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八日目の蝉


著者の小説は初めて読んだが、本書からは複雑な読後感を感じた。
もちろん、小説自体は面白い。すいすい読める。
だが、本書が取り上げる内容は、考えれば考えるほど重い。

家族。そして、生まれた環境の重要性。
本書のとりあげるテーマは、エンターテインメントだからと軽々に読み飛ばせない重みを持っている。母性が人の心をどこまで狂わせるのか、というテーマ。
子を育てたいという女性の本能は、はたして誘拐を正当化するのか。
誘拐犯である野々宮希和子の視点で語られる第一部は、本来ならば母親として望ましいはずの母性が、人の日常や一生を破壊する様を描く。

そして、禁じられた母性の暴走が行き着く果ては、逃亡でしかない事実。
勝手に「薫」と名付けたわが子を思うゆえ、少しでもこの生活を守りたい。
そんな希和子の望みは、薫の本来の親からすると、唾棄すべき自分勝手な論理でしかない。
だが、切羽詰まった希和子の内面に渦巻く想いは、母性のあるべき姿を描く。それゆえに、読者をグイグイと作品の世界に引きずり込んでゆく。

そして薫。
物心もつかない乳児のうちに誘拐された薫のいたいけな心は、母を頼るしかない。
母が母性を発揮して自分を守ろうとしているからこそ、薫は母を信じてついて行く。たとえそれが自分を誘拐した人であっても。
薫の眼にうつる母は一人しかいないのだから。

環境が劣悪な逃亡生活は、真っ当な成長を遂げるべき子どもにとって何をもたらすのか。
そのような現実に子どもが置かれる事は普通ならまずない。
ところが、無垢な薫の心は、そもそも自らの境遇を他と比較する術がない。自分に与えられた環境の中で素直に成長して行くのみだ。
母性を注いでくれる母。母の周りの大人たち。その土地の子供達。
環境に依存するしかない子どもにとって、善悪はなく、価値観の判断もつけられない。

本書は、母娘の関係が母性と依存によって成立してしまう残酷を描く。
もちろん、本来はそこに父親がいるべきはず。父のいない欠落は、薫も敏感に感じている。それが逆に薫に母に気遣いを見せる思いやりの心を与えているのが、本書の第一部で読者の胸をうつ。
ここで描かれる薫は、単なる無垢で無知な子だけでない。幼いながらに考える人として、薫をまっとうに描いている。薫の仕草や細かい心の動きまで描いているため、作り事でない血の通った子どもとして、薫が読者の心をつかむ。
著者の腕前は確かだ。

ここで考えさせられるのは、子供の成長にとって何が最優先なのか、という問いだ。
読者に突きつけられたこの問いは、がらりと時代をへた第二部では、違う意味をはらんで戻ってくる。

第二部は大人になった恵理菜が登場する。薫から本名である名前を取り戻して。
恵理菜の視点で描かれる第二部は、幼い頃に普通とは違う経験をした恵理菜の内面から描かれる世界の苦しさと可能性を描く。
恵理菜にとって、幼い頃の経験と、長じてからの実の親との折り合いは、まさしく苦難だった。それを乗り越えつつ、どうやって世の中になじんで行くか、という恵理菜の心の動きが丹念に描かれる。

生みの親、秋山夫妻のもとに返された恵理菜は、親と呼ぶには頼りない両親の元、いびつな成長を遂げる。
そんな関係に疲れ、大学進学を口実に一人暮らしを始めた恵理菜。彼女のもとに、希和子との逃亡生活中にエンジェルホームでともに暮らしていた安藤千草が現れる。

エンジェルホームは、現世の社会・経済体制を否定したコミュニティだ。宗教と紙一重の微妙な団体。
そこでの隔絶された生活は、希和子の目を通して第一部で描かれる。
特殊な団体であるため、世間からの風当たりも強い。その団体に入信する若者を取り返そうとした親が現れ、その親をマスコミが取り上げたことから始まる混乱にまぎれ、希和子は薫を連れ脱出した。
同時期に親とともにそこにいた千草は、自分が体験したことの意味を追い求めるため、取材を重ね、本にする。その取材の一環として、千草は恵理菜のもとを訪れる。

千草との出会いは、恵理菜自身にも幼い頃の体験を考えなおすきっかけを与える。
自分が巻き込まれた事件の記事を読み返し、客観的に事件を理解していく恵理菜。
母性をたっぷり注がれたはずの幼い頃の思い出は記憶から霞んでいる。
だが、客観的に見ても母と偽って自分を連れ回した人との日々、自然の豊かな幸せな日々として嫌な思い出のない日々からは嫌な思い出が浮かび上がってこない。

