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悟浄出立


本書によって著者は正統な作家の仲間入りを果たしたのではないか。

のっけからこう書いたはよいが、正統な作家とは曖昧な呼び方だ。そして誤解を招きかねない。何をもって正統な作家と呼べばよいのか。そもそも正統な作家など存在するのか。正当な作家とは、あえていうなら奇をてらわない小説を書く作家とでもいえばよいかもしれない。では本書はどうなのか、といえばまさに奇をてらわない小説なのだ。そう言って差し支えないほど本書の語り口や筋書きには正統な一本の芯が通っている。

今まで私は著者が世に問うてきた著作のほとんど読んできた。そして作品ごとに凝らされた奇想天外なプロットに親しんできた。その奇想は著者の作風である。そして私が著者の新作に期待する理由でもある。ところが本書の内容はいたって正統だ。それは私を落胆させるどころか驚かせ、そして喜ばせた。

文体には今までの著者の作風がにじんでいる。だが、その文体から紡ぎだされる物語は簡潔であり、起承転結の形を備えている。驚くほど真っ当な内容だ。そして正統な歴史小説や時代小説作家が書くような品格に満ちている。例えば井上靖のような。または中島敦のような。

著者の持ち味を損なわず、本書のような作品を生み出したことを、著者の新たなステージとして喜びたいと思う。

本書に収められた五編は、いずれも中国の古典小説や故事に題材を採っている。「悟浄出立」は西遊記。「趙雲西行」は三国志演義。「虞姫寂静」は史記の項羽伝。「法家孤憤」は史記に収められた荊軻の挿話。「父司馬遷」は司馬遷の挿話。

それぞれは単に有名小説を範としただけの内容ではない。著者による独自の解釈と、そこに由来する独自の翻案が施されている。それらは本書に優れた短編小説から読者が得られる人生の糧を与えている。

「悟浄出立」は沙悟浄の視点で描かれる。沙悟浄は知っての通り河童の妖怪だ。三蔵法師を師父と崇め、孫悟空と猪八戒と共に天竺へと旅している。活発で短気だが滅法強い孫悟空に、対極的な怠け癖を持つ猪八戒。個性的な二人の間で沙悟浄は傍観者の立場を堅持し、目立たぬ従者のように個性の薄い妖怪であることを意識している。ただ従者としてついて歩くだけの存在。そのことを自覚しているがそれを積極的に直そうともしない。

そんな沙悟浄は、怠け癖の極致にある猪八戒がかつて無敵の天蓬元帥として尊敬されていたことを知る。なにが彼をそこまで堕落させたのか。沙悟浄は問わず語りに猪八戒から聞き出してみる。それに対して猪八戒から返ってきた答えが沙悟浄に自覚をもたらす。猪八戒はかつて天蓬元帥だった頃、天神地仙とは完成された存在であることを当たり前と思い込んでいた。ところが過ちがもとで天から追放された人間界では、すでに完成されていることではなく、完成に至るまでの過程に尊さがあることを知る。猪八戒の怠け癖やぐうたらな態度も全ては過程を存分に味わうための姿。

そんな猪八戒の人生観に感化された沙悟浄は、自ら進んで完成までの経過を歩みたいと思う。そして従者であることをやめ、一団を先導する一歩を踏み出す。それはまさに「出立」である。

「趙雲西航」は、趙雲が主人公だ。趙雲といえば三国志の蜀の五虎将軍の一人としてあまりにも有名だ。蜀を建国したのは劉備。だが、劉備率いる軍勢は魏の曹操や呉の孫権と比べて基盤が未熟で国力も定まっていない流浪の時期が長かった。劉備玄徳の人徳の下、関羽や張飛と共に各地を転戦する中、諸葛亮孔明という稀有の人物を軍師に迎え、運が開ける。諸葛亮の献策により、劉備の軍勢は蜀の地に活路を見いだす。本編は蜀へと向かって長江を遡上する舟の上が舞台だ。

慣れぬ舟の上で船酔いに苦しむ趙雲は、自らの心が晴れぬことを気にしていた。それは間も無く50に手が届く自らの年齢によるものか、それとも心が弱くなったからか。冷静沈着を旨とする趙雲子龍の心からは迷いが去らない。

先行していた諸葛亮孔明より招きを受け、陸に上がった趙雲は、陸に上がったにもかかわらず、気が一向に晴れない心をいぶかしく思う。なぜなのか。理由は模糊としてつかみ取れない。

