Articles tagged with: 東海地震

東京大地震は必ず起きる


確信に満ちた力強いタイトル。地震が取り上げられた文章において、確信は避けられる傾向にある。なぜなら、地震予知は難しいから。急が迫っている場合ならまだしも、何年単位のスパンで確率が何パーセントと言われても、受け取る側に危機感はない。それどころか、下手に煽って経済活動が止まれば経済の損失がかさむ。特に日本のように交通機関のダイヤグラムにうるさい国の場合はなおさらだ。だから地震学者は地震の予知には慎重になる。慎重どころか及び腰になる。そこに来て本書だ。著者は防災科学技術研究所理事長の肩書を持つ方。地震予知が専門でない分、本書のように一歩踏み出したタイトルをつけられるのだろう。そして、本書のようなタイトルの本を著したことに、首都圏に迫る直下型地震の現実味と焦りを感じる。

著者は率直に述べる。阪神・淡路大震災が予想外だったと。1995年1月17日、著者は地震防災に関するシンポジウムのため大阪のホテルに泊まっていて早朝の地震に遭遇したそうだ。関西では大地震は起きない。そんな定説に安住していたのは何も私たちのような一般市民だけではない。防災学者にとって、関西で地震が起こるなど、ましてやあれほどの被害が発生するとは想像できなかったらしい。

著者は防災の専門家として、阪神・淡路大震災のちょうど一年前にアメリカ西海岸で起きたノースリッジ地震を例に挙げ、そこで高速道路が倒壊したようなことは日本では起きないと大見得を切っていたという。しかし、阪神高速は脆くも倒壊した。わたしの実家のすぐ近くで。著者はその事を率直に記し、反省の弁を述べる。その態度は好意的に受け止めたい。著者の態度は、同時に地震の予知や防災がいかに難しいかを思い知らされる。

たとえ確率が数パーセントであっても、それはゼロではない。そして地震は起こってしまうのだから。事実、阪神・淡路大震災が起こったとき、日本政府も関わっていた地震予知計画は成果があったとして第七次計画中だったが、阪神・淡路大震災を予知できなかったことにより、第七次で打ち切られたという。防災計画も、著者らは火災の延焼による被害が都市にダメージを与えると考えていたらしい。ところが都市直下型地震ではなく、日本の誇る堅牢な構造物すらあえなく崩れる。学者の無知を著者は悔やむ。

著者はその教訓をもとに、首都圏に迫る直下型地震に警鐘を鳴らす。それが本書だ。著者は震災が都市に与える影響を四つに分けていた。火災、情報、ライフライン、経済の四つだ。そして著者は阪神・淡路大震災によって、構造物の問題にも目を向けた。だから今は五つの要素が年に影響を与える。

東海地震や南海地震、それらが複合する東南海地震。これらの地震の発生が差し迫っていることは、ずいぶん前から言われて来た。しかし、この10数年は、それに加えて首都圏の地下を走る断層が引き起こす首都圏直下型地震についてもとり沙汰されるようになった。もし朝夕のラッシュ時に強烈な揺れが都心を襲えば、被害は阪神・淡路大震災の比ではない。私も死ぬことは覚悟しているし、そのリスクを避け、都心での常駐作業をやめた今でも、商談で都心に赴いた際に多い。だから地震で命を落とす可能性も高いと妻子には伝えている。

著者は防災の観点で、首都圏で震度6強の地震が起きたらどうなるかを詳細に書く。兵庫県と比べると東京の抱える人口や経済規模はレベルが違う。路地の狭さや公園の人口あたりの面積も。交通量の多さも。どれもが被害を膨大に増やすことだろう。「東京における直下地震の被害想定に関する調査報告書」は二編で千百ページにも達するという。著者はこの報告書の言いたいことは最初の20ページで良いという。その上で残りの部分を著者が要約し、被害の想定を述べる。

面白いのは著者がこの報告書に批判的なことだ。はっきりと「過小評価」と言っているし、そもそも想定自体が専門家による仮定に過ぎないという。おそらくこの報告書は建築物の分布や、電柱、地盤、道路などさまざまな条件をもとに作られている。だが、当日の気候や風、発生時間、震源地は仮定で考えるしかない。著者が言いたいのは、報告書を鵜呑みにしない、ということだろう。