むしろ、実の親との関係に疲れている今では、幼き頃の思い出は逆に美化されている。
三つ子の魂百まで、とはよくいったものだ。
無意識の中に埋もれる、三歳までの記憶。それは、その人の今後を間違いなく左右するのだろう。

実際、恵理菜は自分の父親を投影したと思われる、頼りない男性の思うままに体を許し、妊娠してしまう。
そればかりか、妊娠した子を堕ろさずに自分の手で育てようと決意する。
それは、自分を誘拐した「あの人」がたどった誤った道でもある。
それを自覚してもなお、産もうとする恵理菜の心のうちには、かつての母性に包まれた日々が真実だったのかを確かめたい、という動機が潜んでいるように思える。
自分が母性の当事者となって子を守り、かつての幻になりそうな日々を再現する。

恵理菜にとって美化された幼き頃の思い出が、記事によって悪の犠牲者と決めつけられている。
だからこそ、恵理菜は、自らの中の母性を確かめたくて、子を産もうとする。その動機は切実だ。
なにせ美化された思い出の中の自分は、記事の中ではあわれな犠牲者として片づけられているのだから。

そうした心の底に沈む無意識の矛盾を解決するため、恵理菜はかつての自分に何がおこったのかを調べてゆく。そしてかつて、偽の母に連れまわされた地を巡る。
自らの生まれた環境と、その環境の呪縛から逃れて飛び立つために。
俗説でいう一週間しか生きられない蝉ではなく、その後の人生を求めて。

母性と育児を母の立場と子の立場から描く本書は、かつて育てられた子として、そして子を育てた親としても深く思うところがある小説だ。
とても読みごたえがあるとともに、余韻も深く残った。

‘2019/7/30-2019/7/31


水の女


本書の著者である中上健次氏。その中上健次氏を取り上げたのが高山文彦氏の『エレクトラ』だ。中上健次氏の生い立ちから作家としてのデビュー、そして死ぬまでを濃密に描き切った傑作評伝だ。かつて私は、中上健次氏の『枯木灘』を読んだ。だが、それから20年以上、中上健次氏の作品を読むことはなかった。そんな私に『エレクトラ』は著者のすごさと深みをもう一度教えてくれた。(レビュー)

『エレクトラ』に触発され、久々に中上健次氏の作品を読んでみようと思った。だが、どれから手に取ればいいか全くわからない。古本屋に行っても中上健次氏の本は書棚で見かけない。『エレクトラ』の中で高山氏は、初期の重要な作品として『十九歳の地図』『火宅』『蛇淫』『岬』などを取り上げていた。私も本来、その順に読んでいきたかった。だが手に入らず、たまたまブックオフにあった本書を手に取った。

熊野。本州の南端にある交通の不便な地。そして著者が生まれ育った地。著者はそこを舞台に濃密な血縁と暴力、そして性を描いた。本書には全部で5編の物語が収録されている。5編とも熊野地方が舞台となっている。熊野は交通が不便であるため、開かれていない。閉じている。人と人の関係も。

5編に登場する男女も、閉じた熊野の地で限られた関係にからめ取られている。むしろ自ら進んでからめとられようとするかのようだ。男といることを当たり前のように考える女。女を常にそばにおきたがる男。そしてお互いが性で結びつきあい、依存しあっている。出口のない世界の中、愛欲と性の世界に浸っている男女。本書に流れているのはそうした世界観だ。

仕事がなければ、家に二人がいれば、四六時中、乳繰り合い、まぐあって性交にふける。他にやることがないのだろうか、と思いたくもなるほど2人の男女は始終セックスをしている。まるでそれが、2人を結びつける唯一の絆であるかのように。そこには、男が女に、女が男に対する優劣はない。むしろ、依存し、依存しあう男女の平等な関係が見えてくる。

相手に依存するためには、何かを差し出さなければならない。女にとってはそれが自分の体であり、男は自分の体で女を悦ばせる。相手を体で喜ばせることで、依存させてもらっている相手へ無意識に償っている。お互いが性を介して依存しあう。そんな関係が濃密にあらゆる角度で描かれる。

