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坂の上の雲(三)


ロシアの南下の圧力は、日本の政府や軍に改革を促す。
そんな海軍の中で異彩を放ちつつあったのが秋山真之だ。彼は一心不乱に戦術の研究に励んだ。米西戦争の観戦でアメリカに行っていた間もたゆまずに。つちかった見識の一端は米西戦争のレポートという形で上層部の目にとまり、彼は海軍大学校の戦術教官に抜擢される。

そんな真之が子規に会ったのは子規の死の一カ月前のこと。
子規は死を受け入れ、苦痛に呻きながらもなお俳句と短歌革新の意志を捨てずにいた。
その激烈な意志は、たとえ寝たままであっても戦う男のそれだ。

本書はこの後、日露戦争に入ってゆく。そこで秋山兄弟は、文字通り日本を救う活躍を示して行く。
日露戦争は本書の中で大きな割合を占めており、秋山兄弟もそこで存在感を発揮する。では、三巻で退場してしまう子規とは、本書にとって何だったのか。

まず言えるのは、秋山兄弟と同じ時代の同郷であったことだろう。
賊軍の汚名を着た松山藩から、明治を代表する人物として飛躍したのがこの三人だったこと。
それは、薩長土肥だけが幅を利かせたと思われがちな明治の日本にも骨のある人物がいた表れだ。
著者はこの三人に焦点を当てることで、不利な立場を努力で有利に変えた明治の意志を体現させたのだろう。

次に言えるのは、秋山真之という日本史上でも屈指の戦術家の若き日の友人が子規だったことだ。
秋山真之が神がかった作戦を示し、日本海軍を世界でも例を見ない大勝へと導く。
そのような人物がどうやって育ったかを描くにあたり、正岡子規の存在を抜きにしては語れない。
正岡子規に感化され、文学を志した秋山真之が、軍人としての道を選ぶ。その生き方の変化は正岡子規との交流を描いてこそ、より幅が出てくるはずだ。

最後に言えるのは、本書が書き出したいのが明治という時代の精神ということだ。
果たして明治とは何だったのか。それを表すのに子規の革新を志し続けた精神が欠かせない。そうとらえても間違いではないと思う。
今の世の私たちは、結果でしか明治をみない。だから封建の風潮に固まっていた江戸幕府が、どうやって近代化できたかという努力を軽く見てしまう。実はそこには旧弊を排する勇気と、逆境を顧みず、新しい風を吹かせようとする覚悟があったはずだ。
正岡子規の起こした俳諧と短歌の変革にはそれだけのインパクトがあり、明治が革新の自体であったことを示すのにふさわしい人物だった。

著者は子規が死んだ後、稿をあらためるにあたってこのような一文から書き出している。
「この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる。」(39P)
つまり、三人を軸に書き始めた小説の鼎が欠けた。だから主人公以外の人物をも取り上げねばならない、という著者から読者への宣言だ。
ここで登場するのが山本権兵衛である。日本の海軍史を語る際、絶対に欠かせない人物だ。

山本権兵衛が西郷従道海軍大臣のもとで行った改革こそ、日本の海軍力を飛躍的に高めた。それに異論を唱える人はそういないだろう。
その結果、日清戦争では清の北洋艦隊をやすやすと破り、日露戦争にもその伝統が生かされ、世界を驚かせる大勝に結びついた。
本書は太平洋戦争で日本が破滅したことにも幾度も触れる。そして陸海両軍の精神の風土がどれほど違うかにも触れる。その差が生じた理由にはさまざまに挙げられるだろう。そして、山本権兵衛が戊辰戦争から軍にいた能力の足りない海軍軍人を大量に放逐した改革が、海軍の組織の質に大きく影響を与えたことは間違いない。

その結果、海軍からは旧い知識しか持たない軍人が一掃された。
それは操艦の練度につながり、最新の艦船の導入を可能にした。
日露戦争の直前には、舞鶴鎮守府長官の閑職に追いやられていた東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したのも山本権兵衛だ。

山本権兵衛こそは海軍の建設者。それも世界でも類をみないほどの、と著者は賛美を惜しまない。
そして、それをなし得たのは西郷従道という大人物の後ろ盾があったからこそだ。
陸軍の大山巌も本書では何度も登場するが、維新当時を知る人物が重しになっていたことも日本にとって幸いだったことを著者は指摘する。

