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夜更けのエントロピー


著者の名前は今までも知っていた。だが、読むのは本書が初めてかもしれない。

著者の作風は、本書から類推するにブラックな風味が混ざったSFだが、ホラーの要素も多分に感じられる。つまり、どのジャンルとも言えない内容だ。
完全な想像上の世界を作り上げるのではなく、短編の内容によっては現実世界にもモチーフを求めている。
本書で言うと2つ目の「ベトナムランド優待券」と「ドラキュラの子供たち」、そして最後の「バンコクに死す」の三編だ。これらの三編は「事実は小説より奇なり」を地で行くように、過酷な現実の世界に題材をとっている。
史実で凄惨な現実が起こった場所。そこを後年の現代人が迷い込むことで起きる現実と伝説の混在。それを描いている。
人の醜さが繰り広げられたその地に今もなお漂う後ろ暗さ。その妖気に狂わされる人の弱さを描き出す。
本書の全体に言えるのは、現実の残酷さと救いのなさだ。

本書には近未来を題材にとった作品もある。「黄泉の川が逆流する」「最後のクラス写真」の二編がそうだ。ともに現実の延長線にありそうな世界だが、SFの空想としてもありうる残酷な未来が描かれている。

残りの二編「夜更けのエントロピー」「ケリー・ダールを探して」は、過去から現代を遡った作品だ。歴史的な出来事に題材をとらず、よりパーソナルな内容に仕上がっている。

本書の全体から感じられるのは、現実こそがSFであり、ホラーであり、小説の題材であるという著者の信念だ。
だが著者は、残酷な現実に目を背けず真正面から描く。それは、事実を徹底的に見つめて初めて到達できる境地だろう。
この現実認識こそ、著者の持ち味であり、著者の作風や創作の意図が強く感じられると理解した。

以下に一編ずつ取り上げていく。

「黄泉の川が逆流する」
死者を復活させる方法が見つかった近未来の話だ。
最愛の妻を亡くした夫は、周囲からの反対を押し切り、復活主義者の手を借りて妻を墓場から蘇らせる。
だが、夫の思いに反して、よみがえった妻は生きてはいるものの感情がない。精気にも乏しく、とても愛情を持てる相手ではなくなっていた。

死者を蘇らせたことがある家族を崩壊させていく。その様子を、ブラックな筆致で描いていく。
人の生や死、有限である生のかけがえのなさを訴える本編は、誰もが憧れる永遠の生とは何かを考えさせてくれる一編だ。

「ベトナムランド優待券」
解説で訳者も触れていたが、筒井康隆氏の初期の短編に「ベトナム観光公社」がある。
ベトナム戦争の戦場となった場所を観光するブラックユーモアに満ちた一編だ。ただ、本編の方が人物もリアルな描写とともに詳しく描かれている。

日常から離れた非現実を実感するには、体験しなければならない。
観光が非日常を売る営みだとすれば、戦争も同じく格好の題材となるはずだ。

その非現実を日常として生きていたのは軍人だろう。その軍人が戦場を観光した時、現実と非現実の境目に迷い込むことは大いにありうる。
本書はブラックユーモアのはずなのに、戦場の観光を楽しむ人々にユーモアを通り越した闇の深さが感じられる。それは、著者がアメリカ人であることと関係があるはずだ。

「ドラキュラの子供たち」
冷戦崩壊の中、失墜した人物は多い。ルーマニアのチャウシェスク大統領などはその筆頭に挙げられるはず。
その栄華の跡を見学した主人公たちが見るのは、栄華の中にあって厳重な守りを固めてもなお安心できなかった権力者の孤独だ。
この辺りは、トランシルバニア、ドラキュラの故地でもある。峻烈な統治と権力者の言動を絡め、残酷な営みに訪れる結末を描いている。
正直、私はルーマニアには知識がない。そのため、本編で描かれた出来事には入り込めなかったのが残念。