これが都会であればそうはならない。人と人との関係には違う何かが入り込んでくる。例えばビジネス。文化や享楽もある。それらが身の回りにあふれているので、誰かに依存しなくても生きてゆける。それが都会であり、現代の情報の氾濫だ。だが、本書が書かれた当時の熊野には文化や享楽は乏しく、ビジネスも規模が小さい。なので、人が依存する対象は男と女に絞られてゆく。そんな間柄にあって、何を媒介にするか。それは相手を喜ばせることだ。そのような暗黙の了解が男と女にできあがる。それがすなわち性。愛欲。

そんな閉じた関係が濃密に息づいているのが熊野。そして『エレクトラ』にも書かれていたとおり、著者は被差別部落の出身である。そういう土地柄であるため、そうした持ちつ持たれつの関係はさらに濃縮され、しがらみをさらに強固に縛ってゆく。

本書に出てくる5編はその関係性において大きく二つに分けられる。最初の「赫髪」「水の女」「かげろう」の男女はいずれも似たような関係だ。女には名がなく「女」として登場する。一方、男には名前が付けられている。これは男女の関係の重心が男性側にあることを示しているのだろう。男が支配し、女が支配される関係。

ところが「鷹を飼う家」「鬼」の女性にはそれぞれ「シノ」と「キヨ」という名前が付けられている。実際、「シノ」と「キヨ」は、男をあしらい、うまく利用するしたたかさを持つ女として描かれている。男に支配されるどころか、逆に利用するだけの強さをもつ女として。

だが、女たちのあり方に変化があるのに比べると、5編に出てくる男はどれも似たような武骨で不器用な性格の持ち主だ。ところが、あまり変わりばえしない男と違い、女は「女」であっても、登場人物によって個性が描き分けられている。例えば、自らの未来を考えず、ただ、男といる今を生きる女がいる。意思を放棄したようにただ男について行く主体性のない女がいる。自分の行き先に迷い、今の状態をいとう女がいる。かと思えば、男と夫婦となって子をなし、したたかにお互いを抜き差しならない関係に持ちこみながら、他の男にも母性を任せる「シノ」もいる。かと思えば、独立心を持ち、性にすら理由をつけ、自分の性に頼る理由に意味を持たせようとする「キヨ」もいる。

個性を持った女性がいる一方で、本書に出てくる男性がどれも似たように描かれているのは、著者が自分自身を投影したからだろうか。執拗に同じような男を描く。それは、著者が熊野を憎む度合いの強さであり、もしくは地縁に縛られたしがらみの重さの表れなのかもしれない。そして、女に依存しなければならなかった過去から逃れ、東京で小説家になった著者は、あえて過去の自分を投影させた男を執拗に描き、それによって、故郷から決別を図りたいかに思える。

そう考えてみると、著者が各編の女性に個性を与え、男性をステレオタイプに描いたのにも理由があるように思える。

また、著者は5編で男女の違いを際立たせる試みに挑んだのかもしれない。性とは、男女によって受け取り方が違う心理をつかみ取るために。

ただ単に相手を孕ませるため、子孫を作るための本能につき動かされている男性と、それを、生きるための手段であり、自分の中に生命を宿らせる母性から生まれた本能で性をとらえる女性。つまり女性の方がより確信を持ち、しかも性がもたらす結果を本能の奥底で予期しつつ性を受け止めているのかもしれない。

著者がそういう試みをしているのでは、と思うのは、本書の5編には血縁のややこしさがあまり出てこないからだ。あくまでも5編で描かれるのは縁あった男女が性という営みで結びあった姿だ。それは、血縁やしがらみと性を完全に分けようとした著者の意図から出ているのではないだろうか。都会では、男女は性で結びつく。だが、血縁と言う面では結びつきは弱い。それが、逆に有機的で多様な男女の関係を作り出している。都会での作家生活を通してそのことに気づいた著者が、短編として著したのが本書ではないだろうか。

ただ『エレクトラ』でも高山氏が歩いて感じた通り、著者が育った新宮の街は、かつてとは違っている。もう本書に描かれたような閉じた関係はそれほど見られないはずだ。著者は後年、再び熊野の地縁をもとめ、熊野を歩いてルポを著している。それもまた、このような濃密な男女の関係を探し求めていたのかもしれない。

本書の解説は映画「赫い髪の女」を監督した神代辰巳氏が担当している。この映画は本書の第一編「赫髪」を基にしているそうだ。そこで神代氏は「赫髪」では「女」と呼ばれた女性をモチーフに映画を撮ったが、第五編の「鬼」のキヨのしたたかで複雑な描かれ方も踏まえて、映画の脚本に取り入れたかったと言う意味のことを書いている。

