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樹霊


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私にとって著者の作品を読むのは初めて。
著者は本格トリックの書き手として注目されているらしく、手に取ってみた。

あらゆるトリックが考案され、あらゆる叙述のテクニックが開発されたように思える今、本格トリックの作家として名乗る心意気は応援したい。

本格トリックの作家にとって、科学が幅を利かせる現代の世界は有利なのだろうか。それとも不利なのだろうか。私にはわからない。

新たなテクノロジーが開発されるたび、その盲点をついたトリックが編み出される。死角をついたトリックが読者の度肝を抜き、また一つ推理小説の世界に金字塔が打ち立てられる。
だが、テクノロジーや技術だけで組み立てられたミステリーには、どこか物足りなさを感じることも否めない。

それは、人の心の奥底に自然へのぬぐい難い思いがあるからだと思う。テクノロジーとは反対の自然。それへの依存をやめ、テクノロジーに全面的に生を委ねる。これは、私たちの後、何世代も過ぎなければ払拭されないはずだ。
自然に対して、心の奥底に潜む恐れの心。そして、自然を慈しむ心。
この自然には、バイナリーでは表せない人の感情の源があるように思う。

横溝正史といえば、わが国のミステリー界では著名な巨匠だ。没後かなりの年数がたっているにもかかわらず、作品が何度も映画にリメイクされ、好評を博している。
その世界観は、まさに、自然への恐れそのものだ。自然に包まれた世界。その中で謎が提出される時、謎の醸し出す効果は倍増し、小説としての効果を高める。

本書は、まさに自然を舞台としたミステリーだ。
しかも、神話が息づくアイヌの森。本書の謎は人々が自然を神として恐れ敬っていた地で展開される。アイヌの神々の神威を思わせるような驚きの事件が私たちの作り上げたテクノロジーをあざ笑うように頻発する。木が自在に動き、人がそこで死ぬ。

完全に地面に固定され、容易には動かせないはずの木。誰がなんの目的で木を動かしたのか。その意図は何か。人が殺されるのは、アイヌの神を怒らせた傲慢さゆえなのか。
読者の興味は本書の発端に惹かれるはずだ。
本書には、ミステリーに失われつつあった自然への恐れが描かれているのだから。

それにしても、著者が創造した〈観察者〉探偵とは、面白い存在だとおもう。
自然の生き物を眺めることに何よりの価値を見いだす。〈観察者〉探偵すなわち鳶山とはそうした人物だ。もちろん推理小説にアクセントを与えるため、探偵らしくエキセントリックな性格で味付けがされている。
観察者とは奇態な職だが、要は名乗ってしまえば何でも良い。

〈観察者〉探偵に対する狂言回しは、語り手である猫田夏海が担う。猫田は植物写真家として日本を巡り、各地の珍しい植生を写真に撮ることを仕事にしている。
その猫田が、アイヌの巨木を求めて訪れた日高山脈の麓(おそらく浦河や新冠のあたりのどこか)で、木が夜中にいつの間にか移動する変事を目撃したことが本書の発端だ。その後、人が死ぬ事態に遭遇したことで、事件の収拾がつかなくなった猫田は、鳶山に助けを求める。
鳶山について来たのが、博多弁を操る高階。生物画を得意とするイラストレーターだ。
孤高の鳶山にかわり、より実務的な捜査を行うのが高階という人物の役回りだ。
この高階の発する博多弁が、本書に良いテンポを生み出している。

今まで私は本書のように博多弁がポンポン出てくる作品はあまり読んだ経験がない。それが本書に特徴を醸し出している。
北海道の山奥で、博多弁が話される意外性。

神がかった事件に遭遇した〈観察者〉鳶山はどう事件を解決するのか。
そして、事件の中で猫田はどう振り回されるのか。

上に書いた通り、ミステリーには自然への恐れが必要だ。
一方で事件が起こるにあたっては原因がある。その原因とは欲や思いなど人の心だ。いわゆる犯行動機だ。
事件の動機についてはどれだけ自然や神の恐れを持ち出そうと説得力を出すのは難しい。
動機をいかに説得力のある形で提示できるか。ミステリー作家の腕の見せ所だ。むしろ素養の一つだとさえ思う。

おそらく今後、ミステリーに求められる動機はより多方面に求められ、複雑になっていくことだろう。
本書で描かれる犯行動機については興を削ぐため本稿では語らない。

だが、あえて言うならばアイヌ民族の民俗知識や、アイヌがあがめる神の恐ろしさ、そして山の神聖さなどの要因が本書にもう少し盛り込んだ方が、物語に深みがでたように思う。

私はかつて、この辺りは三回訪れたことがある。平取町のアイヌ民族の博物館。その近くにある国会議員として知られた萱野茂氏が運営していた私設の博物館なども訪れた。
そこで、自然を敬い、自然の中に生きようとするアイヌの人々の思想に影響を受けた。今でも、いや、今だからこそ、その思想はより知られるべきだと思っている。

大多数の日本人にとって、アイヌ民族の文化や日常はまだまだ知られていない。アイヌ民族が自然の中で培った自然と共生する思想の深みは、これからの地球にとって必要だと思う。
だからこそ本書のようにアイヌに題材をとるのであれば、アイヌの神への恐れの深さを描いたほうがサスペンスの効果も増したと思うのだが。