「夜更けのエントロピー」
保険会社を営んでいると、多様な事件に遭遇する。
本編はそうした保険にまつわるエピソードをふんだんに盛り込みながら、ありえない出来事や、悲惨な出来事、奇妙な出来事などをちりばめる。それが実際に起こった現実の出来事であることを示しながら。
同時に、主人公とその娘が、スキーをしている描写が挿入される。

スキーの楽しみがいつ保険の必要な事故に至るのか。
そのサスペンスを読者に示し、興味をつなぎとめながら本編は進む。
各場面のつなぎ方や、興味深いエピソードの数々など、本編は本書のタイトルになるだけあって、とても興味深く面白い一編に仕上がっている。

「ケリー・ダールを探して」
著者はもともと学校の先生をやっていたらしい。
その経験の中で多くの生徒を担当してきたはずだ。その経験は、作家としてのネタになっているはず。本編はまさにその良い例だ。

ケリー・ダールという生徒に何か強い縁を感じた主人公の教師。
ケリー・ダールに強烈な印象を感じたまま、卒業した後もケリー・ダールと先生の関係は残る。
その関係が、徐々に非現実の様相を帯びてゆく。
常にどこにでもケリー・ダールに付きまとわれていく主人公。果たして現実の出来事なのかどうか。

人との関係が、本当は恐ろしいものであることを伝えている。

「最後のクラス写真」
本編は、死人が生者に襲いかかる。よくあるプロットだ。
だが、それを先生と生徒の関係に置き換えたのが素晴らしい。
本編の中で唯一、生ける存在である教師は、死んだ生徒を教えている。

死んだ生徒たちは、知能のかけらもなくそもそも目の前の刺激にしか反応しない存在だ。
そもそも彼らに何を教えるのか。何をしつけるのか。生徒たちに対する無慈悲な扱いは虐待と言っても良いほどだ。虐待する教師がなぜ生徒たちを見捨てないのか。なぜ襲いかかるゾンビたちの群れに対して単身で戦おうとするのか。
その不条理さが本編の良さだ。末尾の締めも余韻が残る。
私には本書の中で最も面白いと感じた。

「バンコクに死す」
吸血鬼の話だが、本編に登場するのは究極の吸血鬼だ。
バンコクの裏路地に巣くう吸血鬼は女性。
性技の凄まじさ。口でペニスを吸いながら、血も吸う。まさにバンパイア。

ベトナム戦争中に経験した主人公が、20数年の後にバンコクを訪れ、その時の相手だった女性を探し求める。
ベトナム戦争で死にきれなかったわが身をささげる先をようやく見つけ出す物語だ。
これも、ホラーの要素も交えた幻想的な作品だ。

‘2020/08/14-2020/08/15


オールド・テロリスト


著者は近年、近未来の日本を描くことで現代に警鐘を鳴らそうとしている。『希望の国のエクゾダス』は、中学生たちが日本に半独立国を作り上げる物語だった。本書はそのシリーズに連なっている。本書の主人公は当時、中学生を取材したジャーナリスト、セキグチ。彼がルポルタージュの執筆依頼を受けた時から本書は始まる。セキグチにルポを依頼した人物は、自らを満州国の人間と名乗り、セキグチをNHKに招く。

その指示に従ってNHKを訪れたセキグチは、若者による自爆テロに遭遇する。九死に一生を得たセキグチは、ルポをウェブマガジンに発表して世間の反応を見る。そこにさらにニュースが飛び込む。自爆犯の仲間達の自殺死体とその傍に置かれていた犯行声明が見つかったのだ。その声明は隷書体で書かれており、セキグチの捜索の糸は、駒込の書道教室へと伸びる。そこには謎めいた女性カツラギと、老人たちのコミュニティが築かれていた。そこでセキグチに託されたのは次なるテロ現場への手がかり。池上の柳橋商店街。そこでセキグチは、植栽を整えるための苅払機の刃が通行人の首を切り裂く瞬間に遭遇する。

