップが面白い。

続いて、甕を作る作業場を案内していただきました。泡盛業界で初となる甕作りを併設しているのですが、私の目の前でロクロを操り、甕ができていきます、素晴らしい。ビデオにもありましたが、全てが試行錯誤の成果だというから大したものです。甕が泡盛の品質や風味に直結するのは樽で熟成させるウイスキーと同じ。さらに熟成が早く進む泡盛では、その重要性は欠かせないはずです。

私のその感想は、次にご案内された木造古酒蔵でますます強まります。シェリーなどの酒精強化ワインで知られるソレラ・システム。泡盛にも仕次ぎという同じような仕組みがあるとか。熟成が進んだ甕から瓶詰めや蒸発で減った分をより若い甕から継ぎ足していく仕組みのことです。これはウイスキーにはない習慣なので、私は興味津々でいろいろと質問しました。ここの蔵は沖縄でも首里城に次ぐ高さがあり、古さでも有数の蔵だそうです。蔵の中も明るく開放感があり、泡盛の香りがふくいくと私の鼻にまとわりつきます。まさに至福の場所。

外は大雨なのに、私はそんなことも忘れるくらい、夢中になって泡盛文化の奥深さに酔いしれ、その文化の粋を吸収しようと夢中になってました。ここはセルフ甕を持て、その説明を聞きながら、よほど申し込もうと思ったくらい。予算面で諦めましたが、代わりにマンゴー酵母で仕込んだ一品を購入。

くぅーすの杜は、おススメです。空港から近いのに、観光客から取ろうとする色気もあまり感じず。名残惜しさを感じながら、車に戻りました。

次の目的地に向かう前に、腹ごしらえ。くぅーすの杜のすぐそばに名嘉地そばの店舗を見かけたので。早速私の目的の一つ、沖縄そばの本場を知る、に臨みます。大雨だというのに私以外に数組のお客様がいました。車も結構止まっていて支持されているお店のようです。肝心の味はといえば、私が内地で食べるそれとあまり変わりなく。ということは、私が内地で食べた味も沖縄そばの正統だったのかも。それをここでは教えてもらいました。これが正統だと知ると、味もおいしく思えます。ラーメンのように味は濃くなく、薄味にも思える味付け。それでいながら、妙に重たいというか野暮ったい食べ応え。おなじみの沖縄そばの味。これが明治以降に広まったという本来の沖縄そばなのかもしれません。まだまだ他にも名店は数あるとは思いますが、これで私の沖縄そばへの好奇心は満たせました。

名嘉地そばの近くには、辺野古基地問題の集会を呼びかける看板もあり、沖縄の現実が垣間見られます。

私はそれを頭に留めつつ、次の目的地、海軍司令部壕跡へ向かいます。相変わらずの猛烈な雨がフロントグラスを叩く中、私の意識も戦場となった沖縄へと向かいます。

高台にある壕には、慰霊碑が。まずそれにお参りし、黙礼してから壕の入り口を兼ねたレストハウスにも似た建物へ、ここの二階には沖縄戦の惨禍を切り取った写真パネルが多く飾られていました。その被写体の多くは軍ではなく民間人です。大戦は日本全土をくまなく戦場と化しましたが、大規模な地上戦の戦場となったのは、サイパン島や沖縄の島々のみ。その現実を忘れてはなりません。

そして、この海軍司令部壕跡は、沖縄戦において、海軍が司令部を置いた場所。一般に、沖縄戦のイメージとは、連合国軍に一矢を報いたい大本営が日本本土での決戦までの時間を稼ぐために沖縄を捨て石としたという印象が強い。沖縄戦を戦った軍人についての印象も、民間人に自決を強要したり、邪魔者扱いするなど、民間人を人とも思わなかったいうといえばステレオタイプな印象が一人歩きしています。そんな軍部のイメージにあって、大田司令官が壕の中から最後に大本営宛に打った電報は軍人の良心を表したものとして名高い。