そんな趙雲の心の曇りが晴れるきっかけは、諸葛亮孔明が発した言葉によって得られた。諸葛亮が言外ににおわせたそれは、郷愁。趙雲は中原でも北東にある沛県の出身だ。そこから各地を転戦し、今は中原でも真逆の南西にある蜀へ向かいつつある。名声はそれなりに得てきたが、逐電してきた故郷にはいまだ錦が飾れずにいる。それが今でも残念に思っていた。そしてこのまま蜀の地に向かうことは、故郷の母と永遠に別れることを意味する。天下に轟かせた自らの名声も、親不孝をなした自らの両親に届かなければ何の意味があろうか。そんな真面目な英雄の迷いと孝心からくる悔いが描かれる。これまた味わい深い一篇だ。私のような故郷から出てきた者にとってはなおさら。

「虞姫寂静」は、虞美人草の由来ともなった虞姫と項羽の関係を描いている。虞姫は項羽の寵愛を一身に受けていた。だが項羽は劉邦に敗れて形勢不利となり、ついには垓下において四面楚歌の故事で知られるとおり劉邦軍に包囲されてしまう。

自らの死期を悟った項羽は、虞姫を逃がすために暇を申しつける。項羽と共に最期を遂げたいと泣いて願う虞姫に対し、項羽は虞の名を召し上げる。そうすることで、虞姫を項羽の所有物でなくし、自由にしようとする。意味が解らず呆然とする彼女の前に表れたのは范賈。項羽の軍師として有名な范増の甥に当たる人物だ。そもそも虞姫を項羽に娶わせたのも范増だ。その甥の范賈が虞姫に対し、なぜ項羽がここまで虞姫を寵愛したのか理由を明かす。

その理由とは、虞姫が項羽の殺された正妃に瓜二つだったから。誰よりも項羽に愛されていた自らの驕りに恥じ入り、その愚かさに絶望する虞姫。やがて死地に赴こうとする項羽の前に再び現れた虞姫は渾身の舞を披露し、再び項羽から信頼と虞の名を取り戻すと、その場で自死し果てる。虞美人草の逸話の陰にこのような女の誇りが隠れていたなど、私は著者が詳らかにするまでは想像すらできなかった。これまた愛の業を堪能できる一篇だ。

「法家孤憤」は、荊軻の話だ。荊軻とは秦の始皇帝の暗殺に後一歩のところまで迫った男。燕の高官に短期間で上り詰め、正規の使者として始皇帝の下に近づく機会を得る。だが、後ほんのわずかなところで暗殺に失敗する。

だが、本編が主題とするのは暗殺失敗の様子ではない。しかも主人公は荊軻ですらない。荊軻と同じ読みを持つ京科が主人公だ。同じ読みであるため官吏の試験で一緒になった二人。しかも試験官の間違いから京科だけが官吏に受かってしまう。望みを絶たれた荊軻は京科に法家の竹簡を託すといずこともなく姿を消してしまう。

数年後、暗殺者として姿を現した荊軻は、始皇帝暗殺の挙に出る。そして失敗する。一方、荊軻より劣っていたはずの京科は官吏として実務経験を積み、今や秦が歩もうとする法治国家の担い手の一員だ。京科は、かつて己に法家の竹簡を託した荊軻は法家の徒ではなく、己こそが正統な法家の徒であることを宣言する。

歴史とはその時代を生きた人の織りなすドラマだ。そこに主義を実現するための手段の優劣はなく、個人と組織の相克もない。そこにあるのは、歴史が後世の読者に諭す人として生きる道の複雑さと滋味だけだ。

「父司馬遷」。これは末尾を飾る一編である。そして印象的な一編だ。あえて漢の武帝に逆らい、匈奴に囚われの身となった友人の李陵をかばったことで宮刑に処された司馬遷。宮刑とは、宦官と同じく男を男でなくする刑だ。腐刑ともいわれ、当時の男子にとっては死にも勝る屈辱だった。本編の主人公は司馬遷の娘だ。兄たちや母が宮刑を受けた父から遠ざかる中、彼女は父に近づく。そして生きる意味を失いかけていた父に対して「士は、己を知る者のため、死す」と啖呵を切る。娘から投げられた厳しい言葉は、司馬遷を絶望から救いだす。今なお中国の史書として不朽の名声を得ている史記が知られるようになったきっかけは、司馬遷の娘の子供が当時の帝に祖父の遺した書を伝えてことによるという。

娘が父の心を救う。それは封建的な考えが支配的だった当時では考えにくい。だが、それをあえて成し、父の心を奮い立たせた娘の行いこそ父を思いやる強さがある。そんなことを味わいながら読みたい一編だ。