セキグチは何かが起ころうとしている事を理解する。老人たちのコミュニティが何か大それたことを計画しているに違いない。希望を持てなくなった若者をそそのかし、自爆テロに向かわせるコミュニティー。その正体は曖昧であり、謎に包まれている。目的を完遂するため、相互の関係がわかりにくい組織を構築した。ちょうどアルカイダのような。

カツラギと親しくなったセキグチは、そのつてで精神科を営むアキヅキの知己を得る。そして老獪なアキヅキとの会話から、オールド・テロリストたちの目指す大義の一端をうかがい知る。

心療医ならではのソフトな口調を操るアキヅキ。彼が発する膨大なセリフの中に本書の肝は含まれている。その中の二つを抜粋してみたい。

「・・・・前略・・・・

老人に関して言うと、弱虫は老人にはなれないんだ。老いるということは、これが、それだけでタフだという証明なんだ。

・・・・後略・・・・」(124P)

「・・・・前略・・・・

 誰もが生き方を選べるわけではない。上位の他人の指示がなければ生きられない若者のほうが圧倒的に多く、それは太古の昔から変わらない。それなのに、現代においては、ほとんどすべての若者が、誰もが人生を選ぶことができるかのような幻想を吹き込まれながら育つ。かといって、人生を選ぶためにはどうすればいいか、誰も教えない。人生は選ぶべきものだと諭す大人たちの大半も、実際は奴隷として他人の指示にしたがって生きてきただけなので、どうすれば人生を選べるのか、何を目指すべきなのか、どんな能力が必要なのか、具体的なことは何も教えることができない。したがって、優れた頭脳を持ち、才能に目覚め、それを活かす教育環境にも恵まれ、訓練を自らに課した数パーセントの若者以外は、生き方を選ぶことなどできるわけがないし、生き方を選ぶということがどういうことなのかさえわからない。そういった若者にとって、人生は苦痛に充ちたものとならざるを得ない。苦痛だと気づいた者は病を引き寄せるし、気づかない者は、苦痛を苦痛と感じないような考え方や行動様式を覚える。同じような境遇の人間たちが作る群れに身を寄せ、真実から目を背けるのだ。

・・・・後略・・・・」(132~133P)

このセリフなど、今の日本の抱える二分化の状況を端的にあらわしている。今の若者に何が起こっているのか。私も含めた若者たちはどういう試練を課せられてきたのか。実に考えさせられる。また、最初のセリフからは、老いているから弱いという思い込みをはねつける強靭なメッセージが伝わってくる。老いるということはそれだけ長く試練に耐えてきた証拠なのだ。今の私たちが生きていること自体が、先祖たちが生き抜いてきた証であるのと同じように。

アキヅキは日本を焼け野原にするという。そして日本の原発の脆弱さを不気味に語る。さらに、謎かけのように歌舞伎町の映画館について言及する。予感を感じたセキグチは、新宿のミラノ座で「AMAOU」なるAKBやSKEの亜流グループが出る映画を見に行く。そして、そこでテロに巻き込まれる。高温で焼き尽くされた劇場からは数百人から千人に迫る規模の死者がでた。イペリットを使ったテロ。セキグチとカツラギ、そしてセキグチが出版社で机を並べていた同僚のマツノはそのテロで危うく死にかける。

そのテロこそ、コミュニティが真に牙を剥いた瞬間。そして遥かな満州国の頃から日本の奥底でうごめく策動が本格的に始動した証だった。そのコミュニティを作り上げ、満州国の生き証人である老人。明日にでも死んでしまいそうなほど衰えたその老人とセキグチは面会を果たす。そして老人から、コミュニティの中で先鋭的な手段に訴えるグループがあること、映画館のテロはそのグループが独断で行ったこと。グループの過激な行動は老人の意図を超えており、そのたくらみを止めて欲しいと頼まれる。老人から託された運動資金は十億。十億など老人にとっては単なる数字。金の流れを把握しきった老人による金の本質を突くセリフも興味深い。

