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我、六道を懼れず―真田昌幸連戦記


2016年の大河ドラマは真田丸。私にとって20年ぶりに観た大河ドラマとなった。普段テレビを観ない私にしてはかなり頑張ったと思う。本書を読み始めたのは第4回「挑戦」を観た後。そして本稿は第8回「謀略」の放映翌朝に書きはじめた。

真田丸の主役は堺雅人さんが演ずる真田信繁(幸村)だ。これは間違いないだろう。ところが、本稿に手をつけた時点で私が印象を受けたのは草刈正雄さん演ずる真田昌幸だ。その存在感は真田丸の登場人物の中でも群を抜いている。あまりテレビを観ない私にとって、草刈正雄さんの演技を初めてまともに観たのが真田丸だ。その演技はもはや名演と呼べるのではないか。かの太閤秀吉に表裏比興の者と呼ばれ、家康を恐れさせた謀将昌幸。草薙さんは老獪な武将と語り継がれる昌幸を見事に演じている。

第4回と第8回は、両方とも謀略家昌幸の本領が前面に押し出された回だった。その時期、真田家は武田家滅亡後の空白を乗り切るため、あらゆる策を講じねばならなかった。弱小領主である真田家を守り抜くため、時には卑劣と言われようと、表裏の者と言われようと一族を守らんとしたのが、昌幸ではなかったか。昌幸が知恵を絞った甲斐あって真田家は戦国から幕末までお家を存続できた。泉下の昌幸にとって満足な結果だったのではないだろうか。

昌幸は謀略の分野で才能を発揮した。しかし、それと本人の人格とは別の話。後世から策士と評される昌幸とて、生まれながらの謀略家だった訳ではない。

本書には、謀略を知らぬ前の純粋で無垢な昌幸が息づいている。

本書は昌幸が源五郎という幼名で呼ばれていた7歳の頃から始まる。

7歳といえばまだ母の温もりが必要な時期。そんな時期に源五郎は父から武田晴信、すなわち後の信玄の小姓となることを命ぜられる。要は人質である。源五郎は到着して早々、新たな主君とのお目見えの場で近習に取り立てられる。7歳にしてそのような重荷を背負わされた源五郎も気の毒だが、7歳の童子に大成の器を見極めた晴信の人物眼もまた見事。

幼くして鍛錬の場に置かれた源五郎は、信玄の弟典厩信繁に目をかけられ成長を遂げていく。そして信玄の近習として側に仕えながら、薫陶を受けることになる。生活を共にし、戦略を練る姿に親しく接する。その経験は源五郎の素養を確かに育んで行く。そして将来の昌幸を間違いなく救うことになる。機転や頭脳の働かせ方、策の練り方活かし方。活きた見本が信玄だったことは昌幸にとっての僥倖だったに違いない。

元服し、源五郎から昌幸となってすぐ迎えたのが、かの川中島合戦。しかも初陣となったのは、本邦の合戦史でも五指に入るであろう第四次合戦だ。信玄と謙信の両雄一騎討ちがあったとされ、世に知られている。

著者には、第四次川中島合戦を描いた「天佑、我にあり」という作品がある。合戦に至るまでの息詰まる駆け引きから合戦シーンまで、傑作と呼ぶ以外ない一冊だ。「天佑、我にあり」は近くの山から合戦の一部始終を見届ける設定の天海僧正の視点で語られる。だが、本書で語られる第四次合戦は昌幸の視点によって語られる。同じ合戦を同じ著者が描いているのだが、視点を変えているため読んでいて既読感を感じなかった。著者の筆力が一際抜きんでいることの証拠だろう。

第四次合戦において有名な一騎打ちとは大将同士によるそれだ。だが、同じ合戦では武田典厩信繁と柿崎景家との一騎討ちも見逃せない。「天佑、我にあり」で詳細に語られるその一騎打ちの場面は、何度読み返しても魂が震える。本書は昌幸の視点で描かれているため、二人の一騎打ちは描かれない。だが、信繁に目を掛けられ、育てられた昌幸が信繁の亡骸に昌幸が取りすがって号泣する姿は、本書において白眉のシーンだといえる。

