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球体の蛇


17歳と言えば、男にとってはいろいろな悩み多き年だ。
性の問題もそう。これからの人生をどう生きるかということもそう。

本書は、17歳の迷いに満ちた友彦の物語だ。
友彦は、若さゆえの過ちと勘違いからさまざまな人々に取り返しのつかない事をしてしまう。
その過ちとは、人の密やかな営みを覗き見る衝動である。その勘違いとは、人の心を傷つける言動のことだ。
軽率な思い込みが、どのような運命を人々に与えるのか。そしてその勘違いと苦しみに人はどれぐらいの期間、引きずられていくのか。
過去の過ちをその後の人生に活かす人もいれば、一生を棒に振ってしまう人もいる。

本書はそのような友彦の過ちと勘違いを描いている。

本書には、家族に対する歪んだ前提がある。
友彦の母は、父が極度に家庭に対して無関心な態度に嫌気が差し、家を出る。
しかも父は主人公に対しても愛情を注がない。
父は東京に転勤になったことをきっかけに、友彦にも東京に来ないかと誘う。だが、父の誘いが上辺だけに過ぎないと見切った友彦はその誘いを拒む。
その結果、友彦が居候することになったのが、シロアリ防除をなりわいとする乙太郎の家だ。その家には乙太郎と娘のナオが住んでいた。

その乙太郎の一家はかつての過ちである、とある事件が原因となって母の逸子さんと姉のサヨをなくしている。
姉のサヨは幼い頃から友彦にとって憧れの対象だった。そして、心の底で何を考えているか伺い知れない人物だった。
幼い頃からサヨのずる賢い心根を知ってしまった友彦には、サヨの裏の顔もまた、怖さであり魅力でもあった。
そんな乙太郎の家族の悲劇の出来事に、友彦は深く関わっている。ただし、姉のサヨが抱えていた秘密は友彦しか知らない。

友彦は居候のまま、乙太郎のシロアリ防除の仕事をアルバイトで手伝っている。
シロアリ防蟻の仕事はシロアリを見つけ、訪問して駆除する作業が主だ。街でもひときわ目立つ大きな家に訪問した際、友彦は亡くなったはずのサヨにそっくりの女性を見かける。

その女性は、その家に住んでいないようだ。おそらく、その家の主人に囲われた、人目を忍ぶ立場にあるらしい。
それを知った友彦は、あろうことかシロアリ防除の営業で訪れた際に知った床下のルートをたどり、夜中に忍び込む。そして、床下から二人の秘め事を息をひそめて聴き入る悪癖に手を染めてしまう。
17歳の性の好奇心は、友彦から理性を奪ってしまう。

友彦の耳に飛び込んで来るのは、行為の終わった後に女性から漏れてくる忍び泣き。
好奇心が募り、女性にも並々ならぬ関心を抱く友彦。
ところがある日、友彦が床下に忍んでいるタイミングでその家から不審火がおこり、家が全焼する。そして主人が焼死体で見つかる。
その火事は女性にとっても友彦にとっても晴天のへきれきだったはず。

火事からしばらく後、友彦はその女性智子と街の中で出会う。
その出会いからさらに運命の糸がもつれ合ってゆく。
体の関係はないにもかかわらず、智子の家に通う友彦。ところがその智子はほかにも秘密を持っているらしい。
そもそも火事の原因は何なのか。そうした秘密が二人の間に無言で横たわっている。その事を智子に問いただせないまま、友彦は疑いを抱き続ける。

そうした友彦のただれたように見える関係がナオにとっては許せない。
乙太郎の家でも緊張が徐々に高まりを見せていく。
さらに、母の逸子さんと姉のサヨさんが亡くなった過去が蘇ってくる。
友彦は煩悶し、結局、高校を卒業したことを機会に上京し、乙太郎の家を離れる。そして大学の近くで下宿生活を始める。
上京によって友彦は新たな環境になじみ、それなりの生活を始める。
ところが過去の思い出は友彦を運命へと導いていく。過去に苦しみ、それがさらなる運命へと友彦を追いやる。

過去の謎と火事の謎。それらは全て勘違いとすれ違いの産物だった。
一体、何が起こったのか。乙太郎の家と友彦の家。
あらゆる過去の出来事がしがらみとなって友彦を縛る。