五編のどれもが正統で味わい深い。まさに本書は著者にとって転機となる一冊だと思う。

‘2017/03/16-2017/03/16


望郷


NHK朝の連続ドラマ「マッサン」は、私のようなウイスキー愛好家に大きな影響を与えた。ウイスキーがブームとなり、酒屋の店頭からウイスキーが売り切れていった。原酒は不足し、製品のラインアップは変わった。それを差し置いても、ウイスキーが人々の身近な酒となったことはとても素晴らしいことだ。何よりも素晴らしいのは、我が国で造られたウイスキーの品質の優秀さを日本人自身に知らしめたことだ。そこには「マッサン」のモデルとなった竹鶴政孝氏の努力と情熱もさることながら、妻として支え続けたリタさんの献身が欠かせなかったと思う。竹鶴リタこそは、日本のウイスキーを語る際に欠かせない人物であり、「マッサン」によってその生涯に脚光が当たったことはとてもうれしい。20年ほど前に初めて訪れた余市蒸留所。そこには夫妻の自宅を再現したリタハウスが建っていた。そこで飲んだアールグレイの味は忘れてしまったが、おいしかったことと、リタハウスの落ち着いた雰囲気はとても印象に残っている。

私は夫妻に関する関連書籍は何冊か読んできた。そのうちの2冊「竹鶴政孝とウイスキー」と「マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生」は当ブログでレビューにも書いた。しかし、それらの本は二人のロマンスよりもウイスキー造りやニッカウヰスキーの歩みを記すことに焦点が当てられていたように思う。

しかも、上に書いたその二冊はノンフィクションに属する内容だ。「 竹鶴政孝とウイスキー 」はウイスキー評論家として著名な土屋守氏によるもので、「 マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生」は、日英関係を研究する英国女性の著者の視点から書かれている。前者はウイスキー作りを学ぶ政孝の努力や当時のウイスキー作りの比較や分析に力が置かれているし、後者においては、異邦の日本で住まう英国女性の苦労を描くことに重心が置かれている。 後者には、リタと故郷のカウン家で交わされた往復書簡もたくさん紹介されている。英国に残されたリタの手紙には、日本にいては言いづらいリタの望郷の思いや、異国にきて竹鶴政孝の妻として最善を尽くそうとするリタの意地もにじみ出ていたようだ。リタは政孝の妻として精一杯生きたが、そこには異郷に住む女性として、後悔や弱音を吐きたくない矜持があったはずだ、と著者は英国女性の立場からリタの肩を持っていた。

私は「マッサン」はいまだに見ていない。なので、二人のスコットランドでのロマンチックな出会いやその後の苦労は知識としてしか知らない。ウイスキーを日本で造ることに情熱を燃やす竹鶴青年とスコットランドのおとなしい少女であったリタが出会い、結婚するまでにどのようなことがあったのか。特にリタは、おとなしい少女だったという描写が多い。だが、日本の青年について異国へ向かう度胸を見せるリタの心をおとなしい、だけで片付けるのは物足りなさを感じていた。政孝と出会う前のリタに何があったのか。リタの心のうちに焦点を当て、リタを日本に赴かせた背景に何があったのか。 日本人にとって国際結婚がとても珍しい当時の事情にも興味があるが、リタの心の動きにはとても興味があった。リタの心を描く作業は小説家の独擅場だ。 そして私は、リタの生涯を取り上げ、蘇らせた本書の存在をつい最近まで知らなかった。

本書は森瑤子氏による作品だが、女性的な視点でどこまでリタの内面に踏み込んでいるかを期待しながら読み進めた。じつは著者の作品を読むのは本書が初めて。だから、小説家としての技巧はよく知らなかった。しかし、本書で書かれるリタは丁寧に描写されており、同じ女性からの感性で書かれた感情の揺れには説得力があった。リタの生涯がまざまざと読者の前に蘇るようだ。

本書は、リタのスコットランド、カーカンテロフでの少女時代を丹念に書いている。今までの夫妻の出会いを描いた文章はどちらかといえば政孝の視点で描かれることが多い。政孝に出会う前のリタの少女時代は省かれているように思う。でも本書はその部分を重点的に書いている。なぜなら本書の主人公はリタだから。リタの少女時代について、われわれはあまり知ることがない。たとえばリタが政孝と出会う前、婚約者を第一次世界大戦で亡くしていたことや、リタに妹や弟がいたことなど。それは、政孝のウイスキー修行とニッカウヰスキーの歩みにとってはあまり重要なことではないのだろう。でも、リタがなぜ政孝からのプロポーズを受け入れ、遠い日本へ渡る決断を下したか。それを推し量る上で婚約者ジョンの戦死とその後に続いた父サミュエル・カウンの死は忘れるわけにはいかないのだ。また、日本に渡った後のリタは、一度だけ政孝のスコットランド視察に付き添って母国に帰ったものの、それ以外はとうとう64歳で亡くなるまで日本を離れることはなかった。その理由は、リタが夫に従い夫の夢を支えようと決意したことだけでない。スコットランドを離れる際にカウン家の妹エラや弟ラムゼイとこじれてしまったことも原因としてあったのだろう。

