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憂鬱な10か月


本書はまた、奇抜な一冊だ。
私は今まで本書のような語り手に出会ったことがない。作家は数多く、今までに無数の小説が書かれてきたにもかかわらず、今までなどの小説も本書のような視点を持っていなかったのではないか。その事に思わず膝を打ちたくなった。
実に痛快だ。

本書の語り手は胎児。母の胎内にいる胎児が、意思と知能、そして該博な知識を操りながら、母の体内から聞こえる音やわずかな光をもとに、自らが生み出されようとしている世界に想いを馳せる。本書はそのような作品だ。

そんな「わたし」を守っている母、トゥルーディは、妊娠中でありながら深刻な問題を抱えている。夫であり「わたし」の種をまいてくれたジョンとは愛情も冷め、別居中だ。その代わり、母は夫の弟である粗野で教養のないクロードと付き合っている。
夜毎、性欲に任せて母の体内に侵入するクロード。その度に「わたし」はクロードの一物によって凌辱され、眠りを妨げられている。

そんな二人はあらぬ陰謀をたくらんでいる。それはジョンを亡き者にし、婚姻を解消すること。その狙いは兄の遺産を手中にすることにある。

だが、そんな二人の陰謀はジョンによって見抜かれる。ある日、家にやってきたジョンが同伴してきたのはエロディ。恋人なのか友人なのか、あいまいな関係の女性が現れたことにトゥルーディは逆上する。そして、衝動的にジョンを殺すことを決意する。

詩の出版社を経営し、自ら詩人としても活動しているジョン。詩人として二流に甘んじている上に、手の疥癬が悪化した事で自信を失っている。

「わたし」にとってはそのような頼りない父でも実の父だ。その父が殺されてしまう。そのような大ごとを知っているにもかかわらず、胎内にいる「わたし」には何の手も打てない。胎児という絶妙な語り手の立場こそが、本書のもっともユニークな点だ。

当然ながら、胎児が意思を持つことは普通、あり得ない。荒唐無稽な設定だと片付けることも可能だろう。
だが、本書の冒頭で曖昧に、そして巧みに「わたし」の意思の由来が語られている。
そもそも本書の内容にとって、そうした科学的な裏付けなど全く無意味である。
今までの小説は、あらゆるものを語り手としている。だから、胎児が語り手であっても全く問題ない。
むしろ、そうした語り手であるゆえの制約がこの小説を面白くしているのだから。

語り手の知能が冴えているにもかかわらず、大人の二人の愚かさが本書にユーモラスな味わいを加えている。
感情に揺さぶられ、いっときの欲情に身をまかせる。将来の展望など何も待たずに、彼らの世界は身の回りだけで閉じてしまっている。胎内で「わたし」がワインの銘柄や哲学の深遠な世界に思考を巡らせ、世界のあらゆる可能性に希望を見いだしているのに。二人の大人が狭い世界でジタバタしている愚かさ。
その対比が本書のユーモアを際立たせている。

胎児。これほどまでに、世界に希望を持った存在は稀有ではなかろうか。ましてや、「わたし」以外の胎児のほとんどは、丁重すぎる両親の保護を受け、壊れ物を扱うかのように大切に育てられているのだから。10カ月間。

ところが「わたし」の場合、夜ごとのクロードの侵入によってコツコツと子宮口を通じて頭を叩かれている。しかも、連夜の酒で酩酊する母の体の扇動や変化によって悪影響を受けつつある。そんな「わたし」でさえ、母を信頼し、ひと目会いたいと願い、世の中が良かれと希望を失わずにいる。

胎内で育まれた希望に比べ、現実の世の中のでたらめさと言ったら!

私たちのほとんどは、外の世界に出された後、世俗の垢にまみれ、世間の悪い風に染まっていく。
かつては胎内であれほど希望に満ちた誕生の瞬間を待っていたはずなのに。
その現実に、私たちは苦笑いを浮かべるしかない。

私も娘たちが生まれる前、胎内からのメッセージを受け取ったことがある。おなかを蹴る足の躍動として。
それは、胎内と外界をつなぐ希望のコミュニケーションであり、若い親だった私にとっては、不安と希望に満ちた誕生の兆しでしかなかった。
だが、よく考え直すと、実はあの足蹴には深い娘の意思がこもっていたのではなかったか。

そして、私たちは誕生だけでなく、その前の受胎や胎内で育まれる生命の奇跡に対し、世俗のイベントの一つとして冷淡に対応していないか。
いや、その当時は確かにその奇跡におののいていた。だが、娘が子を産める年まで育った今、その奇跡の本質を忘れてはいないか。
本書の卓抜な視点と語り手の意思からはそのような気づきが得られる。

本書のクライマックスでは誕生の瞬間が描かれる。不慣れな男女が処置を行う。
その生々しいシーンの描写は、かつて著者が得意としていた作風をほうふつとさせる。だが、グロテスクさが優っていた当時の作品に比べ、本書の誕生シーンには無限の優しさと、世界の美しさが感じられる。

トゥルーディとクロードのたくらみの行方はどうなっていくのか。壮大な喜劇と悲劇の要素を孕みながら、本書はクライマックスへと進む。

親子三人の運命にもかかわらず、「わたし」が初めて母の顔を見たシーンは、本書の肝である。世界は赤子にとってかくも美しく、そしてかくも残酷なものなのだ。

著者の作品はほぼ読んでいるし、本書を読む数カ月前にもTwitter上で著者のファンの方と交流したばかり。
本書のようなユニークで面白く、気づきにもなる作品を前にすると、これからの著者の作品も楽しみでならない。
本書はお薦めだ。

‘2020/07/03-2020/07/10


殺人鬼フジコの衝動


女性が生きていくには、美しく健やかな生き方だけでは足りない。したたかで醜くなくては。

男性からは書きにくい、女性の生の実情。著者は汚れた部分も含め、生きていくために必要なあらゆるきれいごとを排した負の側面を女性ならではの視点から描く。

藤子は育児放棄寸前まで親から見捨てられ、学校ではありとあらゆるいじめを受けていた。それは裸にされて性器をいじられると言う、もはやいじめのレベルを超えたいじめ。
本書の前半部分を読み通すのは、相当の覚悟が必要だ。この救いのない藤子への扱いがいつまで続くのか。読者は小説が早く明るい方向へ切り替わってほしいとすら思うはずだ。

藤子の受難は、両親と妹が殺されたことによって次の段階へと進む。孤独の身になった藤子を救ってくれたのは伯母。伯母のもとで暮らすことになった藤子は引っ越し・転校する。そして同情という得難い武器を得る。同情によっていじめられる必要がなくなった藤子は、新たな学校で立場を得ることに成功する。そこでは打算だけを頼りにクラス内で地位を得ようとする藤子の姿が描かれる。その立ち回り方は醜く、人気者も裏に回れば汚れている。
女の子がクラスでうまく立ち回るには、清く正しくではやっていけない残酷な現実。著者はそれらも含めて冷酷に描いていく。

学校を卒業し、仕事や友人、恋人にも恵まれる藤子。ところが、恋人と友人との間で三角関係の複雑さに襲われ、ついには殺人に手を染める。どこまでも運命は藤子を更生から遠ざける。凄惨な死体処理を恋人と二人で行う中、恋人は藤子を恐れ、藤子に秘密を掴まれたとおびえるあまり、まともな社会生活を送る気力を奪われる。さらに恋人の親は資産家ではなく、元資産家でしかなかった事実。
単なるヒモに成り下がる恋人との殺伐とした毎日。

この時点で藤子の人生には選択肢がなくなってしまう。この結末を藤子のせいにするのか、それとも環境のせいにするのか。
決して自分の母のようにならないと誓っていたはずなのに、事態はどんどんと藤子の意に反する方向へと進んでいってしまう。

そんな藤子の姿は、生命保険の外交員スカウトも引き寄せる。新たなる仕事への勧誘。ところが羽振りの良さそうなスカウトも、裏側では悲惨な日々を過ごしている。子育てどころか、ネグレクト。藤子が幼い頃に受けたような悲惨な境遇をしなければならない虚栄に満ちた日々。
恋人との間に生まれた美波を異臭がするまで押し入れに閉じ込め、行き着く先は謎の失踪。

ここまで徹底的な転落劇を描いておいて、著者は藤子に何も救いを与えない。それどころか読者も闇に引き摺り込もうとしているのではないか。
読者はこの希望が見えない小説から何を汲み取ろう。何を教訓としよう。

刹那のお金を得るためなら、いとも簡単に目の前の人物を殺す。目の前の理不尽な現実を凌ごうとする藤子の生き方はすでに修羅。夜の蝶になってもそれは変わらない。すぐに化けの皮が剥がれ、それを糊塗するために次の犯罪に手を染める。

終わりのない地獄の日々は、ある日終わりを告げる。
続いて登場するのは、藤子の娘とされる著者。そもそもこの本は藤子を描く目的で描かれていた。
そこから後は、興を削いでしまうので書かないが、本書にはある仕掛けが施されている。この救いのない小説を、その仕掛けを味わうために読むということもありかもしれない。
小説とはあらゆる現実を切り取る営みだと考えれば、救いがない物語の中にも真実はあると見るべきだろう。

例えば本書の藤子の姿を見て、自分より下がいると安堵する読者もいるだろう。藤子の境遇に比べれば、自分の人生などまだマシと前向きになれる人もいるはずだ。または、自らの人生のこれからに起こりうる苦難や障害を本書から読み取り、避けてゆくために本書を役に立てると言う人もいるはず。

読みあたりが良く、感動できることだけが小説ではない。余韻は強烈に悪いけれども、印象に残るのならまたそれも小説。
著者の作品は他には読んだことはないが、大体似たような作風だと言う。また読んでみようと思うのかどうか、今の時点で私にはわからない。

だが、この救いようのない時代を生きる者の1人として、こうした人生を送っていたかもしれない可能性。こうした人生もまたありうるのだと思える想像力。それは本書のような小説を読まない限り決して触れることのない領域だろう。

それはまた、今の社会制度の歪みでもあり、教育制度の欠陥かもしれない。もちろん、資本主義そのものが人類にとって害悪なのかもしれない。人の心の度し難い弱さや醜さを見てとることも簡単だ。
事実からは事実に即した答えしか出てこない。フィクションは著者の想像力に委ねられるため、逆に事実に束縛されず、読者が自在に教訓を受け取ることができる。

雑誌や新聞のルポルタージュからは読み取れない人生の大いなる可能性。それこそが小説というメディアの秘める可能性だと思う。

‘2020/03/06-2020/03/08


叫びと祈り


本書は毎年末に恒例のミステリーのランキングで上位に推された。
連作の短編集である本作は、著者の処女作。初めての小説で上々の評価を得た著者の実力は確かだと思う。

実際、本書はとても面白い。ミステリーの骨法をきちんと備えている。
語りの中にときおり詩的な描写が挟まれ、それでありながら、簡潔な文体で統一されている。さらに短編なので一つ一つの物語がすいすいと読める。ミステリーが苦手な方にも勧められる。

何よりも面白いのは、本書に登場するそれぞれの物語の舞台が国際色豊かなことだ。本書に収められた五編のうち、日本が舞台の物語は一つもない。

五編の物語はそれぞれ、サハラ砂漠、中部スペインのレエンクエントロの風車、ウクライナに隣接する南ロシアロシア南部の修道院、アマゾン奥地のジャングル、東南アジアのモルッカ諸島の島、といった特殊な環境を舞台としている。

日本人にはなじみのない環境と文化。その中で起こる謎。斉木が解決するのはそのような事件だ。
斉木は、世界の問題を取り上げる雑誌の記者だ。語学に堪能で、海外の暮らしには不自由を覚えることはない。さらに、物事に対する深い洞察力を持っている。

「砂漠を走る船の道」

本編こそが、著者の名を大きく高めた一編だ。

砂漠をゆくキャラバン。
キャラバンが向かうのは塩を算出する場所。ここで岩塩を切り出し街へと運ぶ。
太陽が目を灼き、砂が肌を痛めつける。砂がすぐに覆い隠してしまうため、過酷な道は道の体をなしていない。
その道を間違いなく行き来し、天気や環境を知悉するには長年の経験が欠かせない。
キャラバンの一行は荷駄を預けるラクダとリーダーと二人の助手、そしてリーダーに懐く若いメチャボ。
だが、帰途に砂嵐に遭遇し、リーダーは死ぬ。その帰り道には二人の助手のうち一人がナイフを刺されて死んでいた。

一体、何が動機なのか。その動機の謎と過酷な環境の組み合わせがとても絶妙。その関連が印象に残る。
結末ではもう一つの謎も明かされる。その意外性にも新たなミステリーの地平を見せられた気がする。

「白い巨人」

この一編は、風車をめぐる歴史の謎が絡む。
レコンキスタ。それはかつて、イベリア半島を支配したイスラム勢力を再びアフリカに追いやる運動だ。本編に登場する風車は、レコンキスタの戦いの中で、敵であるイスラム側の戦況を味方に伝えようとした斥候が追われ、逃げ込んだ場所だ。逃げ込んだ斥候は風車の中にうまく隠れ、レコンキスタの成就に決定的な役割を果たしたという。

本編に登場するサクラが、かつて想いを寄せた女性を見失ってしまったのも同じ風車。人を消す風車の謎を軸に本編は進む。

風車の謎以外にも、もう一つの謎が明かされる結末もお見事。

「凍れるルーシー」

生きているように、こんこんと永遠の眠りにつく遺体。それを不朽の体、つまり不朽体という。
西洋にはそうした不朽体がいくつか報告されているそうだ。

十字架の上で死んだメシアが復活する。言うまでもなくキリスト教の教義の中心にある奇跡だ。そうした現象を教義に据えるキリスト教が文化に深く影響を与えている以上、西洋のあちこちで不朽体のような現象への関心が高いことは理解できる。

本編の舞台である南ロシアの修道院にも、不朽のリザヴェータの聖骸がある。今までは世間に知られていなかったリザヴェータを聖人として認定してもらうよう、修道院長がロシア正教会に申請を出したことがきっかけで事件は動く。修道院には聖骸を熱狂的に崇める修道女がいて、聖人申請がうまく行かないのではと不安に苛まれる。

そんな所に修道院長が死体となって発見されたことで、事態は一気に混迷に向かう。

本編も短編ならではの簡潔でキレのある物語だ。効果的な謎の提示と収束が魅力的だ。

「叫び」

本編の舞台はアマゾンの奥地だ。隔絶された部族を取材したクルーが遭遇する殺人事件。
だが、斉木たちクルーが部族の集落を訪れた時点で、集落には正体が不明の伝染病が猖獗を極めていた。殺人が起こる前からすでに絶滅寸前の部族。

そのような絶望的な状況でありながら殺人が起こる。どうせ死んでしまうのに、なぜ殺人を犯す必要があるのか。その動機はどこにあるのか。
そこには部族が持つ独特な世界観が深くかかわっている。