人は神ではない。すべての事情を知ることは不可能だ。相手の心を推し量ることも出来ない。
しかし、刹那の衝動から起こった人の行動は、取り返しの付かない結果を巻き起こす。
相手の心がわからない。それがすれ違いを生み、そのすれ違いが事態をますます混乱させてゆく。人の生死を左右するまで。
人の振る舞いはその時の状態とタイミングによって、取り返しのつかない傷を相手に与えることができる。

過去の誤りにも関わらず、人生は続く。
その過ちを時間がどうやって癒やすのか。そもそも、人は過去の過ちをいつまで引きずらねばならないのか。
若さゆえの罪が、将来の人生において足かせでなくなるのはいつか。

これを書く私自身、取り返しのつかないミスを今までに何度もしでかした。
多分、敏感な心の持ち主にとっては、日夜苛まれるレベルのミスだろう。
主人公と同じような苦しみに染まってしまったこともあった。鬱に落ちたこともあった。
だからこそ本書で描かれる世界は、私にとって切実だった。

それは私だけでない。すべての青年期を潜り抜けた人にとって、本書で描かれるテーマは切実な問題だったはずだ。
だから、本書を読むと重苦しい思いにとらわれる。
だが、ある程度の人生をへた人にとっては、そうした苦さこそが人生に濃淡や深みを与えることも理解しているだろう。
さらに若い人にとっては、今の自分がまきこまれている人生の難しさが、将来には糧となるはず、と本書を読むことで救いなるかもしれない。
喜怒哀楽がすべてない交ぜになった人生が球であり、抗いきれない衝動が時折、蛇となって人生を操ってしまう。生きることとは、そうした営みなのだ。

本書の結末は、それまでの嵐のような展開が落ち着くべきところに落ち着いておわる。
だがそれは、ある意味では怖い結末でもある。
この結末をハッピーエンドと見るか、それとも人生という救い難い苦行の象徴とみるか。
人生とは希望にも満ちたものである一方、苦悩の連続でもある。

‘2019/02/26-2019/02/27


自殺について


なにしろ題名が「自殺について」だ。うかつに読めば火傷すること確実。

悩み多き青年には本書のタイトルは刺激的だ。タイトルだけで自殺へと追い込まれかねないほどに。23歳の私は、本書を読まなかった。人生の意味を掴みかね、生きる意味を失いかけていた当時の私は、絶望の中にあって、本書を無意識に遠ざけていた。ありとあらゆる本を乱読した当時にあっても。

だが、今になって思う。本書は当時読んでおくべきだった、と。

もし当時の私が本書を読んでいたとしたら、どう受け取っただろう。悲観を強めて死を選んだか。それとも生き永らえたか。きっと絶望の沼に陥らず、本書から意味を掴みとってくれていたに違いないと思う。本書は人を自殺に追いやる本ではない。むしろ本書は人生の有限性を説く。有限の生の中に人生の可能性を見出すための本なのだ。

自殺は、苦患に充ちたこの世の中を、真に解脱することではなく、或る単に外観的な-形の上からだけの解脱で紛らわすことであるから、それでは、自殺は、最高の道徳的な目標に到達することを逃避することになる(199ページ)。

このように著者ははっきり主張する。つまり、自殺した者には解脱の機会が与えられないということだ。なんとなく著者に厭世家のイメージを持っていた私は、著書を初めて読む中で著者への認識を改めた。

確かに本書を一読すると厭世観が読み取れる。だが、それはあくまで「一読すると」だ。本書の内容をよく読むと、厭世観といっても逃げの思想に絡め取られていないことがわかる。むしろ限りある苦難の生を生きるにあたり、攻めの姿勢で臨むことを推奨しているようにすら思える。

そのことは時間に対する著者の考えで伺える。43ページで著者は、時間は、ひとつの無限なる無なのだから、と定義している。また、32ページでは、それに反して意思は、有限の時間と空間とを占める生物の身体として、と定義している。つまり著者によると、自己を意識する自我が主体だとすれば、時間とはそれ以外の部分、つまり客体に適用される。しかし、主体である我々に時間は適用されない。適用されないにもかかわらず、時間の有限の制約を受けることを余儀なくされた存在だ。そして限られた時間に縛られながら、精一杯の欲望を満たそうとする儚い存在でもある。そこに生きる悩みの根源はあると著者はいう。