この時期、軍に対して発言力を持つ政治家は多くいた。元老である。
彼らは軍の視点だけでなく国際政治の視野も持ち、日本を導いていった。

その彼らが制御できなかったのが、ロシアの極東への野心だ。
野心はたぎらせているが、戦争の意志はないとうそぶくロシアと繰り広げる外交戦。年々きな臭くなってゆくシベリアと満州のロシア軍基地を視察の名目で堂々と巡回する秋山好古。本書では明石元二郎も登場し、諜報戦をロシアに仕掛けて行く。
ロシアが高をくくるのはもっともで、日本は日清戦争で戦費も底ををつき、軍隊も軍備もロシアのそれには到底届いていない。

戦時予算を国庫から出させるため、西郷従道と山本権兵衛は財界の大物澁澤栄一に訴える。どれだけロシアの脅威が迫っているか。日本の存亡がどれだけ危ういかを。その熱意は澁澤栄一や高橋是清を動かす。さらにユダヤ人を迫害する帝政ロシアへの脅威を感じたユダヤ人財閥からの寄付を受けることにも成功する。その後ろ盾を得て、法外な戦時予算を確保する。

明治三十七年二月十日。日本がロシアに宣戦布告した日だ。
ここから著者は日露戦争の描写に専念する。 旅順港を封鎖し、ロシアが誇る旅順艦隊を港に釘付けにする。その間、陸軍は遼東半島や朝鮮半島経由で悠々と大陸に首尾よく渡る。
そして封鎖されたことに業を煮やした旅順艦隊に対し、さらに機雷を敷設し、輸送艦を沈めることで牽制を怠らない。
そそうした必死の工作の中、秋山真之の友人である広瀬中佐は海に消え、ロシア軍の司令官は機雷の爆発で命をおとす。連合艦隊もロシアに設置しか返された機雷によって二隻が沈没の憂き目にあう。

そうした駆け引きの間、決して喜怒哀楽を表さず平静かつ沈着であり続けたのが東郷司令長官だ。
最初は無名の軍人として軍の中でもその就任を危ぶむ者が多かった。だが、その将としての才を徐々に発揮して行く。

撃沈された二隻の戦艦が、軍費の乏しい日本にとってどれほど致命的だったか。
そうした苦境にもかかわらず、平静であり続けることのすごみ。
日本海海戦は東郷平八郎を生ける軍神に祭り上げたが、すでに戦いの前から東郷平八郎がカリスマを発揮していたことを著者は描写する。

‘2018/12/11-2018/12/12


坂の上の雲(二)


本書では日清戦争から米西戦争にかけての時期を描いている。その時期、日本と世界の国際関係は大いに揺れていた。
子規は喀血した身を癒やすため愛媛で静養したのち、小康状態になったので東京に戻った。だが、松山藩の奨学金給付機関である常盤会を追放されてしまう。
それは、短歌・俳句にうつつをぬかす子規への風当たりが限界を超えたから。

そんな子規の境遇を救ったのが、子規が生涯、恩人として感謝し続けた陸羯南だ。
羯南は子規を自分の新聞社「日本」の社員として雇い入れ、生活の道を用意する。それだけではなく、自らの家の隣に家まで用意してやる。
その恩を得て、子規は俳諧の革新に邁進する。
本書には随所で子規の主張が出てくる。そこではどのように子規が俳諧と短歌の問題を認識し、どう変えようとしたのかがとても分かりやすく紹介されている。

著者は日清戦争がなぜ起きたのかについて分析を重ねる。
日清戦争の勃発に至るまでにはさまざまな理由はある。だが、結局は朝鮮の地政が原因で日中の勢力の奪い合いが起こったというのが著者の見る原因だ。
そこに日本も清国も朝鮮も悪い国はない。ただ時代の流れがそういう対立を産んだとしかいえない。その歴史を著者はさまざまな視点から分析する。

本書には一人の外交官が登場する。小村寿太郎。
日露戦争の幕引きとなるポーツマス条約の全権として、本書の全編に何度か登場する人物だ。
彼の向こう気の強さと努力の跡が本書では描かれる。
そして日本の中国駐在公使代理として着任した小村寿太郎の立場と、朝鮮をめぐる日本と清の綱引きを描く。さらには虎視眈々と朝鮮を狙うロシアの野望を絡めつつ、著者は歴史を進めて行く。