本書の内容を基に神代氏はどのような映画に表現したのだろう。とても興味がある。全編がからみ合う日活ロマンポルノとはいえ、お互いを頼るしか生きていけない男女の性の機微を繊細に描いたとすれば、それは立派な映画だ。だが、神代氏が、女性の個性を他の編も踏まえて描くべきだったと反省しているとはいえ、「赫髪」から生まれた作品であるとの基準に考えれば傑作であるはず。機会があれば観てみよう。

‘2018/09/10-2018/09/16


天上の青 下


上巻を通して宇野富士男の性格は充分すぎるほど読者に披露された。一見すると穏やかそうに見えて話も達者。だが、一度、自分に都合の悪いことが起こると気の短さが爆発し、見境のない行動に走る。そういう性格の持ち主は、権威にも激しい敵意を示す傾向にあると思う。

富士男の悪い面は、偶然の出会いで車に乗せた少年に対して顕著に現れる。11歳のひどく大人びた、生意気な口調で話す少年。気圧された富士男は不機嫌が募ってゆく。少年は父が検事であることを誇示し、悪いヤツは罰せられるべきだと持論を振るう。少年との会話は富士男の衝動に火をつける。そして、「僕を殺したりすると、国家的損失だよ」の言葉に富士男の理性は吹き飛ぶ。自分よりもかなり年下の少年との会話にむきになり、自制のできない富士男の幼さが出てしまう瞬間だ。少年の死と家への帰りに引き起こした交通事故が富士男の命取りとなる。

逮捕と勾留。富士男を取り調べるのは、財部警部補と檜垣巡査部長のコンビだ。取調室で取り調べと韜晦のせめぎ合いが始まる。富士男がのらりくらりと尋問をかわしても警察の組織力が次々と矛盾を暴いてゆく。富士男視点で尋問は進むので、いわゆる犯人からの視点で物語が進む倒叙型のミステリーとでもいおうか。読者は富士男がいかにして尋問を切り抜けるのか、または、彼の狡知を警察がいかに破ってゆくかに興味を惹かれるはずだ。会話の巧みさを自負していた富士男をあざ笑うかのように、証拠が次々と富士男を打ちのめしにかかる。富士男と警察の駆け引きがとてもスリリングでリアルだ。私は著者の作品をあまり読んでいないが、推理小説作家としては認知されていないように思う。だが、取り調べのシーンは間違いなくミステリを読んでいるようだった。著者の作家としての筆力を見せられたように思う。

でも、いくら著者が達者に尋問経過を書き込もうと、本書は事件の意外な真相を描くのではなく、罪と罰、そして救いを描く小説だ。そのため、土壇場で予期せぬ事実が判明することはないし、富士男の替わりに真犯人が現れることもなく、まだ見ぬ共犯者が現れることもない。著者は富士男の罪の意外な事実を暴くよりも、波多雪子の無垢な視点で富士男の罪を考えさせる。それによって読者は波多雪子に興味の視点を注ぐのだ。波多雪子の心がどのように揺れ動き、富士男の罪とどう折り合いをつけてゆくのか。

波多雪子は獄中の富士男に向って手紙を書く。手紙の中で波多雪子が書いた一文にこのようなくだりがある。「お互いに小細工はよしましょう。生きることは小細工では追いつかない、骨太なシナリオを持っているように私は思うのです」。さらに、富士男がレイプした女性の家族がたまたま波多雪子の知り合いだったことから、一つの家族が富士男の行いによって崩壊しつつあることを非難し突き放す。一方で、富士男がたまたま車に乗せ、殺さずに会話を交わして送り出した女性は富士男との会話によって自殺を思いとどまる。その女性も波多雪子の知り合いだった。波多雪子は、富士男が一人の少年や家族を壊しただけでなく、一人の女性を救ったことも思い返す。波多雪子は、投函せずに手元に置いておくつもりだった手紙にお礼と続きを加え、手伝えることがあれば手伝うと申し出る。