もう一つ。自我にとって認識できる時間は今だけだ。過去はひとたび過ぎ去ってしまうと記憶に定着するだけで実感はできない。過去が実感できないとは、過去に満たされたはずの欲求も実感できないことと等しい。一度は満たしたかに思えた欲求は一度現在から過ぎ去ると何も心に実感を残さない。つまり、欲求とは満たしたくても常に満たせないものなのだ。そんな状態に我々の心は耐えられず、不満が鬱積して行く。何も手を打たなければ、行く手にあるのはただ欠乏そして欲望のみ。生を意欲すればするほど、それが無に帰してしまう事実に絶望は増して行くばかり。著者は説く。意欲する事の全ては無意味に終わると。尽きぬ欲求を解消する手段は自殺しかない。そんな結論に至る。私が悩める時期に幾度も陥りかけたような。

好色や多淫は、著者にとっては人間の弱さだ。けれども、その弱さが種の保存という結果に昇華されるのであれば、それで弱さは相殺されると著者は考える。

著者の論が卓抜なのは、生を種族のレベルで捉えていることだ。個体としての生が無意味であっても、それが種の存続にとっては意味があるということ。つまり生殖だ。著者は淫楽をことさらに取り上げる。人は性欲に囚われる。それも人が囚われる欲の一つだ。しかし、性欲の意義を著者は種の存続においてとらえる。そして親が味わった淫楽の代償は次の世代である子が生の苦しみとして払う。

生殖の後に、生がつづき、生の後には、死が必ずついてくる。(81ページ)

或る個人(父)が享受した・生殖の淫楽は彼自身によって贖われずに、かえって、或る異なった個人(子)により、その生涯と死とを通して贖われる。ここに、人類というものの一体性と、それの罪障とが、ひとつの特殊な姿で顕現するのだ。(81-82ページ)

上にあげた本書からの二つの引用は、生きる意味を考える上で確かな道しるべになると思う。つまるところ、個人の夢も会社の成長も、あらゆる目標は種の存続に集約される。そういうことだ。逆にそう考えない事には、死ねば全てが無になってしまう事実に私は耐えられない。おそらく人々の多くにとっても同じだと思う。

ここで誤解してはならないことが一つある。それは子を持つことが人類の必須目的という誤解だ。子を持つことは人の必要条件ですらないと思う。人生の目的を個体の目的でなく、種の目的に置き換える。そうする事で、子を持つことが義務ではなくなる。例えば子がいなくとも、種の存続に貢献する方法はいくらでもある。上司として、隣人として、同僚として。ウェブやメディアで人に影響を与えうる有益な情報を発信する事も方法の一つだ。要は子を持たなくても種のために個人が貢献できる手段はいくらでもあるという事。それが重要なのだ。その意識が生きる目的へと繋がる。著者は生涯結婚しなかったことで知られるが、その境遇が本書の考察に結実したのであればむしろ歓迎すべきだと思う。

本書で著者が展開する哲学の総論とは、個体の限界を認識し、種としての存続に昇華させることにある。それは個体の生まれ替わりや輪廻転生を意味するのだろうか。そうではない。著者が本書で展開する論旨とはそのようなスピリチュアルなほうめんではない。だが、種の一つとして遍在する個体が、種全体を生かすための存在になりうるとの考えには輪廻転生の影響もありそうだ。著者の考えには明らかに仏教の影響が見いだせる。

著者の考えを見ていくと、しっかりと仏教的な思想が含有されている。実際、本書には仏教やペルシャ教を認め、ユダヤ教を認めない著者の宗教観がしっかりと表明されている。なにせ、ユダヤ教が、文化的な諸国民の有する各種の信仰宗教のなかで、最も下劣な地位を占めている(181ページ)とまで述べるのだから。

著者がユダヤ教、その後裔としてのキリスト教に相容れようとしないのは、自殺という著者の考えの根幹を成す行為が、これら宗教では何の論拠もなしに宗教的に禁じられているからではないか。著者は自殺を礼賛しているのではない。むしろ禁じている。だが、ユダヤ・キリスト教が自殺を禁じる論拠になんら思想的な錬磨もなく、盲目的に自殺を禁ずることを著者は糾弾する。

ここまで読むとわかるとおり、著者にとっての自殺とは、種の存続には何ら益をもたらさない行為だ。そもそも個人がいくら個人の欲求を満たそうにもそれは無駄なこと。生とはそもそも辛く苦しい営み。だからこそ、種としての貢献や存続に意義を見出すべきなのだ。つまり、個人としての欲望に負け自殺を選ぶのは、著者によれば個人としての解脱にも至らぬばかりか、種としての発展すら放棄した行為となる。