そうした人々の思惑を載せた歴史の必然は、ある時点で一つの方向へと集約され、戦いの火蓋は切られる。
秋山兄弟はそれぞれ陸と海で任務を遂行する。そして本書を通して重要な役割を果たす東郷平八郎は浪速艦長として役割を果たす。

そうした軍人たちに比べ、伊藤博文の消極的な様子はどうだろう。
伊藤博文は、初代の朝鮮統監であり、後年ハルビンで暗殺されたことから、国外からは日本の対外進出を先導した人物のように思われている。だが、実は国際関係には相当に慎重な人物だったことが本書で分かる。
日清戦争の直接のきっかけとなった朝鮮への出兵も、伊藤博文が反対するだろうから、と川上操六参謀次長が独断で人数を増員して進めたのが実際だという。

日清戦争の戦局は、終始、日本の有利に進む。
清国の誇る北洋艦隊は軍隊の訓練度が足りず、操艦一つをとっても日本とは歴然とした差がある。
また、全ての指図が現場の指揮官では判断できず、その都度、北京に伺いを立ててからではないと実行できない。
両国の士気の差は戦う前から明らかであり、そんな中で行われた黄海海戦では日本は圧勝する。そして陸軍は朝鮮半島を進む。さらに旅順要塞はわずか一日で陥ちる。

こうした描写からは、戦争の悲壮さが見えてこない。それは清国の兵に何が何でも国を守るとの気概が見えないからだと著者は喝破する。同時に著者は、満州族を頭にいただく漢民族の愛国意識の欠如を指摘する。だからこそ、日清戦争の期間中、日本と清国の間には膨大な惨禍もおきなければ、激闘も起こらなかったのだろう。

そうした呑気な戦局を遊山気分で見にいこうとしたのが、当時、結核の予後で鬱々とした子規だ。彼はなんとか外の世界を見ようと、特派員の名目で清国の戦場へと向かおうとする。
彼が向かおうとしたタイミングは幸いと言うべきか、ほぼ戦争の帰趨が定まり、戦火も治まりつつある時期だ。
ところが彼は、陸羯南をはじめとした人々が体調を理由に反対したにも関わらず、渡航を強行したことでついに倒れる。それ以降、子規が病床から出ることはなかった。脊椎カリエスという宿痾に侵されたことによって。

そうした子規の行動は、見方によっては呑気に映る。だが、その行動は別の視点からみれば、明治の世にあって激しく自分の生を生きようとした子規の心意気と積極的にとらえることも可能だ。

威海衛の戦いでは海軍が圧勝し、日清戦争は幕を閉じる。それを見届けて真之はアメリカにゆき、米西戦争を観戦する。
そこで彼が得た知見は後年の日露戦争で存分に生かされる。
その知見とは、例えば、港に敵艦隊を閉じ込めるため、わざと船を港の入り口に沈める作戦を見たことだ。
また、米西戦争の観戦レポートの出来栄えがあまりに見事で、それが真之を上層部に取り立てられるきっかけになる。

そうしているうちに、事態は独仏露による三国干渉へと至る。
三国干渉とは、日本が清国から賠償で受け取った遼東半島を清国へと返却するよう求めた事件だ。そこには当然、ロシアの満州・朝鮮への野心がむき出しになっている。そのシーンで著者は、ロシアのヴィッテの嘆きを紹介する。
ヴィッテ曰く、ロシアの没落は三国干渉によって始まったとのことだ。ヴィッテ自身の持論によれば、ロシアはそこまで極東への野心を持ってはならないとのこと。だが、その思いはロシア皇帝ニコライ二世やその取り巻きには理解されず、それが嘆きとして残ったという。

なぜ、ロシアが極東に目を向け始めたのか。
そうした地理の条件からの説明を含め、著者は近世以降のロシアの歴史を説き起こしてゆく。そして、今に至るまでのロシアの状況を的確に彫りだしてゆく。
それによれば、西洋の進歩に乗り遅れた劣等感がロシアにはあった。当時のロシアは、社会に制度が整っていないこと。官僚主義が強いこと。そして、政府の専制の度合いが他国に比べて厳しいこと。さらに、不凍港を求めるあまり、極東へ進出したいというあからさまな野心が見えていること。最後に、ニコライ二世が、訪日時に津田三蔵巡査によって殺されかけたことから、日本を野蛮な猿として軽んじていたこと、などを語っていく。