沖縄県民が沖縄戦で払った犠牲を連綿と書き連ねた電文。そして最後を
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
と締めたこの電文を打ってすぐ、大田中将はこの壕の中で自決を遂げました。自決した部屋とされる壁や天井には弾痕のようなものも確認できます。絶望的な戦況の中、このような狭い場所で軍人たちは最後まで諦めまいと戦い続けていたのでしょう。

壕の内部が殺風景なことといったらありません。ここで兵隊や将校が寝起きし、戦っていたとはとても思えないほどの無機質な場。ただ戦場としての最低限の機能しかない場。平和ボケの中にいる私にはとても耐えられないでしょう。なにが耐えられないかといって、文化の匂いが一切排除されていること。私には何よりもそれが辛い。

絶望と殺伐とした壕で書き起こされたのに、電文からは戦陣訓めいた威勢の良い美辞麗句を排されています。それでいながら沖縄県民のことを思いやった文章。その文面から読み取れるのは、軍人である前に人として立派に生きた大田中将の人間性です。極限の場でありながら、最後まで人間で有り続けたその崇高の人格に胸を打たれます。沖縄戦が悲惨で愚劣な戦いなのはもちろん。しかし、その責を負うべきは大本営の面々であり、指導部であるはず。現場で死力を尽くし、努力し続けた軍人を一括りにして責めるのは筋違いだと思います。

君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

これは大田中将の辞世の句ですが、その実物が壁に残されています。その生々しさは私の心を騒めかせます。ここには軍人としての忠誠心、そして軍人ではなく人間として死にたいと願った大田中将の心が現れています。

壕内には沖縄戦の経緯や、電文の写しなどが詳しく展示されています。大田司令官の肖像もあります。とても細かく紹介されているのです。ここは沖縄でも必訪の地だと思います。22年前に来られなかったのが残念です。そして今回来られてよかったです。

そんな思いを抱きつつ壕を出た私。続いて向かったのは高台から市街を一望できる場所です。大雨の中、警備員のおじさんがとても気さくで親切でした。私をあらゆる角度から写真に収めてくださり、壕の現実に暗い気分になっていた私を明るくさせてくれました。この方こそ、今の沖縄の象徴にも思えました。殺伐とした史跡を前にして、なおも明るいハイサイおじさん。

たぶん、このおじさんも「沖縄県民カク生キム」として現実を戦っているのでしょう。それを微塵も感じさせず、明るく振る舞うおじさんがとてもすがすがしかった。おじさんのすがすがしさは私の心が少し晴らしてくれました。そして車に戻ってから次の場所へ向かうにつれ、雨が少しずつやみ始めるのです。私の心を表わすように。続いて私が向かった先は沖縄県平和祈念資料館。道中は猛烈な雨の後遺症があちこちに残っていました。ある場所では道が通行止めになっていて回り道を強いられ、ある場所では池のようになった道路を水しぶきを立てて進む。こういった体験を楽しみ、素朴な風景を愛でる。これが一人旅の醍醐味です。それを存分に味わいました。

沖縄県平和祈念資料館。ここは沖縄戦で亡くなった人たちの氏名が膨大な碑に刻まれる摩文仁の丘で知られます。私にとって22年ぶりの訪問。もちろん前回の訪問の記憶は薄く、展示物もあまり覚えていません。そんな私に資料館の展示物は迫ってきます。沖縄への認識をあらためるようにと。

今の基地問題。そして沖縄戦。沖縄の文化を除けば、今の私たちはこの2つだけで沖縄の現状を判断してしまいがち。ところが、沖縄の抱える問題とは、沖縄戦にいたるまでの歴史を知らねば理解できません。私は平和祈念資料館の展示からそのことを教わりました。19世紀の琉球を取り巻く状況。それは薩摩藩と清に対し、二重に朝貢していた琉球王国の苦労から始まりました。アヘン戦争で清が没落し、アメリカのペリー艦隊の来航を経験し、さらに明治維新によって薩摩藩がなくなる。と、思ったら、明治政府によって琉球王国は廃され、沖縄県として支配下に組み入れられます。薩摩藩が長年にわたって琉球王国から収奪を行っていたことは有名です。ところが明治になって薩摩藩の支配が終わり、沖縄県となっても沖縄をめぐる現実は苦しみの中にありました。それは、八重山諸島に課せられていた人頭税が1893年まで残っていたことでも明らか。さらにはソテツ地獄なる飢饉が沖縄を襲います。つまり、沖縄戦が起こる前から沖縄の人々はとても過酷な状況に置かれていたのです。