取調室で自分だけが被害者だと世をひがんで見せる富士男。そんな富士男に、檜垣巡査部長が自分は捨て子だと明かし、富士男の甘ったれた根性にぐさりと切り込む。檜垣巡査部長は、取り調べに当たった刑事の中でも富士男の心情を見抜き、富士男の心を融かす波長をもつ人物だ。ちょうど大久保清にとっての落合刑事のように。そんな檜垣巡査部長は、富士男の人物を理解するための糸口を求めて波多雪子のもとを訪ねる。そこで波多雪子が語る「どなたにせよ、この世で私のことを思い出して訪ねて来てくださる方がいらっしゃるなんて、私、光栄だと思っていますから」という言葉は檜垣巡査部長を圧倒する。檜垣巡査部長は、この言葉だけで富士男と波多雪子の関係にただれた部分がなかったことを確信させたことだろう。そして檜垣巡査部長は、富士男が弁護士を紹介してくれるよう頼んでいることを波多雪子に伝える。富士男は、義兄の三郎がよこした国選弁護士の話を蹴ったのだ。波多雪子の紹介してくれた弁護士なら、という富士男。それを聞いた波多雪子は、自分こそが富士男にとって唯一残された蜘蛛の糸であることを自覚する。蜘蛛の糸とは、仏が地獄に垂らした一本の糸をさしているのだろう。罪人たちが我先にと糸にとりついたために、切れてしまった仏教説話は有名だ。波多雪子は富士男のこころを罪からすくい上げられるのだろうか。

知り合いに弁護士のいない波多雪子は、偶然、風見渚という弁護士と知り合う。宇野富士男の弁護を引き受けられないか、とおずおずと切り出す波多雪子に、風見渚はこう答える。「私、結婚するとき、主人に言われたんです。弁護士をやるなら、一生、道楽でやれ、って。最低食うだけは僕が引き受けてやる。だからお金になるかならないか、ということじゃなくて、この事件の弁護に自分が関わることが、自分にも相手にも意味がある、と思うものだけやれ、って言われたんです」。宇野富士男から波多雪子、そして風見渚へと弁護の糸は流れるようにつながってゆく。ここまでの流れに著者のご都合主義は感じられない。

今となってはもはや、宇野富士夫と大久保清の事件を比べることに意味は薄れつつある。なぜなら、波多雪子の視点が中心となった本書は、大久保清をモデルとしただけの小説ではなくなってきているから。それでもあえて私は大久保清の事件をベースに本書を読んでみたいと思う。私は大久保清の弁護人に選任された方の名前を知らない。その方が弁護人としての本書の風見渚のように高邁な哲学を持っていたのかも知らない。もし、大久保清に波多雪子や風見渚のような精神的な支柱があれば、さぞ心強かっただろうと思う。

波多雪子から宇野富士男にあてた手紙には、風見渚に弁護を頼んだことと、「人間は自分のことを人に語らせてはいけません。それは、第一自分に対して失礼です。」というくだりがある。大久保清は「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」と題された手記を発表している。大久保清はそういう形で世間に対して自分を語ろうとした。この書を発行したのはアナーキストの肩書を持つ大島英三郎氏となっている。大島氏がどういう経歴の方かは知らないが、波多雪子が宇野富士男と書簡を交わしたように、大久保清も大島英三郎氏と書簡を交わしたのだろう。本書では以降、宇野富士男の心のうちが書簡の形で表現される。

宇野富士男が、現場検証で連れていかれた海を見て、感慨にふけるシーンがある。少し長いが引用してみる。
「富士男は静かに海の香りを鼻の穴に通した。そして眼をつぶった。その頬は微笑していた。その瞬間、彼は自分がどこに、どんな人生を背負って生きているかを忘れることができた。富士男は自分が小さな気泡になって海へ溶け込む実感を味わった。それは自分が無限に小さくなり、何者かに抱かれる感覚であった。小さくなると、自分の中に内包されていた悪も小さくなるのか。そうは行かない、と人々は言うであろう。しかし偉大になることに血道を上げる奴もいるとすれば、自分が小さくなることに安らぎを見出す人間もいる。それは、常に大きなものになろうと背伸びし、大きなものがいいものだと信じ、大きなものにしか存在の価値はないと思い込んできた常識に対する不遜な反抗の開館であった。」
「富士男は一瞬海に向かって頭を垂れた。富士男は海を見ることはこれが最後だろう、と予感した。だから富士男は海に訣別の挨拶を送り、もう一度しみじみとその無垢な喜びの色を見つめたのだった。」
このシーンは、多分、大久保清が生前出版した「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」を意識しているのだろう。私はその手記は読んだことがない。だが、この手記には詩も載っており、その中で大久保清はこのようなことを書いている。
「父母よ!私の骨と灰は
 あなたがたにお願いしました
 その梓川の清き流れに
 私の全部を託して、長い旅に出ます
 そして何日かかるかわからねど
 きっとナホトカの港までゆくでしょう」