本書を通じて思うのは、著者は動機を考えるのがとてもうまいことだ。
それは世界各国の社会や文化についての深い造詣があるからに違いない。
文化によって守るべき考えはそれぞれだ。ある文化では当たり前の慣習が、ある文化では忌むべき振る舞いとなる。よく聞く話だ。

それを短い物語の中で読者に簡潔に伝え、文化によってはそのような動機もありなのだ、ということを謎解きと並行して読者に納得させる。

その技は簡単ではない。

「祈り」

こちらは今までの四編とは少し趣が違っている。語り手によって語られるのはゴア・ドア──祈りの洞窟についてだ。
語り手は誰に対して物語を語っているのか。そこでは上に紹介した四編の物語が断片的に触れられる。

語りの中から徐々に露になってくるのは、斉木が不慮の事故で記憶を失ったこと。
世界を股にかけ、最も自由な生き方をしていた斉木。日本人の認識の枠を超え、自由な考え方をモノにしていたはずの斉木に何が起こったのか。

文化にはさまざまな形がありうるし、その中ではさまざまな出来事が起こりうる。
文化の違いに慣れ、事故に強かったはずの斉木にも防げなかった衝撃。それだけの衝撃を斉木はどこでどのように受けたのか。

果たして斉木は復活しうるのか、

本編はミステリーよりも、四編の短編を受けた一つの叙情的な物語の色が濃い。
文化はいろいろとあれど、それらを共有するのも伝え合うのも人、ということだろう。

‘2019/12/8-2019/12/11


ミサイルマン


「DINER」で再び著者に関心を持ち、本書を手に取った。
かつて「独白するユニバーサル横メルカトル」を読んだ時に感じた強烈な新鮮さは本書にはない。
だが、本書は「独白するユニバーサル横メルカトル」よりも深い文学的な方向へ舵を切ったかに読める。

もっとも、私は「独白するユニバーサル横メルカトル」に描かれた人体を冒涜する描写の衝撃が強すぎて、そこに描かれていた文学的な深さを見逃していただけかもしれないが。
なお、ここで文学的というのは修辞の技法やテーマだけでなく、心理描写も含んでいる。

本書にももちろん、人体が破壊される描写は登場する。
だが、本書は描写の猟奇性よりもむしろ、人体の器官とは人にとって何なのか、という本質を問うことに注力しているように思えた。
身体の器官はなぜそこにあるのか。そこにあることで器官はなぜ器官として動くのか。
これらは、ニワトリが先か卵が先か、という例の問答にも通じる人を惑わせる問いだ。

本書に収められた七編は、どれもがそうした問いを追求した著者の闘いの後だと思えた。

「テロルの創世」は、SFテイストの一編だ。グロテスクな描写はない。
だが本編で描かれるのは、人の体が部品として扱われ、養殖され、培養される世界。部品を育てるために生かされる子供たちの話だ。設定そのものがグロテスクなのだ。
人体の器官は、それを統べる自我の所有物なのだろうか。という私たちが当たり前として持っていた概念に一石を投じる一編だ。

「Necksucker Blues」
ここからがグロテスクな世界の始まりだ。
まず崩れた顔面が登場する。美しく整った容貌は本編において価値を与えられない。なぜならそれは単なる見た目でしかないから。
それよりも本編では人体の純度が追求される。つまり血液のおいしさだ。タイトルから想像される通り、本編は吸血の物語だ。
血のうま味は、摂取する食物や液体によって大きく変わる。何を食えば血は至高の食材と化すのか。
その描写は狂っていて、しかも純粋。
血とは何で、容貌とは何か。そんな普段の社会生活を送る上での観念がひっくり返されること請け合いだ。

「けだもの」
本編は、ミステリの短編に似ている。
不死を与えられた吸血鬼。その呪われた血の物語を閉ざそうとする生き残りは、長寿に飽き、長寿を厭うて日々を送っている。
それにもかかわらず、その呪われた血が受け継がれてしまう悲劇。
私にとって長寿は憧れだが、その憧れも、一度叶ってしまうとどうなるのか。
誰もが一度は考える長寿について、深く掘り下げた一編だ。

「枷」
人体を破壊する営み。それを普通は殺人と呼ぶ。だが、そこに横たわっている倫理という概念をとっぱらった時、人体を破壊する営みとは何なのか。
本編は人体を破壊する営みから倫理的な概念を投げ捨て、殺人の意味を問い直す。そこでは殺人とは殺人者と殺害される側の共同作業として再構築される。
拷問して殺す。その営みは、人体の器官の意味をひっぺがし、解体することに本質を求める。その際、殺される側の意思など顧みないのは当然だ。
その時、殺される側の意思を慮った途端、その営みは殺人として顕現する。
殺人や解体を、器官の解体としてみるか、それとも相手の意思を慮るのか。
牛や豚や魚や鳥の屠殺の本質も問われる本編は、考えさせられる。

「それでもおまえは俺のハニー」
老人の性も、一般にはグロテスクな対象とされる。
本編の狂った二人の物語は、二人から聴覚が失われた時、さらに異常さを加えて暴走を始める。
ある一点を超える、つまり無音状態になった時、相手が老婆だろうがかかわりなく、一切が無意味になる。無音の世界に頼るべき対象は性愛しかない。そのように静寂を突き詰めた先の到達点が強烈な印象を与える一編だ。
老いという現象は生物である以上、避けられない。ならば、老いた後に意思を発揮することは価値がないのか。否、そんなことはないはず。
肉体に価値を認める既成の概念に大きく問いを投げつける一編だ。

「或る彼岸の接近」
本編は著者が得意とする怪談だ。墓の近くに越してきた一家が、狂わされてゆく様子が描かれる。
タクシー運転手をしている主人公が留守の間に、全ての怪異が妻子をめがけて殺到してゆく。
徐々に侵されてゆく妻が壊れてゆく様子を、徐々に怖さを高めながら描く力はさすがといえる。
本編は人体については触れてはいない。その代わり、人の精神がいかにもろく、外から影響を受けやすいかが描かれる。
本書の中では正統派の怪談ともいえる異色の一編だが、それだけに本編の怖さは出色の出来だ。

「ミサイルマン」
↑THE HIGH-LOWS↓の「ミサイルマン」を歌いながら、殺人と遺体遺棄に励む二人組。
狂った殺人者による身勝手な論理は、ミサイルのようにとどまるところを知らない。彼らが繰り返す殺人と遺体遺棄。その描写は目を覆うばかりだ。
彼らが誤って、以前に殺して埋めた死体を掘り返す羽目になる。
人体もまた有機物であり、腐って土に返る。その途中の経過はおぞましく凄惨だ。
まさにタイトルにふさわしく、人体とは結局はただの有機物の集まりに過ぎない、という達観した思想が本編には込められている。

本書に収められた七編を読んでみると、価値観の転換が呼び起こされる。
九相図という美女が骸に変わってゆく様子を描いた絵巻があるが、その悟りを表したかのような本書は、生きる営みそのものへの鋭い問いを読者に突き付ける。
人の心と体の関係は、こうした極端な描写を通さないと自覚すら難しい概念なのだと思わされる。あまりにも当たり前であるがために。

著者はそのテーマを突き詰め、執筆活動をしている。そして読者に強烈な問いを残していく。
これからも読み続けなければならない作家だと思う。

‘2019/9/11-2019/9/13


少女は夜明けに夢をみる


本作を見てとても心が痛くなった。試写が終わった後、パネリストの方が仰った「この現実は日本でもおきている」事実が、同じ年ごろの娘を持つ身として私の心を刺した。この鋭さこそがドキュメンタリー。映像の持つメッセージの力をあらためて認識させられた。それが本作だ。

私にとってサイボウズさんとのご縁はもう6,7年になる。今までにもさまざまなイベントにお招きいただき、参加する度に多くの勉強をさせていただいた。もともと、働き方改革や柔軟な人事制度など、サイボウズさんの社風には賛同するところが多い。だから展開するサービスにも惹かれる点があり、私もkintoneやチーム応援ライセンスなどでお世話になっている。私のキャリアにとってもサイボウズさんは飛躍へのステップを作ってくださった会社。本当に感謝しているし、これからも続くべき会社だと思っている。

ところが、私が今までに参加したサイボウズさんのイベントは、そのほとんどがITに関係している。それはサイボウズさんがIT企業である以上、当然のことだ。

そんな私が今回、参加させていただいたのは、本作の特別試写会。まったくITには関係がない。なぜ、このような社会的なメッセージの強い作品の試写会を開催したのか。それは、サイボウズさんが児童虐待防止特別プランを展開されていることと密に関係しているはずだ。
子どもの虐待プロジェクト2018
南丹市、児童虐待防止の地域連携にkintoneを導入

この試写会のご担当者様は、サイボウズさんがチーム応援ライセンスを開始するにあたっての記念セミナーでもお世話になった方。私はそのセミナーで登壇させていただき、その時も今も、私が自分にできる社会貢献とは何か、について考え続けていた。そのため、お誘いを受けてすぐに参加を決めた。

本作は、2019/11/2から岩波ホールで公開予定だとか。
岩波ホールの告知サイト
公式サイト
それにしても、私が今回のような純然たる社会派の映画を見るのは久しぶりのことだ。

冒頭にも書いた通り、本作はとても心を痛める映画だ。描かれた現実そのものが発する痛みもそうだが、その痛みの一部は、私自身の無知ゆえの恥からも来ている。

そもそも私はイランのことをほとんど知らない。世界史の教科書から得た知識ぐらいのもの。「風土は?」と聞かれても、吹きすさぶ砂嵐の中に土づくりの家が集まっている、というお粗末な答えしか持っていなかった。日本をハラキリゲイシャのイメージで想像する国外の方を笑えない。

だから、本書の冒頭で一面の雪景色が登場するだけで意表をつかれてしまう。イランにも雪がふる事実。そして、普通に舗装された道路を車が走る描写。それだけで、私の認識は簡単に揺さぶられてしまう。

さらに、その雪をぶつけ合い、はしゃぐ少女たちが、とても楽しそうなのをみて、私の思いはさらに意外な方向に向かう。彼女たちは保護施設に収容された犯罪者ではなかったのか。

だが、少女たちが歌う内容を知ると、私の認識は一変する。字幕には「幸せだからって不幸せな私たちを笑わないで」という文字が。少女たちが悪事を犯した罪人という見え方が変わる瞬間だ。

本作を上映する前振りで本作の宣伝スタッフの方の言葉や、リーフレットを見ていた私は、彼女たちを単なる犯罪者だとくくっていたように思う。だが、彼女たちは犯罪者の前に一人の人間なのだ。彼女たちの多くは私の娘たちと同じ年ごろであり、本来ならば芳紀を謳歌しているはずのかわいらしい少女なのだ、という事実に思い至る。

その事実に気づくと同時に、心から楽しんでいるように見える彼女たちの笑いの裏には、想像を絶するほどの痛みがあることが感じられる。そもそも、楽しげな雪合戦も高くそびえる塀に囲まれなければできない。また、本作のあらゆるシーンには、曇り空しか登場しない。本作を通して、一瞬たりとも晴れ間は見えない。それは本作が12月から新年までの20日しかロケしておらず、季節がたまたまだったことも関係あるだろうが、監督も晴れ渡った空は撮るつもりもなかっただろう。

あえて平板なイントネーションで少女たちにインタビューしているのは本作のメヘルダード・オスコウイ監督だろうか。一切の感情を交えず、施設に入った理由を娘たちのそれぞれに聞く監督。その中立的な声音につられるように、娘たちはそれぞれの境遇を述べる。

18歳の娘は、14歳で結婚し、15歳で子どもを産んだ。だが、クスリの売人になることを強いられ、7カ月も娘には会っていないという。その子の名前がハスティ(存在)というのも、痛々しい。この世に自分がある理由。それは娘が存在しているから。だが、施設に入っている以上、娘と会うことは叶わない。名前と境遇の落差の激しさ。

昔はいい子だったというが、周りの環境に合わせて不良のように振る舞っているという少女。自分を名無しと名乗っている。面会に来るおばあさんに対しては満面の笑みを見せるのに、釈放にあたっておばあさんが来てくれないことに泣き叫ぶ。そして朝方、世間に戻されても生きていけないと絶望にすすり泣く。性的虐待を受けた自分の帰る場所は父でも母でもなくおばあさんだけ。

なりたい職業が弁護士か警官。理由は同じ境遇の子供を助けてあげたいから。と語る直後に今の夢はと聞かれ「死ぬこと」と答える少女。その矛盾した答えを発する顔は、疲れて希望を失っている。彼女は性的虐待を加えた叔父のうそを信じる家族に絶望していた。だが、家族が実は叔父のうそを見抜き、自分を信じ、愛していたことを知った途端、輝きを取り戻す。満面の笑顔で施設を出る顔に憂いはない。

娘が生まれたら「殺す」と即答し、息子は?との問いに息子は母の宝だから、と答える少女。それは母への愛憎の裏返しであることはすぐに理解できる。だが、普段は陽気なムードメーカー役を担っているにもかかわらず、そこには絶望が感じられる。強盗の子は強盗にしかならないとあきらめ、肉親に対して何も差し入れをしてくれないことを電話口で泣きながら訴える。

そんな少女がいる一方で、息子が生まれれば「殺す」と即答する少女もいる。娘の名前はすでに付けているというのに。

釈放を申し渡されても、それに対して「お悔やみを」と返す少女。鎖につながれ、虐待される日々に戻るだけという絶望。決して自分に明るい未来があると信じず、そもそも明るい未来のあることを知らない少女。

651と名乗る少女は、クスリを651グラム所持していたからそう名乗っているという。本作に登場する少女たちにとってクスリは日常。それが正しくないとわかっていても、生活のため、肉親から求められれば扱うしかない。そんな切っても切れないのがクスリ。

実の父を母や姉とはかって殺した少女。「ここは痛みだらけだね」という監督に、四方の壁から染み出すほどだと返す。その少女は物静かに見えるが、実はもっとも矛盾と怒りを抱いている存在かもしれない。イスラム教の導師に対し、世の矛盾を一番熱く語っていたのも彼女。

本作には何人ものインタビューと、釈放されるシーンが挟まれる。BGMなどほとんどない本作において、目立つのは乗り込んだ車が発車するシーンで流れる不協和音のBGMだ。彼女たちの釈放後の生活を暗示するかのような。

彼女たちに共通する認識は、罰とは生きる事そのものであり、その罪は生まれてきた事そのものだという。なんという苦しく胸の痛む人生観だろうか。私は少女たちの全てに私の娘たちの生活を重ね合わせ、その間に存在する闇の深さに胸が痛んだ。いったい、私の娘たちと彼女たちの間には何の差があるのだろう。国や民族、宗教、文化が違うだけでこうなってしまうのだろうか?