この平和祈念資料館では、そのあたりのことがたくさん学べました。もちろん、沖縄戦の過酷な実態も。いまやメディアはおろか、ウェブ上でも見られないようなむごたらしい死体を撮った映像が流れています。それはサイパン戦の悲惨な現実。映像は残酷に戦場の現実を写します。火炎放射器が人々がこもる壕を焼き払います。両手を挙げて投降する住民の姿に、心からの安堵を感じるのは私だけでしょうか。

沖縄戦が終結してから、米軍の軍政下におかれた。米兵による人権蹂躙が横行し、沖縄の人々に安らぎはありません。その時期の政治体制や文化についてのジオラマや資料が私の知識をあらためます。軍政下の沖縄の現実など、内地に住んでいると知りようがありません。日本の統治下に戻るまでの紆余曲折。年表を読むと1972年沖縄の本土復帰の一行で片付けられてしまう事実。内地の私たちからみれば沖縄が日本に戻れてよかったねで済んでしまいます。ところが沖縄の人々にとっては複雑な思惑があったはずです。琉球王国を復活させての独立や、基地の撤去も含めて。

基地問題を考えるためにも、平和祈念資料館は欠かせません。沖縄の今までの歴史を含めて向き合わねば、基地問題は語れないと思います。左傾した活動家が基地問題に乗じて暗躍する。基地問題をめぐる報道を眺めると、日本がおかれた現実を盾に基地移転をごり押しする本土の都合と、そんな日本国にただ歯向かうだけの左派の思惑だけがクローズアップされます。そうではなく、もっと違うアプローチで基地を考えなければならないと思うのです。私は内地に住む人間として、基地を沖縄に押し付けてそれで終わりだとは思いません。地理の関係から沖縄に基地が置かれる理屈もわかります。そして、内地に基地を置くことが今となっては難しい現実も分かります。ましてや私自身が横田基地と厚木基地の間に住み、飛行機の騒音に悩まされていただけになおさら。

私たちにできることは、沖縄に基地を押し付けて終わりではなく、まず今の沖縄を知ることだと思います。それも今の沖縄ではなく過去の経緯を含めて。そして、この問題に関しては軽々しくブログやツイートで意見することは控えなければなりません。単純に右や左のイデオロギーで語るには、沖縄の基地問題は複雑なのです。内地の人間、沖縄の人間といった立場によっても意見は揺れるのですから。理想だけで沖縄のこれからを改善できるはずはなく、現実の地理が仕方ないからといって沖縄の基地問題から目をそらすことも愚策です。22年ぶりに訪れた平和祈念資料館は私にいろいろなことを考えさせてくれました。3時間ほどしかいられませんでしたが。

再び雨脚が強くなってきた中、資料館の近くに立つ韓国人慰霊塔に向かいました。そして摩文仁の丘で慰霊碑に刻まれた膨大な数の名前を目にします。ただ、そこにたたずみます。降りしきる雨が何かを私に訴えます。

すでに閉館時間は過ぎてしまいました。名残惜しいですが那覇への岐路につきます。那覇市街までの道は混雑していましたが、無事に国際通りへ。今回の宿はホテルグレイスリー那覇。ところが駐車場が併設されていません。少し離れた場所にある駐車場の案内され、そこまで戻る羽目になりました。

チェックインを済ませると開放感が私を包みます。久しぶりの一人旅。そして宿泊。羽根を存分に伸ばしている自分を満喫します。持ってきたパソコンでしばし作業を行ってから夜の街へ繰り出します。まずは妻がお勧めしてくれた龍泉へ。ここは龍泉酒造が直営する店だそうです。ところが私はあえてオリオンビールを飲みます。ビールがうまい。そして私が沖縄料理で一番好きなゴーヤチャンプルが感動的。うまい。

