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ほら男爵 現代の冒険


著者の作品を読むのは久しぶりだ。

しかも本書は多数のショートショートを集めたものではなく、長編小説の体裁をとっている。
私は今までに著者の長編小説を読んだ記憶が思い出せない。ひょっとしたら初めてかもしれない。

ほら男爵。シュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵の異名だ。
高名なミュンヒハウゼン男爵の孫だ、と自ら名乗るシーンが冒頭にある。
私はミュンヒハウゼン男爵の事を知らなかったが、この人物は実在の人物であり、Wikipediaにも項目が設けられている。

18世紀のドイツの人物で、晩年に人を集めて虚実を取り混ぜて話した内容が『ほら吹き男爵の冒険』として出版され、いまだに版を重ねているようだ。本書は、それを著者が新しく翻案し、孫のシュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵を創りだし、冒険譚として世に送り出した一冊だ。

著者は、かつてSF界の御三家と言われた。
SF作家の集まりでも奇想天外なホラ話を披露しては、一同を爆笑の渦に巻き込んでいたと言う。
ショートショートの大家としても著名だが、ホラ話の分野でも第一人者だったようだ。

そうであるなら、著者がドイツのほら男爵の話を書き継ぐのはむしろ当然といえる。

本書は四つの章に分かれている。ほら男爵が奇想天外な冒険をサファリ、海、地下、砂漠で繰り広げる。

それぞれの場所で時間も空間も無関係にさまざまな人物や物が登場し、出来事が起こる。それはもう想像力の許す限りだ。
鬼ヶ島に向かう桃太郎に遭遇し、ギリシャの神々と仲良くなる。幽霊船に乗れば人魚がくる。さらには不思議の国のアリスやドラキュラ伯爵まで。ニセ札をばらまく犯罪者が現れ、東西の首脳は茶化される。現代の文明が発明したはずの事物が実は古代のピラミッドの下に埋められたタイムカプセルにある。
もう、やりたい放題だ。
古今東西のあらゆる空間と時間が混在し、著者の思うがままにほら男爵の冒険は続く。

本書の内容は決して難しくない。むしろ、子どもでも読めると思う。
もともと、著者は読みやすい小説を書く。それは長編でも変わりないようだ。
長編であってもショートショートと同じテンションで書くには苦労もあっただろう。だが、著者は本書にも次々にエピソードを繰り出し、読みやすい作品に仕上げている。

ただし、本書には毒が足りない。著者のショートショートは風刺に満ちていて、考えさせられるものが多い。
だが、本書の毒とはより広い範囲に及んでいる。それは、人々が常識に囚われる様子を笑う毒である。

あらゆる常識、知識、思い込み、考え方。
人が囚われる思い込みにはいろいろある。

それは、教育と文明の進展によって人々が備えてきた叡智だ。
教育によって人々は知識を蓄え、常識を身につけてきた。
それが現代文明の根幹を支えている。

だが、それによって奪われたのが人間の想像力の翼ではないだろうか。
本書は1960年代の終わりに発表された。つまり、日本の高度経済成長期の真っ只中だ。大阪万博を翌年に控え、公害が日本のあちこちを汚している頃。科学万能の信仰がピークを迎え、行きすぎた科学の力がまだ自然を汚染するだけで済んでいた頃。
人の生き方や働き方に深刻な影響はなく、皆がまだ右上がりの成長を信じ、それを望んでいた頃。
ところが著者はその時、想像力の枯渇を予期していた。そしてそれを風刺するかのように本書を著した。

人々の行動範囲は文明の進展によって広くなり、世界は狭くなった。時間のかかる仕事は少しずつ減り、人々のゆとりが少しずつ生まれてきた。
ところが、本書が著された頃からさらに未来のわれわれは、相変わらず不満を訴え欲望の行き場を探している。そして、想像力は枯渇する一方だ。