著者はそれを踏まえ、液状化や火災発生、延焼、停電、断水など報告書で詳しく載せられている23区のそれぞれについて、データの読み方を述べている。この章は、都心に住んでいたり、仕事をしている方には参考になるはずだ。

続いて著者はライフラインとは何か、について述べる。上下水道、ガス、電気、道路、鉄道、電話などだ。本書は東日本大震災の前に出版されているため、福島の原発事故やそれが東京の電力需給に大きな影響をもたらした事には触れていない。そのかわり、阪神・淡路大震災でライフラインが広範囲に断絶した状況について、かなり触れている。

私の経験を語ると、東日本大震災で経験した不便など、阪神・淡路大震災で味わった不便に比べるとわずかなものだ。3.11の当日の停電では、妻は錦糸町から帰れず、私も娘たち二人とロウソクで過ごした。その後の計画停電では、仕事にも支障をきたした。私は当時、毎日日本橋まで通っていたので、交通網の混乱も知っている。だが、阪神・淡路大震災の時はそもそも電気もガスも水道も来ない状態が続いたのだ。わが家は大きな被害を受けた地域の東の端。すぐ近くの武庫川を渡れば、その向こうはまだ生活が成り立っていたので、買い出しや風呂はそこにいけば大丈夫だった。だから当時神戸市内に住んでいた方の苦労など、私に比べたらもっと大変だったはず。
阪神・淡路大地震での体験はこちら
人と防災未来センターの訪問記はこちら
地震に対する私の気構えはこちら

3.11で味わった地震の不便をもとに、首都圏の人が地震の被害を考えているとすれば大きな間違いだと思う。

本書は地震が起こってしまった場合のさまざまなシミュレーションもしてくれている。立川に官邸機能が移ることも。そして、私たちが何をすれば良く、普段から何を準備しておくべきかを記してくれている。本章に書かれた内容は読んでおくべきだろう。また、東京都民であれば、都から配られた『東京防災』も読んでおくことをお勧めしたい。私も本稿を書いたことで、あらためて『東京防災』を読んでおかねば、と思った。

不幸にして揺れで亡くなった場合は、その後のことは考えようがない。だが幸運にも生き残った時、そこには想像以上の不便が待っているはずだから。

末尾には著者が防災専門家の目黒公郎氏と対談した内容が載っている。そこに書かれていることで印象に残ったことが一つある。それは亡くなった方が思うことは、ライフラインの充実ではない。それよりも家の耐震をきっちりやっておけばよかった、と思うはず、とのくだりだ。地震の被災者になった事で、次への備えを語れるのは生き延びた人だけなのだ。私もそう。幸運にも生き延びた一人だ。だからこそ、このような文章も書けるし、日々の仕事や遊びもできる。このことは肝に命じておきたい。

また、村尾修氏との対談では、WTCのテロの現場を視察しに行った村尾氏の経験と、そこからテロに備える防災について意見を交換する。東京は地震だけでなく、テロにも無防備だとはよく言われることだ。だが、テロはどちらかといえば点の被害。震災は面の被害が生じる。また、アメリカは戦争の延長で防災や事後対応が考えられている事が、日本との違い、という指摘は印象に残る。

最後は著者が国会の委員会に参考人として呼ばれた際の内容をおさめている。その内容はまさに本書のまとめというべき。

私も常時都心にいることはなくなったとはいえ、まだまだ都心に赴くことは多い。本書を読みつつ、引き続き備えを怠らぬようにしたい。そして、生き残った者として、何かを誰かに還元する事が務めだと思っている。

‘2017/09/29-2017/10/01


震災列島


著者の作品を手に取るのは、「死都日本」に続き2冊目だ。前作は九州南部に実在する加久藤カルデラがスーパーボルケーノと化し、カタストロフィを引き起こす内容だった。本書では東海地震を取り上げている。ともに共通するのは、今の日本が抱えている破滅的リスクが現実となる仮想未来を題材としていること。いわゆるパニック小説と云ってもよい。