セキグチとカツラギとマツノは、豊富な資金を元手にグループの計画に迫る。565ページある本書はここから、さらに紆余曲折がある。そしてその折々に重要なメッセージが読者に突き付けられる。例えば、

「わたしはあの人に興味がないし、あの人も、もちろんわたしに興味がない。ただし、だからあの人はわたしを信用しているの」

「・・・・前略・・・・

そういう人って、興味を持つ対象がいた場合、まず思うのは、とにかくこいつを殺したいってことです。

・・・・中略・・・・

彼は、どういうわけか、わたしには興味がなかったんですね。わたしのことを、殺したいやつだと思わなかったんです。だから信用されたんだと思う」(289P)

このセリフも、信用や人の関係の本質をナイフのようにえぐっている。

また、こういったセリフも登場する。

「テロの実行犯は、静かな怒りとは無縁です。衝動的に通行人をナイフで刺すような人にあるのは、甘えなんですね。もちろん、彼らにも怒りという感情はあります。ただ、静かな怒りではなく、現実が思うようにならないという幼児的な怒りです。そういう人は、甘えられる対象を常に探しています。自分をコントロールできない、また問題が何かもわかっていないし、見ようとしないし、認めようとしない。だから現実が思い通りにならないのは自分自身のせいではなく社会や他人のせいだと決めつけていて、誰かに、頼りたい、服従したい、命令されたい、そう思っているんです。今、そういう人間は社会にあふれかえっているので、探し出して、洗脳というか、誘導するのは、そうむずかしいことではないでしょう。

・・・・中略・・・・

特攻隊がなぜ美しいか、わかるか。彼らは、二十歳そこそこの若さで、国や、故郷、そして愛する人々を守るために、喜んで犠牲となった、彼らは、七十年後の今でも、尊敬され、英雄として崇められている、崇高で、偉大なものの犠牲になる、それがいかに美しく、素晴らしいかわかるか。

 そういう洗脳をされるのは、気持ちがいいものです。ある種の人たちにとっては、信じられないくらい圧倒的に気持ちがいい。自分で考える必要もないし、自分をコントロールできないと苦しんだり不安になったりする必要もない。

・・・・中略・・・・

その種の洗脳は、甘えることを当然と考える人間が多い社会において、宗教的で、恐ろしい効果を生むんです」(334-335P)

この言葉も読者にはささるはず。

著者の作品を読むといつも思わされるのは危機感の欠如だ。現実の営みがどれだけ緩やかな流れに乗っているか。仕事や家庭で忙しない国民たち。今の我が国にはある程度のセーフティネットが用意されている。それは世のぬるい流れに乗って生きることの快適さを保証してくれている。その流れに乗っていれば楽だ。楽だが、生の証を刻みつけるには、はなはだ心もとない。そもそもその様な生きざまでは、いざ有事が発生した際、まっさきに淘汰される。

むろん、老人たちにしてみても、若い頃は軍国の流れに乗らざるを得なかった。望まぬまま有事に巻き込まれ、その記憶に引きずられている。だが老人たちは今、意図して有事を作り出そうとする。ぬるま湯の日本に刺激を与えるために。

本書はこのあと結末に向かって進んでいく。その結末は書かない。本書の筋書きよりも、あちこちにちりばめられた警句めいた言葉から何かをつかみ取ることが重要だ。本書は著者からの危機感を持つように、というメッセージなのだから。

‘2018/07/07-2018/07/08


ペドロ・パラモ


本書の存在は、昨年読んだ『魔術的リアリズム』によって教えられた。『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾隆吉氏は本書の紹介にかなりのページを割き、ラテンアメリカ文学の歴史においてなぜ本書が重要かを力説していた。それだけ本書がラテンアメリカ文学を語る上で外せない作品なのだろう。それまで私は本書の存在すら知らなかった。なので、本書の和訳があればぜひ読みたいと思っていた。そこまで激賞される本書とはいかなる本なのか。そんな私の願いはすぐに叶うことになる。多摩センターの丸善で本書を見つけたのだ。しかも岩波文庫の棚だから値段も控えめ。その場で購入したことは言うまでもない。