かつては、夜になれば火の明かりだけが頼り。あらゆる娯楽は会話の中だけで賄われていた。話を聞きながら、人々はそれぞれの想像力を働かせ、楽しみを心の中に育んでいた。
ちょうど、ミュンヒハウゼン男爵が人々に語っていたように。

そのような昔話やおとぎばなしが世界中のあちこちで語られ、現代に受け継がれた。
なぜ受け継がれたのか。それは、物語こそが人々にとって大きな娯楽だったからだ。
今やそれが失われ、人々は次々に注ぎ込まれる娯楽の洪水に飲み込まれている。そして、想像力を働かせるゆとりすら失いつつある。

著者はそれを予見して本書を描いたのではないだろうか。
ほら男爵の時代に立ち返るべきではないかと。

本書が発表されてから五十年以上が過ぎた今、豊かなはずの人々は満たされていない。生きがいを失って死を選ぶ若者がいる側で、いじめやパワハラが横行している。誰もが持て余した欲望のはけ口を他人や環境にぶつけ、自らの不遇を社会のせいにしようとしている。

人の心の動きは外からは把握できない。心の中で何を想像しようとも、それは他人には容易には悟られない。想像力を働かせればその限界はない。時間や空間を気にせず、あらゆる場所であらゆる事ができる。想像力こそが、人に残された最後の自由なのかもしれない。
その世界では自らを傷つける人はいない。空も飛べるし地下にもぐれる。本書に描かれたような奇想天外な人や出来事にも出会う事だって可能だ。

想像力は自らを助けるのだ。

本書のように一度自分の中で好き放題に想像してみよう。
そして借り物の世界ではなく、自分だけの物語を紡ぎだしてみよう。
その時、何かが変わるはずだ。

‘2020/04/28-2020/04/30


宇宙衞生博覽會


本作は、著者が発表してきた著作の中でも、屈指の短編集だと思う。著者が生み出した短編は膨大にあるが、ファンによってその中から人気投票を行ったとする。多分、その中には本書に納められた短編がいくつも入るに違いない。

例えば「関節話法」。著者の短編の中でも大好きな一編だ。本書に収められている。「関節話法」が著者の短編の中で傑作に数えられていることは、本書を読む少し前に世田谷文学館で開催された筒井康隆展において、パネル上に著者直筆の原稿を拡大した「関節話法」の全編が展示されたことからも確信できる。今まで「関節話法」には何度も笑わされてきたが、この時も巨大な原稿を読みながら、笑いが堪えられなかった。

本書にレビューは不要。ただ読んでください、とお勧めすればいい。あとはハマってもらうだけ。ところが、こういう世界にハマるであろう長女に貸したところ、読んだ様子がない。著者が原作を書いた「パプリカ」は好きなはずのに。情報があふれている今、私がキュレーターとなって本書を紹介する必要を感じた。ほとんどの人にとって、ドラマ化や映画化されていなければ、読むきっかけにならないのだ。著者で言うと、「時をかける少女」「家族八景」「富豪刑事」のような。

本レビューを書くために本書をいったん長女から返してもらい、各編を紹介してみる。

「蟹甲癬」
これも私の好きな一編だ。小林多喜二の「蟹工船」といえば、プロレタリア文学の金字塔でありながら、虐殺事件のイメージもあって陰惨なイメージが強い。著者はそのタイトルから、これだけ全く違う傑作を作り上げてしまった。人の顔に疥癬ができ、それがカニの甲羅っぽくなる、という着想。さらにその内側にカニミソに似たうまいものが付着し、人々はこぞってそれを食べるように。ところが、、、、。

もう、着想の天才としか言いようがない。今はあまりみないが、ハナクソを食べる子供は人々の嫌悪の対象となっている。本編はその発想を延長し、極上の一編にしている。短編の理想にも思えてしまう。