残念ながら本書については、舞台としてアイヌの森であったことの必然性があまり感じられなかった。それが残念だ。

だが、本格ミステリを紡ぎだそうとする著者の意識の高さは評価したい。トリックも面白かったし。

‘2020/08/30-2020/08/30


神去なあなあ日常


このところ、本書のような構想の小説をよく目にする。

社会問題を小説の形で読みやすくし、読者に届ける。政治や産業経済に関わる問題をうまく小説の形に噛み砕き、わかりやすい形として世に訴える。有川浩さんや黒野伸一さんの作品など、何回か当ブログでも取り上げた。
地方創生と若者の就職難の問題は、現在の日本の問題点であり、社会のあり方の変化を組み合わせた小説は取り上げる価値がある。それは一つのやり方だと思うし、教化になることだろう。

課題を抱えた組織が、課題解決の方法として広報を目的として小説家に執筆依頼があるともいう。
私は、そうした試みは全く否定しない。むしろ、それが小説家の題材となり、世の中の役にたつのであればどんどん出すべきだと思う。

本書が誕生した背景にどのようなやりとりがあったのかは知らない。
だが、本書もそのような地方と都会、そこに産業の課題を組み合わせた構成で成り立っている。

本書は、林業を題材にとっている。
横浜で暮らしていた主人公の平野勇気。かれは高校を中途半端に卒業したが、進学もせず就職もしないままで未来に何の展望も感じずにいた。
そんな勇気を見かねた担任の先生と母親が結託し、勇気をいきなり三重県の山中の場所に送り込む。本書はそのような出だしから始まる。

何も知らぬまま、林業の現場に送り込まれた勇気。最初は慣れない世界に戸惑い、逃げることを考えていた。だが、徐々に、勇気は林業の面白さに目覚める。そして村の文化や暮らしの素朴さに惹かれていく。

本書の巻末には、謝辞としていくつもの組織の名前が掲げられている。
三重県環境森林部
尾鷲市水産農林課
松坂飯南森林組合
森林組合おわせ
林野庁
など。

日本の林業は、過去の忘れ去られた産業として認識されている。かつて植林したスギのまき散らす花粉は、花粉症の元凶としてよく知られている。そして、先人たちが日本の林業の将来を期待して森に植えた木材は、今や中国産の材木に押されており、ほぼ放置されている状態だそうだ。

だが、近年になって林業に新たな光も差し始めている。バイオチップの燃料として木材を使う構想や、新たな建材としての加工した木材を活用する取り組みなど。
そうした取り組みが地方の期待を背負って行われつつあり、また林業に脚光が当たりつつあるのが今だ。

だが、林業に脚光が当たったとしても、林業の現場を詳しく知っている人はどれほどいるだろう。もちろん私もよく知らない。
私自身は、山が好きだ。山を歩いていると心が落ち着く。だが、山の中で働く人々の姿を見た事はほぼない。
そもそも、私たちが歩く山道とは安全なハイキングコースに過ぎない。
だが、林業のプロはそうした守られた道ではなく、獣道を歩む。そして下生えや雑木を伐採しながら道を切り開く。さらに、計画に従って一本一本の木を切り倒す。

切り倒す木は重い。倒し方を間違うと命にかかわる。
それだけでない危険もある。たとえば天候による命の危険。野生動物との遭遇。ヒルやアブといった昆虫による被害も無視できない。
加えて本書には、山火事の危険も描かれている。

今の私が楽しんでいる山とは、山の中でもほんの一部に過ぎず、さまざまな危険から守られた安全地帯なのだろう。

わが国の文化を考える時、日本の国土の大半を占める山や谷や林や森が生活や文化の源であることはあらためて認識しなければならないはず。日本列島の周りに広がる海と同じく、山も私たちの文化を育んでくれたはずだ。
それなのに、わが国の山地の大半は人の手が入ることもなく、荒れるがままになっている。
日本人が育んできた生活や文化の多くは、確かに現代の都市部にも移植されているが、わずかな土地しかない平野部に人が密集し、それがさまざまな問題の温床ともなっている。

だからこそ、林業や漁業に再び脚光を当てようとしているのだ。例えば本書のように。
生身の自然が相手だからこそ、林業には人生を賭けるべき価値はある。
林業や山の暮らしに焦点を当てた本書はとても参考になる。

本書を読むと、著者が林業の現場の取材をくまなく行ったことが感じられる。
そして、林業には都会の住人が決して知ることのないさまざまな技術や伝統に守られている事も知ることができる。

本書では神去村の日常が描かれる。村祭りや何十年に一度しか行われない神事。
都会に比べて娯楽もなく、不便な村ではあるが、そこにはそこで楽しみが多い。
何よりも、人間関係が限定されているため、陰湿ないじめやパワハラセクハラといったものとは無縁だ。
狭い社会の中でそのようなことをしでかしたとたん、村の人間関係から弾かれてしまうからだ。
彼らの人間関係は、長年の間に育まれてきたルールに沿っている。本人の目の前で言うべきことを言う。仲間として受け入れたら、すぐに一員として扱う。

一方で、都会から地方に行った人が田舎の閉鎖性に閉口し、都会に戻ってしまうと言う話はよく聞く。
事例やケースによって、一概には言えないと思うが、それらはお互いの問題であるはずだ。そうした事例を聞くだけで、だから田舎は閉鎖的なんだ、と決めつけるのは良くないと思う。

まずは本書を楽しみながら読むのが良い。
そして林業っていいなぁとほのかに憧れ、地方で生きる事について考えを巡らせるのはどうだろう。
週末に近場の山に行ってみるのも一興だ。
その時、運良くそこで林業に携わる人を見かけたら、本書で得た知識をにわかに動員し、声をかけてみるとよいかもしれない。
私も声をかけてみようと思う。

‘2020/07/01-2020/07/02