そして本書は、2017年の冒頭を飾る一冊として私の読書履歴に加わることになった。ここ数年、新年の最初に読む本は世界文学全集が続いていた。ゆっくりと読書の時間がとれるのは新年しかないので。ところが2017年は年頭から忙しくなりそうな感じ。そのため比較的ページ数が少ない本書を選んだ。

本書は、ラテンアメリカ文学史に残る傑作とされている。だが、一度読んで理解できる小説ではない。二度、三度と読まねば理解はおぼつかないはずだ。すくなくとも私には一度目の読破では理解できなかった。

なぜなら、本書は場所と時代が頻繁に入れ替わるからだ。本書はたくさんの断章の積み重ねでできあがっている。訳者によるあとがきの解説によると七十の断章からなっているとか。そして各章のそれぞれで時代と場所を変えている。さらには話者も変わるのだ。各章が続けて同じ時代、同じ場所を語ることもあれば、ばらばらになることもある。それらは、章の冒頭で断られる事なく切り替わる。そもそも章番号すら振られていない。つまり、それぞれの章の内容や登場人物を丹念に把握しないとその断章がどの時代と場所を語っているのか迷ってしまうのだ。そのため本書を読み通すだけでも少し苦労が求められる。

読者は本書の冒頭の文で本書のタイトル『ペドロ・パラモ』の意味を知る。それはフアン・プレシアドが会おうとする自らの父の名前である。ところがすぐに読者は「ペドロ・パラモはとっくの昔に死んでるのさ」というセリフがファン・プレシアドに投げかけられる(14P)ことで困惑する。タイトルになった人物が死んでいるとはどういうことだろう、と。さらには、冒頭の断章がフアン・プレシアドの視点になっているはずなのに、フアン・プレシアドと会話している相手が、たった数ページの間に二転三転するのだ。そもそもフアン・プレシアドは誰と話しているのか。フアン・プレシアドに話しかけているのは誰なのか。読者は見失うことになる。そしてファン・プレシアドはいくつかの断章でいなくなり、別の人物の視点に物語は切り替わる。さらに、主人公であるはずのペドロ・パラモは死んでいる。その時点で誰が本書の主人公なのかわからなくなる。多分、死んでいるペドロ・パラモは主人公ではなりえない。と思ったら終盤では過去の世界の住人としてペドロ・パラモが登場する。そして、それまでの断章でも語り手が次々と切り替わるのだ。どの時代、どの場所の人物の視点で物語が語られているのか、わからなくなる。もはや誰が主人公なのか、読者は著者の仕掛けた世界に惑わされてゆくばかりだ。

本書が読みにくい理由はその外にもある。それぞれの場所や時代ごとに目を引くような比喩や表現による書き分けがないのだ。印象に残るエピソードが現れないので、記憶に残りにくい。それぞれの場所と時間ごとのエピソードに関係が付けにくいのだ。そして、全体的なトーンは暗めだ。前向きな展開でもない。その上、登場人物たちの発するセリフは微妙に食い違う。それらは読者に釈然としない感じを抱かせる。誰が誰に語っているのかもはっきりしないセリフが次々と積み重なり、読者の脳に処理されずに溜まってゆく。明らかに過去からの亡霊と思われるセリフが違う書体で随所に挟まれる。セリフとセリフの間には、話者の間にコミュニケーションがなりたっている。が、それはある瞬間でブツリと途切れてしまうのだ。そして何事もなかったかのように次の断章に繋がってゆく。本書を読むだけでもとても難儀するはずだ。