施設の職員がAidsの知識を授けようとする。塀に囲まれた庭でバレーボールをする。収容者の乳飲み子のお世話をする機会が与えられる。新しいオーディオ機器で音楽も聴くことができる。人形劇を演じる事だってできる。それだけだと平和な日常だ。少女たちは施設の中にあって、平和に生きているようにも見える。だが、本作にあって、一切塀の外の世界は映し出されない。だからこそ、その矛盾と暴力に満ちた世界の無慈悲さがあぶりだされる。施設の人がとある少女を突き放すように、ここを出たら何が何でも外の世界で生きねばならないこと。たとえ自殺しても知ったこっちゃないと言い放つ。少女たちの笑顔や会話は、施設の中だからこそ許されるかりそめのもの。

女性だけが集まる場だと派閥やグループが陰険な争いを繰り広げる。そんな偏見が頭をもたげる。だが、本作の少女たちにそのようなものは見当たらない。泣く相手には胸を貸し、出ていく者にはもう戻ってくるなと励ましの声をかける。少女たちは下らない派閥争いなどにうつつを抜かす暇はないのだ。ここに収容されているのはみな同じく苦しむ仲間。だからこそ支えない、慰め合う。その事実にさらに胸が締め付けられる。

イスラム教の導師が少女たちに道を説こうとし、逆に少女たちからなぜ男と女の命の重みは違うのか、という切実な問いを投げかけられる。男と女の命の重みに差があるかなんて、少なくとも最近の日本では感じることはない。少女たちの真摯な問いに導師は「社会を平穏にしなければ」という言葉でお茶を濁す。

何が少女たちをこうしてしまったのか。イランにもイスラム教にも詳しくない私にはわからない。少女たちは決して犯罪者になるべくして生まれてきたのではない。それが証拠に、収容者の乳飲み子が登場し、その無垢な姿を観客の私たちに見せる。その表情からは、この子が将来強盗や殺人や誘拐や売春や薬物に手を染める予兆は全く見えない。

少女たちもまた、違う時空に生まれていたら輝かしい毎日を送っていたはず。少女たちの多くは顔立ちも整っており、化粧したら女優にだってなれるのでは、という子もいる。ただ、環境が。肉親との暮らしが少女たちをこのような境遇に追い込んでいるのだ。

彼女たちの境遇は、社会に潤沢な金を流通させればいなくなるのだろうか。それとも文化や宗教の違いは、今後も彼女たちのような存在を生み続けるのだろうか。監督はそこは描かない。あるがものをあるがままに。ただ、これがイランの現実だと監督は現実を提示する。7年の準備期間はダテではなく、本作に監督の私情は不要だとわきまえているのだろう。

心を痛めたまま、エンドクレジットが流れる。続いてトークイベントへ。

虐待被害を受けたお子さんがいるご家庭や里親家庭で養育支援をしているバディチームの代表岡田さん、妊娠相談、漂流妊婦の居場所づくりにとりくむピッコラーレ代表中島さんによるトークは、こうした現実を送る少女が日本にもいることを語ってくださった。最近の自販機は暖かくないという、普段の生活では気づかない事実。そうした経験から受ける視点は新鮮だ。わが国にも野宿し、その揚げ句に売春に走る少女はいるとか。

本作を見た後、日本にも同様の生活を送る少女がいることは衝撃だ。生活の確立に失敗し、放浪に走る少女たち。援助交際とは交際じゃない。ただの性的搾取だ、という言葉ももっともだし、売春を取り締まるとは売る側を取り締まる話であり、そうした行為を強いられている少女たちを救うことにならない、という指摘にもうなずける。春を買った側を取り締まる法律がない現状にも目を向けなければ、という指摘も納得がいく。同じ年ごろの娘を持つ私は、娘たちの将来だけを考えればよいのか。否。そうではないはずだ。

本書をただ観劇しただけなら、文化も宗教も違う場所の悲劇、として片付けてしまっていたかもしれない。だが、こうしてトークイベントが催されたことによって、本作への理解がさらに深みを増した。もちろん、映画館で観ることで、本作が伝えるメッセージの鋭さは痛みをもって伝わるはず。

私たちが何をすればよいのか。私は経営者として何をすればよいのか。その答えはまだ出ていない。ただ、トークイベントの中では、ボランティアの道もご紹介いただいた。あらためて自分の時間を見据えてみたいと思う。とても貴重な時間だった。

今回の催しを企画してくださり、当日も動いてくださったスタッフの皆様、本当にありがとうございました。

‘2019/10/17 サイボウズ社本社


私の家では何も起こらない


本書は一軒の家についての本だ。ただし、家といってもただの家ではない。幽霊の住む家だ。

それぞれの時代に、さまざまな人物が住んでいた家。陰惨な出来事や代々の奇矯な人物がこの家で怪異なエピソードを紡いできた。そうした住人たちが残したエピソードの数々がこの家にさらなる怪異を呼び込み、さらなる伝説を産み出す。

本書は十編からなっている。各編はこの家を共通項として、互いに連関している。それぞれの編の舞台はばらばらだ。時間の流れに沿っていない。あえてバラバラにしている。バラバラにすることでかえって各エピソードの層は厚みを増す。なぜならそれぞれの物語は互いに関連しあっているから。

もちろん、そこには各エピソードの時間軸を把握した上で自在に物語を紡ぐ著者の腕がある。家に残された住人たちの思念は、無念を残したまま、その場をただよう。住人たちによっては無残な死の結果、人体の一部が残されている。人体に宿る思念が無念さを抱けば抱くほど、家には思念として霊が残る。この家の住人は、不慮の事故や、怖気を振るうような所業によって命を落として来た。そうした人々によるさまざまな思念と、そこから見たこの家の姿が、さまざまな角度でこの家を描き出し、読者へイメージとして伝えられる。

世にある幽霊屋敷とは、まさにこのようなエピソードと、残留した想いが作り上げて行くのかもしれない。不幸が不幸を呼び、思念が滞り、屋敷の中をこごってゆく。あまたある心霊スポットや幽霊屋敷とは、こうやって成り立ってきたに違いない。そう、読者に想像させるだけの力が本書にはある。冒頭の一編で、すでにこの家には好事家が集まってきている。彼らは、家主の都合など微塵も考えず、今までにこも屋敷を舞台として起こったあらゆる伝説や事件が本当だったのか、そして、今も誰も知らぬ怪異が起こっているのではないか、と今の持ち主に根掘り葉掘り尋ねる。迷惑な来訪者として、彼らはこの家の今の持ち主である女流作家の時間を容赦なく奪ってゆく。もちろん、こうした無責任な野次馬が幽霊屋敷の伝承にさらなる想像上の怪異を盛り付けてゆくことは当然のこと。彼らが外で尾ひれをつけて広めてゆくことが、屋敷の不気味さをさらに飾り立ててゆくことも間違いない。

たとえ幽霊屋敷といえど、真に恐るべきなのは屋敷でなければ、その中で怪異を起こすものでもない。恐るべきは今を生きている生者であると著者はいう。
「そう、生者の世界は恐ろしい。どんなことでも起きる。どんな悲惨なことでも、どんな狂気も、それは全て生者たちのもの。
それに比べれば、死者たちはなんと優しいことだろう。過去に生き、レースのカーテンの陰や、階段の下の暗がりにひっそりと佇んでいるだけ。だから、私の家では決して何も起こらない。」(26p)

これこそが本書のテーマだ。怪異も歴史も語るのは死者ではなく生者である。生者こそが現在進行形で歴史を作り上げてゆく主役なのだ。死者は、あくまでも過去の題材に過ぎない。物事を陰惨に塗り替えてゆくのは、生者の役割。ブログや小説やエッセイや記事で、できごとを飾り立て、外部に発信する。だから、一人しか生者のいないこの家では決して何も起こらないのだ。なぜなら語るべき相手がいないから。だからエピソードや今までの成り立ちも今後は語られることはないはず。歴史とは語られてはじめて構成へとつながってゆくのだ。

つまり、本書が描いているのは、歴史の成り立ちなのだ。どうやって歴史は作られていくのか。それは、物語られるから。物語るのは一人によってではない。複数の人がさまざまな視点で物語ることにより、歴史には層が生じてゆく。その層が立体的な時間の流れとして積み重なってゆく。

そして、その瞬間の歴史は瞬間が切り取られた層に過ぎない。だが、それが連続した層で積み重なるにつれ、時間軸が生じる。時間の流れに沿って物語が語られはじめてゆく。過ぎていった時間は、複数の別の時代から語られることで、より地固めがされ、歴史は歴史として層をなし、より確かなものになってゆく。もちろん、場合によってはその時代を生きていない人物が語ることで伝説の色合いが濃くなり、虚と実の境目の曖昧になった歴史が織り上げられてゆく。ひどい場合は捏造に満ちた歴史が後世に伝わってしまうこともあるはずだ。

しょせん、歴史とは他の時代の人物によって語り継がれた伝聞にしか過ぎず、その場では成り立ち得ないものなのだろう。

著者は本書を、丘の上に建つ一軒家のみを舞台とした。つまり、他との関係が薄く、家だけで完結する。そのように舞台をシンプルにしたことで、歴史の成り立ちを語る著者の意図はより鮮明になる。本来ならば歴史とは何億もの人々が代々、語り継いでいく壮大な物語だ。しかしそれを書に著すのは容易ではない。だからこそ、単純な一軒家を舞台とし、そこに怪異の色合いをあたえることで、著者は歴史の成り立ちを語ったのだと思う。幽霊こそが語り部であり、語り部によって歴史は作られる。全ての人は時間の流れの中で歴史に埋もれてゆく。それが耐えられずに、過去からさまよい出るのが幽霊ではないだろうか。

‘2018/07/24-2018/07/25


犯罪


本書は、ヨーロッパの文学賞三つを受賞した。その三つとはクライスト賞、ベルリンの熊賞、今年の星賞だ。どれほどすごいのかと本書を読み終えたが少し拍子抜けした。つまらなくはない。逆だ。本書はとても面白かった。面白かったが、読後の余韻が弱いように思えた。余韻がそれほど私の中で尾を引かなかったのが意外に思えた。

おそらくそれは、本書が短編集であることに理由がありそうだ。一つ一つの短編はとても良くできている。それぞれに余韻もある。だが、一つ一つが優れていることは、読者をそれぞれの短編に没入させる。読者が短編の世界に入り込む時、前の短編が響かせた余韻は消えてしまう。それは短編の宿命だともいえる。

登場人物の背景をじっくり書き込み、彼らが犯罪を犯した理由をあらゆる著述テクニックを駆使して語る。本書に収められた各短編は実に素晴らしい。だが、短編であるため、それぞれの編ごとに読み手は気分を切り替えなければならない。そのため、一つ一つの印象が弱くなる。それぞれの短編の出来にばらつきがあればまだいい。だが、本書はそれぞれの短編が優れていたため、逆に互いの印象を弱めてしまった。

ただ、本書は全体の余韻が弱い点を除けば、著者の本業が弁護士であるとは思えないほどよくできている。本書の各編のモチーフは著者が見聞きした職業上の経験であることは間違いない。そうは思いながらも、本書の扉に掲げられている箴言が、読者の勘繰りをあらかじめ妨げる。

「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。」
ヴェルナー・K・ハイゼンベルク

本書で書かれた物語は現実そのものではない。だが、現実は小説よりも奇なり、ということだろう。実際に各編に描かれたような出来事は起き、関係者に傷を残した。それはほぼ間違いないと思う。それが本書に迫真性を与えている。本書に対して登場人物に血が通っているとの評も見かけたが、それもうなづける。

たとえば、巻頭を飾る「フェーナー氏 Fähner」は、長年の妻からの圧迫に耐え続けた夫が、老いてから妻を惨殺する話だ。なぜもっと早くに夫はその状況から逃げようとしなかったのか。なぜすべてが終わろうとする今になって妻を殺したのか。そこにはあるのは、犯罪ではない。人生という不可思議なものの深淵だ。

本書が扱うのは、犯人が誰か、動機は何か、手口はどうやって?という推理小説の文脈ではない。本書が扱う謎はもっと深い。各編は単なる謎解きではない。そもそも、各編には冒頭から犯罪をおかす人物が登場する。つまり本書はwhodunit(Who Done It?)ではなく、howdunit(How Done It?)でもない。ましてやwhydunit(Why Done It?)でもない。では何か。

本書が書こうとするのは、犯罪とは何か(What Is Crime?)なのだと思う。または、罪とは何か(What Is Sin?)と言い換えてもいい。その問いこそが本書に一貫して流れている。犯罪とはなにか? 冒頭のフェーナー氏の事案はまさにそれを思わせる。

続いての「タナタ氏の茶盌 Tanatas Teeschale」もスリリングだ。ちんけな犯罪者二人組が盗んだのが、日本の財閥グループの総帥がドイツに持つ別邸の茶盌だ。これが盗まれてからというもの、関係者が謎の失踪をとげ、死体となって見つかる。しかしタナタ氏の関与は全くうかがうことができない。もはやそれは科学の範疇に収まらぬ呪いに等しい。犯罪とはどこからをもって犯罪というのか。まさにWhat Is Crime?だ。タナタ氏の意思がどう呪いの実行者に伝わったのか。実行者はそれをどう遂行したのか。そもそも何らかの犯罪の指令は発せられたのか。すべては謎だ。

続いての「チェロ Das Cello」も印象に残る一篇だ。富豪の家に生まれた姉弟の悲惨な生涯。姉弟が生まれてから育って行くまでの境遇。そのいきさつが簡潔に、そして冷徹に描かれる。犯罪とは何か。動機とは何か。裁かれるべきなのは誰なのか。全ては環境のせいなのか。この環境を姉弟に与えたものは犯人だと指弾できないのか。本編の姉弟を襲う運命の過酷さはあまりにもむごい。だが、実際にありえたと思わせる迫真性があるのは、本編がとっぴな出来事に頼っていないからだろう。

続いての「ハリネズミ Der Igel」は、本書の中でも少し異色の一編だ。犯罪者一家に生まれながら、自らを愚鈍に装い切った男。その男の成し遂げる完全犯罪の一部始終が描かれる。犯罪とは複数の要素がそろって初めて犯罪となる。その要素とは被害者であり被疑者だ。そして訴状の対象となる犯罪行為。本編がもし実際に起こった出来事をもとに描かれたのであれば、まさに事実は小説よりも奇なりだ。

続いての「幸運 Glück」も、犯罪が何から構成されるのかを問う一編だ。自然に亡くなった死を犯罪によるものと勘違いした主人公は、死体をばらばらにして隠ぺいする。その行いは確かに死体損壊罪に相当するはず。そこに犯罪が成立しているのはたしかだ。だが、その犯罪がなされた動機を考えた時、犯罪者をなんの罪に問うのか。それを追い求め、考えることは、犯罪の本質に迫る道に通じるのかもしれない。