しかし、単なるパニック小説として本書を片付けてしまうのはもったいない。前作においては、しっかりした科学的知見に裏付けられた破局噴火の描写が秀逸だった。前作がいかに科学的知見の裏付けある小説だったかは、実際に行われた火山学者によるシンポジウムが「死都日本」と題されたことでもわかる。絵空事ではない、現実に起こり得る最大限の天災を描いたのが「死都日本」であった。

本書は、前作に比べてよりパニック小説として工夫している箇所が見られる。それは復讐譚としての側面である。前作は火山からの逃避行の描写に多くを割いたため、物語の筋としては一方通行になってしまったキライがあった。本作の構成はその点を踏まえた著者なりの工夫なのだろう。

主人公明石真人はボーリング業者として生活を営んでいる。ボーリング業者とはいわゆる地質屋に等しい。建築物を立てる前にその地層を調べるのが業務内容だ。つまり、地震に対する基礎知識を持った主人公という設定となっている。名古屋市南部の海抜ゼロメートル地帯で親や家族と共に暮らしている。が、そこに工務店の顔をして乗り込んできたのが阿布里組。阿布里組とは企業の顔をしているが実は企業舎弟、いわゆるヤクザである。その阿布里組によって、地域の人々の生活は脅かされる。主人公の父善蔵は、町内会長として阿布里組に抗議する。が、その意趣返しとして主人公の娘友紀は誘拐され、さらには強姦されてしまう。救い出された友紀は自殺を図る。その復讐を遂げるため、前兆現象が確実に起こっている東海地震を正確に予測し、そのどさくさで阿布里組に復讐を企てる。果たしてそのような予測が可能であるかどうかはともかくとして、友紀への強姦シーンを含めた仕打ちの描写は、凄絶なものがある。主人公が阿布里組に抱く復讐動機としては充分すぎるものである。娘を持つ私にも絵空事と見過ごせないと思えてしまうほどの内容だった。

主人公と善蔵の見立て通り、本震は発生する。その描写は凄まじいものがある。名古屋中心部のビル街の惨状、津波による街の一掃。メタンハイドレート層の崩壊による爆発。そして、浜岡原発のメルトダウン一歩手前までの事故。こういった描写が科学的知見に裏打ちされていることは前作でも実証済み。起こり得る損害はかなり正確に書かれているのではないかと思う。この辺りは実際の科学者による解説が欲しいところだ。

ちなみに本書が発行されたのは、2004年10月。文庫版である本書でさえ2010年1月に発行されている。東日本大地震と福島第一原発の事故が起きる数年前に、すでに本書のような内容の小説を執筆していたことに畏敬の念を覚えずにはいられない。特に浜岡原発の事故描写の迫真振りといったら、鳥肌が立つほどのもの。発電所長は主人公が住む町の住人で単身赴任しているという設定だが、ご都合主義という批判は脇に追いやるほどの迫真の描写である。

そして、前作と同じく、天災を機に政府が発動する緊急経済政策が登場する。著者にとって、または日本の裏を知る人々にとって、日本の財政問題を解消する手段は天災にしかないかのように。

本書の最期は、復讐劇のクライマックスとなり、47人の阿布里組員達は全て復讐の犠牲となる。が、それはもはや本書の主旨にとって重要なものではなく枝葉の出来事だ。その証拠に復讐を遂げた主人公にあるのは達成感でもなんでもない。ただただ虚脱感があるのみ。虚脱感が巨大地震に襲われた街並みと主人公の心に取りつく。

ただ、本書は虚脱感では終わらない。本書で著者が訴えたかったことは、エピローグにこそある。主人公が発する台詞「生きて考えるよ。不完全な生き物だから」にそれが集約されている。

来ると言われて久しい東海地震。または東南海地震。さらには首都直下型地震。私が生きている間に、おそらくこのどれかに遭遇することだろう。すでに阪神大震災と東日本大震災に遭遇した私だが、災害の覚悟だけは常時持ち続けていたいものだ。ゆめゆめ油断だけはすることなかれ、と肝に銘じたい。本書を読んで得たもの、それは知識だけではない。地震に遭遇しても折れないだけの心の拠り所、だろうか。

2015/8/4-2015/8/6