そして再び土砂降りになってきた国際通りを歩き回ります。土産物屋を冷やかし、泡盛蔵国際店で圧倒的な品ぞろえの泡盛を。当然忠孝酒造の銘柄をまっさきに探すのは言うまでもありません。歩いているとヘリオスパブを発見。クラフトビールとしてヘリオス酒造は有名な存在になりつつあります。ここではヘリオス酒造の3年古酒の「主(ぬ~し)」をいただきます。昼に訪れた忠孝酒造では飲めなかったのでようやく泡盛を味わえました。やはり訪れた地ではその地の酒を飲むに限ります。

そしてヘリオス酒造のビールを。私が頼んだのは変わり種のシークワーサーホワイトエールを。これまたライトでうまい!

満足した私はさらに古酒屋へ。ここでも膨大な泡盛が私を迎えてくれます。これほどの品ぞろえがある泡盛は、もっと内地でも見直されるべき。沖縄の食文化を広めたい。そんな思いに駆られます。お土産屋では海ブドウが試食でき、その味わいにも癒やされます。

靴をぐちょぐちょにしつつ、ホテルの1階にあるローソンへ立ち寄ります。ここで沖縄限定の缶コーヒーを仕入れました。部屋で靴を乾かし(私の足の香りが強烈でこの靴は家に帰ってから処分しました)、作業に戻ります。パソコンで作業しつつ、明日の予定を立てようと地図を眺めます。ところが、いつの間にか寝入っていました。満ち足りた初日はあっという間に終わりを告げたのです。


沖縄ひとり旅 2017/6/18


6/6は私の誕生日。6/18は父の日。その二つの記念日のお祝いに、と妻から今回の沖縄旅行をプレゼントされたのは3月ごろでした。2月に妻が沖縄旅行に行き、その延長で私へのプレゼントを思いついたのでしょう。

それ以来、沖縄旅行が私をどれだけ支えてくれたか。とても言い表せません。その頃の私が関わっていたプロジェクトやその他の激務。これらを乗り切れたのも目の前に沖縄旅行がぶら下がっていたからでした。3,4,5,6月をしのげたのも沖縄旅行があったからだといっても言い過ぎではありません。

それ以来、折に触れて沖縄のガイドブックを読み、行きたい場所をイメージしていました。沖縄を題材にした池上永一氏の著作も読みました。ですが上に書いたように仕事が落ち着かず、結局まとまって行きたい場所を考えられたのは出発前夜になってから。それまでは沖縄に行くことは決まっていながら、自分の中で旅行のイメージがなかなか焦点を結ばぬままでした。

なにせ、私が沖縄を訪れたのは1995年の秋。22年の時は私からすっかり記憶を奪っています。それも無理はなく、22年前、1995年とは私の人生に多くの思い出が刻まれた年だからです。その年は、阪神・淡路大震災で開け、地下鉄サリン事件とオウム事件で世が殺伐としていました。その時の私の思いは各ブログで記しています。

中でもその年の夏。それは私の人生で最も旅に明け暮れた幸せな時期。1995年の夏は終戦50年の節目でした。若狭での海水浴から始まり、一人列車を乗り継いで豊岡米子三原を経由して広島へ。ヒロシマでは原爆ドーム前にテントを立て、翌朝は世界中の人たちとダイ・インに参加し。さらに福岡や柳川、ハウステンボス。そして平和公園やグラバー園や諫早へ。そして休む間もなく台湾一周の旅へと。 旅に次ぐ旅の夏でしたが、当時の私は全くそれを苦にしませんでした。