続いての「サマータイム Summertime」は、本書の中でもっともミステリー仕立ての一編ともいえる。そもそも本編の肝となるのは何か。それは捜査の粗さだ。果たしてこれだけの事件程度では日本では検察が犯罪として立件しない気もする。ドイツは日本とは多少司法制度が違っているという。その違いが本編のような出来事が生んだのだろうか。興を削ぐため、詳しくは書かないが興味深い。

続いての「正当防衛 Notwehr」も、犯罪のあり方が何かを問う一編だ。正当防衛とは受けた攻撃に対して、相手への反撃をやむを得ないと判断された場合に成立する。だが、その正当防衛が凄腕の殺し屋によって行れた場合、どう判断すればよいのか。そのあたりがとても興味深い。今の正当防衛を認める法的な解釈には、どこかにとてつもない矛盾が潜んでいるのでは。その矛盾は方そのものへと波及しはしまいか。そんな気にさせられる一編だ。

続いての「緑 Grün」は、統合失調症を扱う。犯人が精神疾患を患っている場合、おうおうにしてその犯罪に対しては罰が課せられない。それは日本に限らず各国も同じようだ。本書もそう。犯罪の疑いがあっても犯罪の結果がない場合、果たしてその統合失調患者を罪に問えるのか、という問題を描いている。本編もまた、実際に起こってもおかしくない物語だ。それがゆえにとても興味深い。

続いての「棘 Der Dorn」もまた、犯罪とは何かを問う。ここで突きつけられる問いとは、組織の存在そのものが罪と言い換えてもよいほどだ。組織の動きがシステマチックであればあるほど、その行いを罪と糾弾しにくくなる。だが、わずかな組織の狂いは、その間に生きる人を犯罪へと導いてゆく。それも長い時間を掛けて。そのような組織の持つ恐ろしさが描かれるのが本編には描かれている。これも今の我が国でも起こり得る出来事だ。

続いての「愛情 Liebe」は、犯罪の予防という視点が持ち出される。その行いが愛情から出たと認められる場合、その者は罰せられない。ところが、そこには将来の犯罪の種が含まれていることも多い。司法に携わる方にとっては、この視点はとても大切ではないかと思う。

最後の「エチオピアの男 Der Äthiopier」は、最後に収められるのにふさわしい一編だ。一人の数奇な男の一生が描かれる。そこにはとても暖かい余韻がある。が、その分、他の10編の余韻が消えてしまうのだ。本編には、人の一生の中で犯罪が一時期の出来事でしかないこと示されている。

‘2018/04/21-2018/04/22


片想い


本書はとても時代を先取りした小説だと思う。というのも、性同一性障害を真正面から取り上げているからだ。本書の巻末の記載によると、週刊文春に1999/8/26号から2000/11/23号まで連載されたそうだ。いまでこそLGBTは社会的にも認知され始めているし、社会的に性同一に悩む方への理解も少しずつだが進んできた。とはいえ、現時点ではまだ悩みがあまねく世間に共有できたとはいえない。こう書く私も周りに性同一性障害で悩む知り合いがおらず、その実情を理解できていない一人だ。それなのに本書は20世紀の時点で果敢にこの問題に切り込んでいる。しかも単なる題材としてではなく、動機、謎、展開のすべてを登場人物の性同一性の悩みにからめているのだ。

著者がすごいのは、一作ごとに趣向を凝らした作品を発表することだ。これだけ多作なわりにパターン化とは無縁。そして作風も多彩だ。本書の文体は著者の他の作品と比べてあまり違和感がない。だが、取り上げる内容は上に書いた通りラジカルだ。そのあたりがすごいと思う。

本書は帝都大アメフト部の年一度の恒例飲み会から始まる。主人公の西脇哲朗の姿もその場にある。アメフト部でかつてクォーターバックとして活躍した彼も、今はスポーツライターとして地歩を固めている。学生時代の思い出話に花を咲かせた後、帰路に就こうとした哲朗に、飲み会に参加していなかった元マネージャーの日浦美月が近づく。美月から告白された内容は哲朗を驚かせる。美月が今は男性として生きていること。大学時代も女性である自分に違和感を感じていたこと。そして人を殺し、警察から逃げていること。それを聞いた哲朗はまず美月を家に連れて帰る。そして、同じアメフト部のマネージャーだった妻理沙子に事情を説明する。理沙子も美月を救い、かくまいたいと願ったので複雑な思いを抱えながら美月を家でかくまう。

ここまででも相当な展開なのだが、冒頭から44ページしか使っていない。本書はさらに377ページまで続くというのに。これだけの展開を仕掛けておきながら、この後300ページ以上もどう物語を展開させていくのだろうか。そんな心配は本書に限っては無用だ。本書には語るべきことがたくさんあるのだから。

読者は美月がこれからどうなってゆくのかという興味だけでなく、性同一性障害の実情を知る上でも興味を持って読み進められるはずだ。本書には何人かの性同一性障害に悩む人物が登場する。その中の一人、末永睦美は高校生の陸上選手だ。彼女は女子でありながら、あまりにも高校生の女子として突出した記録を出してしまうため、試合も辞退しなくてはならない。性同一性障害とはトイレ、浴場、性欲の苦しみだけではないのだ。世の中には当たり前のように男女で区切られている物事が多い。

私は差別意識を持っていないつもりだ。でも、普通の生活が男女別になっていることが当たり前の生活に慣れきっている。なので、男女別の区別を当たり前では済まされない性同一性障害の方の苦しみに、心の底から思いが至っていない。つまり善意の差別意識というべきものを持っている。ジェンダーの違いや不平等については、ようやく認識があらたまりはじめたように見える昨今。だが、セックスの違いに苦しむ方への理解は、まだまったくなされていないのが実情ではないだろうか。

その違いに苦しむ方々の思いこそが本作の核になり、展開を推し進めている。だが一方で、性同一性障害の苦しみから生まれた謎に普遍性はあるのだろうか、という疑問も生じる。だがそうではない。本作で提示される事件の背後に潜む動機や、謎解きの過程には無理やりな感じがない。普通の性意識の持ち主であっても受け入れられるように工夫されている。おそらく著者は障害を持たず、普通の性意識に生きている方と思う。だからこそ、懸命に理解しようとした苦闘の跡が見え、著者の意識と努力を評価したい。

ちょうど本稿を書く数日前に、元防衛省に勤めた経歴を持つ方が女装して女風呂に50分入浴して御用となった事件があった。報道された限りでは被疑者の動機は助平根性ではないとのこと。女になりたかったとの供述も言及されていた。それが本当かどうかはさておき、実は世の中にはそういう苦しみや性癖に苦しんだり耐え忍んでいる方が案外多いのではないかと思う。べつにこの容疑者を擁護する気はない。だが、実は今の世の中とは、男女をスパッと二分できるとの前提がまかり通ったうえでの社会設計になっていやしないか、という問題意識の題材の一つにこの事件はなりうる。

いくら情報技術が幅を利かせている今とはいえ、全てがオン・オフのビットで片付けられると考えるのは良くない。そもそも、量子コンピューターが実用化されれば0と1の間には無数の値が持てるようになり、二分化は意味を成さなくなる。私たちもその認識を改めねばなるまい。人間には男と女のどちらかしかいないとの認識は、もはや実態を表わすには不適当なのだという事実を。

「美月は俺にとっては女なんだよ。あの頃も、今も」
このセリフは物語終盤366ページである人物が発する。その人物の中では、美月とは男と女の間のどれでもある。男と女を0と1に置き換えたとして、0から1の無数の値を示しているのが美月だ。それなのに、言葉では女の一言で表すしかない。男と女の中間を表す言葉がまったくない事実。これすらも性同一性障害に苦しむ方には忌むケースだろうし、そうした障害のない私たちにはまったく気づかない視点だ。これは言語表現の限界の一つを示している。そしてそもそも言語表現がどこまで配慮し、拡張すべきかというかという例の一つに過ぎない。

本書がより読まれ、私を含めた人々の間に性同一性障害への理解が進むことを願う。

‘2017/12/09-2017/12/11


夜明け前のセレスティーノ


著者もまた、寺尾氏による『魔術的リアリズム』で取り上げられていた作家だ。私はこの本で著者を初めて知った。寺尾氏はいわゆるラテンアメリカにの文学に花開いた\”魔術的リアリズム\”の全盛期に優れた作品を発表した作家、アレホ・カルペンティエール、ガブリエラ・ガルシア=マルケス、ファン・ルルフォ、ホセ・ドノソについては筆をかなり費やしている。だが、それ以降の作家については総じて辛口の評価を与えている。ところが著者については逆に好意的な評価を与えている。私は『魔術的リアリズム』で著者に興味を持った。

著者は共産主義下のキューバで同性愛者として迫害されながら、その生き方を曲げなかった人物だ。アメリカに亡命し、その地でエイズに罹り、最後は自殺で人生に幕を下ろしたエピソードも壮絶で、著者を伝説の人物にしている。安穏とした暮らしができず、書いて自らを表現することだけが生きる支えとなっていた著者は、作家として生まれ表現するために生きた真の作家だと思う。

本書は著者のデビュー作だ。ところがデビュー作でありながら、本書から受ける印象は底の見えない痛々しさだ。本書の全体を覆う痛々しさは並みのレベルではない。初めから最後まであらゆる希望が塗りつぶされている。私はあまりの痛々しさにヤケドしそうになり、読み終えるまでにかなりの時間を掛けてしまった。

本書は奇抜な表現や記述が目立つ。とくに目立つのが反復記法とでも呼べば良いか、いささか過剰にも思える反復的な記述だ。これが随所に登場する。これらの表記からは、著者が抱えていた闇の深さが感じられる。それと、同時にこう言った冒険的な記述に踏み切った著者の若さと、これを残らず再録し、修正させなかった当時の編集者の勇断にも注目したい。私は本書ほど奇抜で無駄に続く反復表現を読んだことがない。

若く、そして無限に深い闇を抱えた主人公。著者の半身であるかのように、主人公は虐げられている。母に殺され、祖父に殺され、祖母に殺され。主人公は本書において数限りなく死ぬ。主人公だけではない。母も殺され、祖父も殺され、祖母も殺される。殺され続ける祖母からも祖父からも罵詈雑言を投げつけられ、母からも罵倒される主人公。全てにおいて人が人として認められず、何もかもが虚無に漂い、無に吸い込まれるような救いのない日常。

著者のような過酷な人生を送っていると、心は自らを守ろうと防御機構を発動させる。そのあり方は人によってさまざまな形をとる。著者のように自ら世界を創造し、それを文学の表現として昇華できる能力があればまだいい。それができない人は自らの心を分裂させてしまう。例えば統合失調症のように。本書でも著者の母は分裂した存在として描かれる。主人公から見た母は二人いる。優しい母と鬼のごとき母。それが同一人格か別人格なのかは文章からは判然としない。ただ、明らかに同一人物であることは確かだ。同一人物でありながら、主人公の目に映る母は対象がぶれている。分裂して統合に失敗した母として。ここにも著者が抱えていた深刻な状況の一端が垣間見える。

主人公から見えるぶれた母。ぶれているのは母だけではない。世界のあり方や常識さえもぶれているのが本書だ。捉えどころなく不確かな世界。そして不条理に虐待を受けることが当たり前の日々。その虐待すらあまりにも当たり前の出来事として描かれている。そして虐待でありながら、無残さと惨めさが一掃されている。もはや日常に欠かせないイベントであるかのように誰かが誰かを殺し、誰かが誰かに殺される。倒錯し、混迷する世界。

過剰な反復表現と合わせて本書に流れているのは本書の非現実性だ。\”魔術的リアリズム\”がいう魔術とは一線を画した世界観。それは全てが非現実。カートゥーンの世界と言ってもよいぐらいの。不死身の主人公。決して死なない登場人物たち。トムとジェリーにおける猫のトムのように、ぺちゃんこになってもガラスのように粉々になっても、腹に穴が開いても死なない登場人物たち。それは\”魔術的リアリズム\”の掲げる現実とはかけ離れている。だからといって本書は子供にも楽しめるスラップスティックでは断じてない。なぜなら本書の根底に流れているのは、世界から距離をおかなければならないほどの絶望だからだ。

むしろ、これほどまでに戯画化され、現実から遊離した世界であれば、なおさら著者にとってのリアルさが増すのではないだろうか。だからこそ、著者にとっては本書の背景となる非現実の世界は現実そのものとして書かれなければならなかったのだと思う。そう思わせてしまうほど本書に書かれた世界感は痛ましい。それが冒頭にも書いた痛々しさの理由でもある。だがその痛々しさはもはや神の域まで達しているように思える。徹底的に痛めつけられ、現実から身を守ろうとした著者は、神の域まで自らを高めることで、現実を戯画化することに成功したのだ。

あとは、著者が持って生まれた同性愛の性向にどう折り合いをつけるかだ。タイトルにもあるセレスティーノ。彼は当初、主人公にとって心を許す友人として登場する。だが、徐々にセレスティーノを見つめる主人公の視点に恋心や性欲が混じりだす。それは社会主義国にあって決して許されない性向だ。その性向が行き場を求めて、セレスティーノとして姿を現している。現実は無慈悲で不条理。その現実を乗り切るための愛や恋すら不自由でままならない。セレスティーノに向ける主人公の思慕は、決して実らない。そしてキューバにあっては決して実ってはならない。だから本書が進むにつれ、セレスティーノはどんどん存在感を希薄にしてゆく。殺し殺される登場人物たちに混じって、幽霊のように消えたり現れたりするセレスティーノ。そこに主人公の、そして著者の絶望を感じる。

繰り返すが、私は本書ほどに痛々しい小説に出会ったことがない。だからこそ本書は読むべきだし、読まれなければならないと感じる。

‘2017/08/18-2017/08/24


DINER


人体。私たちは常に、自らの体がこうあるという身体感覚を持っている。この感覚が狂った場合、私たちが感じるのは気持ち悪さだ。それは自分の体が狂った場合だけではなく、他人の体でも当てはまる。他人の体が人体としてあるべき状態になっていないとき、私たちは本能的に気色悪さを覚える。例えば障害を抱えた方の体を見た時、残念ながら気持ち悪さを感じてしまう事だってある。これは本能の振る舞いとして認めなければならない。

だからホラー映画でハラワタがのたうち、血が飛び散る描写をみると私たちはおののいてしまう。そうした描写が私たちの心の闇をかき乱すからだ。ホラーに限らず、人体がグロテスクに変貌する描写は、ほとんどの人にとって、動揺の対象となる。もちろん、人によって動揺には強い弱いがあるだろう。だが、その動揺が表に出なかったとしても、居心地の悪さを感じることに変わりはない。