だが私は思った。著者の生きた時代と違い、今は人が溢れすぎている。生きることがすなわち種の存続にはならない。むしろ、生きることそのものが地球環境に悪影響を与えかねない。そんな時代だ。いったい、この時代に自殺せず、なおかつ種の存続に貢献しうる生き方はありうるのだろうか。多分その答えは、著者が説く、人を自殺に至らしめる元凶、つまり際限なき欲求にある。欲求の肥大を抑える事は、自殺欲望を抑制することになる。また、欲求の肥大が収まることで、地球環境の維持は可能となる。それはもちろん、種の存続にもつながる。つまり、自殺と人間の存続は表裏一体の関係なのだ。自殺の欲求から醒めた今の私は、本書からそのようなメッセージを受け取った。

もちろん、そんな単純には個々人の人生や考えは戒められないだろう。国にしてもそう。東洋の哲学を継承するはずの中国からして、猛烈な消費型生活に邁進し、自殺者も出しているのだから。少し前までの我が国も同じく。だが、それでもあえて思う。自殺を超越しての解脱を薦め、個体の限りある 生よりも種としての存続に人生の意義を説く本書は、東洋人の、仏教の世界観に親しんだ我々にこそ相応しい、と。

‘2016/06/08-2016/06/15


官能の夢―ドン・リゴベルトの手帖


本書は著者の「継母礼賛」の続編にあたる。不覚にも私がそのことを知ったのは本編を読み終えてから。訳者によるあと書き解説で知ることになった。本編でも読者承前を踏まえたような書き方がしてあり、私はそれを著者一流の自在に読者を迷わせる迷宮的な手法と早合点しながら読み終えていた。読み終えてから本書に前編があった事を知り、肩透かしを食らった思いだ。

著者の作品は見かける度に図書館で借りて読んでいる。とはいえ、図書館で巡り会えなければ古本屋での出逢いを待つしかない。大手書店のラテンアメリカ文学コーナーにはよく立ち寄るのだが、価格が高くなかなか手が出ない。そんな訳で、「継母礼賛」を未読のまま、先に本書を読み終えてしまった次第だ。

とはいえ、「継母礼賛」を読まずに本書を読んだからといって、本書を楽しめなかったわけではない。先に、読者承前を前提とした本編の記述を著者一流の手法と早合点したと書いた。私の場合は、本書の前段を知らぬままに本書を読んだことで、スリルと想像が増す効果があった。

本来、読み手にとって無限の解釈を許すのが優れた文学作品ともいえる。その伝で言えば、前段がなくても本編だけで読者に解釈を許す本書はまさに手本とも云える。仮に「継母礼賛」を読んだ後に本書を読んだとすれば、また別の感想を抱いたかも知れないが。

本書には、ドン・リゴベルトの手帖というサブタイトルがついている。リゴベルトとは、ルクレシアの夫である。前作「継母礼賛」で義理の息子である美少年フォンチートと過ちをおかしたのがルクレシアだ。本書では、前作の結末で引き離された(と思われる)ルクレシアとフォンチートとリゴベルトが、愛と官能を通じて再び交わる。

義理の母と犯した罪の意識をどこかに置いてきたようなフォンチートが、突然ルクレシアの元を訪れることから本書は始まる。天使と悪魔の両方の資質を備えたフォンチートの天真爛漫な振る舞いに、ルクレシアは翻弄される。しかしながらも、夫リゴベルトへの貞淑を貫く。この辺りは前作での駆け引きがどうだったか分からないのだが、想像するに駆け引きの結果過ちを犯したルクレシアが、一点して貞淑な自らを貫くといった対比が想像できる。是非前作を読んでみたいと思う。

本書の合間に挿入されるリゴベルトの妄想では、美しき妻ルクレシアは、様々な性の冒険を楽しむ。そのあたり、虚実がない交ぜとなった描写は著者の真骨頂といえる。前作において妻に裏切られた形となったリゴベルトは、倒錯的な感情に身を任せるまま、妻を背徳の極みに置き、それでいてなお美しい妻を崇拝し、手帖の中で性の冒険を続けさせる。