私はここにきて、著者が本書の舞台を三浦半島にした理由をおぼろげながら理解した。天上の青はアサガオの花弁の青。そして湘南の海の青、空の青。そして、自らの罪を清める清浄さの象徴としての青。罪は川となって流れ、海へと至る。そこに人の貴賤はない。人の裁きではなく、自然の、神の摂理によって罪は海へと流れゆく。その海の色はどこまでも青い。

富士男への書簡で、波多雪子はクリスチャンとしてキリスト教の話題を持ち出しては、富士男の心を少しでも改悛に導こうとする。だが、富士男は神だけは受け入れられないと拒絶する。波多雪子はそんな富士男のかたくなさに、少しも逆らわず、諭すように言葉をつむいでゆく。もともと自然の摂理に従い、自分に大いなる意志や役割を求めない姿勢で生きている波多雪子。人間の社会では全ては法廷という人による裁きの場で決着がつけられる。だが、波多雪子にとってはそうではない。キリスト教の教えでは、道徳については「裁くなかれ」と神がおっしゃったので人が人を裁くべきではないという。

そんな富士男に極刑の判決が下る。それにたいし、富士男は短く、
「たった一言、答えを聞かせてほしい。
 愛していてくれるなら、控訴はしない」
と。

波多雪子はそれに対し、
「同じ時に生まれ合わせて、偶然あなたを知り、私はあなたの存在を悲しみつつ、深く愛しました。
 この一言を書くのに、この二日を、苦しみ抜きました」
と返す。

波多雪子はこの一言が宇野富士男の刑を確定させ、死に追いやったと深く思い悩む。富士男は欲望の赴くままに残虐に人を殺したが、自分もまた、同じ殺人の罪を犯したのではないか、と。

しかし、著者はそれとは逆のことを言いたかったのではないか。愛するという言葉は、富士男に控訴という自我を捨てさせた。富士男はとうとう改悛の情を示さなかったかもしれないが、彼は法廷で自らの自白をひるがえさず罪を認めた。それは罪を自覚したからの態度ではなかったか。そして、波多雪子からの愛しました、との言葉を受けて控訴せず罪に服した。これは一つの罪を悔いた態度とみてよいのではないか。著者は暗にこう問うているのではないか。波多雪子の愛は、ついに一人の殺人犯に自らの犯した罪を心の底から自覚させたと。

大久保清がここまでの境地に至ったのか、それは知らない。だが宇野富士夫は、波多雪子によって一つの境地に至ったのだと思う。シリアルキラーだったかもしれないが、一人の罪人として死ぬことができたに違いない。

‘2016/08/17-2016/08/19


天上の青 上


映画『羊たちの沈黙』で一躍有名になったのが、プロファイリングという言葉だ。犯罪現場を詳細に分析することで犯行の手口や犯人像を類推し、捜査にいかす手法。シャーロック・ホームズの捜査手法を現代風に置き換えたと言えば乱暴か。残虐な連続殺人犯をシリアルキラーと呼ぶことを知ったのもこの頃だ。

海外では、アンドレイ・チカチーロやテッド・バンディといった人物がシリアルキラーとして知られている。では、我が国ではそれに相当する人物はいるのだろうか。私の知る限り、和製シリアルキラーとして著名なのが大久保清だ。大久保清とは、若い女性八人の連続強姦殺人犯である。昭和40年代半ばの群馬県を舞台とした一連の事件で名を轟かせた。

本書は、その大久保清をモデルにした小説だ。大久保清の犯罪で注目を浴びたのは犯行にいたるまでの手口だ。その手口とは、女性に声をかける誘い方の洗練さに特徴があった。ベレー帽にルパシカを着た知的な自由人、つまり画家として振る舞った大久保清は、自家用車に乗って女性に声をかけていたという。そのような出で立ちの人物は当時の群馬では珍しかったのかもしれない。モデルにならないか、という彼の言葉は信ぴょう性を帯び、被害者はやすやすと誘いに乗ってしまったのだろう。

大久保清について書かれた文章の多くは、表面に現れた事実を詳しく述べている。だが、大久保清の内面を掘り下げ、何が彼を犯行に至らせたのか、について納得のいく文章には巡り合ったことがない。おそらくは私が知らないだけなのだと思う。刑務所で大久保清を担当した教誨師や取り調べにあたった刑事が、大久保清を語った文章はどこかにあるのかもしれない。ただ、それらの文章もどこまで大久保清の内面に迫れたのかは、誰にも分らない。他人の心のうちを知ることなど、しょせん今の科学では不可能なのかもしれない。