そうして、日本とロシアの間に戦いの予感が漂っていく。そんな緊迫した中、意外なことにロシアは日本との戦いを予想していなかったという。それはロシアにとってみれば、日本の国力があまりにも小さいため、どれだけロシアが極東に圧力をかけようとも、日本がロシアに戦争を挑むはずがない、と高をくくっていたからだ。もちろん、歴史が語るとおり、日本は世界中の予想を跳ね返してロシアに戦いを挑むわけだが。

当時の日本がどれだけ世界の中で認識されていなかったか。そしてどれだけ侮られていたか。それなのに、日本にとってはどれだけロシアの圧力が国の存亡をかけたものととらえられていたか。風雲は急を告げる中、著者は次の巻へと読者をいざなう。

‘2018/12/7-2018/12/11


坂の上の雲(一)


海上自衛隊の横須賀地方総監部の見学に訪れたのは2017年の秋のこと。
その時、護衛艦「たかなみ」に乗船させていただいたが、たかなみに乗るまでの時間が空いてしまい、先に「三笠」見学に訪れた。

三笠公園は、横須賀地方総監部から30分ほど歩いた場所にある。海に面した風光明媚な公園は海に面し、岸壁には「三笠」が停泊している。
岸壁には平らかな広場が設えられている。丸く形どられた池には噴水が吹き出し、その池の中央には三笠を背後にした東郷平八郎元帥の銅像が遠くを見据えている。

私にとって初めての三笠。
艦内は思ったより広く、そして現役当時を思わせる雰囲気が保たれていた。
甲板には巨大な鎖が無造作にさらされ、その先は海へと消えている。

その時、ご一緒した方より聞かれたのが「「坂の上の雲」読みました?」だった。私は恥じらう気持ちと共に「まだ読んだことがないんですよ~」と返した。
そして、三笠の甲板や操舵輪や艦長室を存分に堪能する間、私の心にわだかまっていたのは、自分がまだ明治を描いた本書を読んでいないことだった。
読者家を称していながら、まだ本書を読んでいない事実に気づかされたのが、この時の会話だった。

もう一つ、私に本書を読まねばと思わせたのは、東郷元帥記念公園の存在だ。
当時、私が半常駐していた職場の近所の東郷元帥記念公園によく散歩に訪れていた。
公園に残されたライオン像と給水塔の遺物だけがかつての旧宅の広壮さの名残を今に伝えている。
この公園には本当に何度も訪れており、私は東郷元帥には何かとご縁があったのだろう。

私が「坂の上の雲」を読み始めるのも時間の問題だったに違いない。
2018年も後半になり、意を決して読みはじめた。

もっとも、読む前から本書の内容はおぼろげには知っていた。
秋山兄弟と正岡子規を軸に据え、勃興する明治日本の時代の空気を描く。そんな認識だった。

その第一巻である本書では、三人の生い立ちを語る。
伊予松山での日々。それは、戊辰戦争で新政府軍に抗した賊軍としての汚名との戦いだった。
その汚名は、伊予の若者から栄達の道を奪う。
未来の希望が喪われた有為の若者にとって、政府高官の道は選択肢にない。軍隊に入るか、学問で生きるしか、身を立てる術はなかった。

秋山兄弟は、そうしたタガを破ろうと、迷える青年期を送る。そして正岡子規も身を立てる道を文学に求める。
一巻である本書は、彼らの若さと野心が充満している。

彼らの心を支えていたのは、時代の空気もあった。
封建の時代が去り、次なる未来へ駆け上がろうとする明治日本の勃興。
それは賊軍とされた伊予松山でも同じだ。
人々は枠にはまらず、自由でありながら、日本人としての矜持を持っていた。

明治とは、日本人の一人一人が自身の生き方を真剣に悩み、日本のこれからを真摯に考えていた時代でもある。
そして、封建の時代から新時代に切り替わるにあたり、仕組みが整っていないため、なろうと思えば、身を立てられる時代でもあった。