著者の名前を一気に有名にした『独白するユニバーサル横メルカトル』は、あらたな人体改造の可能性を描いた奇書である。身体感覚が歪む読後の気持ち悪さ。それは読者に新たな感情をもたらした。本書もまた、著者の身体への独特の感性が自在に表現される。その感性はもはやある種のすごみさえ発している。何しろ本書に登場するほとんどの人物がいびつな人体の持ち主なのだから。

オオバカナコは、人生の敗残者になりかけている三十歳。当座をやり過ごすための金を求め、闇求人サイトで三十万の運び屋の仕事に応募する。だがその仕事はヤバい筋にちょっかいを掛ける仕事。捕まったオオバカナコはその筋の者たちに拷問され、生きながら人が解体されて行くところを見せつけられる。ヤクザ者の手に墜ち、オークションにかけられる。そして誰も買い手が付かなかったため、人の絶えた山奥で生き埋めにされる。穴に埋められ、スコップで土を掛けられるオオバカナコ。彼女は自分の利用価値を認めてもらうため、やけっぱちで「料理ができる!」と絶叫する。その叫びがかろうじて裏社会に張り巡らされた求人条件にマッチし、あるレストランのウェートレスとして送り込まれる。

そこは殺し屋だけが訪れる会員制のレストラン”キャンティーン”。ウェートレスといっても、実態は買われた奴隷そのもの。店を仕切っているボンベロに逆らえばすぐに殺される。カナコの前任も、客の気まぐれで肉片に変えられた。カナコは欠員の出たウェートレスに送り込まれたのだ。もちろん使い捨て。

全てが不条理な状況。その中に放り込まれたカナコはしぶとくボンベロの弱みを握り、生き延びようとする。全てが悪夢のような冗談に満ちた不条理な店。しかし殺し屋たちやボンベロにとっては当たり前の日々。彼らはそこでしか居場所を見いだせないのだから。身体中に縫い目が走り、破れっぱなしの頬から口の中が見えるスキン。見た目はこどもなのにそれは全身整形の結果。中身は非情な殺し屋キッド。異常に甘いものしか食わない大男のジェロ。超絶美女なのに凄腕の毒を盛り、相手をほふる炎眉。妊婦の振りをして膨れた腹に解毒薬を隠す毒婦のミコト。そんな奇天烈な客しか来ない”キャンティーン”は、客も店主もぶっ飛んでいる。そして、ボンベロが振る舞う料理もまた神業に近い。居心地の良さと料理の質が高いため、客足が途切れないのだ。

そんな”キャンティーン”は組同士の抗争の場にもなるし、いさかいの場にもなる。ボンベロ自身、かつて凄腕の殺し屋として名をはせ、その筋に属する人々だけが来るだけに、なおさら血なまぐさい場となる。

カナコもいろいろな修羅場をくぐらされる。だが、しぶとく食らいつくカナコにボンベロの見方も少しずつ変化する。ボンベロとカナコの間の関係性が少しずつ変わって行く描写が読みどころだ。そして客とボンベロ、カナコとボンベロの間柄が、ボンベロの出す料理で表現されており、そこがまた絶妙だ。

全てが常軌を逸した店の中でカナコはどう生き延びていくのか。そのサバイバルだけでも読者にとって読み応えがある。異常で常識が通じない本書は、すこぶる上質のエンターテインメントに仕上がっている。人体改造や拷問の知識が惜しげもなく披露され、グロテスクで闇にまみれた感覚が刺激される。それを意識しながら、読者はページを読む手がとめられないはず。

人体。それはタブー。だが、それを超えた人間は強靭だ。戦争経験者が一目置かれるように。ダメ女として登場したカナコが心の強さを発揮していく本書は、著者の思いがにじみ出ている。それは、日常が心を強く持たなくても生きていけること、そして、修羅場こそが人を鍛えるということだ。つまり、本書は極上のハードボイルド小説なのだ。日本冒険小説協会大賞や大藪春彦賞を受賞したこともうなずける。面白い。

‘2017/07/26-2017/07/27


再会


「カラマーゾフの妹」をレビューでアップしたことで、あらためて江戸川乱歩賞に興味を持った。レビューの中で、歴代の受賞作品のおおかたは読んでいると書いた。ところがいくつか読めていない作品があった。本書もその一つ。本書は図書館で借りた。本書の次に読んだ「よろずのことに気をつけよ」とともに。

本書はとても手堅く書かれている。そこに好ましい印象を持った。著者はまだ職業作家ではないそうだ。公務員の仕事の合間に八年連続で応募し、今回の受賞に至ったとか。心血を注いで書いた跡が内容から伝わってくる。

正直なところ、本書のプロットはありきたりだ。手垢が付きまくっているといってもよい。幼馴染たちが大人になって故郷で再会し、事件に遭遇する。その事件の鍵は彼らが子供時代にあった何らかの事件にある。そんな展開の小説や漫画、映画は無数にある。著者とて、そのことは分かったうえで本書を書き、応募したはずだ。それでもなお本書で受賞の栄誉に浴したのは、使い古された構成であっても、丁寧にきっちり書き込めば評価されるという証拠だ。

本書は流れも丁寧に書かれている。特に前半部分。冒頭の出来事から徐々に過去があらわになっていく展開。そのあたりはとても自然だ。幼馴染のそれぞれの視点から語られる筆さばきにも強引さは感じない。とても自然に思えた。そうやって複数の視点をからめることで物語の肝心の謎を終盤まで引っ張りつづけながら、次々と新たな謎を登場させる。本書の展開の巧みさは読んでいてとても安心できた。

ただ、前半は流れるように読めたのに、後半の解決に向けた展開で余計な人物が出てきたのが気になった。選評の一つにもご都合主義の典型と批判されていた。私も同じ意見だ。これはちょっと余計な展開だったと思う。あと、もう一つ選評で指摘されていたのが、事件の発端となった少年に対するフォローがないこと。これも私も読みながら思ったことだ。手堅く書かれた本書でありながら余計なことを書いてしまう。そして書くべきところを落としてしまう。小説を書くとは難しいことなのだな、とあらためて思わされた。

気楽な読者の立場で本稿のようなレビューブログを書いている私も、いざ物語を構築しようとすれば本書が指摘されたような傷をいっぱいこしらえるに違いない。著者はそれをものともせず、8年欠かさず挑戦して受賞を勝ち取った。これはとても素晴らしいことだと思う。

読んだ後、私にも小説を書いてみようかな、と思わせる作品にたまに巡り合う。本書もまたその一冊だ。これは本書を否定するのではなく、著者の努力が感じられるからの誉め言葉だ。

‘2017/06/02-2017/06/03


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


少年は残酷な弓を射る 下


幼稚園でも問題行動を起こすケヴィン。シーリアという妹ができれば兄として自覚を持ち落ち着いてくれるのでは。そんな両親の願いを軽々と裏切り、ケヴィンの悪行には拍車がかかる。むしろ始末が悪くなる一方。悪知恵がついた分、単なるやんちゃを超え、より悪質な方へと向かう。

下巻が幕を開けてすぐ、ケヴィンは同じ幼稚園に通う園児の心に一生残るであろう楔を打ち込む。その楔の深さはその園児に一生涯消えない傷として残るはず。知恵をつけ始めるとともに、ケヴィンの行いは狡猾な色を帯びてゆく。エヴァから見た息子の行動や発言は見過ごせないほどの異常さが感じられる。だが、それらの邪悪さは夫フランクリンには映らない。それどころかケヴィンの異常さを訴えること自体が母親エヴァの育児の至らなさの結果と映る。会社の経営にかまけて、母としての役割がおろそかになっていないか、というわけだ。実際、ケヴィンは母に対して見せる姿と、父に対しての態度を巧妙に演じ分けるのだ。エヴァの訴えは夫には通じず、エヴァは手をこまねくしかない。エヴァが手を打てずにいる間にクラスメイトだけでなく、担任や隣人、ペットなど身の回りのあらゆるものにケヴィンの悪意は向けられてゆく。

妻の訴えを信じず、理解ある父を懸命に演じようとする父フランクリンは滑稽だ。だが、彼の滑稽さを笑える世の父は私も含めそういないはず。もちろん、私だって娘たちに対してはよき父であろうと心がけている。至らぬところも多々あるし、実際に至らないと自覚もしている。だが、子どもは成長すると知恵を身に付けてゆくもの。親といえども子が何を考えているか完璧に見抜けるのはずはない。

あまたの人間の織りなす社会。そこでは、硬軟や裏表、公私を使い分けなければ世を渡ることすらままならない。素の姿で飾らず、まっすぐ真っ当に生きたい。だれもが思うことだ。それは当然、子供との関係にも当てはまる。純粋で無垢な理想の父子を、せめて子供との関係では守りたい。本書で描かれるフランクリンからはその意思が痛々しいほど感じられる。

エヴァはフランクリンに向けてつづる便りの中で、ケヴィンが裏表を使い分けずる賢くフランクリンを欺いていたことも暴く。そして、フランクリンが息子に騙され続けていた事実も指摘する。だが、ケヴィンが取り返しのつかない犯罪を起こしてしまった今、何を言っても過去の繰り言にすぎない。実際、エヴァは、フランクリンを難詰しない。ただ騙されていたことを指摘するだけで。後から当時を振り返り、分析するエヴァの手紙には、諦めどころか傍観者のおもむきさえ漂っている。今さら夫を責めたところで過去は変えられないとの達観。

この達観は、大量殺戮犯の息子を持たない限り、普通の人が至ることのない境地だ。一瞬、魔がさして過ちを犯したのならまだわかる。だが、将来の殺人犯を育てる長年の過ちとは一瞬の過ちが入り込む余地はない。一瞬ではなく、徐々に積み重なった過ちだからこそ本書はリアルに怖い。本書はリアルな恐怖を読者に与える。自らの子どもが殺人犯になる未来が子育ての先に黒い口を開けて待ち構えている。そんな恐ろしい可能性は、どの親にも平等に与えられている。だからこそ恐ろしいのだ。その恐怖は本書がフィクションであろうと、そうでなかろうと変わりがない。親として子育てに携わる限り、そのリスクを避けるすべはない。どの親にも殺人犯の親になってしまう機会は均等にある。

上巻のレビューの冒頭にも書いたが、子育てとは、とても深淵で取り返しのつかない営みだ。本書は、その事を私たちに思い知らせてくれる。普通の親がいともやすやすとやり遂げているように思える子育て。そこには親子の間に交わされる無数のコミュニケーションと駆け引きと思惑がある。それほどまでに難しい営みで有りながら、結果は出てしまう。そして全ては結果で判断される。ああ、あそこの家の子は教育がよかったから◯◯大に行っただの、△△省に就職しただの。逆もまたしかり。やれニートだ、やれ不良だ、やれ引きこもりだ。極端な例になると、本書のケヴィンのように全国に汚名を轟かせることになる。

でも、それはあくまで結果論に過ぎない。子育ては細かい触れ合いやコミュニケーション、イベントや感情の積み重ねの連続だ。ことさらに記念日やイベントを持ち出すまでもなく。経緯をないがしろにして結果だけをあげつらうのはフェアではない。そしてその経緯を知っているのは当の親子だけ。全ての親子。いや、親子ですら、そこまでに積み重ねたあらゆる選択肢を反省することは不可能。だからこそ、子育ては真剣な営みであるべきだし、取り返しがつかない営みなのだ。私自身、幼い頃に親から言われた事がしつけの結果として脳裏をよぎる事がいまもある。逆に、言われなかった、しつけられなかった事によって私の行動に欠陥だってあるはずだ。

本書は子育ての恐ろしさを世に知らしめるには格好の題材だと思う。子を持つ親として、私はその事を本書から痛いほど突きつけられた。

エヴァの追懐は、事件の日ヘ一刻と近づいてゆく。夫に対して語りかけながら、息子の罪に向き合う。そして少年院で囚われのケヴィンとの面会に臨む。エヴァやフランクリン、シーリア、そしてケヴィン。この一家は今、どうしているのか。エヴァが認める自らの罪、そして失敗の先にはなにが待っているのか。エヴァが親として人間として向き合おうとする心はケヴィンに届くのか。これは実際に本書を読んで確かめてほしいと思う。

本書を読み終えた時、さまざまな感情が渦巻くはずだ。親であることの恐れ多さ。今まで自分が真っ当に育てられたことの感謝。親として子への接し方に襟を正す思い。人であること、親であることの難しさ。母とは、父とは、そして母性とは。

本書は重い。だが傑作だ。子を持つ親にはぜひ読んでほしいと思う。

‘2017/04/15-2017/04/19


少年は残酷な弓を射る 上


本書は子をもつ親にこそ勧めたい。特に、難しい年齢の子をもつ親に。

子作りとはなんと罪作りな行いなのか。子育てとはなんて深淵で取り返しのつかない営みなのか。特に今のような中途半端に人間関係が希薄になり、中途半端に情報が流通している社会では、親が子を育てることはますます難しい。

子供を育てる。それは私がまさに日々直面する親としての現実だ。私も自分なりによき父であろうと努力して来たつもりだ。が、娘達からすれば物足りない点、欠けている点もあちこち目につくことだろう。とくに仕事の忙しさにかまけるのがもっともよろしくない。仕事に忙殺され、子どもをないがしろにすると、自らの子どもから手痛いしっぺ返しを食らう。これは私も経験済み。

親の一挙手一投足は、一刻一刻が取り返しの付かない影響を子供に与えている。良くも悪くも。本書を読むとその事実が重くのしかかってくる。重く歪んだ読後感を伴う本書だが、まぎれもない傑作だと思う。

本書は妻エヴァから夫フランクリンへの手紙に似た語りかけの形式をとる。離れた場所にいる夫への語りかけは、物語に定まった視点を生む。全てはエヴァの一人称で話が進んでゆく。近況を報告し、二人の間の過去の思い出を語るエヴァの語りを読み進めていくうちに、読者は二人の息子ケヴィンが大量殺人を犯した事実を知る。

冒頭からまもなくエヴァの語りは、少年院に面会に行き、ケヴィンと対峙する経緯に差しかかる。反省の色を浮かべるどころか、実の母を挑発するケヴィンとの一部始終を夫に語るエヴァ。事件後、二年たってもまだエヴァは事件の後始末に関わっている。本書は、事件が起こった後の混乱が収まった後もなお、自身の人生と子育ての日々を見つめ直そうとするエヴァの探求の旅だ。エヴァの胸につかえる思い 。彼女の胸を満たすのは、いったい何が悪かったのか、どこで間違えてしまったのか、との後悔。

本書の設定では、ケヴィンが大量殺戮を犯してすぐにコロンバイン高校の銃乱射事件が起こったことになっている。それはケヴィンの犯行が世間に与えた衝撃の度合いを薄めた。ケヴィンは憤る。コロンバイン高校で銃乱射を行った二人の少年が自分の行いを薄めたことに。そこには反省など微塵もない。そして、エヴァの求める答えも救いもない。それでもエヴァは、息子から逃げずに定期的に少年院に通う。そしてその様子を逐一フランクリンに報告する。