また、「天佑、我にあり」では信玄と謙信の一騎打ちも読み応えのある場面だ。そして信玄近習である昌幸は、両雄の間を刹那飛び交った火花の目撃者でもある。昌幸が目撃した両雄の一騎打ちは、「天佑、我にあり」とは違った形で描かれており本書の山場の一つとなっている。

初陣にして己の価値を見出してくれた人物の死に直面した昌幸は、武将の成長をして大人となる。そして、信玄になくてはならぬ側近となってゆくのである。本書は戦国屈指の謀将真田昌幸の成長譚であり、ずっしりとした読み応えが読者に返ってくる。

川中島合戦が収束しても昌幸の身辺は慌ただしい。松という伴侶を得て身を固めたかと思えば、武田家中を襲う謀反劇の直中に巻き込まれる。

桶狭間で主が織田信長に討ち取られてから衰退著しい今川家。信玄嫡男の義信は、その今川義元の娘を正室に迎えている。そして信玄の冷徹な脳裏には今川家を見限り、その替わりに昇り調子の織田家との外交関係を結ぶ戦略が編まれていた。それに反発して実力行使で主君を諫めようとする義信一派。その中には昌幸が幼き頃から共に近習として武田家に仕えた仲間もいた。幼き日からともに学んだ仲間と刀を交える苦味。その中にあって信玄への忠義を揺るがせにしなかった昌幸は、ますます信玄の信頼を得ることとなる。無垢な昌幸は、仲間の死を通して戦国の世の習いを一つ身につける。

武田家に内紛の余韻漂う中、武田家は北条家と戦端を開く。北条家の本拠地小田原を攻め、帰路に三増峠で北条軍と戦う。ここで昌幸は、北条軍にあって武名を馳せる北条綱成と何合か打ち合わせる機会を持つ。本書には昌幸の武士の矜持を持った一面がきっちりと描かれている。謀略家のイメージばかりが取り沙汰される昌幸は歴とした武士だった。著者の視点はそのことにしっかり行き届いており好感が持てる。

関東遠征を経たことで昌幸への信玄からの信頼は一層篤くなる。そして昌幸は信玄の身辺を任されるようになる。寝室や厠近くに侍るようになった昌幸が目撃したのは、咳き込んだ信玄と口からの喀血。その病は後に天下獲り間近の信玄を道半ばで倒すことになる。己に残された時間がもはや少ない事を悟った信玄は、ついに上洛へと乗り出す。

敵の本拠地駿河に進軍してからも徳川軍をやすやすとひねる武田軍。家康にとって終生胆を冷やさせることになる三方ヶ原の敗戦も、信玄にとっては余技のごとく書かれている。事実、当時の戦国最強との呼び声高い武田軍にとっては徳川軍など鎧袖一触。敵役にもならなかったほど弱かったのだろう。しかし徳川家にも武辺者はいた。それは本多忠勝である。昌幸はこの戦場で本多忠勝と相まみえることになる。ここでも若き昌幸は謀将ではなくもののふの姿で描かれている。本書において、昌幸はまぎれもない武将である。それも戦国最強の武田軍の中にあって首尾一貫して。

しかし、武運は信玄に味方しなかった。朝倉軍が織田包囲網から離脱し、信玄の描いた戦略に綻びが生じる。それと時を同じくして信玄に巣食う病が重くなる。信玄は昌幸を含めたわずかな家臣を呼んで別れを告げ世を去る。

昌幸の元に遺されたのは碁盤と碁石のみ。病が急変する前、昌幸は信玄と一局打つ機会を得る。六連銭の形におかれた置石から始まった一局で、それまで一度も勝てなかったのに、持碁、つまり引き分けに持ち込む。その遺品は、図らずも己の軍略を伝えようとした信玄の意志そのもののよう。いうなれば、信玄流軍略の一番弟子の形見に碁盤を託された形となる。これまた、本書の中でも印象の深い場面である。