リタを主人公とした本書は、リタがイギリスを離れるまでの日々に全体の半分以上を費やしている。ページ数にして252ページ。リタが日本で異邦人として生き、日本婦人以上に日本を大切にした背景を描くためにはそれだけの紙数が必要だったのだ。婚約者ジョン、父サミュエル・カウン、母アイダ・カウン、妹エラ、ルーシー、弟ラムゼイ。彼らとの満ち足りた日々。出会った当初は反発しあう仲だったジョンとの恋愛、そして婚約。引っ込み思案な少女に訪れた幸せは、シリアの戦場から届いたジョンの戦死の知らせによって打ち砕かれる。ジョンの命はイギリスに捧げられ、同時にリタの心もイギリスから、日常から、そして神からも離れてしまう。

そんなところにやってきたのが竹鶴政孝だった。快活な青年タケツルは、カウン家にやって来たリビングルームで、ラムゼイに語る。「男が命をかける場所は戦場じゃないよ」「男が命をかけるのは、自分の夢に対してなのだ、と思うな。夢を実現させるために、命がけで闘うのさ」(142ページ)。鮮烈な出会い。タケツルの存在はカウン家に新風を吹き込む。しかし、父サミュエルも老い、タケツルとの出会いを警告するかのように娘たちに告げる。「良かった。それで安心したよ。人間というものはな、自分の国の言葉が通じるところで生き続けるのが一番幸せなことなのだ。いいかね、人間の感情の中で何よりもつらいのは、望郷の念なのだ」(149ページ)。

自分の余命を知った上で警句のように言葉を掛ける父サミュエル。しかし、若い二人が惹かれることは最初から定められていたかのように、二人の距離は迫る。そしてサミュエルは世を去ってしまう。政孝の夢を支えようと決意したリタは、婚姻届を出す。幸せをふっと掴んでは行ってしまうリタに、ジョンの時もマサタカのときもそうだったと憎しみをぶつける妹エラ。妹ルーシー以外の誰にも理解されぬまま、スコットランドをたつリタの姿は決意に満ちている。ルーシー以外の家族の誰にも見送られなかったにもかかわらず。

日本に着いてからも、夫婦の前途は多難だ。摂津酒造は不景気でウイスキー作りどころではなくなり、自らの志と違った状態に退社を決意する政孝。そして桃山中学での教師時代と雌伏の時を過ごす。後日、鳥井 信治郎から誘われ壽屋に入社し、山崎蒸留所の建設に取り組む政孝。政孝のウイスキー造りの仕事に従ってリタの生活も変化する。だが、リタも必死に日本に溶け込もうとする。そんな日々を著者は丹念に追う。そして、不慮の事故からの流産や孤児院から養子沙羅を貰い受ける経緯など、本書はあくまでもリタの視点から物語をつむいでゆく。

そんなリタの懸命の努力にもかかわらず、日本には戦時の空気が満ち、敵性外人であるリタへの風当たりは厳しさをまして行く。さらに、完璧な日本人であろうとするリタの姿勢は娘沙羅にも疎まれ、出奔される。父サミュエル・カウンから言われた警句である望郷の念がリタをさいなむ。だが、リタの真面目さは日本婦人になり切らないと、と自分を甘えさせない。そしてそんな日々はリタの身体を知らぬ間にむしばんで行くことになる。

だが、竹鶴夫妻が新たに広島の竹鶴本家から迎えた威が、リタの心のこわばりをほぐす。リタが威の胸で泣き崩れ、神が自分から奪って行った人々を威という形で返してくれたことに感謝するシーンは感動的だ。本書はリタの死の前年、仲たがいしていた妹エラからの手紙で幕を閉じる。望郷の念を忘れ去ろうとするあまり、リタが自分で凍り付かせていた故郷とのつながりが現れた瞬間だ。エラとの確執と和解こそが、本書のテーマなのだと思う。本書はウイスキー作りの物語ではない。 望郷の思いを押し殺 した一人の女性の物語なのだから。ならばこそ、故郷からの和解の手紙はリタだけでなくわれわれをも感動させるのだ。

残念なことにリタは、夫政孝が一生を掛けて作り上げたウイスキーが本場スコットランドから高い評価を受けることを知らずに死んだ。だが、望郷の念に打ちのめされたまま死なず、最後にエラとの和解がなったことは彼女のためにも祝福したいと思う。それにしても「マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生」ではこの和解の手紙には触れていなかった。この和解は事実なのだろうか、それとも著者による脚色なのだろうか。とても気になる。

私が最後に余市を訪れてからもはや12年以上の日々が過ぎてしまった。そして私はまだお二人の眠る墓地を訪れたことがない。「マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生」のレビューにも書いたが、竹鶴家による墓参り自粛のお願いがあったという。そのお願いは解けたのだろうか。そろそろマッサンブームも落ち着いたころだと思うので、余市を訪れた際は墓参したいと思う。そして、リタという一人の女性が過ごした数奇な一生に思いをはせたいと思う。

‘2016/09/05-2016/09/06