著者は小説という手段で大久保清の心にアプローチを試みる。大久保清の心に迫れないにしろ、小説家の創作力によって架空の人物を作り上げられる。著者が本書を執筆しようとしたきっかけはよく知らない。だが、本書では大久保清をモデルとした宇野富士男の造形に成功している。本書の主人公、宇野富士男がどこまで大久保清の忠実な模倣かどうか、それはもはや誰にも分からない。大切なのは、宇野富士男が犯した罪や彼の内面を描くことで、犯罪に深く迫ることだ。

大久保清の事件は群馬を舞台とした連続殺人だった。群馬といえば赤城、榛名、草津といった山国のイメージが思い浮かぶ。平野もあるが、海とは無縁。一方、本書は三浦半島を舞台としている。三浦半島といえば海のイメージが強い。そのため、どことなく作品全体にすがすがしさが感じられる。タイトルの天上の青とは、波多雪子が育てている朝顔の品種名を指している。青、とは花弁の青を差すが、湘南の海の青、空の青も含めているはずだ。その青は波多雪子の心のありようを映しだしている。波多雪子は、本書では宇野富士男と同じくらい重要だ登場人物だ。波多雪子こそが、本書に大久保清事件と違う色合いを与えている。そのことが青の色合いで引き立っているかのようだ。

群馬の緑や土色の中では、大久保清の外観がより洗練さを目立たせた。一方の本書では、青色が外見の洗練さを目立たなくさせ、逆に心のいびつさを浮き彫りにしている。

私は大久保清事件の全経過を詳しく知らない。私の情報ソースとは、いくつかのウェブ記事ぐらいが関の山。なので、波多雪子に相当する人物が実在したのかは定かではない。私の予感では、波多雪子のモデルはいなかったのではないか。なぜならば、波多雪子とは著者の宗教観を投影した人物だから。

著者はクリスチャンとして知られている。私はあまり著者の作品は読んでいないが、カトリックの洗礼を受けた立場からの著作を出している。キリスト教の神とは父性が強調されがちだ。牧師や司祭など聖職者にも男性が多い。だが、キリスト教は父性だけではない。聖母マリアに代表されるように母なる者も教義に取り入れられている。宇野富士男の罪に対しておかれたのが、母性の象徴である波多雪子なのだと思う。

宇野富士男の犯罪に、波多雪子の存在はどう影響を与えるのか。冒頭で富士男は、朝顔の色に惹かれて立ち寄ったといって波多雪子に声をかける。そして後日、種を取りに再びやってくる。その時点では富士男とは、波多雪子にはなにげなく気になる人物として映るだけだ。そんな波多雪子の視点は、富士男に渡したはずの朝顔の種が捨てられているのに気づいた時点でにわかに曇る。

つづいて物語は富士男の視点に替わる。富士男の視点からみた世界とは、不満の対象でしかない日常を指す。富士男は離婚して実家が営む青果店の上にある住居のさらに屋上に住まっている。両親と同居しているとはいえ、富士男にとっての両親は存在感が薄い。姉の夫、富士男にとっては義兄にあたる三郎が青果店を実質切り盛りしていて、遊び暮らす富士男とは犬猿の仲だ。両親は富士男をかばうが、さりとて三郎に気兼ねしている。そんな状況に富士男のストレスは募るばかりだ。鬱憤のはけ口を街での女漁りに見いだすしかない。あてもなく車を走らせては行きずりの女に近づき、ホテルに誘い込む毎日。話術が達者なので会話には事欠かない。そんな富士男の気楽な日々は、女を誘うためについたうそがばれてしまい、行きずりのよう子に危険を感じさせてしまう。車から逃げようとしたよう子を、動転した富士男は殺めてしまう。

ここで重要なのが、波多雪子の視点で富士男からかけられる言葉と、富士男の視点で女たちに発する言葉に差がないことだ。波多雪子も富士男にドライブに度々誘われるが、雪子は他の女たちと違って一線を越えさせることがない。ここで波多雪子が対応を誤れば、他の女たちと同じレベルの女になってしまう。富士男にとって波多雪子とは、他の女たちと同じではない。波多雪子がまとう節度、そして他の存在の意志に自分の存在を預けているかのような波多雪子のふるまいは、富士男に単なる女とは違う何かを感じさせる。明らかに著者は、波多雪子を富士男の聖母として描いている。

富士男は波多雪子の家に入り浸り、それでいて清い関係を続ける。その一方で女漁りに精を出し、文字通り精を出しては、逃げられたり、殺めたり、強姦したり、気まぐれに裸で逃がしたり、何もせず放り出したり、ちょっかいを出さずに送り出したり、と次第に節操を失ってゆく。