いよいよ本書は最終章にはいる。長篠の戦いである。昌幸には二人の兄がおり、ともに侍大将の立場で武田軍の重鎮となっていた。が、信長軍の鉄砲戦術に二人の兄を始め、主だった武将が餌食となり、戦場に命を散らす。

昌幸が眼にしたのは惨々たる戦場の様子。死体があたりを埋め、血の匂いが立ち込める。その景色は川中島の戦いのそれを思い起こさせる。信繁の死んだ川中島の戦場の様子が兄二人を亡くしたそれと重なり、昌幸の脳裏を憤怒で染める。無垢で純粋だった昌幸が絶望と悲憤の中で殻を脱ぎ捨てる瞬間である。

戦い済んで甲斐に帰った昌幸は、名乗っていた武藤の姓を返上する。そして真田昌幸を名乗る。父も兄たちも居なくなった今、真田家を継ぐのは昌幸しかいなくなったからだ。そして、昌幸の胸にはただ怒りだけが満ちている。それは、長篠の戦いを敗戦へと導いた者たちへの怒りだ。長坂、跡部といった武田家の重臣たち。彼らは武田家を長篠の戦いに導いた。そして自らは後衛に回って戦況をただ見ているだけだった。昌幸の怒りはそのような者を重用し続ける新たな主君勝頼にも向かう。武田家を見限り、真田家のことを考え始める内なる声が昌幸の中でこだまする。

昌幸の叫びは、もはや無垢な青年のそれではない。哀しみや世の無情、真田家を背負う重責を担った漢の叫びである。それが以下の本書を締める三つの文に集約されている。

人には大切なものを失わなければわからない本物の痛みというものがある。そして、失う痛みを乗り越えることでしか見えない地平というものがある。
それに気づいた時が、まさに、その人の立志の時だった。
痛恨の敗戦を経て、昌幸は真田の惣領を襲名する決意を固め、深まりゆく乱世に翻弄される己の運命と真正面から向き合おうとしていた。

(第一部完)

真田丸でみせる老獪な真田昌幸は、本書に続く第二部でこそ花開くのだろう。しかし、謀略を駆使する昌幸の背景には、本書で描かれたような信玄の薫陶や、度重なる戦いで身につけざるを得なかった憤怒があることを忘れてはならない。草刈正雄さんが本書を読んだかどうかは知らない。脚本を書いた三谷幸喜さんが本書を参考にしたかどうかも知らない。でも、視聴者は昌幸の過去に通り一遍でない人生の起伏があったことを知っておくべきだと思う。草刈昌幸を単に腹黒く人の食えぬ親父と見るだけでは彼の真の凄みは味わえない。そこには振幅の激しい人生に鍛えられた一人の男がいる。そう見直してみるとまた違う姿が見えてくるはずだ。真田丸を見ていると、息子信繁(幸村)の名が川中島で討ち死にした武田典厩信繁の名にあやかっていることや、本多忠勝の娘小松姫が長男信之の正室になるなど、若かりしころの昌幸の出会いが真田家のその後に重要な布石となっていることに気づく。

と、こんな偉そうなことを書いている割に、私は結局真田丸を全て観ることは出来なかった。第16回「表裏」あたりまでは、車内で観たりオンデマンドで観たりと観るための努力を続けていたが、それ以降は仕事が忙しく断念した。無念だ。でも、本書の続編第二部は是非読みたいと思っている。そして真田丸全編も必ず観るつもりである。

‘2016/02/16-2016/02/18


天佑、我にあり


真田幸村を書いた「華、散りゆけど 真田幸村 連戦紀」を読んだのは一年前。その時に著者を知ってからまだ一年経っていない。九度山蟄居の日々から大阪夏の陣での真田幸村の見事な散り様が描かれた傑作であった。だが、構成のバランスに少々ムラがあったように見えたのが残念だった。