「こぶ天才」
コブといえば、奇型の象徴にみられがち。それを、子供の教育に奔走する教育ママのヒステリーと掛け合わせている。付着させ、寄生させることで、天才になれるという寄生生物。コブをつければ容姿は醜くなるが、そのかわりに天才になれる。嫌がる我が子につけようとする教育ママの醜さが描かれる。ところが、、、、

その結果、どうなったか、という結末が著者の風刺精神を全開にしていて、面白い。本編はオチが秀逸ことでも印象に残る。

「急流」
著者が江戸川乱歩に認められたのが「お助け」であることはファンには有名な話だ。自分以外、時間の進み方が遅くなった世界を描いた作品だ。本作は逆に全世界の時間が加速度的に速くなる様子を描いている。ドラえもんのエピソードでも似たような話があった気もするし、本編のアイデアは古典的にすら思える。国外には似たような話がないのだろうか。もし本作が同様のネタの嚆矢だとすれば、すごいことだと思う。

著者の多彩な作風を支えるのはSFであり、スラップ・スティックだ。その典型が本編で読める。

「顔面崩壊」
本編もまた、著者の悪趣味な毒が全開の快作だ。普段、誰もが見慣れている顔面。ただでさえ整っているのに、ご丁寧に化粧までする。だが、そんな顔も河を一枚はがすと、恐ろしい形相へと。そんな見た目にだまされず、著者の観察眼は本質をさらけだす。そこに笑いは生まれ、それが私たちの普段の認識から遠ざかるほど、笑いは増してゆく。

本編も、語り方や落ちにいたるまで、著者が短編の巧者であることを味わえる一編だ。

「問題外科」
本編は既存の倫理を笑い飛ばす著者の真骨頂だ。倫理もへったくれもない、とある病院の外科。医術とは倫理があってこそもの。倫理や職業意識が失われた外科は、なまじ道具も技術もあるだけ始末が悪い。ヨーゼフ・メンゲレや七三一部隊の手術室にアルコールを充満させたらこんな風になるだろうか。本編に描かれたような振り切った毒々しさこそが著者の素晴らしさだと思う。

笑いとは、既存の価値観を崩した先にある。医は仁術。そんな価値観が跡形もなく壊されたあと、本編のような笑いが残る。

「関節話法」
冒頭に書いた通り、私にとって本編は笑い袋に等しい。言葉とは意味がつながってこそ。それが乱された時、本人が真剣であればあるほど、笑いは増大する。不謹慎なほどに。そういう笑いのエッセンスが全て本編には詰まっている。

間接を関節と読み替えるだけでここまでの物語を作り上げる著者には、本当に脱帽だ。尊敬する。

「最悪の接触」
これまたコミュニケーションの不条理を描いている。そしてそのシチュエーションは、SFという便利な道具を用いれば、自由自在に設定できる。SFの可能性を感じさせる一編だ。異星人とのコンタクトは、SFでは必須のプロット。これをここまでの笑いに変えられる著者の才能に、いつもながら尊敬する。もはや嫉妬できるレベルからははるかに超越している。

同じ人類でも、コミュニケーションの難しさを感じさせることがある。本編には、そうした絶望や達観もあるだろう。そこで諦めるず、鮮やかに笑いに変えられることに、著者の文学的な才能があるのだと思う。

「ポルノ惑星のサルモネラ人間」
著者の父上は、天王寺動物園の園長も務めた著名な動物学者だったという。その博物学の素養は著者にも受け継がれているはずで、著者の他の作品には博物誌と名がついたものもある。そうしたが医学な知識をSFに適用したらどうなるか、という見本のような一編だ。ここにもSFの装置を使うことで、無限の可能性が生まれる実例がある。

本稿をアップする数日前、同じ世田谷文学館で開催された小松左京展を訪れた。著者の肉声を聞くこともできた。そこで感じたのは、SFの限りない可能性だ。本書はSFの可能性が存分に感じられる。40年以上前に書かれたというのに。技術を追うことがSFではない。既存の価値観を取っ払えるからこそSFなのだ。

‘2018/10/16-2018/10/16