だが、そういったもやもやは、本書を読み終えた時点でかなり解消されるだろう。なぜこれほどまでに曖昧な印象を受けるのか。その理由を読者が知るのは、本書を読み終え、本書の構造を理解してからとなる。その時、読者は知る。なぜ、本書の登場人物の話す言葉や視線がぼやけているのか。なぜ、頻繁に死を示すことばや比喩が登場するのかを。

本書が込み入っているのは時間と場所だけではない。生者と死者の関係も同じように込み入っているのだ。普通に話している相手が実は死者であり、さらには断章の主人公さえも死者である物語。死者と生者が混在する世界。死者ゆえに時間を超越する。死者故に空間を飛び越えて遍在できる。そのため、本書は複雑なのだ。何次元もの層が複雑に折り重なっている。そしてわかりにくい。

また、もう一つ。本書を分かりにくくしている要素がある。それは構造だ。本書が70の断章で成り立っていることは上に書いたが、全体の行動がループしているのだ。それも本書をわかりにくくしている。本書の終わりが本書のはじまりにつながるのだ。つまり、終わりまで読んでようやく本書の始まりの意味に気づく仕掛けになっている。上に書いたとおり本書を2度、3度読まねば理解したといえない理由はここにある。

『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾氏は本書の円環構造を、このように書いている。
「円環構造の真の意義は作品の基調となる非日常的視点を内部に自己生産するところにある」(92P)、と。

ここでいう自己生産とは登場人物による会話が、次の展開を呼ぶことを意味する。先にも書いたとおり、本書は断章のセリフが次の断章を呼び出している。だから本書の主人公は誰でもよいのだ。死者でもよいし、過去の住人でもよい。会話だけが主人公のいない本書に一貫して流れ続ける。そう考えると『ペドロ・パラモ』とは主人公をさすタイトルではない。どんな呼び方でも構わないと思える。ところが本書のあとがきの訳者の解説ではペドロ・パラモにも意味があることを教えられるのだ。ペドロが石、パラモは荒れ地。ということはペドロ・パラモを求める意図とは、「荒れ地の石」をもとめる旅にもつながる。だからこそ本書はつかみどころがない。登場する人々は死に、あらゆるものが読者にあいまいな世界。目的が荒れ地の石なのだから当然だ。その意味ではペドロ・パラモは主人公ではなく、本書の存在そのものかもしれない。

本書が荒れ地の石なのであれば、読者はそもそも何を求めて本書を読めばよいのだろう。それは読者もまた死ぬという絶対的な真実を突きつけるためなのか。もしそうだとすれば、個人にとって救いがない。だが、本書はもう一つ世のならいとは堂々めぐりにあることも示している。それは種族としての希望として考えられないだろうか。たとえ個人の営みはむなしく虚になることがわかっていても、種族は未来に向けて延々と円を描き続けていく。そこに読者は希望を見いだせないだろうか。本書を読む意味とは円環の仕組みにこそあるのかもしれない。

訳者はこう書いている。「断片と断片をつなぐ伏線の中に、うっかりして見落としてしまいそうなものもたくさんある。読み返して、ふと気づいたりするのだが、こんな目立たぬところにもこういう仕掛けがあったのかと驚くと同時に、作品の隅々にいたるまでの精緻な構築にあらためて感嘆の声をあげてしまいそうになる。」(217P)

原書と日本語訳を何度も読み返したはずの訳者にしてこのような感慨を持つぐらいだ。私など本書の仕掛けのほんの一部しか知らないに違いない。なにしろまだ一度しか読んでいないのだから。だからこそ必ずや本書は読み直し、理解できるように努めたいと思う。