大久保清の犯行と本書で描かれる富士男の犯行は違う。だが、本質的には同じなのだろう。大久保清も母親に溺愛され、両親に繰り返し庇ってもらい育ったという。確かに、本書で三郎に相当する人物は大久保清の場合次兄だった。そして、大久保清は最初の殺人に手を染める前に二度も逮捕収監を繰り返している。そんな経歴も富士男にはない。あくまでも本書は大久保清をモデルとした小説でしかないのだから。

だからこそ、著者は自由に富士男を創造する。考え方が幼く短絡的な富士男を。口は達者で、聞きかじった知識だけは豊かな富士男を。自分にとって物事がうまくいくときは、いたって紳士的に振る舞える富士男を。ひとたび気にくわないことや反抗的な態度をとられると、途端に衝動に任せて凶暴な男に豹変する富士男を。

著者はそんな富士男の対極として波多雪子を創造した。慎ましく、控えめで、それでいて芯を持つ女性として。上巻の最後には腕枕をしあう仲となる二人だが、それでも一線は越えない。そんな清い関係を続けながらも、他方で富士男は五人を死に至らしめ、幾人をもレイプする。富士男という一人の人格の中で極端な行為が両立すること。そこに、大久保清の事件ではない著者が創作したエッセンスがあると思う。だが、下巻ではさらに著者が本書で訴えたい点が描かれていく。

‘2016/08/12-2016/08/17


マレフィセント


眠れる森の美女。ペローやグリムによる紹介により、かなり知られている童話である。ディズニーアニメよりも前に子供用の絵本で本作に触れた方も多いことであろう。

本作は、その童話の悪役マレフィセントに焦点を当てた作品である。なぜマレフィセントはオーロラ姫に呪いを掛けたのか。一般的にはオーロラの誕生パーティーに招かれなかったから。という理由になっている。だが、本作ではマレフィセントの幼少期にまで遡り、全く違う視点からの物語を描くことで、有名な物語を根底から覆すものとなっている。

角を生やし、紫色のローブに身を包んだマレフィセント。その姿は、悪魔的なイメージそのものである。だが、本作では、冒頭から幼少期の妖精としてのマレフィセントを登場させ、意表を突く。劇場でさんざん流された予告編で、本作は、アンジェリーナ・ジョリー扮するマレフィセントの妖艶な冷笑が採り上げられている。しかし、それは製作側の仕掛けたトリックであり、予告編で植え付けられた想像は、見事にひっくり返されることになる。天真爛漫でのびやかで愛らしい妖精のマレフィセント。空を自由に疾駆し、生きとし生けるものを愛するマレフィセント。

そんな愛らしいマレフィセントがなぜオーロラに呪いを掛けるまでになったのか。予告編を観る限りではその謎解きこそが本編の大きな筋と思い込んでしまう。しかし、その見せ場は前半部分までに実現してしまう。マレフィセントが呪いを掛ける理由が筋書きとして紡がれ、呪いはあっさりと掛けられる。

本作の見どころはその後にある。マレフィセントがどうやってオーロラに関わっていくか。そして呪いは実現されてしまうのか。呪いはその後どのような結末を招くのか。

アンジェリーナ・ジョリーの表情の移り変わりから、目が離せない。ディズニーキャラクターでマレフィセントが一番好きだったと語るアンジー。製作も兼ねた彼女の渾身の役作りが圧巻である。言動以外に表情で観客に語りかけるアンジー。アクション女優のイメージが未だに抜けきらなかった私には、新たな一面を見せられた思いである。

このところ童話の翻案作が目立つハリウッドであるが、同じように目立つのが男性の卑下化である。本作もそれは例外ではなく、いたるところにそのような描写が目立つ。

だが、それはそれとしても、本作に込められた女性の情念の複雑さ。そして、アンジーの作り上げたキャラクター、マレフィセントが数百年に亘るイメージを破り、全く新たな視点からの悪役像を提供した本作。その衝撃は、一見の価値がある。

本作を機に、著名な脇役キャラを別の側面から描いた作品が出てくることを予言したい。

それにしても、ここまで西洋の物語をイメージ化した作品に出会ったことがない。西洋の持つ童話世界、アーサー王物語に始まるファンタジーの世界が見事に映像化されている。今の映像技術が西洋発祥の物が多いとすれば、それは西洋人が心に持つファンタジー世界を映像化するためだったのではないかと思う程である。

’14/7/20 イオンシネマ 多摩センター