正岡子規は、秋山真之とともに、松山中学を首尾良く中退する。そして上京して一高に入学し、栄達への足掛かりを掴む。
しかし、一高に入学したはよいが、文学に熱中してしまう。
哲学を論じ、人はどう生きるかに頭を悩ませる子規。
その姿は、国家建設の理想に燃えていた一部の学生にとっては看過できない振る舞い。一高の学生でありながら文学にうつつを抜かすとは何事か、と糾弾される。

さらに秋山兄弟の兄、好古は一足先に陸軍に入る。
一高での肩身の狭さや、兄に学費を負担してもらっている引け目もあり、真之も海軍へと進路を変更する。それは、一緒に文学を極めようと誓った仲の正岡子規を裏切ることでもある。
真之はここで自らの資質を要領が良すぎることと見極めている。試験にも勉強せずにヤマを張って臨み、そのヤマを見事に当てて高得点を取る。
文学に惹かれながらも、自らの容量の良さを生かす場を違う世界に求める。この点は重要だ。

本書で描かれる真之は要領も良いが、向こう気の強い人間だ。
そんな真之が唯一頭が上がらない人物。それが、兄の好古だ。その兄が陸軍に入ったため、同じ軍でも兄とは違って海軍に目を向けたことも見逃せない。

もちろん、真之のその選択は、将来の日本を救うことになる。日本海海戦の勝利として。そのことを読者の私たちは知っている。そして、著者も読者がそれを承知していることを前提の上で本書をつむいでゆく。

本書で見逃してはならないのは、好古の欧行のエピソードだ。
好古の留学先は、明治の陸軍が模範としたドイツではなくフランス。
それは陸軍の教育方針では見えない視点を好古に与え、後年、黒溝台や奉天で好古が騎兵を率いて活躍する素地となる。
本書ではドイツから招いたメッケルがどれだけ日本陸軍に影響を与えたかについても触れている。
その事実とあわせて読むと、好古の後年の日露戦争での活躍がより深みをともなって理解できる。

また、子規が喀血する場面も本書に登場する。野球に熱中した少年が味わった初めての蹉跌。
真之たちと歩いて江ノ島まで行ったほどの男が、旅に疲れた結果、喀血を友とする悲哀。
海軍兵学校に入った真之は学校が江田島に移ったこともあり、松山に帰り、病床の子規を見舞う。
軍人としての道を進む真之と病床に臥す子規の対比。これが本書に複雑な味わいを与えている。

もちろん、病床で諦めなかったことが、子規の名前を不朽にした。そして秋山兄弟もそれぞれの経験を積み、後年の名声の基礎を培っている。
彼らの名が後世に輝かしく伝わっているのはなぜか。そうした彼らの青年期のエピソードこそ、本書のかなめだ。

読者は、本書で描かれる日本の歴史を知っている。結果を知った上で、なおかつわくわくしながら読める。
それこそが、本書の魅力でもある。

‘2018/12/5-2018/12/7


俳句と川柳 「笑い」と「切れ」の考え方、たのしみ方


鷹羽氏の俳句入門を読み終えた後、続けて本書に手を取った。
俳句と川柳。実際のところ、この二つの違いってよくわからない。季語があってワビサビがあるのが俳句。滑稽な風刺があれば川柳。こういう認識でしかなかった。

本書には、俳句と川柳の二つの違いが理解できればと思って臨んだのだが、期待はかなり裏切られた。それも良い方向と悪い方向に。

良い方向とは、この二つの違いが歴史も含めて大枠で理解できたこと。
悪い方向とは、自分の中で俳句を詠むことに対する自信が喪われたこと。

たが、本書は私にとって重要であり必要な一冊となった。その重要性は、本書を何度か読み返したいと思わせるほどであった。本稿執筆にあたりその思いはますます高じ、元々図書館で借りてきた本書を改めて購入した。

「俳句が世界で一番短い詩型であるとするならば、川柳もまた、世界で一番短い詩型ということになる」

第一章「十七音の文芸」の冒頭は、このような文章から始まる。確かに。蒙を啓かれた思いだ。俳句が世界で一番短い詩であることは今までも意識していたが、川柳もまた同じであることには思い至らなかった。冒頭に置かれたこの文章から、私が川柳を俳句より一段下に置いていたことに気付かされた。