エヴァは夫に便りを書きながら、同時に自分へと問いかける。二人が出会ったころのなれそめから遡れば、その問いへの答えがわかるとでもいうように。

ロケーション・ハンティングを営み、家を留守にすることの多いフランクリンと、海外へ向かうトラベラー向けの出版社経営に没頭するエヴァ。結婚してからも二人の仲は熱く、子作りの必要など感じないくらい。だが、エヴァとフランクリンの温度差はある日臨界を迎え、衝動的に避妊せずにセックスする。高年齢での妊娠はリスク。そしてエヴァにとっては今まで築き上げたライフスタイルが失われる恐れを抱きながらの妊娠。この辺り、女性の女性が描く細やかな描写が読者にさまざまな思いを抱かせる。

なお、著者の名前がライオネルとなっている。が、著者は女性だ。著者自身の意思で男性の名に思えるライオネルに改名したそうだ。著者の紹介によると、著者には子がいないらしい。それにもかかわらず、子を持つ母の思いがリアルに描かれている。著書の想像力の豊かさが見てとれる。

エヴァの語りから感じられるのは、自分の感情と責任に正直でありたいという率直さだ。すでに殺人犯の母と汚名を被った以上、自分を飾る必要もないということだろう。エヴァの語りを追うと、他の母親並みに妊婦学級に参加したり、我が子との対面を待ち望む気持ちがあるかと思えば、全てがどこかで間違った方向に進んでいるのではないかとおののき惑う気持ちも描く。そんな正直な心境をエヴァは夫に向けてつづる。その率直さはケヴィン誕生の瞬間の気持ちにも現れる。その気持ちとは感動がないという驚き。

著者は本書をありきたりの母と子として描かない。ケヴィンが大量殺戮に走った理由が今までの歩みのどこかに潜んでいなくてはならない。エヴァは、その原因を思い出すために当時の自分に向き合う。

子を持つことに積極的でないエヴァとそんな母の元に生まれたケヴィン。受胎の瞬間から破局は始まっていたかのようにエヴァの語りはケヴィンが誕生してからの日々を描き出す。母乳に興味を持たずひたすら泣きわめくケヴィンとそれを持て余すエヴァ。エヴァも愚かではない。ヒステリックに怒鳴り散らしたい気持ちを抑え、良き母であろうと努力する。だが、そんなエヴァをあざ笑うかのように、ケヴィンは父フランクリンの前では良き幼子として振る舞う。

以後、上巻では、ケヴィンとエヴァの緊張をはらんだ関係と、無邪気にケヴィンに騙され続ける父フランクリンの関係が描かれる。成長するにつれ行動に不穏な気配を帯びてゆくケヴィンに恐れを抱きながら母を演じようとするエヴァと、最初から自分が理想の父を演じていることに一瞬たりとも疑いを挟まないフランクリン。二人の夫婦としての温度にも微妙な差が生じ始める。

おそろしいのは、三人の関係だけではない。この展開を自然にグイグイ読ませる著者の力量も恐ろしい。本書がケヴィンの起こした破局に向かって突き進んでゆくことは予想できるのだが、それがどういう方向に向かうのか読者はわからぬままだ。わかっているのはケヴィンの起こした事件が重大であり、大勢を殺傷したこと。それ以外は詳細が語られぬまま物語が進んでゆく。読者は、スリリングな気持ちと不気味さを同時に味わうことになる。上巻も終わりを迎える頃には、夫婦が事態を打開するためシーリアという娘ももうける。シーリアはケヴィンと違って全く手のかからない天使のような娘。それが物語に一層の波乱の予感を与えつつ、本書は、下巻へと向かう。

‘2017/04/12-2017/04/15


虚ろな十字架


大切な人が殺される。その時、私はどういう気持ちになるのだろう。想像もつかない。取り乱すのか、それとも冷静に受け止めるのか。もしくは冷静を装いつつ、脳内を真っ白にして固まるのか。自分がどうなるのか分からない。何しろ私にはまだ大切な人が殺された経験がなく、想像するしかないから。

その時、大切な人を殺した犯人にどういう感情を抱くのか。激高して殺したいと思うのか。犯人もまた不幸な生い立ちの被害者と憎しみを理性で抑え込むのか。それとも即刻の死刑を望むのか、刑務所で贖罪の余生を送ってほしいと願うのか。自分がどう思うのか分からない。まだ犯人を目の前にした経験がないから。

でも、現実に殺人犯によって悲嘆の底に落とされた遺族はいる。私も分からないなどと言っている場合ではない。私だって遺族になる可能性はあるのだから。いざ、その立場に立たされてからでは遅い。本来ならば、自分がその立場に立つ前に考えておくべきなのだろう。死刑に賛成するかしないかの判断を。

だが、そうはいっても遺族の気持ちになり切るのはなかなかハードルの高い課題だ。当事者でもないのに、遺族に感情移入する事はそうそうできない。そんな時、本書は少しは考えをまとめる助けとなるかもしれない。

本書の主人公中原道正は、二度も大切な人を殺された設定となっている。最初は愛娘が殺されてしまう。その事で妻との間柄が気まずくなり、離婚。すると娘が殺されて11年後に離婚した元妻までも殺されてしまう。離婚した妻とは疎遠だったので知らなかったが、殺された妻は娘が殺された後もずっと死刑に関する意見を発信し続けていたことを知る。自分はすでにその活動から身を引いたというのに。

それがきっかけで道正はもう一度遺族の立場で死刑に向き合おうとする。一度逃げた活動から。なぜ逃げたのかといえば、死刑判決が遺族の心を決して癒やしてくれないことを知ってしまったからだ。犯人が逮捕され、死刑判決はくだった。でも、娘は帰ってこない。死刑判決は単なる通過点(137ページ)に過ぎないのだから。死刑は無力(145ぺージ)なのだから。犯人に判決が下ろうと死刑が行われようと、現実は常に現実のまま、残酷に冷静に過ぎて行く。道正はその事実に打ちのめされ、妻と離婚した後はその問題から目を背けていた。でも、妻の残した文章を読むにつけ、これでは娘の死も妻の死も無駄になることに気づく。

道正は、元妻の母と連絡を取り、殺人犯たちの背後を調べ直そうとする。特に元妻を殺した犯人は、遺族からも丁重な詫び状が届いたという。彼らが殺人に手を染めたのは何が原因か。身の上を知ったところで、娘や妻を殺した犯人を赦すことはできるのか。道正の葛藤とともに、物語は進んで行く。

犯罪に至る過程を追う事は、過去にさかのぼる事。過去に原因を求めずして、どんな犯罪が防げるというのか。本書で著者が言いたいのはそういう事だと思う。みずみずしい今は次の瞬間、取り返せない過去になる。今を大切に生きない者は、その行いが将来、取り返せない過去となって苦しめられるのだ。

本書は過去を美化する意図もなければ、過去にしがみつくことを勧めてもいない。むしろ、今の大切さを強く勧める。過去は殺された娘と同じく戻ってこないのだから。一瞬の判断に引きずられたことで人生が台無しにならないように。でも、そんな底の浅い教訓だけで済むはずがない。では、本書で著者は何を言おうとしているのか。

本書で著者がしたかったのは、読者への問題提起だと思う。死刑についてどう考えますか、という。そして著者は306-307ページで一つの答えを出している。「人を殺した者は、どう償うべきか。この問いに、たぶん模範解答はないと思います」と道正に語らせる事で。また、最終の326ページで、「人間なんぞに完璧な審判は不可能」と刑事に語らせることで。

著者の問いかけに答えないわけにもいくまい。死刑について私が考えた結論を述べてみたい。

死刑とは過去の清算、そして未来の抹殺だ。でも、それは殺人犯にとっての話でしかない。遺族にとっては、大切な人が殺された時点ですでに未来は抹殺されてしまっているのだ。もちろん殺された当人の未来も。未来が一人一人の主観の中にしかありえず、他人が共有できないのなら、そもそも死刑はなんの解決にもならないのだ。殺人犯の未来はしょせん殺人犯の未来にすぎない。死刑とは、遺族のためというよりも、これ以上、同じ境遇に悲しむ遺族を作らないための犯罪者の抑止策でしかないと思う。ただ、抑止策として死刑が有効である限りは、そして、凶行に及ぼうとする殺人者予備軍が思いとどまるのなら、死刑制度もありだと思う。

‘2016/12/13-2016/12/14


嫌われ松子の一生(下)


上巻の最後で故郷から今生の別れを告げようと実家に戻り、そして出奔した松子。馴染み客が一緒に雄琴に移ろうと誘ってきたのだ。雄琴とは滋賀の琵琶湖畔にある日本でも有数の風俗街のこと。しかし、マネジャーになってやるからと誘ってきたこの小野寺という男、たちの悪いヒモでしかなかった。ヤクの売人はやるわ、他の女に手は出すわ。痴話げんかの果てに、松子は小野寺を包丁で刺し殺してしまう。

無我夢中で東京へと向かった松子。そこで出会ったのが島津。妻子をなくし、つつましく理容店を経営する男の元で居候として暮らしはじめる。となれば自然と男女の関係になろうというもの。しかし、そんな松子がつかんだかに見える平穏は、逮捕によって終わりを告げる。全国指名手配されていたとも知らず、のうのうと暮らしていた松子を警察が見逃すはずもなく。ついに松子は刑務所に収監されることになる。

笙も別ルートから松子が刑務所にいたことを突き止め、公判記録からその凄絶な生涯を知ることになる。

本書に通して読者が追体験する松子の人生は、すさまじいの一言だ。一人の女性が味わう経験として無類のもの。それでいて、少しも無理やりな展開になっていない。本書はフィクションを描いているはずだが、実は松子のような人生を歩んだモデルがいたのではないかとも思わせる。長年、風俗業で生き抜いて来た女性の中には、松子と同じような辛酸を舐めてきた方もいるのではないか。そう思わせるリアルさが本書には息づいている。

松子の人生は、まるで奔流のように読者を運んでいく。立ち止まって考える暇すら与えてくれない。本書は一気に読めてしまう。だが、あらためて本書を読んでじっくり考えてみたい。すると、松子の生き方にも人の縁が絡み合っていることが見えてくる。松子の人生は一匹オオカミの孤独に満ちているわけではない。人生のそれぞれの局面で、ごく少数の人と太い絆を結ぶ。その絆が松子の前に次々と新しい人生の扉を用意するのだ。それが結果として悪い方向だったとしても、人の縁が人生を作ってゆく。

属する組織の中で、少数の方と縁をつないでゆく生き方。それは、私自身にもなじみがある。というよりも私の生き方そのものかもしれない。私はたまたま破滅せずに、今なお表通りを大手を振って歩けている。だが、それは結果論でしかなく、実は私の人生とは、選択する度に間一髪奈落のそばを避けてきたのかもしれない。自らの経験から振り返ってみると、生きることの難しさが見えてくる。生きるとは、これほどまでに人との縁や、その時々の判断によって左右されるものか。一方通行のやり直しのきかない人生では、選択もその時々の一回勝負。

とはいえ、本書を読んで人生を後ろ向きに考えるのはどうかと思う。殻にとじこもり、リスクを避ける人生を選び続けてはならない。松子にはたまたま不運がつづいてしまっただけとも言える。最後は酔った若者たちの憂さばらしのの対象となり、殺されてしまった。だが、逆もまたあり得るはず。幸運の続く人生も。

そもそも運で自分の人生を決めつけることを私は良しとしない。運などすべて結果論でしかない。松子の場合、旅館での盗難騒ぎを、自分の力でうまく収めてしまおうと独断に走った判断のまずさがあった。彼女の人生を追っていくと、明らかな判断ミスはそう多くはない。多くは他の人物による行いを被っていることが多い。松子の場合、安定した教職をまずい判断で台無しにしてしまったスタートが決定的だったと思う。つまり、選択さえうまくできていれば、彼女の人生は逆に向いていた可能性が高い。

そんなわけで、松子の裏目続きの人生を見せつけられてもなお、私には人生を後ろ向きにとらえようと思わないのだ。

根拠なき運命論も、人生なんてこんなもんという悲観論も、私にはなんの影響も与えない。むしろ、本書とは巨大な一冊の反面教師ともいえる。こうすれば人生を踏み外すという。でも、そこだけが本書から得られる教訓であるとは思えない。本書から得られる彼女のしぶとさことを賞賛したい。一度の選択は人生の軌道を全く違う向きに変えてしまう。しかし、悪いなりに松子は人生を懸命に生きる。そこがいい。失敗を失敗のまま引きずらず、生きようとした彼女が。

笙は公判で松子を死に至らしめた男たちの態度に激昂して吏員に連れ出される。笙には分かっていたのだろう。叔母の一生とは決して救いようのない愚かなものではなかったことを。刑務所から出所した後の松子の人生も、紆余曲折の山と谷が交互に訪れる激しい日々だった。最後は荒川のアパートで身なりを構わぬ格好で独り暮らし、嫌われ松子と呼ばれていた。それはいかにも身をやつした者の末路のよう。でも、かつて松子がつちかってきた縁は、松子を真っ当な道に戻そうとしていた。それを永遠に閉ざしたのが浅はかな若者たちの気まぐれだった。松子と比べると人生の密度に明白な差がある若者たち。そんな若者たちに断ち切られてしまった松子の報われたはずの未来。それを思うと笙には彼らの反省のなさに我慢がならなかったのだろう。

私はつねづね、人の一生とは死ぬ直前に自分自身がどう省みたか、によって左右されると思っている。本書はその瞬間の松子の感情は描いていない。果たして松子はどう感じたのだろうか。多分、晩年の松子には今までの自分の人生を思い返すこともあっただろう。でも普通、人は生きている間、無我夢中で生きるものだ。他人からの視線も気にするひまなどない。憂さ晴らしの連中に襲われた際、松子には後悔する暇も与えられなかったことだろう。だが、本人に人生を思い返す暇がなかったとしても、他人からその生きざまに敬意が払われ、記憶されたとすれば、その人の人生はまだ恵まれていたといえないだろうか。

‘2016/08/08-2016/08/09


嫌われ松子の一生(上)


本書もレビューを書くのに手間取った一冊だ。

本書では、転落し続ける一女性の一生が容赦なく描かれる。これが自業自得の結果だったり、身から出た錆であればまだいい。そうとばかりは言えないから厄介だ。そして重い。その重さを受け止めかねているうちにレビューを書くまで一年近くかけてしまった。

女性であることは、これほどまでに厳しいのか。女性でいることは、これほどまでに痛々しいのか。女性として生まれた宿命を背負って生きようとする松子の姿。それは男の私にとって安易に触れることを躊躇させた。そして、感想を書くことをためらわせた。

松子の生き方に、人の生きることの尊さとかけがえのなさは感じられる。しかし、それ以上に、生きることが一方通行の綱渡りに近しい行いであり、やり直しのきかない営みであることを痛切に感じた。