‘2017/01/01-2017/01/09


屍者の帝国


本書は読書人の間で話題になっていた。

屍者が動く世界。
主役はホームズの相手役であるワトソン。
途中で著者の伊藤計劃氏が死去され、途中から盟友の円城塔氏が後を引き継ぎ完成。

本書のこの様な特徴は、話題に持ってこいだ。私も本書の評判は聞いていて一度読みたいと思っていた。

そもそも、伊藤計劃氏の著書はまだ読んだ事がなく本書が初めて。ただ、未読ではあったものの、伊藤計劃氏の作品が取り上げられた書評は目にしていた。それを読んで伊藤氏のことをSF作家と認識していた。実際、本書を読んでみて印象に残ったのもSFを思わせるような世界観だ。だが、本書の著者は上に書いたとおり途中で交替している。どこまでが伊藤氏の筆によって書かれ、どこからが円城氏の執筆部分なのか。私は本書を読みながらその事がずっと気になっていた。その答えは末尾のあとがきに書かれていた。それによると伊藤氏が担当したのはプロローグだけらしい。つまり、伊藤氏はプロローグによる世界観を構築したのみ。内容のほとんどは円城氏によって書かれたということだ。円城氏の作風も文学の極北を目指すような実験性に溢れているが、SF的なところも多分にある。だから円城氏も書き継げたのだろう。だが、それによって伊藤氏が本書に与えた貢献が薄れることはない。本書の特色は伊藤氏が作りあげた世界観にあるのだから。

なにしろ、死者が動く世界だ。しかもゾンビやグールのようなファンタジー世界の住人ではなく、科学技術にのっとって死者を動かすという設定が奇抜だ。そして時代設定を近未来でなく過去としているのもよい。

なぜかというと、今の私たちは死者を動かす技術を持っていないからだ。私たちを支配する倫理観は、死者を動かす行いを無意識に拒むように仕向けている。死者自体を忌避するような検閲が働いてしまうのだ。なので、本書の舞台を近未来に設定することは難しい。なぜなら、今の倫理観の延長上に死者を動かす技術を成立させることになるからだ。それは読者にとって抵抗を感じることだ。それを回避するため、伊藤氏は時代を過去に設定したのではないか。それによって、本書の世界観は私たちにとってなじみ深くなるが、実際は別の世界の物語として構成されるのだ。

読者は本書の物語が別世界に展開する物語と了解しつつ本書の世界観を受け入れる。倫理観の抵抗に遭うことなく。屍者を蘇らせ、心を持たないロボットの様に自在に使役する。読者はそんな世界観に馴染みつつ、倫理観の抵抗を感じることもない。伊藤氏が作りあげたのは、そのような世界観だ。

屍者が違和感なく街中を歩き、軍隊にあっては忠実な兵士として命を顧みず突っ込んでいく。ワトソン氏が住むのはそのような世界だ。ワトソン氏はその優秀さゆえ、ある機関に雇われることになる。ある機関は、医者の免許をワトソン氏のために用立て、世界各国へと任務で赴かせる。その任務とは、屍者を多数配下におき、自在に使役する謎の組織の調査。

ネクロウェアと呼ばれる屍者の操縦技術。本書の19世紀末では、この様な技術が発明されおおっぴらに使用されている。ネクロウェアがあっての屍者文化だ。だが、ネクロウェアは万人に広く公開されている技術ではない。しかし、実際に大量に屍者を扱っている組織がいる。そればかりかその組織は屍者に新たな能力を吹き込む技術を開発し、それで死者をより複雑に操っているふしがある。

SFの世界でよく知られているのは、アイザック・アシモフによるロボット三原則だ。本書にはその三原則に似た別の三原則が登場する。名づけてフランケンシュタイン三原則。提唱者はフローレンス・ナイチンゲール。
一、生者と区別のつかない屍者の製造はこれを禁じる。
二、生者の能力を超えた屍者の製造はこれを禁じる。
三、生者への霊素の書き込みはこれを禁じる。

そのような原則を踏まえてワトソン氏がまず訪れたのはボンベイ。大英帝国の植民地インドにあって有数の都会。ここでバーナビーという武闘派パートナーとタッグを組むことになる。