この文からも、著者は俳句と川柳に芸術の格差はなく、上下の区別を付ける必要もないことを読者に突きつける。俳句は連歌の発句に、川柳は連歌の平句に源を持つとの解説がある。なるほど、ともに連歌を発祥としているのか。ところが、俳句や短歌は辛うじて触れたことのある私だが、連歌となるとほとんど馴染みがない。発句や平句と云われてもピンとこないことを認めねばならない。しかし本書は連歌についても丁寧に説明があり、安心できる。本書を通じて、私は日本の国語教育から連歌や川柳への教えが抜けていることに疑問を抱いた。それほどに本書の記述には教えられることが多かった。

さて、本章で覚えておかねばならないのは、切字の存在。切字とは「古池や 蛙飛び込む 水の音」の3文字目の”や”のこと。この”や”によって、一句の中に、”古池”と”蛙の飛び込む音”の二つの構造が存在する。これを二重構造性と本書では呼んでいる。また、俳句といえば季語は欠かせない。連歌の冒頭を飾る発句には、必ず季語と切字がなくてはならない。これがお約束となる。逆をいえば季語があっても切字による二重構造性がなければ、例え五・七・五の形式であってもそれは平句であり川柳とされる。切字を川柳と俳句を分ける重要なファクターとして説く著者の持論は、本書を通して一貫している。

第二章「俳句に必要な「笑い」とは」では、川柳がお笑い専用で、俳句は文芸との固定観念に揺さぶりを掛ける。

俳句と聞けば厳粛な芸術であるとの固定観念が我々には根強く残っている。しかし著者は俳句もまた笑いの文芸であったことを説く。俳句の起源が連歌の発句であることは先に書いた。さらには、連歌は雅語で、俳句は俗語で、というのが定説だったらしい。そしてその流れからか、芭蕉が世に出る前は、俳句は滑稽な文芸であることは常識として世に通っていたという。では、芭蕉が俳句の笑いを殺し、侘び寂びの世界に閉じ込めた、と著者は断罪したいのだろうか。そうではない。むしろ著者は芭蕉にも笑いの精神があったことを指摘している。それは以下の文章にも表れている。

 芭蕉が求めた「笑い」とは、一句の中で「あはれ」と融合し、瀰漫した「笑い」(たはぶれこと)であったのかもしれない。(本書42-43頁)

しかも明治の子規や子規門下の俳人たちにとって、俳句にある笑いの要素は評価の対象だったことが記されている。しかし、その笑いへの認識はやがて歴史のかなたに消えてしまった。その原因として、著者は以下のように言っている。

例え芭蕉自身は「笑い」への配慮を怠らなかったとしても、俳諧の発句から「笑い」の要素が、少しずつ少しずつ影をひそめていったことは、否定できないのかもしれない。人々には、芭蕉の発句の「笑い」の質が見きわめにくいのである。(本書48頁)

続いて著者は、俳句の笑いを今に伝える句として、千代女の

朝顔に 釣瓶とられて もらひ水

を挙げる。有名な句である。そして、この句の3語目が“に”であることから、切字が無い句であることを指摘する。また、実はこの句には人口に膾炙していない双子の句があるという。

朝がほや つるべとられて もらひ水

こちらは、3語目が“や”となり、“朝がほ”と“や”を挟んだ“つるべ”以降が二重構造になっている。ここに俳句と川柳の違いがあると著者は云う。そして後者の切字のある句には前者の持つ分かりやすい笑いではなく、芭蕉のいう瀰漫した笑いがあるというのである。ちなみに、「瀰漫」という語彙の意味は、わたしもすぐに出てこなかったので記しておく。一面に広がり満ちること。はびこること、だそうである。

第三章「川柳のルーツを探る」では、様々な史料から例を挙げ、川柳の誕生時の由来に迫る。著者の論によると、俳句のアンソロジーを源流とするのが川柳であるそうだ。そしてアンソロジーの前書きとしての応募句を募ったところ、庶民から最高で23348句集まるほどに人気を集めたという。このあたりの感覚は、サラリーマン川柳に多数の応募が集まる現代にも通ずるところがある。サラリーマン川柳に注目する我々が当時を生きていたとすれば、同じように応募し、川柳の世界に嵌ったかもしれない。川柳が当時の江戸町衆から支持されたのもとっつきやすさにあったと著者は述べている。