上記の本を読んだ際、家族でしなの鉄道の「ろくもん」に乗車したタイミングだったことはレビューに書いた。長野から軽井沢までを走るろくもん。その沿線には数々の風趣に溢れた観光地が点在している。中でも川中島の合戦場は屈指のスポットと言えるだろう。だが、私はまだ川中島古戦場を訪れたことがない。

そこにきて本書を見かけ、図書館で借りてみた。するとどうだろう。上記の本で見られたバランスの欠如が、本書では見事に拭い去られているではないか。拭い去られているどころか、一部の隙もないといってよい。本書は私が読んだ時代小説の中で十指に数えられる一冊だといえる。

私の知識によると、川中島の戦いは五度にわたって戦われた。中でも第四次のそれは、山本勘助によるきつつきの献策や、信玄公と謙信公が刀と軍配で相見えた挿話でも知られている。

本書はその第四次の戦いにのみ焦点を当てている。

本書の語り手は天海和尚。江戸幕府初期の頃、大僧正として数々の施策に関わったことで名高い。長命な天海和尚はまた、十代の頃、第四次の川中島の戦いを山の上から見届けたという伝説を持っている。本書は、天海和尚の晩年、江戸城において徳川二代将軍秀忠、三代家光の両者より江戸幕府が採るべき軍学が甲州流、越後流のどちらであるかを下問される場面で始まる。それに応じ、両方の軍学を引き合いに出す上で、天海和尚が見聞した川中島の戦いを昔語りに語るという構成となっている。

若き天海和尚が、謎の白面の青年とともに戦を山の上から見届けるという設定。その白面の青年は偵察で相模から直々にやってきた風魔小太郎。という設定は突飛なものに見えるが、さもありなんと思わされるだけの説得力を持っている。

また、信玄公と謙信公の書き込みも入念だ。信玄公については、幼少期から父信虎に遠ざけられた忍従の日々、そして父信虎追放に至る背景がきっちりと精緻に描かれている。その結果、信虎の暴政に危機感を募らせた武田家宿将達によって持ち上げられ、国境に戻ってきた父信虎を駿河へと追い返すことになる。武田家について書かれた小説は何冊か読んできたが、本書ほどこの父子相克の場面を描き切った小説はないのではないか。それは謙信公も同じ。長尾家にあって天室光育を師とした修行の日々が描かれている。後年、謙信女説が生まれたほどの女犯を遠ざけたストイックさ、毘沙門天を背負っての軍神とまで言われるその背景に、天室光育の薫陶があったことがきっちりと描かれている。そして著者は、民を養うために国を富ませ、他国を奪うことに正義を見出す信玄公と、己の信義に従い、道理を友とし、攻められれば受けて立つ謙信公の戦に対する違いをも鮮やかに描き出す。

著者はそれゆえに両者の対立が、単に信濃の領有をめぐってではなく、天佑の争いであると定義する。これは序章で天海和尚が語る言葉にすでに表れている。

「では、信玄公と謙信公は、いったい何を競うために鎬を削ったのでござりましょうや」三代家光の下問に対し、天海和尚はこう答える。「天佑の貫目、ではないかと」。またこうもいう。「天運は生まれながらにして人の生に宿る決まり事で、寿命などをはじめとするものにござりまするが、天佑はその人の才や努力の上に積み上げられていくものにござりまする」と。

第四次の戦いは、香坂昌信の籠る海津城の目の前を横切るように、上杉軍が妻女山へと布陣することで幕を開ける。戦の定石を外した意表を突く布陣に、狐に摘まれた様な武田軍。おっとり刀で甲斐から進軍した信玄は茶臼山に登り、盆地を挟んで上杉軍と対峙する。碁の用語である真似碁のように睨み合う両者。その膠着状態に耐えかね、武田家謀将山本勘助が軍議である策を提案する。それは、背後から妻女山を衝く、キツツキ戦法。軍議の末、その案は容れられ、武田軍は動き出す。そしてそれは謙信公にとって思う壺であった。