本書は松子の死後から幕を開ける。笙は、福岡から出て来た父から松子という伯母の存在を知らされ、30年前に蒸発して行方不明だった松子が殺されたこと、遺品の整理をしてほしいと頼まれる。そのような親族がいたことを知らなかった笙は、ただ面食らうのみ。

本書は一転、昭和45年に場面を移す。 国立大を出て中学校に赴任した川尻松子は、修学旅行の下見に校長と二人、別府へ向かう。旅行会社の手違いで校長と同室で泊まる羽目になった松子は、夜、校長に強引に犯される。いうまでもなく校長と旅行会社社員による卑劣な結託だった。ここでまず、松子の運命に一つ目の傷がつく。

本書はまた現代へと戻る。以後、松子の運命と笙の探索が交互に描かれていく。松子の遺品整理に気乗りしない笙は、初めは片手間に、恋人の明日香と松子が住んでいたアパートに向かい、作業を始める。大家や隣人、訪ねてきた刑事などから松子の人となりを聞いた笙は、松子の生涯にふと興味を抱く。隣人より松子が荒川の土手で人知れず泣いていたことを聞き、荒川へと向かう。そこで見た男の面相は、18年前に松子と同棲していたという 刑事から見せられた写真に写っている男だった。男が殺人犯と勘違いした笙と明日香の二人が、荒川の土手に戻ると、男のいた場所には新約聖書が落ちていた。

昭和46年の春。修学旅行先で事件は起きる。泊まっていた旅館の金庫から金が盗まれたのだ。担任の松子は、生徒を疑ってはいけないと知りながらも、問題児の龍洋一に金の行方を問い質す。そして龍洋一は、尋問に傷つき出て行ってしまう。窮した松子は生徒が盗ったことにして、お金を内々に宿に返せば丸く収まるのではと考える。しかも、自分の手持ちのお金だと足りないので、たまたま目に入った同僚教師の財布の中身も拝借して穏便に済ませようとする。だが、そんな浅知恵がうまくいくはずはない。結果、自宅謹慎の処分が下る。なおも諦められない松子は龍洋一の家を訪れる。そして本当の事を白状するように懇願するぬれぎぬまで着せられ、退職願を出すよう申しつけられる。全てが暗転していく絶望に、学校からも家からも泣き笑いで飛び出す松子。

場面は再び現代へ。男が置いていった新約聖書には府中市にある教会の名前が刷ってあった。そこを訪れた二人は、男が逆に松子を探していたのではないかと思い至る。笙の中で、松子の人生にあらためて興味が沸く。

教師を放り投げてからの松子の人生は、世間体からみれば転落の一言だ。ウェートレス、文学青年のヒモ、妻ある人との不倫。そして風俗嬢へ。風俗嬢でのし上がった松子は金を稼ぎ、同僚やマネジャーと絆を結ぶ。

一方、松子を探し訪ねる 笙の 旅は、荒川にいた男が松子の教え子だったことで次の展開に向かう。男の名は龍洋一。

過去と現在が交互に入れ替わる本書は、一人の女性が人生の荒波に揉まれ、懸命に生き抜こうとする物語だ。いちど世間というレールを外れると、あと頼れるのは己のみ。生きることへの執着としぶとさが本書にはある。

故郷をついに離れた松子の、一生故郷には帰らないとの決意で上巻は終わる。

‘2016/09/06-2016/09/08


二流小説家


宝島社の「このミステリがすごい」は私が毎年必ず買い求めるガイド本だ。本書は「このミステリがすごい」2012年版の海外部門で一位になっている。

主人公は売れない作家。そのため、ポルノやミステリ、SFなどジャンルごとに筆名を使い分けている。糊口をしのぐためSM雑誌で相談者に扮して読者からの相談を受けていた時期もある。

そんな彼のもとに著名なシリアルキラー、ダリアン・クレイから手紙が届く。

クレイは12年前に死刑判決を受け服役中の身だ。彼の犯罪は殺人だけにとどまらない。人体を愚弄しきった、残虐かつ凄惨な処置を四人の被害者の死体に加えたのだ。その全貌は明るみになっておらず、遺体の頭部はいまだに見つかっていない。

手紙の中で、クレイは相談者ハリーの回答文に注目していたと述べる。さらに全ての事実を告白するからその告白本の著者にならないか、と申し出る。

黙殺するにはあまりにも魅力的な話。興味を惹かれ、ハリーは刑務所に面会に行く。面会の結果はハリーよりも、むしろクレアの興味を激しく沸き立たせる。クレアはハリーがアルバイトでやっている家庭教師の教え子で女子高生。今では教え子の立場を超えてハリーの作家業のエージェントまで買って出てくれている。ハリーの名が一気に有名になる千載一遇のチャンスにクレアが舞い上がってしまう。

しかし、ハリーが面会の場でクレイから出された執筆条件はとても奇妙なものだった。クレイのようなシリアルキラーに憧れ、歪んだ妄想に浸る人物は多い。クレイのもとにはそういう情欲をもつ女性から、常軌を逸したレターが届く。

ハリーがクレイから頼まれたのは、それらの女性に逢うこと。そして、彼女達とクレイの濡れ場を描いたポルノ小説を執筆すること。その執筆と引き換えに少しずつ告白をしようというのがクレイの出した条件だ。

気が進まないながらもしぶしぶ女性たちに会うハリー。ひと通り話を聞き終わったハリーは、再び最初に話を聞いた女性のもとを訪れる。そこでハリーが目にしたのは、クレイによる犯罪を思わせるグロテスクな死体。危険を感じたハリーは同様に逢って話を聞いた残りの二人の家に駆けつける。だが、すでにその場は殺戮と凄惨な処置を加えられた慘死体で彩られていた。これが本書の序盤の筋書きだ。

エロとグロにまみれた本書の語り手はハリー本人。ハリーは自らを二流の作家として自嘲している。家庭教師のバイトをこなさねばならない低収入。クレイの誘いに乗ってしまうほど名声に飢えている現状。

それでいながら、本書はハリーの語りに読み応えがある。読者に語りかけるようなハリーの語り口は当事者でありながら他人事のようだ。その客観的な語りと視点は、エロとグロにまみれ低俗な読み物となってしまいがちな本書を引き締める。エロとグロをここまで描きながら客観的な視点を保ち続けられるのは、著者が実際にポルノ業界に身をおいていたからかもしれない。本書には相当に踏み込んだ描写も出てくるが、品を失わない著者の筆さばきは見事というほかない。

それには訳者の功も大きいだろう。本書には女性にとっては口にするのも憚られるような描写が幾度も出てくる。しかし訳者は女性でありながら、怯むことなく訳しきっている。訳者のプロ意識に対して失礼を承知で、評価させて頂きたい。

実際、本書は筋書きや謎解きも一級品だ。それだけでも優れたミステリとして読める。だがそれ以上にハリーの語り口が本書の優れた点だ。ハリーの語りはともすればミステリに慣れた読者の先手を行く。読者に語りかけながら読者を導く筆致。それは、絶妙に読者を幻惑させる。

エロとグロに加え、登場人物達も脇役に至るまできっちり書かれている。となれば、本書にけちをつける余地はないだろう。

強いていえば一つだけ引っかかる点がある。それは犯人の素性について。果たして日本では、この犯人でここまでの犯罪は可能なのだろうか。きっと成り立たないはずだ。もしくはアメリカの制度だから許されるのだろうか。そこが私には分からなかった。この点は本書の謎に直結する部分なのでこれ以上書かない。だが、私の中で少しの引っ掛かりとして残った。

もちろん、本書の完成度にとっては些細なことでしかないのは勿論だが。

‘2016/04/21-2016/04/26


ソロモンの偽証 第Ⅲ部 法廷


第三部は、初公判から閉廷に至るまでの裁判の過程が描かれる。ど素人の中学三年生による裁判が果たしてうまくいくのか。著者はその部分をどのように書き切るのか。本書の筋や真相だけでなく、著者の手腕に興味は尽きない。

中学生が中学生だけで裁判をやりきる。著者は判事役の井上康夫や検事役の藤野涼子、そして弁護人の神原和彦をどのような役回りで演じさせるのか。裁判をつつがなく進めさせるため、著者は彼ら三人にいくらなんでも弁が立ち過ぎじゃないの、と思わせるほどに弁論させる。語らせる。第一部のレビューで彼らに感情移入できないと書いたのは、その弁論のあまりの達者さについてだ。

だが、それだけ喋らせただけのことはあり、本書の展開は法曹ミステリ―のそれを地で行っている。実に見事なものだ。第一部で謎は提示され、起こるべくしてさまざまな出来事も起きた。第二部では中学生たちが大人への反旗を翻しながら、日々をフル活用して調査を進める。そして本書第三部では謎解きが中心となる。

法廷ミステリ―に付き物の展開としてよくあるのは、意外な証人が出てきて爆弾発言をすることだ。証人が口にする想定外の発言によって新たな展開が産まれ、謎が増幅され波紋を呼ぶ。本書もまた法廷ミステリーの骨法に則り、予想外の証人が次々と登場する。そこで第一部、第二部と細やかに丁寧に書き綴ってきた著者の努力が実を結ぶ。今までの出来事を疎かに書いていたら、本書で登場する証人たちが唐突で、とって付けた感じが出てしまう。

裁判に召喚される証人たちの多くは大人たちだ。中学生の扮する検事や弁護人が大人を証人喚問し、その証言に揚げ足を取り、被告または原告に都合の良い方向に法廷の空気を誘導する。本書で描かれる丁々発止のやりとりは、正直なところ中学生には荷が重すぎると思える。だが、それは置いておこう。彼らはあまりにも優秀すぎる中学生なのだから。

本書第三部で肝となる人物は三宅樹里だ。柏木卓也の事件が学校の枠をはみ出て社会的な事件になってしまったのは、彼女の作った告発状がマスコミに漏れたからだ。三宅樹里と一緒に告発の手紙を投函した友人の浅井松子は、良心の呵責から真相を暴露しようとしたところ、三宅樹里の目の前でトラックに轢かれてしまう。浅井松子の死の真相はいったいどこにあるのか。ひどいニキビでいじめられ、性格がねじくれてしまった彼女こそが、著者にとって本書の中で一番書きづらい人物だったことは想像できる。

思春期の女の子が容姿を気にするのはとても自然だ。ねたみやそねみなどを胸のうちに隠しながら、他人とどうやって折り合いを付けていくのか。女の子の悩みは深い。私も娘を持つ身としてなんとなく分かる。でも、彼女たちがどのような想いを抱いているかについては、全く想像が及ばないのも事実だ。一見すると穏当な父娘関係を築き上げているかに(私自身は)思っている私と娘ですら、私が思っているよりもはるかに闇に塗れているのかもしれない。

第一部から三宅樹里が放つどす黒い闇の念。それは、彼女が浅井松子の死によって口が利けなくなってからも衰えるどころかますます暗さを増す。いかにして彼女を証人として呼び出すか。検事側と弁護側の駆け引きが盛んにおこなわれる。

三宅樹里と大出俊次。同じ嫌われ者同士。二人の間にあるいじめと報復の関係が、柏木卓也の墜落死をさらなる混乱に導いたともいえる。かれらの苦しみが法廷の場でどこまで暴かれ、どのように浄化されるのか。いじめやねたみはなぜ起きてしまうのか。けがれなき思春期という幻想は嘘であり、実はすでに大人の世界に半分足を踏み入れてしまっている城東第三中の彼らは、その燃え盛る激情を鎮めるすべも知らずに暴走してしまう。

中学生の抱える爆発寸前の悩みは、大人になりたくもあり、なりたくもない微妙な年頃に特有だ。自分の思いが世の中に受け入れられない悩み。また、受け入れてもらうための方法が分からない苦しみ。ただ、肥大した自我だけが膨張する年齢。第一部のレビューに書いた厨二病とは、中学生の自我が必ず通過する成長の痛みであり、人生にとって欠かせない宿痾なのかもしれない。

本書の発端となった柏木卓也墜死事件もそう。自分には止めようもない自我の暴走によって引き起こされた不幸な出来事。その自我に目を配り、暴走を止める責任までを全て教育現場に求めるのは酷といえないだろうか。

最終論告が終わった後、評決を前にして茂木記者と津崎校長が対峙する場面がある。その中で茂木はこのようにいう。
「学校という制度は、この社会の必要悪です。僕はその悪と戦っている」
それに対して津崎校長は「よくわかります。だが、悪といえども“必要”ならば、私はそのなかで最善を尽くしたいと願い、努めてきました」。
このようなやり取りは、作り事でない教育現場を巡る本音の会話なのだろう。本書が傑作である理由とは、教育現場を悪と見なして終わり、と紋切型に描かないことだ。暴発寸前の自我を抱えた何百人の中学生を、その何十分の一の人数の教師たちで運営する。それはどれだけ至難の業か。そのことに中学を卒業して何十年もたって、ようやく気づいた。しかも本書と違って今の中学生にはLINEもメールもinstgramもある。娘たちの学校の出来事もある程度聞いているけど、リアルだけでなくネットの中の世界にも気配りが必要な先生って大変だなぁ、と。

そんな思いを感じたからこそ、本書で明かされる真実はやるせない。そしてとても切ない。

本書は三部作の中でも法曹ミステリーの要素が強いと冒頭に書いた。でも、本書は単なる推理ゲームには堕さない。それどころか、裁判という場を借りて中学生の抱える闇と戸惑いと不安を描き尽した人生小説である。

本書のエピローグは2010年に飛ぶ。城東第三中学に教師として赴任したある人物のモノローグで進められる。もちろんその人物とは学校内裁判に登場した主要人物である。

第一部のレビューで、本書の時代と世代が私とほぼ同じことにシンパシーを感じると書いた。私もあの時代をとも過ごしたのだから。エピローグに登場する彼の言葉こそ、同じ裁判を体験した仲間にしかいえない実感がこもっている。殻をかぶっていた私も、自分の中学生活を振り返って、思うことが沢山あった。なんだかんだといろんなことがあった中学時代だったなぁと。よくぞあの時期を乗り越えてきたなぁと。本書のエピローグが2010年だったことで、私にも自分自身の中学時代を振り返るきっかけとなった。

エピローグに登場するのは、その人物だけだ。他に裁判を共にした人々のその後の消息は出てこない。でも、彼の言葉が泣かせるのだ。「あの裁判が終わってから、僕ら」・・・・「友達になりました」。彼が教師であるだけになおさら、20年経ってから振り返る中学生の時期に実感が沸くのだろう。生きていればどれほど壮絶なことがあっても幸せに振り返ることができるのだ。