第四章「発句・川柳句合競演」では、川柳と俳句の違いを改めて俯瞰する。俳句ばかりか川柳からも滑稽性が失われることを著者は憂えている。つまり滑稽の有無だけが俳句と川柳を分けるのではなく、むしろともに持つべきものであることを改めて宣言するのである。その上で、著者は切字の重要性を再度持ちだす。切字があるのが俳句であり、ないのが川柳であると。そして江戸期の句合集から、俳句と川柳で似たような意味をもつ句を並べて論評する。なるほど、本書のように並べられると俳句と川柳の違いもより分かろうというものだ。切字によって二重構造性を備えているのが俳句であり、切字がなく平易に流れるように一文が情景として浮かぶのが川柳と思えば分かりやすい。だが、本章は何度も何度も読みなおさねば川柳と俳句の違いは体得できないに違いない。

第五章「子規の俳句革新と川柳観」では、改めて俳句について分析を進める。それは芭蕉が確立した俳句ではない。明治に俳句を改革せんとした子規の俳句である。夏目漱石の友としてしられ、明治の俳壇に新風を巻き起こした正岡子規。陳腐化しつつあった俳句を建て直した人物として、今なお尊敬を集める人物である。著者は子規の俳句論に筆を進める前に、まず芭蕉を振り返る。芭蕉が俳句の笑いを重視していたことは第二章で触れた。芭蕉が目指したのは、笑いしか残らない俳句ではなく、笑いと芸術を両立させることにあったこと。著者はその点に改めて読者の注意を向ける。さらに、芭蕉の革新性とは、詠む対象と対峙し、よく見て良く聞いたことにあると喝破する。対象に対して自らが感動し、その感動を俳句として表す。そこに芭蕉の俳人としての姿勢があること。本章で著者は松尾芭蕉という俳人の凄さを、口を極めて述べる。私は本書を読む中で、自分自身の詠む句に徹底的に自信を無くすのだが、対象と対峙した句を詠む、という点だけは自負できるのではないかと思う。

ところで、芭蕉が革新的な人物であったことは子規もよく認識していた。では、それにも関わらず子規はなぜ、明治の俳壇に新風を巻き起こしたのだろうか。そこには蕉門廃れた後の俳壇の衰退があった。明治中期頃の俳壇は、月並調とも言われ、その句は実に退屈なものに堕ちていたという。子規も著者も、その点は一致している。本章では、月並調の特徴が紹介されている。著者が子規の論を5つにまとめたのが、以下に記したものとなる。
1. 読者の感情よりも、知識に訴えようとする。
2. 意匠(趣向)の陳腐を好み、新奇を嫌う。
3. 言語の懈弛を好み、緊密を嫌う。
4. 洋語を排斥し、漢語、雅語についても消極的である。
5. 特定の俳人の作品を無批判的に評価し、作品そのものを自らの基準で評価することをしない。
その後、月並調の俳句がずらりと俎上に上げられている。私のような素人ですら、そこには説明臭が強く、対象への感動が徹底的に欠けていることが理解できる。そしてそれらの句は私の作った駄句に似ている気がする。本稿の冒頭で、自分の中で俳句を詠むことに対する自信が喪われたと書いた。私の詠む句は月並調の俳句にも劣るのではないか。私はかなり凹んだ。本稿を書いている今もまだ凹んでいる。少なくとも俳句に関しては本書を読んでかなり凹まされた。

さて、子規である。本章では子規が起こした俳句革新運動の流れが事細かに記されている。俳句という言葉を発明したのも子規ならば、写生を大切にという運動を提唱したのも子規。若くして夭折したことが惜しまれる偉大なる文人だったといえよう。ただ、子規は俳句と川柳の違いを笑いの質に求めていたと著者は云う。しかし本書を通して著者は、俳句と川柳を分ける重要な要素を切字の有無としている。しかし子規は切字の有無は問うていない。それにも拘わらず著者は子規を一切批判しない。それでいいのかもしれないが、一抹の違和感は残った。

代わりに著者は、子規の述べた次の言葉を賞賛する。

俳句にして川柳に近きは、俳句の拙なる者。若し之を川柳とし見れば、更に拙なり。川柳にして俳句に近きは、川柳の拙なる者。若し之を俳句とし見れば、更に拙なり。

つまり川柳と俳句の境が曖昧な句はまずい、と。この文を読んだ私がさらに自分の句に自信を無くしたのは云うまでもない。つまり切字を意識していないし、滑稽も重視していない私の句への痛烈な一言である。別に著者に私の句を添削してもらった訳でもない。だが私自身、本書の随所に載っている俳句論の語句に堪えたのだ。つまり、川柳にも俳句にもあらず。そういう句をひたすら詠んでいるだけではないか、と。