基礎調査を終えた二人が向かったのは中央アジア。今でいうアフガニスタンにあたる。ここで二人に相対するのは、アレクセイ・カラマーゾフ。いうまでもなく『カラマーゾフの兄弟』の三男である。学究肌の控えめな人物アリョーシャとして世界文学史上でも著名なキャラクターだが、本書においては「ザ・ワン」の遺志を継ぎ、屍者の秘密を探る人物として登場する。

「ザ・ワン」とは、屍者を操作する技術を発見した人物である。というよりも屍者を創り上げる技術を発見した人物といえば分かりやすい。「ザ・ワン」が創造した屍者こそ、あのフランケンシュタインなのだから。上に挙げた三原則でも名前が登場するフランケンシュタインだ。

本書は虚構の世界が舞台である。著者はそれを最大限に利用し、虚構の世界の他の住人たちを自在に登場させ、本書の世界を華やかな物にしている。後の世の私たちのよく知る人物が数多く登場するのも本書の面白さといえる。

本書はワトソン氏をさらに異境へといざなう。それは日本。文明開化真っ只中の、いまだに西洋人を指して異人やメリケンさんと呼ぶ時代の日本である。そこにさらに屍者まで乱入させてしまうのだから、著者もまったくいい度胸をしている。幕末ならいざ知らず、和洋がぎこちない形で混じわっていた明治初期は、小説でもあまり読んだことがない。だが、著者は本書は外遊中に日本を訪れていたグラント米国元大統領と明治天皇の会見の場を、あろうことか屍者からなる軍勢に襲わせている。ワトソン氏の波乱万丈な旅行もそうだが、著者のプロットも相当冒険だ。ただでさえ描くのが難しい時代と場所なのに米国元大統領と天皇の会見の場を屍者に蹂躙させるのだから。でもここまでぶっ飛んだ設定だとかえってすがすがしく思えてしまう。

円城氏の著作を読むのはは「これはペンです」に続いて久々だが、どちらかといえば理論に裏打ちされた冷徹な文体が記憶に残っている。本書で目立つのは断定調の「〜る」を多く用いた文体だ。その筆致は、屍者という冷えたクリーチャーが登場する本書にあって疾走感を与える効果を発揮している。そもそも本書の文体は冷徹を通り越し、全体が冷えている。それは、冷えた死者が動き回る本書の世界観にふさわしい。冒険小説を思わせる波乱万丈な筋書きで血沸き肉踊る戦闘シーンもふんだんに用意されているのに、これほどまでに熱量が感じられない小説はなかなかない。それは読む人にとっては違和感を感じるかもしれない。だが、それが逆に本書に印象的な読後感を与えている。むしろ、死者がうごめく本書にあって、冷えていないほうがおかしいと思えるほどに。

だが熱量の点を抜きにしても、本書は生と死の境目がどこか、という深遠なテーマを追求しておりとても興味深い。意思を持たず操られていればそれは屍者なのか。果たして意思とはどこにあるのか。どこまでが自由意志なのか。自由意志があったとしてそれをどこまで発揮できているのか。

フランケンシュタイン三原則にある、生者への霊素の書き込み。これこそは、ネクロウェアを使って生者を屍者として扱う技術。ある組織とワトソン氏が追い求める本書の核心でもある。ここに至り、生者と屍者の区別は融けて無くなる。

生と死を区別する無意識の判断。著者はこの点を執拗に揺さぶる。読者は本書を読み進めるうちに、自らの価値観が揺さぶられることに気づくはずだ。果たして自分たちが生きていると断言できる根拠はどこにあるのか、と。

SFというジャンルが近未来の世界を借りて、人間の常識や概念を揺さぶることにあるとすれば、本書は過去の時間軸を借りて哲学的なまでに死生の境目を追い求めた作品といえる。円城氏恐るべしである。そして、この世界観を構想した伊藤氏もまた同じ。夭折が惜しまれる。私も伊藤氏の作品を読んでみなくては。そう思った。

‘2016/01/31-2016/02/10