そんな心に沁みるメッセージで本書は幕を閉じる。間違いなく本書は傑作といえる。

‘2016/01/23-2016/01/25


ソロモンの偽証 第II部 決意


第一部の最後は、藤野涼子による決意の言葉で締められた。第二部は、その決意の提案から始まる。城東第三中学校では、恒例行事として三年生が卒業制作を行うことになっている。その卒業制作を学校内裁判を開くことに充てたい、というのが藤野涼子の提案だ。

優等生である藤野涼子が決意を表明した時、学年主任の高木先生は優等生の予期せぬ反抗に目をむき、逆上のあまり平手で頬を打ってしまう。そして藤野涼子はしたたかにも平手打ちの件を訴えないかわりに学校内裁判を開く権利を勝ち取る。大人の言うがままに操られ、真相から遠ざけられたままで中学生活を終わりたくない。そんな藤野涼子の叫びはクラスに波乱を巻き起こす。裁判の期間は夏休みの2週間。高校受験を控えた中三生にそんな暇があるのか、と拒絶やためらいが乱れ飛ぶ。しかし、有志の生徒たちが少しずつ手を挙げ、検事・弁護人・陪審員・判事が決まってゆく。

だが、肝心の被告である大出俊次の意思はまったく顧みられていない。被告が白黒つけたいと意思を示さない限り、原告のいないこの裁判はそもそも成り立たない。そこで生徒たちを応援する北尾教諭は勝木恵子を仲間に入れる。彼女は大出俊次の元カノ(90年当時にこの言葉は一般的じゃなかったと思う)であり、捨てられた格好となった今も大出俊次のため尽くしたいとの意思を持っている。彼女が仲立ちとなり、大出俊次に被告人の立場で裁判に出廷してもらうためお願いに行く裁判関係者たち。

その中には弁護人の任についた神原和彦が加わっている。彼は他校生だが柏木卓也とは親しい。それもあって彼の死の謎を解くため協力を申し出たのだ。学校内裁判の弁護人に新たな一員が加わった今、大出俊次をどう口説き、どうやって裁判の場に引っ張り出すのか。

大出俊次は自他共に認める札付きの不良だ。とはいえ、周りの皆から殺人犯と見なされて平然としていられるほど図太くはない。図体も態度もふてぶてしいようでいて、そこはまだ中学生なのだ。そんな不安定で危うい彼の心理を著者は細やかに描き出す。大出俊次だけではない。勝木恵子、藤野涼子、野田健一、そして神原和彦。彼ら中学生の壊れそうに揺れ動く心のひだを著者はとても丁寧に、細やかに描く。第一巻のレビューで、私は本書に登場する中学生たちに感情移入できなかったと書いたが、それは彼らの行動そのものへの感想であって、中学生の心を描き出す著者の切り込み方には共感できる。きっと私も中学生の頃はこういう心の振れ方をしていたんだろうなぁ、と。

裁判を開こうとする藤野涼子の意図は、上辺だけで考えると無理な流れに思える。しかしこの裁判に法的拘束力はない。真似事であってもいいと先生方が黙認する中、裁判の実現に向けて彼女は懸命に努力する。この流れに少しでも作者のご都合主義が混じると読者は白けてしまう。なので、著者の筆は丁寧に丁寧に裁判開催までの経緯を紡ぎ続ける。中学生が無理なく裁判を実現するための能力と心の有り様に気を配りながら。中学生とはこうであったか、とかつて中学生だった私にも納得できるくらい丁寧に。本書の紙数がこれだけ増えてしまったのも無理もない。

中学生が裁判を開く。それは、中学生が大人の世界に足を踏み出すには格好のイベントだ。イベントとはいえ遊び半分ではない。きちんと裁判の前提や手続きに則っている。それが法的に無効なだけであって、彼らは真剣に裁判を行い事実を明らかにしたいと願っているのだ。

藤野涼子は叫ぶ。「あたしたちは、いろんなことを聞かれて、書かれて、憶測されて、想像されるんだ。何にも確かなことを教えてもらえないまんまで。あなたたちは知らなくていいことですって」

私は、第一部のレビューに書いた通り、のほほんとした無個性のノンポリ中学生だった。なので、藤野涼子が抱いたような深い不信を大人たちに抱いてなかった。でも、私の中学時代は無風平穏な日々ではなかった。校長室にも呼び出されたし、警察にも呼び出されたし、個人面談では担任より攻撃された。友人に大金を盗まれたことだってある。二度にわたって足の手術を受け、合計で1ヶ月はベッドの上にいた。多分、私は自分が思っている以上に親を嘆かせた中学生だったと思う。しかも、どれも私が自ら動いたのではなく、周りに引きずられて。今、こうやって中学時代の自分を思い返しても、反抗期でもなかったのに反省することばかりだ。私個人の反抗期は中学時代ではなくずっとのちにやってきた。大学を出た後、真っ当に新卒就職の道を歩まないことが反抗と信じて。

そんなわけだから、私は本書に登場する中学生達に感情移入出来なかったのだと思う。でも、今の私には同じ年頃の娘がいる。いつの間にか大人になってしまった私は、子どもたちに対して高木先生と同じような態度を取っていないだろうか。まだ子どもなんだから。まだ中学生なんだから。でも、実はそれって中学生からすればもの凄く嫌な気分にさせられる態度なんだろうな。私自身が中学生であった頃、同じような訳知り顔の態度を大人たちから示されて嫌な気分にならなかっただろうか。のほほん中学生だった私も、思い出せないだけできっと同じような気分を味わわされていたはずだ。

大人たちの都合でいいようにされてたまるか。中学生たちが自己を目覚めさせ、成長していく過程。大人の入り口に立った子供が、大人の真似事にどこまで迫れるのか。本書に書かれる中学生たちの悩みは、当人にとっては真剣な思春期の悩みだ。そんな中学生の悩みに迫る本書は推理小説でも犯罪小説でもない。ましてや、ヤングアダルト小説やライトノベルでもない。本書は子供から大人への成長を丹念に描いた人生小説だ。だから本書を読み進めるうち、読者にとって大出俊次が柏木卓也を突き落としたのか、柏木卓也はなぜ死んだのかといった謎は二の次三の次になる。謎解きのスリルよりももっと深い部分で考えさせられる。そして、必ずや読者は自分自身の中学時代について想いを馳せるはずだ。私のように。

本書に登場する親たちの描写も丁寧だ。柏木卓也の親。藤野涼子の親。野田健一の親。それぞれがそれぞれの思惑で子に接している。子どもとともに生きようと愛情を注ぐ親もいれば、心が子から離れてしまっている親もいる。私も娘たちにはなるべく誠実に接しようと心がけているつもりだが、親として残念な自分に思い当たる節も多々ある。

第一部のレビューで書いた通り、私にとって本書は同世代を生きた経験からも思い入れを感じる一冊だ。本書を読んだことで私自身の中学生活を省みるきっかけにもなった。しかし、私にとっての本書は、中学生の娘を持つ親の立場でも思い入れを感じる一冊でもある。いや、思い入れを感じるという表現は正確ではない。親となってしまった今、自分がいつの間にか中学生の頃の気持ちを忘れ、大人の目で子どもに接していたことへのうろたえを含んだ「きづき」と言えばよいか。大人の約束事や大人の事情。どれも世を渡って生きていく上で欠かせないスキル。しかし、そんなスキルに溺れすぎて、子供の頃の自分を忘れていないか。そんな自分への苦い問いが本書を読むと湧き上がってくる。しかもその問いに理想論や青臭さは含まれておらず、それが余計に心に沁みる。

三部作の中間にあたる本書は、ミステリの要素が一番薄い。だからその分、最も考えさせられるのかもしれない。

‘2016/01/22-2016/01/23


ソロモンの偽証 第Ⅰ部 事件


厨二病という言葉がある。生真面目に直訳すれば、中学二年生病となろうか。その年代に特有の情動が不安定な様子を指す言葉だ。いわゆるネットスラング。野暮を承知で由来を書くと、中学生を馬鹿にして中坊と呼び、それを一括で漢字変換すると厨房。「厨」房の「二」年生と言った意味だ。

大人向けの知識を聞きかじり始めた、大人と子供の間に挟まった時期。今はネットの発展により大人向け情報がたやすく入手できるので、厨二病患者にとっては過ごしやすい時代かもしれない。

私が中学二~三年だったのは、1987年から1988年にかけてだった。バブルが弾ける前の浮かれた日本の中で多感な時期を過ごした世代。それが私の世代である。私自身が中二の頃は何をして何を考えていただろう。その頃はまだネットが無かった。時代がちがうため現代っ子とは比較できない、と言いたいところだが、多分今の中学二年生と似たり寄ったりだったのだろうな。

本書に登場するのはまさに同じ世代、同じ年代の中学生たちだ。本書の発端となる事件が起こったのは1990年のクリスマスの早朝。私が14歳のクリスマスを過ごした三年後のことだ。

三年とは世代の差として大きく、同じ年代の枠に含めるのは無理があるのかもしれない。それでもなお、本書内の彼らと私は同時代を生きたといえる。何故なら、バブルが弾ける前の時代に多感な時期を過ごし、インターネットを知らずに中学生活を送った世代だから。「バブルが弾ける前」と「インターネットを知らない」。この二つのキーワードは、同じ時代を生きた証として今も有効だと思う。私が本書に思い入れを持ったのは、同じ時代に同じ年代として生きた親近感にあるといってよいだろう。

とはいえ、本書を読む間、登場人物に感情移入できたかというとそうでもない。なぜかというと、当時の私は本書に登場する中学生達の様には個性が確立していなかったから。正直いって私の中学時代は無個性だったといえる。私の中学時代を知る妻の友人は、私と付き合っていると聞くと、あんなショボいやつといったそうだ。そして私と結婚したら全く連絡を断ってしまった。中学時代の私とは、それくらいパッとしないやつだったのだろう。本書には名前が付いている主要なキャラ以外にも、名前も出てこないその他大勢がいる。多分、当時の私が本書の登場人物であったとしても、名も無きクラスメートの一員に甘んじていたことだろう。

そこが、私が本書の登場人物達に感情移入できない理由の一つだ。柏木卓也の墜死体の犯人を探すために学校内で模擬裁判を行い、検事や弁護士、判事や陪審員に扮し、弁論をこなす。そんな派手な活躍など当時の私にはとてもとても。

本書の主要キャラの中で当時の私に近い存在といえるのは、野田健一だろうか。病弱な母と仕事に不満をもらす父のもとで育った彼は、目立つことを極力避け、自己を隠すことに腐心している。しかし、野田健一のその目論みは、柏木卓也の墜死体の第一発見者となったことで破綻を来す。

中学二、三年といえば、いじめや校内暴力がつきものの年代だ。墜死体が発見されてすぐに犯罪を疑われた大出俊次は学校の番長。番長というより札付きの不良と言った方がよいか。本書を通して大出俊次は柏木卓也を殺したという疑いの目で見られ続け、そのことに人知れず傷つく。その疑いをさらに煽ったのは、三宅樹理。ひどいニキビのため皆に嫌われている彼女は、大出俊次にも手酷くいじめられていた。彼女はこの機会を利用し復讐のために友人浅井松子とともに、大出俊次と腰巾着二人による殺人の現場をみたとのチクリ手紙を学校と担任、さらには学級委員の藤野涼子宅に発送する。

藤野涼子の父藤野剛は警視庁捜査一課の刑事であり、娘宛に届いた封書の宛名書きの書体が尋常でなかったことから、娘に黙って手紙を開封する。その内容を見て学校を訪問した藤野剛は、津崎校長に捜査は捜査として、学校対応は対応として対応を委ねる。

第Ⅰ部である本書は、教育現場の危機管理についてかなり突っ込んだ問題提起がされる。結果的に津崎校長による危機回避策は全て裏目に出てしまう。しかし津崎校長が打った策は決して愚策ではない。情報公開せず、いたずらに混乱を招かないための配慮はある意味理にかなっている。本書のような子供の視点から描く物語の場合、子供の立場に迎合するあまり、学校を悪者と書いてしまいがちだ。そして情報公開こそが正しいと短絡的に学校対応を非難する。しかし、そんな単純な構図で危機管理が語れないことは言うまでもない。その点を浅く書かず、徹底的に現実的な危機管理対応として書き切った事で、本書の以降の展開が絵空事ではなくなった。そこに本書が傑作となった所以があると思う。

では、なぜ津崎校長による隠蔽に軸足を置いた危機回避策は破綻したのか。それは、三宅樹理が投函した三通のうち、担任の森内恵美子宅に届いた一通が、森内恵美子を敵視する隣人に盗まれたからだ。そしてあろうことかその隣人の垣内美奈絵はその手紙をテレビ局へと届ける。垣内美奈絵が何故そこまでの行動に及んだのか、彼女が抱える事情とそこから生まれる憎悪や敵がい心も著者は丁寧に描写する。このあたりの描写を揺るがせにしないところが、著者を当代有数の作家にしたのだろう。この点を怠ると、作者のご都合主義として読者を白けさせてしまうから。

一つの墜落死が、次々に連鎖を産む。浅井松子は謎の死を遂げ、三宅樹理は口が利けなくなり、大出俊次宅は放火で全焼し、それら事件の数々は世間の好奇の目にさらされる。そこに暗躍するのは教育のあり方や現場の事大主義を問題視し、大衆に訴えるニュースアドベンチャーの記者茂木悦男だ。垣内美奈絵の手紙が茂木のもとに渡った時点で津崎校長の危機管理策は破綻する運命にあった。その結果、学校は大いに揺れる。それぞれの家庭、少年課の刑事、学校による事態収拾の動き。著者の筆運びはとても丁寧に大人たちの右往左往を暴く。

ここに来て、墜落死という事件とその後の出来事は大人たちの都合でいい様に扱われ処理されていく。生徒たちの心の動きにはお構い無しで。もちろん大人たちも精一杯やっている。だが、そこで子供からの視点を考えるゆとりは無い。そんな風にないがしろにされて生徒達が何も思わぬはずはない。著者は生徒たちの間にじっくりと薪をくべる。そして焚きつける。メールもLINEもinstgramもない時代であっても、いや、だからこそ口伝えで生徒たちの間に不満と圧力が高まってゆく。

本書第Ⅰ部の最後で、茂木記者に呼び出され様々なことを探られ藤野涼子は殻を破る。容姿と文武の能力に恵まれ、自他共に認める優等生としての藤野涼子の殻を。それは少女から大人への殻でもあり、中学時代の私がついに脱ぐことのなかった殻である。

藤野涼子の決意によって、本書の展開は大きく前に踏み出す。

現代でも厨二病と揶揄され、当時でも軽んじられバカにされる中学生。子供と大人の境目にある中学生が、大人への成長を遂げる過程が本書では描かれる。本書第Ⅰ部は、それに相応しい藤野涼子のセリフで締められる。

「あたし、わかった。やるべきことが何なのか、やっとわかった」

私も中学時代にこの様なセリフを吐いて見たかった。

‘2016/01/20-2016/01/22