しかし、両者の区別を付けること、両者の違いを曖昧にさせないことは、当世の川柳作者や俳人も認めており、実は苦心していることらしい。

第六章「久良岐と剣花坊の川柳革新」では、一世を風靡した川柳が、俳句と同じくすっかり明治になって理屈っぽくなり、面白くなくなっていたことを紹介する。そして、俳句における子規のように、川柳では阪井久良岐と井上剣花坊が川柳革新の旗を掲げた。それを著者は「よし」とする。しかし阪井久良岐は、それまでの川柳のつまらなさゆえに、性急に川柳に芸術性を与えようとしてしまった。そのことによって笑いを忘れたとの批判は忘れていない。ここでも著者は俳句と川柳に笑いを求める姿勢を繰り返し述べる。

それにしても明治という文明開化の世が、日本からすっかり余裕を失わせてしまったのだなあと思わざるを得ない。よく戦前の日本を描く際、明治はよかったが大正デモクラシーの後、昭和初期の暗さはよくないとされる。いわゆる「坂の上の雲」史観とでもいおうか。しかし本書を読むと、日本から諧謔や笑いやゆとりが奪い去られたのは昭和ではなくもっと早い明治だったのではないか。思考の硬直が起こった明治に端を発し、ますます生硬になり進路変更もままならなくなった日本が昭和20年まで突っ走ったともいえる。そういった通説をも覆すヒントにも本書は成り得る。

第七章「川柳作者の見た俳句」では、川柳作者も俳句作者もその依って立つ芸術の本質を見失っているのでは、という第五章の最後で取り上げた著者の問いをより深めた章である。ここで著者は日野草城という俳人を登場させる。日野草城は昭和初期に活躍した俳人であり、私も初めて聞く名である。草城は、俳句を五七五の定型として定義付けたという。そして著者はここでも切字の有無を主張する。川柳は「うなづかせる」文学であり、俳句は「感じさせる」文学との草城の主張に同意しつつも、その二つを分ける構成上の特質に切字があることに気付かない以上、草城の主張は全面的に賛成できない、と。ここまで来ると読者は切字の重要性をいやでも意識せねばならない。

ただ、草城はそれでも俳人でありながらその視線を川柳まで遣った。それは珍しいことと著者はいう。逆にいえばそれだけ他の俳人は川柳を無視しているのだろう。そして川柳作家は俳句を意識した発言が多いそうだ。そして俳句と川柳を融合させるという一部の試みについて著者ははっきりと釘を刺すことを忘れない。本書を読んだ以上、そのような試みについては私も反対の立場を採る。一方で、著者がいう「川柳とは何か」「俳句とは何か」を考え続けることの大切さにも同意しようと思う。私の作句の腕がどこまで上達するかにもよるのだが。

第八章「「切れ」とは何か」では、改めて切字が俳句を俳句足らしめることをまとめとして解説する。古池や~の句における“や”が切字であると著者は書いた。しかし、実は切字に拘らずとも、句に二重構造が成立していれば、その句は「切れ」ているのだ、と著者は云う。実際切字の使用率は低下しているのだとか。二重構造の片割れを「首部」、もう片割れを「飛躍切部」と呼び、そのブロックが一縷のイメージで繋がっていれば、その距離が離れていればいるほど面白い俳句、と著者は云う。その上で現代俳句。川柳の秀作を多数例に挙げている。ブロックによる二重構造性の保持。面白い。実に面白い。

本書は最後に俳句の国際化の例として英文の俳句にも言及する。そしてそこにも切れや二重構造性の法則は適用できることを述べる。その視点で見て行けば、日々の俳句欄もまた新鮮な目線で鑑賞できるかもしれない。

冒頭にも書いたとおり、本書からは刺激されたものが実に多かった。難解でありながら知的刺激に満ちた本書は、今後も折に触れて紐解こうと思う。レビューの執筆にもかなり難儀したが、再度きっちりと本稿を書けたことで、より本書の理解が深まったと思う。これはレビューを書くことの効能と言える。

‘2014/11/14-2014/11/17