果たして、妻と夫、義理の息子は再び分かり会えるのだろうか。読者の興味は尽きない。そして読者は興味の赴くままに本書のめくるめく官能の世界の味わうことになる。加えて前作を読んでいない私にとっては、ルクレシアとフォンチートがどのような過ちを犯し、何故三人が離れ離れになったのかという興味が尽きず、著者のマジックに浸り続けたまま本書を読了出来た。

本書には様々な性の冒険が描かれている。しかし、決して下世話なポルノ紛いの内容ではない。むしろ、女性の神秘を解き明かすためには性は不可欠と考える著者の思想すら感じられる。

本書の随所には、ドン・リゴベルトの妄想だけでなく、衒学的な芸術論が挿入されている。例えばある箇所ではスポーツ礼賛の風潮を攻撃し、争いの結果に一喜一憂することの愚かさに苦言を呈する。別の場所では、ポルノ的なあらゆるものを人間の官能の可能性を貶める害あるものとして熾烈に攻撃する。

著者は本書で、官能とは肉体の運動や姿勢でなく、精神のあり方であることを語っている。例えドン・リゴベルトが妄想の中で妻を乱交やレズや不貞やフェティシズムやスワッピングに耽らせようとも、実際のルクレシアは、一時の過ちを悔いる貞淑な妻であり続ける。

仮にルクレシアがその様な不倫行為に身を堕としたら、本書はドン・リゴベルトの唾棄するポルノに堕ちてしまう。官能の神秘とはあくまでも精神世界の中で高められなければならない。それが著者の主張だ。本書においてはドン・リゴベルトの手帖の中での独白として、他の衒学的な芸術と同一のものとして官能が置かれる。つまり、官能の神秘を欲望に塗れさせてはならない、という著者の思想が垣間見えるのが本書だ。そういった著者の思想に依った形でのルクレシアとリゴベルトの間を通る官能と貞淑の綱引きが本書を文学作品としての高みに押し上げている。

本書のカバーにはエゴン・シーレの絵画が配されている。フォンチートが性的に魅せられているのは、エゴン・シーレの生き方そのものである。本書に登場するフォンチートは、その二面性をもってルクレシアを誘惑する。性的な締め付けが今とは格段に厳しいハプスブルグ王朝支配下のウィーン。その地その時代にあってなお、放埓な性と放縱な人生をしか生きられなかったエゴン・シーレの人生にルクレシアは官能の精神性を見る。そしてエゴン・シーレの化身ともいえるフォンチートに対するに貞淑という鎧をまとい、俗な過ちに溺れず精神的な官能の高みに居続けるルクレシア。官能というものを俗に落とさず精神的な高みに持ちあげ続ける緊張関係こそが、著者にとって重要であることは、ここでも明らかになっている。一時は過ちをおかしたとはいえ、ルクレシアはフォンチートが天性に持つ女たらしの魅力に耐え、再び夫ドン・リゴベルトとの愛に戻る。

その再会のシーンで、ドン・リゴベルトがみっともなく頼りない一面を晒す。しかし、本書に込めた著者の主張から推し量るに、官能を現し導く主体は男性ではなく、女性であるはず。ポルノ的=男性視点の快楽が貶められる本書では、ドン・リゴベルトの抱く妄想は妄想で終わらねばならない。それ故にドン・リゴベルトはヒーローであってはならない。ドン・リゴベルトの演じる醜態を、著者はそのような暗喩を込めて描いたのだと思う。そこに女性に媚びるフェミニズムを見るのはおそらく正しくない。フェミニズムとは男性視点の裏返しに過ぎない。真の官能とは、表層の観念的なところにあるのではなく、もっと根元的な精神の奥深くに横たわっている。著者が本書の中で主張したい思想を、私はそう受け取った。

もっとも、この感想は「継母礼賛」を読むと変わるかも知れない。「継母礼賛」という題からは、私が上に書いたような著者の意図が伺える。とはいえ、そこにはもう一段深い仕掛けが隠されているかもしれない。「継母礼賛」を読んでみないことには、私の本書から読み取った考えもまた、著者の仕掛けた周到な罠に陥り、穿った妄想でしかない可能性もある。

かつての私は、図書館にない本はすぐに取り寄せ依頼をしていた。今はなき西宮中央図書館で。私の考えが思い違いでないことを確かめるためにも、あの頃のように取り寄せをお願いし、なるべく早く読んでみようと思う。「継母礼賛」を。

‘2015/5/22-2015/5/30