私が沖縄へ向かったのは二週間にわたる台湾旅行から戻ってすぐ。大学の政治学研究部の合宿でした。大阪南港のフェリーターミナルに集合し、船で那覇港へ。タクシーで名護のホテルに向かい、そこで一泊。翌日は、海に入ったあとレンタカーを駆って南部へと。おきなわワールドに寄ってひめゆりの塔へ。夜は国際通りで飲み、その近くのホテルに泊まりました。翌朝は首里城を訪れ、そして帰路へと。こういった行動は覚えているし、ところどころの記憶もあるのですが、他はあまり覚えていません。例えば帰りは飛行機だったのか、それとも行きと同じく船だったのか。それも覚えていません。その夏の思い出があまりにも濃かったこと、さらに22年の時は私から沖縄旅行の記憶を薄れさせてしまいました。SNSもない当時ですし、日々の充実にかまけて記録を取る習慣すらありませんでした。この時の沖縄旅行の写真すら残っていない始末。私はずっと、そのことに忸怩たる思いを持っていました。

沖縄旅行の印象が薄れていることをあらためて痛感したこと。それは先日、小説「ひめゆりの塔」のレビューを書いていた時のことです。22年前の旅行でひめゆりの塔には確実に訪れました。にもかかわらず、荘厳なレクイエムが流れるホールで受けた印象が強烈すぎて、ひめゆりの塔がどんな姿だったかなど、ほとんど思い出せないのです。これはまずい。空白になっている記憶に、新たなる経験を埋めなおさないと。

また、22年の日々は、私にさまざまな知識や考えを与えてくれました。その知識とは例えば、大田司令官による「沖縄県民カク戦ヘリ」の電文であり、昨今の沖縄の基地問題です。22年の年月がたち、今の私は町田に家を構えています。町田といえば、厚木基地と横田基地の中間に位置しています。米軍機がかつて中心街に墜落し、死者も出しています。沖縄の基地問題は決して人ごとではないのです。沖縄の払った犠牲を知った上で、基地問題にどう向き合うのか。国際政治と住民の意見のどちらを優先すべきなのか。そもそも沖縄の民意は基地に反対なのが総意なのか。

あと、池永氏の著作「バガージマヌパナス わが島のはなし」を読み、御嶽の存在が沖縄文化に欠かせないことも知りました。それと組踊です。池永氏の他の著作で情緒豊かに、魅力的に描かれていました。組踊とはどんなものか一度は観てみたい。さらに、この22年は私に酒文化の奥深さとその魅力をがっちり教えてくれました。沖縄といえばすなわち泡盛です。これもどんなものか見てみたい。

検討した結果、今回の旅で絶対に行こうと思ったのは以下の三カ所です。斎場御嶽、海軍司令部壕、ひめゆりの塔。そしてどこかの泡盛醸造所。

前の晩、妻がおすすめするお店を一緒にグーグルストリートビューで確認し、旅の雰囲気をつかみながら、あらためて行きたい場所に思いを馳せます。

妻からは国際通りにあるゴーヤチャンプルーのうまい店を妻に勧められました。私もゴーヤチャンプルーは好きで、沖縄料理を食べる際はかならず注文します。あと、沖縄料理といえば、沖縄そばが有名です。ところが、どうもあのシンプルで武骨な味になじめていませんでした。それもあって、今回の度は私を唸らせる沖縄そばを味わいたい、と思いました。

他にも候補はたくさんありました。たとえば妻からは首里城を見ることを勧められていました。首里城は22年前に行ったはずなのですが、上に書いた通り記憶の彼方です。他にも滝巡りや水族館めぐりなど、22年前の私の興味を惹かなくても今の私には魅力的な場所がたくさんあります。ですが日本の滝百選に選ばれたマリュドウの滝は西表島。飛行機で行ってみることも考えましたが、一泊では時間的にも難しく、費用の問題もあって断念。比地大滝も国頭半島の方まで行かねばならず、一泊二日の日程に組み込むと滝だけで終わってしまいかねない。同じ理由で美ら海水族館も断念しました。

さて、翌日の沖縄の天気予報を確認します。すると雨。大雨のため、那覇で催される予定だったAKB48の野外ライブが中止になったというニュースが飛び込んできます。でも、私の行きたい場所に天気など関係ありません。それよりも目的地が絞れたことの方が重要です。ようやく行く場所が定まったことで、2時か3時ごろまで仕事をして就寝。