戦は動き、軍勢を二手に分けた武田軍は、険しい山を背後を衝くために移動する。そして、それを予期した上杉軍は、半分となった敵勢力を渦を描きつつトグロを巻く龍蜷の陣で待ち受ける。上杉軍の半分に満たない武田軍が、上杉軍の本隊に襲い掛かられる。その危機を察した信玄公の弟信繁は、圧倒的不利な状況に戦慄しながらも武田軍を身を挺して守るため、上杉軍の名将柿崎景家との一騎打ちにまで持ち込む。

この柿崎景家と武田信繁の一騎打ちの場面は、本書のクライマックスといってもよい。そのぐらい素晴らしい。闘いの気の流れ、体術の冴え、戦地の駆け引き、そして真に相手を強敵と認めた男たちにだけに通い合う闘気。これらが凛として文に満ちわたる様は、私を恍惚とさせた。私にとってこの場面は、今まで読んだすべての小説の一騎打ち場面で筆頭と推したい。それほど魅了された。闘いも見事ならば、破れた信繁と勝った景家が互いに名乗りを挙げる様、景家が止めを刺す場面もまた見事。

戦局は、もぬけの殻となった妻女山へ向かった武田軍の半隊が戦場に遅れて合流し、武田家がぎりぎりのところで巻き返す。ここまでの戦いで十中八九負けを覚悟した信玄公が、ぎりぎり胆を据わらせ、腰を構えたことで運気を武田家に引き寄せる。その場面の心の動きも、戦国時代きっての戦上手と言われた信玄公の凄味を良く著している。

謙信公は、武田家の別働隊が合流するまでの間に武田軍を殲滅できなかったことで、勝機が自らの手から逃れ去りつつあることを悟る。そして、その期に及んで、乾坤一擲の策を打つ。そのためにも、謙信公は戦いの序盤から、自らの特徴的な装束を着せた武者多数を戦の中に放つ布石を打っていた。すなわち攪乱策。そして最後の一手は武田軍本陣への謙信公自らの単騎討ち入り。信玄公に肉薄した謙信公の刃は、紙一重で信玄公の喉をかすめる。

「-されど、余は生き残っている。天が、・・・天が余命を与えてくれたのか!?」

余りに一瞬の交錯。両雄の日本史に残る一騎打ちは、本書では2ページでまとめられている。が、上に描いた信玄公の独白が全て。優れた描写の多い本書において、この場面も繰り返し読むに耐える場面である。それでも尚、私としては、柿崎景家と武田信繁の一騎打ちの場面に軍配を上げたい。

終章、天海和尚は三代家光に問われる。本当に一騎打ちはあったのか、と。信玄公と旧知の天海和尚は、戦の後、養生中の信玄公を訪ねて一騎打ちの真相を問うた、と伝承にある。そして信玄公の答えはなかった、と。しかし天海和尚は云う。あの戦い全体が両雄の一騎打ちのようなものではなかったか、と。そしてその戦いののち、両雄の間には義縁が生まれたのではないかと。川中島の戦い後、戦場で勝鬨を挙げたのは武田軍で、両軍問わずに死者を弔っている。それを意気に感じた謙信公は、有名な敵に塩を送るの故事を実行し、塩の欠乏に困る武田軍に塩を送っている。また、信玄公は死の直前、後継ぎの勝頼公に、何かあったら越後を頼れとの遺言を残している。

結果、天海和尚は徳川将軍に、軍学として甲州流を採用することを進言する。越後流は、天才の孤高の戦術であり、多数の民を収める江戸幕府にはふさわしくない、と。ここで、我々読者は悟るのである。江戸時代と戦国時代の本質的な違いに。そして、この裁定をもって両雄の優劣を問うこともまた、無意味なことに。

初めからしまいまで、一部の隙もない刃に追い立てられるように、一気に読み終えられるのが本書である。

‘2015/10/12-2015/10/17